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三枝昌貞 Saegusa Masasada(1537年-1575年) 甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。諱は「守友」とされてきたが、近年は確実な文書上の表記から「昌貞」であることが指摘される。 父虎吉は「三枝右衛門尉」を名乗り武田家の奉行人として活動し、現在の山梨県中央市木原に本領を有していたという。戦国期に三枝氏は武田譜代山県昌景を寄親としている。 『甲陽軍鑑』『寛永諸家系図伝』などに拠れば昌貞は虎吉の嫡子で、武田信玄の近習衆として仕えていたが、信玄にその才能を認められて足軽大将に出世したという。『甲陽軍鑑』では昌貞は山県昌景と同族の山県氏の出自で三枝氏の養子になったとされているが、『寛永伝』では逆に昌景の娘婿(後に猶子)となり山県善右衛門尉を名乗ったとしている。なお、文書上においては永禄11年(1568年)頃から「山県勘解由左衛門尉」を称していることが確認される。『甲陽軍鑑』によれば30騎、足軽70人を指揮したという。 『寛永伝』三枝守友譜に拠れば、弘治年間には信玄の勘気を受け一時蟄居したという。文書上の初見は川中島の戦いに際した永禄4年(1561年)3月で、昌貞は信濃における活躍で知行を与えられている。さらに永禄6年(1563年)には叔父の守直(新十郎)の遺児養育と後見を命じられている。永禄12年8月には甲斐塩後郷(山梨県甲州市塩山)において代官を務めており、この頃には赦免されていると考えられている。 その後は奉行衆や武田氏の御料所の代官などを務めている。昌貞関係文書において、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められ、『寛永伝』に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められている。また、昌貞関係文書は信玄直筆のものも多く含まれ、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている一方で、昌貞は武田家に順調に加増されていることが指摘され、信玄と昌貞の親近性を反映しているとも考えられている。 永禄8年(1565年)10月に武田家では信玄嫡男義信による謀反事件が発生しているが(義信事件)、これを受けて翌永禄9年8月には武田家臣が信玄への忠誠を誓う起請文を信濃国生島足島神社へ奉納しているが(「下之郷起請文」)、永禄9年8月の起請文では長坂昌国(源五郎)、矢島義房、佐藤民部少輔らとともに昌の名が見られる。武田家ではさらに翌永禄10年8月にも起請文の徴収を行っており昌貞はこの際も再び起請文の提出を行っており、昌貞が義信に近い立場であった可能性も考えられている。 永禄11年(1568年)の駿河今川領への侵攻(駿河侵攻)に際しては父の虎吉が駿河田中城の城将などを務めていることが確認されるが、『甲陽軍鑑』によれば信玄は同じく信玄近習の真田昌幸や曽根昌世とともに昌貞の存在を重視し、昌貞は花沢城攻めで一番槍の武功を立てたことにより信玄から感状を受け、山県昌景からは名刀「吉光」を与えられたとい逸話を記している。なお、永禄11年推定の「武田信玄陣立書」(山梨県立博物館所蔵)においては、昌貞は弓衆を率いる立場として記されている。 昌貞は信玄後期から勝頼期まで活動し、『甲陽軍鑑』『信長公記』に拠れば、以下の逸話を記している。天正3年(1575年)の長篠の戦いのときは、河窪信実(信玄の異母弟)を主将とした長篠城を監視する鳶ノ巣山の砦を守備する別働隊に配属された。そこでの守友は、鳶ノ巣山の山ろくに当たる「姥が懐」という所に設けられた支砦の守備を弟たちと担当していたため、信実と同様に主戦場から離れていた。だが、織田信長の命で送り出された酒井忠次が率いる織田・徳川の別働隊による襲撃を5月21日早朝に受ける。 酒井奇襲隊は、武田軍守備隊が無警戒な山奥から尾根伝いに背後へ迫って、5砦を撃滅する目的であった。その上、不運にも守友の担当した「姥が懐」の砦だけが、山頂や尾根に構えられた砦ではなかった為、敵襲の察知が一段と遅れたとも言われる。奇襲隊副将格の本多広孝の軍勢に、直上から逆落とし同然に攻め掛かられた守友たちではあったが、数で劣りながらも奮戦は目覚ましかったという。しかし、次第に劣勢に立たされていくばかりか、敵方には隣砦「君ヶ伏床」を壊滅させた松平清宗などが増援に加わるが、武田守備隊へは増援が無く万事休す。2人の弟・源左衛門守義、甚太郎守光たちと共に戦死したという。 昌貞が討たれた「姥が懐」の付近(愛知県新城市乗本字東畑)に、「三枝兄弟」の墓碑が所在している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9D%E6%98%8C%E8%B2%9E
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望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
奥平貞能 Okudaira Sadayoshi(1537年-1599年) 奥平定勝(貞勝、道文入道)の嫡男。母は水野忠政の妹。子に奥平信昌・仙千代・奥平昌勝。娘に本多重純(本多広孝の次男)室がいる。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。諱は近世の家譜・編纂物では「貞能」とするが、文書上からは「定能」であることが確認される。 奥平氏は奥三河の作手亀山城を本拠とする国衆。戦国期の永正年間には定能の祖父にあたる貞昌の頃から史料に見られ、定能の父定勝の頃には駿河今川氏が三河経略を行い、今川氏との関係を強めている。 定能の史料上の初見は天文16年(1547年)8月25日付今川義元判物写で、幼名仙千代と称していた定能は叔父藤河久兵衛尉とともに医王山砦を攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。叔父の藤河久兵衛尉は直後に今川氏に対して謀反を企て、翌天文17年正月26日付今川義元判物写に拠れば、定能は父定勝により今川氏への忠節の証として吉田へ人質として提出されたという。 弘治2年(1556年)10月頃までには元服し、通称九八郎を名乗る。この頃、菅沼氏など三河国衆の間では親今川派と反今川派の間で内部紛争が起こっており、東三そう劇と呼ばれている。奥平氏でも父定勝が今川氏に臣従しているのに対し、同年春頃に定能は奥平久兵衛尉・彦九郎・与十郎らと今川氏に対して逆心を企て、定勝派の親類衆により高野山へ追われ、その後赦免されたという。 永禄3年(1560年)5月 、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に敗死した後、今川氏と松平氏(徳川家康)との間で抗争が激化するが、定能は父定勝とともに今川派として行動している。なお、この頃父の定勝は隠居し、定能への代替わりが行われたと考えられている。 永禄7年(1564年)2月、奥平氏は今川氏から離反し、徳川家康に属した 。定能は家康から、家康に敵対する牧野氏・大給松平氏の所領である牛久保領・大沼領・大給領など3500貫文と遠江三分の一の知行を宛行われ、受領名美作守を拝領している。 以後、家康の遠江侵攻に従う他、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも参戦する。 永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。同年11月19日付武田信玄書状写に拠れば、この頃定能と武田氏は接触を行っている。元亀2年(1571年)3月頃には奥平氏は武田氏に従属しており、同年4月に行われた武田氏の三河侵攻では田嶺・長篠菅沼氏(山家三方衆)とともに案内役を務めている。武田氏は織田氏とは友好的関係を築いていたが徳川氏とは遠江領有を巡り緊張関係にあり、元亀4年(1573年)正月に武田氏による徳川領国への侵攻が開始されると、山家三方衆は武田家臣山県昌景に従い従軍している。なお、同年4月には信玄が死去し、武田氏の徳川領国の侵攻は中止されている。 元亀4年(1573年)春、野田城を降しながら撤退する武田軍を不審に思っていたが、やがて、秘匿されていた信玄の死を確信する。同年7月から包囲されていた三河設楽郡長篠城の救援に向かう武田軍の中に定能も居たが、この来援を待てなかった長篠城主菅沼正貞は翌月には降伏し、城を明け渡した。無事だった正貞は、徳川と通じているとの疑念をもたれ、救援の武田軍に身柄を拘束された。 ところが、内通疑惑は定能へも波及。定能への疑惑は真実で、家康とは密かに連絡をとりあっていたそうだが、この時点では武田信豊たち援軍諸将には露見せずに済んだ。しかし、初期の3人以外に更なる人質の供出を強いられるなど次第に立場を悪くした。 一方、その頃家康は奥三河における武田の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平を味方に引き入れることを考え、奥平に使者を送った。定能の答は「御厚意に感謝します」という程度のものだった。そこで家康は信長に相談した。信長は「家康の長女・亀姫を定能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきた。 家康は信長の意見を入れ、定能に 一.亀姫と貞昌の婚約 二.領地加増 三.定能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること を提示した。 元亀4年6月22日、定能は家康に 一.信玄の死は確実なこと 二.定能親子は徳川帰参の意向であること を伝え、しばらくして再び徳川の家臣となった。 8月21日、一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川方に走った。それに伴い、離反から5日後の8月26日には、次男・仙千代をはじめとした人質3人が処刑された(一説には串刺し刑であったともいわれるが、定かではない)。 天正元年(1573年)に長男・貞昌(のちの信昌)に家督を譲って隠居し、自身は家康の許にあって、奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われている。 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで、酒井忠次に属して鳶ヶ巣山奇襲隊として参戦し、窮地に陥っていた長篠城救援に貢献した。戦後は、信長と家康の両将から見込まれた信昌を引き立たせるべく、表舞台から完全に退いている。 天正18年(1590年)3月、小田原遠征の途中で三河額田郡長沢に逗留した豊臣秀吉から招かれ、長篠の戦話などを所望された。その褒美として呉服を拝領し、都住まいを奨められている。上洛後は美作守に叙任され、秀吉の相伴衆として二千石を与えられた。秀吉薨去の際には、形見分けとして茶器や黄金を拝領した。 慶長3年(1598年)12月11日、伏見において病没。62歳。戒名は寿昌院殿牧庵道渓大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E8%83%BD
德川家康 Tokugawa Ieyasu(1543年-1616年) 松平廣忠的獨子、母為水野忠政之女.於大之方、正室為今川義元養女.築山殿、繼室為豐臣秀吉異父妹.朝日姬、側室為正木賴忠之女.養珠院、戶塚忠春之女.西鄉局等等;幼名竹千代,別名次郎三郎,受今川義元偏諱「元」字,初名為松平元信、元康,後改名為德川家康,尊稱大御所。 人質時代 出身於三河松平氏,自稱南北朝新田義貞的後人,新田一族的世良田親氏娶三河松平鄉的國人眾在原信重的女兒,改名松平親氏,為三河松平之祖。 父親廣忠時,松平氏位於今川與織田兩強大大名之間,且父系家族偏今川家,母系水野氏偏織田家。出身讓家康幼年充滿矛盾與危機。2歲時,母系家族首領水野忠政病逝,由水野信元繼任,信元隨後投向織田家,但其父廣忠則帶家康投向今川家,並被迫與於大離婚。6歲時,遭父親繼室之父戶田康光出賣被織田家奪為人質。8歲時,父親廣忠遭織田收買之叛徒殺死,之後今川家打敗織田家,又將家康奪為人質用以控制岡崎城。 永祿三年(1560年),今川義元為上洛,引軍進入尾張與首當其衝的織田軍交戰,家康參與該戰役,並擔任先鋒,負責突襲丸根城,並且取得丸根城守將佐久間大學的首級。不過今川義元於在戰役期間因為大意輕敵受到織田信長的奇襲(即桶狹間之戰)遭到其部下毛利新助和服部小平太梟首,其後家康返回岡崎城,原本尚未打算從今川氏從屬中獨立,不僅不斷出兵騷擾織田氏的領土並且攻打織田氏的城寨,同時頻頻上書給義元之子今川氏真,討伐織田信長,為今川義元復仇雪恥。然而今川氏真的無能使得駿河國內的政情越來越紊亂,有不少今川氏的老臣紛紛出走或逃離,使得家康終於意識到今川氏是確定走向敗亡的路途。 松平獨立 家康與織田信長締結的軍事同盟清洲同盟,又稱為織德同盟、尾三同盟,為左右日後日本歷史發展的重要同盟,是戰國時期許多盟約中締結雙方恪守諾言最好、維持時間最長的一個盟約。永祿五年(1562年)家康接受織田信長的私下求和,在兩國將軍隊撤離邊界與釐清彼此的國界之後,信長邀請家康前往尾張的清洲城締結盟約。 清洲同盟後,永祿六年(1563年)又爆發遍布西三河全境的一向一揆,當時家康的部分家臣加入一揆軍,包括本多正信及三方原之戰中慷慨赴義的夏目吉信,這是家康人生中的第一個大危機,這對當時只領有三河半國的家康是動搖國本的戰爭。經過家康近半年的苦心征戰,最終用攻心的方法將其瓦解。就這樣,岡崎周邊地區不安要素被掃除。從此,家康開始推動對今川氏的攻略。拉攏東三河的戶田氏和西鄉氏這樣的國人眾的同時,軍隊向東推進,消滅鵜殿氏一樣的敵對勢力。永祿九年(1566年)平定東三河、奧三河(三河國北部),統一三河國。 同年,從朝廷得到從五位下、三河守的任命。不久,家康自稱松平氏是清和源氏族新田氏的支流得川氏之末裔,並把「得川」改為「德川」,並於永祿十年(1567年)得敕許,改姓德川。又把從今川義元拜領到的「元」字改為「家」字。這就是後世熟知的德川家康名字的由來。 和戰武田 永祿十一年(1568年),甲斐國的武田信玄開始侵略駿河今川的領地(駿河侵攻),武田信玄遣使至岡崎拜會家康,協議兩家出兵消滅今川氏,並約定戰後以大井川為界,以西歸松平氏,往東屬武田家,史稱大井川會盟。酒井忠次代表家康以割讓遠江國為條件而與武田氏結成同盟,呼應駿河侵攻。同年年底,在武田大破駿府城後家康軍攻克今川領遠江國的曳馬城。永祿十二年(1569年)駿府城失守後,今川氏的新居城掛川城又遭到包圍。氏真本固守城池,在籠城戰的最後,家康進行開城勸告的呼籲,氏真終於投降。自此家康開始支配遠江國。今川氏遭到覆滅的命運,今川氏真也被放逐。從此家康又多獲得廿多萬石的領地,同時提高三河在諸大名眼中的地位。元龜元年(1570年),家康將治所遷往曳馬城,改名濱松。 家康東進的同時,信長也邁出統一全國的第一步。永祿十一年(1568年),織田信長奉室町幕府13代將軍足利義輝的弟弟義昭行上京之途,家康也向信長派遣援軍。當足利義昭以信長包圍網的外交及戰略包圍織田信長時,企圖以副將軍一職來說服家康,然而家康拒絕足利義昭並繼續協助織田信長。元龜元年(1570年)織田氏和德川氏聯軍在姊川(今滋賀縣長濱市野村町附近)與淺井氏、朝倉氏對壘,史稱「姊川合戰」(日語:姊川の戰い)。此戰,德川軍以少勝多擊敗朝倉軍,又配合織田軍擊敗淺井軍,立下大功。 元龜三年(1572年)10月,信長包圍網的參與者之一武田信玄動員兩萬五千人意圖進軍京都(上洛),途經家康的遠江國。當時的家康無論是兵力、戰略以及實力也比不上信玄。起初信玄剛剛入侵遠江國時家康向信長求救,但由於忙於對付近畿一帶的反信長勢力,信長沒有派遣援兵並寫信建議家康放棄遠江退回三河。但是家康並沒有採納信長的建議,也沒有立刻出兵與武田對決。隨著遠江北部的城池一座座被信玄占領(一部分被攻破,另一部分投降),二俁城成為信玄的下一個目標。家康由於等待信長的援軍而沒有救援二俁城,但是當佐久間信盛率領的織田家援軍到達時二俁城已經陷落,家康的居城濱松城暴露在武田家的面前。當武田軍行軍至濱松城北面時突然掉轉方向北上三方原,德川軍亦尾隨至三方原,於同年十二月二十二日下午,兩軍已經在三方原完成布陣。由於雙方兵力懸殊,且用兵之妙信玄又略高一籌,兩軍交戰至下午六時時德川、織田聯軍大敗,織田援將平手泛秀戰死。此戰德川家死傷一千六百餘人,眾多家臣戰死,家康曾一度想要切腹。其部下分四批陸續扮成家康吸引信玄軍兵力,家康本人最終在家臣的拚命保護下突圍逃回濱松城。史稱三方原會戰。傳說家康遭武田軍山縣昌景追擊時,曾嚇到拉褲子。他讓人當場繪下自己愁苦的樣子,作為日後激勵之用。該畫像稱為「顰像」。至於武田信玄則繼續西征,但攻下野田城後突然折返,原因是信玄病重不久病逝。武田信玄死後,織田信長同年先後消滅室町幕府以及朝倉義景和淺井久政,淺井長政父子。整體上威脅織田和德川的勢力暫時結束。戰國大勢趨於統一,而家康一面與武田氏對抗,一面加強領內建設。 天正二年(1574年),武田信玄死後繼承武田家的武田勝賴率25,000大軍攻打高天神城,家康等待織田軍的增援,不過在增援到達前,高天神城已經被攻下。天正三年(1575年),武田勝賴率一萬五千人再次攻擊德川的領地長篠城,守方奧平信昌僅用500兵死守一段時間。同年5月,德川氏聯合意欲一口氣掃平武田氏的織田氏於長篠設樂原大破武田勝賴。織田信長命令士兵一人帶一把木柴,紮成一道柵欄,用3000火槍兵輪番出擊,射死上千武田氏騎兵。雖然兩軍死傷甚多,不過武田軍損失多名大將,間接使武田家衰退,是為長篠之戰。 天正七年(1579年),有謠言說家康正妻築山殿(本名叫瀨名姬,出生於駿河庵原郡瀨名鄉,關口親永之女,母親是今川義元的妹妹,血緣上即是今川義元的甥女)聯合兒子信康(家康嫡長子)欲倒向武田家,以及築山殿和信康對待其妻德姬(織田信長次女)態度惡劣。因此信長下令家康立刻處決築山殿以及信康,最後築山在流放途中被家臣刺殺,信康則是切腹謝罪。 天正十年(1582年),織田和德川攻打武田領地,首先是木曾義昌背叛武田家,接著信長和家康和後北條氏政分三路攻擊武田的根據地,武田家臣則開始大量倒戈,導致織德北三方聯軍只花一個月就殲滅武田家。勝賴在天目山將武田家第二十代家督的身分傳給嫡子武田信勝,完成信玄的遺願後,與妻子切腹自盡。家康因其戰功,被信長增封家康駿河一國。信長頒布武田狩獵令,即任何與武田有關的人都要撲殺(武田氏家臣穴山梅雪因投降信長免遭處罰),家康則暗中命令井伊直政招降並藏匿武田家的遺臣(此即後來在小牧.長久手之戰大放異彩的井伊赤備隊),與織田信長殺害遺臣有所分別,而江戶時代的武田氏族幾乎是家康在此時所藏匿的。 秀吉時代 天正十年(1582年),消滅武田氏的勢力後,家康被信長招待到安土城,部下嫌料理難吃(大多說法是信長嫌光秀招待不周,魚蝦有腥臭),信長當場懲處主辦人明智光秀。6月2日,明智光秀突然謀反,以迅雷不及掩耳之勢包圍京都本能寺,信長被迫自焚,史稱本能寺之變。信長一死,圍繞政權落入誰手的問題各大名之間展開激烈鬥爭。本能寺之變時家康正在界市(又稱「界港」,現位於大阪府中部),因急取近道需經伊賀返回三河,期間由服部半藏正成、茶屋四郎次郎清延等護送平安回到三河,才免遭危難,後稱「神君伊賀穿越」。此時羽柴秀吉在山崎之戰(又稱天王山之戰)擊敗明智光秀。明智光秀逃亡至時小栗栖被專門獵殺落魄武士的農民刺殺。 同年,家康在平安回到岡崎後,乘機發兵進攻統治空窗期的武田舊領,與同時窺伺武田舊領的北條氏發生激烈衝突,期間依田信蕃、真田昌幸的奇襲作戰成功的截斷北條軍的補給線,北條軍在將上野與佐久郡僅有的軍力投入後亦無法挽回頹勢,尤其關東平原的佐竹義重此時又開始蠢蠢欲動,使北條終於決定與德川講和。10月29日締結和議,內容如下:一、氏直迎娶家康之女督姬。二、甲斐、信濃歸家康所有,上野則放任北條侵吞,互不干涉。戰爭至此告一段落。 本能寺之變後,羽柴秀吉迅速趕回並成功打敗明智光秀和政敵柴田勝家之後,成為織田家家臣中,最具威望和實力之人。而此時,織田信長次子織田信雄亦日益感受到秀吉對他的極大威脅。於天正十一年(1583年),與家康聯合,對抗羽柴秀吉。天正十二年(1584年)3月,秀吉挾其在山崎、賤岳兩戰皆勝之餘威號稱約12萬5千餘名大軍準備開戰。當時德川軍加上信雄兵力,總數約6萬餘人,處於劣勢。於是家康在經過深思熟慮之後,所採用策略是:取內線集中優勢兵力以主動攻勢為原則,且視時機而動。3月28日家康急行軍抵達小牧山和自長島趕來的織田信雄軍一起集結布陣。秀吉軍遠道而來,師勞兵疲,兵力雖多,但德川軍防守嚴密,不敢貿然進攻,於是採用池田恆興所建議之迂迴戰術(另一說為其養子三好秀次所建議),派2萬大軍意圖直接攻擊德川居城三河岡崎城,使德川軍軍心動搖,不戰而敗;且小牧山地勢孤立,如果軍隊繞至小牧山後,來個前後夾攻,德川軍必敗無疑。而家康早已得到情報,並在必經之路長久手谷地設伏,池田軍大敗。當秀吉趕來救援為時已晚,戰爭於是陷入僵持階段。由於長期交戰,軍兵疲憊,再加上家康又遲遲不與秀吉就此一戰之後的善後情勢表達其和談條件。羽柴秀吉與織田信雄單方面進行和談。自此之後,家康即在戰略上陷入孤立態勢。12月,家康基於政治及戰略考量下將次子於義丸(結城秀康)送與秀吉作養子,臣服於羽柴秀吉。 天正十三年(1585年)德川氏和北條氏雙方達成分割武田家遺領的協議。可當家康要求當地領主真田昌幸歸還沼田城給北條氏時,真田以此地為我故有支配而拒絕,並與敵對關係的上杉氏友好。同年7月,回到濱松城的家康得知真田昌幸謀反,立即於8月派7千兵力開赴上田城,而真田軍兵力只有1千5百人。8月2日德川軍進攻二丸遭受猛力反擊而撤退,在撤退期間同時遭到上田城城兵的追擊和來自砥石城的側面攻擊,德川軍因而陷入混亂,在追擊戰中矢澤城的士兵同時出擊。結果在神川,德川軍多數的士兵溺死。真田軍憑藉的地形之利使德川軍戰死達1千3百人,而己方只損失40人。不久真田方得知上杉軍派出增援部隊,28日德川軍開始撤退。大久保忠世諸將還留在城內打算奮力一拼。但是11月德川的譜代重臣石川數正出奔到豐臣家,至此德川軍完全放棄,全軍退出。此戰在《真田軍記》和《三河物語》都有記錄。真田昌幸因此被評為擁有優秀智謀的武將,也因此,家康對真田氏評價頗高,故改採懷柔政策,將本多忠勝女兒本多小松嫁給昌幸長子信之。 天正十七年(1589年)後北條氏拒絕臣服豐臣家,於是豐臣秀吉下令全日本大名討伐北條。家康在支援戰線上有不少功勞,以家康為主力的軍隊從東海道向小田原進發,最終北條氏在小田原城被包圍一段時間後投降。關白豐臣秀吉就此統一日本。戰後家康轉封關東,領有相模國、伊豆國、武藏國、上野國大部、下野國小部、下總國、上總國(至關原之戰時,約為二百五十五萬七千石),改建江戶城為居城。家康移封關東之事一宣布,內藤修理亮清成便奉家康令,率領大谷庄兵衛、村田右衛門等人,正式接受城池。天正十八年(1590年)八月,家康踏上決定他後半生命運的江戶土地。 奪取霸權、關原之戰 慶長三年(1598年),豐臣秀吉病逝,繼承人是只有六歲的豐臣秀賴。豐臣秀吉於病逝前設立五大老和五奉行,家康為五大老首席。家康在秀吉病逝前,安排與部分大名進行婚姻,又在秀吉死後,私自分封領地;因此開始造成其他中老和奉行的不滿,尤以石田三成為甚,三成的行動惹來加藤清正、福島正則等人襲擊(文治、武鬥派鬥爭)。在家康安排下,三成在佐和山城隱居。家康繼續在伏見城及大阪城執行政務。 慶長四年(1599年)在大阪城祝賀豐臣秀賴時,家康察覺對自己的暗殺計劃,主謀者是前田利長、淺野長政、大野治長及土方雄久。大阪城內要求討伐前田利長的聲勢高昂。家康在準備出兵之際,前田利長將他的生母芳春院送往江戶城成為人質,事件得以平息。 不過,不滿家康的聲音並沒有減退,戶澤正盛匯報東北地方大名上杉景勝積極進行軍備,行動極不尋常,家康派遣使者要求景勝匯報甚至迫使上洛。上杉景勝沒有理會警告,其家臣直江兼續寫《直江狀》指責家康,家康看過後大怒,終在5月3日發表討伐上杉的宣言。雖然五奉行中的前田玄以、長束正家和增田長盛以及三中老的中村一氏及生駒親正要求中止出征,但家康決意行動,6月16日由大阪城出發,7月2日到達江戶城。 7月中旬,石田三成與部分支持豐臣家的大名開始有所行動,以打倒家康為目的,7月18日包圍伏見城,並開始進行攻擊。8月1日西軍攻下伏見城。7月24日家康在小山的時候,斥候匯報石田三成起兵的舉動。家康在7月25日進行小山評定,大部分的隨行大名支持家康的行動,並立即折返到江戶城。 8月家康回到江戶城,並派遣先鋒部隊在東海地方及東近畿地方交戰。家康在9月1日出發,9月14日到達美濃。9月15日雙方在關原交戰,最初的形勢對東軍不利,西軍逐步進迫到本陣;不過到中午左右,西軍的小早川秀秋受到德川軍恐嚇射擊後叛變支持東軍,形勢得以扭轉(也有論點認為小早川秀秋早就已經暗地和家康勾結,射擊不過只是反叛的信號而已)。最後東軍在此場戰爭取勝,自此權力落在德川家手中。 就任將軍、成立幕府 戰後,家康積極處理政務,調配大名間的領土,而且經常在京都活動。為成為將軍,他嘗試將德川氏的系譜改變(其實從「松平」改為「德川」時就早已改變)。慶長八年(1603年),朝廷中的使者到達伏見城,家康出任征夷大將軍,並創立江戶幕府,也稱為德川幕府,同年將千姬嫁給豐臣秀賴以示友好。慶長十年(1605年)家康退位給三男秀忠,被一般人稱為大御所。家康表面上在駿府城隱居,但實際上家康仍然掌握大權,在岡本大八事件和大久保長安事件之中均由家康作主導。 攻占大阪城 慶長十九年(1614年)方廣寺鐘銘事件中,家康藉口鐘銘內文有對自己不利的文句,嘗試迫使豐臣秀賴完全臣服;但是豐臣方擺出備戰的姿態:豐臣軍積極招募浪人,加強軍備,但卻沒有大名加入大阪方(除阿波的蜂須賀家政但被家督至鎮勸說,放棄舉兵),致使家康下令各諸侯準備攻擊大阪城。德川軍在11月15日開始進行攻擊,並步步進迫,迫使豐臣的軍隊撤回大阪城內,12月4日前田軍和松平軍擅自攻擊真田丸,遭到真田信繁的猛烈反抗,結果大敗。家康最終利用大炮直接攻擊大阪城,迫使淀殿(豐臣秀賴母親)提出交涉,雙方達成協議,大阪方面要求德川不得處分秀賴等參戰諸將,秀賴、淀殿不用前往江戶作人質,家康看似寬大的爽快答應,唯一的條件是:將大阪方面除本丸外所有外城一併拆除並且填平護城溝。至此大阪城成一座裸城,戰事暫告停止,稱大阪冬之陣。 慶長二十年(1615年),填平一切壕溝,拆毀二丸、三丸的大阪城形同空殼,家康見時機成熟再次出兵,而豐臣軍在這次戰役雖然積極迎擊,但是只剩本丸的大阪城比山砦還不如,德川軍在多處地方相繼捷報,最終迫近大阪城。但在天王寺岡山之戰中,家康一度陷入危機,真田信繁擊潰松平忠直帶領的一萬五千越後兵壓進家康本陣,導致家康旗本眾大崩潰,本陣倒退數裡後才穩下陣腳,這也是家康一生除三方原之戰外最狼狽的一戰,甚至一度考慮自盡,最後勉強逃出一命;同時德川秀忠在岡山戰鬥,亦因為過於突出,遭到大野軍的突擊陷入混亂,當眾將聞到家康有危險而作出救援,在兵力懸殊的優勢下,德川軍最終取得勝利,豐臣秀賴切腹自盡,遺兒國松在戰後不久被擄獲而處死,豐臣家正式滅亡,是為大阪夏之陣。 晚年 家康實行一國一城令和武家諸法度等政策,維持國家穩定。元和二年(1616年)1月,在一次出外獵鷹時突然腹痛倒下,從此臥病不起。3月21日獲朝廷贈獲太政大臣一職。4月17日,於駿府城病逝,年七十五歲,法名東照大權現,法號安國院。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B7%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
服部正成 Hattori Masanari(1542年-1596年) 服部保長的四子,伊賀忍者集團的名門,二代目服部半藏,以「鬼半藏」之名縱橫戰國時代,擔任德川家忍者集團的總帥,為主君德川家康進行謀略、情報戰。 服部氏本姓千賀地氏,千賀地氏居住於伊賀國千賀地,與藤林、百地並稱為伊賀上忍三家,為三家裡最具勢力者,出侍室町幕府十二代將軍足利義晴,室町幕府衰退後;父親保長與松平清康(德川家康祖父)有來往而受清康徵召,為赴松平家埋姓,改姓服部。 正成於天文十一年(1542年)出生,與德川家康同年,雖為第四子,卻因器量才能受到推崇,而越過三位兄長繼承父親的地位,成為一族的頭領;從永祿十一年(1568年)起,率領伊賀忍者五十名,正式效力於家康。正成除了是忍者以外,其在家康麾下也是出色的武將,例如永祿十二年(1569年),家康與武田信玄合作進攻今川氏真,於氏真最後的據點「掛川城之戰」表現突出,掛川城因而淪陷。 天正七年(1579年),因德川家康嫡子松平信康被織田信長懷疑私通武田勝賴,信長下令信康自殺,家康特命所信賴的正成擔任介錯者,負責監督信康切腹自殺的任務,據說一向被人認為冷酷無情的正成,深知家康為德川家全體安危而不得不犧牲信康,正成難忍哀痛無法下手介錯取信康首級,改由同行的天方通綱代而為之;正成於晚年時,特別在江戶建立安養院祈求信康的冥福,或可窺見正成內心被壓抑的情感。 天正九年(1581年),織田信長派遣包括丹羽長秀、瀧川一益、蒲生氏鄉等以四萬大軍重重包圍進攻伊賀,徹底鎮壓伊賀忍者集團,包括老弱婦孺都不放過,幾乎將之消滅殆盡,面對故鄉淪於戰火攻擊,正成暗地幫助許多伊賀忍者逃難,等待時機。 天正十年(1582年),信長在「本能寺之變」遭明智光秀突襲而死,正成當時正隨同德川家康同遊堺港當中,局勢大亂,家康本有一死之覺悟,但隨行的酒井忠次、本多忠勝勸阻而讓家康冷靜下來,正成建議家康選擇穿越伊賀的路線返回三河,經家康採納後,正成隨即展開多方聯絡,與家康的御用商人茶屋四郎次郎合作,號召當地國人眾及先前因躲避戰火而藏匿的甲賀忍者一百名及伊賀忍者二百名出面保護家康一行人之安全,在眾多忍者的協助下,家康一行人得以安然通過盜賊橫行、百姓趁火打劫的混亂地區而返回三河。 德川家康安全穿越伊賀之後,有感於忍者的實力,乃透過正成將彼等收服,由正成統領。在對抗豐臣秀吉的「小牧山、長久手之戰」的前哨戰時,就是由正成統領的忍者集團順利佔領尾張蟹江城,迫使已經臣服於秀吉的瀧川一益退兵,一益後來因此而被下令隱居,報憾而終,此舉也算是報了一益當年接受信長之命殘酷鎮壓伊賀領的宿仇,正成因此獲得遠江八千石領地的賞賜。家康與秀吉和解之後,受命進攻小田原城的北條氏政、北條氏直父子,正成亦參與了該戰而表現活躍。 戰後,豐臣秀吉將德川家康移封關東,家康營建江戶城(現在的東京),江戶城的後門即由正成負責守衛,正成乃在該處營建住宅居住,現在東京的皇居(以前的江戶城)還殘留有「半藏門」的稱呼。正成成為統一甲賀、伊賀兩大忍者集團的總帥,是黑暗世界的實力支配者。慶長元年(1596年),正成還來不及目睹家康消滅大阪城統一天下,便以享年五十六歲去世。 正成之長子正就在大阪城夏之陣之役戰死,次子正重後來因事改易,服部家因而斷絕。但正成創建的德川忍者集團,日後成為幕府公儀隱密集團,為幕府監視諸侯舉動的利器,對於德川江戶政權二百多年的安定有不可磨滅的功績。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401654
朝比奈泰朝 Asahina Yasutomo(1538年?-沒年不詳) 朝比奈泰能之子,今川氏的重臣,掛川城主,別稱左京亮、備中守。被喻為是今川家的兩大支柱之一、第一忠臣。 生年通說為天文七年(1538年),生母不明,但從父親正室為中御門宣秀之女推斷,泰朝算是今川義元之母.壽桂尼的姪兒,也因家族因緣與山科言繼有所交流,弘治二年(1556年)山科言繼贈送「梢井宮之御筆百人一首」字畫給泰朝。 跟今川氏真同年出生,與氏真間的關係也相當融洽,在父親泰能死後繼承家督。永祿三年(1560年),今川義元侵攻尾張國時,泰朝與井伊直盛一同攻略鷲津砦,後來義元於桶狹間之戰受到織田信長突襲戰死,得知義元死訊後,泰朝領兵撤退。 今川義元死後,今川氏真繼承家督。後來三河國、遠江國的今川領地內動搖越來越大,許多今川將領開始有離反之心,但泰朝表明會繼續支持氏真。 永祿五年(1562年),有謀反嫌疑的遠江國國人眾井伊直親(井伊直政之父),泰朝接到氏真的命令而誅殺井伊直親。 武田信玄在今川義元死後開始暗地裡煽動今川領地內的國人眾,今川氏真知情,開始停止運送海鹽到信玄所在的甲斐國。至永祿十一年(1568年),武田信玄正式斷絕甲相駿三國同盟的盟約,進攻駿河國(稱為駿河侵攻),泰朝迎接氏真到掛川城保護,至此今川氏大部分的重臣接連叛逃到武田氏及德川氏的麾下,而泰朝依舊貫徹對今川氏的忠義。 同年,德川家康率領軍隊攻來,曳馬城陷落後便開始圍攻掛川城,與家康苦戰五個月後,打開城門投降,後與今川氏真前往伊豆國,隨氏真投奔寄寓北條家的庇護之下,曾應邀支援上杉謙信家臣山吉氏的援助作戰要請的活躍動向。 元龜二年(1571年)12月追隨今川氏真投奔德川家康前往濱松城。 之後便沒有泰朝的任何記載資料了。有說法是投靠到德川家臣酒井忠次的麾下,但真相依舊不明。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%AF%94%E5%A5%88%E6%B3%B0%E6%9C%9D
松平信康 Matsudaira Nobuyasu(1559年-1579年) 德川家康的長子、母為今川義元姪女.築山殿、正室為織田信長之女.德姬,側室為淺原昌時之女、日向大和守時昌之女;幼名竹千代、通稱岡崎三郎、別名次郎三郎,受織田信長偏諱「信」字,名為信康。 信康幼年作為今川氏的人質在駿府度過,不過在桶狹間之戰後,德川軍以俘虜鵜殿氏長、鵜殿氏次交換,信康前往岡崎城居住。 永祿五年(1562年),父親家康和織田信長的清洲同盟成立。在永祿十年(1567年)5月與信長的女兒德姬結婚,兩人都是9歲並以夫婦的形式在岡崎城生活。 同年六月,家康把居城移往濱松城,把岡崎城讓給信康。在7月元服時,從信長接受偏諱「信」字。元龜元年(1570年)正式成為岡崎城的城主。 信康自小就勇猛果敢,在天正元年(1573年)完成初陣。 天正三年(1575年)的長篠之戰中以大將身份參戰,之後在與武田氏的戰役中獲得軍功受到注目。特別在天正五年(1577年)8月,遠江橫須賀之戰中的退卻戰中擔任殿軍,令武田軍不能越過大井川,率領岡崎眾輔助家康。 天正七年(1579年)8月3日,家康到訪岡崎城,翌日信康離開岡崎城並被移至大濱城。之後信康被移至遠江的堀江城、二俁城,在9月15日被家康命令切腹,年21歲。 信康切腹的事件在『三河物語』中有詳細的記述。根據此書記載,信長的女兒德姬和跟今川氏有關係的築山殿不和,與信康的關係都相當差,天正七年(1579年),德姬向父親信長寫了12項事情的信書,並拜託德川家重臣酒井忠次作為使者送信給信長。信中包括了自己與信康不和及築山殿與武田勝賴內通的事情。信長質問使者忠次,忠次完全沒有庇護信康並確認書信所寫的是事實。結果,信長要求家康讓信康切腹。 在德川家中反對把信康處死的人有很多,甚至有家臣主張破棄與信長的同盟關係。信康的傅役平岩親吉想負上責任,要求把自己的首級送給信長。但是家康判斷形勢後,認為這些小手段不能平息信長的怒火,於是決定處決信康。8月29日,首先是築山殿被護送前往二俁城(守將是大久保忠世)途中,在佐鳴湖湖畔被德川家家臣岡本時仲和野中重政殺死。之後的9月15日,事件發生以來一直被幽禁在二俁城的信康被命令切腹。介錯是服部正成,但是正成無法向信康揮刀,最後由負責檢死的天方道綱介錯。 關於切腹的原由有諸多說法,包括父子不和、家中派系鬥爭、與家臣團對立等。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7
松平康長 Matsudaira Yasunaga(1562年-1633年) 戶田忠重的長子、母為戶田吉光之女、正室為久松俊勝之女.松姬(德川家康異父妹);幼名虎千代,通稱孫六郎,受德川家康偏諱「康」字,名為康長,改姓松平,戒名祥雲院殿一運宗智大居士。 康長出身於三河戶田氏嫡流,乃三河國朝倉川南岸至半島渥美郡一帶的領主。康長的叔父第15代當主.戶田重貞戰死後,康長奉德川家康之命繼任家督。 天正二年(1574年)元服,獲家康賜予偏諱「康」字,名為康長,並且迎娶家康的異父妹松姬,同時賜姓松平。 天正九年(1581年),康長在進攻武田氏領地遠江國的高天神城時,首次參與戰事,及後的天正十二年(1584年),他在小牧、長久手之戰中跟從酒井忠次作戰,而在天正十八年(1590年)爆發的小田原征伐中,康長則在上野國白井城與後北條氏交戰。同年,康長離開三河國渥美郡仁連木(現愛知縣豐橋市仁連木町),轉為跟隨移封關東地方的德川氏,領受武藏國東方1萬石。 在慶長五年(1600年)爆發的關原之戰中,康長與水野勝成聯手攻佔大垣城,康長憑此功績在慶長六年(1601年)賜封上野白井藩,翌年移封至下總古河藩。慶長十年(1605年)4月,他獲任命為從五位下丹波守(在寬永三年(1626年)升至從四位下)。慶長十四年(1609年),他負責駐守於伏見城。慶長十七年(1612年),康長移封至常陸笠間藩。其後,他在大阪之役兩度參戰,憑此功績在元和二年(1616年)增封至上野高崎藩5萬石。 元和三年(1617年),康長獲增封至信濃松本藩7萬石。 元和九年(1623年),康長成為德川家光的護衛,駐守於江戶城西之丸。寬永元年(1624年),康長病倒,但是不久康復,再度出仕,並且獲得德川秀忠和家光賜予茶壺霧崎和行光的短刀作為賀禮。 康長在松本藩內重新組織家臣團,並且建造城下町,同時興建屋敷讓徒士和足輕一同居住,此外還將國人眾較多的信濃的地方知行廢除,改行藏米制。另外,他將藩內領地劃分為15組行政區。寬永三年(1626年)開始,康長花了總共5年時間執行檢地,從而將中世紀以來各鄉的大村改建為200石至400石左右規模的小型行政村。 寬永九年(1632年),康長臨終前,家光曾經派遣侍醫野間玄澤前往松本替其診察。原本,康長計劃以信濃池田城作為自己的隱居地,但是在同年12月於松本死去,由三子松平庸直繼任家督。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E9%95%B7
森長可 Mori Nagayoshi(1558年-1584年) 永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年(1573年)3月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された。 同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年(1577年)頃から内政にも参加するようになり、地元の兼山城(現・岐阜県可児市兼山)周辺の発展の為に間近を流れる木曾川を活かしての商業を重視し河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んで専売制を敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちが尾張藩の美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、明治時代に到るまでこの制度は存続した。 天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。団と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。 仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へと女子供の区別無く無差別に鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま団と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子供を海津城に住ませる事を義務付けし、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住ませた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた。 信濃国の仕置きを済ませた長可は上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けて同年の5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某らの守る田切城(妙高市大字田切字東裏にあった城)を落として上杉領深くまで侵攻し、6月までに春日山城からほど近い二本木(上越市)を守る上条景春を破り同地に陣を張った。当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていたが、手薄な春日山城に長可が肉薄すると上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城救援を諦めざるを得ず、5月27日には天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日に本能寺の変で信長が討たれると一転して敵地深く進攻していた長可は窮地に立たされ6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。長可の家臣大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという行動を取り、一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束し暗殺の企みを封じた。翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。東美濃入りした後も苗木遠山氏・遠山友忠などが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近い大井宿でようやく岩松丸を解放している。 同年6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日岐阜城に赴き信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたという。長可が各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した森家であったが、元与力の肥田玄蕃・久々利頼興らが離反してその勢力は衰退しており、更に小里光明・妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田玄蕃の米田城を攻めた。肥田玄蕃は病を患っていた為同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可はこれを聞いて「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。加治田は利のあるところである。加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て堂洞城跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した(加治田・兼山合戦)。しかし同年中に肥田玄蕃の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。長可は元家臣である大森城の奥村元広と上恵土城の長谷川五郎右衛門が信州からの帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田玄蕃に内通したとして大森城を重臣の林為忠に攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した。 長可は同月中に今城・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、根本城の若尾元昌、土岐高山城の平井光村、妻木城の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。また、東美濃一の堅城である岩村城も城主団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため戦を行わず接収した。更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠である苗木城へと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年(1583年)の正月には宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せて加木屋正則により仇討させ、同日夜間に久々利城を攻めたて落城させた。また賤ヶ岳の戦いに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の遠藤慶隆・遠藤胤基が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入ると佐藤秀方と連絡を取って遠藤領に侵攻。立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した(立花山の戦い)。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出して徳川家康を頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。更に、明知城の明知遠山氏(遠山利景、遠山一行等)と、信孝方の小里城主小里光明を美濃国から追放し、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したため加治田衆を含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を廃城処分としている。 また、この頃より書状の上で「森武蔵守長可」を自称するようになっている。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。3月16日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く。(羽黒の戦い) 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成軍の家臣水野太郎作清久の足軽杉山孫六鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。享年27。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E5%8F%AF
武田勝賴 Takeda Katsuyori(1546年-1582年) 武田信玄的四子、母為諏訪賴重之女.諏訪御料人、正室為織田信長養女.龍勝院(遠山直廉之女)、繼室為北條夫人(北條氏康六女);取諏訪氏通字「賴」字,初名諏訪勝賴,通稱四郎,別名伊奈勝賴、復姓武田,戒名景德院殿賴山勝公大居士。 在生母諏訪御寮人還未與父親信玄生子以前,在祖父武田信虎擔任當主時期,武田氏仍然與諏訪氏維持良好關係。 天文十年(1541年),父親信玄逼走祖父信虎出走並繼承武田家當主之後,武田家與諏訪家的友好關係即破滅,並在隔年之後,諏訪家當主諏訪賴重即被信玄遣軍征伐而戰敗被俘,幽禁在東光寺,最後自殺。 父親信玄出於能對信濃國諏訪地方的有效統治之政略,遂納諏訪賴重之女諏訪御料人為妾,諏訪御料人生下勝賴,成年後以「諏訪(四郎)勝賴」之名繼嗣諏訪家。但因為勝賴後來是擔任高遠城城主,也有說法認為勝賴是繼承高遠諏訪氏。 父親信玄為專注在北信濃地區對抗上杉謙信的軍勢,與領國西陲相鄰的織田信長締結「甲尾同盟」,並且將信長養女遠山夫人嫁給勝賴達成政略聯姻的政治同盟。 勝賴成年繼嗣諏訪家之後,先後隨武田家重臣秋山信友及馬場信房學習軍學及城務管理等事務。 永祿六年(1563年),首次在進攻上野國箕輪城參戰,在北武藏方面作戰中立下戰功。 勝賴在父親信玄晚年被由高遠城召回信玄身邊,準備繼承武田家,曾參與三方原之戰。在信玄病故後,勝賴成為武田家實質的當主。在一般通說裡,採用『甲陽軍鑑』的記載,信玄死後將家督之位傳給勝賴之子武田信勝,勝賴為陣代,秘不發喪三年,由勝賴代為行事。但之後的『當代記』雖然承認有秘不發喪一事但質疑陣代之說,並記載勝賴繼承家督。『甲斐國志.卷九十四.人物誌三』則是認為秘不發喪與陣代說均不合常理,亦記載勝賴繼承家督。『甲斐志料集成.甲陽傳記』與『甲陽國歷代譜』則採用家督說。『顯如上人御書札案留』也收錄本願寺顯如恭賀勝賴繼承家督的書信,『高野山文書』裡也有勝賴為繼承家督奉獻的文書。 勝賴在不久已經在一些戰役中顯示實力,天正二年(1574年)佔領織田軍美濃國明智城(明智城之戰),使原本來救援的織田六萬大軍退回岐阜。後來,勝賴率軍攻下德川軍的高天神城(今屬靜岡縣掛川市),是為高天神城之戰。面對織田家與德川家兩方軍勢先後展現出優異的軍事本領,令織田信長跟上杉謙信通信時,稱讚勝賴「武勇更勝信玄」。 天正三年(1575年),原武田家臣長篠城主奧平貞能、奧平貞昌父子受德川家康策反倒戈,於是勝賴以討伐叛臣名義出兵長篠城,勝賴最初先圍攻長篠城,但奧平父子的守軍奮力守城等待織田、德川軍的馳援,使得武田軍遲遲無法攻下長篠城。 作戰途中擄獲向德川家康求援之後返還的奧平家臣鳥居強右衛門(本名勝商),勝賴威迫他向守軍告知「援軍不會到達的,你們開城門投降吧!」以減低守軍士氣,不料強右衛門表面上答應,一到城前即向守軍告知援軍將至消息,武田軍怒而將他刺死,此舉亦令守軍堅守意志更甚。 另一方面織田德川聯軍行軍至離長篠城不遠處的設樂原之後,便先駐紮在此進行構築防禦陣地的準備,未立即對武田軍採取攻勢。 勝賴及武田家臣們原本打算先攻下長篠城之後,再以長篠城為據點,與織田德川聯軍決戰,不料原本負責駐防能制高監視軍勢動向在鳶巢山的守軍主將三枝守友及河窪信實,遭到德川家臣酒井忠次率領三千兵急襲,在姥懷支砦戰死。獲知鳶巢山失守的勝賴與武田家臣擔憂退路失守的可能,決定與織田德川聯軍決一死戰。 5月21日早時,勝賴與武田軍將軍勢移駐以天王山為中心,布陣在與織田德川聯軍隔川對面,並且發動猛攻,武田軍在諸將輪番猛攻之下,曾有2度差點突破防馬柵殺進織田信長所在的本陣地,戰鬥過程大約持續約8小時才結束。 但是在此戰中,織田、德川的聯軍巧妙利用火繩槍、防馬柵以及地勢、兵力數量上的優勢,擊敗勝賴的軍勢;武田家除山縣昌景、內藤昌豐、小幡信貞、真田信綱、土屋昌次與馬場信房等大將戰死外,武田家的軍隊死傷達一萬餘人,受到慘重的打擊。 長篠之戰結束不久,織田信長與德川家康相約分道襲擊武田領國,德川軍從東海道進攻遠江,織田軍從東山道進攻東美濃,駐防東美濃岩村城的秋山信友,遭到織田信忠領軍及前來督戰信長的織田軍團包圍,勝賴與武田軍主力正在應戰德川軍難以適時分兵馳援,勝賴命鄰近的木曾義昌先行馳援岩村城,但木曾義昌以軍資不足延遲出兵,秋山信友見援軍遲遲未至,向織田軍請降,但信長痛恨武田家反覆背信,將包括秋山信友及叔母織田艷等武田家降將一併處死(岩村城之戰)。 經過長筱.設樂原會戰的挫敗,勝賴有感於軍備與經濟有必要進行革新,勝賴向京都商人添購大批新式鐵炮充實軍備,對武田領國進行檢地政策,提拔次代家臣以利重振武田家的領國經濟與軍事發展。經過長篠之戰後,武田家雖然損失許多重要將領與士兵,但此時的武田家整體國力及軍勢還未明顯到衰弱地步。 外交戰略方面拒絕織田家遣使請和聯攻上杉家的邀約,藉由原將軍足利義昭的調停,與上杉謙信結盟合抗織田家再度組成反信長包圍網局勢,採納高阪昌信建議,迎娶北條氏政之妹.相模夫人為繼室,嘗試結成「甲越相同盟」的政略婚姻以利穩定東邊。 天正五年(1577年),北條家當主.北條氏政自從奉父北條氏康之遺命與上杉斷交改與武田同盟後,不斷進攻關東國人眾領主的領地,而在甲相同盟已成,故本以武田為靠山的關東諸國人眾只能再向上杉謙信求援,但此時上杉忙於攻略越中,根本分身乏術,北條家與上杉家因為關東領國糾紛關係早以陷入險惡狀態,本來『此時』「甲越相同盟」外交根本就不可能。 天正六年(1578年),上杉謙信病死之後,發生御館之亂,上杉景勝與上杉景虎(北條氏政之弟,過繼予上杉謙信)兩派為家督之爭而對峙,勝賴受到北條家以希望幫助景虎為由介入調停上杉家家督之爭,勝賴本意想景勝派與景虎派兩方能夠和睦,於是遣兵以軍事威脅方式迫使兩方和談,在一番交涉談判後,於8月19日達成和談協議,以景勝收養景虎之子道滿丸為嗣子做為和談條件之一而停止對峙,勝賴在確認和談順利落幕,此時傳來德川軍進犯的消息,於8月27日撤軍返回甲府防備德川軍,在武田家撤軍不久,景勝派與景虎派的家臣武士破壞和談再度交戰,上杉景虎、上杉憲政及道滿丸等先後在此役中遭殺害,事件最終以景勝派一方勝出落幕,北條家得知噩耗,認為勝賴先前作為偏袒景勝方,將景虎之死怪罪於勝賴的背信而反目。 北條方當時也派軍欲助景虎,但在上野與越後的交界處受阻,而身為同盟的武田方出兵2萬,卻未援助景虎,而武田方確實收下上杉景勝所給的黃金與數座城為回報來進行調停,甚至與景勝結為姻親,最後最有機會成功的『甲相越三國同盟』的機會,就此完全消失,怒於武田的背信,甲相同盟破滅,北條方改與織田信長結盟,而上杉方御館之亂後國力已損,更致命的是事後分賞問題導致的新發田重家之亂,與見此良機,柴田勝家大舉進攻,柴田勝家與新發田重家雙面的戰線,使上杉家進入近乎滅亡的巨大危機,武田方根本沒有可能得到由上杉方的足夠幫助(由後來的甲州征伐,上杉方基本完全沒有幫上忙,頂多出2千兵力可以得證)爾後武田家面臨北條家、德川家、織田家三方勢力的包圍局勢。 勝賴面臨此包圍局勢以與常陸的佐竹家及上杉家締結「甲越佐同盟」因應對抗包圍,派遣真田昌幸為主將領兵防衛上野方面的北條軍,派遣以曾根昌世為主將領兵防禦伊豆方面的北條軍,派遣駿河水軍反擊侵攻而來的北條家水軍,並予以重挫,數度壓制北條家軍勢,擴大對上野國北部與伊豆國西部等領地的控制。 此外勝賴透過佐竹家,設法與織田信長談和,並且釋放原本在武田家當質子的信長之子信房(織田勝長)做為談和善意,但信長已決意討滅武田家,不願與之談和。 第二次高天神城之戰,德川家康遣兵包圍高天神城,武田守將岡部元信籠城孤守,此時勝賴正在領兵全力對付北條家軍勢,難以分兵馳援高天神城,岡部元信體諒勝賴難處,遣橫田尹松(橫田康景之子)突圍向勝賴密信告知放棄馳援高天神城的打算與向自身準備德川家開城請降的事宜,勝賴閱過書信後認同岡部元信的請議。 此後岡部元信遣使書信向德川家康請降,德川家康將高天神城守將請降的事情遣信告知織田信長,信長閱過書信後向家康回覆說明接受高天神城請降雖能使遠江一國安定,但若是拒絕請降將高天神城猛攻使守將奮戰而死,能使勝賴背負見棄友軍不肯馳援的負面罵名,屆時能在兩、三年內全面攻入武田家領國腹地,家康同意信長的提議,拒絕高天神城守將的請降,全面猛攻高天神城至武田家守城將士奮戰而亡。 勝賴因為未能遣軍援救被德川家包圍攻擊的守將岡部元信及麾下守城武士,使其任由遭德川軍圍攻戰死,織田家藉由這一既成事實來宣傳勝賴對「高天神城見死不救」及「岡部元信抵死不降」的負面情報,在武田領內國人留下負面認知印象被認為是促成武田家覆亡關鍵,潛在打擊家臣將士及國人眾對勝賴領導威信的信心。 而勝賴接受穴山信君建議,命真田昌幸著手建築新府城,以利發展經濟及軍事戰略,期間以築新府城為名向領地內新徵賦稅,導致武田家的大將木曾義昌因負擔不起稅賦,也叛離勝賴。 勝賴得知木曾義昌的叛離相當震怒,依法度將留在甲州為質的木曾家親屬處死,勝賴為討伐木曾義昌而再度舉兵,遣令武田信豐領兵先鋒向木曾義昌的居城福島城進軍,並於木曾谷(鳥居卡)地方與木曾家部隊鑿戰,勝賴徵調約2萬兵力本隊蓄勢準備隨後赴援作戰,木曾義昌為能對抗武田家的軍勢而向織田求援。 天正十年(1582年)織田信長藉此一機遇向朝廷徵求將武田家指為朝敵的大義徵令,下達甲府討伐令,織田、德川、木曾、北條等總勢17萬餘兵力同時分路向武田家領國發動進攻。 同年2月,此時遭逢氣候異常降下大雪影響武田先鋒部隊作戰效能,遲遲未能攻克木曾家部隊,最終武田先鋒部隊在鳥居卡之戰中遭到趕來赴援的織田軍重創幾乎殲滅挫敗,武田信豐狼狽撤退,得知先鋒部隊潰敗噩耗的勝賴與本隊家臣正在商討如何因應織田家進攻部隊時,獲悉原本應當防備德川家進攻駿河的主將穴山信君已經歸降於德川家消息,更令武田家本隊家臣與兵員軍心動搖渙散,開始出現士兵與將領潰散叛逃情形,而前線守城將士也在軍心動搖之下對織田家與德川家進攻南信部隊紛紛出現不戰而逃或獻城投降情形。 面臨這樣的險惡劣勢,勝賴與繼續留在本隊的家臣決定先撤退到新府城商議後勢對策,勝賴遣令要求駐守高遠城的異母弟仁科盛信隨行撤退,盛信以殿後抵擋織田家與德川家軍勢爭取轉圜時間為由拒絕撤退,此後盛信與高遠城守城將士在遭遇織田軍主力包圍猛攻的奮戰之後陣亡。 勝賴知悉南信武田軍勢潰敗之後決定棄守新府城逃亡,軍議時真田昌幸曾致信勸勝賴逃往北信上州方面的「岩櫃城」以抗織田軍,最後勝賴卻決定逃往武田家宿臣小山田信茂的居城「岩殿山城」,不料由於小山田信茂的背叛,使得勝賴與嫡男武田信勝及家臣武士等殘餘48人(據說餘半是婦孺)走投無路逃往天目山。 在此與武田信勝、土屋昌恆等殘餘武士於天目山之戰抵抗瀧川一益3000人的包圍,明白勢寡難敵,便在供奉先祖武田信滿的栖雲寺與北條夫人自殺,年三十七歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E8%B3%B4

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