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伊東祐兵 Ito Suketaka(1559年-1600年) 伊東義祐的三子、母為河崎氏、養父伊東義益、正室為伊東義益之女;幼名虎熊丸,通稱六郎五郎、六郎三郎,別名祐隆,戒名報恩寺心關宗安。 伊東家本是藤原南家武智麻呂後裔工藤氏的支流,到了父親義祐一代,以沃肥城為中心的伊東、島津兩家之間屢屢爆發戰事。永祿十一年(1568年),父親義祐跟肝付兼續聯手,奪下島津家的島津忠親所守的飫肥城,將飫肥南部收入掌中。之後伊東祐兵也從父親那裡得到沃肥城,被任命為飫肥城主。 元龜三年(1572年)五月,一向被譽為日向國第一的父親義祐在與島津軍的交戰中被島津義弘以吊野伏戰法擊潰,不但是在三千對三百的優勢下慘敗,死傷八成,超過兩千人,連猛將伊東新次郎、柚木崎丹後守、比田木玄、米良重方也一一戰死。這場史稱木崎原合戰的戰役,讓原本誇稱「三州之主」的伊東家走上衰退一途。然而引起伊東家總崩潰的則是木崎原合戰之後島津氏的寢返。 在重臣米良重方戰死後,領地由其弟矩重繼承,但是父親義祐的從兄弟歸雲齋卻趁此時奪取了米良氏的封地。毫無理由地被奪取家傳領地的矩重十分憤怒,於是索性接受島津氏的懷柔政策以須木城的條件帶槍投降。米良氏的逆刃導致伊東家臣的連續背叛,在被島津軍逼近居城都於郡城時,伊東氏在義祐帶領下全體逃亡豐後大友家。 雖然大友宗麟庇護伊東一族,並且答應父親義祐替他收復舊領,卻被島津再度大敗,戰亂之中祐兵帶著父親逃亡,沒想到宗麟卻不懷好意,企圖謀殺義祐、祐兵,奪取祐兵的夫人嫁給自己的孫子能乘。結果此事被祐兵查知,祐兵心知大友家是不能再待,祐兵密令心腹川崎祐長將夫人從臼杵城救出,再與義祐、祐兵父子會合,帶領家臣眾一同逃出豐後到四國伊予,投入有姻親關係的河野通直麾下成為寄騎,生活陷入極度的貧困。儘管命運並不順遂,但是伊東祐兵沒有因此喪志,放棄伊東家再興的夢想,脫離河野家移居界鎮後,伊東祐兵親眼見到雄霸中央十五國的織田信長的實力,將本家再興的夢想賭在信長的身上,多番奔走後伊東祐兵終於出仕織田家,同時極力接近負責攻打西方的秀吉,帶著三十名家臣親自跑到姬路城要求從屬。 天正十年(1582年),在秀吉水攻高松城之際,信長死於本能寺的情報從茶匠長谷川宗仁處傳來,秀吉當機立斷以高松城主清水宗治一人切腹的條件欲與毛利家談和,但在這番緊迫的局面中派遣使者和毛利方交涉,隨時都有被揭穿信長已故的消息之危機,最後經黑田孝高的推舉後久經風霜的伊東祐兵受命擔任使者,與小早川隆景會面商洽,順利談妥和睦的條件。 清水宗治切腹後,秀吉以令人詫異的快速迴轉近畿和明智光秀展開山崎合戰,連同川崎祐長、川崎權助父子討取了多名敵將的首級,戰後因功獲得秀吉所賜予的有金房兵衛尉政次銘文的「ろヘゑベ龍之槍」,隨後翌年又因為在賤岳之戰中所立之功拜領了河內半田五百石知行領。 在大友宗麟的請求下,秀吉發起九州討伐,這場戰役使伊東祐兵本家再興的夢想得到實現的機會,但是萬萬讓伊東祐兵意想不到的就是幫助他完成這個夢想的居然是當年引起「伊東崩」的米良矩重,在伊東祐兵隨黑田如水(黑田孝高)的軍勢進入九州時,米良矩重立刻脫離島津家,請求重返伊東家,聲稱「不願日日揹負反逆者汙名」,並且願意在祐兵面前切腹以獲得原諒。伊東祐兵既感又驚地原諒了米良矩重,以五十石的知行重新錄用矩重,矩重淚流滿面,同時發誓道「在祐兵死後一定切腹相隨」,並向祐兵提供島津家的兵力分佈情報。 瞭解地形又得知島津軍情形的伊東祐兵被擔任總指揮的秀吉之弟羽柴秀長起用為日向路先導役,戰後由於立下功勞先轉封至曾井城,領曾井、臼杵、宮崎、清武、諸縣等郡,之後因為秀吉的體諒於隔年八月歸還舊領沃肥城及飫肥、田野的領地,幾經多年的辛苦伊東祐兵終於回到了家鄉,得到三萬六千石的領地。同時當年因逃亡伊予而失去聯繫留在大友家的猛將山田匡德,也在祐兵被秀吉轉封回到沃肥後,向大友宗麟要求歸參伊東家,甚至拒絕了大友家的家寶,宗麟用來挽留他的名物色威腹卷堅持回到伊東家,祐兵感其忠義,破格引為重臣。 之後參加秀吉的朝鮮出征時歸屬在毛利軍配下在連川城、朔寧、古毛宇城等的戰鬥中奮戰,並在南原城攻擊戰中立下大功,但就在此時伊東家卻出現了謀亂的危機,家臣中出現擁立祐兵姪兒伊東義賢成為家督的動作,其中甚至有長年跟隨祐兵一路捱過來的酒谷城主川崎祐長、川崎權助父子。 伊東義賢是祐兵兄長義益的長男,祐兵之妻的弟弟。當年祐兵在擔任家督的義益因急病逝世後,便是由年幼的義賢繼為當主,祖父義祐輔政,伊東崩之後與義祐、祐兵一起流落豐後。祐兵逃往伊予後受到大友宗麟的庇護,曾接受基督教的洗禮。在祐兵被秀吉轉封回沃肥時,與弟弟祐勝一起歸參。義賢非常有學問,有很高的教養,當時做為與朝鮮交涉的通譯,被小西行長委以重用。 因此川崎祐長、川崎權助等對伊東家忠心耿耿的舊臣會有擁立正宗繼承人伊東義賢的舉動並不意外,但是他們都忽略了祐兵的不滿與手段。要歷盡艱辛才恢復領地的伊東祐兵平白交出家督的尊位,實在是不可能,所以縱然祐兵當時人在朝鮮仍迅速反撲,趁義賢自朝鮮歸國途中,行經對馬時於船中將他毒死。而川崎權助也在義賢被祐兵毒殺後,自己感到無法心安而自殺。 關原合戰時,伊東祐兵參加了德川家康發起的對上杉景勝之討伐戰,之後受到西軍的重利誘惑加入,不過當時人在大阪城的伊東祐兵卻深受重病之苦,所以由家臣代理進攻叛投東軍的京極高次的大津城,重臣山田匡德在大津城與伊東與兵衛、平賀喜左右衛門等三十人揹負伊東家的家紋,壯烈討死。而在其子伊東祐慶歸國後,祐慶另外又接受了往日父親同僚黑田孝高的勸誘被寢返至東軍,使伊東家成為日向國內唯一的東軍勢力,見到形勢對伊東家並非完全有利,由家老清武城主稻津重政協助祐慶攻奪西軍勢力佐土原城,後又成功攻下高橋元種的宮崎城,戰後得到佐土原城,石高總達五萬七千石,但因為那時高橋元種其實已經受到了東軍的策反,因此在無奈下被要求罷免稻津重政並處以切腹處分。 關原合戰結束同時伊東祐兵也已經病故於大阪城,年四十二歲。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&parent=1162&sn=744&lorder=1&ptitle=%E6%97%A5%E5%90%91%E2%80%A7%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%AE%B6
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
垣見一直 Kakimi Kazunao(生年不詳-1600年) 近江国の戦国大名だった浅井長政の旧臣・垣見氏の一族ではないかという説があるが、出自不明。通称は弥五郎、和泉守。諱は家純、あるいは家紀とも言い、筧氏と称するものもある。 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで大垣城普請を検知した。天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍し、7月の奥州仕置では秀吉が会津に赴いた際の道路奉行を務めた。 また文禄2年(1593年)に大友義統が改易されると、文禄3年(1594年)に秀吉より豊後富来に2万石を与えられて大名となった。 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、まず11月に慰問使として、次いで慶長2年(1597年)には秀吉の意を受けた軍目付7人の一人として二度渡海した。 慶長3年(1598年)に起きた第一次蔚山の戦いでは、籠城して苦戦した加藤清正を救援した武将達が協議して、戦闘後に戦線縮小論を秀吉に上申したが、逆にこれが叱責を受け、武将では黒田長政、蜂須賀家政、軍目付では早川長政、竹中隆重、毛利高政らが不興を買った。その一方で、秀吉の指示に忠実に従うように主張した軍目付の一直、福原長堯、熊谷直盛らは賞賛されたが、これが武断派諸将にとっては誣告を受けたような恰好になったので、後の感情的な対立に繋がった。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して大垣城を守備していたが、9月15日に行なわれた関ヶ原本戦で西軍が敗れると、共に守備をしていた相良頼房が家老・犬童頼兄の策に従って東軍に寝返り、すでに東軍に内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、9月17日に熊谷直盛、木村由信・木村豊統父子らを謀殺したが、この時に一直も討たれた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%A3%E8%A6%8B%E4%B8%80%E7%9B%B4
毛利秀包 Mori Hidekane(1567年-1601年) 毛利元就的九子、母為乃美隆興之女.乃美大方、養父為大田英綱、小早川隆景,正室為大友宗麟之女.桂姬;幼名才菊丸,最終復姓毛利,名為毛利秀包。 元龜二年(1571年)1月,元就將5歲的才菊丸送往備後國國人眾戶阪家為養子繼承,5月,備後國另一國人眾大田英綱無嗣死去,在其遺臣平對馬守和渡邊河內守數度對元就的懇願下,才菊丸轉為繼承大田家成為當主,元服後取名為大田元綱。 天正七年(1579年),秀包三兄小早川隆景雖以至50天命之年卻仍無子,在其家臣向毛利家當主毛利輝元請求後,秀包因此成為隆景的養子,改名為小早川元總。 天正十年(1582年),幾乎控制日本的織田信長死於本能寺的明智光秀叛變,當時正在攻略毛利家的織田家臣羽柴秀吉(豐臣秀吉)於備中高松城迅速與毛利家議和,並提出要毛利家交出吉川經言(吉川廣家)和秀包為人質,因此兩人被送往大阪,然而秀包不同於廣家,因其美少年的容貌姿態特別受到秀吉的寵愛,受到很好的待遇。 天正十二年(1584年)3月,17歲隨秀吉出戰德川家康於小牧.長久手,5月參加竹鼻城水攻,戰後,秀吉令養女(大友宗麟之女.桂姬)與秀包訂下婚約,並從自己的名字中選出「藤」和「秀」字賜給秀包,因此改名為藤四郎秀包。並於翌年1月受領河內國1萬石俸祿。 天正十三年(1585年)3月參加紀州雜賀征伐,6月參與四國征伐,並作為小早川隆景的先鋒橫渡瀨戶內海進攻高尾城。隨後於7月進攻金子元春(金子元宅之弟)所處的伊予國金子城,在包圍之時奮勇與敵軍戰鬥,並擊退敵方援軍,攻落城池,此戰戰況慘烈俗稱「天正之陣」。四國征伐結束之後因功受領伊予國宇和郡大津城3萬5千石。 天正十四年(1586年)隨養父隆景參與九州征伐,期間和吉川元春、黑田孝高、黑田長政參與攻略小倉城、宇留津城,更在圍攻高橋元種的豐前國香春嶽城時,於隆景攻打北門引誘敵軍之際,秀包帶領家臣爬上石垣並與敵軍展開激烈的鐵砲戰,最後成功進入敵城並斬殺三名敵將,且裡應外合使自軍攻破城門遂攻陷香春嶽城。因此功績,毛利輝元賜給秀包「青江之御刀」、隆景也給秀包一把「備前兼光」太刀,更從秀吉處拜領「粟田口吉光」太刀。 天正十五年(1587年)7月,九州征伐結束後小早川隆景獲封築前國及築後國共30萬7千石,秀包從中獲領築後國三郡7萬5千石,並築起久留米城為居城,此時因秀吉之命改通稱為內記。 同年9月九州肥後國爆發國人一揆,於10月秀包擔任討伐軍的總大將極為活躍,率領築前國、築後國及肥前國的各大名包圍和仁親實、親範、親宗三兄弟的田中城,此戰秀包以二重之柵包圍城池,打算令其兵糧耗盡再行攻城,這期間在安國寺惠瓊的調略下,親實的妹婿邊春親行反叛,此時秀包和立花宗茂為主力奮勇攻進城中,歷經38天終於攻下敵城。 而秀包和立花宗茂兩人因此時互相欣賞而結為義兄弟,並一同於1589年受領侍從的官位且獲賜「豐臣氏羽柴姓」和「桐御紋」,秀包因此被人稱「羽柴久留米侍從」。 天正十六年(1588年)正式將之前訂下婚約的桂姬迎入築後久留米城,翌年嫡男毛利元鎮誕生。 文祿元年(1592年)秀包配屬於小早川隆景為出兵朝鮮的第六大隊之一,率領1千5百兵力出戰。於全羅道攻略之際,秀包於大鼓城之戰立下「一番旗」的戰功。 文祿二年(1593年)明軍於平壤大敗日軍小西行長,這時對比不戰而逃的大友義統,堅守城池的秀包受到眾人的讚嘆。隨後於1月26日參與中、日、韓三方的碧蹄館之戰,秀包作為日軍先鋒隊四號隊出戰,作戰期間遭到敵軍的奇襲,惡戰之時雖然秀包持槍衝鋒卻損失重臣橫山景義等八位家臣,自身甚至落馬但也奮力討殺敵將,並勉強的抵住攻勢會合隆景軍先陣的粟屋景雄、井上景貞兩隊,並在隆景的指揮下和同年的義兄弟立花宗茂以及宇喜多家名將戶川達安共同逼退明、朝鮮聯軍。秀包因此戰功獲得加增5萬5千石共13萬石領地俸祿並敘任築後守的官位。 同年5月底至6月,日軍約9-12萬兵力南攻晉州城,為第二次晉州城之戰。城中僅有金千鎰等七千兵力,然而城北方的星州一帶有明將劉鋌所率的明、朝鮮軍數萬來援,6月13日其麾下大將琳虎率約1萬明軍和3萬朝鮮軍前往晉州城為援軍。秀包和立花宗茂為此趕往星州迎擊,共四千兵力以疑兵引誘明軍追擊,在立花軍先擊破敵軍第一陣七千兵後,兩軍又合作縱橫於一萬七千兵的明軍第二陣中,遂使琳虎無心再戰而領兵撤退,紓解日軍於晉州攻城的壓力。同年9月2日,做為秀包先鋒的問註所統景、問註所正白兄弟於晉州城西南方二十里的河東郡攻略牧司城時遭遇明將劉鋌來援,兄弟與之奮戰激鬥仍不敵先後戰死損失數百人,立花宗茂為援救小早川軍而前往與劉鋌對戰,結果劉鋌戰敗回軍晉州城。 慶長二年(1597年)再征朝鮮,這時秀包鎮守竹島城,期間因患病而令家臣林包次代為出戰,維持小早川軍的士氣。同年10月,秀包和筑紫廣門守備星州的谷城,期間遭到明軍李如梅數千軍勢的猛烈進攻,就在城池快被敵軍攻陷之際,秀包與廣門帶領家臣脫出城池,並會合小早川秀秋派來的援軍山口正弘(山口宗永)、南部光顯,趁夜色昏暗從城外夾擊大敗敵軍,之後便向竹島城撤退。 慶長三年(1598年)因秀吉之死,日軍從朝鮮撤退回國。秀包在與立花宗茂乘船回國之時,遭到朝鮮敵船的阻擋,雙方皆以鐵砲互擊,此時秀包施展精湛的鐵砲術並以愛用的鐵砲「雨夜手拍子」射殺敵兵,最後和立花軍共同突破敵船安全回國。 慶長五年(1600年)在關原之戰參加西軍,於8月守備大阪城的玉造口御門。9月3日,近江國大津城主京極高次反叛西軍,領3千人籠城,西軍則以秀包的八兄末次元康(毛利元康)為總大將率1萬餘人前往攻略,然久攻不下,秀包和立花宗茂因此被毛利輝元和石田三成調往大津城,9月13日開始猛攻,即使秀包奮力抑制敵軍的攻勢並突進城內,但是戰事之激烈仍令秀包損失6名部將且有3名重臣負傷,然而在立花軍的奮勇進攻和安排至長等山的大砲轟擊下,京極高次終於9月15日開城投降,同日卻接到關原的西軍戰敗,秀包和宗茂遂放棄大津城撤退到大阪城。 到達大阪城的秀包和立花宗茂定下與東軍俱滅的決心,強烈要求毛利輝元於大阪城籠城抗戰,但是因輝元已經答應德川家康保全領地的勸降(事實上減封僅剩周防國及長門國)而拒絕抗戰。這時宗茂原本想和秀包回領地抗戰,但是秀包以自身畢竟為毛利一族,不得不為保全毛利本家為由不願對德川家再起抗爭,因此有一說法兩人為不互相因為家族的決定牽累對方於是在安藝蒲刈一地斷絕義兄弟的關係。 此時的九州在秀包和立花宗茂不在居城之際,於10月14日黑田孝高和鍋島直茂共3萬7千人攻擊秀包的居城久留米城,城中僅有宿老桂廣繁和白井景俊等家臣以及守備士兵5百餘人,據『黑田如水傳』所載,秀包於出戰前交代兩位宿老若聽聞西軍戰敗,久留米城遭東軍攻擊之際,必定要盡力死守,要是快被攻破之際,就殺秀包之妻與子並奮戰至死,然而對方若是黑田孝高的軍隊,由於兩家交情良好,秀包也認為如水是重情義之人,加上兩家都信仰基督教,特別吩咐絕不可與之對戰,務必開城,且可安心將秀包妻、子托其保護。 於是兩位宿老接受開城勸告交出城池,並交出秀包正室桂姬以及長男元鎮和一名女兒為黑田家人質,桂廣繁也交出四男黑壽丸為鍋島家人質。 此後秀包同宗茂被沒收領地除封大名,秀包這時於大德寺剃髮,法號「玄濟道叱」,之後隨毛利輝元乘船回國之時病倒。11月,秀包於長門國赤間關的宮本二郎處修養。 翌年(1601年)3月23日,病逝,年三十五歲。 秀包死前,或許是為避免「叛變的小早川」這種罵名,恢復毛利姓。其子毛利元鎮則在毛利輝元的庇護下領有長門國吉敷郡7千石,為吉敷毛利家之祖。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%8C%85
犬童頼兄 Indo Yorimori(1568年-1655年) 永禄11年(1568年)、肥後国南部の大名・相良氏の重臣である犬童頼安の子として誕生した。 はじめは延命院の稚児であったが、父頼安が島津氏との戦いで水俣城を守った際に寺を抜け出して共に籠城したことから、以後は武将として仕えた。 家老深水長智は頼兄の才覚を認めて、死去した嫡子の代わりに自らの後継にしようとしたが、竹下監物ら深水一族により慣例に背くと反対されたため、藩主相良頼房の許しを得て、甥で養子とした深水頼蔵を奉行とし、頼兄をその補佐役とするように主張した。しかし頼房は、頼蔵よりも才気のある頼兄をむしろ信頼して、2人を同格の奉行とすることにした。しかし、これが原因で両者は益々不仲となった。 頼兄は頼房の信頼を得て家老となり、天正20年(1592年)2月1日、相良姓を与えられ、相良兵部少輔頼兄を名乗った。同じく頼蔵にも相良姓が与えられたが、両人の不和は様々な支障を生じるようになっており、頼房もこれを憂慮し朝鮮出兵の際には両人に誓紙を書かせた。同年3月1日からは朝鮮出兵にも副軍師として頼房と頼蔵と共に渡海している。 文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物とその嫡子らの知行が、太閤検地により真先に召し上げられた際に、監物はこれを頼兄の計略と訝ったため深水一族600人は湯前城に籠城する事態が起きた。これは頼房の命で監物ら数名が切腹して沈静化したが、この頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立は明治を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていくわけである。朝鮮出兵から帰国した頼蔵は、暗殺を恐れて肥後の加藤清正を頼った。実父の織部ほか深水一族も相次いで佐敷に出奔したので、頼兄は家臣の流出を止めるべく一勝地に人をやって捕え、73名の深水一党を斬った。これには庇護者であった加藤家が怒り、豊臣秀吉の惣無事令が禁じる私闘であると訴え出た。しかし頼兄は巧みな弁舌で奉行の石田三成を納得させ、おとがめなしとなった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは相良氏は西軍につき、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、その後、大垣城にあるとき、9月15日の本戦で西軍が大敗したと知って、徳川家臣井伊直政と内通していた頼兄は、頼房に東軍に寝返るように進言し、同じく内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、西軍諸将を謀殺して、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。 しばらく後、徳川家の時代になったことで、関ヶ原の戦後交渉で恩があり、同じ兵部少輔であった井伊直政をはばかって頼兄は清兵衛尉と官位を改めた。 頼房の晩年は執務全般を頼兄が専断することを許し、すべてを取り仕切るようになっていた。頼房の死後は相良頼寛に仕えたが、まだ若い主君は、藩主を凌ぐ勢力となった清兵衛一派を嫌っては折り合いが悪かった。真偽のほどはわからないが、藩主が市房山詣での途上で頼兄の屋敷に挨拶にきた際に、藩主を暗殺しようとして失敗したという民話も伝えられている。 島原の乱の際は頼寛は参勤で江戸におり、頼兄の息子の相良頼安(内蔵助)と孫である相良頼章(喜兵次)が、藩主名代として出陣した。 寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と幕臣阿倍正之と渡辺図書助宗綱に相談した。阿部が大老土井利勝に報告したところ、土井は頼兄親子を江戸に呼び寄せて幕臣から訓戒させてはどうかと頼寛に内談したが、頼寛は清兵衛一派の報復を恐れてこれを承知せず、頼兄親子の横暴を長々と書状にしたためて報告した。これを受けて江戸幕府は公儀として対応することになり、頼兄は江戸に召された。この一大事に人吉藩は改易か取り潰しかと騒ぎになり、当時すでに73歳の頼兄は江戸に発った。箱根を越えると武器を取り上げられ、囚人同然の待遇となった。また出立は極秘であったが、国許では頼兄の養子(義子)である田代半兵衛(半兵衛の母の再嫁先が頼兄)が叛乱を起して、百数十人が死傷する騒ぎとなった。 8月11日、藩主頼寛は、家老頼兄が私曲13ヶ条の罪を犯したとしてこれを幕府に訴えた。結局、頼兄は津軽へ流刑に処されたが、徳川家康にも仕えた長年の功績もあって実際的には強制隠居・蟄居であり、頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住んだ。なお、現在の青森県弘前市相良町は頼兄の屋敷があったことに由来している。 明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。法名は天金本然大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84
福原長堯 Fukuhara Nagataka(生年不詳-1600年) 福原則高の子として生まれる。播磨福原氏は赤松氏の一族で、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に滅ぼされた福原則尚や福原助就の同族とされる。 はじめ豊臣秀吉に小姓頭として仕えた。天正15年(1587年)4月、島津攻めの根白坂の戦いにおいて、宮部継潤らと共に根白坂の砦を守り切る。10月には北野大茶湯の奉行を務める。文禄元年(1592年)、文禄の役には肥前国名護屋城後備衆の1人として二の丸を守備した。文禄2年(1593年)、豊臣家蔵入地の播磨国三木郡の代官を務める。 文禄3年(1594年)、伏見城の普請に従事し、その功により但馬国豊岡城2万石を領する(翌年に1万石加増)。高野山で豊臣秀次の自刃の際には、福島正則、池田秀氏とともに検死役を務める。 慶長2年(1597年)2月、豊後府内大分・速水・玖珠郡内12万石に加増転封。同年、豊臣姓を下賜された。また慶長の役では朝鮮に渡り軍目付を務め、小早川秀秋、黒田長政、早川長政など味方の軍令違反などを秀吉に厳しく報告したとされる。 秀吉死後、形見の国俊の太刀を賜り、豊臣秀頼の小姓頭の1人となった。慶長4年(1599年)、従兄弟関係であった石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められ、徳川家康ら五大老より府内領は没収されて臼杵6万石のみの領有となる。関ヶ原の戦いの際には西軍に属し、垣見一直、熊谷直盛、木村由信・木村豊統父子らとともに大垣城の守将を務めたが、西軍主力の敗北後、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りに遭い、一直らが殺害され城兵が離散したため進退に窮し、東軍の西尾光教の勧めで降伏。この際、石田三成から与えられていた名刀を東軍の水野勝成に奪われた。 大垣城の開城後、長堯は出家して道蘊と名乗り伊勢国朝熊山に蟄居する。水野勝成は徳川家康に長堯の助命を願いでるが、石田三成の縁者ということもあって許されず自刃させられた。一説には殺害されたともいわれている。 長堯の死後、2歳だった子供は乳母らにより因幡国に逃れ、次の代で備前国に移った。この家系は現在も存続している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A0%AF
稲津重政 Inazu Shigemasa(1574年-1602年) 日向国の大名伊東氏の家臣。通称は掃部助。清武城主。 若くして才能を見出され、当主伊東祐兵によって家老職に抜擢される。慶長3年(1598年)に清武城主に任じられ、朝鮮出兵にも参陣するなど重用された。 慶長5年(1600年)、石田三成と徳川家康の対立が激化すると、当時大坂にいた当主祐兵の命によって嫡男祐慶が飫肥に戻され、祐兵の工作によって、黒田孝高の軍使宮川某が飫肥に使わされた。重政はこの宮川某と相談し、関東お味方の証として、石田方の高橋元種の持城である宮崎城を攻略する計画を立てた。 10月1日、伊東勢の総大将として3千の兵を率いて宮崎城を攻撃した。守兵は城代権藤種盛の500であり、伊東勢の攻撃により落城した。この戦いをきっかけに伊東氏は島津氏と一時的な対立状態に陥り、重政は佐土原、穆佐(現高岡町)などを約50の小合戦を転戦しながら、宮崎城を守った。 しかし、宮崎城落城の時点で高橋元種は徳川方に恭順しており、本領安堵を約束されたため、宮崎城は高橋元種に返還されることになった。この事がきっかけとなって重政は次第に家中で孤立し、更に伊東祐兵が病死して祐慶に代替わりしたことも拍車をかけることとなる。行状も荒れ始め、藩主祐慶は詰問状を作って重政を罷免しようとするが、重政は聞き入れず、ついに切腹を命じられた。これを聞いた重政はわずかな手勢で清武城に籠城するが、飫肥藩兵に攻められ討死した(稲津の乱)。享年29。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%B4%A5%E9%87%8D%E6%94%BF
高橋元種 Takahashi Mototane(1571年-1614年) 元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生まれる。天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、日向国縣(延岡)に5万3,000石を与えられた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄の秋月種長と行動を共にして大垣城に籠城した。9月15日の本戦で西軍が敗れると水野勝成の勧めで東軍に内応した種長に従った。そして同じく籠城していた相良頼房を誘って、熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城中で殺害。23日には大垣城守将の福原長堯を降伏させ、徳川家康から所領を安堵された。その後、縣城築城などを行なって藩政の基礎を固めることに尽力している。 しかし慶長18年(1613年)、幕命により改易となった。表向きの理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・坂崎左衛門(水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。しかし、左衛門を匿ったのは信高に続き肥後の加藤清正、そして元種だったが、評定では清正は無罪になり、残り二人が有罪、清正だけが無罪となった理由が不明である(清正自身は、既に慶長16年(1611年)に死去している)。これらから、本当の改易の原因は、徳川政権草創期の大久保長安事件にあるといわれている。この事件で長安と縁戚になるかなりの人数の大名が厳しい粛清を受けたが、元種と富田信高も縁戚になることから改易になったとされている。 理由はともかく、元種の身柄は長男・左京と共に陸奥棚倉藩主立花宗茂にお預けの処分となった。後、慶長18年(1613年)12月 - 同19年(1614年)7月の間、縣藩は幕府預かりとなり、幕府上使の豊後臼杵藩稲葉氏と肥前人吉藩相良氏の管理下に置かれた。 慶長19年(1614年)10月9日、棚倉で死去。享年44。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%85%83%E7%A8%AE

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