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鍋島直茂

五十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉 / 木下秀吉、齋藤道三、德川家康 / 松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄 / 武田晴信、山縣昌景 / 飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、上杉謙信 / 長尾景虎、上杉景勝 / 長尾顯景....
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
加藤清正 Kato Kiyomasa(1538年-1618年)加藤清忠之子、母為鍛冶屋清兵衛之女・伊都、正室為山崎片家之女・山崎氏、繼室為水野忠重之女・清淨院(德川家康養女);幼名夜叉丸,別名虎之助、竹松、地震加藤、鬼將軍、渾名肥後の虎,戒名淨池院殿永運日乘大居士。出生於尾張國愛知郡中村(今愛知縣名古屋市中村區),父親清忠為當地鍛治屋老闆。年幼時,父親過身,由母親養育成人,母親為大政所從姊妹,因此與羽柴秀吉(豐臣秀吉)有血緣關係。天正四年(1576年)(天正4年)以170石俸祿為秀吉效力。天正十年(1582年)織田信長死後,清正參加山崎之戰,天正十一年(1583年)在賤岳之戰中殺死敵將山路正國,從而取得重要戰功,成為賤岳七本槍其中一人。天正十三年(1585年)當豐臣秀吉就任關白一職的同時,獲封從五位下主計頭一職。天正十四年(1586年)參加九州征伐。統一九州後,天正十五年(1587年)取代施政失敗的佐佐成政,天正十六年(1588年)與小西行長受封新領地,兩人各分得半個肥後國。清正進入肥後後以熊本城作為居城。清正在肥後國治績良好,利用生麥特產化進行南蠻貿易。除商業政策外,在治水方面亦獲得佳績。天正二十年(1592年),豐臣秀吉派遣大軍入侵朝鮮(文祿之役),在文祿之役清正率領第二番隊、帶領部下相良賴房、鍋島直茂大名級將領,與小西行長共同擔任先鋒攻取慶尚道、忠清道、京畿道。攻克漢城後,與小西行長及黑田長政在臨津江擊退朝鮮軍,然後清正獨自率領二番隊在海汀倉打敗韓克誠,俘虜朝鮮王子臨海君與順和君,之後進攻江原道甚至越過朝鮮北部邊境攻打兀良哈。文祿二年(1593年)第二次晉州城之戰中,指揮龜甲車部隊,負責由北面攻城。不久朝鮮與豐臣秀吉和談完畢後撤退,被俘虜的兩名王子亦被釋放。在此開始與小西行長和石田三成等人對立。慶長二年(1597年)日本再次派兵出征朝鮮。清正再次作為日軍的先鋒出陣,首先攻佔朝鮮黃石山城。之後攻下全羅道佔領全州。當清正佔據忠清道鎮川後,在西生浦倭城。而日軍則根據清正的繩張築起蔚山倭城,當建造完成時將由清正防禦此城。當蔚山倭城快將完成時,明軍殺到(蔚山城之戰)。清正等500名人員進入蔚山倭城並嘗試死守,直到毛利秀元、黑田長政等援軍到達時進行反擊擊退明軍及朝鮮軍。翌年9月,日軍準備撤退時死守蔚山城,再次擊退明軍及朝鮮軍。慶長三年(1598年)當豐臣秀吉病逝後,與五大老之一德川家康開始親密起來,與家康養女進行婚姻。慶長四年(1599年)與福島正則、淺野幸長等人策劃謀殺石田三成未遂。慶長五年(1600年)關原之戰時,站在家康的東軍一方,但並沒有在會津征伐時出征支援家康,反而留在九州牽制當地的西軍勢力,與黑田長政合作攻擊小西行長的居城宇土城後,當東軍攻擊柳川城時,勸喻立花宗茂開城投降,之後再擊破九州西軍勢力,直到德川家康叫停戰爭為止。戰後論功行賞,獲得小西行長的領地,成為肥後五十二萬石的大名。清正在獲得小西行長的領地後,在熊本築城,也就是現今熊本縣的熊本城。慶長十年(1605年)就任從五位上、侍從肥後守。慶長十五年(1610年)協助幕府負責建造名古屋城。在關原之戰後,清正和淺野氏致力保護豐臣秀賴和豐臣家,包括慶長十六年(1611年)前往京都二條城,為德川家康與豐臣秀賴進行斡旋,返回領地途中在船上病發,病死於肥後的主城熊本城,年五十歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
執行種兼 Shigyou Tanekane(1530年?-1584年)執行氏は伴氏の支流で、肥前櫛田宮の執行別当職を務めており、始めはそのまま「伴氏」を称していた。代々少弐氏に仕え、別当職でありながら武家としても活動しており、田手畷の戦いでは種兼の祖父兼貞が少弐方の武人として活躍している。姓を「執行氏」に改めたのはこの兼貞からである。少弐氏没落後に兼貞は勢福寺城主江上武種に仕え、孫の種兼も江上氏重臣となった。永禄12年(1569年)に大友氏が龍造寺隆信を攻めるべく肥前へ侵攻してくると、主君の江上武種は大友氏に誼を通じた。このとき種兼は、江上重臣として牧吉種次と共に嫡男を(牧吉は次男を)大友氏へ人質に出している。翌元亀元年(1570年)の今山の戦いでも、武種に属して龍造寺氏と戦っている。元亀2年(1571年)、龍造寺氏の攻勢が強まり、鍋島直茂を総大将とした征討軍が勢福寺城に攻め寄せてきたが、種兼は旗下の城原衆6-700名を自ら率いて龍造寺軍の撃退に貢献。その後、江上武種が龍造寺隆信の猛攻に屈し、隆信の息子家種を養子に迎えると家種に仕えた。その翌年の朝日山城の筑紫昭門討伐には家種の名代として出陣、自らが率いた城原衆300余のみで夜襲を仕掛けて城を落とした。この功により種兼は、隆信より200町を加増されている。天正7年(1579年)、種兼はこの頃、大友氏の抑えとして筑前国の早良郡に在陣していたのであるが、荒平城の小田部鎮元と鷲岳城の大鶴宗周が立花道雪に兵糧を請う。種兼は道雪の派した荷駄隊を迎えるべく出陣して来た小田部ら5-600余を在番の73名のみで奇襲、小田部と大鶴の両名を討ち取っている。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでも家種軍に属して出陣したが、隆信が討たれた混乱の中で、嫡男種直、二男種国、三男信直(甥とも)や兄の頼兼ら多数の城原衆共々、討ち死にした。子孫は、佐賀藩では着座として重臣の地位を占めた。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E7%A8%AE%E5%85%BC
大友宗麟 Otomo Sorin(1530年-1587年)大友義鑑的長子、母為大內義興之女、正室為一色義清之女、繼室為奈多鑑基之女、側室為一萬田親實之女;幼名鹽法師丸、實名義鎮、法號宗麟、基督教教名ドン‧フランシスコ(普蘭師司怙)。父親義鑑原本有意將位子讓與宗麟的同父異母弟鹽市丸,因而欲廢嫡長子宗麟。在天文十九年(1550年)反而被支持宗麟的重臣們謀反,將鹽市丸及其母親殺害、義鑑亦負傷後去世。這次政變被稱為『二階崩之變』,宗麟遂於當時廿一歲繼承大友氏豊後及肥後國領主的地位。關於義鑑把宗麟廢嫡一事,一說宗麟的生母是大內義興的女兒,義鑑想把大內氏勢力排除而計劃廢嫡。繼承領主地位後,天文二十年(1551年)宗麟接受了陶晴賢的邀請、派遺弟弟大友晴英繼承了大內氏、晴英改名大內義長。天文二十三年(1554年),菊池義武(大友義鑑之弟、宗麟的叔父)趁義鑑死於家中內亂之機,又奪回肥後領地。宗麟計誘叔父義武返回豐後,途中大友軍將義武圍困,迫其自裁,菊池家隨義武的死去而斷絕。弘治三年(1557年)、大內氏被毛利元就消滅,大內義長自殺。毛利元就繼承了大內氏在西國的領地,開始進軍原本大內氏在北九州的領土,大友與毛利正式決裂。宗麟遂與尼子氏結盟,於築前、築後、豐前等地擴大勢力範圍。當年在他領地豐後府內還出現了劃時代的大事即日本最早的外科手術。永祿二年(1559年),在足利幕府支持下,宗麟被任命為九州探題。次年、任官左衛門督。永祿十二年(1569年),大友氏援助長年流亡大友氏的大內義興之侄大內輝弘,試圖恢復大內氏。宗麟遣輝弘率數千軍,向山口發動突襲,往收大內遺臣。大內輝弘成功地在周防國吉敷郡秋穗浦上陸,入占大內家別邸築山館,但終不敵毛利軍,敗逃山口,自殺於富海地方的茶臼山。而毛利因受到大內氏和尼子氏殘餘勢力的反抗,陷入兩難。經權衡得失後,毛利元就決定與大友軍和解,放棄九州領土,讓出門司城,撤兵返回中國地方平定大內氏和尼子氏的殘餘勢力。元龜元年(1570年),大友已成為九州最強的勢力,九州境內九國佔有北部六個。同年,大友宗麟欲討伐在肥前勢力逐漸壯大的龍造寺隆信,便派遣弟弟大友親貞率領6萬大軍進攻龍造寺領地,對此龍造寺僅集結了5千兵力防衛佐嘉城(佐賀城)。但大友親貞認為此戰過度容易便輕敵,提前舉辦勝利酒宴,於清晨遭到龍造寺氏的鍋島直茂奇襲。大友親貞在混亂中被龍造寺家臣成松信勝殺死,之後整個大友軍潰散,大友與龍造寺講和撤軍。今山之戰大敗,導致宗麟於天正四年(1576年)傳位給長子義統,隱居至丹生島城。天正五年(1577年),南九州的島津氏開始進軍日向國,奪取了日向大名伊東家的領地,伊東義祐因此逃向大友家尋求庇護並反擊,宗麟一方面也希望奪下日向國並建設為基督聖地,名義上以繼承人大友義統領軍出陣侵略,自己則在後方做戰略指導,但在天正六年(1578年),耳川之戰中因家臣之間意見不合導致大敗、多數重臣陣亡。另外、將家督讓與大友義統後、他與兒子之間領導意見的不和亦造成大友氏的衰退。當時已開始統一日本的豐臣秀吉試圖經由談判協調島津與大友兩大九州勢力和解。宗麟於天正十四年(1586年)親赴大阪謁見秀吉請求支援對抗島津。島津氏仍持續侵略大友領地、同年12月島津家久軍佔領了他的首府豐後國府內城。丹生島城被包圍,大友宗麟一度使用大砲「國崩」、死守丹生島城。天正十五年(1587年),豐臣秀吉親自領兵發動九州征伐,終於使島津氏降伏。在秀吉的統治下,大友義統被確立擁有豐後一國。秀吉原有意封與大友宗麟日向的領地,但宗麟因年紀已大而辭退。同年,宗麟在豐後國津久見病死、享年五十八歲。 法號:瑞峰院殿羽林次將兼左金吾休庵宗麟大居士。宗麟以天主教大名的形象廣為人知,天文二十年(1551年)認識了在豐後布教的耶穌會傳教士方濟 沙勿略,並成為好朋友。二十七年後的天正六年(1578年),改信天主教並受洗禮、並派遣家臣帶領親筆信給葡萄牙國王。同時他對領地內的布教活動加以保護、進行與西方的貿易。他另與博多的大商人島井宗室交相友善、進行與中國明朝和朝鮮的貿易。他曾夢想要建立天主教王國,但終於在耳川一戰後夢碎。宗麟的性格被評論為個性自私,他曾經搶奪家臣的妻子、並因為信仰天主教和妻離婚、另外也有沈溺於酒色、橫征暴歛等記錄,這成了很多家臣和親族對他起而反抗的原因。他因廢弛政務、重臣立花道雪常對他多所勸戒,也因此他很怕遇到立花道雪。天正十年(1582年),曾派遺了天正遣歐少年使節團前往羅馬謹見天主教教宗。出處 http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F
小河信安 Ogawa Nobuyasu(生年不詳-1558年)小河氏は肥後国菊池氏の流れである。信安の祖父は菊池氏20代当主・為邦の弟である為安で、父・為純の頃に筑後国山門郡の上小河と下小河を知行してより小河氏を称した。隆信が龍造寺家を継ぐと信安は、納富信景、福地信重と共に家老となった。隆信の神代勝利攻略の推進役で、勝利の攻略に腐心した。勝利が攻勢に出ると、居城春日山城に籠って守りきっているが永禄元年、留守中に神代家臣の梅野帯刀と松瀬又三郎により春日山城を落とされ、一族が多数討ち死にすると信安は8月15日に手勢を率いて出陣、対陣(於、鉄布峠)している最中の翌朝に、勝利と信安が共に自ら斥候に出ると山中で両者が出くわし一騎討ちとなった。勝敗は勝利に軍配が上がり、信安は勝利の槍持ちとして同行していた河浪駿河守に首を打ち取られた。隆信は、信安の死を大変悲しんだという。信安には小河豊前守という嫡子がいたが、父の死を知って敵に討ち入り死去したため、鍋島清房の三男(鍋島直茂の弟)信俊を信安の娘に娶せ跡を継がせたが。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで戦死。小河の名跡が途絶えるのを惜しんだ直茂が、息子の忠茂に小河氏を継がせた。忠茂は鹿島藩を立藩したが、息子の正茂で系統が途絶え、その後の鹿島藩は鍋島勝茂の九男直朝が継いだが、正茂と別の系統は佐賀藩士として続いたらしい。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%B3%E4%BF%A1%E5%AE%89
島津家久 Shimazu Iehisa(1547年-1587年)島津貴久的四子、母為本田親康之女、正室為樺山善久之女;幼名幼七郎,受領名中務大輔,戒名長策梅天大禪定門。年幼的家久被祖父.島津忠良評價為『深得軍法戰術的精妙』。初陣是在永祿四年(1561年)、與肝付氏交戰的迴阪合戰。家久在是次戰事中以15歲之齡就擊敗敵將工藤隱岐守。在其後的耳川之戰、沖田畷之戰及戶次川之戰等島津家的主要合戰中,家久充分發揮他在戰術方面的天分。特別在沖田畷之戰及戶次川之戰中,家久擔任作戰的指揮官,引導島津軍獲得勝利,他更在這兩場戰事中取得三位大名的首級,北條氏康及織田信長分別在河越夜戰及桶狹間之戰中僅能取得一位大名的首級,因此家久的戰術在當時被譽為『當代第一』。天正三年(1575年),家久代表島津氏前往伊勢神宮,向神祇道謝祂們在平定九州時、對島津家的加護。同年4月,家久寄宿於連歌師裡村紹巴的弟子.心前的家中。在紹巴的介紹下結交京都的公家及界的商人。另外,據說家久亦在上洛之時與織田信長及明智光秀作出交流。大友氏在耳川之戰後勢力急速衰退,肥前國的龍造寺隆信的勢力開始抬頭,於是島津氏與龍造寺氏開始爭奪九州的主宰權。在沖田畷之戰是次戰事的初期,島津軍在築後國及肥後國被龍造寺軍壓制著。不過,位於肥前國西部的有馬晴信密謀脫離龍造寺氏的控制,遂向島津氏請求援軍,不經意間為島津軍創造出有利的條件。天正十二年(1584年)3月,島津軍以支援有馬氏的理由迎擊龍造寺軍,家久擔任是次戰事的總大將。島津軍及有馬軍合共有5000至8000人,龍造寺軍則有18000至60000人(兩軍人數在不同史書有不同的記載),雙方人數的差距非常懸殊。家久決定把龍造寺軍引到沖田畷這片狹隘的濕地,以島津家最擅長的戰法.釣野伏,以弓及鐵炮令敵軍陷入混亂狀態並且狙擊敵將。在戰事尾聲,龍造寺軍的總大將龍造寺隆信及許多龍造寺家的一門眾及重臣均被狙擊至死。其後,主戰場再度移至築後國,島津軍從肥後國北進。作為龍造寺隆信義弟的鍋島直茂為表示徹底抗戰的意志,將島津軍送來的隆信首級送回島津氏。不過,由於當時島津氏的勢力大大增強,直茂及龍造寺氏唯有與島津家和議。沖田畷之戰的勝利,意味著在九州之內已沒有與島津氏匹敵的勢力。島津氏為稱霸九州,於是攻擊豐後國的大友氏。大友氏遂向豐臣秀吉請求援軍。天正十四年(1586年),仙石秀久連同長宗我部元親、長宗我部信親及十河存保,率領6000人的豐臣連合軍的先鋒隊,登陸九州。家久率兵迎擊,在亂戰中雙方死傷4000人,長宗我部信親及十河存保戰死。島津家獲勝。天正十四年(1586年),家久攻打大友領梅牟禮城,梅牟禮城城主佐伯惟定接受山田匡得(山田宗昌)意見殺害家久的說客僧玄西堂,家久見惟定無投降之意便率領約2000名士兵攻向佐伯領,但是遭到用兵精妙的山田宗昌以1800名士兵擊敗。其後,山田宗昌開始與豐臣軍合流對抗島津家,另一方面島津義弘也攻不下志賀親次守備的岡城,見戰況越來越不利,不久家久以封地的條件,在三位兄長正式降伏之前與豐臣秀長單獨講和。天正十五年(1587年)舊曆6月5日(亦即新曆7月10日),家久於佐土原城突然去世。死因有不少說法,有豐臣氏毒殺、島津氏毒殺、病死等等的說法。不過,毒殺家久對豐臣家及島津家並沒有太大的好處,而且在豐臣秀長的近侍.福地長通寫給島津義弘的書信中,有家久生病的記錄。因此,後世大多認為家久是急病去世。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%B6%E4%B9%85
平井経治 Hirai Tsuneharu(生年不詳-没年不詳)肥前平井氏は武藤氏の支流で、肥前有馬氏の有馬晴純はその当主である経治に娘を娶せて婿とし、杵島郡の数千町を与えてその境を守らせていた。天文10年(1541年)、このとき多久宗時が少弐冬尚から有馬晴純へ寝返ったのであるが、これに気を良くした晴純が千葉喜胤、更に少弐氏・龍造寺氏を攻め滅ぼそうと派兵した際に、経治はその先陣を務めている(但しこのときは、東西に分裂していた千葉氏が協調体制を布いたため、戦乱前に有馬勢が退いている)。永禄5年(1562年)大友氏が有馬氏へ、先年に龍造寺隆信により滅ぼされた少弐氏を再興するための協力を打診する。有馬晴純は承諾し隆信討伐の軍を起こしたが、龍造寺勢に迎え撃たれたばかりか逆に隆信が攻め込んできたため、有馬勢は経治と塚崎城の後藤貴明に助勢を請うている。またこのとき、龍造寺勢に居城を落とされた多久宗利が経治を頼っているが、隆信は今度は経治を攻めるべく納富信景・鍋島信昌(後の鍋島直茂)に2,000の兵を与えて進軍させた。経治は居城の須古城(高城、高岳城とも)より出陣してこれを迎え討ち、散々に打ち負かした上に追い打ちを掛けている。翌永禄6年(1563年)8月、後藤貴明が経治の領地へ進軍してきた際も、経治はこれを返り討ちにした。しかし、翌永禄7年(1564年)2月、龍造寺隆信が経治への再戦を挑んで進軍してきた際は、迎え撃つも押されて城へ退却せざるを得なくなった。但し、須古城は堅城であり、城攻めの難儀を悟った隆信が和睦を打診、経治もこれに応じると、経治の弟の平井直秀に隆信の養女(龍造寺信純の娘)を娶せ、須古城の大溝や土手を崩すことを約束して和睦が成立した。天正2年(1574年)、隆信は経治が尚も異心を抱いているとして、7月に経治討伐に動いた。経治は弟の直秀と共に打って出て数日凌いだが、徐々に押され須古城へと退散する。鍋島信昌は堅城である須古城を落とすべく、直秀を説き伏せて平井家臣の殆どを龍造寺方に寝返らせる。やむなく経治は藤津郡の吉田へと落ち延びたが、10月になるとすぐさま叔父の新宗吟と共に直秀を攻め滅ぼして、須古城への復帰を果たした。これを聞いた隆信は、翌月には経治討伐の軍を出す。合戦は一月余り続いたが経治は敗れ、須古城も落城した。軍記物である『肥陽軍記』は、このとき経治は切腹して果てたとも、城を落ち延びる際に流れ矢に当たって死んだともしているが、『九州治乱記』ではこれを全て誤りとした上で、経治は切腹しようとしたが家臣に止められ、城を落ち延びると後藤貴明を頼り、その二年後に上ノ城(上戸城とも)に入ったとしている。但し、以後の消息は詳らかに無い。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%B5%8C%E6%B2%BB
成富茂安 Naritomi Shigeyasu(1560年-1634年)成富信種的次子、母為安住家能之女;別名千代法師丸、新九郎;初名賢種、信安,後改為茂安。幼年時的茂安十分頑劣暴虐,曾將一個成年人的手砍掉。父親信種得知後十分憤怒,責怪兒子不通人性,茂安心中內疚,拔劍便想一死了之,父親急忙勸阻下來。日後茂安以此為戒,不再欺凌他人,勤學武藝,幫助處於弱勢的人。元龜元年(1570年),今山合戰在九州打響,年僅12歲的茂安主動要求加入戰斗,父親看他年紀輕輕便斷然拒絕。誰知茂安趁著兩軍交戰,悄悄地殺入敵人後方,腹背受敵的敵軍見勢不妙紛紛撤退。主君龍造寺隆信對這位冷靜的小童十分欣賞,便讓他做自己身邊的小姓。之後,茂安又參加天正元年(1573年)的藤津合戰,在初陣中英勇奮戰。天正七年(1579年),龍造寺隆信提拔戰功卓著的茂安,因其「日斬十將」的功勳,賜予他「十右衛門」的稱號。天正十二年(1584年),龍造寺隆信戰死在沖田畷合戰,茂安便被納入龍造寺政家的麾下。天正十五年(1587年),九州征伐戰中龍造寺軍歸附豐臣家並出陣。同年天草合戰打響,加藤清正與小西行長軍前線受挫,茂安支援及時,在關鍵時刻扭轉戰局。之後,面對投降的守軍以「取此等人首級為朋輩所恥笑」為由,拒絕屠殺的命令而自行撤回。加藤清正對茂安大加贊賞,贊為「肥前武士的驕傲」,並將自己的戰甲送給他作為褒獎。清正後來以一萬石的高祿請茂安出仕。但被茂安婉拒。文祿元年(1592年)的文祿之役、慶長二年(1597年)的慶長之役中,茂安作為龍造寺家的先鋒軍出陣。龍造寺當主政家死後,茂安出仕鍋島直茂,正式成為鍋島家的家臣。慶長五年(1600年)歷史上著名的關原合戰打響,茂安隨主家鍋島直茂加入西軍,參與伏見包圍戰、阿濃津城合戰。看到逐漸滑向失敗深淵的西軍,見勢不妙的鍋島直茂與兒子勝茂決定反叛,從屬東軍。茂安在東軍中依舊表現出色,先後隨軍參與築後國柳川城、築後國久留米城的合戰。柳川城合戰時,茂安受鍋島直茂的命令,彈劾立花家當主立花宗茂,成功避免一場血雨腥風。關原合戰之後,茂安就任家老,俸祿被提高到4千石。慶長八年(1603年),武藏國江戶幕府建立,茂安受命整備江戶町的水路。同年,茂安負責指揮山城國二條城、駿河國駿府城、尾張國名古屋城、肥後國熊本城、肥前國佐賀城的修復工作。慶長十五年(1610年)開始,茂安投入到水害防止、新田開發、上水道建設、堤防工事、灌溉事業等內政工作中。其主要政績有:嘉瀨川與多布施川分流工程、千栗堤防與蛤水道、橫落水路、中原水道、羽佐間水道、三方潟大日堰修建以及佐賀江水道改修。這些工程對後世影響很大,即便是今日,日本依舊深受惠澤。肥前國佐賀藩的武士道教書『葉隱』高度評價這位利國利民的民政家。慶長十五年(1614年),茂安參與大阪之陣。寬永十一年(1634年),與世長辭,年75歲。出處 http://baike.baidu.com/view/1338005.htm
村田吉次 Murata Yoshitsugu(1565年-1621年)黒田二十四騎の一人。通称は兵助、出羽守。姓ははじめ井口(いのくち)を名乗った。初名は与一之助。妻は黒田武俊の娘。子に吉常、正治、三太夫、七之助がいる。井口与次右衛門の四男。母は広峯神社の神主の娘。三人の兄はいずれも黒田孝高の家臣となり、若年のうちに戦死している。天正5年(1577年)より同様に孝高に仕え、同年に孝高の子・松寿丸(後の黒田長政)が人質として羽柴秀吉に預けられた際、付き人として長浜城に同行した。天正8年(1580年)元服して兵助と名乗り、英賀城攻めで初陣。天正12年(1584年)の岸和田合戦の際には、敵に忍び寄って相手を殺害し、相手の武具・刀・槍・馬を奪って戻ったという。天正16年(1588年)、豊前国で250石を拝領。文禄・慶長の役では足軽大頭を務めた。慶長5年(1600年)、孝高が鍋島直茂の陣営を訪れた際に同行。この際、直茂が家臣の村田隠岐を「今まで一度も傷を負ったことが無い武士」と紹介した。それに対して孝高は吉次の兄三人が討死したことに触れ、幸運な村田隠岐にあやかって吉次に村田の姓をいただけるように願い、当人から許されたため、これ以後「村田」の姓を名乗ることとなる。慶長6年(1601年)、黒田氏の筑前国入国後に夜須郡2,000石を拝領し、桐山信行の組下に置かれる。慶長9年(1604年)の孝高の没後、「出羽守」を称し、大組頭となった。元和6年(1620年)の大坂城再建工事では石垣を担当したが、その石材を運搬する際に吉田重成の組と道でかち合い、諍いを起こしている。元和7年(1621年)10月29日、57歳で死去。宝蔵院流槍術の免許皆伝であった。また、粗暴な性格で、「気に食わない」という理由で自身の領内の80人余りの首を斬ったり、家臣が暇を乞うと長屋牢に閉じ込めたり、吉次を恐れて逃亡すればその一族の者の首を刎ねたり、罪人を生きたまま斬り刻んだりしたという。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E5%90%89%E6%AC%A1
毛利秀元 Mori Hidemoto(1579年-1650年)穗井田元清的長子、母為村上通康之女・妙壽院、養父為毛利輝元、正室為豊臣秀長之女・大善院、繼室為德川家康養女・淨明院;幼名宮松丸、過繼毛利氏,受豊臣秀吉偏諱「秀」字,名為毛利秀元。天正十三年(1585年),秀元五歲時成為毛利輝元養子,天正十八年(1590年)元服,直到文祿四年(1595年)輝元長子毛利秀就出生後才自立。參與文祿.慶長之役,其中在慶長之役最為活躍,代替患病的毛利輝元率領3萬大軍為右軍大將。與加藤清正、黑田長政、鍋島直茂合作包圍黃石山城,攻佔後佔領全羅道、忠清道。之後在天市接到黑田長政遭明軍突襲的消息,秀元立即救援,成功擊退明軍。在冬季小早川秀秋準備返回日本時,留在蔚山,正接受輸送兵器前往釜山時,明軍和朝鮮軍攻擊蔚山,秀就返回蔚山救援,成功擊退朝鮮軍。秀就在慶長四年(1599年)與毛利輝元獨立成為大名,在周防、長門兩國獲得20萬石領地。關原之戰時,毛利軍支持西軍,總大將毛利輝元留守大坂城,秀元是毛利軍的前線指揮。不過由於吉川廣家已成為德川家康的內應,因為對於交戰相當消極,結果在關原的戰鬥上,吉川廣家軍成為束縛了毛利、長宗我部等軍勢的阻礙。其後隨著西軍陣勢瓦解,毛利軍在毫髮無傷之下,亦宣告撤退。當毛利軍返回大坂城時,秀元及立花宗茂等將曾要求毛利輝元積極戰鬥,但是輝元最終撤離大坂城。關原之戰後,成為了長府藩6萬石藩主。與德川家康養女納入繼室,參加大坂之役,晚年江戶城居住成為了三代將軍家光的御咄眾。曾經引誘毛利就隆脫離長州藩獨立,但失敗而回。慶安三年(1650年)在江戶城病逝,年72歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%85%83
毛利秀包 Mori Hidekane(1567年-1601年)毛利元就的九子、母為乃美隆興之女.乃美大方、養父為大田英綱、小早川隆景,正室為大友宗麟之女.桂姬;幼名才菊丸,最終復姓毛利,名為毛利秀包。元龜二年(1571年)1月,元就將5歲的才菊丸送往備後國國人眾戶阪家為養子繼承,5月,備後國另一國人眾大田英綱無嗣死去,在其遺臣平對馬守和渡邊河內守數度對元就的懇願下,才菊丸轉為繼承大田家成為當主,元服後取名為大田元綱。天正七年(1579年),秀包三兄小早川隆景雖以至50天命之年卻仍無子,在其家臣向毛利家當主毛利輝元請求後,秀包因此成為隆景的養子,改名為小早川元總。天正十年(1582年),幾乎控制日本的織田信長死於本能寺的明智光秀叛變,當時正在攻略毛利家的織田家臣羽柴秀吉(豐臣秀吉)於備中高松城迅速與毛利家議和,並提出要毛利家交出吉川經言(吉川廣家)和秀包為人質,因此兩人被送往大阪,然而秀包不同於廣家,因其美少年的容貌姿態特別受到秀吉的寵愛,受到很好的待遇。天正十二年(1584年)3月,17歲隨秀吉出戰德川家康於小牧.長久手,5月參加竹鼻城水攻,戰後,秀吉令養女(大友宗麟之女.桂姬)與秀包訂下婚約,並從自己的名字中選出「藤」和「秀」字賜給秀包,因此改名為藤四郎秀包。並於翌年1月受領河內國1萬石俸祿。天正十三年(1585年)3月參加紀州雜賀征伐,6月參與四國征伐,並作為小早川隆景的先鋒橫渡瀨戶內海進攻高尾城。隨後於7月進攻金子元春(金子元宅之弟)所處的伊予國金子城,在包圍之時奮勇與敵軍戰鬥,並擊退敵方援軍,攻落城池,此戰戰況慘烈俗稱「天正之陣」。四國征伐結束之後因功受領伊予國宇和郡大津城3萬5千石。天正十四年(1586年)隨養父隆景參與九州征伐,期間和吉川元春、黑田孝高、黑田長政參與攻略小倉城、宇留津城,更在圍攻高橋元種的豐前國香春嶽城時,於隆景攻打北門引誘敵軍之際,秀包帶領家臣爬上石垣並與敵軍展開激烈的鐵砲戰,最後成功進入敵城並斬殺三名敵將,且裡應外合使自軍攻破城門遂攻陷香春嶽城。因此功績,毛利輝元賜給秀包「青江之御刀」、隆景也給秀包一把「備前兼光」太刀,更從秀吉處拜領「粟田口吉光」太刀。天正十五年(1587年)7月,九州征伐結束後小早川隆景獲封築前國及築後國共30萬7千石,秀包從中獲領築後國三郡7萬5千石,並築起久留米城為居城,此時因秀吉之命改通稱為內記。同年9月九州肥後國爆發國人一揆,於10月秀包擔任討伐軍的總大將極為活躍,率領築前國、築後國及肥前國的各大名包圍和仁親實、親範、親宗三兄弟的田中城,此戰秀包以二重之柵包圍城池,打算令其兵糧耗盡再行攻城,這期間在安國寺惠瓊的調略下,親實的妹婿邊春親行反叛,此時秀包和立花宗茂為主力奮勇攻進城中,歷經38天終於攻下敵城。而秀包和立花宗茂兩人因此時互相欣賞而結為義兄弟,並一同於1589年受領侍從的官位且獲賜「豐臣氏羽柴姓」和「桐御紋」,秀包因此被人稱「羽柴久留米侍從」。天正十六年(1588年)正式將之前訂下婚約的桂姬迎入築後久留米城,翌年嫡男毛利元鎮誕生。文祿元年(1592年)秀包配屬於小早川隆景為出兵朝鮮的第六大隊之一,率領1千5百兵力出戰。於全羅道攻略之際,秀包於大鼓城之戰立下「一番旗」的戰功。文祿二年(1593年)明軍於平壤大敗日軍小西行長,這時對比不戰而逃的大友義統,堅守城池的秀包受到眾人的讚嘆。隨後於1月26日參與中、日、韓三方的碧蹄館之戰,秀包作為日軍先鋒隊四號隊出戰,作戰期間遭到敵軍的奇襲,惡戰之時雖然秀包持槍衝鋒卻損失重臣橫山景義等八位家臣,自身甚至落馬但也奮力討殺敵將,並勉強的抵住攻勢會合隆景軍先陣的粟屋景雄、井上景貞兩隊,並在隆景的指揮下和同年的義兄弟立花宗茂以及宇喜多家名將戶川達安共同逼退明、朝鮮聯軍。秀包因此戰功獲得加增5萬5千石共13萬石領地俸祿並敘任築後守的官位。同年5月底至6月,日軍約9-12萬兵力南攻晉州城,為第二次晉州城之戰。城中僅有金千鎰等七千兵力,然而城北方的星州一帶有明將劉鋌所率的明、朝鮮軍數萬來援,6月13日其麾下大將琳虎率約1萬明軍和3萬朝鮮軍前往晉州城為援軍。秀包和立花宗茂為此趕往星州迎擊,共四千兵力以疑兵引誘明軍追擊,在立花軍先擊破敵軍第一陣七千兵後,兩軍又合作縱橫於一萬七千兵的明軍第二陣中,遂使琳虎無心再戰而領兵撤退,紓解日軍於晉州攻城的壓力。同年9月2日,做為秀包先鋒的問註所統景、問註所正白兄弟於晉州城西南方二十里的河東郡攻略牧司城時遭遇明將劉鋌來援,兄弟與之奮戰激鬥仍不敵先後戰死損失數百人,立花宗茂為援救小早川軍而前往與劉鋌對戰,結果劉鋌戰敗回軍晉州城。慶長二年(1597年)再征朝鮮,這時秀包鎮守竹島城,期間因患病而令家臣林包次代為出戰,維持小早川軍的士氣。同年10月,秀包和筑紫廣門守備星州的谷城,期間遭到明軍李如梅數千軍勢的猛烈進攻,就在城池快被敵軍攻陷之際,秀包與廣門帶領家臣脫出城池,並會合小早川秀秋派來的援軍山口正弘(山口宗永)、南部光顯,趁夜色昏暗從城外夾擊大敗敵軍,之後便向竹島城撤退。慶長三年(1598年)因秀吉之死,日軍從朝鮮撤退回國。秀包在與立花宗茂乘船回國之時,遭到朝鮮敵船的阻擋,雙方皆以鐵砲互擊,此時秀包施展精湛的鐵砲術並以愛用的鐵砲「雨夜手拍子」射殺敵兵,最後和立花軍共同突破敵船安全回國。慶長五年(1600年)在關原之戰參加西軍,於8月守備大阪城的玉造口御門。9月3日,近江國大津城主京極高次反叛西軍,領3千人籠城,西軍則以秀包的八兄末次元康(毛利元康)為總大將率1萬餘人前往攻略,然久攻不下,秀包和立花宗茂因此被毛利輝元和石田三成調往大津城,9月13日開始猛攻,即使秀包奮力抑制敵軍的攻勢並突進城內,但是戰事之激烈仍令秀包損失6名部將且有3名重臣負傷,然而在立花軍的奮勇進攻和安排至長等山的大砲轟擊下,京極高次終於9月15日開城投降,同日卻接到關原的西軍戰敗,秀包和宗茂遂放棄大津城撤退到大阪城。到達大阪城的秀包和立花宗茂定下與東軍俱滅的決心,強烈要求毛利輝元於大阪城籠城抗戰,但是因輝元已經答應德川家康保全領地的勸降(事實上減封僅剩周防國及長門國)而拒絕抗戰。這時宗茂原本想和秀包回領地抗戰,但是秀包以自身畢竟為毛利一族,不得不為保全毛利本家為由不願對德川家再起抗爭,因此有一說法兩人為不互相因為家族的決定牽累對方於是在安藝蒲刈一地斷絕義兄弟的關係。此時的九州在秀包和立花宗茂不在居城之際,於10月14日黑田孝高和鍋島直茂共3萬7千人攻擊秀包的居城久留米城,城中僅有宿老桂廣繁和白井景俊等家臣以及守備士兵5百餘人,據『黑田如水傳』所載,秀包於出戰前交代兩位宿老若聽聞西軍戰敗,久留米城遭東軍攻擊之際,必定要盡力死守,要是快被攻破之際,就殺秀包之妻與子並奮戰至死,然而對方若是黑田孝高的軍隊,由於兩家交情良好,秀包也認為如水是重情義之人,加上兩家都信仰基督教,特別吩咐絕不可與之對戰,務必開城,且可安心將秀包妻、子托其保護。於是兩位宿老接受開城勸告交出城池,並交出秀包正室桂姬以及長男元鎮和一名女兒為黑田家人質,桂廣繁也交出四男黑壽丸為鍋島家人質。此後秀包同宗茂被沒收領地除封大名,秀包這時於大德寺剃髮,法號「玄濟道叱」,之後隨毛利輝元乘船回國之時病倒。11月,秀包於長門國赤間關的宮本二郎處修養。翌年(1601年)3月23日,病逝,年三十五歲。秀包死前,或許是為避免「叛變的小早川」這種罵名,恢復毛利姓。其子毛利元鎮則在毛利輝元的庇護下領有長門國吉敷郡7千石,為吉敷毛利家之祖。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%8C%85