首頁 Tags 鮭延秀綱

Tag: 鮭延秀綱

仁賀保挙誠 NiKaho Takanobu(1560年-1624年) 出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。 仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。 仁賀保氏の成立 仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。 後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。 無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。 友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。 挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。 挙誠の登場 挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。 挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。 さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。 この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。 なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦は考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。 挙誠の領地 挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。 但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。 石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。 豊臣政権下 他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。 文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。 しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在のひたちなか市)5,000石に移封された。 徳川政権下 常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。 さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。 なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。 仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、松平秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、毛利元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、北畠具藤、奥平貞能、尼子勝久、北条氏秀、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、松平秀忠、畠山政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、石成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、木下秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、猪俣邦憲、加藤嘉明、稲富祐直、平野長泰、波多野宗高、浅井久政、国分盛顕、児玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良頼房、松本氏輔、柴田勝豊、戸沢政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、猪苗代盛国、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾満栄、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豊久、矢沢頼康、来島通康、阿蘇惟種、阿蘇惟将、阿蘇惟豊、阿閉貞征、安芸国虎、安見直政、安宅冬康、安田顕元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稲葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、宇都宮高武、羽床資載、臼杵鑑続、延原景能、延沢満延、遠山景任、塩屋秋貞、奥平信昌、岡部長盛、岡本頼氏、屋代景頼、屋代勝永、屋代政国、温井景隆、温井総貞、下間仲孝、下間頼竜、加須屋真雄、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川広照、垣屋光成、垣屋続成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、関一政、関盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証恵、吉見広頼、吉見正頼、吉川経安、吉川経家、吉田孝頼、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親実、久慈信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戸康真、九戸実親、九戸信仲、九戸政実、窪川俊光、窪田経忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童頼兄、原胤栄、原胤貞、原長頼、原田宗時、古田重然、戸川秀安、戸川達安、戸沢政重、戸沢盛重、戸沢道盛、戸田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨頼親、国司元相、国分盛氏、黒岩種直、黒川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木広忠、斎藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、三好秀次、三好政康、三好政勝、三好存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三沢為清、三木国綱、山崎家盛、山崎長徳、山田宗昌、山田有栄、山田有信、山内一豊、山名豊定、山名祐豊、四釜隆秀、市川経好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波経詮、斯波長秀、氏家吉継、氏家守棟、寺崎盛永、寺沢広高、寺島職定、慈明寺順国、慈明寺定次、七里頼周、執行種兼、車斯忠、種子島恵時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種実、秋月文種、十河義継、楯岡満茂、小笠原信浄、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫頼久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、松永忠俊
三百位人物:羽柴秀次、石川五右衛門、久武親直、三好政勝、一条兼定、河野通直、来島通康、松平忠吉、阿蘇惟将、松平忠輝、柳生宗厳、松浦鎮信、相良義陽、相良頼房、深水長智、犬童頼安、伊東義祐、伊東祐兵、稲富祐直、島津家久、種子島時尭、母里太兵衛、伊集院忠朗、伊集院忠棟、新納忠元、京極高次、花房職秀、柳生宗矩、百地三太夫、大内義長、大友義統、岩城重隆、赤井直正、本願寺証如、尼子国久、尼子勝久、里見義頼、吉田孝頼、龍造寺政家、鈴木重則、足利義氏、千葉胤富、斯波義統、相良晴広、東郷重位、武田信廉、武田義信
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、豊臣秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶
小野寺義道 Onodera Yoshimichi(1566年-1646年) 小野寺景道(輝道?)の次男。子に小野寺保道。出羽国横手城主。 兄で嫡男であった光道が戦死したため、父から家督を譲られる。武勇には優れていたが知略に乏しく、1581年には、支配下にあった鮭延秀綱が離反。同じく影響下にあった由利十二頭の人質の一部が自害した事などから領内に一揆を招いたり、楯岡満茂の謀略によって家臣を誅殺するなど、次第にその勢力を減退させ、最上義光や戸沢盛安との戦いで雄勝郡・平鹿郡などの所領を失った。 天正18年(1590年)には小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に謁見して、所領を安堵された。 だが、その後の奥州仕置において幾つもの不手際によって仙北一揆が起こったのを咎められ、天正19年(1591年)所領の3分の1が没収され、上浦郡に3万1600石を給された。 没収された雄勝郡は最上義光の領土とされたが、義道はこれを認めずに雄勝郡の支配を継続した。 文禄元年(1592年)、文禄の役においては肥前国名護屋に参陣し、その功績から叙位・任官した。 文禄4年(1595年)、最上義光の謀略によって家臣八柏道為を誅殺。 その後、最上義光は雄勝郡を支配するため楯岡城主楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けた。 湯沢城が落城した事を聞いた岩崎城主岩崎義高は義道に援軍を要請したが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城が最上軍の攻撃にあったため岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍が来なかった。 その後、前森城主原田大膳が岩崎城に夜襲をかけて落城した。 1600年、関ヶ原の戦いでは最初は東軍に与したが、後に上杉景勝と通じて西軍に寝返ったため、戦後の1601年に徳川家康によって改易され、弟・康道とともに石見国津和野に追放された。1645年、同地で80歳で死去している。 以上のように中央の政争に振り回され、家の存続には失敗した人物ではあったが、その一方で人情味もあったようで、幽閉の身の自分を温かく遇してくれた津和野藩主・坂崎直盛が謀叛の疑いで自害に追い込まれると、秘かにその墓を建立したと言われている。 その後小野寺氏は、坂崎氏の後を受けた津和野藩主・亀井氏の重臣となって明治維新を迎えた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E9%81%93
山野邊義忠 Yamanobe Yoshitada(1588年-1664年) 最上義光的四子,其母姓名與出身皆不明,據傳是現在大石田町深堀鄉士之女;幼名比治利丸,初名光茂,後改名為義忠,別稱最上義忠,法名道慶,水戶藩家老山野邊氏之祖。 慶長五年(1600年),關原之戰之前被送到德川家康處做人質。戰後歸國,次年14歲時成為山野邊19,300石之城主,此後稱山野邊氏。入主山野邊的義忠對山野邊城(現山形縣山邊町)開始了擴張改修,同時進行城下町建設,開設市場,修建諸如釣通堰這樣的水利工程,還致力於神社佛閣和交通網的建設,努力在領內廣施善政。 元和三年(1617年),其兄最上家親死去後,家親之子即義忠之侄最上義俊成為當主,『最上氏系圖』(『寬政重修諸家譜』)中批評義俊說「家信(義俊)年紀尚淺不能聽取國政。而其人沉迷於宴飲酒色,家老屢次進諫依舊我行我素,家臣大半支持另立其叔父義忠做家督」,義俊一無人望又無實力,鮭延秀綱與楯岡光直等許多家臣將家親擁立為繼承者候補。 因而最上氏分裂成了最上義俊派和義忠派,最終發展成了被稱作「最上騷動」的內鬥。江戶幕府對義俊方的松根光廣做出流放處分,試圖求得山形藩內的安定,然而許多家臣不願意出力輔佐義俊。因而在元和八年(1622年)8月山形藩最上家受幕命改易。義忠也因此被追責被罰流放備前國岡山,由池田忠雄負責看管。隨他一同前往岡山的有包括兩名孩子在內的16名近臣。義忠自34歲至46歲在岡山度過了12年的軟禁生涯。 寬永十年(1633年)9月,受德川家光之命被送往水戶藩主德川賴房處看管,自賴房處獲得1萬石領地與水戶藩家老職。後來負責賴房世子德川光圀(水戶黃門)的教育。光圀執政時期的寬文3年(1663年)9月,遁入佛門,號道慶。 次年寬文4年(1664年)12月16日死去,年七十七歲,戒名良源院殿前堅門貞譽松座道慶大居士。是義光所有男子中唯一得享天年的(注一)。 其子義堅亦仕於德川光圀,子孫代代擔任家老職務。山野邊家在水戶藩擁有僅次於禦附家老中山氏的厚祿。由於最上騷動的教訓,在江戶後期直到19世紀20年代後半(文政年間)這段時間主要負責對朝廷與將軍的儀禮,對藩政沒有太多參與。 注一:義光長子最上義康被廢嫡後遭里見民部殺害,次子最上家親而立之年暴斃身亡,三子清水義親大阪之陣中被懷疑勾結豐臣氏,被殺,五子上山野義直與六子大山光隆在最上家改易幾年後於流放地切腹,唯有義忠天壽得全。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=8#postid-212 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%87%8E%E8%BE%BA%E7%BE%A9%E5%BF%A0
最上義光 Mogami Yoshiaki(1546年-1614年) 最上義守的長子、母為小野少將.永浦尼(大崎氏說?)、正室為大崎義直之女.釋妙英、繼室為清水義氏之女、側室為天童賴貞之女;幼名白壽,通稱源五郎、二郎太郎,受足利義輝偏諱「義」字,名為義光,受領名出羽侍從,別名高榆小僧丸、出羽殿、虎將,戒名光禪寺殿玉山道白大居士。 家督繼承之前 永祿三年(1560年),進行元服禮(一說為永祿元年(1558年)),並與父親義守一同上洛拜見室町幕府第十三代將軍.足利義輝,受義輝賜與偏諱「義」字,改名為源五郎義光。而義光的母親為祝福父子倆人上洛期間的一路平安與武運昌隆所做的繡有「文殊菩薩騎獅像」七個字的刺繡,也在近年間被發現。同時由於伊達氏已經漸漸從天文之亂的內耗中逐漸恢復實力,因此父親義守時代的最上家獨立到接下來持續的領國擴張也大約於同時受到頓挫。 永祿七年(1564年),義光之妹義姬為最上與伊達兩家的友好而嫁給伊達家的家督伊達輝宗,並於永祿十年(1567年)生下長男梵天丸(伊達政宗)。這段婚姻也對於日後兩家之間的外交關係有者非常大的影響。 天正最上之亂 元龜元年(1570年),最上氏內發生混亂,由於對於周遭國人眾與分家的態度和伊達輝宗間領土爭奪的小摩擦,父親義守便與義光產生對立。5月,經宿老氏家定直抱病向義守進諫,兩人換取短暫的和平;同年8月(另一說為翌年(1571年))義守隱居,義光正式成為最上氏家督,但到天正二年(1574年)1月,由於義守對於義光對國人眾所採取的強硬態度深感不安,因此隱居後的義守乃致書信給女婿伊達輝宗派出援軍協同出兵,義光與義守再度爆發對立並轉變成武裝衝突(天正最上之亂)。當時最上家臣與周邊國人眾大都支持義守。最上家與周邊國人眾大致上在當時可以分成兩個派系: 義光方:義光、楯岡光直、大崎義隆、寒河江堯元(寒河江城城主) 義守方:義守、伊達輝宗、大寶寺義氏、白鳥長久(谷地城城主)、上山滿兼(上山城城主)、細川直元(小國城城主)、最上八楯:天童賴貞(天童城城主)、延澤滿延(野邊澤城城主)、長靜守兼、六田氏 最上郡地區領國化 在天正最上之亂的家族內亂之後,儘管義光取得最終勝利,但最上家之分家天童賴貞、東根賴景、上山滿兼等依舊對於義光感到不滿因而進行武力抗爭。谷地城主白鳥長久也於此時向日本京都地區的實力者織田信長派遣使者表示自己是出任羽州探題的最上家的正統繼承者。並獻上巨鷹、良馬給織田信長請求他給予自己出羽守一職。此時的義光面臨的是連最上郡一郡都沒有統一的情形。為此義光整頓家中的法度,之後更為恢復羽州探題最上氏的威信而不斷戰鬥。 天正五年(1577年),義光與以天童氏為首的最上八楯進行短暫的和解,雙方進行停戰,義光也娶天童賴貞的女兒(天童御前)為側室。 天正六年(1578年),上山城主上山滿兼在伊達輝宗的支援下,對最上氏的領地發動侵略作戰。後在義光的頑強抵抗下成功的將上山軍擊退。因為這原因義光便自得意滿起來,魯莽的向伊達輝宗發起攻擊,而察覺到兄長有難的義姬便在柏木山之役中趕到戰場,對義光與伊達輝宗兩人進行說服,成功的使得兩者進行停戰協議。 天正八年(1580年),義光以給予其主家舊領的條件成功的誘使上山滿兼家臣里見義近、民部父子,誅殺同為滿兼家臣的里見民部之兄長里見內藏介,而義光趁此時機發兵上山城,在與里見父子的裡應外合下,誅殺城主上山滿兼,成功的奪取上山城。 天正九年(1581年),義光對村山郡發動侵略作戰。首先在萬騎原之役將天童氏的姻親小國城主.細川直元擊破並佔領小國城。之後更是於夏天對小野寺重臣鮭延城主鮭延秀綱進行調略使其降伏最上氏。 天正十年(1582年),天童御前與義光生下義光三子清水義親沒多久後隨即因產後身體失調死去,因此最上、天童兩家的關係也就再度惡化。 天正十一年(1583年),尾浦城的大寶寺義氏向清水城攻擊,義光對清水城進行救援。翌年,義氏再次攻擊時,義光利用內應的前森藏人,當義氏進軍期間,前森的軍隊向大寶寺義氏突襲,義氏在混亂的期間自盡。 天正十二年(1584年),義光利用嫡子最上義康與白鳥長久女兒的婚姻關係向白鳥長久進行懷柔,之後則是假稱自己病重不已希望長久能夠來到山形城已交代自己死後的後事,藉機暗殺谷地城主白鳥長久,形成山形城日後有名的血染之櫻花典故。(但此典故也有人懷疑乃小說家之創作) 同年義光也攻擊寒河江氏與最上八楯盟主天童氏,可是遭到最上八楯之一的延澤滿延頑強抵抗,最上軍因而撤退,但儘管如此,義光仍讚嘆滿延之武勇並希望將其收為家臣,義光乃利用自己的女兒松尾姬與滿延的長子延澤光昌的婚姻,使滿延、光昌父子歸順義光,因此失去猛將的天童氏與寒河江氏乃被義光擊潰,寒河江家督寒河江堯元兵敗自殺。同時義光也對東根城主.東根賴景的家老里見源右衛門進行調略使其成為已方內應,完成東根城攻略。而剛接替死去的父親天童賴貞繼承天童氏家督之位的天童賴澄則是於同年天童城陷落後投奔伊達家。自此最上八楯宣告完全崩壞。義光也完成壓制最上郡地區全境與該地的領國化。 天正十四年(1586年),小野寺義道侵入最上家領地,雙方於有屋隘口間爆發激戰。在前哨戰中,最上軍敗給小野寺軍,但在戰役的後半段,靠著義光嫡子.義康與家臣楯岡滿茂的奮戰成功的進行反擊並轉敗為勝。 庄內進出與本庄繁長和伊達政宗間的鬥爭 天正十五年(1587年),大寶寺氏秘密與親族上杉家臣本庄繁長串通並試圖接近上杉景勝,但是此消息遭到義光察覺,趁其後援本庄繁長調往協助攻打叛出上杉家的新發田重家時,立即利用內應前森藏人等庄內地區國人眾的力量向大寶寺攻擊,最終大寶寺義興自盡,不過義興的養子大寶寺義勝成功的逃回親生父親本庄繁長領內。 天正十六年(1588年)2月,伊達政宗率兵1萬向義光正室大崎御前的兄長大崎義隆發動進攻,義光率兵5千趕往支援大崎軍並打敗伊達軍(大崎合戰),並策反伊達家重臣鯰貝城主鯰貝宗信,後在義光妹妹義姬突然出現於戰場中懇求最上、伊達兩軍進行停戰後。最上軍與伊達軍便達成和睦,而義姬也因和睦中的條件以伊達家人質身分回到山形城。 同時間,大寶寺義勝與其父親本庄繁長,趁者伊達政宗向大崎義隆發動侵攻期間,向庄內地區發起反攻,並於十五裡原之戰大破以庄內地區以國人眾為主的最上軍,奪回庄內的領地,也趁機向最上氏的領地發動侵略作戰,但隨即在東根城遭到最上軍的奇襲因而撤退。 而日後在庄內裁判權的紛爭中,儘管義光請求之前便有交好的德川家康幫忙說情,但是本庄繁長與大寶寺義勝的外交手腕及上杉家重臣直江兼續與石田三成的關係,使得豐臣秀吉將庄內裁判權的歸屬交給大寶寺義勝,並承認大寶寺氏為上杉氏的與力大名。義光因此在庄內地區的爭奪戰中落敗。 豐臣政權下的義光 在天正十八年(1590年)的小田原征伐中,由於準備父親義守葬禮的關係,義光甚至是比姪子伊達政宗還晚進行出兵,因而幾乎失去領地,幸好在事前拜託德川家康對秀吉的遊說,以及之後義光與其夫人大崎御前一同來到宇都宮城參見豐臣秀吉,因而確保自己24萬石的領地。同時也對於奧州置仕發布後的仙北一揆派兵進行鎮壓並趁機攻佔小野寺氏的部分領地。 天正十九年(1591年),德川家康為討伐九戶政實而來到山形城時,義光便將次子家親送到家康身邊成為其侍童。也成為諸大名裡第一位將兒子送去德川家康身邊擔當貼身侍童的先驅。而同期間,豐臣秀次也為討伐九戶政實而來到山形城,並在此段滯留期間見到義光之女駒姬。秀次對於駒姬的美貌一見鍾情,便數度說服義光將駒姬嫁給自己成為自己的側室之一,起先義光並不同意這婚事,認為應該等到駒姬再年長點時在論及婚嫁。但由於秀次的關白地位,因此義光也沒有強烈拒絕,後來秀次終於說服義光讓駒姬出嫁。同時間,由於豐臣秀賴的出生,義光也派三子清水義親前往大阪擔當秀賴的侍童,希望以此確保最上家的安泰。 天正二十年(1592年),由於豐臣秀吉下令出兵攻打朝鮮的關係,義光因而也率領500名士兵前往九州的前線名護屋城坐鎮,也於同一時間展開山形城的擴建工作。 文祿三年(1594年),義光送一封假的書信給小野寺義道的忠臣八柏道為,成功的讓小野寺義道中義光的離間計誅殺八柏道為,之後小野寺氏在與最上氏的作戰中便經常戰敗,在關原之戰(慶長出羽合戰)時也因加入西軍,而在戰後遭到改易。 文祿四年(1595年),駒姬從山形城出發並抵達大阪,但豐臣秀次卻因謀叛與眾多不良行為的嫌疑,因而遭到秀吉軟禁,駒姬也因而與秀次眾多妻室一同與秀次被軟禁。同年8月,秀次切腹謝罪後。駒姬與秀次妻室一共31人慘遭連坐,被下令押解到京都三條河畔下令處斬,當時駒姬只有15歲。一說駒姬當時也還未成為實質的秀次側室),義光想盡辦法挽救駒姬。但最終噩耗還是傳來。據傳義光夫婦聽聞噩耗時皆悲嘆不已,義光數日內食不下咽,而大崎御前則是在幾天之後便因不明原因隨者駒姬死去的消息傳來而跟著死去。義光也因此事件與伊達政宗一同受到牽連被下令進行自省。此段期間義光長子義康.次子家親也曾為父親義光的安危而進行祈福。 駒姬事件發生後,義光便開始痛恨豐臣秀吉與豐臣家。因而外交態度上出現明顯的改變。一改以往對於豐臣氏進行接近的態度,而是一面倒向支持自己的好友德川家康。當慶長年間於京阪地區發生大地震時(慶長伏見地震),各個大名皆是火速趕往秀吉宅邸確認秀吉安危,但義光卻是第一時間趕往家康宅邸確認德川家康的安危,此外當秀吉邀請家康前去茶會的時候,也自願性的擔當家康的貼身護衛確保家康安危。 慶長三年(1598年),在會津若松城城主蒲生秀行的家臣團之間爆發的鬥爭所引發蒲生家改易的蒲生騷動中,越後的上杉景勝為替豐臣家擔當監視奧羽諸大名的監視者與牽制關東德川家康行動因而入主會津。由於義光與上杉景勝長期在庄內地區的鬥爭與爭奪,加上景勝移封會津後依然握有佐渡島與庄內地區,因此兩者之間也因而產生嚴重矛盾,形成日後最上氏與上杉氏在慶長出羽合戰中激戰的遠因。 在此期間,義光也娶清水城主清水義氏的女兒辰姬(清水御前)為繼室,年紀小義光可能約20至30歲左右的清水御前不但是名協助義光文學與內政的賢內助,據傳也是義光面臨妻女相繼死去與政治上失意的人生最低潮時,帶給他人生一道曙光的女子。 慶長出羽合戰 在秀吉死後的慶長五年(1600年),由於上杉景勝回到領內進行道路整備、城池修築、收集兵器與招募浪人等備戰行動,因而引來周遭大名的舉發,後在上杉氏重臣直江兼續寫出直江狀給德川家康後,引發會津征伐。由於義光與上杉早在以前交惡,加上義光和家康之間的深厚交情,最上氏因而被委任為奧羽地區除伊達外的會津征伐軍總大將,義光命其嫡子義康為自己名代後便率領以6千5百名最上軍為主,共1萬1千名的會津征伐奧羽方面軍蓄勢待發。同年7月,石田三成於京阪地區起兵討伐德川家康,會津征伐軍主力於同月的小山評定後班師趕回西方與石田三成等西軍決戰。而義光底下的奧羽諸路軍在聽聞家康回師之後,也各自帶者自己軍隊撤回己領。 9月1日由於義光支持家康的東軍,上杉氏便以直江兼續為總大將,分別從庄內地區、米澤地區率兵2萬5千向最上氏領地發動侵略作戰,義光自知不敵,因而下令大部分的城兵放棄支城,集中兵力固守堅城池長谷堂城、上山城和主城山形城。 當中畑谷城守將江口光清無視於義光的撤退命令,率領300兵於畑谷城頑強抵抗。當時直江兼續也對於江口的器量感到佩服因而表示只要江口願意降伏的話,便會給與極優的待遇。但是光清無視於直江兼續的勸降,率領城兵頑強抵抗,最後與城兵一同和畑谷城玉石俱焚,而上杉軍也因此場攻城戰傷亡近1千人。畑谷城陷落後,上杉軍主力則繼續深入攻擊最上領,9月14日,上杉軍1萬7千名的主力包圍由守將志村光安與僅1千守軍的長谷堂城。而此期間志村光安與勇將鮭延秀綱奮戰以及城內守軍不斷對上杉軍進行鐵砲和弓箭的攻勢下,長谷堂守軍戰功彪炳,使得直江兼續為首的1萬7千名上杉主力軍久攻長谷堂城依舊無法攻下。此期間在最上家臣上山城城主里見民部、湯澤城城主楯岡滿茂的奮戰下也都順利擊退上杉家的側翼軍與仙北的小野寺軍。 同時間義光也派遣長子義康前往伊達家向伊達政宗請求援軍支援,而此時伊達政宗正是聽聞南部利直打算派軍支援義光因而在南部領內煽動一揆已達到自己擴張領土的目的。政宗在聽聞義康前來求援,而自己留在山形城的母親義姬也寫信請求伊達家支援後,便率兵3千支援最上,但其到達最上領後並沒有直接參與戰鬥,一說即為政宗聽從片倉景綱的意見,打算等到長谷堂的最上、上杉兩軍兵疲馬乏時,再收漁翁之利。 9月29日,當關原之戰的戰報傳給兩軍後,最上軍兵民聽到皆大為振奮,而上杉軍總大將直江兼續聽聞此消息後便解除對長谷堂城的包圍,並立即撤退,義光聯同伊達軍一起追擊上杉軍,但上杉軍卻在此場追擊戰中,在勇將前田利益與水原親憲所帶領的鐵砲隊率領下奮勇作戰,最上軍於此追擊戰中竟付出整場戰役中的最大傷亡,而義光本人也親率軍隊追擊,當時義光身邊的側近軍師堀(築紫)喜吽齋苦勸義光勿衝動出擊,但這時義光本隊卻遭到上杉軍的鐵砲隊火力攻擊,堀喜吽齋為保護義光而子彈從左肩貫穿到右胸當場斃命,而義光身旁的部隊長志村藤右衛門也為保護主公義光隨即成為義光的盾牌,為保護義光而戰死,這時候上杉家的鐵砲隊也成功的打中義光所戴的頭盔,而遠在戰場外的義光嫡長子義康見到父親有難,便率兵趕往父親身邊,成功保護義光。追擊戰最終上杉軍主力回到上杉領國內,而最上軍則是於戰後向上杉家的庄內地區發動侵略作戰,並成功迫使上杉家庄內最後一個據點酒田東禪寺城的守將降伏從城中撤出。 在關原之戰後,最上氏被分配57萬石的領地,當中加封的部分包括上杉氏庄內地區、由利十二黨領地與一部份小野寺義道的領地。 晚年 江戶幕府成立以後,義光為恢復領內的繁榮,因此對於自己的百姓所採取的政策是相當的寬容,也因此相傳在義光時代最上氏的領地都沒有發生過一揆的事蹟。因此義光治下的百姓也常常歌頌到「最上源五郎可是無視稅役的」(最上源五郎は役をばかけぬ)。 之後義光也繼續擴建山形城的規模,不但使山形城成為日本國內數一數二的平城,同時也進行城下町整備,同時也為活絡商人町的發展也對於城下的地子錢與年貢進行免除。並發送土地與整備羽州街道和設立定期市集,同時點對從上杉氏奪來的日本海貿易商港酒田港做非常大的建設與投資。也對於庄內地區到山形城的沿路街道進行改修、擴建。同時義光也對於最上川的水運開鑿下很大的功夫。使其水運量大增並因此改善山形藩的財政,同時也對於工匠為主的職人町設為「御免町」免除各項的勞役,也有部分的工匠受到家臣般的規格待遇。而當時山形城下町數共約31個左右,人口約19,796人,加上最上家臣團,估計當時山形城的人口約到達3萬人左右。 在農政面方面,義光也命家臣北楯利長、新關久正等修建北楯大堰與因幡堰等水利設施使得領內的農業用水獲得解決,庄內平原地區的開發也因而大為發展,即使到今日,日本的庄內地區的農業仍然受到這些水利設施非常大的幫助。 而義光也將庄內地區的大寶寺城進行改築,並更名為鶴岡城,並有意晚年在此鶴岡城進行隱居。但原本義光與嫡子義康良好的關係,卻在短短幾年之內因不明原因而生變,這時候最上家中也有些人有將與幕府親近的次子家親設為繼承人的想法。 慶長八年(1603年,一說為1611年),義光暗殺長男義康,原因不明,這卻是導致最上氏在義光死後家中混亂最後被幕府改易的遠因。(但這件事情近年來也興起一些新的說法,也就是義康暗殺之事也有可能非義光指使,而是由家臣戶井半左衛門自己獨斷暗殺義康。原因在於當義康遭到暗殺之後,義光聽聞消息據傳悲痛不已,甚至痛哭失聲,而義光為準備義康的後事跟早年死去的愛女駒姬的後事也都耗盡心力。) 而義光在『分限帳』提到家臣戶井半左衛門時也有提到「成敗」(處罰)二字。因此義康暗殺是否為義光指使,至今仍舊是個無法確定的定案。 慶長十六年(1611年)3月。義光就任從四位下左近衛少將與出羽守的官職。 慶長十八年(1613年),義光來到駿河城慶祝駿河城擴建完成時開始病發。慶長十九年(1614年),當義光由駿河城回山形城後,於山形城病死,年六十九歲。 出處https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E4%B9%89%E5%85%89
楯岡滿茂 Tateoka Mitsushige(1547年-卒年不詳) 楯岡滿英之子,楯岡氏為最上八楯之一,在應永十三年,最上氏三代家主滿直將四男伊予守滿國分封至楯岡城時始稱楯岡氏。 在繼承父親滿英為楯岡氏七代家督時,正逢最上八楯之首天童氏因不滿主家最上氏新當主義光的強勢集權政策於是連同其他七家力拱義光之弟中野義時奪位。然而在最上義光的反擊下中野義時、天童氏接連戰敗滅亡後,楯岡滿茂也看看清了大勢,改投入義光麾下,之後在最上家的各場合戰中大為活躍。 天正十四年(1586年),小野寺義道率領六千餘均勢南下越過國境八口內侵入最上領,由義光親率一萬最上軍迎擊,兩軍在有屋卡遭遇,最上軍在小野寺方軍師八柏道為設計的伏擊下折損了數千兵馬。最後是義光長子最上義康率領八百精兵反擊,戰中楯岡滿茂跟鮭延秀綱不懈奮戰,方將小野寺軍擊退,本想趁機追擊的最上軍被擔任殿軍的八柏道為橫阻,只好引回山形城。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵小田原北條氏,最上義光見勢不可逆於是正式從屬豐臣家,不但得到本領安堵,更獲得了屬於小野寺家領地增田、湯澤的代官任命權,這給了義光入侵小野寺家的口實,當時在義光命令下負責小野寺攻略的中心人物便是楯岡滿茂跟鮭延秀綱。文祿元年(1592年),秀吉發起朝鮮侵略,最上義光與秋田實季、小野寺義道皆領兵至肥前名護屋參陣,最上義光趁機楯岡滿茂讓以擁有增田、湯澤檢地代官任命權之名義出兵小野寺領,從有屋卡越入攻打八口內,雖然楯岡滿茂成功在野戰討死小野寺方的八口內領主八口內定冬,但是小野寺家的軍師八柏道為順利集合草井崎、御返事等援軍來阻後楯岡滿茂也只好收兵撤退。 戰後最上家和小野寺家兩邊的抗爭越加白熱化,屬於最上家的楯岡滿茂和小野寺家的八柏道為雙方各自領兵在國境爭奪上保持一進一退的均勢。最後打破此一形勢的人正是最上義光,最上義光於文祿三年(1594年)施行反間計,楯岡滿茂奉命偽造一封八柏道為和最上內通的書信,然後故意被小野寺義道的妻弟吉田孫市得到,小野寺義道見信後不分青紅皂白,在八柏道為前來橫手城經過中之橋時派遣刺客將道為暗殺。 八柏道為死後,楯岡滿茂身任總大將出兵小野寺方的湯澤城,當時鎮守湯澤城的是八柏道為一族的孫七郎、孫作兄弟。楯岡滿茂領最上軍包圍了湯澤城的三面,獨開一方讓城兵有可以逃亡的道路以打擊城兵的士氣。當時孫七郎兄弟所剩下的兵員僅餘五百人,弟弟孫作獨領三百人出城突擊,但是在楯岡滿茂的早有準備下孫作奮戰之後遭到討取。之後義光又命令由利眾前來援助攻城,孫七郎刺殺妻子、抱必死覺悟統領殘餘的三百城兵再次出城與楯岡滿茂一戰,敗後回城進行十字形切腹自刃。在湯澤城遭到楯岡滿茂攻打時小野寺義道本有從橫手城派出援軍。在打下湯澤城後,楯岡滿茂改封為湯澤城主,負責監看秋田家並繼續和小野寺家對峙 慶長五年(1600年),關原之戰爆發,最上義光支持德川家康,小野寺家因為和最上家的敵對關係倒向石田三成一方,最上義光在長谷堂之戰後重新奪回莊內並攻下酒田城,同時躍馬攻入仙北,討伐無視家康邀請並於橫手城籠城的宿敵小野寺義道。巖谷、瀧澤、仁賀保等由利國人先後投降最上家,時任湯澤城主的楯岡滿茂也領兵平定不投降的赤尾津氏。 戰後,最上義光加封田川、櫛引、飽海、由利四郡,最上家成為擁有五十七萬石的大名,後在慶長八年(1603年)最上義光以雄勝郡的部分領地和佐竹義宣交換他在由利郡的部分領地,取得完整的由利郡,同時楯岡滿茂也因多年之功受命統領由利地方,帶五百騎入龜田赤尾津城。由利郡的五萬五千石領地除了瀧澤氏一萬石、巖谷氏三千石、二千石為最上氏直領外,其餘四萬石全為楯岡滿茂所有,位列最上氏分別帳中的首位,所領的四萬石為最上家中祿高最高的一人。入封由利的楯岡滿茂為了方便對新領地的統治,改在本莊一帶建立本莊城。楯岡滿茂也在領地遷移之際多次隨封地改姓歷經湯澤滿茂、赤尾津滿茂、本莊滿茂等名字,舊領地楯岡由義光之子光直領有。 元和八年(1622年),最上氏家中因為當主繼承問題發生騷動,被將軍德川秀忠以內亂不休之名義改易,楯岡滿茂在由利郡的領地也遭沒收,楯岡滿茂與弟弟滿廣寄居於前橋藩主酒井忠世處,此後生平不詳。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=375
池田盛周 Ikeda Morichika(生年不詳-卒年不詳) 池田盛國之子,通稱讚岐守,別名惡次郎;出羽朝日山城城主,曾是大寶寺氏(武藤氏)、上杉氏、最上氏的家臣。 關於以出羽朝日山城為據點的池田氏之祖,據說為平安時代中期藤原秀鄉的嫡流藤原仲光在成為攝津國池田一地的土著而改姓池田氏。平安時代末期仕於平家的池田快光的後裔池田秀盛在治承・壽永之亂(源平合戰)中戰敗,與兄弟五人一同逃到鳥海山山麓,在後來得以延續的子孫在建武年間(1334年-1338年)築起山城.朝日山城,家紋為「丸中揚羽蝶」。 父親盛國時仕於武藤氏(大寶寺氏),盛周仕於大寶寺氏的時期,領有由50騎地侍跟從的3千町步,作為年輕的武將已經嶄露頭角,在許多戰事中從軍並立下戰功。 天正十一年(1583年),主君大寶寺義氏因家臣謀反兵敗自刃,與最上義光串通,因為抵抗繼承義氏的大寶寺義興(義氏的弟弟)而被義興改易,後來被原諒而保著所領。天正十六年(1588年),在十五裡原之戰中以最上勢身份參加,與擁立大寶寺義勝的越後上杉家本庄繁長戰鬥,在朝日山城籠城並抵抗到最後,最終池城被攻陷(朝日山城之戰),但在降伏後並沒有被大寶寺義勝處罰。 天正十八年(1590年),反對豐臣秀吉的太閤檢地,於是加入地元農民的土一揆。與擔任庄內檢地奉行的上杉景勝對立,居城朝日山城成為一揆軍的據點。同年12月戰敗,逃到最上領地鮭延城的城主鮭延秀綱之下。由此時開始改名為「惡次郎」(以自己要與天下惡役對抗為由),立下治水的功績。 慶長五年(1600年),慶長出羽合戰中與兒子池田盛邦、弟弟池田忠內一同再度在朝日山城籠城。在與上杉家臣志馱義秀的戰鬥時失敗,但是關原之戰以德川方的勝利告終,於是加入東軍的最上勢亦獲得勝利。 慶長六年(1601年),志馱義秀在酒田東禪寺城開城,庄內地方成為最上氏的領地。盛周以往的功績被認同,於是被賜予舊領荒瀨鄉古川村百多石,仕於進入酒田的最上義光重臣志村光安。 逝世時不詳,傳說最後被葬在荒瀨川的南蓬田原。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%9B%9B%E5%91%A8
直江兼續 Naoe Kanetsugu(1560年-1620年) 樋口兼豐的長子、母為藤もしくは蘭子、妻為直江景綱之女.阿船;幼名與六、初名樋口兼續,繼承直江氏,名為直江兼續。 先祖據説是平安時代源義仲的忠臣義仲四天王之一的樋口兼光,對於其父兼豐的身份有所爭議,根據米澤藩的記録《古代士籍》和《上田士籍》樋口兼豐是長尾政景家老、上田執事,而根據《藩翰譜》兼豊只不過是管理薪炭的小吏。 少年時代 生於越後國阪戶城(現新潟縣南魚沼市),湯澤町姓樋口的很多也有說他生在越後湯澤。五歲開始在仙桃院(上杉謙信的姐姐同時也是上杉景勝的母親)的推薦下成為長尾顯景(上杉景勝)的侍童.近侍。永祿七年(1564年)因為上田長尾家當主長尾政景去世,於是跟隨作為上杉謙信養子的上杉景勝進駐春日山城。目前無任何史料紀錄兼續跟隨過謙信,倒是孩童時代就早早侍奉景勝。 直江家繼承 上杉謙信暴卒的天正六年(1578年),上杉家爆發御館之亂,年僅18歲的兼續和父親兼豐協助上杉景勝擊敗上杉景虎,幫助景勝快速佔領春日山城,成為平定亂事的功臣之一。天正九年(1581年),景勝的親信直江信綱被毛利秀廣殺害。為免直江氏斷後,兼續奉景勝之命入贅直江家,娶直江景綱的女兒、信綱之妻阿船,繼承直江氏,正式改名為直江兼續,並且成為與板城城主。之後,與狩野秀治共同執政,輔助景勝治理越後。 豐臣政權時代 天正十一年(1583年)成為山城守。天正十二年(1584年)狩野秀治病倒,基本由兼續負責內政外交。秀治死後就完全由對外文相當擅長的兼續一人擔當。家臣們稱上杉景勝為「御屋形」(主公),稱兼續為「旦那」(主人)。天正十四年6月22日(1586年8月7日),兼續陪同景勝上洛,天皇冊封主君景勝為從四位下左近衛權少將,兼續為從五位下。 在新發田之亂中為爭奪戰略要地新潟與新發田重家展開激烈的戰鬥。天正十一年(1583年)因為大雨上杉家敗北。兼續於是整治主流不定的信濃川,開鑿支流中之口川奠定現在新潟平原的基礎,然後逐漸擠壓新發田家的空間。天正十三年11月20日(1586年1月9日),佔領新潟城和沼垂城,取得新潟港的控制權。失去經濟來源的新發田重家很快衰敗。天正十五年10月13日(1587年11月13日),兼續和藤田信吉一起攻陷新發田城的支城五十公野城,之後立刻攻佔新發田城,結束戰爭。 天正十六年(1588年10月7日)豐臣秀吉賜姓豐臣,以豐臣兼續的名字成為山城守。天正十七年(1589年)和上杉景勝一起出兵佐渡。佔領之後被委派管理佐渡。天正十八年(1590年)跟隨景勝參加小田原征伐,和松山城城代山田直安以及其部下金子家基,難波田憲次收降若林氏,然後作為先鋒佔領八王子城等關東多處城池。文祿元年(1592年)又和景勝一起出兵朝鮮參加文祿慶長之役取得戰功。此外還修整庄內地方的大寶寺城,以及平定領內的農民起義。 兼續為恢復戰亂後的越後經濟也施行很多政策。他鼓勵農民開墾新田。越後平原現在也是日本的稻穀主要產地。他還支持手工業和商業的發展。越後農民種植一種叫苧麻的植物,在木綿沒有普及的時代苧麻被當作衣用纖維重要材料。青薴做成的布在京都能賣很高的價錢,取得很大的收益。在兼續的領導下越後變得和謙信統治時代一樣繁榮。 文祿四年(1595年)1月,豐臣秀吉命令上杉景勝管理越後,佐渡的金銀礦山,兼續任代官。 慶長三年(1598年)豐臣秀吉改封上杉景勝到會津成為一百二十萬石的大名,其中出羽國米澤六萬石(加上寄騎有三十萬石)賜予兼續,幾乎等同於大名的待遇,時人乃稱兼續是「天下第一陪臣」。這次改封上杉家領地被最上家領地分隔為會津,置賜地方和庄內地方兩個部分。為聯絡兩地兼續修築朝日軍道。朝日軍道是沿朝日山地山脊的險道,關原之戰後廢棄。 關原之戰 慶長三年8月18日(1598年9月18日)豐臣秀吉逝世,德川家康勢力抬頭。在好友石田三成的請求下,兼續決定跟家康對立,放逐主張與德川家和睦的上杉家重臣藤田信吉。同時拒絕家康的上洛要求,執筆著名的「直江狀」。 這封令德川家康大怒而招致會津遠征的直江狀後世認為是偽作,改竄的可能性很大,但是在勸阻家康上杉征伐的舊豐臣奉行的書信中所寫「這次的直江所作所行,是在有無禮之處,令您生氣也是情有可原」,「您不必和鄉下人一般見識」,兼續的信是存在的,也的確因此激怒家康。 上杉景勝、兼續一面修築新城神指城來取代難以防守的若松城,一面在白河練兵準備迎擊德川軍。由於石田三成的舉兵,德川家康率領的東軍主力不得不停止對上杉的攻擊。兼續率領3萬精銳部隊入侵東軍最上義光的領地山形。最上義光和上杉家一直為庄內地方而戰事不斷。從上杉家來看領土被最上家隔開,從最上家來看領土被上杉家包圍。當初東北方面的東軍集結在最上家領地,家康撤退以後其他大名也跟著一起撤離,因此最上領地內東軍兵力驟減。義光感到危機一邊派出使者和上杉家講和,一邊向東軍諸侯求援企圖先發制人。察覺到義光動向的兼續拒絕和議。 最上義光為集中兵力命令部下放棄一部分外城。畑谷城江口光清拒絕服從據城頑守,在上杉軍猛烈攻擊下失守。隨進攻志村光安守衛的長谷堂城和里見民部守衛的上山城。上山城只有500名士兵守衛,兼續派4000人的分隊,里見民部出城迎戰。上杉軍以8倍的兵力仍然久攻不下,反而損失數名武將,分隊直到最後也沒有和兼續的本隊會合。進攻長谷堂城的是兼續親自率領的1萬8000人。志村光安,鮭延秀綱帶領1千名守軍奮力抵抗,上杉軍上泉泰綱戰死。本來想速戰速決結果演變成持久戰,9月29日關原之戰失敗的消息傳來,上杉軍經過20天的戰鬥連攻不下只能撤退。詳細參照長谷堂城之戰。 最上軍和前來救援的伊達政宗部隊乘勝追擊,在水原親憲、前田利益等上杉諸將的奮戰下終於撤回米澤。這次撤退非常經典,受到兼續敵人最上義光和德川家康的稱讚,後來還作為日本陸軍參謀本部的戰例。 結果上杉軍進攻最上侵佔山形的行動以失敗告終,最上軍奪回庄內地方,並且發生伊達進攻上杉領地的松川之戰,但本庄繁長有成功擊退伊達。上杉景勝、兼續打算殲滅最上、伊達的構想就此破碎。 江戶時代 返回本領地後,兼續原本是堅持要與德川家抗戰到底,後被上杉景勝與本庄繁長說服而作罷。慶長六年(1601年)7月,兼續隨同景勝上洛向德川家康請罪,景勝減封至米澤三十萬石,兼續六萬石。但兼續只自取五千石,其他分給其他大臣。家康知悉後讚嘆道:「能得如此之能臣,取天下可無難矣!」自此上杉家向德川家宣示忠誠。 慶長十三年(1608年)兼續改名為重光,輔助上杉景勝治理米澤藩。和在越後一樣致力於新田開發和治水,在流經米澤的最上川上游修築3公里長的石堤防止氾濫,後來被稱為「直江石堤」。米澤藩表面石高只有三十萬石,實際達到五十一萬石。此外還擴大城鎮面積,振興手工業,開發礦山,只用十年就把米澤發展成擁有繁榮城下町的豐城。 為和德川家搞好關係通過德川家近臣本多正信開展外交,慶長十四年(1609年)在正信幫助下免除10萬石的賦稅。兼續還把正信的兒子本多政重認作養子。儘管後來中斷養子關係仍然和本多家保持親密的友情。 慶長十九年(1614年)作為東軍參加大阪之役,在鴫野之戰中立下戰功。 元和五年(1619年),病逝於江戶鱗屋敷,年六十歲。據說兼續去世時,一向面無表情的上杉景勝放聲痛哭,可見兩人之間的情誼。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%BA%8C
鮭延秀綱 Sakenobe Hidetsuna(1563年-1646年) 佐佐木貞綱之子,鮭延氏為近江源氏佐佐木氏的庶流,尊宇多天皇之子敦實親王為遠祖。 在二十代當主佐佐木綱村時,開始侍奉出羽仙北小野寺氏,於最上川畔岩花一帶構築居城擔當小野寺氏南進的先鋒。永祿六年(1563年)父親貞綱擔任家督時,配合上杉謙信溯最上川攻打與上杉家叛將本庄繁長聯合的庄內大寶寺氏(武藤氏),但被武藤義增擊敗,退回真室內町,以鮭川左近的鮭延城為居城,並改以地名鮭延為姓氏。戰後為了乞和,於是將次子秀綱當作人質送入武藤家。因此,秀綱年少時期都在敵人武藤家中度過。武藤氏由義增長子義氏繼任當主後,秀綱回到鮭延城並接替父親成為鮭延城主,秀綱深知身處亂世唯有增強自己的實力才是自保之道,於是多次整頓城防。 天正九年(1581年),鮭延城遭到最上義光的家臣氏家守棟攻打,在分家庭月城的庭月廣綱被氏家守棟勸降後,秀綱失去援力亦告臣服。天正十三年6月(1585年),最上義光派遣重臣氏家守棟攻進庄內飽海郡時,秀綱寫信成功勸降武藤家的來次氏秀,使氏家守棟順利奪下飽海郡。翌年5月小野寺義道率6000兵進攻最上領,最上義光親率一萬最上軍迎擊,兩軍在有屋卡遭遇,最上軍被小野寺軍伏擊折損了數千兵士。最後是義光長子最上義康率領800精兵反擊,此戰中秀綱跟楯岡滿茂大為活躍,將小野寺軍擊退。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵小田原北條氏,最上義光應邀出兵正式從屬豐臣家,不但得到本領安堵,更獲得了屬於小野寺家領地增田、湯澤的代官任命權,使義光得到謀奪小野寺家上浦郡的藉口,暗中密令秀綱及楯岡滿茂積極部屬上浦攻略。文祿元年(1591年),秀吉發起朝鮮侵略,同時最上義光派秀綱和楯岡滿茂出兵上浦郡,率先攻打八口內。先鋒秀綱雖然成功擊破八口內的領主八口內定冬,但是也因為八口內定冬的死命拖延,為小野寺爭取時間能整合援軍,使秀綱再難討好而退兵。文祿四年(1595年),在楯岡滿茂攻打小野寺家的湯澤城時擔任先鋒,討取八口內的領主八口內定冬。 慶長五年(1600年),關原之戰爆發之際,呼應石田三成的直江兼續率領二萬四千大軍攻打最上家領有的村山郡,秀綱擔任援軍和楯岡光直、清水義親協助志村光安於長谷堂城抵禦上杉軍(長谷堂城之戰),在野戰時甚至一度逼近直江兼續的本陣,戰後被直江兼續讚譽:「鮭延之武勇、令人想起信玄、謙信」。在西軍戰敗的情報傳來後,直江兼續領兵撤退,秀綱擔任最上軍先鋒追擊,攻下酒田城。後來參與圍攻西軍的小野寺家橫手城時也立下軍功,戰後加封真室城,擁有一萬一千五百石的領地。 最上義光死後,由次男最上家親繼位,秀綱與新關久正、楯岡光直等重臣身為家中主流派活躍,但是家親早逝,繼承人嫡子最上義俊,頗無才能,於是以楯岡光直為首的秀綱、新關久正等重臣派支持改立義光四男山野邊義忠為新當主,最上氏頓時分裂並引發騷動,因而在元和八年(1622年)被將軍德川秀忠以內亂不休為由改易至近江大森一萬石,秀綱下野。 元和九年(1623年),秀綱在幕府老中土井利勝的招攬下帶同14名家臣遠赴下總國佐倉出仕土井家,並在寬永十年(1633年)4月隨利勝轉封至古河。 正保三年(1646年)病逝於古河,年八十四歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AD%E5%BB%B6%E7%A7%80%E7%B6%B1

Send this to a friend