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三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、豊臣秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶
戶川達安 Togawa Tatsuyasu(1567年-1628年) 戶川秀安的長子、母為石川晴清之女、正室為長船綱直之女、繼室為岡元忠之女;通稱助七郎、別名逵安、戒名不變院覺如居士。 父親秀安為「宇喜多三老」之一,起初達安被安排為宇喜多直家的繼承人宇喜多秀家的幼年侍童。達安幼年即生的健壯,到成年元服後體格更加強健並且個子很高,力氣也很大,比較家臣中的力士,寺尾作左衛門(割切大鹿之角)、高龜平八(打開加賀燈籠)更強。 天正七年(1579年),毛利家的小早川隆景鎮守忍城,宇喜多直家率軍於備中國境、備前境內的辛川城與隆景大戰,是為「辛川之役」。13歲的達安初陣隨父秀安參與此役為先鋒,達安率別動隊突擊小早川隆景軍側翼令其混亂退敗引發「辛川崩」,並與敵方守將互相以槍衾對戰,最終達安討取敵大將立下大功。 之後繼承父親秀安的備前兒島常山城成為守將,領有二萬五千六百石、與力90人、鐵砲足輕40人,擔任宇喜多家的侍大將連續參與備中高松之陣、九州征伐、小田原征伐,成為當時宇喜多家的代表武將之一。 天正十年(1582年)在備中高松之陣中,達安和父親秀安代替年幼的宇喜多秀家出陣參與羽柴秀吉(豐臣秀吉)的攻勢,於4月14日率一萬兵力於備中轉戰,奮勇進攻毛利方的冠山、宮路山、加茂等支城。之後在岡山城晉見秀吉,當時16歲的達安受到秀吉的稱讚,因而建立了在備州的武名。 天正十五年(1587年)參與九州征伐,隨初陣的主君宇喜多秀家和毛利輝元及羽柴秀長等將一同包圍日向的高城。4月17日,達安率領備前勢先鋒立下「一番討」前往被島津忠隣夜襲的友軍宮部繼潤(宮部善祥坊)陣營,後藤堂高虎、黑田孝高、龜井茲矩等也率軍來援宮部繼潤,夜中島津義弘也為援助島津忠隣而率軍前來,與達安大戰至拂曉,結果島津勢之死屍堆積如山高,義弘遂撤軍(根白坂之戰)達安先前也參與岩石城、小熊城等九州敵勢諸城的攻略,更於攻入大隅、薩摩之時於各處駐軍之地為鼓勵部下軍忠,每晚親自實行夜巡。 天正十八年(1590年)達安做為秀家的代總大將參加進攻北條氏的小田原征伐,並且把宇喜多軍的軍裝打扮的極為豪華美觀,受到諸大名的讚嘆和秀吉的稱讚。 之後達安率宇喜多軍進攻北條方的山中城,立下一番乘攻下敵方望樓,並成功奪下山中城,翌日,達安又率先登上湯本北面的山上,直迫小田原城,並發射鐵砲,其鐵炮的聲響傳至秀吉本陣,得知此事的秀吉立即派援軍支援補給,並賜糒酒給予達安做為犒賞。 文祿元年(1592年)豐臣秀吉發動侵略朝鮮的戰爭,達安作為宇喜多軍之一也率軍出戰。有一日,達安率兵出外,遇上朝鮮大軍,家臣中島賁之助是戰憤死,達安援軍打算出去營救,但達安有位新加入不久的家臣伊賀岡市之烝制止道:「敵軍看上來有數萬,此難有作為。請退回本陣等待誘敵、以圖欺敵。」 達安回應說:「如在此退去,敵必乘勝追擊。這裡只有奮戰至死而決不能退卻。」 並立刻爬上後山,乘勢攻破敵方後陣,並打擊山野小路上正在敗退的朝鮮陣營,討取首級數百。 之後日軍先鋒加藤清正的軍勢直攻入朝鮮京城後又直趨北方邊界的兀良哈進行對朝鮮軍的掃討,然而北方的極寒加上兵糧運輸遭到朝鮮水軍的截斷,加藤軍於前線遭到孤立,達安為此率軍前往兀良哈,接濟加藤軍援救加藤清正。 文祿二年(1593年)明朝呼應朝鮮的請求出動援軍,由李如松率領的四萬明朝軍隊擊破平壤的日軍一號隊小西行長,並且南下打算收復京城,日軍為此撤退至京城商議迎擊或籠城,最後在立花宗茂以及小早川隆景的堅持下決定出戰明軍。日軍因此分軍,由小早川隆景和立花宗茂等為先鋒隊,此時達安作為宇喜多軍的一員是本隊之一。 在立花宗茂做為先鋒隊一號隊於早晨時分擊破明軍先鋒查大受後,兩方軍勢在中午於碧蹄館周邊縱向列陣,此時達安的主君宇喜多秀家為爭功而想超越先鋒隊的軍陣立下先陣之功,然而小早川隆景分軍三隊擋住宇喜多軍勢並開始和明軍開戰,更傳令要求宇喜多軍為伏軍適時加入戰鬥,最後隆景配合小早川秀包、立花宗茂包圍明軍,宇喜多軍也在立花宗茂的傳令下伏擊出戰,此時達安率宇喜多軍加入戰局,和秀包、宗茂兩位同年的將領一同奮戰擊退明軍。晚年的達安在二代將軍德川秀忠前敘述此事,與立花宗茂一同受到稱讚。 文祿元年(1592年),宇喜多三老的岡利勝(元忠、家利,和子家利曾經同名)病死後,達安擔任各項國政的重臣,然而文祿三年(1594年)主君宇喜多秀家突然解除達安對於國政的職務,因為秀家於此時寵愛家臣長船綱直,並將國政轉由綱直處理,造成達安和綱直的對立,達安也漸漸對秀家感到不滿。不過即使達安和綱直對立,因為達安之妹為綱直之側室,綱直之女為達安之正室,因這層關係終於在綱直死前和解。(但是傳聞綱直之死為達安等敵對勢力毒殺所為。) 慶長5年(1600年)1月,宇喜多家中終於發生御家騷動。因為在前年死去的綱直之後,繼任國政的中村次郎兵衛同樣遭到達安、岡家利(利勝之子)、花房正成等宇喜多重臣的反感,當中的原因在於中村是切支丹(基督教)信者,和篤信日蓮宗的達安、利勝等人顯得格格不入,不管達安如何上訴秀家,秀家扔不理會達安的意見,為此達安和家利以及宇喜多詮家(左京亮,秀家堂兄,達安妹婿,後改名坂崎直盛)發動武裝佔據秀家在大阪的玉造宅邸,之間大谷吉繼和德川家臣神原康政都曾為此事而前往宇喜多家做調停,然而全都因為達安等人的堅持而失敗,最後由「五大老」之一的德川家康親自出面調停,結果是達安等宇喜多重臣離開宇喜多家轉為德川家臣而解決此事,然而此結果也造成宇喜多家之後在關原之戰戰力減半,國政也趨向衰弱。 慶長5年(1600年)達安等宇喜多家臣以新參德川家臣的身分加入會津征伐,之後轉攻歧阜城。隨後參加關原之戰,達安於前哨戰,合渡川之戰騎著愛馬「通天黑毛」渡河立下一番槍,更於關原本戰借取加藤嘉明的軍陣,聯合黑田長政的軍勢對抗石田三成軍,傳說此戰達安討取名將島左近,更取得其頭盔和鎧甲成為家傳寶物(現今戶川紀念館中僅保留頭盔上的"緒",頭盔則於大正四年由戶川安宅氏送往久能山東照宮做奉納之用。鎧甲則因早年大火燒失。),並且此戰奮勇作戰的英姿,和其頭盔的裝飾物的關係,被取異名為「干支的達安」 戰後,被家康賜與備中庭瀨藩2萬9千2百石(後加增至3萬石),期間達安修築撫川城並新建庭瀨城,熱心建立日蓮宗的寺廟如「名越妙見山」的「真城寺」、「覺如山不變院」、「啟運山盛隆寺」、「善立院」,改建城下町以及水道等,在領地也留下良好的內政功績。 外交方面則和領地相近的大大名小早川秀秋、福島正則等交好,達安曾經贈送愛馬「通天黑毛」給秀秋,秀秋也回禮名刀給達安。而福島正則也曾於書信中稱讚達安的武勇以及為人,達安也曾在福島家面臨改易危機時前往福島家勸說。 達安某年(應是大坂之陣前夕)在從江戶回到領地備中的途中經過大坂城,當時大坂豐臣家正招集浪人準備對抗德川家,當中開始有騷擾大坂附近的德川家領地的舉動,達安聽聞之後前往領地被騷擾的大名家助陣,浪人因此不敢攻擊而退去。 慶長十九年(1614年)達安也參加大坂之陣,於冬之陣中達安率軍於大阪城西方布陣,並於野田福島之戰和九鬼守隆、池田忠繼、花房職之等人乘戰船攻擊放火福島一帶,成功令敵軍退守回到大坂城。大坂夏之陣則是以培烙玉攻擊大坂城,也立下戰功,不過豐臣方因為有達安在宇喜多家時期的親戚(岡平內,達安妻兄岡家利之子、利勝孫)加入對抗德川軍,家康因此令其功過相抵。(但家利被迫切腹) 寬永四年(1628年),死去,年六十一歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B6%E5%B7%9D%E9%81%94%E5%AE%89
明石全登 Akashi Takenori(生年不詳-没年不詳) 備前保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)である。 行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家の客将となった。景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、4万石の知行までになった。景親の嫡子全登もその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老格であった。 慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。 慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。 西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。 戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。 宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。 その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB
花房正成 Hanabusa Masanari(1555年-1623年) 弘治元年(1555年)、宇喜多氏の家臣・花房正幸の子として生まれる。幼少の頃から宇喜多直家に仕える。永禄12年(1569年)、直家が主君の浦上宗景に対して謀反を起こすと父と共に宗景を攻める。天正6年(1578年)、小西行長と共に中国地方の先鋒であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の下に赴いて織田氏と和議を結ぶ。天正9年(1581年)、父と共に鳥取城の戦いに出陣する。 天正10年(1582年)、宇喜多氏の名代として備中高松城の戦いに出陣、なお、この戦いで水攻めを提案したのは正成といわれている。この戦いの後に家督を継ぎ、また秀吉から軍功を賞されて備中国高松において3万1,000石を与えられ、さらに宇喜多氏の家老に加えられた。正成は毛利氏の攻撃に備えて高松城の大規模な拡張工事を行ったという。直家の跡を継いだ宇喜多秀家に従って、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐に出陣する。天正16年(1588年)、秀吉の聚楽第での行幸の時に、従五位下・志摩守に叙任される。天正18年(1590年)、小田原征伐に出陣する。 文禄元年(1592年)に文禄の役に出陣するが、文禄3年(1594年)、同じ家老衆の一人で執政の地位にあった戸川達安が突然解任され、長船綱直が実権を握るようになると、他の同僚たちと共にしだいに秀家から遠ざけられるようになる。慶長2年(1597年)に慶長の役に出陣するも、慶長4年(1599年)、宇喜多騒動を起こして宇喜多氏の下を退去。徳川家康、大谷吉継、榊原康政などの取り成しによって増田長盛に預けられて高野山に閑居した。 関ヶ原の戦いの後、宇喜多氏の改易に連座して浪人となると、宇喜多氏再興に力を尽くすこととなる。秀家を匿った島津忠恒と秀家の正室の豪姫の兄である前田利長に協力を依頼する。特に、利長は正成を召抱えようとするが、正成は秀家の安否を優先してこれを固辞したという。慶長7年(1602年)、家康に召出されて備中国猿掛において5,000石を与えられ、江戸幕府が開かれるとのちにそのまま旗本となる。その一方で秀家が八丈島に流罪されてから前田利常などと共に家康の許可を得て、秀家に助成米を送ったりもしている。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では達安と共に備中勢として池田忠継に属して出陣する。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、安藤重信に属して出陣し、後に井伊直孝に属している。元和2年(1616年)、宇喜多秀家の刑が解かれ、前田氏は秀家に10万石を分け与えて大名への復帰を勧めるが、秀家はこれを断って八丈島に留まることを選ぶ。このことを聞いた正成は、宇喜多家の復興の道が絶たれたと衝撃を受け、しばらくの間寝込んでしまったという。元和5年(1619年)、安芸広島藩主である福島正則の改易の際に上使を勤め、牧野忠成などと共に広島に赴いている。 元和9年(1623年)2月8日、69歳で死去。臨終の間際まで秀家の安否を心配していたらしく、花房氏の家名が続く限り宇喜多氏を援助することを遺言したという。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%BF%E6%AD%A3%E6%88%90
花房職秀 Hanabusa Motohide(1549年-1616年) 宇喜多氏の家臣。美作荒神山城城主。花房職勝(職治)の子。後に職之と改名。 天文18年(1549年)、備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣・花房職勝(職治)の子として誕生。花房氏は清和源氏足利氏の末裔と称するが、真偽は不明である。 武勇に優れた剛直の士で、永禄10年(1567年)に宇喜多氏に従って足軽大将として出陣して以来、各戦に従軍。永禄12年(1569年)には、備中国をめぐって毛利元就の四男・穂井田元清と交戦した。天正5年(1570年)からは、美作国に荒神山城を築いて国の経営を任された。天正5年(1577年)からは赤松氏・浦上氏と交戦、天正7年(1579年)に主君・宇喜多直家の命令で美作の後藤勝基の三星城を攻め、これを滅ぼした。 その後、宇喜多氏は織田信長・豊臣秀吉に従属。天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐にも従軍した。なお職秀は誰にも憚ることなく諫言を行っており、小田原征伐においては、石垣山城で能や演芸など風流に溺れて、一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に対し、城門で秀吉と出会った際に下馬するよう咎められたところ、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と物怖じせずに言い放ったので斬り捨てられそうになったが、主君・宇喜多秀家に取りなしもあり逆に気に入られて加増されたといわれている。また、文禄4年(1595年)には秀家に対して長船綱直を重用することを諫言し殺されそうになる。この際は秀吉の仲介で一命は助けられ、徳川家康の斡旋もあり、常陸国の佐竹義宣に預けられた(この出来事は、1599年の宇喜多氏のお家騒動の遠因となったともいわれている)。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して活躍し、8,000石の所領を得て、旗本寄合に列した。1614年からの大坂の陣にも参加、老骨に鞭打ち、輿に乗りながら采配を執ったというが加増はなかった。また、八丈島に流罪となった旧主・秀家に、毎年20俵の米を送っていたといわれている。 元和2年(1616年)、死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%BF%E8%81%B7%E7%A7%80
長船綱直 Osafune Tsunanao(生年不詳-1599年?) 長船貞親の嫡男。長船定行の兄。紀伊守。ちなみに綱直の諱は良質な史料では確認できない。戸川達安の妻の父である「長船紀伊守」とは年代的に父の越中守貞親のことか。 天正19年(1591年)に父の貞親が暗殺され、居城である虎倉城が全焼するという事件が勃発するが、綱直は外出していたため難を免れている。この事件は姻戚関係があった石原一族が謀ったらしい。 文禄3年(1594年)、伏見城普請において普請奉行を務め、そのときの能力を豊臣秀吉に認められて、岡家利に代わって宇喜多氏領国の国政を担った。内政手腕に優れ、宇喜多秀家の側近で岡山城の改修に功のあった中村次郎兵衛や、直家の時代からの用人浮田太郎左衛門とともに、領内検地などにより主家の財政問題解消に取り組んだ。このため、意見を異にした戸川達安や岡越前守と対立したという。キリシタンとなり、宗教面でも日蓮宗徒である達安や越前守と対立することになる。 慶長2年(1597年)あるいは同4年(1599年)に病死し、その直前に戸川氏とは和解したとされているが、一説には達安や越前守に毒殺されたとも言われている。綱直の専制は、慶長5年(1599年)1月の宇喜多氏のお家騒動(宇喜多騒動)の一因となった。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%88%B9%E7%B6%B1%E7%9B%B4
長船貞親 Osafune Sadachika(生年不詳-1591年) 備前の大名宇喜多氏の家臣。又左衛門尉(又三郎)、越中守。子に長船綱直、長船定行。妹婿に長船源五郎、石原新太郎。戸川達安の妻の父である「長船紀伊守」は年代的に貞親のことか。 祖先は甲斐源氏の名門、小笠原氏につながるとされる。戸川秀安や岡家利と並んで宇喜多直家の創業に貢献した宇喜多三老のひとりである。 最所元常との戦いなど、直家の創業の初期からの家臣で、備中三村元親との戦い(明善寺合戦)では荘元祐を討ち取ったともされる(ただし異説も多い)。さらに美作三浦氏との戦い、さらに直家の元主君である浦上宗景攻略(天神山城の戦い)などで大いに功を挙げたという。上月城の戦いにおいては、毛利氏に味方した直家の命令で、上月城の救援に来た織田氏配下の将である羽柴秀吉方の黒田孝高らと戦い、これを破る。直家が秀吉の薦めで織田氏に味方すると、直家の命令で毛利氏と戦った。時期は不明だが、有力国人であった伊賀久隆が直家により追放されると、その居城である備前虎倉城を任されている。 直家の死後は宇喜多秀家に仕え、秀家の名代として四国征伐などに従軍した。戸川秀安が隠退すると宇喜多氏の国政を取り仕切ったが、天正19年(1591年)閏1月6日、その国政に不満を持った妹婿の石原新太郎に虎倉城で暗殺された。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%88%B9%E8%B2%9E%E8%A6%AA

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