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「信長之野望.創造 威力加強版」已發售,將逐漸更新網站內容。 ■ 12月11日 每日武將—德川家康 ■ 12月10日 每日武將—北條氏綱 ■ 12月09日 每日武將—朝倉宗滴 ■ 12月08日 每日武將—三好長慶 ■ 12月07日 每日武將—黑田孝高 ■ 12月06日 每日武將—織田信秀 ■ 12月05日 每日武將—長尾為景 ■ 12月04日 每日武將—陶晴賢 ■ 12月03日 每日武將—上杉景勝 ■ 12月02日 每日武將—瀧川一益 ■ 12月01日 每日武將—武田信虎 ■ 11月30日 每日武將—長野業正 ■ 11月29日 每日武將—大友宗麟 ■ 11月28日 每日武將—島津忠良 ■ 11月27日 每日武將—黑田長政 ■ 11月26日 每日武將—石田三成 ■ 11月25日 每日武將—宇喜多秀家 ■ 11月24日 每日武將—細川忠興 ■ 11月23日 每日武將—長宗我部信親 ■ 11月22日 每日武將—小西行長 ■ 11月21日 每日武將—龍造寺隆信 ■ 11月20日 每日武將—福島正則 ■ 11月19日 每日武將—伊達晴宗 ■ 11月18日 每日武將—後藤基次 ■ 11月17日 每日武將—島津豐久 ■ 11月16日 每日武將—本多正信 ■ 11月15日 每日武將—長宗我部盛親 ■ 11月14日 每日武將—仙石秀久 ■ 11月13日 宣傳影片第2弾、售前每日武將 ■ 11月07日 Fami通雜誌大圖 ■ 11月06日 新要素「會戰編」影片&姬武將、 系統強化調略、Fami通雜誌圖片 ■ 11月02日 ファミ通.com採訪小笠原 ■ 10月30日 新要素「外交編」介紹影片 ■ 10月23日 新要素「軍團編」介紹影片 ■ 10月17日 新要素「内政編」介紹影片 ■ 10月05日 Fami通雜誌圖 ■ 10月04日 4gamer.net 720P圖片分享 ■ 10月02日 官方網、fami通情報彙集 ■ 09月26日 樂天市場預購遊戲內容消息 ■ 09月22日 東京電玩展宣傳影片放出 ■ PC/PS3/PS4平台同時12月11日發售預定。
No.001 No.002 No.003 No.004 No.005 No.006 No.007 No.008 No.009 No.010 No.011 No.012 No.013 No.014 No.015 No.016 No.017 No.018 No.019 No.020 ...
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八木豊信、山田重直、行松正盛、尼子清久、尼子久幸、赤穴久清、赤穴光清、牛尾幸清、亀井秀綱、別所重棟、別所吉治、宇野政頼、赤松村秀、井上之房、栗山利安、黒田一成、後藤勝国、後藤元政、原田忠長、原田貞佐、三浦貞久、三浦貞盛、金田弘久、中村則治、牧良長、宇喜多興家、伊賀久隆、遠藤俊通
里見伏、犬塚信乃、犬川荘助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角、卜部季武、碓井貞光、坂田金時、渡辺綱、源頼光、源義経、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就、黑田孝高、石田三成、後藤基次、長宗我部盛親、明石全登、真田信幸、德川家康、藤堂高虎、立花宗茂、大谷吉繼、黑田孝高
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
堀尾忠氏 Horio Tadauji(1578年-1604年) 父:堀尾吉晴、母:津田氏、正室:前田玄以の娘・長松院;幼名弥助,受徳川秀忠偏諱「忠」字,名為忠氏,戒名忠光寺殿前雲州太字天軸球大居士。 天正6年(1578年)、当時は織田信長の家臣で後に豊臣家三中老となる堀尾吉晴の次男(異説として長男とも)として生まれる。兄・金助(金助は吉晴の弟の子で養子との説もある)が天正18年(1590年)に小田原征伐の陣中で亡くなったことから、吉晴の世子となる。 元服に際しては徳川秀忠から偏諱を受けて忠氏と名乗った。類似の例に前田利家から偏諱を受けた南部利直、増田長盛から偏諱を受けた長宗我部盛親のケースがあり、大老・奉行の下に大名が統制されていた傍証となっている。慶長4年(1599年)、父の隠居に伴い、遠江浜松12万石を相続する。ただし、中老職を継承したかどうかは不明である。父は隠居料5万石を徳川家康から与えられており、またこの時点ですでに三中老制は有名無実化されていたことから、恐らくは相続していなかったものと思われる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康方の東軍に与して山内一豊と城提供の策を謀議し、また戦前に加賀井重望による殺傷事件に遭遇して負傷した父に代わって、東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立てる。本戦にも参加したが、こちらでは長宗我部盛親の出撃を牽制したのみで武功を挙げていない。戦後、前哨戦における武功を徳川家康から賞されて、出雲松江24万石に加増転封された。 ちなみに父・吉晴の隠居料は忠氏の加増転封に伴い収公されている。その後は父と共に協力して藩政を行なった。 慶長5年(1600年)11月に堀尾家は出雲に入国する。忠氏は月山富田城を居城としたが、この城が山に囲まれて地理的に偏った場所にあり、水上交通には不便である事や城下町を広く建設できない事などから、慶長8年(1603年)に江戸幕府から新城建設の許可を得て、城地の選定に乗り出した。 この城地選定に関して吉晴と忠氏の意見は異なっており、吉晴が荒隈山を、忠氏が亀田山(末次城跡)を述べるなど意見の対立があったようである。忠氏は吉晴が推す場所は余りに広大すぎて維持費がかかり過ぎ、24万石の身代では困難であるとして反対した。この選定で父子の意見は一致しないままだったという。 また忠氏は慶長6年(1601年)に家臣の知行割や寺社への寄進を行ない、慶長7年(1602年)からは藩内の検地に着手した。この検地は寛永6年(1629年)まで段階的に行なわれたが、前領主の毛利家が1反を360歩にしていたのに対して忠氏は1反を300歩に改めるなど、この検地はかなり厳しかったと伝わっている(『出雲大社文書』)。 慶長9年(1604年)、忠氏は城地選定のため、島根郡や意宇郡の調査をしていた。7月下旬、意宇郡の大庭大宮(神魂神社)に参拝したが、この時に神主を呼び出して「当社には小成池があると聞いた。見物したい」と伝えたが、神主は禁足地であるとして断った。しかし忠氏は国主として見なければならないと主張し、神主は案内人を連れて忠氏を池の近くまで行き、そこからは忠氏が1人で行った。そして帰って来た時に忠氏は顔色が紫色になっており、富田城に帰ってから自らの行為に後悔し、程なく病床について、8月4日に吉晴に先立って病死した。享年27。跡を子の忠晴が継いだが、幼少のため吉晴が実際の藩主として統治に当たった。 病弱でもなく急死する理由は見当たらず、本当に病死かどうかは謎である。一説にはニホンマムシにかまれたためともいう。藩主としては松江城の城地を選定するという治績を残している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B0%BE%E5%BF%A0%E6%B0%8F
妻木熙子 Tsumaki Hiroko(生年不詳-1576年) 明智光秀の正室。子については俗説が多くあり、もうけたとされる3男4女の内、母は別であるという異説があるものを含むが、それぞれ長女が明智光春(秀満)の室、次女が明智光忠の室、三女・珠(細川ガラシャ)が細川忠興の室、四女が織田信澄の室となり、嫡男の十兵衛光慶(千代寿丸)、次男の十次郎光泰、三男に乙寿丸がいたという。 生年不詳ながら、一説に享禄3年(1530年)頃、長女として生まれたといわれる。『細川家譜』や『美濃国諸旧記』などによると父は妻木範熙(勘解由左衛門)、もしくは『妻木系図』によると妻木広忠で、両者には同一人物説もある。『明智軍記』によると名は煕子で、『絵本太功記』では照子の名で登場するが、これは誤記であろう。 天文14年(1545年)頃、明智光秀と婚約。逸話は後世の創作ともいわれるが、婚約後しばらくして煕子は疱瘡にかかり、美しかった顔に痘痕が残ってしまった。妻木氏にとって潰したくない縁談だったので、父・範煕は煕子と瓜二つの妹(芳子)に姉の身代わりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。 その後、光秀は長良川の戦いで斎藤道三に与したため、その跡を継いだ斎藤義龍に攻められ、本拠を失い浪人。 困窮する生活の中、連歌会を催すもお金がなかった時に、煕子は自分の黒髪を売ってそのお金で席を設けて、光秀を助けたという。光秀はこれに感謝して、煕子存命中は側室を置かずに大切にしたという逸話は有名であるが、側室はいたという説もある。 天正4年11月7日(1576年11月27日)または6月7日(7月6日)に死去。享年は、46または36、42とも言う。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E6%9C%A8%E7%85%95%E5%AD%90
山内一豊 Yamauchi Kazutoyo(1545年-1605年) 岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)の黒田城、もしくは岩倉(現在の愛知県岩倉市)に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、後に信賢)の配下で、父の盛豊は家老として仕えていた。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立する。弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に岩倉城が落城した際、父の盛豊は討死もしくは自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。 一豊は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)をはじめ、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕える。景隆が織田信長に逆らって出奔したことから、永禄11年(1568年)頃から信長の配下に入り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の下で家人となったと考えられるが、秀吉への仕官を天正2年頃とする説もある。 元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いでは顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。この戦闘の際、一豊の頬に刺さったとされる矢は、矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられた。 なお、「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573年)の間であったと見られる。 天正4年(1576年)の竹生島奉加帳に「山内伊右衛門」と署名しており、この頃までには秀吉の直臣となっていたことが確認されている。 天正5年(1577年)には、播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2,000石を領した。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や因幡の鳥取城包囲・高松城水攻め(備中高松城の戦い)などに参加している。 天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談がある。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっている。 四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共にその宿老の1人として付けられて、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく秀次が近江八幡に転封すると、一豊も近江へ移り、長浜城主として2万石を領した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、秀次に従い山中城攻めにも参加した。織田信雄の改易に伴って再び秀次が尾張・伊勢で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠江国掛川に5万1,000石の所領を与えられた。この頃から大名としての行動が見られ、掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主中村一氏とともに行っている。朝鮮の役では、他の秀次配下の諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出した。 文禄4年(1595年)に秀次が謀反の疑いで処刑され、この頃に秀次の宿老であった前野長康と渡瀬繁詮はこの事件の責任を負わされて、秀次を弁護した繁詮は切腹を命じられ、長康は中村一氏に預かりとされて蟄居後、賜死とされた。しかし一豊や田中・中村・堀尾ら配下の大名衆は、秀吉の命令を遂行して秀次らを取り調べる立場となり、秀次の処断の後で逆に遺領から8,000石を加増されている。 秀吉の死後の慶長5年(1600年)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加した。家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われる。また大坂の妻からの密書で石田三成の挙兵の知らせを受けたという話も有名である。これらは話の信憑性には疑問があるものの、東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていた。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、豊臣恩顧の家臣衆の取り纏め役を果たしていたとは考えられる。 関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を、池田輝政や浅野幸長らと共に破った。本戦でこれらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当したが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家隊が南宮山に蓋をしていたためにさしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場へ移動した。戦後は小山会議での右顧左眄(うこさべん)していた諸侯を一挙に徳川加担に向かわせた発言が功績として高く評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。 慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり、余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要な役職を主に外来の家臣で固めたが、有益な長宗我部旧臣は懐柔して登用した。当時はまだ土佐領内に不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城の築城の際などには一豊と同装束六人衆を影武者として共に現地を視察したと言う。 高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行った。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わる。それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。 慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されて、従四位下土佐守に叙任された。 慶長10年(1605年)、高知城にて病死した。享年60。法名は大通院殿心峯宗伝大居士。墓所は高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院。 現在、高知城には(右上の写真にある)一豊が騎馬姿で槍を持った姿の銅像が建てられている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A
卒都婆の月、しらしらとしらけたる夜の月かけに雪かきわけて梅の花折る 公任、孝子乃月 小野篁、源氏夕顔巻、信仰の三日月 幸盛、月宮迎 竹とり、朝野河晴雪月 孝女ちか子、山木館の月 景広、音羽山月 田村明神、弓取の数に入るさの身となれはおしまさりけり夏夜月 明石儀太夫、姥捨月、たか雄 君は今駒かたあたりほとゝきす、つきのかつら 呉剛、悟道の月、はかなしや波の下にも入ぬへし つきの都の人や見るとて 有子、竹生島月 経正、高倉月 長谷部信連、孤家月、三日月の頃より待し今宵哉 翁、貞観殿月 源経基、雪後の暁月 小林平八郎、姉嫁 奔月、稲葉山の月、世尊寺乃月 少将義孝、玉兎 孫悟空、桜さくすみたの川にこくふねもくれて関屋に月をこそ見れ 水木辰の助、月明林下美人来、月下乃斥候 斉藤利三、心観月 平友梅、北山月 豊原統秋、常よりそ曇もいとへ今宵そとおもふは月の光なりけり 玄以、王昌齢 西宮夜静百花香 欲捲珠簾春恨長 斜抱雲和深見月 朧々樹色隠照陽、破窓月、垣間見の月 かほよ、田毎ある中にもつらき辻君のかほさらしなや運の月かけ 一と勢、南海月、きぬたの月 夕霧、千代能かいたゝく桶の底ぬけてミつたまらねハ月もやとらす、賊巣乃月 小碓皇子、月のものくるひ 文ひろけ、煙中月、盆の月、鳶巣山暁月 戸田半平重之、から衣うつ音きけは月きよみまたねぬ人を空にしるかな 経信、名月や来て見よかしのひたい際 深見自休、五節の命婦、名月や畳の上に松の影 其角、読書の月 子路、たのしみは夕貌たなのゆふ涼 男はてゝら女はふたのして、都幾乃発明 宝蔵院、忍岡月 玉淵斎、豊臣秀次、花山寺の月、五条橋の月、都幾百姿、祇園まち、月夜釜 小鮒の源吾 島矢伴蔵、雨後の山月 時致、朧夜月 熊坂、上杉謙信、
松倉重政 Matsukura Shigemasa(1574年?-1630年) はじめは筒井順慶に仕えていたが、順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際しては、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢との戦いの功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封した。 元和4年(1618年)、一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始する。廃城となった原城、日野江城などから領民達に石材を運搬させ、数多くの人夫を動員して島原城を完成させた。禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。 この島原城の普請の際に功のあった千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。この松は今も防風林として千々石町に残っている。 さらに幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ねた。 南蛮貿易の利を得ていた重政は入部当初キリシタンを黙認していたが、江戸幕府のキリシタン弾圧政策に従って元和7年(1621年)になるとキリシタンの弾圧を開始。最初はゆるやかなものだったが、寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とすなど種々の拷問を行い、寛永4年(1627年)には雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長やポルトガル船長の記録に残っている。寛永6年(1629年)には長崎奉行・竹中重義に勧めて長崎中のキリシタンを雲仙に連行している。 さらに、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソンの攻略を幕府に申し出る。家光はじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどして遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課した。 出兵実施の矢先の寛永7年(1630年)に小浜温泉で急死した。享年57。あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺ともいわれ、宣教師たちは罪のないキリシタンたちを責め殺したために狂死したのだと噂した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E9%87%8D%E6%94%BF