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鈴木重秀

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成長類型:中庸型、統率型、武勇型、知略型、政治型、万能型、万能統率型 成長類型:万能武勇型、万能知略型、万能政治型、勇将型、勇将射撃特化型、勇将槍特化型、勇将騎馬特化型 成長類型:猛将型、猛将射撃特化型、猛将槍特化型、猛将騎馬特化型、文官型、外交僧型、宰相型 成長類型:軍師型、副将型、軍団長型、梟雄型、海戦名人型、籠城型、籠城達人型 成長類型:築城名手型、女性型、女武将型、薄幸美人型、良妻賢母型、女戦国大名型、くのいち型 成長類型:夜叉型、鬼型、虎型、捨て奸型、信仰心型、大筒型、鉄甲船型 成長類型:下忍型、忍型、上忍型、剣豪型、不幸型、幸運型、明智光秀型 成長類型:井伊直政型、石田三成型、今川義元型、上杉謙信型、織田信長型、織田信秀型、片倉小十郎型 成長類型:加藤清正型、蒲生氏郷型、吉川元春型、黒田官兵衛型、高坂昌信型、小早川隆景型、鈴木重秀型 成長類型:斎藤道三型、榊原康政型、佐久間信盛型、真田昌幸型、真田幸隆型、真田幸村型、島津家久型 成長類型:島津義弘型、滝川一益型、武田信玄型、武田信虎型、竹中半兵衛型、立花宗茂型、伊達政宗型 成長類型:長宗我部元親型、藤堂高虎型、徳川家康型、豐臣秀吉型、長尾為景型、原虎胤型、古田織部型 成長類型:北条氏綱型、北条氏康型、北条綱成型、細川忠興型、堀秀政型、本願寺顯如型、本多忠勝型 成長類型:前田慶次型、前田利家型、毛利隆元型、毛利元就型、最上義光型、山県昌景型 成長類型:山中鹿之介型、阿国型、ガラシャ型、帰蝶型、小松姫型、立花誾千代型
下間賴廉 Shimotsuma Rairen(1537年-1626年) 下間賴康之子、母為下間賴次之女;幼名虎壽、通稱源十郎、右衛門尉,法名了入、了悟。 賴廉為擅使鈴木家改進的雜賀步槍高手,而且還有很強的統帥能力,與鈴木重秀(雑賀孫一)合稱「石山左右二將」。在石山包圍戰中,賴廉就代替本願寺顯如指揮全軍守城,因此被稱為「大坂之左右之大將」。 天正八年(1580年),本願寺軍由於在與織田軍的作戰中敗勢濃厚,根據正親町天皇的敕命與織田議和,退出石山本願寺。這時,賴廉與下間賴龍和仲孝等一起在議和書上簽名,可見賴廉在本願寺家中的威望。議和後,賴廉追隨本願寺顯如退去本願寺,並勸導各地對織田軍繼續反抗的信徒停止戰爭。而當本願寺教如(顯如之子)主張與織田信長決戰,但得不到賴廉響應時,教如也只能作罷。 賴廉也不僅僅是單純的軍事指揮官,天正四年(1576年)七里賴周在加賀無法進行統治的時候,賴廉發出改任文書,也足見賴廉在政治方面的重視。 本能寺之變後,豐臣秀吉將隱居的賴廉招入大坂,任命為淨土真宗發源地京都本願寺的法主,因此成為與本願寺顯如並列的本願寺中心人物。面對秀吉、德川家康借出本願寺信徒參加軍隊的屢次要求,賴廉始終保持中立。 賴廉的特點是勇猛之外還具有出眾的謀略與清醒的頭腦。本願寺顯如病亡後,豐臣秀吉提議讓本願寺順如(本願寺教如之弟)繼任法主時,賴廉就向教如進言這是秀吉的陰謀。不久,當教如母親如春尼以顯如臨終遺書為由要教如將法主讓給本願寺准如時,賴廉又建議教如究察書狀的真偽,但教如沒有采納,而是立刻將法主一位讓出。 天正十七年(1589年),從豐臣秀吉處獲得七條豬熊的宅地,擔任京都本願寺町奉行。 寬永三年(1626年)死去,年九十歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/704182.htm
佐武義昌 Satake Yoshimasa(1538年-1620年) 1549年(天文18年)、12歳の時に鉄砲の訓練を受け、同年に湊氏と岡氏の戦いで初陣を果たした。1555年(弘治元年)、18歳の頃には根来寺へ入山。福宝院の行人となって修行する。 同年、根来の蓮花谷と菩提谷が争うと福宝院は蓮花谷に属していたため、 義昌も合戦に参加した。その後、傭兵稼業に入った。 一時、四国へ渡って長宗我部氏の宿敵である本山茂辰に田畑70町歩で仕える。仕える際に長宗我部、本山両氏から競って勧誘されるが、本山氏が先に声をかけたので本山氏に仕える。1560年5月28日(永禄3年)、戸の本の戦いでは本山軍として長宗我部国親・元親親子と戦うも、本山軍が敗れ、義昌も敗走し、雑賀に戻った。 1570年9月12日(元亀元年)から勃発した石山合戦では鈴木重秀と共に織田信長と戦い、信長による紀州征伐でも活躍した。 豊臣秀吉による紀州征伐では、義昌は的場昌長(源四郎)と共に大将として奮戦し、雑賀城を守った。雑賀衆・根来衆が滅亡した後も、彼は最後まで抵抗を見せたと言う。その後、義昌は紀伊・熊野の山中に逃れたが、征伐後に紀伊半島に赴任した浅野幸長に1,000石を禄せられて仕え、紀伊の町の再興や寺院の再建に尽力した。 1613年(慶長18年)8月25日、幸長が38歳で亡くなると、弟の長晟に仕える。1619年7月(元和5年)、安芸広島42万石に加増・移封されるとそれに従う。 1620年(元和6年)、死去。享年83。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%AD%A6%E7%BE%A9%E6%98%8C
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
五十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉 / 木下秀吉、齋藤道三、德川家康 / 松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄 / 武田晴信、山縣昌景 / 飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、上杉謙信 / 長尾景虎、上杉景勝 / 長尾顯景....
織田信忠 Oda Nobutada(1557年-1582年) 織田信長的次子、母為久庵慶珠(生駒吉乃?)、側室為鹽川長滿之女・鈴等人;幼名奇妙丸,通稱岐阜中將,初名信重,後改為信忠,別名勘九郎、三位中將,戒名大雲院三品羽林仙岩大禪定門。 父親信長讓庶長兄.織田信正娶織田信廣之女繼承信廣家,改立信忠為繼承人。 永祿年間,織田氏在美濃的領地與甲斐武田氏的領國鄰接,東美濃國眾遠山氏的女兒成為父親信長的養女並嫁給武田信玄之子.諏訪勝賴(武田勝賴)為正室,雙方成為婚姻同盟。根據『甲陽軍鑑』記載,勝賴的夫人在永祿十年(1567年)11月死去,為加強與武田的同盟關係,於是信忠與信玄的五女松姬定立婚約。 武田和織田之間的友好關係仍然持續,但是武田氏在永祿年間開始侵攻織田氏的同盟德川家康的領國三河和遠江。元龜三年(1572年),武田信玄呼應與父親信長敵對的將軍足利義昭的「信長包圍網」並開始侵攻織田領地(西上作戰),因此武田和織田之間切斷關係,於是信忠與松姬的婚約亦被解除。此後,雖然武田氏在武田勝賴末期時嘗試改善與織田氏的關係(甲江和與),不過武田和織田之間沒有達成和睦。 元龜三年(1572年)1月元服(『勢州軍記』),不過在天正元年(1573年)4月1日的『兼見卿記』、同年6月18日的『朝河文書』中亦被人以幼名「奇妙」稱呼,而名諱「信重」被確認的時期是在同年7月。而在『大縣神社文書』和『信長公記』中,同年8月12日向江北出陣的名字記錄亦由「奇妙」變為「勘九郎」,被推測元服時期是在17歲至19歲期間。以後跟隨信長在石山合戰、天正二年(1574年)2月的岩村城之戰、天正二年(1574年)7月至9月的伊勢長島攻擊(長島一向一揆)等,於各地轉戰。 天正三年(1574年)5月,在織田氏在長篠之戰中勝利後,於進攻岩村城時以總大將的身份出陣(岩村城之戰)。擊退進行夜襲的武田軍並討取1千1百餘敵軍而立下戰功,令武田家部將秋山虎繁(秋山信友)投降和岩村城開城。此後在一連串與武田氏的戰鬥中大大加強武名。 天正四年(1576年),被父親信長任命為織田家的家督並得到美濃國東部以及尾張國的一部份,成為岐阜城城主。同年敘任正五位下,由出羽介上昇至秋田城介,成為一方的武將規格。因為足利義昭在織田政權下仍然是留在備後的征夷大將軍,所以織田家就成為征狄將軍。而且這個官職在對抗越後守護家上杉家有一定的意義。在同年11月28日成為家督,並得到尾張國、美濃國以及岐阜城(『信長公記』)。 天正五年(1577年)2月,進攻雜賀並攻陷中野城,於3月令鈴木重秀(雜賀孫一)等人投降。同年8月,成為討伐再次背離的松永久秀的總大將,以明智光秀為先陣並率領羽柴秀吉等諸將攻陷松永久秀、松永久通父子死守的信貴山城(信貴山城之戰),因為這次功績而敘任從三位左近衛權中將。由此時開始代替父親信長以總帥身份率領諸將。 天正六年(1578年),毛利家為奪回播磨國的上月城,毛利輝元親自動員10萬人以上的大軍並把本陣設在備中高松城,令吉川元春、小早川隆景、宇喜多忠家、村上水軍率領6萬1千人包圍上月城。父親信長亦為救援上月城,於是以信忠為總大將,派出明智光秀、丹羽長秀、瀧川一益等諸將為援軍,正在包圍三木城的羽柴秀吉亦歸入信忠的指揮下,於是總共7萬2千人的織田軍在播磨布陣。不過因為戰事陷入膠著狀態,於是以戰略上的理由而被信長指示從上月城撤退並專注攻略三木城。而籠城的尼子勝久等人降伏,上月城被攻陷(上月城之戰)。 天正八年(1580年),因為統率尾張南部的佐久間信盛和西美濃三人眾之一的安藤守就被流放,於是信忠在美濃、尾張兩國支配的領域增加。 天正十年(1582年)的甲州征伐中,以總大將身份率領美濃、尾張的軍勢5萬人與德川家康、北條氏政一同開始進攻武田領地。信忠從伊那方面進軍,一路上攻略信濃南部的武田方據點飯田城、高遠城。在攻略高遠城時,親自衝入城門口並站在陣前,破壞木柵並登上屏上命令部隊(『信長公記』卷15)。 因為信忠進擊迅速,未能整理形勢並從諏訪撤退的武田勝賴放棄並燒燬新府城後逃亡。信忠開始進行追擊戰,在父親信長本隊進入武田領地前,逼使武田勝賴、信勝父子在天目山之戰中自殺,令武田氏滅亡。3月26日,進入甲府的信長因為信忠的戰功而賞賜腰物「梨地蒔」,表明要讓信忠「取得天下」(天下の儀も御與奪)的意思。因為論功行賞,寄騎部將河尻秀隆被賜予甲斐國(除穴山梅雪的領地外)和信濃國諏訪郡,森長可被賜予信濃國高井、水內、更科、埴科郡,毛利長秀(斯波長秀)被賜予信濃國伊那郡,於是影響力達至美濃、尾張、甲斐、信濃4國。 天正十年(1582年)6月2日的本能寺之變中,與父親信長一同前往支援包圍備中高松城的羽柴秀吉途中,於京都的妙覺寺(信長以前都有許多次在此寺中逗留)留宿,在得知信長的宿所本能寺被明智光秀強襲後,前往救援本能寺,不過在知道信長自殺的消息後,為迎擊光秀而與異母弟津田源三郎(織田勝長/織田信房)、側近齋藤利治、京都所司代村井貞勝等人一同移動至皇太子誠仁親王的居宅二條新御所(御所之一),信忠讓誠仁親王逃出,與少量軍兵一同籠城。 不過在明智軍的伊勢貞興進攻時,因為寡不敵眾而自殺,介錯是鎌田新介;信忠命令把二條御所的緣板拆去並埋下自己的遺骸,年二十六歲,與信長一様,首級並沒有被明智方發見。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0
鈴木重朝 Suzuki Shigetomo(1561年-1623年) 永禄4年(1561年)、鈴木重秀の長男として生まれたとされるが、重意(佐大夫)の子という説もあり、詳細は不明である。 石山戦争では父や弟らと共に本願寺顕如に協力して織田信長と戦うが、天正13年(1585年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)による紀伊征伐で雑賀衆が滅亡すると、秀吉の家臣として仕え、1万石を与えられた。以後、天正18年(1590年)の小田原征伐では忍城攻めに参加し、朝鮮出兵では肥前名護屋城の在番を務めた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍本隊に属して伏見城攻防戦の先鋒となって一番乗りを果たし、伏見城に籠もる鳥居元忠を討ち取った(伏見城の戦い)。戦後は浪人の後に伊達政宗に仕え、後に政宗の仲介により慶長11年(1606年)に徳川家康に直臣として3000石で召抱えられ、しばらくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本として付けられた。 元和9年(1623年)に死去した。享年63。 跡を継いだ子の重次は水戸藩主・頼房の十一男を養子・鈴木重義として迎えたため、鈴木家は水戸藩の重臣として続き、子孫は「雑賀」の姓に改めた。また、歴代の当主は「孫一」を通称とした。なお、雑賀党の首領は代々「雑賀孫一」を名乗ることが慣例となっていた。孫一は「孫市」とも書かれることもあり、さらに孫市と孫一は全くの別人だったとする説もある。また、鈴木氏は重朝・重秀ら優秀な人物が石山戦争で活躍していたため、兄の重秀を「孫一」とし、弟の重朝を「孫市」とする説もある。実際、重朝の跡を継いだ子の重次は、雑賀孫「市」と名乗っている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E6%9C%9D
鈴木重秀 Suzuki Shigehide(1546年?-1586年?) 雑賀孫市の経歴を構成する一人といわれるが、他の「孫一・孫市」(雑賀衆頭領の名とされる)と事跡が混同されることが多く、史料自体も乏しいことから、「孫一」の中からその足跡を識別するのは容易なことではない。 また、一般的には「雑賀孫市」として雑賀衆の頭目と称されることが多いが、雑賀衆全体を支配する指導者だった訳ではなく、そもそも雑賀衆自体がそこまで統制された組織ではなかった。石山合戦講和交渉の段階でも、「三下間」(頼廉、仲之、頼龍)に対して出された起請文は「雑賀一向宗」の四宿老と「雑賀衆」七人(孫一はこちらに含まれる)の連名であった。司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』にあるような「七万石の大名」というのも、それを伝えた『紀伊続風土記』自体が明らかな間違いとして指摘する通りである。ただし、織田・本願寺双方の文書が伝えるように、その軍事的才能は当時から高く評価されており、顕如からも別格の扱いを受けていたのは確かである。 生没年も明らかではないが、同じ雑賀の土豪である佐武伊賀守の『佐武伊賀覚書』によると、1557年頃のこととされる名草郡の戦い(和佐荘と岩橋荘の間の土地争い)では、既にある程度の有力者として活躍していることから、その頃には20歳代には達していたものと考えられる。 家族関係も信頼できる史料はない。父は「鈴木佐大夫」(『紀伊続風土記』)説が一般的だが確かではなく、「鈴木左近大夫」(「太田水責記」)、「鈴木次郎左衛門光善」(『寛政重修諸家譜』)、「鈴木孫市重意」(『畠山記』)など、どれも信頼性に欠ける。子は「鈴木孫三郎重朝」ともいわれるが、重朝の家譜自体が、彼以前を「其先未詳」としている。『佐武伊賀覚書』によると、伯父(叔父?)に「宗忠」という人物がいたらしい。 『東京湯川家文書』永禄五年七月の起請文に「十ヶ郷 鈴木孫一殿」とあるのが年紀の確かな資料での初出。(なお、十ヶ郷は和泉国に程近い紀ノ川北岸の河口近くであり、一般に馴染み深い「雑賀荘」はその対岸の、紀ノ川と和歌川と和歌浦に囲まれた地域を指す)。本拠は平井(現在の和歌山県和歌山市平井)。 孫一の性格は陽気で、酒と女が好きだった。又、目立ちたがり屋で、孫一が現れると常に若い男女が集い、騒ぎ立てていた。 合戦となると人が変わり、雑賀鉢兜を被り、天狗具足という魚鱗札の胴を着け、八咫烏の旗織物を掲げ、「愛山護法(あいざんごほう)」という名前の火縄銃を携えて戦場に赴いた。又、右肩から血を流している仏像画を戦の時に持ち歩いていた。これは重秀が戦で負傷した時に仏が身代わりになって血を流したものと伝えられている。 熱心な浄土真宗の門徒で、本願寺顕如から「法敵をたいらげよ」という要請により、長年信長と闘い続けた。 石山合戦では多くの雑賀衆と共に本願寺派として参戦し、織田信長を苦しめた。重秀は下間頼廉と並んで「大坂之左右之大将」とまで称えられている。また、天正2年10月には、足利義昭復権の協力者として真木島昭光(義昭の近臣)からの書状を受け取っている。 特に原田直政が戦死した天王寺の戦い(天正3年5月)では、後詰として出陣した信長と直接対峙しており、双方に少なからぬ死傷者を出した。なお、この戦の後に京に孫一の偽首が晒された辺りからも、彼の武名の高さを伺うことができる。 この後も孫一は毛利軍による石山城への補給手配のために播磨に赴いたり、信長の雑賀攻撃を迎え撃ったり、信長に反旗を翻した荒木村重の有岡城の加勢に入ったり、と各地で活躍した。 しかし反信長勢力が各個撃破され、頼みの雑賀衆も内紛を抱えているとあり、結局本願寺は降伏。この時に信長との調整役を務めたとあるが、詳しいことは不明である。雑賀衆としては和睦派顕如支持と継戦派教如支持に分かれていたが、最終的には顕如派にまとまっている。 ここまで本願寺方の主力として動いていた孫一だが、講和後は信長に接近した。 天正9年には雑賀荘の土橋若大夫との対立が先鋭化、顕如の説諭も空しく、翌年1月23日には孫一の刺客による若大夫暗殺に至る。そして孫一派は信長の後援を得て若大夫派を攻撃し、同年2月8日には完全に勝利した。 しかし同年6月2日未明に本能寺の変が勃発。孫一は翌3日朝に変報を受け、その夜に出奔して織田信張の和泉岸和田城に脱出した。この行動は「夜逃」とすら評されたが、翌四日には土橋派の孫一派攻撃が始まっており、危うく難を逃れられたことになる。 その後2年ほど史料に現れないが、天正12年の小牧・長久手の戦いに際しては、根来衆・雑賀衆ら紀州勢の多くが織田信雄・徳川家康側と連携して和泉に出兵する中、孫一は羽柴秀吉側で参戦している(8月の秀吉の陣立書に鉄砲頭の一人として「鈴木孫一殿 弐百」とある。これは鉄砲頭9人のうち最高数である)。 そして天正13年の秀吉の紀州攻めに際しては、3月25日、太田城への降伏勧告の使者を務めており、役の終結後には息子を秀吉の人質に出した。「鈴木孫一重秀」の事跡として確実性が高いのはここまでである。以後は雑賀に戻った形跡がなく、死ぬまで大坂で過ごしたものと考えられる。 なお、この時人質に出された子が後に豊臣家の鉄砲頭となった「鈴木孫一郎」とも。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E7%A7%80