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里見義堯 Satomi Yoshitaka(1507年-1574年) 里見實堯的長子、母為佐久間盛氏之女、正室為長野業正之妹;幼名權七郎,「堯」字是來自於古中國三皇五帝的堯,法號東陽院殿岱叟正五居士。 天文二年(1533年)7月27日、里見氏家中發生了內亂(天文之內訌/稻村之變)。因父親實堯遲遲不將家中實權歸還堂兄義豐,而且謠傳實堯私通後北條氏;義豐為了奪回繼承權,在稻村城殺害了實堯。義堯在北條氏綱的支援下,和重臣正木時茂在上總國金谷城舉兵,並在犬掛之戰殺死義豐,奪取家督之位。長久以來,昏庸的主君義豐殺害無辜的實堯,為了復仇的義堯起兵討伐義豐,口耳相傳下一直被堅信不移。近年,也有看法認為實堯、義堯父子勾結仇敵北條氏綱,有政變的意圖;義豐為了穩固統治權,才先下手為強。有關這時期的記錄,有人認為下克上的義堯一繼承家督就立刻背叛後北條氏,並為了掩蓋事實,捏造自己上位的正當性,而竄改歷史。 向北條氏綱借兵成功政變的義堯,這時,真里谷信清過世,真里谷氏家中為了爭奪家督之位而引發內亂。因義堯支持真里谷信應、氏綱支持真里谷信隆,兩家立場不同而成為敵對關係。但是,義堯考慮到要獨力對付在關東勢如破竹的北條氏有所困難,於是和小弓公方足利義明結盟。天文六年(1537年),真里谷信隆不敵義堯,兵敗投降。天文七年(1538年)、發生第一次國府台之戰。此戰義堯並未積極參與,在得知義明戰死後,就脫離戰場回到了安房。此役因為足利義明的戰死,小弓公方實質上已形同滅亡。 義明死後,義堯積極向下總、上總國發展,並以上總國的久留里城為根據地,構築了里見氏最強盛的時期。對此,在天文二十一年(1552年)、北條氏康策動里見氏旗下的領主、發生大規模的反叛。天文二十四年(1554年),北條氏康和今川義元、武田信玄組成甲相駿三國同盟。到了弘治元年(1555年),整個上總國西部幾乎為後北條氏所佔領。為了改變這個局勢,義堯開始鎮壓傾向北條方的國人眾勢力,奪回失去的領土;並和越後國的上杉謙信聯手,與太田氏、佐竹氏、宇都宮氏等大名站在同一陣線,徹底展現和氏康對抗的態勢。 弘治二年(1556年),率領里見水軍和北條水軍戰鬥,大勝而回(三浦三崎之戰)。只是,據說北條水軍因為暴風雨的緣故而造成重大損失,這才是勝利的主因,因此不能算是完全的勝利。 永祿三年(1560年),北條氏康入侵里見氏領地,義堯閉守久留里城。在得到上杉氏的援軍後,里見軍開始反攻,幾乎取回了整個上總國西部。永祿五年(1562年)、剃髮出家,將家督之位讓與兒子里見義弘後隱居,但仍然繼續握有家中實權。 永祿七年(1564年),呼應北條方太田康資的倒戈,義堯和義弘一同攻進敵對大名千葉氏的重臣高城胤吉勢力範圍、下總國的國府台城,並在此迎擊北條軍,掀起了第二次國府台之戰。起初,斬殺了北條軍將領遠山綱景、富永直勝,里見軍沉醉在一時的勝利而開始疏忽大意。拂曉,北條氏康發動奇襲,和北條綱成聯手夾擊下,里見軍遭受大敗,家中重臣正木信茂也在此役戰死。戰後,義堯、義弘父子失去了上總國大半而退回安房國,里見氏的勢力也一時衰退。不過,之後以義弘為中心,里見氏在安房國休養生息,慢慢奪回上總南部的領土。永祿九年(1566年)年前,收復久留里城、佐貫城等失地。對此,佔有上總國北部的後北條氏,在佐貫城北方的三船山(現三舟山)上的三船台修築城砦來對抗。 永祿十年(1567年)8月,里見義弘率兵駐紮在三船台附近,準備包圍北條軍。得知消息的北條氏康,派遣嫡子北條氏政和太田氏資等人前往援助;並派出三男北條氏照和原胤貞率領分隊攻擊義堯居城久留里城。對此,義堯堅固防守城池;而義弘和正木憲時從佐貫城出兵,在三船台大破氏政主力,太田氏資擔任北條殿軍的任務不幸戰死(三船山之戰)。此外,指揮北條水軍確保浦賀水道的北條綱成,嘗試從三浦口入侵安房國,但和里見水軍在菊名浦海戰後造成損傷。於是察覺有被從水陸夾擊危險的北條軍,全軍撤離上總國。 因為三船山的勝利,里見氏在上總國的支配上佔有優勢,並開始向下總國發展,之後也貫徹和後北條氏對立的決心。義堯在天正二年(1574年),病逝於久留里城,年六十八歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%BE%A9%E5%A0%AF
里見義弘 Satomi Yoshihiro(1530年/1525年-1578年) 里見義堯的長子、母為土岐為賴之女、正室為青岳尼、繼室為足利晴氏之女;幼名太郎、初名義舜、戒名瑞龍院殿在天高存居士。 永祿年間,父親義堯開始授予他家中的實權,由義舜改名為義弘。 永祿四年(1561年)、因應箕輪城主.長野業正病逝,上杉謙信意欲出兵關東,而與里見氏結為同盟。永祿五年(1562年)、義堯將家督之位讓與義弘。 永祿七年(1564年)、呼應後北條氏守將.太田康資的叛變、發兵進攻北條氏,掀起第二次國府台之戰。起初斬殺敵將遠山綱景、富永直勝,取得一時優勢。但北條氏康發動夜襲,與北條綱成聯手挾擊里見軍,里見氏大敗退回安房國。之後在北條水軍的強勁攻勢下,正木時忠、土岐為賴、酒井敏房等有力領主紛紛倒戈,里見氏也喪失上總國大半領土。 里見氏的勢力雖然一時衰退,但在三年後的永祿十年(1567年),義弘在三船山之戰擊破北條軍而挽回頹勢。義弘以上總國佐貫城為大本營,建立包含安房國、上總國、下總國的領國體制,構築里見氏最強盛的時期。 天正五年(1577年)、義弘一改之前對立的態度,與後北條氏締結和約(房相一和)。 天正六年(1578年)、緊接著上杉謙信,義弘也突然病逝於久留裡城。 義弘生前交代將安房國給予弟弟.義賴(一說是庶長子)、上總國給予嫡子.梅王丸(里見義重),分割領土的決定在義弘死後導致里見氏家中分裂。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%BE%A9%E5%BC%98
里見義賴 Satomi Yoshiyori(1543年-1587年?) 里見義弘的庶長子或弟弟、母不詳、正室為北條氏政之女.鶴姬(龍壽院)、繼室為北條氏康之女.菊姬、側室為正木時茂之女.龍雲院;初名義繼、別名太郎。 義弘生前約定自己死後給予義賴安房國,給予嫡子梅王丸(里見義重)上總國;據說義賴對這個分割繼承感到不滿,義弘和義賴的關係逐漸變得險惡。 天正五年(1577年),義弘與北條氏和睦,義賴以正室迎娶北條氏政的女兒.鶴姬。可是,因為鶴姬2年後早逝,遂續娶氏政的妹妹菊姬為妻。 天正六年(1578年),義弘死後,與里見義重圍繞家督和領土對立。得到北條氏政的支援,作為妹婿的義賴在天正八年(1580年)之前壓制上總,並讓里見義重出家,成功繼承里見氏全部的領地。 翌年,殺害反抗的家臣正木憲時,強化自己的體制。 此後義賴夫人的死使跟北條氏政的相爭復燃,義賴一方面擊退氏政,接著與豐臣秀吉取得聯合,展現卓越的外交手腕。多虧義賴的舉措,小田原懲罰中遲到的里見氏才能繼續存在。 天正十五年(1587年),義賴在安房岡本城病死。 出處 http://www.labtud.com/article-105994-1.html
里見義重 Satomi Yoshishige(1570年?-1622年) 里見義弘の嫡男で、幼名は梅王丸(うめおうまる)。母は古河公方足利晴氏の娘。安房里見氏当主だったとされるが、後に異母兄(叔父とも)里見義頼によって無理やり出家させられて、淳泰(じゅんたい)と名乗ったという。 鶴谷八幡宮に残る元亀3年(1572年)12月20日付けの棟札銘に「源梅王丸」の名前が記されていることから、生年は少なくとも1572年以前にさかのぼると考えられる。なお、実名については鹿野山神野寺に天正年間に納められた棟札及び『系図纂要』などによる。本文では一般的に使われている「梅王丸」の呼称を用いて解説する。 里見義弘は初め、小弓公方足利義明の娘・青岳尼を正室としていたが、子供に恵まれないまま死去し、その後かつては小弓公方家及び里見氏と対立関係であった古河公方家を反北条氏の観点から手を組むことになり、足利晴氏の娘を後室に迎え入れて誕生したのが梅王丸である。 だが、梅王丸誕生によって廃嫡される事となった義弘の庶長子(一説には実弟)の里見義頼(当時は義継)や、次期当主決定に関与できなかった安房国内の家臣達の不満は高まってしまう。そこで義弘は里見氏の家督は梅王丸に継承させる代わりに安房一国を義頼に与えるという妥協案を出した。こうした中、義弘が天正6年(1578年)に居城である上総国久留里城で死去すると、義弘側近や正木憲時・加藤信景ら上総国内にいた重臣達は直ちに梅王丸に家督を継がせた。その結果、義頼や正木頼忠ら安房国内の里見氏関係者は誰も葬儀には参加しないという異常事態が発生した。 異常事態は2年にわたり、この間両国間の緊張は高まる一方であった。その間に里見義頼は居城を上総国境から遠い館山城に移すとともに仇敵である筈の北条氏政と密かに盟約を交わしていた。天正8年(1580年)4月、義頼は奸臣・正木憲時を討つ事を大義名分として挙兵して上総国に侵攻を始めた。義頼は梅王丸側の対応が整う前に上総国内の主要拠点を制圧して、正木憲時を小田喜城に梅王丸と加藤信景を佐貫城(義弘のかつての居城)において取り囲んだ。憲時は一時正木頼忠を破ってその居城の勝浦城を逆に制圧するなどの奮戦を見せたものの、佐貫城の加藤信景はその月のうちに力尽きて梅王丸の助命を条件に無血開城し、憲時も翌年には小田喜城籠城中に家臣に殺害されて、義頼派の圧勝に終わった。 その後、梅王丸は義頼と加藤信景との約束どおりに出家する事を条件に命を助けられて淳泰を名乗り、始め岡本城郊外の聖山、後には泉慶院(現在の館山市)の住持となって、里見氏改易後に死去したとされている。だが、義頼廃嫡の原因となった梅王丸の母と幼い妹に対する義頼の憎悪は大変なものがあり、上総琵琶首館(現在の市原市)に幽閉された後に天正11年(1583年)に母子は変死を遂げたという。 なお、梅王丸の名は里見氏歴代からは抹消されているが、梅王丸名義によって出されたと推定される文書が存在するために、重臣の補佐を受ける形での当主としての政務が行われていたものと考えられている。また、近年では里見義康元服後に一時還俗してこれを補佐したために「義重」の実名が伝わっているという説も出されている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%BE%A9%E9%87%8D
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