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三木近綱 Mitsuki Chikatsuna(1574年—1629年) 姉小路頼綱の末子。室は石崎左平太の娘。子に森自直(叔父森自綱養子)、三木春綱。「近」の字は、金森長近からの偏諱と思われる。 羽柴秀吉の家臣・金森長近によって姉小路氏は滅ぼされたが、近綱は父が秀吉に対抗するため連携していた美濃国の遠藤慶隆の元に人質に送られていたために生きながらえた。その後、慶隆の保護を受けながら京に滞在して姉小路氏(三木氏)再興の機を窺った。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の時に徳川家康に引見し、御書院番に命じられる。翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で水野忠清に属して従軍。旧暦5月7日、天王寺・岡山の戦いにおいて形原松平氏の松平正勝(助十郎)、別所主水(別所宗治。別所重宗の子)ら旗本勢と敵陣に馬で突入した。正勝らは討死し、近綱は敵中に孤立する中で一人槍を振るって奮戦し、味方の救援の到着まで持ちこたえた。近綱はこのことを公言しなかったが、これを慶隆から水野忠清を経て江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に伝わり、その勇気を評され下総国香取郡内500石に取り立てられた。 寛永6年(1629年) 、死去。家督は春綱が継いだ。春綱の代に200石を加増されている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E8%BF%91%E7%B6%B1
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新齋、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑒速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光....
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
日根野弘就 Hineno Hironari(1518年-1602年) 日根野九郎左衛門尉的長子、妻為金森長近的叔母;通稱德太郎、備前守、備中守,別名雄就、治部卿法印,法名空石。 日根野氏發源地為近畿和泉,父親九郎左衛門尉時,部分日根野族人遷居美濃。弘就最初出仕齋藤道三,在齋藤義龍為當主時被重用,開始嶄露頭角。 弘治元年(1555年)10月22日,奉義龍命令將義龍的異母弟孫四郎、喜平次在稻葉山城內斬殺,義龍掌握實權後與重臣並列,於齋藤龍興時,地位保持不變。 永祿年間,弘就與氏家直元、安藤守就、竹越尚光4人被稱為齋藤四人眾,另一說法為與日比野清實、長井衛安並稱齋藤六人眾;後一種說法認可度較高,6人的聯署簽發的文書很多保留下來。 之後弘就因為懷疑安藤等西美濃三人眾與織田家有暗通嫌疑,邀近江國淺井賢政(淺井長政)出兵牽制美濃三人眾。永祿七年(1564年),安藤守就與女婿竹中重治占領稻葉山城,弘就與齋藤龍興一起退出稻葉山城。永祿九年(1566年),弘就改苗字延永氏(延永氏是一色氏家臣世職是丹後守護代)、被稱為延永備中守弘就。 隨著龍興對織田家抵抗失敗,西美濃三人眾改投織田家;永祿十年(1567年)8月,稻葉山城被織田家攻陷,齋藤家滅亡。弘就與弟弟盛就、日根野一族等成為浪人。齋藤家滅亡後,弘就等日根野一族出仕遠江的今川氏真(『太閣記』)。 永祿十一年(1568年)12月27日,掛川城主朝比奈泰朝與德川家石川數正交戰,弘就家臣日根野元太擊殺鈴木深右衛門。翌年1月12日,駐守天王山與德川家康交戰。同月18日,與弟弟盛就一起出擊德川方的金丸山砦,久野宗信、小笠原氏興敗走,支援的岡崎眾也被弘就擊潰。家康聽到戰敗消息十分憤怒,呵斥久野等人。但積弱的今川氏無法與德川氏匹敵,同年中掛川城開城投降,日根野一族再次成為浪人。 今川氏沒落後西上近江,通過近江國人眾今井秀形、島秀安等人的舊誼出仕淺井長政。但元龜三年(1572年)冬,離開淺井家,參與長島一向一揆,在離岐阜附近的新堡擔任守備。弘就通過大湊町船支將老弱婦孺眾運送離開,後來協力者山田三方眾中福島之子被織田氏處決。 天正二年(1574年)9月29日,在織田軍的總攻下,長島一向一揆被滅;日根野一族從長島逃離,不久後降伏信長。 弘就出仕織田家後為馬廻衆,天正三年(1575年)8月,參與討伐越前一向一揆,與遠藤慶隆等人一起出陣越前國,日根野隊越過白木卡侵入黑馬谷,擊破勢力鞏固的一向一揆。天正六年(1578年)11月,參與有岡城之戰。 天正八年(1580年)閏3月,弟弟盛就為首與六郎左衛門、半左衛門、勘右衛門、五右衛門日根野一門在安土城住宅地居住,日根野一門都被信長提拔為馬廻。 天正十年(1582年)6月,本能寺事變時在京都夜宿,對本能寺,二條御所靜觀時局,與美濃佐藤秀方通過信件商談今後局勢,山崎之戰後通過遠藤慶隆傳達京都的形勢。 天正十一年(1583年)5月,弘就與池田恆興一起通過美濃的瑞龍寺違禁出陣,參與賤岳之戰,之後被秀吉授予美濃舊領地。天正十二年(1584年)3月,奉秀吉命令出陣伊勢國,之後轉向尾張參與小牧.長久手合戰,與弟弟盛就等共同守備二重堀砦。再度交戰於德川,與德川軍的沖突造成大量死傷。5月1日,羽柴軍主力轉行美濃,捨棄堀砦撤退,弘就與細川忠興、木村重茲、長谷川秀一、神子田正治等人擔任殿後,與追擊的織田信雄軍交戰。 天正十三年(1585年)7月,作為羽柴秀次配下,參與四國征伐,攻陷阿波的脇城。此後,因為惹惱秀吉一度遭流放。天正十八年(1590年),被允許再出仕豐臣家。於文祿.慶長之役時,作為秀吉使者出使朝鮮。 文祿四年(1595年),秀次事件後,弘就的領地進行整理,之後弘就的領地在伊勢.尾張、三河共計16000石。 慶長五年(1600年)關原之戰中,因立場不明(一說隸屬西軍,一說隸屬東軍但暗通西軍),戰後受減封處分。 慶長七年(1602年)去世,年84歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/11764357.htm
森長可 Mori Nagayoshi(1558年-1584年) 永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年(1573年)3月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された。 同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年(1577年)頃から内政にも参加するようになり、地元の兼山城(現・岐阜県可児市兼山)周辺の発展の為に間近を流れる木曾川を活かしての商業を重視し河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んで専売制を敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちが尾張藩の美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、明治時代に到るまでこの制度は存続した。 天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。団と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。 仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へと女子供の区別無く無差別に鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま団と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子供を海津城に住ませる事を義務付けし、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住ませた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた。 信濃国の仕置きを済ませた長可は上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けて同年の5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某らの守る田切城(妙高市大字田切字東裏にあった城)を落として上杉領深くまで侵攻し、6月までに春日山城からほど近い二本木(上越市)を守る上条景春を破り同地に陣を張った。当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていたが、手薄な春日山城に長可が肉薄すると上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城救援を諦めざるを得ず、5月27日には天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日に本能寺の変で信長が討たれると一転して敵地深く進攻していた長可は窮地に立たされ6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。長可の家臣大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという行動を取り、一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束し暗殺の企みを封じた。翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。東美濃入りした後も苗木遠山氏・遠山友忠などが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近い大井宿でようやく岩松丸を解放している。 同年6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日岐阜城に赴き信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたという。長可が各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した森家であったが、元与力の肥田玄蕃・久々利頼興らが離反してその勢力は衰退しており、更に小里光明・妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田玄蕃の米田城を攻めた。肥田玄蕃は病を患っていた為同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可はこれを聞いて「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。加治田は利のあるところである。加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て堂洞城跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した(加治田・兼山合戦)。しかし同年中に肥田玄蕃の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。長可は元家臣である大森城の奥村元広と上恵土城の長谷川五郎右衛門が信州からの帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田玄蕃に内通したとして大森城を重臣の林為忠に攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した。 長可は同月中に今城・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、根本城の若尾元昌、土岐高山城の平井光村、妻木城の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。また、東美濃一の堅城である岩村城も城主団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため戦を行わず接収した。更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠である苗木城へと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年(1583年)の正月には宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せて加木屋正則により仇討させ、同日夜間に久々利城を攻めたて落城させた。また賤ヶ岳の戦いに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の遠藤慶隆・遠藤胤基が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入ると佐藤秀方と連絡を取って遠藤領に侵攻。立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した(立花山の戦い)。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出して徳川家康を頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。更に、明知城の明知遠山氏(遠山利景、遠山一行等)と、信孝方の小里城主小里光明を美濃国から追放し、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したため加治田衆を含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を廃城処分としている。 また、この頃より書状の上で「森武蔵守長可」を自称するようになっている。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。3月16日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く。(羽黒の戦い) 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成軍の家臣水野太郎作清久の足軽杉山孫六鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。享年27。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E5%8F%AF
稻葉貞通 Inaba Sadamichi(1546年-1603年) 稻葉良通的次子、母為三條西公條之女、正室為齋藤道三之女、繼室為織田信秀之女(神保・稻葉夫人)、前田玄以之女;名彥六、以鈍,別名羽柴曾根侍從、羽柴郡上侍從。 起初和父親良通一同仕官於美濃國齋藤氏,永祿十年(1567年),降伏於織田信長,此後便隨同父親奉信長之命轉戰各地。天正七年(1579年),繼承家督之位,成為美濃國曾根城主。 天正十年(1582年)4月5日,貞通守備飯山城之際,芋川親正煽動國人一揆將其團團包圍。雖然森長可立即派出援軍予以解危,並在長沼城方面擊破一揆軍勢;但信長仍因這次的失敗解除貞通飯山城守備之職,改由長可家臣林為忠代替,並將其召回本陣而回到諏訪地區。本能寺之變時,貞通正在京都,一得知信長被殺的消息後,急忙逃回美濃國。 翌年,賤岳之戰,貞通隸屬於羽柴秀吉陣營,因為當時的美濃國屬於信長三男.織田信孝的支配範圍,對舊主之子兵刃相向讓貞通感到迷惘,於是將家督之位讓與長男稻葉典通。 天正十一年(1583年),隨同羽柴秀吉攻打伊勢國嶺城,在回程遭到當地住民的襲擊(土一揆),瀕臨覆滅的危機。這時貞通親自擔任殿軍,三度驅散一揆軍勢使其撤退。 天正十五年(1587年),征討九州時和典通一同出陣,典通因觸怒秀吉,被命令回伊勢閉門思過,所以貞通再度坐上家督之位。同年冬天,敘任從五位下.侍從之位。 天正十六年(1588年),將居城轉移到郡上八幡城並進行大規模改修。同年4月14日,後陽成天皇行幸聚樂第時,貞通也隨侍在側。這年,被賜姓羽柴。 天正十八年(1590年)3月,率領1200多人的兵力參與小田原之戰,在織田信雄指揮下攻打韭山城。文祿元年(1592年)開始的文祿之役,也隨同諸將渡海,轉戰朝鮮半島各地。 慶長五年(1600年)關原之戰,初始隸屬西軍負責防守郡上八幡城,在郡上八幡城遭遠藤慶隆、金森可重等人攻陷後便投入東軍,隸屬於加藤貞泰而活躍於本戰。 戰後,貞通因其戰功從美濃國八幡藩的4萬石,改封至豐後國海部郡、大野郡、大分郡三郡共5萬60餘石的臼杵城主,並成為初代臼杵藩主。 慶長八年(1603年)逝世,年五十七歲,戒名智勝院殿一等玄規大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%BB%E8%91%89%E8%B2%9E%E9%80%9A
遠藤慶隆 Endo Yoshitaka(1550年-1632年) 遠藤盛數的長子、母為東常慶之女、繼父為長井道利、正室為安藤守就之女、繼室為姊小路良賴之女、姊小路賴綱之女;幼名三郎四郎、通稱左馬助、初名盛枝,別名新太郎、六郎左衛門,號旦齋。 美濃遠藤氏為千葉氏一族東氏的庶流,後來慶隆的父親盛數擊敗宗家當主妻舅東常慶,進駐八幡城的盛數臣服於美濃的戰國大名齋藤氏,曾經代表齋藤義龍和齋藤龍興與尾張國的織田信長交戰,其後在永祿五年(1562年)死去,由13歲的慶隆接任家督,由於年紀尚幼,因此遠藤氏家臣協議其母與另一齋藤氏家臣關城主長井道利再婚,讓他成為慶隆的後見人。其後,慶隆迎娶同樣是齋藤氏家臣的北方城主安藤守就之女為妻。 永祿七年(1564年),慶隆最初與其弟慶胤同住於井之口(現岐阜縣岐阜市)的長井邸,但是竹中重治奪取稻葉山城後,兩人前往山縣郡深瀨鄉(現岐阜縣山縣市)避難,木越城(現岐阜縣郡上市大和町)主慶隆的堂兄遠藤胤俊趁機奪取八幡城,並且企圖暗殺慶隆兄弟,最終粥川甚右衛門和餌取六右衛門成功營救慶隆,並且護送至刈安的鶴尾山城(現郡上市美並町)。翌年,道利的援軍前來協助慶隆後,胤俊提出和解,並且將八幡城交還給慶隆。 永祿十年(1567年)9月,織田氏在稻葉山城之戰中消滅齋藤氏,郡上的鷲見彌賓士和別府四郎乘亂謀反,在市島的最勝寺結集兵力計劃攻佔八幡城,慶隆察覺後先下手為強發動攻擊,最終兩人逃亡至飛驒國。同年同月左右,慶隆臣服於信長,郡上郡的領地亦因而獲得安堵。另外,道利在稻葉山城之戰時戰死後,慶隆之母便歸依教如,改法名為照用院釋尼友順,並且在郡上戶谷的草庵憑弔前夫盛數。 永祿十二年(1571年),曾經替盛數效力的畑佐六右衛門聯同飛驒的三木自綱(姉小路賴綱)、佐藤氏計劃打倒慶隆,慶隆藉助位於大島村(現郡上市白鳥町)的安養寺的力量,讓安養寺信徒擔任先鋒,成功讓畑佐等人投降。 元龜元年(1570年)5月25日,慶隆奉信長之命前往岐阜,與弟慶胤、堂兄胤後一同弟慶胤在橫山城以南與淺井氏和朝倉氏聯軍作戰,亦參加在6月28日爆發的姊川之戰。慶隆獲得信長賜予感謝狀,並且在管理東濃諸將的森可成麾下效力,同年8月12日,慶隆的領地獲可成安堵。不過同年9月,可成在阪本戰死後,慶隆改為從屬於阪井政尚,與胤俊防守堅田,但是政尚和胤俊在11月26日爆發的志賀之陣中戰死,損失約100名士兵的慶隆(有些說法為約500人)與身邊數人逃至京都的大德寺。後來,從八幡城而來的約50人保護下,慶隆返回近江志賀(現滋賀縣大津市內)與信長見面,並且在與淺井和朝倉達成和議後重返八幡城。翌年,信長火燒比叡山,慶隆與另一堂兄遠藤胤基也有參加。 遠藤氏仕於信長的同時也與武田信玄取得聯繫,元龜三年(1572年)秋天,慶隆派家老遠藤新左衛門前往甲斐國,表示期待信玄西進攻打織田氏,另外遠藤氏同族東氏的家老遠藤加賀守亦與武田氏取得聯繫,加上淺井和朝倉氏亦與加賀守取得聯繫,遠藤兩氏(慶隆和胤基)反信長之心可謂昭然若揭。同年11月,發動西上作戰的信玄派出分隊進入東濃,本隊則攻佔二俁城,並且向德川家康身處的濱松城進軍,遠藤氏在考慮跟從信長還是信玄的同時,家康在得到信長支援的情況下在三方原之戰中大敗。 天正元年(1573年)4月,信玄在西上途中死去,信長懷疑慶隆的信義,便發兵攻打慶隆,慶隆與粥川甚右衛門、餌取六右衛門一同前往立花山(現美濃市)向信長投降。然而,兩遠藤氏完全未有被處罰,因此推測信長可能未有發現兩人曾經意圖謀反。翌年,加治田城主齋藤利治在益田郡的田口氏的誘導下進入郡上,但是遭到胤基家臣吉田左京進等人擊退。同年7月,田口氏與蟹澤氏在沓部村(現下呂市金山町東沓部)的船野山反抗慶隆,後來慶隆在7月14日派兵將其消滅,並且將沓部賞賜給有功的粥川甚右衛門。 天正三年(1575年)5月長篠之戰爆發,慶隆派其弟慶胤領兵出戰,慶胤則在佐久間信盛麾下於鳶巢立下戰功。同年8月,信長為了討伐越前一向一揆而抵達敦賀,慶隆和慶胤則與日根野弘就從郡上進軍越前,與金森長近匯合,並且攻佔穴馬城和大野城。 天正四年(1576年),織田信忠成為美濃國主後,慶隆從屬於信忠。同年三瀨之變爆發,慶胤以慶隆名代的身份參戰。翌年,來栖鄉的別府彈正謀反,但是遭慶胤的軍隊擊退至北國,郡上的別府氏就此滅亡。天正十年(1582年)2月,信長發動甲州征伐攻打勝賴時,慶隆與胤基從屬於長近,並且從飛驒進軍甲斐,在天目山消滅武田氏。 同年本能寺之變爆發,信長和信忠死於明智光秀手上,其後羽柴秀吉在山崎之戰中擊敗光秀後,美濃眾人大多靠攏秀吉,不過遠藤氏卻臣服於織田信孝。同年11月,信孝命慶隆前往武儀郡板取討伐不服從其命令的長屋氏,逼使對方投降。慶胤則在山縣郡太郎丸城與深尾和泉守交戰時負傷,從而獲得信孝在11月11日寫信表揚。 天正十一年(1583年)1月,武儀郡內眾人投靠秀吉,並且在須原(現美濃市)和洞戶(現關市)佈陣嘗試截斷郡上與岐阜的聯繫,遠藤軍派出約300名騎兵(『篠脅城主東家譜記』記載為2,000人)將其擊敗,並且固守於立花山(現美濃市),但是在森長可和佐藤秀方接連攻擊的情況下陷入苦戰,在補給路線也被截斷的情況下,慶隆軍一度陷入將熊皮燒來吃的困境,甚至考慮如其餓死不如戰死,寧為玉碎不作瓦全。不過,隨著秀方的使者告知柴田勝家在賤岳之戰中戰死以及信孝在岐阜城被包圍的情況下投降的消息給慶隆後,他便派出人質,決定投降,是為立花山之戰。 天正十二年(1584年)小牧、長久手之戰爆發,慶隆接受長可的請求作為秀吉一方參戰,他率領600名騎兵與長可匯合,聯同在三河國的部隊組成第二陣。然而,部隊在與家康交戰中大敗,第二陣的大將長可亦戰死,慶隆最終決定撤退,期間遠藤彌九郎、餌取傳次郎、日置主計、豬俁五賓士和和田仁兵衛等遠藤氏家臣死傷無數的情況下,慶隆成功逃脫。 天正十三年(1585年),秀吉發動紀州征伐,慶隆與胤基一同參戰。同年8月,長近和金森可重奉命前往飛驒討伐姉小路賴綱,慶隆兄弟亦有參戰,最終自綱投降。天正十五年(1587年),慶隆和胤基參加了秀吉發動的九州征伐。翌年,秀吉興建聚樂第,並且在賞賜西京口的住所給慶隆和胤基後,他便攜妻子一同上京。 天正十六年(1588年),秀吉以立花山之戰等曾經反抗其為由,沒收兩遠藤氏約2萬石的領地,將慶隆減封至小原7,500石,胤基則減封至犬地5,500石。在石高減少的情況下,慶隆難以繼續保持家臣的規模,便將其中的三分之一人解僱,讓他們出仕其他武家、務農或成為浪人,慶隆轉封後八幡城由稻葉貞通以郡上武儀郡津保谷,總共4萬石入主。有些說法稱郡上交給貞通後,兩遠藤在無領地的情況下前住關城寄居於町人加取善左衛門家中,其後與因太閤檢地而到訪的小野木縫殿助和寺西築後相遇後,向其請求秀吉賜予領地,兩人上洛後向秀吉傳達兩遠藤的請求後,他們便獲得小原和犬地之地,於是便在天正十八年(1590年)搬往該處。 同年小田原征伐爆發,慶隆與胤基率領約900名士兵參戰,其後跟隨秀吉遠征會津。文祿元年(1592年),慶隆與胤基在萬曆朝鮮之役時從屬於織田秀信,在釜山、梁山、蔚山和鎮守城等地作戰,兩年後才返回日本。不久後,胤基便在長門國國分寺病死,由遠藤胤直繼承。 慶長三年(1598年),伏見城普請,慶隆與胤直便從東美濃帶木材上京,城池落成後,兩遠藤氏獲賞賜在狼谷口的居所。同年8月,秀吉死去,慶隆獲得其遺物三原之腰刀。 慶長五年(1600年),石田三成舉兵號召打倒家康,美濃岐阜城主秀信加入三成帶領的西軍,同時郡上八幡城主稻葉貞通為了阻止家康西進,進駐了犬山城,兩遠藤氏均獲秀信勸誘加入西軍,但是慶隆在返回小原與慶胤商討後決定加入東軍,與此同時胤直卻選擇加入西軍,慶隆便派其子遠藤慶勝前往戒備。其後,慶隆取得家康進攻八幡城的許可,便與從江戶趕至飛驒的可重一同攻打八幡城,最終稻葉軍投降,雙方達成和議後,慶隆獲家康安堵郡上一帶的領地,但是貞通得知此事領兵突襲慶隆,雖然慶隆敗走,但是雙方其後再次和解。及後,慶隆的攻勢亦逼使胤直投降,並且向身處信濃的德川秀忠報告戰況而獲得感謝狀的同時,自己則前往赤阪(現大垣市)在岡山本陣與家康會面。最終,關原之戰以東軍勝利告終,貞通獲加封至豐後臼杵5萬石,慶隆則在11月時再次成為八幡城主,其後同月15日慶胤死去,慶隆便領有整個郡上郡,總共2萬7000石的領地。 家康開設江戶幕府後,郡上藩成立,並且由慶隆成為首任藩主,直至遠藤慶利一代為止均保持城主格的待遇。 慶長六年(1601年),豐臣氏以天下普請為名動員全國大名修建膳所城等城池。翌年,慶隆獲賞賜長尾村銀山。另外,慶長六年(1601年)春天至8年(1603年)的秋天,慶隆改建並且修復八幡城。慶長九年(1604年),慶隆獲任命為從五位下但馬守。 慶長十四年(1609年)11月,伯耆國米子城主中村一忠在無子繼承的情況下死去,慶隆奉命停留在米子藩兩個月後才返回領國。慶長十八年(1613年),慶隆遵照幕府之命,與妻子從郡上遷往江戶居住。 慶長十九年(1614年)大阪冬之陣爆發,慶隆與嫡子慶勝一同在枚方佈陣,並且於久良加利卡(暗卡)防守。翌年2月12日,慶勝在京都柳的馬場病死。同年大阪夏之陣爆發,慶隆在山城國八幡佈陣,與本多康紀、本多康俊再次於久良加利卡防守,其後留在松原。5月6日,慶隆向大和川進軍,翌日從岡山口攻進玉造口,並且在城內放火後退兵,由於在這場天王寺岡山之戰中立下戰功,慶隆在同月8日於二條城領受家康賞賜的黃金20枚。 元和三年(1617年),由於可重尚未將妻子送往江戶,慶隆便奉秀忠之命前往飛驒高山藩交涉。寬永年間(1624年-1643年),慶隆獲恩准在參勤交代期間攜帶五枝鐵砲,在入鐵砲出女的警戒下,此舉可見慶隆深得幕府信任。 寬永九年(1632年),第2任將軍秀忠死後,慶隆出家,法號旦齋,兩個月後在江戶死去,年83歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E6%85%B6%E9%9A%86
金森可重 Kanamori Yoshishige(1558年-1615年) 美濃国の長屋景重の子で、金森長近の養嗣子となる。正室は遠藤慶隆の娘、継室は名護屋高久の娘、江馬輝盛の娘。子に金森重近(宗和)、金森重次、金森重頼、金森可次、金森重勝(左京)、金森重義、酒井重澄、娘(末次某室)、娘(則生院某室)、娘(小出三尹継室)。通称喜蔵。従五位下・出雲守。 本能寺の変で長近の長男が戦死したため、その養子に迎えられた。天正13年(1585年)、養父長近と共に飛騨平定戦に活躍し、従五位下・出雲守に任官し、飛騨国増島城1万石の城主となる。後に秀吉に従い佐々成政、姉小路頼綱らを討つなど、長近の飛騨支配に貢献した。九州征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役、会津征伐にも長近とともに従軍。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、西軍の稲葉貞通が篭城する郡上八幡城を岳父の遠藤慶隆とともに攻めた(八幡城の合戦)。養父の死後には飛騨高山3万8千石を知行し、飛騨一国を領するまでになる。 長近と同じく茶の湯に秀で、古田織部に師事した。2代将軍・徳川秀忠の茶道指南役を務め、吉野竹林院にて開かれた利休亡魂の茶会にも石川貞清らと共に参加している。 大坂の陣にも出兵し、小出吉英の加勢となって、樫井の戦いで西軍を撃退し、金森勢が挙げた首は152とも208ともいわれている。この戦いで東軍に参加することを拒んだため、長男の重近を廃嫡し、三男の重頼に家督を譲る。 元和元年(1615年)閏6月3日、58歳で伏見にて死去。法号は徳応院殿雲峰閑公。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E9%87%8D