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上井覺兼 Uwai Kakuken(1545年-1589年) 上井薰兼的長子、母為肝付兼固之女、妻為敷根賴賀之女;初名為兼?,別名神左衛門、法號休安?、戒名一超宗咄庵主。 上井家自天文十九年(1550年)降服於島津貴久後,覺兼便仕於貴久長子.島津義久為其演奏音樂,奉公閒暇覺兼最愛讀太平記、平家物語、伊勢物語、法華經等書,同時對毘沙門天、藥師如來、觀世音菩薩、地藏菩薩、天神、荒神等諸神宗教也有很深的信仰。 此後在義久繼為島津家主後有鑑兩人多年的君臣之誼且上井覺兼確是有真才實學之輩,文武兩道兼善,且武藝出眾又擅長文學寫作,對於連歌、俳諧、茶道、花道、蹴鞠、狂言、幸若舞、亂舞、小唄、平家琵琶等也有極深造詣,於是在天正四年(1576年),正式將上井覺兼拔擢擔任老中一職,同時改名為覺兼,為島津家國政掌舵。 木崎原之戰後伊東家兵敗如山倒,擊敗伊東家的島津義久順勢兼併薩摩、大隅、日向三國,伊東義祐向姻親大友宗麟求助,大友宗麟在天正六年(1578年)出兵日向,以田原親賢為主將的大友軍主力包圍高城,大友軍約四萬兵馬,而高城的守備隊加上島津家久的援軍總共才三千多人,幸賴天險方保不失。得到消息的義久訊速動員三國兵力馳援,上井覺兼與島津義弘、伊集院忠棟的部隊會師於財部城,在高城下的小丸川兩軍發生激戰大友軍敗北,之後島津家在九州的勢力如旭日東昇般發展,而大友家則日暮西山漸走下坡。 之前初敗伊東家時島津義久便派四弟家久擔當佐土原城主兼日向守護代以防範大友家,待到天正八年(1580年),已經完全掌握住日向的義久派遣覺兼成為日向宮崎城主與島津家久一文一武共同統治日向,為了義久制霸九州的大業東西戰,島津軍於沖田畷殺敗龍造寺隆信後,上井覺兼四度出兵肥後替島津家併吞許多龍造寺的領地,並運用外交手段將龍造寺家配下的國人眾拉攏入島津家。 天正十四年(1586年),在龍造寺家臣服後島津義久開始進行築前的攻略,在攻打由大友雙璧之一、著名驍將高橋紹運鎮守的築前巖屋城時,上井覺兼被洋槍擊中負傷,不得已地從戰場上退下,直到十月傷勢將養好後,上井覺兼便立時再次披掛上陣與家久共同率兵攻進大友老巢豐後,大友家僅餘的豐後、築前兩國之外的九州全境皆歸入島津家的支配下。 天正十五年(1587年),秀吉傾全家之力領二十五萬五千大軍西進襲入九州,為此上井覺兼收兵撤回宮崎城以進行防守戰,在家久於高城之戰中敗於豐臣秀長之手後降服,上井覺兼自知不敵便有也尾隨稱降,之後回到鹿兒島在薩摩伊集院隱居。 天正十七年(1589年)六月十二日過世,年四十五歲。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316533
佐伯惟定 Saeki Koresada(1569年-1618年) 佐伯惟直的次子,幼名太郎,別名權正。 佐伯氏乃是豐後大族、宇佐八幡宮大宮司大神氏的分支,奉大神氏始祖惟基的五代孫惟義為家族源頭。當時惟義在源平合戰中支持平氏,戰後被流放到常陸,之後獲得赦免,改封佐伯莊,因此後代遂以佐伯為苗字。 在天正七年(1579年),惟定的祖父惟教與父親惟直、叔父鎮忠在耳川之戰中一同戰死後,惟定繼任為第十七代家督,翌年七月,島津軍開始侵入佐伯領,為防禦北上的島津軍,佐伯惟定倚梅牟禮城不斷與之對抗。 天正十四年(1586年)十月,在島津家迫降失去英主龍造寺隆信的龍造寺家後,一方面由肥後北上蠶食大友領地,另一方面則讓四弟島津家久統率一萬大軍從日向往豐後攻打,同時島津義久大量驅使謀略以所領安堵的條件大規模地對大友家旗下諸將進行內應工作。眼見大友家大勢已去的入田義實首先與島津義久內通,之後南山城主志賀鑑隆、久住町的麻生紹和、朝日岳城守將柴田紹安相繼傳出成為島津軍內應的消息。除此之外,松牟禮城主田北鎮利、 鳥屋城一萬田鎮實、山野城的朽網鑑康、鎮則不但在面對島津軍時直接降伏更進一步將島津家的勢力引入築後一帶。 為防備來襲的島津軍,佐伯惟定請出留在大友家的伊東舊臣山田匡得協助,並擴充整備宇山城、 八幡山砦等各處支城,規劃支援路線,務求完善整個防禦網以求阻斷敵軍。 在佐伯惟定四周的友軍一個接一個倒向島津方後,島津家久針對惟定使出軟硬兼施的手段,一方面以柴田紹安的居館松尾城為本陣,出兵威壓,同時也派遣使僧玄西堂前往梅牟禮城勸降。為了堅定抗戰的決心,佐伯惟定在見到使者時不但拒絕勸降,更接受軍師山田匡得之意,將玄西堂以下等二十名使者團當場斬殺,本來兩軍交鋒,不斬來使,佐伯惟定這番無禮的舉動正是要表明自己誓死對抗的決心和意志。 同年十一月三日,島津家久對梅牟禮城發動攻勢,命土持親信及新名親秀率兩千兵馬火燒岸河內,之後進擊堅田,惟定在聽聞斥侯傳來的軍情後,將城中兵力一分為三,經鹽月、江頭、西野分別趕赴堅田迎戰,在猛將山田匡得的奮戰下,佐伯惟定終將島津軍擊退,逐出岸河內。 同年十二月,佐伯惟定出兵攻打柴田紹安、左京進父子所在的星河城,在城落之後佐伯惟定補殺了柴田紹安之子左京進、次郎及其一族,令柴田紹安大為驚恐而再度投降大友家,被佐伯惟定利用為先鋒攻打天面山城。在擊退了來襲的島津軍之後,佐伯惟定與甫突破新納忠元包圍的岡城城主志賀親次一同展開熾烈的反擊,呼應豐臣秀長上方的九州之戰,順勢恢復大友家的領地,將當初被島津家寢返的南郡諸城逐步奪回大友家,使大友家得到更多的喘息空間,支持到豐臣秀吉本陣出動。 天正十五年(1587年)正月,豐臣秀吉正式開始進行九州討伐,佐伯惟定於同年三月攻克土持親信所在的朝日岳城,並在島津義弘、 家久兩軍合流回歸日向時發動急襲,將島津軍擊潰,在戰場上大為活躍的佐伯惟定因而得到秀吉所賜的感狀。 文祿元年(1592年),豐臣秀吉發起朝鮮侵略,佐伯惟定做為大友軍的一員從軍參陣,不料主公大友義統翌年在朝鮮戰場上得知敵方大軍來襲的消息後,居然立刻自前線逃跑,引起秀吉大怒,因此遭到改易處份,佐伯惟定因是大友家臣而亦遭到牽連不得不離開佐伯氏已經居住了四百年的故鄉下野,後來羽柴秀保賞識惟定昔日武勳將他推薦給筆頭家老藤堂高虎擔任其麾下的侍大將 。 文祿四年(1595年),藤堂高虎入國伊予宇和島得到七萬石的封地時佐伯惟定也從高虎處拜領了兩千石的俸祿,與藤堂良勝交替擔任國府城城代。慶長之役時,佐伯惟定原先負責板島城留守役一職,後再次投入朝鮮戰場,當時佐伯惟定已成為藤堂軍的其中之一。歸國後,奉祿增至三千五百五百六十石。 在秀吉死後,於慶長五年(1600年)石田三成與德川家康展開決定天下誰屬的關原會戰,主君藤堂高虎因為素與家康修好而投入東軍,是役之中佐伯惟定並未參戰而是被任命伊予板島城留守居役的職務,戰後藤堂高虎被轉封至伊勢津城,此後十年間身為藤堂藩士之一的佐伯惟定主要負責領內的各城的普請職務。於慶長十年(1605年),藤堂高虎增加了佐伯惟定四百四十石的封領,祿高達四千石。 關原之戰後,德川家康開創江戶幕府,身任征夷大將軍,隨後又把將軍之位讓於世子秀忠,稱大御所。但是居於大阪城中的豐臣秀賴,終究是德川政權的不安定因素,於是家康費盡苦心方硬借方廣寺鐘銘的事件挑起大阪之戰。在冬之陣中佐伯惟定在高虎麾下率領士隊十騎、卒隊四十人出陣,與藤堂高刑合作擔任右先鋒。 而在翌元和元年(1615年)的夏之陣中,佐伯惟定先是擔任遊軍隊將,在藤堂軍先鋒隊被擊潰後,與藤堂高吉一同擔任左先鋒在八尾合戰中與長宗我部盛親交戰,率先以鐵砲攻擊射殺了盛親的先鋒大將吉田內匠,但是在盛親熟稔的指揮下,長宗我部軍於長瀨川堤防上布陣反擊,反倒痛擊藤堂軍,令高虎失去藤堂高刑、藤堂氏勝、桑名一孝等武將,佐伯惟定和藤堂高吉在攻破盛親的先鋒軍火速回援方緩住盛親的猛攻,直到井伊直孝來援才逼退長宗我部軍,但藤堂高虎軍同樣是損失慘重,折損了部將六人、隊長七十一人、三百餘名兵士戰死,元氣大傷。 由於前日和長宗我部盛親的交戰中藤堂軍受到重創,因此辭退了翌日在天王寺的最終決戰裡先鋒之職,但佐伯惟定和藤堂高吉還是擔任藤堂軍的先鋒,戰後因功增加五百石,總共領有四千五百石的知行領位列藤堂藩的重臣之一。 元和四年(1618年),佐伯惟定逝世,年五十歲,法名宗忠功月大禪定門。家祿由其子惟重繼承,此後佐伯家世代擔任藤堂家臣直到明治時代。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/74070298/1
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
五十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉 / 木下秀吉、齋藤道三、德川家康 / 松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄 / 武田晴信、山縣昌景 / 飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、上杉謙信 / 長尾景虎、上杉景勝 / 長尾顯景....
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
原田信種 Harada Nobutane(生年不詳-没年不詳) 大蔵氏嫡流である原田氏の当主。筑前高祖山城(高祖城)主。妻は龍造寺氏の娘。原田嘉種、原田種房の父。五郎。下野守。最初の主君・龍造寺隆信より偏諱の授与を受けて信種と名乗る。 実父は肥前松浦の草野鎮永(原田了栄の次男。同時期に転封を拒否し秀吉に処刑された草野鎮永は筑後の同族だが別人)。先代の原田親種は大友宗麟に責められ自害したのだが、その嫡子秀種も戦死していたため、了栄は孫の信種にあとを継がせたのである。 このため信種は大友を憎み龍造寺に接近するのだが、祖父了栄より実父鎮永のほうを恃みがちだったため家臣らは不満の声を上げるようになる。 天正12年(1584年)、この状況を見た岸岳城主波多親は原田領内に侵攻するも、急襲によって撃退されている。 天正14年(1586年)岩屋城の戦いに参加。翌15年豊臣秀吉の九州征伐で小早川隆景の軍勢に包囲され降伏。だが所領の過少申告が発覚したため、すぐそのほとんどを没収されてしまう。以後は肥後に国替えとなり、佐々成政のちに加藤清正の与力となった。 慶長3年(1598年)、慶長の役に清正の配下として出兵。蔚山城の戦いで戦病死したとする説、降倭(朝鮮への降将)となって鉄砲の技術を伝え日本軍と戦った「沙也可」(後の金忠善)となったとする説もあるが、朝鮮役のあとに書かれた官途状が残っていることから実際には帰国しているようである。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%A8%AE
原田隆種 Harada Takatane(生年不詳-没年不詳) 原田興種の子、正室は大内義隆の娘であり,子に種門、種吉、繁種、親種などがいる。;主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。 享禄4年(1531年)に高祖表で隆種の家臣烏田通勝、王丸進らが、被官水崎盛政と交戦した記録があり、享禄年間に父の興種から家督を譲られたと推測される。 北九州における大内氏方の代表的な国人領主の一人でしばしば大友氏方の国衆と争った。大寧寺の変で大内義隆の自刃後も、主君の恩顧に筋を通して逆臣陶隆房には従わなかったところ、筒城主で家老西重国が不満を持って肥前国の龍造寺隆信と内通したのでこれを討った。しかし天文21年(1552年)に大友氏が陶氏と連合して侵攻すると、配下の王丸隆(兵庫允)、西重通等々がこぞって寝返って陶氏に呼応したため、高祖山城は落城した。 隆種は降伏して蟄居を強いられ、陶氏から弘中隆兼が代官として姪浜城に入り、大友氏からは臼杵鑑続が派遣されて柑子岳城に入って筑前国の政所を設置したが、弘治元年(1555年)に厳島の戦いで隆房が自害すると、その混乱に乗じて高祖山城を奪還した。 弘治3年(1558年)3月、大内義長が毛利元就に攻められて翌月自害すると、筑前の大内領は大友氏に組み入れられたので、隆種も一時大友氏に属した。同年、家臣本木道哲が嫡男種門と三男繁種を讒言したので、8月7日、二人を謀反の疑いによって岐志で謀殺した。後にこれは誤情報であったと判明するが、隆種はもともと四男親種を寵愛しており、これを嫡子とした。 永禄9年(1566年)、岩屋城主高橋鑑種が毛利氏に内通し、大友義鎮に反旗を翻して宝満山城(宝満城)に籠もると、義鎮は四将を派してこれを鎮圧させようとした。隆種入道了栄は鑑種より援兵を要請され、病を理由に断ったものの、他方で了栄も密かに毛利氏に内通して大友氏に敵対した。嫡子親種を避難と人質を兼ねて安芸国の吉田城に送った。 永禄10年(1567年)9月11日、了栄は大友方の西鎮兼の居城宝珠岳城と支城を落とし、西氏を滅ぼした。さらに柑子岳城に攻めよせたが、龍造寺氏が侵攻したために攻撃を中止した。 永禄11年(1568年)4月、鑑種に同調して立花鑑載が大友氏に反乱を起こすと、毛利氏は援軍を送ったが、これに親種が加わっていた。大友勢が立花城を攻囲中、柑子岳城は城代臼杵鎮広が残っていたが、了栄は虚を突いて、7月19日、第1次池田河原の戦いで鎮広を撃破し、城を奪い取った。本来の城主臼杵鎮続は慌てて帰還し、これを回復した。鑑種は親種と清水左近将監と共に陥落した立花城を奪還しようとしたが撃退され、清水は長門に帰還、親種は高祖山城に敗走する。了栄は原田親秀を救援に派遣して、8月2日、第1次生松原合戦で追っ手を撃退したが、嫡孫秀種など家臣の多くを失った。 一連の戦いは毛利方の敗戦に終わって毛利勢は撤退したが、これを見て今度は龍造寺隆信が筑前に侵攻。了栄(および草野氏)は龍造寺氏に服して、孫(次男の種吉の子、後の原田信種)を龍造寺氏に人質に出すことになった。 永禄12年(1569年)、大友氏と龍造寺氏が和睦したため、了栄は大友氏に復した。同年、毛利氏が再び筑前に侵攻したが、このためにこれには呼応しなかった。 元亀2年(1571年)、(了栄の次男)草野鎮永入道宗陽と吉井隆光の領地争いで吉井浜合戦(吉井合戦)があった。両氏は共に了栄の配下で調停を試みたが失敗し、合戦の後、宗麟の下知で両氏は和睦した。 元亀3年(1572年)正月、鎮広の後を継いだ柑子岳城主臼杵鎮氏は、今津毘沙門(登志神社)に参詣する了栄を暗殺しようとするが、失敗。原田勢に逆襲され、これが1月28日の第2次池田河原の戦いとなって、敗れた臼杵鎮氏は泊城逃れようとしてたどり着けず、平等寺 (筑紫野市)で郎党と共に自害して果てた。 筑前臼杵一党が滅ぼされたと聞いた宗麟は激怒し、天正2年(1574年)4月1日、鎮広を再び筑前に派遣して了栄の首を要求させた。原田氏の親族で会議をしているところに親種が鷹狩りより帰り、これを聞いて憤激して自らの腹を十字に切り裂いた上で首を落として本木大原に投じさせた。これには十人余の士が追腹をして殉じた。臼杵側に検死を要求し、親種の遺体に間違いなければ帰還するように求めたところ、臼杵の執筆坂本伊織という者が、親種の首を持ち帰ると言ったために、了栄は激高して、柑子岳城を攻めて必ず宗麟に復讐すると誓ったが、この頃、大友氏の勢いは強くすぐに行動に移すことはできなかった。 嫡子を失った了栄は先祖が開基した天台宗極楽寺を再興し、曹洞宗に改めて萬歳山龍国寺として親種の菩提を祀った。また草野鎮永の次男は人質として送っていたが、龍造寺氏に請うて元服させ、了栄の養嗣子信種とした。 天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで大敗すると、筑前の情勢も再び不穏となり、筑紫広門、秋月種実、宗像氏貞が相次いで龍造寺氏に組して大友に反旗を翻し、了栄もこれに同調して蜂起した。宗麟は立花道雪、高橋紹運、志賀道輝の三将を筑前に派遣して鎮定させようとした。天正7年(1579年)、立花勢は安楽平城に集結して出撃し、7月12日、海と陸から押し寄せるが、了栄が陣頭指揮をして撃退。立花勢は生松原に退却したので、これを追撃して第2次生松原合戦となった。了栄は、大友方武将木付鑑実の立て篭もる柑子岳城を包囲した。同城は兵糧が尽きかけていたが、道雪は高祖山城を攻撃すれば了栄は囲みを解いて帰ると考えて救援を送らず、生松原に陣を敷いた。了栄は包囲を継続したまま、8月13日、これを迎撃して第3次生松原合戦となったが、これは両軍痛み分けに終わり、双方が手を引いた。しかし糧米の尽きた柑子岳城は開城投降して退いたので、志摩郡全体が原田氏の領有となった。同月19日、草野鎮永の領地に波多親が侵攻したので、了栄は援軍を送り、浜崎でこれを破った。 天正9年(1581年)、隆信と共に安楽平城を攻略。この頃、了栄は老衰でなくなったようであるが、没年不詳。一説では天正15年(1587年)6月22日卒。法名は諡武徳院殿大倫了栄大禅定門。 原田氏の実権は草野鎮永が握り、息子信種を当主としてもり立てたが、これを快く思わない者が家臣におり、これに波多親が介入して天正12年の鹿家合戦となる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E9%9A%86%E7%A8%AE
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
吉弘鎮信 Yoshihiro Shigenobu(生年不詳-1578年) 豊後国の戦国大名大友氏の家臣・吉弘鑑理の嫡男として誕生。弟に高橋紹運がいる。主君・大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜り、鎮信と名乗る。 父と同様に大友氏に仕え、永禄4年(1561年)には、主君・義鎮の命で15000を率いて、毛利氏から豊前門司城を奪回するために大将として進軍した(なおその際、ポルトガル船に大筒での砲撃も依頼している)。しかし、毛利方の村上水軍らの援軍に加え、毛利方の乃美宗勝が一騎打ちにて大友方の伊美弾正を討ち取ったことで敵味方の士気が逆転したため、門司城奪還は不可能と引き際を判断した鎮信は、同年11月にはすみやかに総退却した。 永禄5年(1562年)、毛利元就の調略に乗った肥前国の龍造寺隆信が大友方の城を圧迫。同じくして、大友家臣の高橋鑑種(屋山城、宝満城)が立花鑑載(立花山城)と謀って挙兵し、毛利氏の援軍4万も立花山城を目指した。これに対し大友氏は、多伏口の戦いに勝利し龍造寺氏と和睦を急ぎ、出雲では尼子残党決起を促す。周防では、大内氏一門の生き残り大内輝弘を帰国させて挙兵させた上、ほぼ全軍を博多にて集結させた。この時、鎮信率いる隊は2~3000人。立花表布陣の毛利軍の背後に回り毛利の兵站線を叩き、毛利兵の死体は3500ほどにのぼったとされる。鎮信直属部隊の活躍は特に凄まじく、直属部隊のみで毛利兵百数十人を討ち取り、宗麟の賞賛を受けている。また、毛利軍の殿を守ったのは毛利軍きっての猛将・吉川元春であった事からも、その凄まじさがうかがえる。 元亀2年(1571年)、父・鑑理の死去により家督を継ぎ、筑前立花城督として、博多・堺の商人との交渉などで活躍した(ただし、あくまでも吉弘氏の本城は豊後本国にある屋山城や筧城であり、立花山に拠っていたのは大友家の城督としてである)。その後、大友宗隣が数々の苦言により邪魔になった立花道雪を筑前立花城督に任命して遠ざけ、代わりに鎮信を帰国させ側近とした。以後は宗麟の側近を務め、奉行として活躍した。また、武勇に優れ、多々良浜の戦いや九州における毛利氏との戦いで数々の功績をあげた。 天正6年(1578年)、薩摩国の島津氏との耳川の戦いに従軍。大友宗隣が任命した総大将・田原紹忍は、実戦経験が乏しく諸将を統率する力量に欠けたため、方針がまとまらないばかりか強行派と慎重派が対立するなど足並みが揃わなかった。『戸次軍談(戸次軍記)』によれば、耳川の戦いの前哨戦ともいえる高城攻撃が開始されて、両軍の主力が小丸川、切原川挟み備えた時、斉藤鎮実と吉弘鎮信は務志賀の宗麟に旗本らと共に前線への出陣を促したが、宗麟は「田原紹忍の思意に従うべし」として動こうとはしなかった。この返事に鎮信らは怒り、「本陣の後楯なくば集結した国衆共は一時ともたず敗走すべし。粉骨砕いて我々は先を駆くるも後ろ守る勢なくして雑兵の気撓を万事如何にすべきか」と悔やんでいる。 軍議では角隈石宗と共に、様子を見ながら進退を決めるという立場を取り、一旦はそれでまとまったが、この決定に不満のあった強行派の田北鎮周が軍令を無視し、勝手に耳川を渡河し島津勢への攻撃を開始した。これを見た佐伯宗天は松山之陣より東へ迂回谷へ下り切原川へ至り渡河、島津の先陣を襲った。そのため吉弘隊もこれに巻き込まれる形で戦闘に加わらざるを得ない状況となった。 当初は、斉藤隊、吉弘隊、角隈隊、臼杵隊らを擁する大友軍が有利に戦いを進めたが、全体としての意思統一がなく統制が取れていなかったため、島津陣へ深追いするものがあとを立たなかった。そこへ島津の野伏せ兵が横腹から一斉に鉄砲を浴びせたため、大友軍の大半はたちまちち大混乱に陥った。総大将の紹忍は退却を命ずるが、すでに連絡網を断たれ各隊がバラバラとなっていた大友勢は総崩れとなった。吉弘隊や角隈隊は個別に奮戦するが、戦局はくつがえせず鎮信は戦死した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%BC%98%E9%8E%AE%E4%BF%A1

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