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吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
少貳資元 Shoni Sukemoto(1491年-1536年) 少貳氏出身有眾多說法,一般認為少貳氏乃出自藤原氏秀鄉流武藤氏族;治承四年(1180年),源賴朝向平氏舉兵時,武藤資賴率軍參加平氏陣營,不過卻受到三浦氏的牽制,之後甚至被平家免除禦家人的資格,資賴遂憤而投靠源氏。受源賴朝提拔,資賴至大宰府擔任九州惣追捕使(鎮西奉行),資賴不但擔任九州鎮西奉行,又補任築前、豊前、肥前三國的守護職,接著又兼任大宰少貳。不久,武藤氏便把官職名大宰少貳中的少貳,當做自己的家名,改為少貳氏。 明應六年(1497年),大內義興以陶興房(陶晴賢之父)為總大將,率領大軍殺奔北九洲打算一舉討伐少貳一族。太宰府淪陷,兄長高經在逃往梶峰城的途中,遭追兵襲擊喪命,最終父親政資於梶峰城切腹自殺,大內氏才告退兵。 政資的末子資元獲得豐後大友氏和舊臣橫嶽氏支援下再次興起家名。資元以勢福寺城作為居城穩步而順利地恢復勢力,資元更成為肥前守護。而將軍家的意向也有意讓大內氏與少貳氏和睦。享祿元年(1528年),資元獲得松浦黨的支援進入太宰府。這件消息對大內氏在築前的勢力來講當然有著極大的影響。於是大內義隆在享祿三年(1530年)夏,命重臣杉興運興兵討伐資元。 進軍途中築紫尚門、橫嶽資貞、朝日賴貫等昔日少貳氏一族反而作為先鋒加入大內軍。而迎擊的少貳勢有著重臣馬場氏、江上氏,並且更有龍造寺家兼、小田政光等肥前的有力國人眾。兩軍在神埼郡的田手畷遭遇並展開一番激戰。這時龍造寺氏部下中有著「赤熊」稱號的鍋島清昌襲擊大內軍的側面,大內軍受到突如其來攻擊完全亂了陣腳終於敗走。 天文元年(1532年),不甘戰事失利的大內義隆再次派出少貳討伐軍,不過由於龍造寺家兼的活躍,少貳勢仍舊抵擋住大內軍的攻勢獲得勝利。也因為龍造寺一連串的活躍,龍造寺家兼成為少貳氏家中不可或缺的人物。 另一方面,不斷戰敗的大內義隆在天文四年(1535年)終於親自帶兵進攻肥前。大內氏當主親自帶領大軍來勢洶洶殺奔而來,資元也知道這次交鋒毫無勝算,於是採納龍造寺家兼的意見,主動開勢福寺城向大內氏投降。丟掉三根、神埼、佐賀郡等地的資元進入多久氏的梶峰城,其子少貳冬尚逃到小田氏的根據地蓮池城。 翌年,大內軍攻擊梶峰城,後藤氏、波多氏、草野氏等肥前國人眾陸續倒戈成為大內氏的友方,而最被資元所信賴的龍造寺家兼也決定按兵不動,採取旁觀的態度, 最終,資元於梶峰城切腹自殺,年四十六歲。 出處 http://ajax106.pixnet.net/blog/post/6766976-%E5%B0%91%E8%B2%B3%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E8%A8%98
尼子經久 Amago Tsunehisa(1458年-1541年) 尼子清定的長子、母為真木朝親之女、正室為吉川經基之女;幼名又四郎,受京極政經偏諱「經」字,名為經久,渾名十一州の太守、鬼神、雲州の狼。 文明六年(1474年),經久被送往京都,作為其主君京極政經的人質。滯留於京都期間,經久元服並拜領京極政經的偏諱「經」字,名為經久。經過五年的人質生活後,經久離開京都返回出雲。文明十年(1478年),父親清定隱退,由經久接任家督之位。 應仁之亂後,作為尼子氏主君的出雲、飛驒、隱岐、近江四國守護京極氏權力逐漸衰弱,經久則趁機發展勢力,侵佔京極氏在出雲國的寺社、土地。文明十四年(1482年),室町幕府要求出雲國繳納庄園段錢,而經久無視幕府的命令,私自下令扣押段錢並拒絕上繳。文明十六年(1484年),幕府下令剝奪經久出雲守護代的職務並且下達討伐令,三澤氏、三刀屋氏、朝山氏、廣田氏、櫻井氏、鹽冶氏、古志氏等國人紛紛響應,起兵圍攻經久的居城月山富田城。經久兵敗後遭流放,被迫投靠母家真木氏,京極政經任命出雲國人鹽冶掃部介為新出雲國守護代。 一心想奪回居城的經久秘密集結山中勝重、龜井安綱、真木上野介、河副常重等家臣,又聯絡忍者集團缽屋賀麻黨作為援助。文明十八年(1486年)元旦,缽屋眾的領袖缽屋彌之三郎率領外穿表演服裝、內藏甲胄兵刃的賀麻黨約70人,以千秋萬歲舞表演者的身份進入月山富田城。經久及其家臣56人則跟隨賀麻黨中混入城內,四處放火併夜襲守軍。月山富田城中一片混亂,城主鹽冶掃部介殺死妻子後自殺,經久通過夜襲成功地奪回居城。戰後經久將月山富田城的北方長屋賜予缽屋眾居住,缽屋眾又被稱為櫓下組,成為專門為尼子氏效力的忍者集團。 奪回月山富田城之後,經久開始著手平定出雲國內的國人眾,首當其衝的是驅逐經久時最為出力,實力最強的三澤為國。經久運用計謀,命重臣山中勝重進入三澤軍擔任臥底,取得三澤為國的信任。長享二年(1488年),山中勝重率領三澤軍的精銳進攻月山富田城,到達城下時勝重秘密向經久透露軍情,經久裡應外合擊敗三澤軍主力,三澤氏降服。此戰過後,三刀屋氏、赤穴氏等國人眾紛紛臣服於經久,出雲一國被平定。永正二年(1505年),在京極氏內亂中戰敗的京極政經出奔至出雲國,不久與經久達成和解。永正五年(1508年),京極政經託孤於經久,並將出雲守護一職讓與嫡孫吉童子丸後去世,吉童子丸此後事跡不明,經久實際成為出雲守護。 永正四年(1507年),室町幕府管領細川政元遭到暗殺,政元的三名養子細川澄之、細川澄元、細川高國展開混戰。次年,西國霸主大內義興向中國地方和北九州的大名、國人發出動員令,擁立前將軍足利義材和細川高國上洛。經久應大內義興之邀,參與上洛,參加永正八年(1511年)的船岡山之戰。經久的次子和三子也分別拜受細川高國和大內義興的偏諱,改名為尼子國久和鹽冶興久。但由於經久不滿大內義興微薄的賞賜,提前離開京都返回領國,支援反大內勢力。永正九年(1512年),經久支持備後國大場山城城主古志為信反叛大內家。永正十二年(1515年),應邀上洛的武田元繁返回領地後與大內義興養女離婚,轉而與經久弟弟尼子久幸的女兒結為姻親,隨後反叛大內氏。一時間大內領地狼煙四起,令大內義興十分頭痛。 永正十四年(1517年),山名氏聯合經久進攻石見國內大內氏城池。同年,經久聯合備中國人新見氏進攻三村氏。 永正十五年(1518年),經久分兵兩路,一路由弟弟尼子久幸率領,侵入伯耆國,攻打尾高城城主行松正盛、羽衣石城城主南條宗勝;另一路由嫡子尼子政久率領,圍攻反叛的出雲國磨石城城主櫻井宗的。尼子政久擅長吹笛,但卻因笛聲暴露目標,被櫻井守軍用箭射死。痛失愛子的經久親自率軍攻破磨石城並進行屠城,城主櫻井宗的自殺。經久隨後召開會議決定繼承人,經久想讓弟弟尼子久幸作為繼承人,但久幸卻建議由尼子政久的嫡子尼子詮久(尼子晴久)繼任,最後經久決定立晴久為繼承人。 永正十八年(1521年),石見國人吉見氏、益田氏倒向大內義興,經久應山名氏之邀出兵石見。同年,攻打今井城。次年,攻陷福屋氏的乙明城。大永三年(1523年),進攻那賀郡的波志浦,並向安藝國拓展勢力,安藝國人毛利氏背棄大內氏投靠經久。同年,尼子軍進攻安藝國的大內氏據點鏡山城,城主藏田房信和叔父藏田直信固守城池,久攻不下。毛利元就獻計分化鏡山城內部,以繼任藏田氏家督的條件策反藏田直信,城主藏田房信戰敗自盡,經久順利攻佔鏡山城。但戰後經久違背毛利元就的開出的條件,逼死藏田直信,使毛利元就對經久產生不信任感。 大永四年(1524年),經久大規模入侵伯耆國,陸續攻下米子城、澱江城、天萬城、尾高城、八橋城,隨後又攻下岩倉城、堤城、羽衣石城,南條宗勝戰敗出逃,伯耆守護山名澄之遭到驅逐,大批伯耆國人逃亡至因幡、但馬國,神社、寺廟都遭到破壞燒毀,史稱大永五月之崩壞。同年,為限制經久的擴張,大內義興與其子大內義隆、重臣陶興房率軍包圍經久盟友武田光和的居城佐東銀山城,經久動員安藝國人眾參戰,雙方交戰一月後撤軍,史稱佐東銀山城之戰。 鏡山城之戰後,年僅9歲的毛利氏當主毛利幸松丸病逝,毛利家推舉毛利興元之弟毛利元就繼任。但在尼子氏重臣龜井秀綱的指使下,毛利家臣桂廣澄、阪廣秀、渡邊勝等試圖謀反,準備擁立毛利元就之弟相合元綱繼位。在志道廣良等宿老的支持下,毛利元就平定叛亂,誅殺相合元綱。在陶興房的活動下,大永五年(1525年),繼任毛利氏家督的毛利元就背棄尼子氏,轉而投向大內氏,使安藝國內形勢向大內方偏移。 大永六年(1526年),山名氏聯合大內氏對經久進行包圍。次年,經久在備後國擊敗陶興房,原本從屬於大內氏的備後國人多數倒向尼子氏。 大永八年(1528年),大內義興去世,其子大內義隆繼任。此後四年中,尼子家與大內家多次在安藝、備後的山區中交戰,直到享祿五年(1532年),大內義隆為平定北九州的動亂而渡海,與大友義鑑、少貳資元的聯軍對峙。尼子氏反攻的時機到來,但是家中卻發生經久三子鹽冶興久的叛亂事件。 經久曾賜予三子鹽冶興久三千貫的領土,但是興久希望增加領地,於是通過龜井秀綱向經久提出增加大原郡七百貫領地的要求。但經久卻將備後國一千貫領地賞賜給興久,興久認為沒有得到想要的領地是由於秀綱進讒言的緣故,於是請求將秀綱交給自己處罰,卻遭到經久的拒絕。鹽冶興久於是聯合出雲大社、鱷淵寺、三澤氏、多賀氏、備後山內氏等勢力發動叛亂。在經久和晴久的攻擊下,鹽冶興久在佐陀城、末次城之戰中敗北,被迫逃亡甲山城投靠岳父山內直通。天文三年(1534年),鹽冶興久切腹身亡,其領地則由其子鹽冶清久和其兄尼子國久繼承。由於尼子國久勢力的擴大,為尼子晴久時期肅清新宮黨埋下伏筆。 同年,隱岐國人隱岐為清的叛亂也遭到鎮壓。尼子晴久成功入侵美作國,將尼子家的勢力向東擴展到備前國。 天文六年(1537年),在接連失去兩個兒子的打擊下,年邁的經久將家督之位讓給嫡孫尼子晴久後宣布隱居。同年,晴久攻佔屬於大內氏的石見銀山,擊敗播磨守護赤松政祐。但在天文九年(1540年)尼子氏與毛利氏、大內氏的吉田郡山城之戰中,晴久大敗,弟弟尼子久幸戰死,使尼子家的優勢喪失殆盡。 天文十年(1541年)11月30日,經久病逝於月山富田城,年八十四歳。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E7%B6%93%E4%B9%85
神代勝利 Kumashiro Katsutoshi(1511年-1565年) 神代宗元的次子,母親為陣內利世之女,別名新次郎。 神代氏其起源據說是神功皇後遠征新羅時,討平國內麝阪、忍熊二皇子謀反的神話人物武內宿禰,由神功皇後讚其戰功曰:「神の代わり」遂授以「神代」二字為姓氏,始稱神代氏。之後神代氏世代擔任築後高良山玉垂院的大宮司,在進入戰國時代後以築後川左岸的神代村建設居館逐步武士化。在勝利之父神代宗元擔任當主時,由於築後川位在筋的神代村乃是連結太宰府和築後的交通要衝,擁有「神代渡し」通行權的神代氏受到了周圍蒲池、草野、西牟田等築後的有力國人眾的覬覦,在他們的輪番侵略下,居中神代宗元無力抵抗,無奈下終放棄祖傳的領地移住肥前,迎娶了千葉氏支配下國人眾陣內大和守之女,定居肥前上佐賀千布村。 神代勝利自幼被當作人質送入東千葉家,由千葉興常扶養長大,在十四歲之前一直在進行武者修行,武名卓著。在從屬少貳家的背振山南麓的山內一帶培育勢力,並與當地的山伏勢力結合,因此於天文元年(1532年),山內也遭到龍造寺家攻打時在神埼郡三瀨城主野田宗利的請求下成為三瀨城城主,同時也宣告出仕北九州名門少貳家,由於少貳家份屬龍造寺家兼的主家,讓家兼不得不終止侵略的步伐。 天文三年(1534年)十月,大內義隆率領三萬大軍出兵肥前攻打少貳家,主公少貳資元不得不在龍造寺家兼的仲介下開城投降臣屬大內家,但是大內義隆仍於翌天文四年(1535年)命陶興房沒收了三根、神埼、佐賀三郡,由於龍造寺家兼的旁觀使少貳家頓失後援,少貳資元在梢峰城被逼自盡,其子冬尚有逃往築後依附小田資光,之後少貳冬尚還是依靠一族的馬場、筑紫兩家及龍造寺一門為主力,加上神代、江上等重臣一族才成功復歸勢福寺城。因為這次能回歸勢福寺城當屬龍造寺一門的功勞最大,所以冬尚任命家兼的二男龍造寺家門擔任執權、而江上元種、馬場賴周兩人補佐。神代勝利也迎娶了冬尚之弟、成為東千葉家當主喜胤婿養子入繼東千葉的千葉胤賴之女為妻,同時跟千葉家、少貳家結親提高家名。 在少貳家中龍造寺一門的勢力日益擴展,同時與少貳家的宿敵大內家相善,其功高震主之行徑引來了少貳冬尚的憂慮,尤其在天文十年(1541年)不甘繼續雌伏於大內家之壓迫的少貳冬尚於築前與大友義鎮聯合意圖聯手對抗大內家,所以在經過主要家臣馬場賴周、神代勝利及小田政光、千葉胤賴登人商討後決議討伐龍造寺一門,於天文十四年(1545年)聯合有馬氏攻下龍造寺家本城水江城,並殺害了家兼之子家純、家門,孫兒澄家。是役之中神代勝利也派遣家臣神代豐前守在神埼郡尾崎村伏擊意圖前往勢福寺城依附少貳冬尚的家兼之孫周家、家泰、賴純,將其殺害。同時神代勝利在戰後也聯合馬場賴周趁西千葉家的千葉胤連避往小城郡時扶岳父千葉胤賴入主晴氣城宣稱繼承了千葉家的正統。 討伐戰中唯一走漏的龍造寺家主家兼當時雖已九十二歲高齡,但仍奮力復仇,聯合鍋島清房及千葉胤連迅速反撲,討殺馬場賴周、政員父子重回水江城。年事已高的家兼在隔年辭世,由出家的家兼曾孫法師丸還俗,稱胤信繼位,並且在天文十七年(1548年)在宗家村中龍造寺重臣小河信安的協助下與村中龍造寺當主胤榮的遺孀成婚,入繼宗家並得到大內義隆的支援,得賜「隆」,改名隆信。 繼承了龍造寺氏的隆信延續著曾祖父家兼的餘恨,親近大內家與少貳家對抗,但是天文二十年(1551年)大內義隆為家臣陶隆房反叛殺害後,北九州頓時震動,失去後盾的龍造寺隆信也喪失在家中的權威,本為村中龍造寺重臣的土橋榮益因此藉口應擁立輩份較長的家門之子鑑兼為家督,在大友義鎮的支持下聯合東肥前十九將謀反將水江城包圍,同時少貳冬尚也以神代勝利為先鋒參加對龍造寺隆信的討伐,隆信不敵開城被流放築後,土橋榮益稱心地龍擁載造寺鑑兼成為新當主,身任家宰,而少貳家也趁機瓜分本屬於龍造寺家的佐嘉城,冬尚也就交由神代勝利、高木鑑房兩人鎮守,龍造寺隆信被迫投奔蒲池氏。 天文二十二年(1553年),龍造寺隆信在蒲池鑑盛、鍋島清久的協助下重回村中城,然後攻打水江城將土橋榮益流放,開始展開對肥前的征戰,將本來從屬少貳家的小田、筑紫、橫岳、犬塚、綾部一一擊敗逼其臣服,後於弘治元年(1555年)二月龍造寺隆信倡議和神代勝利進行休戰的和議,意圖藉和談之際誘殺勝利,勝利自然心知肚明但是藝高人膽大的他仍然準時赴約,宴會之中神代勝利的近臣馬場四郎左衛門識穿了隆信想毒殺勝利的陰謀並成功防範,酒宴半途神代勝利便出言告辭快速退出,由於怕自己的馬也被下毒於是索性盜走隆信的愛馬揚長而去。 知道原來自己的計謀全在勝利意料之中的龍造寺隆信在同年九月著手攻打神代勝利的領地,但是神代勝利以神出鬼沒的戰術飄忽轉戰於山內二十六山令隆信顧頭難顧尾大為困擾,如同被狼群圍攻的大熊一樣,任一頭狼都不是熊的對手,神代軍左攻右被襲、右進左出擊的戰法卻讓龍造寺軍這頭大熊不斷負傷流血,但是因為隆信的忍者偵察到神代勝利所在的準確情報,令勝利的戰術嚴重受挫,龍造寺隆信得知勝利身處谷川城後成功地集合大軍急襲,令神代勝利倉促間無法調集援軍而戰敗,逃入築前依賴高祖城主原田隆種。 神代勝利在原田隆種幫助下居於伊都郡長野,但仍不放棄探尋重奪舊領的機會,在弘治二年(1556年)暮冬時節仗著往年遊走山間的經驗在雪季行軍翻過群山,於翌三年正月結合山伏勢力對隆信配下的熊川代官館發起奇襲,重奪本城三瀨城。當神代勝利回到山內的消息一傳開後,神代勝利迅速集結了三千軍勢,各地城砦也在神代軍和早潛入當地的山伏眾裡應外合下一一奪回。 為了防備神代勝利的反攻龍造寺隆信連忙派遣勇將小河築後守信安出鎮春日山城擔綱對山內的防備工作,小河信安為了瓦解神代勝利的勢力,派出忍者圖謀暗殺勝利,但是當信安與忍者潛入神代勝利在千布城的居所時卻被一名侍女所發現並通報給勝利知道,不料勝利居然不以為意還敬酒給小河信安,讓他安然離去。之後神代勝利很快抓準小河信安遠赴佐賀時對春日山城發起猛攻,信安之弟左近大輔以下一族幾乎悉數討死,殘兵逃往佐賀通知小河信安如此慘況後,信安大為悲憤之下向龍造寺隆信借來援軍親任先鋒於弘治三年(1557年)十月出陣。小河信安的動向全被神代勝利透過忍者得知,勝利在小河信安率領的龍造寺軍一踏入神代領便將三千兵力一分為二,由自己和嫡子長良各率一路分進合擊,並且廣派斥侯偵察龍造寺軍的行軍路線,利用山路的崎嶇地形讓麾下的山伏利用洋槍及各種暗殺手段狙擊龍造寺軍將領石井兼清、中元寺新左衛門、副島左馬允、水町右馬助、江副新八郎、土橋彌七郎、犬塚七左衛門、久保九郎兵衛、大石四郎兵衛等人相繼刺殺。之後兩軍在春日山城北方的鐵布卡遭遇,神代勝利一馬當先,身先士卒採用一騎打的戰術憑藉過人武藝討取了小河信安使龍造寺軍的先鋒部隊崩潰於瞬間,使在後方中軍的總大將龍造寺隆信無奈退兵以保全實力。 在龍造寺隆信逐步擴大領地時少貳方的神代勝利及江上武種卻也始終擁護著少貳冬尚與之抵抗,使龍造寺隆信為始終無法完全少貳家併吞而頭痛不已。永祿元年(1558年)十一月,龍造寺隆信以少貳家的降將小田政光、本告義景、犬塚一族為先鋒率四千五百人向莞牟田口方向進軍,自己則坐守姊川城本陣指揮,得到龍造寺出兵消息的神代勝利和江上武種、千葉胤賴連忙組成援軍會於勢福寺城,在少貳家召開的軍議最後決定由神代勝利率領自軍三千人在城原川西岸布陣,另一路則由江上武種統率帶兩千兵馬進駐神埼村,兩軍合成犄角之勢互相呼應組織防衛網。 當時龍造寺軍也採分兵策略由小田政光、本告義景率三千人跟神代勝利交鋒,另外一千五百犬塚軍則轉往攻打江上武種。神代勝利面對小田政光、本告義景的攻擊,很快便利用地形展開反制將兩軍切開,使本來兵力旗鼓相當的局面變成神代勝利以優勢兵力壓制本告義景,一瞬之間便將本告軍攻潰並討取本告義景,讓小田政光陷入孤軍作戰的窘境頻頻向龍造寺隆信求援。然而坐鎮本陣的龍造寺隆信卻始終採取靜觀的態度任憑先鋒部隊陷入苦戰,龍造寺隆信是冷酷無情也是壯士斷腕,一來他對小田政光這幾個曾經死忠少貳家的降將本就有三分不信任、二來在先鋒崩潰之際任敗軍衝散己陣只會迎來更大的失敗,所以隆信乾脆不理不睬,待小田政光被神代勝利和江上武種圍殲討取後才下令出兵長者林。 討取了小田政光後神代勝利和江上武種緊接著又在長者林受到從姊川城出陣的龍造寺軍的攻擊,久戰疲勞的神代勝利突然接到龍造寺部將福地信重、納富信景攻打己方側翼的消息戰況立刻由新勝的上風漸落敗局,心知已無勝算的神代勝利為防遭到全殲隨即聯合江上武種殺出一條血路退回勢福寺城。龍造寺隆信隨後讓一族中的龍造寺家就及重臣納富信景率四千軍包圍勢福寺城,但是因為神代勝利、江上武種的堅守下龍造寺軍久攻不落,最後在年尾時由川上實相院的座主增純法印居中調解進行和議,龍造寺軍解圍歸城。翌永祿二年(1559年)正月,龍造寺隆信和少貳冬尚的和議達成還不到一季便被龍造寺隆信單方面打破,大軍再次壓境勢福寺城,讓少貳冬尚措手不及兵敗自盡,江上武種轉為依附大友宗麟。同時神代勝利的岳父千葉胤賴也被龍造寺隆信支持的千葉胤連攻敗於晴氣城戰死,胤賴的嫡男胤誠被神代勝利救出,由於胤誠無子於 是便收勝利長男神代長良為養子,將妙見太刀、妙見尊像、千葉系圖等家寶讓渡給神代長良。 永祿四年(1561年)九月,隆信遣使入山內向神代勝利送上挑戰書,約定在九月十三日於兩家邊境的川上進行決戰,神代勝利決意奮力一搏,動員領內所有士兵,軍力合計七千八百人,把本陣設於川上神社並且親自率領兩千兵馬鎮守。另外遣嫡子長良領三千名士兵防衛大手宮原口一線,在南大門布置次子種良統領一千三百名士兵防衛、三子周利則率一千五百名士兵布陣於嘉瀨川東都渡岐口。而龍造寺方隆信則是讓一族中的龍造寺信周領兩千兵力攻打東都渡岐口、南大門方面由兩千五百的納富信景部隊負責攻取,隆信自己本人親率三千五百主力軍在大手宮原口布陣。 九月十三日上午八時,兩軍在川上川流域一帶展開激戰,開戰之初神代長良迅速擊破龍造寺隆信軍的第一陣廣橋信了隊,但是卻被第二陣的福地信重所阻而形成一進一退的混戰,本來膠著的戰況因為神代軍的內部動亂而改變,一個早被龍造寺方收買的神代家臣掀叛暗殺了勝利三子神代周利,使神代家在東都渡岐口的防線崩潰,龍造寺信周得以趁虛而入和納富信景合擊攻破神代種良隊,將種良討取。龍造寺信周、納富信景的軍勢繞過東都渡岐口、南大門一線由後方攻向神代勝利在川上神社的本陣,同時前有龍造寺隆信的進逼,使神代軍陷入了無法挽救的劣勢,神代勝利已知力難回天於是和長良一同浴血殺出重圍先逃往澱姬神社,然後再將家族移往大村純忠的領地領波佐美一帶,但也因此連累澱姬神社遭受兵燹之禍社殿被焚燒,後世也將此事演入神樂之舞中。 神代勝利雖然被龍造寺隆信驅出山內,但是山內一帶地形崎嶇,暗藏著許多山伏勢力,而這些精通暗殺、忍術的山伏集團全都只聽命於神代勝利,因此儘管龍造寺隆信兵進山內並設立代官,卻都無法有效掌理當地,很快地就在隆信班師回到佐嘉城後四個月,神代勝利的舊臣便追放龍造寺家留下的代官重新迎神代父子回歸山內,神代勝利有鑑澱姬神社因己遭殃而進獻了七町五反田地為社產,並奉納太刀「國次」。 在少貳氏滅亡之後龍造寺隆信與大友宗麟之間的彼此征戰已近白熱化,為了解除後顧之憂龍造寺隆信聽從納富信景的建議和神代勝利進行和議並申誓立約,而神代勝利也在長年抗戰後知曉再戰對己方也無利處於是同意將四歲的孫女嫁給隆信的三男鶴仁王丸,在婚約確立後神代勝利於永祿七年(1564年)遷居新建的畑瀨城隱居,家督之位由嫡子長良繼承,翌八年三月神代勝利因胃癌辭世,享年五十五歲。 神代勝利曾經自稱夢想「北山に枕し南海に足を浸す」,其一生皆在與龍造寺隆信對抗,也因此成就了武名。面對強橫的龍造寺勢力,神代勝利始終以抱持本家的尊嚴採取敵對的態度,對以下剋上的龍造寺家,神代勝利即使最後同意結親和睦也不肯臣服,在其生前神代氏始終和龍造寺氏保持對等地位,至終都保持了他的硬漢本色。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/67155450/1
陶晴賢 Sue Harukata(1521年-1555年) 陶興房的次子,母為右田弘詮之女,正室為內藤隆時(內藤興盛長子)之女,受大內義隆偏諱「隆」字,名為隆房,後改受大友晴英偏諱「晴」字,名為晴賢。 陶氏出自多多良系的大內支裔,大內盛房之弟盛長出居周防國佐波郡右田村始稱右田氏,而後右田弘俊之子弘賢出居吉敷郡陶村,稱陶六郎弘賢,此為周防陶氏之始。陶弘賢之子弘政從陶村遷移到都濃郡富田,築若山城作為居城。從南北朝時代以來,陶氏一直是大內家的重要家臣,弘政之子弘長出任長門守護代,弘長之孫盛政出任周防守護代,從那時起,周防守護代一職與大內家重臣筆頭的位置就為陶氏所世襲。 晴賢年少時為大內義隆所重用,天文八年(1539年)父親興房病逝後繼承家督(亦有生前讓位的說法)。 天文十年(1541年),協助毛利元就擊退進攻吉田郡山城的尼子軍(吉田郡山城之戰),當時義隆授權為晴賢為大內軍的總大將。天文十一年(1542年),晴賢率領大軍反攻尼子氏的根據地月山富田城,最終慘敗而回,大內氏失去多名大將。 晴賢與文治派相良武任對立,而義隆重用相良武任,導致晴賢勢力漸失。天文十四年(1545年),相良武任出家,晴賢重新得勢,天文十七年(1548年)就任官位從五位上。天文十九年(1550年),晴賢與內藤興盛試圖暗殺相良武任,卻被義隆發現,晴賢在大內家的實力大為削弱。 大內義隆原本一直苦於無子,於是過繼其姐與一條房家之子為嗣,是為大內晴持。可惜,天文十一年(1542年)在征討出雲的尼子經久時,大內晴持戰死。因此,到天文十三年(1544年),義隆不得不從大友家過繼另一姐與豐後國大名大友義鑑次子大友晴英為嗣,是為大內義長。然而世事難料,次年,義隆的嫡子義尊出生,義隆隨即便與晴英解除過繼關係。此後,受到兵敗的沉重打擊大內義隆失去對擴張領地的野心,沉迷於特有的大內文化(包括天主教和眾道),重用文治派的相良武任;文治派與武斷派的晴賢、內藤興盛長期對立。 晴賢作為臣子對主公義隆的態度也是很微妙的,作為義隆的侍童與之一起長大,晴賢從小就對義隆有著深厚的君臣感情,對於義隆,一直也表現出足夠的忠心,最明顯的表現就是在出雲撤退時晴賢挺身冒死殿後。然而,義隆長達八年的玩物喪志,足以令任何人對義隆和大內的前途灰心,在紛亂的戰國時代,這樣的過失是致命的。作為大內的庶家,陶氏與大內一直以來是一損俱損一榮俱榮的關係。主家的沒落乃是庶家衰敗的兆頭,加上在與相良的爭鬥中處於不利地位,使陶氏已處於漸將衰亡的危急時刻。經過八年的壓抑之後,向來行事激進的晴賢不顧一切的奮力一搏也就不難理解。 天文二十年(1551年),相良武任向大內義隆匯報晴賢和內藤興盛企圖謀反,對立的責任者是杉重矩。8月,晴賢聯合同樣對於大內義隆寵幸相良武任不滿的長門守護代內藤興盛與豐前守護代杉重矩,發動叛亂。晴賢親率3000軍隊從陶氏主城、周防的富田若山城出陣,大內義隆親自率領10000餘人應戰。結果陣前2000人被晴賢策反,最終義隆一敗塗地。義隆逃至長門的天寧寺,在走投​​無路中自盡,義隆長男義尊被殺。晴賢重新迎回大友晴英繼承大內氏族,更名大內義長,自己也將名字陶隆房改為晴賢。 晴賢掌握大內家實權,仍與毛利元就表示友好,不過毛利元就卻採取消極的態度,以為大內義隆報仇為名,拒絕晴賢的支配,終於使兩者的同盟關係瓦解。 天文二十四年(1555年),毛利元就派兵在嚴島西北部的有之浦築宮尾城。晴賢則親率大軍兩萬五千出擊,在折敷畑合戰小勝毛利軍以後,直撲嚴島,踏入毛利元就設下的陷阱。 當時,毛利元就的兵力只有4000。但是,依靠兒玉就方率領的其直屬水軍、乃美宗勝率領的過繼給小早川氏的三子小早川隆景的沼田水軍,以及臨時前來助陣的因島的村上水軍,毛利元就的水軍並不處於下風。9月30日夜晚,風雨大作,毛利元就率領2000士兵潛渡大海,來到晴賢的前軍本陣所駐紮的塔之岡之後,次日清晨六時,毛利元就下令突擊。2000士兵直衝晴賢本陣,巧妙混過敵軍防線登陸的小早川隆景軍從正面向塔之岡發起衝鋒,宮尾城守軍也殺出城中,晴賢的2萬餘大軍全線崩潰。 晴賢與大將三浦房清逃至大元浦。只見波濤洶湧,全無舟船,走投無路中自殺,年34歲,法名卓鍼軒呂翁全羨。 出處#1http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2 出處#2 http://baike.baidu.com/view/707627.htm?fromtitle=%E9%99%B6%E9%9A%86%E6%88%BF&fromid=128312&type=syn
陶興房 Sue Okifusa(1475年-1539年) 文明14年(1482年)、父が暗殺される(大内山口事件)。長兄陶武護が家督を継ぐも、次兄陶興明と対立して出奔してしまう。武護は後に帰参して興明を殺害するも、内藤弘矩を讒言したため大内義興の手で誅殺され、残った興房が家督を継いだ。叔父の右田弘詮が後見した。 家督継承後、義興に従って各地を転戦する。畿内で行われた船岡山の戦いに従軍し、また出雲の尼子経久との戦いで軍功を重ねた。 大永4年(1524年)、大内義興・義隆父子に従って安芸に出陣し、義隆の別働隊に従って安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかしこの時は武田氏の救援に来た毛利元就の攻撃を受けて敗北している。 享禄元年(1528年)12月の義興の死後は、その嫡子・大内義隆に仕えた。大内家では当主の交代の際に常に一族や家臣団による権力闘争が発生していたが、義隆の時には興房の補佐並びに徳望により、この手の争いが起こらず平和裏に当主交代が行なわれている。 義隆時代の初期は北九州方面への勢力拡大が行なわれ、北九州を任されていた杉興運が享禄3年(1530年)8月の田手畷の戦いで少弐氏に大敗したため、天文元年(1532年)11月に大軍を率いて長門から九州に渡海し、大友義鑑・少弐資元らと対峙した。この興房率いる大内軍には杉興運や仁保隆重、秋月氏、菊池氏、九州千葉氏、原田氏など北九州の主だった将が従った。しかし少弐資元の家臣・筑紫惟門が勝尾城で強く抵抗し、大友義鑑が筑前に侵攻して星野親忠を降伏させるなど苦戦が続いた。このため天文2年(1533年)2月には義隆より興房の従兄弟である陶隆康が援軍として派遣され、援軍を得た興房は大攻勢に転じて肥前三根郡千栗村で少弐資元を破り追撃し、さらに大友方の筑前柑子岳城(現在の福岡市西区)を落とし、大友方の本拠である豊後に侵攻した。この興房の大攻勢の結果、大内軍の優勢が確立し、天文2年(1533年)12月には筑紫惟門が降伏した。また天文3年(1534年)4月6日、豊後勢場ヶ原の戦いで大友方の吉弘氏直、寒田親将らを討って大勝し、大友家の豊後に圧力を加えた。しかし勝利に乗じて7月に肥前三津山(現在の佐賀県神埼郡)に在陣して龍造寺家兼の佐賀城を攻めようとしたが、龍造寺軍の逆襲にあって敗北している。とはいえ興房の優位は揺るがず、10月には少弐資元を追い詰めた上で懐柔を図った。興房は龍造寺家兼に使者を送って資元の隠居と少弐冬尚への東肥前半国安堵を条件とした仲介を依頼する。大友義鑑とも和睦を図り、天文4年(1535年)に大内家優位のまま和睦が成立し、興房は山口に帰還した。 天文5年(1536年)には義隆の命令で再度肥前に侵攻して多久城を包囲し、9月に少弐資元を自刃させ、少弐氏を一時滅亡へ追いやった。 天文8年(1539年)4月18日に死去。享年65。次男の陶隆房(陶晴賢)が家督を継いだ。生前に譲っていたとする説もある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E8%88%88%E6%88%BF

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