首頁 Tags 鬼庭綱元

Tag: 鬼庭綱元

三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原紹忍 / 田原親賢、茂庭綱元 / 鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米穀常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼続、中條藤資、南部晴政....
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
片倉喜多 Katakura Kita(1538年-1610年) 鬼庭良直之女、母為本澤真直之女・直子、繼父為片倉景重、伊達政宗的乳母;別名喜多子、少納言,法號圓同院月鄰妙華大姊。 母親直子在鬼庭家只誕下女兒喜多一人;天文十八年(1549年),父親良直的側室(牧野刑部之女)誕下兒子・鬼庭綱元。良直立綱元為嫡男,立側室為正室,並與直子離婚。 此後,母親直子帶同喜多再嫁片倉景重,弘治三年(1557年),直子為繼父景重誕下兒子・片倉景綱;喜多與異父弟景綱年紀相差約20歲,喜多精通文武兩道,好兵書,景綱亦受到喜多的教化。 永祿十年(1567年),伊達政宗誕生,君主伊達輝宗任命喜多為政宗乳母。喜多為獨身,然而雙方被認為是養育關係。記錄上被記為保姆,負責政宗的養育,對其人格形成有很大影響。 天正三年(1575年),異父弟片倉景綱成為伊達政宗近侍;天正七年(1579年),政宗迎娶正室愛姬。 文祿三年(1594年),喜多與成為豐臣秀吉的人質的愛姬一同往京上洛,在伏見的伊達屋敷奉公。此時喜多已經超過50歲,在謁見豐臣秀吉後,秀吉愛惜喜多的才能而賞揚其為「少納言」(大概是將其比喻為日本才女清少納言)。 此後,喜多觸怒伊達政宗,被命令在國許蟄居(在逸話中,豐臣秀吉愛慕政宗的愛妾,逼迫將其獻上。政宗雖然不情願,但喜多為伊達家的存續,未得許可下,於政宗留守時獻上該女子,防止政宗為一名愛妾而遭秀吉憎恨;但政宗對喜多的獨斷感到憤怒,於是命喜多蟄居)。之後,一時籠居在片倉景綱為城代的佐沼城城外,接著移到亙理城城外, 慶長七年(1602年),片倉景綱被任命為白石城城主,一同移居白石城,於刈田郡藏本邑勝阪建喜多庵,在此度過餘生。 慶長十五年(1610年)7月,逝世,年七十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E5%96%9C%E5%A4%9A
相馬義胤 Soma Yoshitane(1548年-1635年) 永禄2年(1559年)、伊達稙宗(丸森城)が小高城へ来訪、自分の娘を義胤の嫁に薦める。翌年(1560年)、稙宗の末娘・越河御前と結婚した。永禄6年(1563年)、青田顕治と中村城代・草野直清の反乱鎮圧にて初陣する。同年の室町幕府の記録には全国五十三名の大名が「大名在国衆」として上げられ、奥州では伊達晴宗・蘆名盛氏が織田信長らと名をつらね、相馬盛胤・岩城重隆らは「関東衆」として記されていた。 永禄8年(1565年)、伊達稙宗が死去。伊達晴宗との間で稙宗の遺言をめぐり領土問題が起きる。この頃、家中では義胤の継母(実家は武石氏・亘理氏)の意見が多くなり、越河御前と離縁し、伊達家に帰したとされる。越河御前は離縁してからほどなくして死去したという(『戦国相馬三代記』森鎮雄著)。 義胤は父に付き従い各地を転戦。相馬家は亘理氏(亘理城)、蘆名氏(黒川城)、田村氏(三春城)との不戦関係を維持する一方で天文の乱以来の宿敵となる伊達氏(米沢城)と稙宗の隠居領を巡って伊具郡・亘理郡付近で争うことになる。 元亀4年(1573年)7月、織田信長が足利義昭を京より追放し室町幕府が崩壊。奥州探題・伊達晴宗の権威が弱体化した。 天正元年(1573年)、出羽国では最上氏当主の最上義守と長男の最上義光父子の間で争いが勃発(天正最上の乱)。 天正2年1月(1573年12月)、南陸奥では佐竹義重が白川義親(白河城)の弟・善七郎を内応させて浅川(石川郡浅川町)に挙兵させた。27日には須賀川勢(二階堂氏・須賀川城)が蘆名氏・田村氏と手切れしている。『伊達輝宗日記』正月二十日条には「会津より、田村より、須賀川むかって廿七日に手切候とて脚力参候」と記される(伊達文書『福島県史』)。このとき田村隆顕・清顕父子は二階堂領だけでなく、勢いに乗って蘆名領、白川領まで攻め入り、田村氏の最大版図を築いた。一方、佐竹義重は赤館(東白川郡棚倉町) 他10城程を攻めとり、一旦は白川義親を本城に孤立させたが(宇都宮文書『福島県史7』)、蘆名勢の加勢によって追い払われた(会津四家合考所収文書『福島県史7』)。 3月、蘆名盛氏は田村氏との和睦の調停を伊達輝宗に依頼するが容易に成立しない。3月23日には「会津・磐瀬ノ士卒」が田村領を攻め、二階堂氏が蘆名氏に服属した。 天正2年(1574年)4月、伊達実元・蘆名盛興が二本松義国・堀越宗範の八丁目城を攻略。 9月には田村隆顕が死去。同9月、再び赤館に押し寄せた佐竹勢を蘆名勢が撃退し、蘆名盛氏は白川義親と対面し、さらに那須資胤(烏山城)と面会して誓書を交わし、三家の同盟によって佐竹勢に対抗することをはかった(那須文書『会津若松史8』)。 10月、奥州管領の末裔・二本松畠山氏が伊達・蘆名方へ降伏した。 『東州雑記』は「(天正)三年(1574年)義重白川へ動(はたらき)、二月手ニ入、白川善七郎名代ニ立ル也」と記す。『奥羽永慶軍記』では白川義親は和田昭為の離反で敗れて佐竹義重に降参したとされる(年月日は記されず)。5月、蘆名氏は田村氏と戦い、蘆名家重臣の松本氏輔らが戦死(『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条。伊達文書『福島県史7』)。7月には二階堂盛義の実子・盛隆が蘆名家の人質から蘆名盛興の病死を経て蘆名家当主となっていた(『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条、『性山公治家記録』同年七月二十日条)。 相馬氏は伊具郡・亘理郡で伊達氏と一進一退の攻防を続けていた。 天正3年(1575年)6月下旬、名取郡で大敗を喫す。亘理元宗、橋を落とし相馬軍の退路を断つ。盛胤後室の実家である亘理氏の伊達側への離反が発覚。相馬父子、辛くも撤退に成功する(奥相茶和記)。 天正4年(1576年)春、義胤は桃生郡深谷(旧鳴瀬町)の小野城主長江盛景の娘を妻に迎えた。7月17日の矢野目(丸森町舘矢間と小斎の中間付近)・冥加山(冥護山・明護山)の戦いでは伊達輝宗と戦い大勝を挙げている(奥相茶和記)。 天正5年(1577年)7月、蘆名氏は田村氏とともに白河城を攻め落とした。佐竹氏が南方から北条氏政(小田原城)に攻められたのに乗じたものである(白河証古文書『会津若松史8』)。白川義親が再び白川家の実権を掌握した。次いで蘆名・田村は石川を攻め、石川昭光を「在城一ヶ所」に追いこんで石川領を制圧した(上杉輝虎公記所収浜崎文書『会津若松市8』・佐竹文書『福島県史7』)。 天正5年12月5日(1578年1月12日)には伊達晴宗が死去。 天正6年(1578年)1月、義胤は父の隠居により家督を継承。3月には関東管領の上杉謙信(春日山城)が死去し、御館の乱が勃発。同3月、義胤は二階堂家臣・須田大膳大夫の援軍を得た岩城氏と相馬領南方の松本権現堂(推定・双葉郡浪江町権現堂)で戦っている(藤葉栄衰記)。 4月、伊達輝宗が実弟石川昭光の苦境を救わんとして調停をはかるも蘆名、田村ともにこれを峻拒(松藩捜古所収文書『福島県史7』・大槻文書『郡山史8』)。6月には田村清顕が塩松領主小浜城の大内定綱と不和となり(首藤石川文書『福島県史7』)、8月以降抗争を繰り返すようになった(富田古文雑収所集文書『郡山市史8』)。蘆名・田村氏と石川氏の和睦は昭光の依頼を受けた白川義親が蘆名氏に接触して7月下旬に成立した(伊達文書『福島県史7』)。8月、白川義親と佐竹義重の和睦も成立した。その条件は赤館を白川方に、石川領を石川氏に返却すること、白川氏の名跡を義重次男が相続することなどとするものであった(早稲田大学白河文書『白河市史五』)。義重次男喝喰丸が義親の養子となって入嗣し、白川氏の佐竹氏への服属が確定することとなる。 蘆名盛氏は早くから佐竹氏との交友を策し、二階堂盛義には田村氏との連携は滅亡の途であると説いていた(初瀬川文書『福島県史7』)。 義胤は戦において引けを取ることはなかったが、天正8年(1580年)頃までには黒木中務宗俊(宗元)、堀内四郎宗和(晴胤)兄弟に背かれ、2人は輝宗の下に走った。2人の父である宇多郡黒木城主・藤田七郎晴近は義胤の母と同じ懸田一族である。天正7年(1579年)冬、輝宗が相馬と同盟していた三春城主・田村清顕の娘・愛姫を自身の嫡男・政宗の正室に迎え入れると田村氏の後援も得難くなった。 天正8年(1580年)2月には、蘆名盛隆・佐竹義重・白川義親が出陣して田村氏との合戦となった(金上文書『新潟県史資料編5』滝田為四郎文書『福島県史7』)。これは伊達氏に親近する田村氏と蘆名・佐竹連合軍の最初の合戦である。蘆名・佐竹連合軍には母が佐竹義重の妹であり、この頃二階堂盛義の娘を妻とした飯野平城の岩城常隆も加えられた。田村氏は北の塩松領主・大内氏との不和が続く中、西と南の勢力から同時に攻められることとなり、3月には田村清顕の弟重顕が二階堂勢を攻めて討ち取られている。6月、この田村氏劣勢の中、蘆名止々斎は死去した。 天正9年(1581年)3月半ば、伊達輝宗が信夫郡杉目城に出馬し、使者を持って田村と蘆名・二階堂・岩城の調停に乗り出した。輝宗は田村清顕から援軍の要請を受けている。4月1日、蘆名盛隆は佐竹義重へ御代田(郡山市田村町)を包囲したことを知らせ、輝宗からの使者は申し払ったことを伝えた(伊達文書『福島県史7』)。 4月10日、伊達勢が相馬の支城である新地(新地町谷地小屋、蓑首城)・駒ヶ嶺城(臥牛城)を攻略せんと坂本(山元町)に出陣する。相馬父子もまた大坪(相馬市)に出陣し対陣する。4月11日、伊具郡小斎城主・佐藤為信が離反(奥相茶話記・東奥中村記 他)。5月1日、伊達勢、小深田(新地町菅谷)に出陣。相馬父子、これを破る。5月上旬、伊達政宗初陣。7月13日、これより先に伊達父子金山・丸森を攻める。この日相馬父子、矢野目にて破られる。8月9日、伊達父子、再び小深田に出陣、相馬父子も大坪に出陣。谷地(新地町)に戦って伊達父子を破る。8月26日、二階堂盛義が死去。11月15日、相馬、伊達両軍伊具郡館山(丸森町)に戦う。同年、嫡男・虎王が生まれた。 天正10年(1582年)4月18日、田村氏と蘆名・佐竹氏との和睦が成る(伊達文書『福島県史7』『性山公治家記録』天正十年条)。 天正10年(1582年)6月2日、織田信長が死去(本能寺の変)。8月、伊達輝宗・政宗伊具郡金津より矢野目に出陣。義胤は小斉・金山の境の冥加山に出陣して対した。二本松義継(二本松城)と大内定綱(小浜城)は伊達勢を援けて参陣している(性山公治家記録)。 天正11年(1583年)1月、佐竹義重・岩城常隆・田村清顕使者をもって相馬・伊達の調停をはかる(奥相茶和記・東奥中村記)。2月6日、伊達輝宗・政宗父子と伊具郡丸森城・金山城で戦った(『性山公治家記録』『戦国時代の相馬』)。『相馬戦国三代記(原著・奥相茶和記)』は2月下旬、田村清顕自身が宇多郡中村城下の長徳寺に来訪し、百日ほど長徳寺に宿泊して「金山・丸森はもともと伊達領であるので、これを返して和睦されよ。」と種々の条件を示したので遂にこれに応じて、5月にまず丸森を返還し、翌天正12年(1584年)金山を返還して和睦したとしている。和議の成立の時期は天正11年(1583年)5月とする『奥相茶話記』(相馬史料)の記述と天正12年(1584年)年5月とする『性山公治家記録』(伊達史料)の記述で異なっている。 某年9月15日付け蘆名盛隆の「塩松境の者共、一両ヶ所心替わり候。之(これ)によって拠んどころ無く候間、来たる十八、風雨の嫌い無く出張」(原和様漢文)するとして、小川荘の小田切但波に黒川出馬を求めた書状がある(小田切氏文書『新潟県史資料編4』)。塩松に紛争が起こり、盛隆自身が領主大内定綱の支援に出陣することを述べたものであろう。 天正11年12月、蘆名盛隆は、大内家中の混乱を伊達氏が「助勢」して取り静めたことを、「盛隆の所へ御昵懇の筋目」(原和様漢文)として伊達氏に謝した(『片倉代々記』天正十一年十二月条所収文書)。大内定綱は窮境のなかで蘆名・伊達両氏に接近している(新編会津風土記所収文書『福島県史7』)。 某年4月5日、義胤は伊達政宗と金山に対陣しているが、『歴代古案』はこれを天正12年としている。蘆名盛隆は「田村表」を攻撃し(『歴代古案』)、宇田(相馬市)・金山(宮城県伊具郡丸森町)の間の通路に出陣して相馬氏を攻める伊達政宗に鉄砲隊・須江弾正左衛門の援軍を送った(『歴代古案』『会津若松市7』『戦国時代の相馬』)。田村清顕は相馬義胤と連携し、二本松義継の援軍を求めつつ、二階堂領小原田(郡山市小原田)を攻めた(安部文書『三春町史7』)。岩城常隆は伊達輝宗に書状を呈し、蘆名盛隆と相談して出馬したことを知らせ、「塩松の儀、御意見に及ばざれ候や。肝要(の至りに候カ)。年内太(大)内所へ別して御懇切の験(しるし)、この時に候」(原和様漢文)と伝えた(『大日本古文書伊達家文書』)。 『性山公治家記録』天正12年5月下旬条には田村清顕が「(前略)当春以来又宇多郡マテ出馬シ、逗留有テ様々御扱ヒ」を行ったものの、伊達輝宗が応じず、そのため清顕は佐竹義重・岩城常隆をも介入させて、ようやく和睦がなったことが記されている。 相馬氏は和睦の成立に伴い、伊達氏と協力して四本松(旧安達郡岩代町)の大内定綱を攻める密約を交わしたという(「奥相茶和記」小高町史・昭和50年12月)。 田村清顕は大内定綱を五度攻めるが、自身の出馬した天正12年(1584年)8月12日の五度目の戦には弟の田村友顕が討たれ敗北を喫した。9月13日、岩城常隆が田村方の小野城を攻め谷津作(田村郡小野町)に陣を構えると10月、義胤が岩城領に攻め入ったため岩城常隆は兵を引いている。 天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆死去。同月、伊達輝宗が隠居し、政宗が家督を継ぐ。 天正13年(1585年)、大内定綱が伊達氏からの離反を画策。まず相馬氏を頼りとして使いを走らせたが、義胤は大内が田村と不和であることを理由に断った(奥相茶和記)。4月、定綱は蘆名氏を頼って伊達氏から離反。5月、政宗、蘆名氏を攻め敗北する(関柴合戦)。6月14日、最上義光は岩城氏の家老三坂越前宛に書状を送り、岩城氏の会津後援を賛し、岩城氏が更に相馬氏と結んで伊達氏に対することを勧めた。 7月、羽柴秀吉が関白となり豊臣姓を名乗る。8月27日、田村勢が伊達政宗を援けて大内定綱の小手森城(二本松市針道)を攻める。9月、輝宗・政宗父子が大内定綱を攻めるべく安達郡宮森に在陣した。義胤は三春訪問の途次、政宗と小浜城・宮森城付近の陣所で初対面を果たしている。 10月8日、伊達輝宗が二本松義継に捕らわれて死去。14日には政宗の二本松攻めの援軍として田村清顕と共に三春城より出陣した。しかし、佐竹義重が二本松城救援のために北上してくると、義胤は他の南奥諸大名と共に佐竹方に付いた。11月17日の人取橋の戦いでは、蘆名・佐竹連合軍に加わり、約300騎で佐竹勢と二階堂勢との間に本陣を構え、東義久、岩城常隆らが伊達勢の高倉城を貫くと、佐竹義重・白川不説斎の本陣勢と共に政宗の本陣へ攻め上った。 天正14年(1586年)、二本松城を攻めあぐねていた伊達方は、老臣伊達実元を中心に政宗を説き伏せ、義胤に和議の斡旋を依頼。その結果、7月16日に二本松城は開城され、二本松国王丸・新城盛継らが会津へと退去した。実元の子・伊達成実は二本松城主となった。成実の正室・亘理御前は義胤から見れば妹の娘に当たる。10月9日に田村清顕が死去すると、田村家中では相馬・伊達のどちらにつくべきかで争いが生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していく。11月、蘆名盛隆の実子・亀王丸が死去した。 天正15年(1587年)3月、蘆名家臣金上盛備の斡旋で佐竹義重の実子・義広が白河結城家から出て、蘆名家へ養子に迎えられた。これに対して4月25日、政宗は相馬・岩城との同盟を強くすべく家臣国井新左衛門を三春に遣わし、岩城・相馬の両家の和睦を田村の家臣に取持つよう命じた。仲介役は田村起雲斎憲顕(田村義顕の次男)が務めた。5月18日、和睦が成立して相馬領と岩城領の国境である大菅原(富岡町)で義胤は岩城常隆と対面した(『貞山公治家記録』『奥相茶和記』)。 天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉が九州を征伐(九州征伐)。10月14日、最上義光の娘を妻にしていた鮎貝宗信が伊達家を離反。政宗に討伐される。この頃になると、佐竹は惣無事令によって、伊達と蘆名の和睦斡旋を命じられたために、自ら兵を公然と動かすことができなくなり、かえって政宗の軍事行動が容易になり、その勢力伸長を抑えられなくなった。同年、相馬氏も豊臣政権より奥羽惣無事を命ぜられている(『天正15(1587年)年極月3日富田左近将監書状。相馬家文書(原町市史)』)。 天正16年(1588年)2月、大崎家中の内紛に介入した政宗が敗北すると(大崎合戦)これを好機とみた蘆名義広は仙道を北上し、伊達領に攻め入った(郡山合戦)。4月18日、蘆名勢が伊達成実、大内定綱らによって退けられると、4月20日、政宗は相馬側へ離反した田村家臣石川弾正を討つべく安達郡築館(二本松市木幡)に出陣。義胤は月山(築山)城(二本松市戸沢)に入り弾正を支援した。5月11日、義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて、田村家中の伊達派を押さえ込もうと三春城入城をはかったが、伊達派の田村月斎らに銃撃されて江井胤治ら側近多数が討死し、命からがら船引城(田村市船引町)へ逃れた。5月15日、伊達政宗・片倉小十郎が大越城(田村市大越町上大越)を攻めたが、守備していた標葉郷大将の泉田雪斎・胤清父子らがこれを撃退した。5月16日、政宗は石川弾正と相馬義胤の兵を小手森(二本松市針道)に攻めた。義胤が船引から脱出し、石川弾正が月山城を捨てると、5月17日には石沢(田村市船引町石沢)・百目木(二本松市)の城も落とされたが、閏5月23日、亘理元宗父子が新地・駒ヶ嶺の間の大森へ出陣してくると義胤はこれを撃退した。6月20日、義胤は田村顕康(月斎の子)を田村郡宇都志城(田村市船引町上移)に攻めるが、鬼庭綱元が百目木より出陣し押し返され退却を余儀なくされた(貞山公治家記録)。同月、仙道方面での蘆名勢と伊達勢の戦いは膠着状態に入った。7月4日、義胤、常盤(田村市常葉町)を攻めた。7月16日、岩城氏の仲介で蘆名・佐竹氏と伊達氏は和睦した。結果、8月、田村家当主には伊達方の推す田村宗顕が即いた。 天正17年(1589年)正月2日、岩城常隆が田村領小野に侵攻、5日、田村梅雪斎(相馬派)の小野城(小野町)が落城。同じく4月20日、鹿俣城(田村市)が落城する。5月1日、伊達勢の桜田元親らが飯土居(相馬郡飯舘村)に攻め入る(『伊達文書』)。5月4日、伊達政宗によって安子ヶ島城が、次いで5日、高玉城が落城。同月、相馬・岩城・佐竹が連合して田村領を攻める。17日、義胤は岩城勢と共に常盤城(田村市常葉町)を攻め落とすが、19日には政宗によって駒ヶ嶺城、20日に新地(蓑首城)など宇多郡の拠点を奪い取られた。政宗は駒ヶ嶺に黒木宗元、新地に亘理重宗を配した(政宗記・東奥中村記)。27日、門沢城(田村市船引町)を岩城勢が、6月4日、大平城(郡山市大平町)を佐竹勢が落とした。しかし、猪苗代盛国が伊達方に寝返り、6月5日に蘆名義広が摺上原の戦いで政宗に敗れると蘆名氏は本城黒川城を失い常陸に逃れ、事実上の滅亡となった。南奥州での形勢が大きく変わった。連合勢は田村領に在陣。7月3日、岩城常隆が下枝城(郡山市中田町下枝)に進攻するも伊達勢の激しい抵抗にあい退却した。 7月4日、豊臣秀吉は上杉景勝、佐竹義重に政宗討伐を命じた。7月上旬、相馬父子は新地・駒ヶ嶺を奪還すべく岩城常隆の援兵とともに亘理重宗を攻めたが、重宗の奥方(義胤の妹)が間に入って陳謝したため一旦引きあげている(奥相茶話記・東奥中村記)。7月18日、相馬勢は合計600余騎、上下5,000余人で夜中に中村城を出発。亘理勢と坂本犀ノ鼻(山元町)で戦った(奥相茶話記・東奥中村記・貞山公治家記録)。しかし、連合勢は亘理氏の本城亘理城、田村氏の本城三春城を落とすことはなく、同7月には白川不説斎が伊達氏に服属。10月には友軍の二階堂氏の本城須賀川城が陥落して二階堂氏は滅亡した。11月4日には石川昭光が伊達氏に服属。11月27日には岩城常隆が伊達氏と和睦した。伊達氏は蘆名氏の版図(福島県の会津地方・中通り地方)を併呑し、相馬氏も一気に滅亡の危機に立たされることになる。 11月28日、豊臣政権による小田原征伐が決定し、石田三成より来月の上旬に出仕を求める書状が届く。12月20日、政宗は中島宗久あての書状の中で、来春の相馬攻めのことを告げた(伊達文書)。 天正18年(1590年)1月3日、これより先に義胤は中島宗久の仲介で伊達との和議を請うが、これは難航する(伊達文書)。同日、政宗は中島氏当ての書状を送り、相馬の様子を探らせた(伊達文書)。相馬は岩城と伊達の和睦を知り、単独で伊達への抵抗が難しいことを悟ったが、政宗の方略は北条と結んで佐竹を屈服させ、さらに秀吉に対抗するところにあった。1月20日、秀吉が政宗に書を送り小田原参陣を命じる。政宗応じず。 3月18日、弟の中村城代・相馬隆胤の兵が駒ヶ嶺を攻めて敗北している(奥相茶話記・東奥中村記)。 4月3日、豊臣秀吉が小田原を包囲。4月上旬、会津黒川城西館において伊達政宗毒殺未遂事件が起き、政宗、弟の小次郎を斬る(伊達治家記録)。4月23日、相馬盛胤・義胤父子は新地城を攻めて失敗した(奥相茶話記・東奥中村記)。 5月9日、政宗は黒川城を出発(政宗記)。5月14日、相馬隆胤が黒木宗元・亘理重宗の兵と塚部(相馬市)の小豆畑で戦い敗北。童生淵(相馬市)で討死した(奥相茶話記・東奥中村記・貞山公治家記録)。奥相茶話記によれば、この後、義胤は伊達家臣・中島宗求から降伏を勧められたが、討死を決意して「我と死生を同じくしようとする者は(相馬氏ら千葉一門の守護神である)妙見のご神前において神水を飲むべし。異儀を唱えるものは来るに及ばず。我は少しも恨みに思いはしない。」と言い、まさに最後の一戦を挑まんとしたという。この時一同が飲んだとされる御神水の井戸は、小高城跡に立つ小高神社の裏にある。作戦は伊達勢が攻めてきた場合を想定して立てられた。5月下旬、義胤は豊臣秀吉に謁見のため相模小田原に赴く(相馬藩御経済略記 他)。 6月5日、政宗は小田原に到着。秀吉から出羽・奥州の仕置を任された。片倉景綱は相馬氏について政宗留守中の戦闘(駒ヶ嶺城攻め)を言語道断とし、相馬討伐の許しを得ていた(天正十八年六月十四日 片倉景綱書状「原町市史中世編年史料」)。小田原より帰還した政宗は相馬攻めを計画した(天正十八年六月廿六日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。 7月5日、北条氏政が豊臣政権に降伏。7月7日、政宗は大里城(岩瀬郡天栄村)に拠る矢田野氏の抵抗が未だ収まらなかったため、そちらに全勢力を傾け相馬攻めを延期した(天正十八年七月七日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。7月26日、小田原征伐を終え奥州仕置に向かった豊臣秀吉は宇都宮に到着。義胤は三郡の本領を安堵された。葛西晴信・大崎義隆の両名は小田原に参陣しなかった事を理由に領地を没収された。8月9日、秀吉は黒川城に入り奥州仕置きを命令。政宗が滅ぼした蘆名氏の旧領へは蒲生氏郷が、大崎氏・葛西氏の旧領には木村吉清・清久父子が封ぜられた。10月初旬、葛西大崎一揆が勃発。12月7日、三郡検地の結果、相馬氏は宇多・行方・標葉3郡の内に48,000石の安堵となった(豊臣秀吉朱印宛行状)。 天正19年(1591年)、長女(岩城貞隆室)が生まれた。同年9月、伊達政宗が置賜郡米沢から玉造郡岩手沢へ移封されている。 文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役に従軍し名護屋の本宮へ在陣。文禄2年(1594年)、次男(左近及胤)出生。 文禄4年(1595年)2月7日、蒲生氏郷が死去。 慶長元年(1596年)8月、妻子と共に小高へ帰城。嫡男・虎王の元服に際しては石田三成から偏諱を受けて「三胤」と名付け、蘆名盛隆の次女(蘆名義広の養女)を三胤の正室に迎えた(江戸崎御前)。同年には、現在の南相馬市小高区村上海岸に面した丘陵に村上城を築き居城の移転を進めるが、火事により焼失したため、これを不吉として断念。次いで牛越城(南相馬市原町区牛越)を建築した。同年から日本列島で慶長大地震が起きている。 慶長2年(1597年)正月1日、秀吉、朝鮮再征を令す。5月、居城を小高城から北の牛越城に移す。この牛越城普請のとき重臣・泉胤政が出奔している。原因は公儀の下奉行と胤政の奉行とが喧嘩を起こしたのを胤政が私曲して伐したので、義胤が胤政を誅伐しようと出馬したためとされる。胤政は後に上杉家に仕えて慶長出羽合戦で活躍した逸話があり、さらに後の慶長7年(1602年)に相馬家に帰参しており、帰参の時期が相馬家の改易の時期と重なることから牛越城近くに海運拠点を欲した義胤が、もとは田村氏の一族であり中郷(行方郡新井田川流域)の大将格であった泉氏を障害として排除しようとしたのではないかという説がある。 慶長3年(1598年)3月、上杉景勝が越後から会津へ転封。7月、三胤上京する。 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉死去。慶長4年(1599年)8月、大阪より相馬領小高へ下向。三胤は大阪に留まる。 慶長5年(1600年)、相馬封境の警備を固めた。6月17日、政宗は大阪を経ち帰途に着く。義胤は政宗の相馬領通過と宿泊を承諾。7月、徳川家康が上杉景勝を攻めんとして会津征伐軍を挙げると石田三成が挙兵し、9月15日、関ヶ原の戦いが勃発した。時期不明であるが、同年、義胤に三男(越中尚胤)が出生。長女は岩城貞隆(佐竹義重の三男)の正室となっている(『相馬の歴史と民俗』)。 慶長6年(1601年)1月11日、伊達政宗が新たな居城として仙台城の城普請を始めている。1月20日、家臣水谷胤重の進言によって伊達勢とともに上杉景勝領の二本松に夜襲を仕掛けさせた(月夜畑の戦い)。なお、この年、義胤の親族に訃報が続いている。3月、弟・郷胤死去。5月、三胤室・江戸崎御前死去。10月、父・盛胤死去。 慶長7年(1602年)5月、佐竹義宣が現在の秋田県へ転封されると、佐竹氏の与力大名であった相馬氏も連座して改易された。義宣から1万石を与えると誘われたが丁重に断り、改易撤回の訴訟を求める長男相馬蜜胤(石田三成の偏諱の三胤から改名)を江戸へ向かわせた。この時、水谷胤重が記しておいた月夜畑の戦いにおける相馬方の戦死者名簿を提出し、加えて徳川家重臣本多正信のとりなしもあり、10月に改易は撤回され所領安堵となった。同年には徳川秀忠の養女を蜜胤の正室に迎えている。 慶長8年(1603年)再び小高城を居城とし、牛越城は廃城となる。 慶長17年(1612年)4月、義胤は家督を相馬利胤(三胤→蜜胤→土井利勝の偏諱から利胤と改名)に譲って小高城から泉田(浪江町北幾世橋)に隠居した。慶長19年(1614年)大坂冬の陣には利胤が出陣。翌年(1615年)の大阪夏の陣にも利胤が向かうが、その途中病気となり、急遽代わりに義胤が向かった。利胤が寛永2年(1625年)に病死すると、孫の2代藩主・虎之助の後見役となり、隠居した後も直接ではないが、藩政に深く関与していた。 寛永12年(1635年)11月16日没。享年88。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%83%A4_(%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
鬼庭綱元 Oniniwa Tsunamoto(1549年-1640年) 鬼庭良直的長子、母為牧野刑部之女、正室為新田景綱之女、側室為香の前,改姓茂庭,名為茂庭綱元。 天正三年(1575年),因為父親良直隱居而繼任家督,於是成為長井郡川井城城主。父親在天正十三年11月(1586年1月)的人取橋之戰中擔任殿軍並為了讓主君伊達政宗逃走而奮戰並被討死。在天正十四年(1586年)擔任奉行職。於天正十六年(1588年)成為安達郡百目木城城主,所領加增至5千石。 天正十八年(1590年),因為奧州仕置而令知行重新編排,此時成為柴田郡沼邊城城主。同年發生的葛西大崎一揆被發現是伊達政宗所煽動時,被派遣向豐臣秀吉辯解而前往京都,以後擔任秀吉的折衝役。 天正十九年(1591年),在伊達政宗被減封到岩出山時,成為磐井郡赤荻城城主。文祿元年(1592年)的文祿之役時在肥前國名護屋擔任留守居役。此時豐臣秀吉以「鬼在庭中的起源不好」為理由,令綱元改姓為茂庭。同年因為長男安元病死,於是召回送往八幡氏當養子的二男良綱並令其成為繼任人。 豐臣秀吉對綱元相當欣賞並給予一萬四千石的賞賜,沒有主公伊達政宗允許之下就私自接受的綱元引起政宗強烈不滿,在文祿四年(1595年)因為政宗的命令而把家督讓了良綱並被迫隱居。此時綱元得到的隱居費不過1百石,而得到隱居費以外的收入的條件是沒收良綱繼任的茂庭氏本領5千石,於是憤慨的綱元就從伊達家出奔。 此時經本多正信介紹而受到德川家康的引誘,但是因為伊達政宗的奉公構而作罷。同情綱元處境的家康把中白鳥毛槍、虎皮鞍覆、紫縮緬手綱送給綱元,並即場以關八州的傳馬10疋的朱印狀和永樂錢200貫文作為資金送給綱元。 終於在慶長二年(1597年)被赦免並回到伊達家。 在慶長五年(1600年)的關原之戰中,作為支援山形城主最上義光的援軍第一陣而接受留守政景的指揮。綱元被政景命令率領別動隊進攻長井方面,在9月25日攻陷刈田郡湯原城,更越過二井宿卡並攻向高町城,但是因為政宗突然以和屋代景賴等人以福島表兵力不足為理由而呼回,在10月6日參與進攻福島城。 同年末,隱居料被改為栗原郡文字1千1百石。在慶長六年(1601年)9月伊達政宗上洛之際,擔任開始普請的仙台城的留守居役,更就任父親良直在輝宗一代擔任的評定役(仙台藩評定役的職務權限在第2代藩主伊達忠宗一代被大幅縮小,變為多人制的奉行職的輔助機關,但是在輝宗、政宗兩代時期,評定役是一人制,在評定場所中比奉行眾高一級,評定役是很高級的職位。還有,政宗允許綱元直接使用機密文書專用的印章(『伊達政宗の手紙』佐藤憲一洋泉社2010)),擔任六人制奉行職(古田重直、鈴木元信、山岡重長、津田景康、奧山兼清、大條實賴)之上的指導和監督。翌年(1602年),政宗把豐臣秀吉下賜的愛妾香之前賜給綱元,政宗與香之前之間所生的一女一男(津多、又四郎)以綱元為養父。 慶長九年(1604年),伊達政宗的五男伊達宗綱(卯松丸)成為栗原郡岩崎城城主時,綱元以評定役之職身兼宗綱的後見役。宗綱被放在仙台城下綱元的屋敷中養育,在岩崎城下管理城池的綱元家來眾住在町場(茂庭町)。在慶長十九年(1614年)的大阪冬之陣中屬於政宗的長男伊達秀宗的陣中,翌年(1615年)2月,秀宗被賜予伊予國宇和島藩10萬石,綱元與良綱一同赴往宇和島並在宇和島藩的統治機構中工作,在同年4月的大阪夏之陣從宇和島城中出陣。 元和四年(1618年),伊達宗綱死去,為了憑弔宗綱的菩提而入道並以了庵高吽為法號,前往高野山成就院並進行三年供養。歸國後,拜領伊達政宗下賜的宮城郡下愛子的栗生的館,以後就居住這裡。在寬永十三年(1636年)5月24日政宗死去後遠離政務,把栗生的館讓給五郎八姬並在文字(之前的領地)中隱居。在翌年於同地興建洞泉院,在境內建立政宗的阿彌陀堂、宗綱的妙覺堂。 寬永十七年(1640年)5月24日死去,年九十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%BA%AD%E7%B6%B1%E5%85%83

Send this to a friend