首頁 Tags 鍋島勝茂

Tag: 鍋島勝茂

上杉定勝 Uesugi Sadakatsu(1604年-1645年) 上杉景勝的長子、母為四辻公遠之女.桂岩院、正室為鍋島勝茂之女.市姬、側室為齊藤本盛之女.生善院;幼名千德,通稱喜平次。 生母桂岩院在誕下定勝後,百餘日後死去,因此交由直江兼續夫妻養育。慶長十五年(1610年),與第2代將軍德川秀忠見面。此時被授予千德的名字。 元和九年(1623年)2月13日,到達江戶城後得到將軍德川秀忠接見,敘任從四位下侍從,兼任彈正大弼。同年5月13日,父親景勝死去,繼任家督。 寬永元年(1624年),將軍德川秀忠為仲介人,與鍋島勝茂的女兒結婚。寬永三年(1626年)8月9日轉任左近衛權少將,以及彈正大弼如元(不變)。 接受江戶幕府的指令,加強取締吉利支丹(天主教徒)。在寬永五年(1628年)把甘粕信綱(右衛門)處刑等,在領內逮捕包括藩士等多數的天主教徒,並處以死罪。 寬永十一年(1634年)跟隨第3代將軍德川家光上洛。 寬永十五年(1638年)以六尺五寸一步的三百一反制實施總檢地,整備貢租制度。而且整備奉行、郡代、代官等的藩政、鄉村支配體制,從直江支配體制轉為藩主直屬支配體制。翌年,於鄉村中配置天主教徒橫目。 寬永二十年(1643年),進行會津藩(加藤家)第2代藩主加藤明成的除封處理。還有上杉氏的菩提寺林泉寺和直江氏的菩提寺德昌寺爭取僧錄的地位,結果破棄德昌寺。 對米澤藩士發出「不要像其他家風,萬事以質素律儀為作法要旨,衣服的小袖上下和桐褲等是無用,專心實行文武忠孝的事」(他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に勵むこと)的法令,這條法令在後來於上杉治憲初入部之際被寫進「御條目」中。 正保二年(1645年)死去,年四十二歲,戒名大上院殿權大僧都隆心。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%8B%9D
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、滝川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、上杉景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家
富田信高 Tomita Nobutaka(生年不詳-1633年) 富田一白的長子、母為黑田久綱之女、正室為宇喜多安信之女、繼室為宇喜多忠家之女(宇喜多秀家養女);初名知信,後改名信高。 慶長4年(1599年),父親富田一白因立下功勞受豐臣秀吉賞賜伊勢國安濃津城3萬石領土,信高擁有當中的2萬石,為豐臣秀吉的側近。同年,父親病死,信高繼承父親遺領。 慶長5年(1600年),信高帶領300名家臣跟隨德川家康北上討伐上杉景勝,得知石田三成的西軍起兵後,信高於下野小山決定加入東軍,率領家臣立即趕回安濃津城。途中不斷收到西軍從伊賀國東進伊勢國的報告,信高預計安濃津作為交通要點,一定會被西軍攻擊。 信高邀請同為東軍成員的盟友伊勢上野城主分部光嘉和松阪城城主古田重勝率領援軍到達安濃津城,並向關東傳達安濃津被圍困的消息,向德川家康請求援軍西進,但因西軍將領九鬼嘉隆的海上封鎖,安濃津和關東諸將的通訊被斷絕。 富田信高、分部光嘉和古田重勝的兵力合共只有1700人,東軍的籠城防戰陷於劣勢。而西軍的毛利秀元、長束正家、安國寺惠瓊、鍋島勝茂合共有30000人的兵力圍城。 8月24日(10月1日),安濃津城攻防戰開始。分部光嘉和毛利家臣宍戶元次雙方在各負重傷的情況下奮力對決,信高亦親自到前線和西軍作戰,可是被大量敵人包圍。一位年輕武將救援信高,在危機中保住信高的性命。野史記載的「美麗的勇將,聽聞信高的險境,單騎出城,鎧冑鮮麗,奮然衝昌,吸引著眾人的目光,帶著信高回城…」,所記的武將,就是信高的妻子。信高、分部光嘉雖然還有能力戰鬥,可是繼續面對大量的敵兵,守住城池十分困難、於是在木食上人的勸告下和西軍停戰,信高到高野山剃髮出家。 關原之戰後,德川家康認同富田信高的功績,回復他的舊領並加封伊勢國2萬石,慶長13年(1608年)移封伊予國宇和島12萬石。 慶長18年(1613年)、因窩藏慶長10年(1605年)時殺害坂崎直盛家臣的宇喜多左門(直盛的外甥)而與直盛發生爭端,在德川家康和德川秀忠的裁定下被改易,富田家被納入磐城平藩鳥居家的家臣。但似乎是表面的藉口,真正的原因是信高可能和大久保長安事件有關而得到懲罰。 寬永10年(1633年)於小名濱妙心寺派禪長寺死去。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98
小河信安 Ogawa Nobuyasu(生年不詳-1558年) 小河氏は肥後国菊池氏の流れである。信安の祖父は菊池氏20代当主・為邦の弟である為安で、父・為純の頃に筑後国山門郡の上小河と下小河を知行してより小河氏を称した。隆信が龍造寺家を継ぐと信安は、納富信景、福地信重と共に家老となった。 隆信の神代勝利攻略の推進役で、勝利の攻略に腐心した。勝利が攻勢に出ると、居城春日山城に籠って守りきっているが永禄元年、留守中に神代家臣の梅野帯刀と松瀬又三郎により春日山城を落とされ、一族が多数討ち死にすると信安は8月15日に手勢を率いて出陣、対陣(於、鉄布峠)している最中の翌朝に、勝利と信安が共に自ら斥候に出ると山中で両者が出くわし一騎討ちとなった。勝敗は勝利に軍配が上がり、信安は勝利の槍持ちとして同行していた河浪駿河守に首を打ち取られた。 隆信は、信安の死を大変悲しんだという。信安には小河豊前守という嫡子がいたが、父の死を知って敵に討ち入り死去したため、鍋島清房の三男(鍋島直茂の弟)信俊を信安の娘に娶せ跡を継がせたが。 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで戦死。小河の名跡が途絶えるのを惜しんだ直茂が、息子の忠茂に小河氏を継がせた。忠茂は鹿島藩を立藩したが、息子の正茂で系統が途絶え、その後の鹿島藩は鍋島勝茂の九男直朝が継いだが、正茂と別の系統は佐賀藩士として続いたらしい。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%B3%E4%BF%A1%E5%AE%89
松倉勝家 Matsukura Katsuie(1597年-1638年) 父・重政と共に島原城とその城下町の新築、参勤交代の費用、計画のみで頓挫したルソン遠征の準備など種々の口実を設け、また独自に検地を実施して実質4万石程度の石高を10万石と過大に見積もり、領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課した。これには豪勢な島原城を改築(城を全面白色に塗色するなど)し、他藩に自己の存在をアピールしようという意図があった(外様大名故のコンプレックスがあったと小和田哲男が指摘している)。さらに、領内に多かったキリシタンへの弾圧も残忍を極めた。 寛永7年(1630年)に父・重政が急逝した後を受けて藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。寛永11年(1634年)は悪天候と旱魃から凶作となったが、勝家は容赦せず重税を取立てた。米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して厳格に取り立てたことが多くの記録に残る(『鍋島勝茂公譜』、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記など)。 やがて勝家は年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から、妻や娘を人質に取るようになる。前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した長崎のポルトガル人ドアルテ・コレアは、人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んでいたという記録を残している。 『黒田長興一世之記』によれば、寛永14年(1637年)10月、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。たまりかねた領民は、10月25日ついに蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。これが島原の乱の始まりである。 乱の鎮圧後、寛永15年4月4日(1638年5月17日)、勝家は肥前唐津藩主・寺沢堅高と共に反乱惹起の責任を問われた。勝家は改易、所領を没収され、4月12日には美作津山藩主・森長継に預けられた。『嶋原一揆松倉記』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首刑に処せられた。この時代、大名が名誉の刑である切腹さえも許されず一介の罪人として斬首刑に処せられることは異例で、江戸時代を通じてこの一件のみである。大反乱を引き起こす原因を作った勝家の失政を幕府側が極めて重大な罪と見なしていたことを示している。 勝家には2人の弟がいたが、次弟の重利は讃岐国、陸奥国会津と預けられ、明暦元年(1655年)に自殺。末弟の三弥は命は助けられたものの浪人となってしまった。重利の系統は300俵の旗本として存続している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E5%8B%9D%E5%AE%B6
松平信綱 Matsudaira Nobutsuna(1596年-1662年) 慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国で生まれる。父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近(埼玉県北足立郡伊奈町小室)に居住していたので、当地で生まれたとする説が有力である。生母・深井氏は白井長尾氏の末裔であり、母方の祖父・深井好秀は長尾景春の玄孫である。 慶長6年(1601年)に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる。あるとき正綱が一人でいると、当時は三十郎と名乗っていた信綱がやって来て、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしいです」と嘆願した。正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分で本名を捨て我が名字を望むのはなぜか?」と訊ねた。「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子にもなれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えた。正綱は不憫に思い、「なるほど、望みのように養子にしよう。けれども一通り父母に申してから字(あざな)を遣わそう」と挨拶した。両親にもこの旨を話して事が済むと、信綱は大いに喜んで「今日よりは松平三十郎なり」と述べたという。 慶長8年(1603年)9月3日、将軍世子の徳川秀忠に、11月には正綱に従って伏見城に赴き、11月15日に徳川家康と初めて拝謁した。慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になった。慶長10年(1605年)12月3日に5人扶持となる。 慶長16年(1611年)11月15日に前髪を落として元服し、正永と名乗る。慶長18年(1613年)1月28日に井上正就の娘と結婚した。ただし慶長15年(1610年)から慶長16年(1611年)にかけて胃病を患い在郷で養生していたという。 元和6年(1620年)1月20日に500石を与えられた。このとき家紋も三本扇とした。この年の12月下旬に養父の正綱に実子の松平利綱(正次・左門)が生まれると、信綱は「正」の通字を継ぐのは実子であるとして自らは名を正永から信綱と改め、元和9年(1623年)6月15日に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受けた。7月には家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官された。 寛永元年(1624年)5月16日には1,200石を加増された。寛永3年(1626年)7月には家光の上洛に再度従った。寛永5年(1628年)1月5日には相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられて、合計1万石の大名となった。このときに一橋門内において屋敷を与えられた。寛永7年(1630年)5月17日には上野国白井郡・阿保郡などで5,000石を加増される。 寛永9年(1632年)1月に大御所だった秀忠が死去すると、信綱は養父と共に遺銀400枚を賜った。 4月13日に家光の日光山参詣に従う。11月18日には老中と小姓組番頭を兼務した。 寛永10年(1633年)3月23日、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に六人衆に任命された。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵忍に移封され、忍城付の与力20騎・同心50人を預けられた。この年の5月から井上正重らと近江国や大坂・奈良などを巡検した。11月には徳川忠長配流の地を予定してか上総国佐貫を巡検している。 寛永11年(1634年)3月3日に「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定。6月には家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、6月27日に家光より駿府城で刀と盃を賜った。閏7月29日に従四位下に昇叙される。 寛永12年(1635年10月29日、それまで兼務していた小姓組番頭を罷免された。 11月には寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定。11月15日には月番制も定め、将軍直轄の体制を固めて職務を円滑に進めることができるように改革を進めた。 寛永13年(1636年)4月に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務め、12月の朝鮮通信使の日光参詣では惣奉行として随行した。 寛永14年(1637年)10月16日には家光を自邸に迎えて盛大に饗応した。 寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。 当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とした。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。 戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され、寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で川越藩に移封された。信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。 島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。 寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶した。この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めている。 慶安4年(1651年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変を7月に鎮圧した。承応元年(1652年)9月に老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧した。明暦3年(1657年)1月の明暦の大火などの対応に務めた。 寛文2年(1662年)1月18日に病気に倒れて出仕できなくなり、嫡男の輝綱が代理として出仕した。1月19日に小用がつかえたが服薬して回復した。1月21日には将軍の上使として大久保忠朝が派遣された。1月26日には病が再発し、死を悟った信綱は他の老中へ暇乞いして遺言まであった。1月27日には久世広之、1月29日に本多忠隆らが派遣されて茶・菓子・薬を賜った。このため見舞いの使者がおびただしく訪れた。3月になると危篤状態となり、3月15日に老中の阿部忠秋に嫡子・輝綱のことを頼んだという。 3月16日の夕刻に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。跡を長男の輝綱が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1
江上家種 Egami Ietane(生年不詳-1593年) 龍造寺隆信の次男として生まれる。江上武種の養子となって江上氏の家督を継ぎ、父から肥前国神埼郡勢福寺城主に任じられた。父の命令で各地を転戦し、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにも参加している。 天正17年(1589年)、鍋島直茂が佐賀城に移ったため、代わって蓮池城主となる。なお、このときに鍋島直茂の嫡男・鍋島勝茂を養子として迎えている(のち解消)。 豊臣秀吉の文禄の役にも参加して渡海したが、釜山で戦死した。 家種の子は江上姓を捨て、長子茂美(佐野右京亮)は佐野氏を名乗り、次子勝種(勝山大蔵)や勝山姓を名乗った。茂美の子孫は佐賀藩士佐野氏の祖となった。勝種は龍造寺伯庵を擁して幕府に龍造寺家の復興を訴えるも敗訴。正保元年(1644年)に会津藩保科家預かりとなり、江上氏に復姓した。慶安元年(1648年)に会津藩に召し抱えられ、子孫は会津藩士として続いた。 威風堂々とした体格で、特に武勇に優れていたといわれており、兄弟の中で最も父、隆信の才を受け継いでいた事が窺える。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E4%B8%8A%E5%AE%B6%E7%A8%AE
石田三成 Ishida Mitsunari(1560年-1600年) 石田正繼的次子、母為巖田氏・瑞岳院、正室為宇多賴忠之女・皎月院;幼名佐吉、別名三也、豐臣政權五奉行之一。 石田氏為近江國坂田郡石田村當地國人眾,父親正繼作為地侍,與淺井家相同為京極氏的被官。 後世《三獻茶》創作故事中,三成最初是近江國某寺院打雜的僧侶。天正二年(1574年),父兄成爲長濱城城代羽柴秀吉的與力家臣。根據其子記載,天正五年(1577年)首次以小姓身份前往御著城(姬路城)從軍,跟隨秀吉攻略中國地方,參與了備中高松城之戰。 天正十年(1582年)6月,織田信長死於本能寺之變,羽柴秀吉掌握實權,三成作爲秀吉心腹逐漸嶄露頭角。天正十一年(1583年),在山崎之戰中表現活躍。在賤岳之戰擔當先鋒,監視柴田勝家的行動取得功績。天正十二年(1584年)參加了小牧長久手之戰。同年擔任近江國蒲生郡的檢地奉行。 豐臣政權時期 三成在朝鮮之役時寫給豐臣秀吉的一封信,其中對包括小早川秀秋在內的武將在戰場上輕舉妄動予以譴責。 天正十三年(1585年)7月11日,豐臣秀吉就任関白,三成也官拜從五位下治部少輔。同年末,被封為水口城四萬石的城主,但實際上水口城自天正13年7月被封與中村一氏,天正18年(1590年)又轉封增田長盛,文祿四年(1595年)再被長束正家繼承,因此三成並沒有真正領有過該城。 天正十四年(1586年)1月、以幾乎是自己年俸一半(1萬5000石)的代價延請到原筒井順慶的家臣島左近。豐臣秀吉也為之愕然,爲敦促島左近忠於三成,秀吉將自己的菊桐紋外套賜予島左近。同年,三成成功斡旋越後國的上杉景勝上洛臣服秀吉。秀吉任命三成為堺奉行,三成施展行政手腕把堺建設成給養補充基地。 天正十五年(1587年),平定九州之戰中成功地勸降了九州薩摩島津氏。次役水軍是決定勝負的關鍵,三成在後勤方面的出色支持是取得勝利主要原因之一。 九州平定後,被任命為博多奉行主掌九州的戰後重建。天正十六年(1588年)斡旋薩摩國島津義久進京謁見豐臣秀吉。 天正十七年(1589年),擔任美濃國檢地。 天正十八年(1590年)豐臣秀吉討伐關東相模北條氏,三成率領二萬五千大軍圍攻了北條家的武藏國忍城,當時部隊中有佐竹義宣、真田昌幸、大谷吉繼等名將,近年出土的書信顯示當時三成駁斥以水攻攻略忍城(秀吉攻略高松城的方法),但秀吉仍下令引荒川之水展開水攻。後北條氏各地的支城和本城小田原城相繼陷落,忍城的戰鬥一直持續到7月上旬。由於豪雨造成決堤,無功而返。當時留下的遺跡石田堤至今尚存。同年秀吉奧州仕置,三成擔任檢地奉行,功績大幅提升。亦擔任津輕為信與秀吉之間的仲介,而為信對三成心存感激,日後命長子保護三成次子與迎三成三女作為其三子之妻等事作為報恩。 文祿元年(1592年)出征朝鮮之役和增田長盛、大谷吉繼一起駐守漢城擔任日軍縂奉行。文祿二年(1593年),參加了碧蹄館之戰和幸州山城之戰。之後護送明朝的講和使者謝用梓和徐一貫回到肥前名護屋,積極參與同明朝的停戰交涉。三成代豐臣秀吉發布指令,同時推進和談的舉動招致豐臣家中武斷派福島正則等人的仇視,種下關原之戰的敗因。 文祿三年(1594年),被任命為島津氏和佐竹氏的領國奉行,進行檢地。 文祿四年(1595年),奉豐臣秀吉之命,審問豐臣秀次的謀反事件(秀次事件其實是秀吉為將関白及豐臣政權家督職位傳給自己的親生兒子豐臣秀賴而挑起,豐臣秀次最終切腹)。秀次死後,其領地內近江7萬石劃歸三成。同年三成獲得了近江佐和山十九萬石四千石的封地。(世人所說三成手上有兩件至寶,一個是佐和山城,一個就是島左近)。 慶長元年(1596年),接待了明朝講和的使者。同年被任命為京都奉行。奉豐臣秀吉之命鎮壓天主教。三成陽奉陰違盡量放過天主教徒,同時進言秀吉不要妄殺天主教信徒。 慶長二年(1597年),慶長之役中在日本國內擔任後方支援。慶長三年(1598年),豐臣秀吉打算將小早川秀秋的領地筑後國,筑前國下賜三成,被三成婉拒。筑後,筑前被劃為藏入地,三成被任命為名島城代官。原本予定慶長四年(1599年)和福島正則、増田長盛一起再次出征朝鮮。然而隨著慶長三年(1598年)8月秀吉去世計劃取消,代而進行安排遠征軍歸國的工作。 秀吉死後 作為豐臣秀吉一手提拔起來的親信嶄露頭角,在內政和軍需方面發揮了卓越的領導才能,但是由於在戰爭上戰績不高而被同為豐臣家的武鬥派武將所輕視,又因豐臣家內部文治派與武鬥派賞罰問題標準不一,使得兩派之間關係處的不是很好,其中又以三成與福島正則、加藤清正之間關係最為惡劣,所以在秀吉逝世後武鬥派開始加強監視。 豐臣秀吉死後,豐臣家由豐臣秀賴繼承,但是擁有関東250萬石的大老德川家康勢力不斷壯大有取而代之之勢。慶長三年(1598年)8月19日三成組織了一次暗殺家康的行動。家康為奪取覇權,拉攏與三成對立的福島正則,加藤清正,黑田長政等人並私自聯姻。慶長四年(1599年)1月,三成以家康以沒有許可聯姻爲由,在前田利家的支持下向家康興師問罪。家康無奈被迫於2月2日跟三成立下和約。 然而閏3月3日唯一能和德川家康相抗衡的大老前田利家病逝。慶長四年(1599年),在大坂受到加藤清正、福島正則、黑田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(也有可能是蜂須賀家政)、淺野幸長等七將的襲擊,後來受到佐竹義宣的支援才得以脫逃。上述七將圍困住三成躲藏的伏見城,在家康的仲介下,以三成隱退為條件,七將方才退兵。3月10日家康派次子結城秀康伴送三成返回領地佐和山城。這次事件中家康保護了與自己為敵的三成成爲一段佳話,但是這個故事在江戶時期的資料中並無出現,直至明治以後『日本戰史·関原役』才有出現,不得不令人懷疑其是否可信。 前田利家死後,三成蟄居,德川家康處於獨步天下的狀態,同利家、三成定下的合約如同一紙白書,私下通婚和分配領地的行動重新進行。 關原 慶長五年(1600年),三成乘德川家康出兵會津討伐上杉景勝之機,聯合對家康不滿的宇喜多秀家、毛利輝元、小西行長等諸大名結成西軍(反德川軍),並推舉毛利輝元為總大將。高舉反旗與勢力抬頭的德川家康及豐臣武斷派大名等東軍在關原對決。值得一提的是三成力邀好友大谷吉繼助拳,大谷雖然明知和家康正面衝突無異於以卵擊石,但在勸説三成失敗後,明知毫無勝算依然加入西軍,此擧令家康也大跌眼鏡(大谷和家康也有很好的交情)。 7月12日,三成命令兄長石田正澄於近江國愛知川設置哨卡阻止家康討伐會津的殿後部隊鍋島勝茂、前田茂勝和家康的本隊會合,逼迫他們加入西軍。7月13日,三成將東軍大名的妻子和子女作爲人質關押在大坂城內。然而加藤清正的妻子等人逃脫,細川忠興的妻子放火自焚,三成的人質作戰宣告失敗。 7月17日,西軍總大將毛利輝元入大坂城,同日前田玄以、增田長盛與長束正家等三奉行連名列舉了德川家康的13條罪狀,並公布了彈劾狀。7月18日,西軍進攻由家康重臣鳥居元忠把守的伏見城(詳見伏見城之戰)。伏見城十分堅固,守軍負隅頑抗。三成發現守門的是甲賀衆,於是和長束正家將甲賀衆家屬抓為人質相要挾。8月1日,甲賀衆打開城門伏見城於是陷落。8月2日,三成向各全國大名公布了伏見城陷於己手的消息(伏見城是豐臣秀吉的居城,扼守京都南方要衝,豐臣秀吉生前在此發號施令,大名們在此都有自己的宅第,是當時實質上的權力中心,因此公布伏見城被佔領的消息可以極大打擊對手的心理)。 8月,德川家康以超過預想的速度平定了伊勢國轉而西上打亂了三成的部署。14日晚間,三成放棄固守大垣城在美濃阻止家康的計劃擺開在關原野戰的架勢。9月15日,決定天下的關原之戰終於開戰。起先局勢對西軍有利,三成本隊有6900人,多次抵抗住細川忠興、黑田長政、加藤嘉明、田中吉政數倍於己的兵力衝擊。島左近、蒲生賴鄉及前野忠康等人利用高處的有利地形給東軍沉重的打擊。然而西軍普遍士氣低落,隨著時間的推移戰局開始不利,最終由於小早川秀秋和脇坂安治的臨陣倒戈,使得西軍崩潰,三成從戰場往伊吹山方向逃走。 三成起先越過伊吹山東面的相川山到達春日村,然後通過新穗峠繞道姉川,經曲谷,七回峠到草野谷。然後從小谷山谷口沿高時川溯流而上逃到古橋。9月21日,被家康手下的田中吉政捕獲。 9月18日,東軍的攻陷佐和山城,三成的父親正繼等人戰死。 9月22日,三成被押送到大津城在城門口示衆,在此德川家康與之會面。9月27日,被押解至大坂。9月28日同小西行長和安國寺惠瓊三人在大坂與堺示衆。9月29日,押解至京都,由京都所司代奧平信昌看管。 10月1日,三成被處斬六條河原,年四十一歲。首級在三條河原示衆,最後由生前好友春屋宗園、澤庵宗彭領取安葬。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
鍋島勝茂 Nabeshima Katsushige(1580年-1657年) 天正8年(1580年)10月28日、龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男として、石井生札の屋敷で生まれる。母は石井常延の次女陽泰院彦鶴姫。一時期、龍造寺隆信の次男・江上家種の養子になったこともある。 天正17年(1589年)、豊臣秀吉により豊臣姓を下賜された。 慶長2年(1597年)からの慶長の役では父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城攻め(伏見城の戦い)に参加した後、伊勢安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力のひとりとして行動した。しかし、父直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、筑後柳川の立花宗茂、同久留米の小早川秀包らを攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた。 当時、佐賀藩は天正18年(1590年)に鍋島氏の主君であった龍造寺政家が病弱であったため、豊臣秀吉によって隠居させられ、家督は政家の長男・龍造寺高房が引き継いでいた。しかし幼少であることから、筆頭重臣である鍋島直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。つまり鍋島氏は正式な大名ではなかったわけであるが、勝茂は豊臣時代からすでに大名世子としての扱いを受け、朝鮮出兵においても、父の直茂が総大将として出陣している。 ところが慶長12年(1607年)に高房、後を追うように政家も死去した。すると勝茂は幕府公認の下後を継いで佐賀藩の初代藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。勝茂はまず龍造寺家から鍋島家へのスムーズな政権移行に従事し、龍造寺家臣団と鍋島家臣団の整理を行い、各家臣から起請文を改めて提出させ、内乱の防止に成功したのである。 このように龍造寺家から鍋島家への継承は、他家の同様な例と異なり、ほとんど血を見ずに成功したものの、「鍋島化け猫伝説」などの説話が巷間に流れ、勝茂は歌舞伎や講談では主家を乗っ取った悪役とされてしまっている。これには、龍造寺高房が佐賀藩の実権を取り返せないことに絶望して自害したとされる(真相は不明)こと、勝茂の一子が突然死したこと、また寛永年間に高房の子・龍造寺伯庵が佐賀藩の統治権の返還を執拗に幕府に願い出たことなどによる。結局幕府はその都度伯庵の訴えを却下し、最後には江戸所払いにしたうえで第3代将軍・徳川家光の異母弟であり閣老の会津藩主・保科正之に50人扶持で永預けとした(伯庵死後、その遺児を300石にて取り立て、子孫は現在も続いている)。ただし、勝茂はこれらの件に対して、例えば一子の突然死後に半ば錯乱した父・直茂が巫女の占いを信じて家士数人を殺害するとこれを諌める書簡を江戸から送り、伯庵の訴えには穏便に処理するよう幕府に願い出たりしている。 一方で、旧家臣団と鍋島譜代の家臣団のいずれにもほとんど粛清がなかったために、石高のほとんどは家臣団への知行分となってしまい、藩主の直轄領が6万石程度しか残らず、藩政当初から財政面において苦しむこととなった。このため佐賀藩ではその後一貫して干拓など増収政策に取り組むこととなる。またこの間、検地を実施して35万7000石の石高があることを明らかにし、これに先立つ慶長7年(1602年)より佐賀城・蓮池城を近世城郭にふさわしい体裁を備えるべく築城(蓮池城は一国一城令のため破却)し、鍋島家統治のシンボルとした。 慶長19年(1614年)からの大坂の役では東軍に属した。 寛永14年(1637年)から翌年にかけての島原の乱に出陣するが、家臣が軍律違反を犯したために幕府に処罰された(一説には原城攻撃の期日を1日やぶって攻撃したのは、勝茂自身とされる)。 明暦3年(1657年)3月24日に死去。享年78。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E5%8B%9D%E8%8C%82
鍋島忠茂 Nabeshima Tadashige(1584年-1624年) 鍋島直茂的次子、母為石井常延之女・陽泰院、正室為江上家種之女・秋山砂智;幼名平七郎・半助、受德川秀忠偏諱「忠」字,名為忠茂、別名小河直房、戒名得髓院殿悟艘淨頓大居士。 出生在佐賀城,哥哥是佐賀藩初代藩主鍋島勝茂。關於生母依寬政重修諸家譜的記載為石井常延的女兒陽泰院,而其他族譜則記載為井手口小左衛門的妹妹。但是忠茂為了雙親而建的泰智寺,其名字是從直茂的法名「日峰宗智」和法名「陽泰院」而來的,所以生母為陽泰院的可能性較高。 忠茂很小就跟父親及哥哥仕奉豐秀吉,文祿四年(1595年)的文祿之役中和父兄一同渡海到朝鮮參戰。慶長二年(1597年)的慶長之役也有參戰。 慶長五年(1600年)9月的關原合戰和哥哥勝茂參加西軍,戰後為免於德川家康的處罰,在父親的命令下進攻同為西軍的立花宗茂,為鍋島氏的存亡努力。慶長六年(1601年)做為人質前往江戶。慶長七年(1602年)開始擔任家康的三子・德川秀忠的近習,得到秀忠的寵愛而獲賜偏諱「忠」並改名忠茂。此外還獲得下總矢作的5000石領地,任從五位下和泉守。 慶長十三年(1608年)中風後被允許回國,之後在蓮池養病。但是,擔任父兄和幕府之間的溝通橋樑的重要任務,慶長十四年(1609年)從佐賀藩分出2萬石,加上下總的5000石成位2萬5000石的鹿島藩藩主,並修築居城常廣城。不過因為生病的關係,基本上沒有執政。 慶長十九年(1614年)忠茂抱著病體參與大阪冬之陣,獲得秀忠的讚賞。之後在矢作療養,沒能康復的情況下於寬永元年(1624年)8月4日在矢作去世,年四十一歲。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_42.html 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E8%8C%82
鍋島直茂 Nabeshima Naoshige(1538年-1618年) 鍋島清房的次子、母為龍造寺家純之女.華溪、繼母為龍造寺隆信之母.慶誾尼、養父千葉胤連;幼名彥法師、通稱孫四郎,別名鍋島信生、左衛門大夫、龍造寺の仁王門,渾名老虎。 天文十年(1541年),由於龍造寺家兼(龍造寺家純之父)為了戚西千葉家,於是將外孫直茂送給西千葉家千葉胤連為養子,從此直茂一直居住在千葉家,直到天文二十年(1551年),胤連之嫡子龍造寺胤信(龍造寺隆信)出世,胤連也隱居於佐賀郡本莊西川內之梅林庵,而與此同時也讓直茂回去鍋島家,而在直茂回到鍋島家不久後,便出仕年剛六歲的隆信,當時直茂十四歲。 天文二十三年(1554年),這一年是直茂一生比較重要一年,就是行元服之禮,在元服後更名為鍋島左衛門大夫信生.而同年三月直茂以部將身份跟隨主公隆信參加人生第一場戰役。 弘治二年(1556年),即在直茂初陣後一年,主公隆信母親慶誾院再嫁,而再嫁之人正是直茂之父清房,當時慶誾院年四十八,由於其夫於天文十四年(1545年)早死,因此一直是寡婦。在慶誾院再嫁清房後,從此直茂與隆信義兄弟之稱呼,而直茂對龍造寺家忠心耿耿.可在沖田畷之合戰後,直茂努力維持龍造寺家,不至龍造寺家在沖田畷之合戰後滅亡。 在確認慶誾院再嫁非一件壞事也可從龍造寺家另一場戰役看出,當時是元龜元年(1570年),是慶誾院再嫁後十五年,在這十五年間,龍造寺勢力直速膨脹整個肥前,對於龍造寺家勢力漸大,北九州另一雄大友宗麟決定討滅龍造寺,連合肥前反龍造寺軍和其合共六萬大軍肥前出陣,而對於面對滅危機的龍造寺軍本部只有五千兵力…… 八月中旬,大友六萬軍勢包圍佐嘉城.宗麟高良山陣營設,令弟大友親貞再率三千援兵前往佐嘉城,於八月十七日佐嘉城之西北今山設營為本陣,預定二十日發動總攻勢。而在得知總攻擊定為二十日龍造寺在城內招開最後軍議。而與此同時,直茂派出忍者也回報大友軍今山本陣卻正在為明日勝日大肆慶祝。當直茂得到消息時就認為這是此戰勝利關鍵,於是在會議上便提出夜襲之術,在毫無辦法下,眾將都認為只有夜襲可行,在主公隆信同意下,決定夜襲之術,加上隆信之母也在出戰前也出來激勵軍士,隨後直茂隆信主從七騎先行,後增至八百.八月二十日六時,大軍向以沉醉勝利之夢的今山本陣大友軍發動攻擊,不意之奇襲大友軍一片混亂。直茂手下中山掃部介更大聲自稱是神代軍(大友北方軍勢)造成混亂。最終大將大友貞親首級被龍造寺隆信部將成松長信取的.在主陣敗後,大友軍全陣敗退,此戰後,直茂武勇在家中得到認可。 在大友軍敗退後,龍造寺勢力急速膨脹,在消滅肥前反自家勢力後,開始對大友家出兵,在天正六年(1578年),大友軍耳川合戰敗給島津家後,勢力漸退,隆信也藉此機會,擴大自家勢力自五州二島,成為九州三雄之一。 天正十二年(1584年),肥前有馬氏叛離龍造寺,主要原因是得到南九州島津家支持,得到消息後隆信雖知有馬遲早會叛離,但也感到十分憤怒,決定再次出兵有馬。但是南九州島津家也派三千兵肥前支援有馬家,在得知島津家也出兵,直茂立即向隆信進言,內容指出島津家善戰,希望自己可以代隆信出陣,待摸清島津家低細後,方遲出陣也不遲,但是當時隆信笑拒絕直茂進言。而在隆信與島津家久雙方在天正十二年(1584年)三月二十四日於島原半島之沖田畷會戰,惜,龍造寺家敗給島津家之釣野伏,主將隆信陣亡。 在得知隆信陣亡消息後,直茂立即將敗兵收回佐嘉城,而島津軍島津家久持隆信首級率兵前往佐嘉城,將隆信首級送回佐嘉城,同時勸直茂開城投降,但直茂卻大膽拒絕,說龍造寺家乃名門,豈有投降之理? 同時直茂也重整龍造寺家,以隆信之嫡子龍造寺政家為主,自己也留在佐嘉城輔助政家。而當島津得知直茂之言後,也率兵回去。但是平庸的政家不聽直茂數次進言,決定臣服島津麾下。而直茂對於政家不聽進言且又決定投入島津之下,惟有秘密派遣使者前往關白豐臣秀吉,指龍造寺不是想加入島津家,只是被島津家強大壓力之下,迫於無奈而加入,希望殿下(豐臣秀吉)早些九州平定,龍造寺家願當先鋒。 而政家在直茂以死之進言,最後決定脫離島津家。而豐臣秀吉之九州軍也向肥前北部入。而秀吉本人也到中國赤間關,直茂也親自到赤間關會見秀吉,在秀吉一番稱贊後,便回去。 天正十五年(1587年),島津家降,豐臣秀吉九州平定後,在築前會見直茂。指龍造寺政家當初一意投向島津,不過直茂一力勸阻,現免除政家一切功勳,將肥前佐賀郡三十六萬石土地交給直茂,以佐嘉城為居城。從此鍋島脫離龍造寺家,成為一方之大名。 而其後直茂表現也十分出色。文祿元年(1592年),文祿之役時,直茂肥前一萬二千軍與加藤清正一路出陣朝鮮國(韓)表現出色,得到清正稱贊,而且在戰中與原是龍造寺家將士重新建立主從關系。而至慶長之役時,直茂與其子鍋島勝茂出海救援時,表現也十分活躍。 在慶長十二年(1607年),直茂將位讓與龍造寺政家之子龍造寺高房,而向德川幕府請示,但未得同意。高房也從此先暴自棄。將妻子(直茂長女)殺死後自殺,而其父政家也在翌年死,龍造寺一門亡。 德川幕府認可直茂為佐賀番三十六萬石大名,而直茂也成為佐賀番第一代番主,直至明治維新後而結束。 元和四年(1618年)6月3日病死,年八十一歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/689134.htm
鍋島茂里 Nabeshima Shigesato(1569年-1610年) 石井信忠的長子、母為石井忠俊之女.大寶院、養父鍋島直茂、正室為鍋島直茂之女.月窗院;初名石井太郎五郎、家俊,別名四郎兵衛、太郎五郎、左衛門太夫、平五郎、主水,戒名見性院殿法山日妙大神儀. 父親信忠為龍造寺隆信重臣,有一實弟鍋島茂賢(石井孫六),生母大寶院是鍋島直茂正室陽泰院(石井常延次女)姪女。 天正七年(1579年)一直沒有男孩的鍋島直茂、陽泰院夫妻對茂裡的氣量非常欣賞,遂收作養子,直茂將自己與前妻間的女兒伊勢龍姬(月窗院)嫁做茂裡之妻。在直茂嫡子鍋島勝茂出生之前、鍋島茂裡被定為鍋島家的世子。 然而第二年,鍋島直茂夫妻之間誕生了嫡子勝茂,茂裡遂辭去世子之位,得到肥前國神埼郡西鄉村三千石封地,另立別家(橫岳鍋島家/鍋島主水家)。天正十二年(1584年),沖田畷之戰、隨養父直茂出征,是為初陣,此戰龍造寺軍大敗,與直茂一同撤退。是役茂裡不為敗勢所動,英勇作戰。直茂自此決定由茂裡擔任鍋島軍先鋒。 日後之文祿慶長之役,率一軍西渡朝鮮,輔佐鍋島直茂.勝茂父子,頗有功勞。有一逸話:當時各大名競相繳獲朝鮮軍軍船,鍋島軍來遲一步,茂裡如是說:「若向太閣殿下報告之際,直言我軍姍姍來遲而無所斬獲,吾父直茂,吾第勝茂還有何面目立於此世?」四處馳走,收集了大量軍船。自關原之戰至柳川城之戰,自軍事方案策劃至先鋒均由茂裡擔當,深受直茂父子信賴。勝茂稱茂裡為兄,十分仰慕。 育有子女四人:長男.鍋島茂宗、次男.三四郎(犬塚家養子)、長女.瑞祥院(龍造寺高房正室)、次女.於仁王(小城藩主鍋島元茂正室)。 鍋島茂裡自始至終輔佐鍋島直茂.勝茂父子,除軍事方面外、內政、外交、築城等諸多方面均大放異彩、與鍋島三生(注一)之一人鍋島生三一同鞏固了初期佐賀藩的藩政。後領有七千五百石,子孫代代擔任佐賀藩家老直至明治維新。 注一:鍋島三生:在鍋島直茂名為「鍋島信生」時獲賜「生」字偏諱的三人:石井生札、下村生運、鍋島生三。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20#postid-116 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E8%8C%82%E9%87%8C
Send this to a friend