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佐竹義篤 Satake Yoshiatsu(1507年-1545年) 佐竹義舜的次子?,庶兄今宮永義(久保田藩士今宮道義祖父)繼承伯父(義舜之兄)今宮周義名跡之故,代其成為義舜之嗣子。 永正十四年(1517年)義舜死去,十一歲繼承佐竹氏家督。因幼少之故,由叔父佐竹義信(義舜之父佐竹義治之子,佐竹北家當主,又稱北義信)作為後見人輔佐。 年輕的義篤並沒有統率佐竹家的器量,與弟弟佐竹義元(後入嗣宇留野家)漸生不和。享祿二年(1529年),義元起兵謀反,攻陷小貫俊通居城部垂城。 天文四年(1535年),佐竹一族之高久義貞也對義篤揭起反旗。此時岩城成隆、江戶忠通開始侵攻佐竹領,高久義貞與此呼應起兵謀叛。然而,義篤在伊達稙宗斡旋下與忠通、成隆兩人和睦,高久義貞陷入孤立的局面。進退兩難的義貞最終向義篤投降,高久義貞之亂終結。 天文七年(1538年),宇留野一族之宇留野長昌起兵謀反。翌年,介入那須政資與那須高資之間的父子爭鬥,與義弟小田政治一同支援政資。 天文九年(1540年)急襲部垂城,宇留野義元走投無路最終自殺,高久義貞謀反之後義元之反亂也落下帷幕(部垂之亂)。義篤將義元方的的兄長今宮永義、小場氏及前小屋氏納入麾下。對外的同白河結城氏與那須氏作戰擴大勢力,常陸國內使江戶氏成為從屬,統一了常陸北部,實現了佐竹氏的戰國大名化。 此外,借室町幕府奉公眾美濃佐竹氏之佐竹基親來訪關東之際與幕府再次構築關係。伊達氏天文之亂時屬於伊達晴宗一方,與伊達稙宗方相馬氏作戰。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=3#postid-140 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E7%AF%A4_(%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
一百一十二位人物:柳生三厳、赤池長任、和久宗是、東郷重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、W.アダムス、猿飛佐助、霧隠才蔵、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段蔵、蠣崎基広、下国師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顕胤、蘆名盛舜、二本松義国、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、浅利則頼、天童頼長、天童頼貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豊綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信応、長尾憲長、上杉朝定、太田資顕、藤田重利、松平広忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、横田高松、高遠頼継、小笠原長時、小笠原貞種、三木直頼、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覚広、温井続宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定頼、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、内藤国貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成、十河存春、三好政長、筒井順昭、十市遠勝、土橋重治、尼子国久、尼子誠久、庄為資、吉川興経、吉川経世、小寺則職、大内義隆、相良武任、杉興運、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、小早川繁平、和田通興、細川元常、宇都宮豊綱、宇都宮房綱、一条房基、菊池義武、少弐冬尚、小河信安、納富信景、西郷純久、西郷純堯、上村頼孝、米良祐次、土持親成、禰寝清年、長尾虎、世良田元信、浅井茶々、大友桐、十河紫、浅井福、伊達蛍、北条貞、武田菊、有馬奈津、井伊直、木下伶、大内万、女、北条唯、六角辰、浅井文、斎藤郁、大浦戌、朝倉東、蒲生虎、伊達五郎八、伊達秋、最上義、長尾桃、浅井初、島津南、相良良、遠山覚、太田妙、伊達芳、北条鶴、織田秀子、二階堂和、蘆名順、龍造寺千世、北条誉、伊東京、武田梅、南部緑、佐竹英、波多野充、那須正、松平熊、藤田大福、女中、北条春、六角艶、武田見、伊達瞳、織田冬、松平督、前田摩阿、最上駒、今川和、伊達花、小田麗、北条光、相良千代菊、足利詩、大友清、北条静、前田豪、大谷渓、武田恵、関口瀬名、今川嶺、蠣崎圭、長尾華、北条円、最上竹、前田与免、畠山椿、北条苗、武田万里、●●●、斎藤朝、足利氏、太田小少将、松平千、浅井小督、細川扇、蘆名葵、一条喜多、北条睦、太田梶、佐竹藤、六角凪、直江船、武田松、織田五徳、本多小松、織田市、斎藤帰蝶、明智玉子、●●●2、津田宗及、千利休、菊亭晴季、山科言継、朝山日乗、快川紹喜、沢彦宗恩、アルメイダ、ソテロ、フロイス、近衛前久、今井宗久、佐吉、岐秀、老人、農民、鉄砲足軽、僧侶、公家、二本松義継、僧兵、小姓、土田御前、おね、組頭、小笠原秀清、足軽、使者、家老、伝令、忍者衆、忍者、家臣、侍、商人、F.ザビエル、豪族、子供、樋口与六、北条氏康、●●●3、田村顕重、土佐林禅棟、横瀬泰繁、風魔小太郎、真田昌輝、国友藤二郎、望月出雲守、後藤彦三郎、服部保長、津田算長、宮本道意、村上吉継、三島清右衛門、若林道円、名和武顕、三田井親武
三百位人物:羽柴秀次、石川五右衛門、久武親直、三好政勝、一条兼定、河野通直、来島通康、松平忠吉、阿蘇惟将、松平忠輝、柳生宗厳、松浦鎮信、相良義陽、相良頼房、深水長智、犬童頼安、伊東義祐、伊東祐兵、稲富祐直、島津家久、種子島時尭、母里太兵衛、伊集院忠朗、伊集院忠棟、新納忠元、京極高次、花房職秀、柳生宗矩、百地三太夫、大内義長、大友義統、岩城重隆、赤井直正、本願寺証如、尼子国久、尼子勝久、里見義頼、吉田孝頼、龍造寺政家、鈴木重則、足利義氏、千葉胤富、斯波義統、相良晴広、東郷重位、武田信廉、武田義信
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
多功長朝 Takou Nagatomo(1485年-1558年) 下野国の大名、宇都宮氏の家臣。多功城城主。多功氏は宇都宮氏の庶流である。多くの合戦に出陣し、活躍しており、宇都宮家中一の侍大将といわれている。父は多功建昌。子に多功房朝(房興)、多功綱継がいる。 多功氏は代々、宇都宮氏の重臣として多功城に拠り、数多くの合戦に出陣しており、宇都宮氏の有力武士団紀清両党、大須賀党と並び、宇都宮氏の武を支えた。 天文18年(1549年)那須高資との喜連川五月女坂の戦いでは宇都宮軍の先陣として奮戦し、大功を挙げたが、宇都宮尚綱の討死によって敗北している。 弘治3年(1557年)、宇都宮氏の忠臣芳賀高定の活躍によって壬生氏の壬生綱雄から宇都宮城を奪還して間もなく、永禄元年(1558年)に上杉謙信が会津の蘆名盛氏らと連合して上野国から下野国に侵攻してきた。小山氏の祇園城、壬生氏の壬生城を攻略され、多功城を攻撃した際には、これを撃退している。子の多功房朝、家臣の児山兼朝、簗朝光・吉朝父子、石崎通季、野澤保辰、高木道重、上野祐朝、伊澤遠江守、木田淡路守、援軍で駆け付けた祖母井吉胤、矢板長則などが多功氏側の主な将だったという。先陣の佐野豊綱を討ち取るなど数多くの武将を討ち取る活躍を見せている。さらには敗走する上杉軍を追って上野国上州白井まで追いかけて追撃したが、太田資正の仲介によって和睦となった(多功ヶ原の合戦)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%8A%9F%E9%95%B7%E6%9C%9D
大田原資清 Otawara Sukekiyo(1486年-1560年) 父胤清とともに永正11年(1514年)上那須家の相続争いで、幼主那須資久を擁し、那須資永を攻め滅ぼしたが、その際不慮の事故で資久をも失い、上那須家は断絶、下那須家から那須資房を当主として迎えることになる(統一那須氏)。 資清は智勇に優れ、上記の上那須家のお家騒動の際にも活躍し、資房からは名の一字を与えられるほど信任された。しかし、その優れていた智勇を周囲に危険視され、永正15年(1518年)、同僚の大関宗増の讒言を受けて失脚、出家した。僧になっていた兄の縁をたよって永平寺に潜み越前朝倉氏の保護を受けたともいう。 天文11年(1542年)に復帰し、宗増の嫡男・大関増次を謀殺し、長男・高増を大関氏へ養嗣子として送り込んだ。さらに福原氏にも次男・資孝を養嗣子として送り込み、資清は那須七騎の内の大田原・大関・福原の三家を支配し、那須家中でも最有力の実力者となった。資房の子那須政資に自分の娘を娶わせるなど、主家との繋がりも深めた。外孫資胤の家督相続を図って、政資の子那須高資と対立し。 天文20年(1551年)、芳賀高定の調略に加担した千本資俊により高資が誘殺されると、孫である資胤を当主に据え権力をふるった。 永禄3年(1560年)、死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%B3%87%E6%B8%85
宇都宮広綱 Utsunomiya Hirotsuna(1545年-1576年) 宇都宮尚綱の子。母は結城政朝の娘。幼名は伊勢寿丸。正室は佐竹義昭の娘・南呂院。子に宇都宮国綱・結城朝勝・芳賀高武。 天文14年(1545年)に誕生。戦国時代、下野国は伊勢信仰が流行しており、その影響を強く受けていたためか、幼名は伊勢寿丸である。 天文18年(1549年)、父・尚綱が喜連川五月女坂の戦いで敗死すると、宿老・壬生綱房が野心を剥き出しにし、宇都宮城を乗っ取ってしまう。綱房は芳賀高経の子芳賀高照を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、塩谷氏などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。そして下野各地を侵攻し、統一に乗り出す。大永の内訌から始まった宇都宮氏の衰退はピークを迎え、滅亡の危機に晒された。 当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延び、真岡城にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年(1551年)、芳賀高定が謀略を駆使して父の仇である那須高資を殺害。弘治元年(1555年)には、高定が反抗的な家臣芳賀高照を真岡城へ誘い出して暗殺。さらに同年、宇都宮城を占領していた壬生綱房が急死したが、綱房の嫡子の壬生綱雄が新たに宇都宮城主になっている。この間も壬生氏による激しい侵攻が続いており、祖母井城、八ツ木城などが落とされている。その後、高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、外交手腕によって北条氏康を味方につけ、弘治3年(1557年)、氏康の命で広綱・高定を支援するために佐竹義昭が5000騎の兵を連れて下野に出陣し、飛山城に在陣したという。芳賀高定の尽力によって宇都宮城は広綱の手に戻り、滅亡を回避することができた。 永禄元年(1558年)には越後上杉勢が下野に侵攻してきたが、家臣の多功長朝の奮闘によって撃退に成功している。 その後、家臣の芳賀高定の外交手腕によって佐竹義昭の娘南呂院を妻に迎えており、強固な同盟関係が築かれた。広綱は上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。永禄7年(1564年)には上杉謙信、佐竹義重と共に北条方の小田城主・小田氏治を小田城の戦いで敗走させている。 広綱は生来病弱であり、元亀3年には花押も押せないほどにまで病状が悪化していた。宇都宮氏の重臣皆川俊宗はこの状況を利用して宇都宮城乗っ取りを計画する。武田信玄、北条氏政による甲相同盟の締結によって、下野南部が北条、武田の二大勢力によって脅威に晒されることになったことが俊宗による宇都宮城乗っ取りが起こった主な原因である。 元亀3年(1572年)1月14日の夜、上杉謙信との外交を任されていた宇都宮氏の筆頭重臣岡本宗慶が俊宗によって暗殺され、その翌日、宇都宮城は皆川氏によって占拠された。占拠されてから約1年間の間は皆川俊宗が宇都宮氏の主導権を握っており、俊宗は徐々に後北条氏寄りの立場を取るようになる。このために一時的だが、宇都宮氏は北条氏に屈した形となった。 元亀4年(1573年)には同盟国の佐竹義重らとともに、皆川氏討伐を行っている。 天正4年(1576年)8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BA%83%E7%B6%B1
芳賀高定 Haga Takasada(1529年-1588年) 益子勝宗的三子,通稱紀十郎,本名益子宗之,繼承芳賀氏改名為芳賀高定。 芳賀氏以天武天皇之子捨人親王的九代孫清原高重為遠組,清原高重因故惹怒花山法皇而被流放至下野芳賀郡大內莊,其後代遂自稱芳賀氏,七代孫高親時投入宇都宮家麾下,後於源賴朝的奧州征伐中芳賀氏與益子氏大為活躍,芳賀氏因本姓「清原」被稱為清黨,與紀黨益子氏並稱「紀清兩黨」,乃是家中的重要戰力。 芳賀氏作為宇都宮家重臣威勢日重,在宇都宮家第十七代當主成綱時,芳賀景高擔任成綱的輔佐奉行人,家勢達到極盛,其子高勝繼父位後,更出現了高勝發出文書命令後,再由成綱追認的情形,芳賀氏已顯然有凌駕主家之上的態勢。於是成綱為保衛君權,遂謀害了高勝一脈,並強勢讓其弟興綱入繼。後來興綱謀逆,聯合結城氏攻下宇都宮城,殺害姪兒忠綱奪得家督之位,而高勝之弟芳賀高經也伺機與壬生綱房起兵攻打興綱,逼迫興綱自刃。 興綱死後,宇都宮家由其子尚綱繼承,並於天文十年(1541年)舉兵攻打芳賀氏,芳賀高經也據宇都宮南方的兒山城防守,但在寡不敵眾下戰敗。是役中,益子宗之身為紀黨的一員,隨父親勝宗出戰,於初戰中便立下大功,戰後受到尚綱讚賞,並在勝宗允許後讓益子宗之繼承芳賀氏以為賞賜,改名芳賀高定,獲得真岡城。芳賀高經死後,其長子高照遠走奧州白河,後投入那須家。三男高繼年紀尚幼,芳賀高定遂保護之,將他交由實家益子氏養育。 天文十四年(1545年),芳賀高定受宇都宮尚綱之命由鷺宮出陣,抵御結城家猛將水谷正村的侵攻。天文十八年(1549年)九月,主公宇都宮尚綱應古河公方足利晴氏之邀出兵攻打與北條氏相善的那須家,由芳賀高定負責宇都宮城的居留守役,但是在那須高資的善戰下,兵力佔優的尚綱在五月女阪之戰中遭到奇襲射殺,家督戰死的消息一傳開,宇都宮家頓時大亂,宇都宮家老壬生綱房內通那須家和借得那須家相助的芳賀高照趁亂佔據了宇都宮城,鹽谷郡亦被那須高資所奪,混亂的情勢中芳賀高定仍盡忠主家,竭力保護年僅六歲的幼主,帶同宇都宮尚綱之子伊勢壽丸離開險境,並在壬生綱房遣其子綱雄出兵飛山城追擊時,親自率兵牽制。 天文二十年(1551年),芳賀高定巧妙利用那須家中高資、資胤兄弟間的爭端,居中布計,趁那須高資流放其弟資胤之際,說動支持資胤的那須家臣千本資俊合作,以鑑賞名馬為由邀請那須高資,於宴會中將之刺殺,既是報主君之仇,同時也讓那須家陷入二度易主的重整期,斷去了宇都宮城中芳賀高照的有力後援。同時芳賀高定也遣家臣大島大炊助出兵壬生氏的領地岡本鄉,但是被壬生周長擊退。 為了重興宇都宮家,芳賀高定深知依照現下的情勢,宇都宮家並無力獨自撥亂反正的能力,這是因為宇都宮家終究仍是採取國人眾聯盟制的舊體制大名,家中軍權分散在各地國人眾、家臣、以及宇都宮寄眾手中,幼主伊勢壽丸並沒有足夠的權威與實力號召其協助,反之現下佔據了宇都宮城的壬生氏及芳賀高照看似更有崛起一統下野的姿態,因此芳賀高定轉向周遭大名尋求外援,以傑出的外交手段縱橫於佐竹義昭、江戶忠通、小田政治、古河公方、北條氏康等大名之間,為奪回宇都宮城布置計畫。 弘治元年(1555年),芳賀高定於真岡城舉辦芳賀高經的追善供養法事,並擺出低姿態邀請芳賀高照前來參與,芳賀高照不疑有他,認為這是高定一方的示弱,待入城後隨即被芳賀高定的兵士伏擊,被迫切腹,同年壬生綱房也在宇都宮城中急逝,時人一度疑為綱房亦是為芳賀高定所派遣的忍者暗殺,不過完全找不到任何能證實此一說法的有力證據,況且當時綱房已年過七十,其死亡並不出人意外,因此近代史家多持否定觀點。 翌年,壬生綱房之子綱雄為反制芳賀高定的謀略,以那須家為後盾大舉侵犯芳賀郡,連同宇都宮舊臣鹽谷、西方、今泉等家起兵三千連下飛山、八木、祖母井諸城。但隨即在弘治三年(1557年),芳賀高定便以聯姻換來了佐竹家的介入,並運用計謀策反壬生綱雄的外援那須家,借佐竹、那須、江戶三家援軍,於芳賀郡乙連原大敗壬生軍,並進而奪回宇都宮城,將壬生綱雄逼回鹿沼、壬生兩城,令壬生綱雄送表稱降。戰後芳賀高定依照約定讓時年十五歲的伊勢壽丸元服,改名廣綱,迎娶了佐竹義昭之女為正室,兩家結成姻盟。 奪回宇都宮城後,為重興主家貢獻良多的芳賀高定以宇都宮家宿老掌握了家中大權,但是高定仍然不改忠勤,輔佐幼君行政,宇都宮氏的樑柱支撐大亂後統御力大幅下降的主家,同時也與壬生周長相交,令壬生氏分裂成鹿沼城的壬生綱雄親北條,而壬生城的壬生周長親宇都宮,令壬生家分成兩派,降低其抗力,壬生綱雄也失去自父親以來的重要軍師親叔壬生周長的支援。 永祿四年(1561年),上杉謙信南下關東,芳賀高定作為宇都宮家的代表統領清黨、宇都宮各家國人眾率軍出陣參與攻打北條家。同九年,小田氏治與北條、武田同盟,上杉謙信聯合關東大名孤立小田家,並出兵攻打小田城,宇都宮家也和盟友佐竹、結城、小山一同出陣,由於當主宇都宮廣綱體弱多病,因此仍是由芳賀高定作為代官領兵出擊。 永祿十一年(1568年),在芳賀高定歷戰歸國後,宣佈隱居,將芳賀家名還給一手扶養長大的芳賀高照之弟高繼,讓親子信高改繼承小貫氏,還權於芳賀舊族,往赴小貫隱居,入道號機山道鑒,後於天正十六年(1588年)辭世,享年六十八歲。 芳賀高定一生盡忠宇都宮家,在一片下剋上風潮中,費盡心血收復宇都宮家舊領的芳賀高定,大權在握主導著宇都宮家的國策,曾被世人稱道「廣綱不過是他的影子」,但是芳賀高定卻能謹守本分,安定本家,並且還權於芳賀氏,來去一身清白,能得此智德兼備的賢臣實乃宇都宮家之幸,惟可惜因為宇都宮家之體制,縱然芳賀高定身懷高才,也始終無法為宇都宮家做出徹底的改革,興利除弊,甚至連高定實家益子氏後來亦叛出宇都宮家,這或許也是芳賀高定畢生的遺憾吧! 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&sn=1352
那須資胤 Nasu Suketane(生年不詳-1583年) 那須政資的次子、正室為蘆野資豊之女;最初繼承森田氏,但與異母兄家督.那須高資對立,一時逃走。 天文二十年(1551年),異母兄高資因芳賀高定的計略被千本資俊殺害,資胤復歸繼承家督。 最初和佐竹氏結盟並與結城氏、蘆名氏對立,但是在弘治元年(1555年)改為與北條氏康、足利義氏結盟。 永祿三年(1560年)的小田倉之戰中,自身負傷而陷入苦戰,此時叱責家臣大關高增、大田原綱清,以追究責任為契機而與大關氏、大田原氏對立。 大關高增計劃迎佐竹義重的弟弟佐竹義尚(那須資綱)為那須氏的養子來排斥資胤,得到佐竹義重援軍的高增,於永祿六年(1563年)至永祿十年(1567年)為止一直與資胤對立,甚至被侵攻至烏山城下,但資胤將其擊退。 翌年,大關高增、大田原綱清兄弟以資胤隱居為條件達成和睦。 元龜三年(1572年),與佐竹氏達成和睦,此際資胤的女兒與當時三歲的佐竹義宣成立婚約,把武茂、茂木地方割讓給佐竹氏,那須家領地形式上已成為佐竹氏所有。 天正六年(1578年),以佐竹氏為中心與宇都宮氏、結城氏、江戶氏、大掾氏在常陸國小川台締結盟約,與後北條氏對抗。 天正十一年(1583年)死去,一說於天正十四年(1586年)。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E8%83%A4
那須高資 Nasu Takashi(生年不詳-1551年) 那須政資的長子、母為岩城常隆之女;受古河公方・足利高基偏諱「高」字,名為高資。 那須氏以藤原道長的六男藤原長家之孫資家為遠祖,因討平奧州白河郡八溝山的山賊,被封在下野那須郡,本稱須藤氏。在平安時代末期的當主資隆時,才完全改以地名為苗字,稱那須氏。在源平相爭時,於屋島之戰大放異彩的神射手那須與一亦為其一族,後在室町時代被列位御家人,家名達到最盛,後一度分裂為上、下兩那須家,直到高資之父那須政資在上那須家內亂後入繼,才將兩那須家統一。 那須高資自幼便由重臣大關宗增所扶養,雖然精通馬術武勇過人,卻性情粗暴。當時那須政資與宇都宮家來回征戰多次,那須高資與大關宗增擔任守備役的同時,也暗中增強在家中的權力。面對親子的離心,為不失家督之位,那須政資決定與宇都宮家和談,也恢復多年征戰後領內的民生。但是此一措舉卻引來大關宗增的強烈反彈,做為家中老臣大關宗增所圖謀的是領地不斷擴張,以在主家擴張之餘增加自家領地,而那須高資也因為大關宗增的影響,希冀彰顯家名,對外征戰,父子之爭終究演變成戰事。 為了奪取家督之位,那須高資和大關宗增在取得相模北條家的協助後於天文八年(1539年)起兵攻打那須政資所在的烏山城,將烏山城包圍,政資也立即反制向盟友佐竹、宇都宮請求援軍,但是那須高資以圍點打援的戰術,以小股兵力游擊佐竹、宇都宮派出的援軍。翌年,佐竹軍首先因不耐久戰而撤退,隨後宇都宮家也因為小山、結城等家的入侵調回兵力防戰。萬般無奈下,那須政資同意和睦,將家督之位傳給高資,大關宗增也於此時成為那須氏的首席家老。 那須家由武鬥派的那須高資、大關宗增當政後,為準備日後的軍事行動,那須高資極力強化軍備,增加鍛鍊士卒的時間,但是軍役的延長,相對也減少了農作的時間,短期影響雖然不大,卻足以讓領民心生不忿。天文十年(1541年),宇都宮家中芳賀高經、高照父子聯合壬生綱房於兒山城叛亂失敗,高經戰死。那須高資趁機招降納叛,收容芳賀高經之子高照,以瞭解宇都宮領的情報。 天文十一年(1542年),昔日因大關宗增進言被祖父資房追放的大田原資清在越前朝倉氏的支援下歸國,並且趁大關宗增之子增次出外鷹狩時於石井澤將之討殺,宣稱是為了討伐橫暴的大關家父子而歸來,同時迅速壓制大關家,大田原資清更強迫大關宗增收其子高增為繼並立即隱居,隨後也以同樣方式讓次子資孝繼承另一家重臣福原家。喪失了大關宗增的支援,讓高資在家中頓失左膀右臂,在大田原資清的強勢手段,自高資以下皆以默認為私鬥,性格強硬的高資肯這樣忍氣吞聲,主要是大田原資清已經在家中建立了相當的實力基礎,其外孫也就是高資的異母弟那須資胤,儘管資清必然有扶助那須資胤的企圖,但是中間仍有許多可轉圜運作的空間,既然事實已經造成,要替大關宗增復仇也不過是無用之舉,這就是在戰國時代中的現實。 天文十七年(1548年),宇都宮尚綱與古河公方足利晴氏聯合與北條家為敵,當時那須氏因為高資是藉助北條家的幫助才擊敗父親政資奪位,所以在高資主政時外交方針主要是與北條家親善,因此宇都宮尚綱旋於翌年九月率兩千五百兵出陣,襲向那須家領地西端的喜連川五月女阪,那須高資在二十七日亦領兵前往應戰,但人數僅有三百多,實力相差懸殊。據「多卻系圖」記載,為了因應此戰,那須高資動員了大田資清、大關高增、伊王野資宗、千本通長等重臣聯同出戰,面對壓倒性的不利戰況,那須高資以精兵來回迎擊,將戰況打亂,但是那須軍方面卻也戰死近兩百人,那須高資領殘兵退向福原城。 那須高資撤走,自認大勝的宇都宮尚綱見獵心喜,隨後窮追不捨。這正是那須高資的誘敵之計,在那須高資往福原城轉進同時,由伊王野資宗、蘆野資豐率領的部隊由蘆野氏的領地出陣,急襲進攻宇都宮軍的後方,混戰中宇都宮尚綱被伊王野資宗的家臣鯰箇家光射殺,宇都宮軍大亂,那須高資伺機再度殺出,以寡擊眾猛攻宇都宮軍,宇都宮軍失去主將後家臣商量後改以芳賀高綱率領退走。 那須高資在喜連川五月女阪之戰逆轉劣勢獲得大勝,宇都宮當主尚綱之亡更成為那須家擴展領地的契機,那須高資先是扶助宇都宮家叛將芳賀高照與壬生綱房進佔宇都宮城,將尚綱之廣綱和芳賀高定逼往真岡城,同時也對外出擊,趁宇都宮家陷入混亂之時發兵攻下鹽谷郡東部,擴張那須家在下野的版圖。同時為鞏固自身在家中的權威,挾大勝之勢,在二弟那須資胤前往熊野參拜時,宣布將其流放。 但那須高資顯然被勝利沖昏了頭,他高興得太快也太早了。那須資胤被流放後,實際上是被重臣千本資俊藏匿在家中,以及為了宇都宮再興對那須高資燃起復仇之火的芳賀高定,再加上大田原資清始終有扶助那須資胤之意,其若有若無的配合。 天文二十年(1551年),芳賀高定見縫插針與千本資俊合作,利用那須高資喜愛馬術的癖好,以「獲得名馬,希望邀主公一同品鑑」的名義,在千本城設宴招待高資,酒過三巡後遣刺客暗殺,在戰場叱吒一時的那須高資便因此死於家中的內鬥,年二十三歲。 那須高資死後,在大田原資清主導下那須資胤繼為那須氏當主,大田原氏作為強勢外戚與千本資俊同為那須資胤的心腹,掌握了那須家的實權。那須高資雖然在戰場有顯著的功績,但是過度張狂的性格忽視家臣感受,無法認清單憑武勇並不能安定家中權力結構,以為一場大勝便能扭轉人心,這樣過度的自信在人生最後讓他吞下了苦果。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/74311486/

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