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三好政長 Miyoshi Masanaga(1508年-1549年) 初期の経歴は不明だが、長兄の新五郎が永正17年(1520年)に伯父の本家当主三好之長に従い等持院の戦いで細川高国に敗れ、之長と共に処刑されている。高国の政敵で之長が擁立していた細川澄元は畿内から阿波へ逃れ死去、遺児聡明丸(後の晴元)は阿波に止まり、三好一族も之長を始め多くが高国との戦いで敗死して勢力を減退させ、逼塞を余儀無くされていた。 大永6年(1526年)12月13日、高国が自ら招いた内紛で苦境に立たされていた好機に乗じ、父や次兄勝長と共に阿波勢の先鋒として堺に上陸、摂津堀城を占拠した。続いて翌7年(1527年)に北上して摂津と山城の境目に当たる山崎で反高国派の柳本賢治と合流、2月13日の桂川原の戦いで高国に勝利して近江へ追い落とし上洛を果たした。3月22日に従甥にあたる本家当主三好元長(之長の孫)が足利義維と晴元を擁立して堺に上陸、幕府と酷似した堺公方府を誕生させるとその中枢に入った。 しかし元長とは仲が悪く、賢治と組んで元長と対立するようになり、しばしば主君の晴元に讒言して元長を陥れた。大永8年(1528年)に元長が高国と12代将軍足利義晴との和睦に動くと賢治と共に反対、晴元も反対するよう説得させ元長を窮地に立たせた。また、賢治が大和・河内・摂津などで高国派を征討しながら元長派の国人を排除をした時も協力、享禄2年(1529年)に失望した元長が阿波へ帰国すると代わりに阿波勢を率いる立場に置かれた。しかし、享禄3年(1530年)に高国が播磨から挙兵して賢治が暗殺され、堺公方府が危機に陥ると晴元と相談して元長を復帰させた。晴元の命令で元長は東進する高国軍を迎え撃ち、翌享禄4年(1531年)の中嶋の戦い・大物崩れで高国を討ち取り政局を安定させた。 高国敗死後に元長が台頭すると木沢長政・茨木長隆らと結託して再び元長と対立、享禄5年(1532年)に長政が居城の河内飯盛山城を元長と結んだ畠山義堯軍に包囲されると、晴元に進言して一向一揆を起こさせて義堯・元長を討った(天文の錯乱)。以後は長政・長隆らと共に細川政権の重鎮となり、摂津榎並城主として室町幕府料所河内十七箇所を元長に代わって代官として統治した。 しかし、元長の嫡男・長慶が晴元に仕えるようになると、天文8年(1539年)に長慶と河内十七箇所の代官職を巡って対立。天文8年(1539年)閏6月に長慶が十七箇所の返還を掲げ軍を率いて上洛すると晴元は京都北西の高雄(現在の京都市右京区)へ避難、政長は4月の時点で丹波で蟄居していたが、晴元の支援で兵を集め7月に京都で長慶と小競り合いを繰り返した。この争いは近江の六角定頼と将軍義晴の調停で長慶と和睦、長慶は細川政権下で重用されるようになる。 それからは長慶と軍事行動を共にするようになり、天文10年(1541年)から翌11年(1542年)にかけての長政討伐及び太平寺の戦い、天文14年(1545年)に山城南部で起こった上野元治・元全父子の反乱鎮圧、天文15年(1546年)の細川氏綱の反乱に呼応した摂津国人の討伐、翌天文16年(1547年)の舎利寺の戦いなど晴元の有力部将として長慶と共に出陣していった。天文13年(1544年)5月に晴元の勧めで隠居、嫡男政勝に家督を譲ったが、形ばかりの隠居で以後も晴元に従軍したため長慶を始め周囲の反発を招いた。 天文17年(1548年)5月6日、政長の婿である摂津国人池田信正が晴元の命令で切腹させられた。信正は天文15年の氏綱の反乱に加担して晴元に反抗、政長の取り成しで降参して許されたが、かつての反乱を持ち出され処刑されたのである。信正の後を継いだのは息子で政長の外孫でもある長正だが、晴元の強引な介入に長慶と他の摂津国人衆が反発、10月に長慶がかつての敵だった氏綱と遊佐長教と結び、長慶派の国人も呼応して晴元に反乱を起こした。長慶には氏綱・長教と池田長正を始めとする摂津国人衆、丹波の内藤国貞、和泉の松浦氏などが味方に付き、一方の政長は主君の晴元と義晴・六角定頼を味方に引き入れるのには成功したが、摂津の味方は茨木長隆・伊丹親興ぐらいしかなく、榎並城に籠城していた政勝は三好軍に包囲され危機に陥っていた。 長慶・政長陣営は互いに打つ手が無く膠着状態のまま天文18年を迎えたが、2月になり長慶が出陣して榎並城を包囲、政長も丹波を迂回して摂津へ向かい榎並城へ接近、3月1日に榎並城付近の柴島城を落とされ伊丹城へ引き上げたが、4月に晴元が摂津に出向くと軍を立て直し、5月に三宅城を占拠して晴元を迎え入れ、6月11日に三宅城から南下、柴島城と榎並城付近の江口城へ入城した。しかし、晴元の戦略は独力で長慶に立ち向かえないため六角定頼・義賢父子の援軍を待つというものだったが、政長は政勝の窮地に待ちきれず前線の江口城へ進み自ら孤立してしまった。 長慶はこの機を逃さず江口城周辺も占拠して三宅城との通路を遮断、政長は三好軍に包囲され、24日に援軍の六角軍が到着する前に長慶に江口城を攻め込まれ討死した(江口の戦い)。政勝は榎並城を放棄して行方をくらまし、晴元も長慶の追撃を恐れ京都へ逃亡した。これによって長年に亘って幕政を担ってきた細川政権は一挙に崩壊し、消滅することになる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E9%95%B7
三好義賢 Miyoshi Yoshikata(1527年?-1562年) 三好元長的次子、正室為久米義廣之女、繼室為岡本牧西之女・小少將;幼名千滿丸,別名物外軒、之虎、實休,戒名實休居士。 天文十三年(1544年),跟隨兄長三好長慶進入京都,長慶跟隨細川氏當主細川晴元,義賢則仕於細川分家・阿波守護讚州細川當主細川持隆,從此開始在四國的影響力。 天文十六年(1547年),細川晴元與細川氏綱、畠山政國、遊佐長教等勢力在攝津爆發捨利寺之戰,義賢做為細川晴元方將領出戰獲得勝利。此後隨著三好的勢力逐漸擴大,相繼轉戰讚岐、和泉等地。而由於其弟十河一存後來成為和泉國岸和田城主,讚岐一國實際上也由其支配,因此囊括三好勢力在四國的政治及軍事。 天文二十二年(1553年)6月,與其弟十河一存共同在見性寺內殺害細川持隆,並擁立其子細川真之作為傀儡。此舉雖引起持隆舊臣久米義張、佐野丹波的反抗,但亦被義賢所平定,從此完全掌握讚州細川家,稱為阿讚眾的阿波、讚岐國人眾從此歸入三好政權的勢力。 永祿三年(1560年),與兄三好長慶一同戰勝畠山高政及安見宗房,之後被委派管理河內一國。 永祿五年(1562年),遭受得到紀伊根來眾援助的畠山高政反擊、於和泉的久米田之戰中戰死,年三十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E8%B3%A2
三好長慶 Miyoshi Nagayoshi(1522年-1564年) 三好元長的長子、母為慶春院殿南岸智英大姊、正室為波多野稙通之女、繼室為遊佐長教之女;幼名千熊丸、通稱孫次郎、別名利長、範長。 三好氏至父親元長時,擁立細川晴元,在細川家內訌中脫穎而出,取得細川家實權。元長之堂叔父三好政長(三好宗三),恨元長專權,便和細川晴元的寵臣木澤長政、柳本賢治等一同在晴元面前詆毀元長,晴元遂日漸疏遠元長,元長怕禍事臨頭,回到自己的領地阿波。趁著元長不在,晴元的對頭細川高國(細川政元之養子)與浦上村宗聯兵攻擊晴元。晴元的手下無法控制大局,於是召回元長,元長遂在享祿四年(1531年)擁立晴元進攻京都,大破高國與浦上軍,細川高國和浦上村宗均戰死。 元長勝利後,將軍足利義晴遂以細川晴元為管領,但將軍和管領皆無實權,實權掌握在元長手上。元長掌權後第一件事就是殺了柳本賢治之子柳本甚次郎,因為柳本在元長避禍阿波時,攻擊元長之姻親伊丹元扶,但元長殺柳本,引來晴元的極度不滿。元長見晴元怒不可遏,遂削髮出家為僧,號海雲。但晴元仍懷恨不已,命三好宗三和木澤長政陰謀對付元長,兩人誘使本願寺僧圍攻元長,元長把妻與子長慶送回阿波,自己在界町的顯本寺自殺,年僅三十二歲,時天文元年(1532年)。 元長死時,長慶年僅十歲。天文三年(1534年),年僅十一歲的長慶在父親死後繼任為家督,與細川晴元和解,成為晴元的被官,獲攝津守護代之職,任越水城城主。天文二年(1533年),本願寺的僧人和細川晴元因利益糾結而大打出手,之後兩方混戰,互有勝負。晴元把將軍義晴搬出來調停。但將軍的調停效果有限,過了不久,又有玉井氏康擁立細川高國義子氏綱,以及游佐長教擁立田山植長之弟政國,和石山本願寺的僧兵勾接,京都一帶是一片混亂。晴元派手下三好宗三等人去鎮壓叛亂,師勞無功,便想起了元長之子長慶,就派人招長慶前來支援。此時長慶已經十九歲,統率晴元之侄細川持隆手下的兵,頗有勇名。 經過其弟三好義賢(三好實休)的勸諫後,長慶率軍渡海。天文八年(1539年),長慶率軍進入近畿和細川氏綱、田山政國等軍交戰,並且接受將軍足利義晴的命令,與柳澤元俊一同剿滅了洛中的盜匪。三好宗三心生妒恨,向晴元詆毀長慶。此事被長慶得知後,大怒之下與細川晴元決裂,和游佐長教聯合反戈進攻晴元的領地。天文十一年(1542年),長慶在河內太平寺擊殺仇敵木澤長政,隨後與游佐長教反目,先在翌年打敗玉井氏康擁立的細川氏綱,然後於天文十六年(1547年),長慶次弟三好義賢率軍在攝津捨利寺大破游佐長教軍。次年5月,再無力與三好抗衡的游佐長教與田山政國臣服於長慶,長慶也迎娶了游佐長教的女兒以鞏固對游佐氏的統治。 永祿四年(1561年),長慶將宿敵細川晴元囚禁於攝津芥川城,此事引起了晴元的盟友六角義賢的不滿,於是六角義賢便與田山高政結盟一同對抗三好家。 同年5月,三好四兄弟中最為年幼但最為英勇的四弟十河一存在前往有馬溫泉途中落馬傷重不治而歿。永祿五年(1562年)4月8日,田山高政與六角軍聯合進攻和泉,引發久米田之戰,是役之中素為長慶倚重的二弟義賢戰敗身死。長慶親率大軍以安宅冬康、松永久秀為先鋒於6月21日大破田山、六角聯軍,將田山高政趕回紀伊,是為教興寺之戰。 永祿六年(1563年),長慶偕同家臣松永久秀等七十三人在界受洗。同年三月一日細川晴元病逝,而長慶也在接連失去兩個弟弟的打擊下身體急速衰弱起來。國事盡為松永久秀所控制,久秀忌憚長慶嫡子三好義興武勇能斷,日後繼位自己可能將大權盡失,索性將其毒殺。 由於此事為安宅冬康所知悉,所以松永久秀又在翌年在已病得精神恍惚的長慶面前進讒言,誣告其弟安宅冬康意圖謀反。長慶大怒之下,命安宅冬康自盡。永祿七年(1564年)8月10日,失去了眾親兄弟與長子的長慶在無盡的失落與孤寂中一病歸西(另一個說法指長慶被松永久秀殺害),享年四十二歲,法名聚光院眼室宗進。長慶死後三年才舉行葬禮,墓地在現今京都市北區大德寺聚光院。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
安見直政 Yasumi Naomasa(生年不詳-1571年?) 大和国人越智氏の家臣・中村圓賀の子で、安見氏の養子に迎えられたといわれる。軍記物などの史料では直政(なおまさ)とされているが、古文書で確認できる名は宗房である。当初は大和国人である鷹山弘頼と共に行動しており、山城上三郡に影響を及ぼしていたことから、当初は木沢長政の配下にあり、太平寺の戦いの前に細川晴元方に転じ、その後畠山家に仕えたと推測されている(弓倉弘年・小谷利明らの研究による)。 天文21年(1552年)に畠山家を牛耳っていた遊佐長教が暗殺されたことに伴い、宗房は河内の実力者萱振氏や野尻氏を謀略によって滅亡させ、更に長年の協力者であった鷹山弘頼も殺害、畠山高政を守護に擁立し丹下盛知とともに家中の実力者となった。また滅ぼした野尻氏には息子を養子として入れ、野尻宗泰と名乗らせている。 なお、宗房を守護代とするのは「足利季世記」などの後世の軍記にしか見られない。「天文日記」では畠山氏における宗房の地位は遊佐・丹下・走井といった重臣層に比べて、少なくとも本願寺からは明らかに格下として扱われており、いくら宗房に力があるとはいえ守護代になれる家柄ではなかったと思われる。(代わって守護代になったと伝えられる湯川直光についても同様)。小谷利明氏の見解ではこの時期に守護代に近い立場についていた人物として遊佐太藤の名が挙げられている。 天文22年(1553年)の13代将軍足利義輝と三好長慶の対立の際には三好方に属し丹下盛知と共に援軍に赴いている。永禄年間には狭山池の治水工事を計画している。しかし、主君高政との対立が徐々に表面化し、永禄元年(1558年)には高政が紀伊に出奔。翌永禄2年(1559年)8月、三好長慶の援助を受けた高政と戦いこれに敗北し大和に没落する。しかし高屋城に戻った高政はやがて長慶と不和になり、翌3年(1560年)5月には和睦して復帰する。以降は高政に従い、永禄3年での三好氏との戦い(敗北して高政と没落)や、久米田の戦い・教興寺の戦いにおいても協力している。 将軍義輝が暗殺された永禄の変が起きた際には、早々に義輝の弟である覚慶(足利義昭)の擁立の支援を求め、越後国の上杉謙信に畿内情勢を報告するなど、幕府のために働いた。またこの頃から遊佐姓を名乗るようになっている。三好三人衆と松永久秀が対立すると、高政・秋高兄弟と共に久秀に味方し河内復帰を目論むも敗れている。義昭が織田信長に擁立され上洛し将軍に就任すると、高政・秋高と共にこれに従い、ようやく河内へ戻った。また「言継卿記」によればこの際に幕府奉公衆に取り立てられたという 永禄12年(1569年)、遊佐信教と共に高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、再度高政を追放したとされるが、弓倉弘年氏の指摘によるとこの追放劇は「足利季世記」などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。義昭上洛以降は高政・宗房共に河内支配に関わる形跡が少なくなり、それぞれ穏便な形で秋高・宗泰に家督を譲り在京していたのではないかと思われる。 また元亀2年(1571年5月に交野城にいたところを松永久秀に誘殺されたとされるが、この際に殺された人物は「安見右近」としか書かれておらず、宗房と同一人物かは疑わしい。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A6%8B%E5%AE%97%E6%88%BF
木沢長政 Kizawa Nagamasa(1493年?-1542年) 木沢氏は畠山氏の被官として名が見える一族である。畠山持国の時代には木沢蓮因なる人物がいたことが知られている。 長政の時代において、主家の畠山氏は総州家と尾州家に分かれて対立しており、当初は畠山義就を祖とする畠山総州家の畠山義堯に仕えていた。だが、相克を続ける主家を見限るかのように、次第に独自の行動をするようになっていく。 細川氏本家京兆家へ取り入って自らの地位向上に努める中、政敵の排除には一向宗と法華宗の宗教対立まで利用する狡猾さを見せた。やがては主家を牛耳るほどの勢力を一代で築き上げ、畿内にその名を轟かせたが増長したため孤立し、最後は三好長慶に敗れ戦死を遂げた。 当時、堺公方・足利義維を擁して細川氏の管領職争いを優位に進めつつあった細川晴元へ接近。享徳3年(1530年)11月から晴元の命令で京都防衛に務め、晴元の仇敵・細川高国に呼応して京都東山の将軍山城から襲来した内藤彦七と交戦した。しかし翌享禄4年(1531年)3月7日、高国による摂津侵攻の際には、当初は勢い盛んな高国軍との対峙を危ぶんでか一時的に姿を消す。ところが、6月4日の天王寺の戦い(大物崩れ)で高国を破って切腹に追い込んだ晴元ら堺公方派の勝利が確定した頃になると再び姿を現し、高国方の要人である細川尹賢を捕縛し、切腹させている。主君・義堯も晴元の姉妹が正室であった縁にも因るのか、堺公方の義維を支持する一員であった。 だが、高国という共通の外敵を滅ぼすと堺公方派の結束にヒビが入りはじめた。原因は晴元にあり、義維派の中心人物でありながら、対立してきた12代将軍足利義晴との和睦を図ろうとする晴元の方針に、晴元の有力家臣である三好元長が諫言。義堯も諌止側に回るなど、両者は次第に対立するようになる。 そんな中、主家・畠山氏を飛び越えて、晴元への接近を強めんとする長政の姿勢は、これを危険視する義堯と元長の結束を招いてしまう。誅滅を恐れた長政は、三好氏一門の中で元長を敵視する従叔父の三好政長と共謀、讒言によって晴元と元長を離間させることに成功した。義堯と元長からは2度に亘って居城の飯盛山城を攻撃され劣勢であったところを、享禄5年(1532年)6月には晴元の要請により蜂起した一向一揆の来援を得て撃退。窮地を乗り切った(飯盛城の戦い)。しかも、この時の一向一揆の進撃は凄まじく、義堯を自刃させたばかりか、畿内における三好氏の根拠地・和泉顕本寺まで襲って元長も自害に追い込み、堺公方を消滅させている。 しかし、一向宗と法華宗の対立を利用して政敵の排除に成功したものの、一向一揆軍はそのまま大和へ転進し、興福寺などの他宗派との衝突や暴動を起こすなど新たな騒乱を巻き起こしてしまう(天文の錯乱)。そのため、将軍義晴の下で管領となった晴元、管領代茨木長隆の命令を受けて、長政はその対応と鎮圧に追われることになる。そこで今度は一向一揆と対立する法華一揆と結び、その力で一向一揆を追討した。一向一揆の勢力を弱めることに成功すると、今度は法華一揆が邪魔になったため、天文5年(1536年)にこれを打倒した(天文法華の乱)。 その後、本願寺10世法主証如や証如の後見人蓮淳と書簡や進物のやり取りを盛んに行い、一向宗との関係修復に努めた。天文3年(1534年)には元長の遺児である三好長慶と晴元の仲介も果たし長慶を晴元の家臣に組み入れた。こうして長政は畿内の実力者の1人として認識されるようになる。 このころ、河内守護畠山氏においては、総州家(畠山義就を祖とする)は木沢氏の傀儡となっていたが、一方の尾州家(畠山政長を祖とする)の勢力は健在であった。 天文3年当時、尾州家の主は畠山稙長であったが、晴元への対抗として本願寺と同盟したことが発覚すると、長政は尾州家重臣の遊佐長教らと結託して稙長を紀伊に追放した。当初は稙長の弟・畠山長経を傀儡として擁立したが、晴元の干渉もあって長経は廃され、もう1人の弟晴熙が家督代行として長教に擁立されたが、これは一時凌ぎに過ぎず幕府からも認められなかった。 やがて長教と交渉を行い天文7年(1538年)に畠山弥九郎と畠山在氏をそれぞれ尾州家・総州家から擁立し、尾州家と総州家の共同統治という形式を採ることにより、長政は長教と共に畠山氏の実権を握ることになる。背景には一向一揆への脅威に対する備えとして両畠山氏の和睦を考えていた長政の意向があったとされる。 その後の長政の野心は、河内1国を支配下に治めただけにはとどまらず、その軍事行動は畿内の各国に及んだ。特に、かつての総州家の版図である大和への執着は根強く、国人衆にとって大きな脅威となった。この時河内と大和の双方に通じる拠点として信貴山城や二上山城を築城した。 だが、畿内では新たに三好長慶や摂津の有力国人である池田信正(久宗)が台頭するようになっていた。長慶の帰参を取り成したのは長政で、これは法華宗と和睦する際に、法華宗とつながりの深い三好氏の助力を得る必要があったためである。年少ながら晴元政権でしだいに頭角を現していた長慶は、当初は父の仇の1人である晴元と敵対するも和睦、摂津越水城を与えられると畿内に勢力を着実に広げ、長政に押領された父の旧領奪回を狙っていた。 こうした外部での情勢変化以上に問題となったのが、畠山家中における主導権を巡る遊佐長教との対立である。旧主の畠山稙長と和睦してまで長政の排斥を目論む長教に対抗すべく、蓮淳の仲介で晴元との関係強化を図ったが失敗する。事情は不明だが先に廃した畠山長経も殺害しており、長政の畠山家中での増長の兆しがこの頃には見えるようになっていた。 天文10年(1541年)8月には、旧高国党とみなされた一庫城の塩川政年の処遇を巡って晴元や長慶と対立、摂津の有力国人である伊丹親興や三宅国村を味方につけこれに抵抗した。10月に一庫城への救援に向かい包囲していた長慶と信正を敗走させ、信正の原田城を攻撃、さらに京都へ進軍して将軍義晴を擁立しようと画策するが、肝心の義晴には近江坂本へ逃れられてしまい、晴元も京都郊外の岩倉へ退避、長政は幕府に背いた逆賊となってしまう。しかも、早々に晴元と和睦した政年や国村の離反によって孤立感を深めた。 翌11年(1542年)には河内高屋城で政変が勃発。木沢派の家臣が粛清され弥九郎が追放、長教との関係を修復した稙長が当主に復帰した。 畠山尾州家における支持基盤を失い、総州家の在氏からの支持も得られず、ますます窮地に立たされた長政に従うのは、柳生家厳などかつての総州家の被官を中心とする大和国人衆の一部のみであった。高屋城の再奪取を図るも失敗し、3月17日に幕府の追討軍と河内太平寺で一戦するも、細川・三好・遊佐連合軍に敗れ討ち死にした(太平寺の戦い)。 長政と共に一族の多くが戦死、二上山城や信貴山城などもまもなく落城し、長政の勢力は消滅したが、その残党は旧細川高国の残党と結びつき、12月には細川氏綱を盟主として挙兵し、細川氏綱の乱が勃発する。また、長政の没後の大和においては筒井順昭が台頭したが、その勢力を抑えるために長慶が派遣した部将が松永久秀である。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%B2%A2%E9%95%B7%E6%94%BF
池田信正 Ikeda Nobumasa(生年不詳-1548年) 摂津池田城主で池田貞正の子。妻は三好政長の娘。長正の父。通称は三郎五郎、官位は筑後守。名は勝俊、久宗とも。 畿内の細川氏の家督争いで細川澄元に与した父が永正5年(1508年)に細川高国に居城池田城を攻められ自殺したため、信正は逃亡。 永正16年(1519年)の澄元の挙兵に呼応、摂津下田中城を奪って恩賞に豊島郡を与えられた。その後の動向は明らかでないが、享禄4年(1531年)に高国と連合を組んだ浦上村宗に池田城を攻め落とされたり、天文2年(1533年)に享禄・天文の乱で一向一揆に敗れて淡路に逃れた細川晴元が池田城に入城していることから晴元方の部将として活動していると見られる。 天文10年(1540年)に木沢長政が晴元に反旗を翻した時は晴元の部将三好長慶に従軍している(太平寺の戦い)。 天文15年(1546年)、細川氏綱と遊佐長教が挙兵すると氏綱に帰参したが、翌年に三好長慶に攻められ降伏。しかし、晴元に許されず天文17年(1548年)5月6日に切腹した。子の長正は晴元の措置に怒り長慶に従い、長慶も晴元の側近である同族の三好政長の関与を疑い晴元に詰問、晴元に拒絶されると氏綱・長教側に寝返って反旗を翻し、翌天文18年(1549年)の江口の戦いに繋がっていった。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%AD%A3
畠山政国 Hatakeyama Masakuni(生年不詳-1550年?) 畠山氏は室町幕府三管領のひとつであり、政国はその嫡流筋である。しかし、幕政においては祖父畠山政長が細川政元に自害に追い込まれてより幕府参画の機会を失った上、嫡流の座をめぐって総州家と尾州家に分裂。尾州家有利といえども分裂状態は政国の代になってもなお解消されず、下剋上さえも起きる戦国時代にあって、守護の実権をめぐって重臣の権力争いに悩まされていた。 天文14年(1545年)に兄の稙長が死去すると重臣の遊佐長教に当主として擁立されたが、兄が室町幕府の権力者細川晴元に反乱を起こした細川氏綱に加担していたため、幕府から当主として認められず代わりに畠山四郎なる人物が擁立された(しかし、家臣の支持を得られずすぐに排除された)。長教ら家臣団は幕府の介入排除のため政国擁立と氏綱援助を継続したが、政国は当主ではなく当主名代と認識されていた。 天文18年(1549年)に江口の戦いで長教が三好長慶と共に晴元派を打ち破り晴元が13代将軍足利義輝と共に畿内から逃亡すると、長教と方針を巡り対立して出家、紀伊へ遁世した。引退後は政国の嫡男である高政が当主となっている。 天文19年(1550年)に没したといわれているが、天文21年(1552年)の段階で隠居として健在であった記録が存在するため、現在では天文年間末期頃の死没とする見方もある。また、兄弟の晴熙も播磨守を名乗っていたことと、かつて畠山弥九郎という人物が政国と同一人物扱いされていたため、天文5年(1536年)から7年(1538年)までの晴熙の経歴及び天文7年から10年(1541年)までの弥九郎の経歴と政国の経歴は混同されている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%94%BF%E5%9B%BD
畠山稙長 Hatakeyama Tanenaga(1504年-1545年) 畠山尚順(のち尚長)の子で長経、政国、晴熙の兄とされる。通称は次郎。家の慣例により、第10代将軍足利義稙より偏諱を賜い稙長(別名:稙家(たねいえ))と名乗る。官位は右衛門佐、尾張守。法名は大和寺殿覚源悟公。 永正12年(1515年)に元服し、永正14年(1517年)に父の隠居により家督を継承するが、既に永正8年(1511年)に河内高屋城を父より譲られるなど、その活動は河内や京都において数年前から確認でき、同時期に父の活動は越中や紀伊方面に注がれていた形跡があり、家督継承の前から二元的な統治形態を取っていたと考えられている。 父は室町幕府管領の細川高国政権の下で守護職を回復し、明応の政変以前の地位を幕府においてある程度取り戻すことに成功したものの、管領は高国が任命され、山城守護職も大内義興に握られるなど不満があったため、幕府と関係する畿内での活動には稙長を当たらせ、自身は領国を固め将来の対立に備えるためか、隠居以降は紀伊に在国し活動を続けていた。幕府での権力回復になおも執着する尚順の姿勢は、幕府を主宰する高国と、戦乱に飽いて幕府との協調を願う畠山家臣団にとって憂慮すべきことであり、尚順を失脚させるためにまだ若年の稙長が利用されたと思われる。 永正15年(1518年)に義興が周防に帰国し、高国と将軍・足利義稙が対立すると、明応の政変以来の義稙の支持者であった尚順は義稙に味方したが、永正17年(1520年)に紀伊を追放され、堺に逃れることになる。これにより稙長は正式に畠山氏の当主として活動するようになる。同年2月に父の宿敵である畠山義英に高屋城を包囲され、3月に落とされ逃亡したが、5月に高屋城を奪い返し義英を大和へ追放した。同年6月から10月に高国と協議の上で大和に介入、尚順派と義英派に分かれて争っていた筒井順興と越智家栄を始めとする大和国人衆を和睦させ、大和への影響を保った。 一方、尚順は翌大永元年(1521年)にかつての宿敵である義英と結び高屋城を攻撃するが敗れ、義稙を奉じ淡路において再起を図るも果たせないまま翌大永2年(1522年)に病没する。翌大永3年(1523年)に義稙も死去、ほぼ同じ時期に総州家においても義英に代わり畠山義堯が当主となり、敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家の勢力と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌が再発する。このため越中においては河内畠山氏の影響力が低下し、分家である能登畠山氏に統治を委ねざるを得ない状況になってしまった。 大永2年においては高屋城が焼失するなど、稙長の統治は安泰とはいえなかった。稙長の支持者であった高国が大永6年(1526年)の桂川原の戦い以降の内紛に悩まされる中、享禄元年(1528年)、稙長の高屋城が反高国派の柳本賢治によって陥落させられ、堺公方政権の下で高屋城は畠山義堯のものとなった。 享禄4年(1531年)には高国が大物崩れにおいて自刃するなど稙長は苦境に立たされるが、義堯が細川晴元の家臣三好元長と結んで晴元と対立し、天文元年(1532年)に両者が晴元に加勢した一向一揆に攻められ自刃に追い込まれると(享禄・天文の乱)、これを好機とみた稙長は実権の回復をめざし活動を活発化させた。ところが、晴元は12代将軍足利義晴と和睦し、義堯の元家臣で晴元に寝返っていた木沢長政もまた義晴方に転じると、稙長は実権を回復するため天文3年(1534年)1月に石山本願寺との同盟を画策、高国派の残党とも結ぼうとした。 しかし、この稙長の行動はかつての尚順の行動と同様、幕府への反抗と取られかねないものであり、畠山家臣団の反発を受けることになる。同年8月、河内守護代の遊佐長教により稙長は紀伊へ追放され、長教は弟の長経を擁立するが、長経もまた独自路線を志向することが分かったため天文4年(1535年)に廃し(後に長政に暗殺されたとも)、弟の晴熙を家督代行に擁立した。やがて天文7年(1538年)に晴元や長政と協議し畠山弥九郎に家督を継がせ、弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として置いた。尾州家と総州家の実力者である長教と長政が一向一揆などの脅威に備えるため両畠山氏の和睦に動き、このような体制を構築したのであるが、実権は2人が握っていた。 天文10年(1541年)、晴元や長教と仲違いした長政が反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し弥九郎、在氏を追放し、高屋城を回復し畠山氏の当主に復帰した。孤立した長政は三好長慶と長教によって討伐され、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて戦死した。長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡したことになる。 在氏はその後幕府に帰参したが、もはや尾州家と敵対しうる勢力ではなくなっており、この後の畠山氏の内訌は尾州家内部の争いが中心になることになる。 長政の滅亡後、天文12年(1543年)にかつての高国の残党の盟主として祭り上げられた細川氏綱が堺で挙兵し、「細川氏綱の乱」と呼ばれる争乱が勃発することになる。稙長は氏綱に与力し晴元と敵対するも、強大な軍事力を有する三好長慶を配下に持つ晴元を下すことができないまま、天文14年(1545年)に病没する。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%A8%99%E9%95%B7
畠山高政 Hatakeyama Takamasa(1527年-1576年) 大永7年(1527年)、畠山政国の嫡男として生まれる。 高政が若年の頃の畠山氏は、天文15年(1546年)に三好政長と摂津の舎利寺の戦いで、勝利するなど細川氏綱を奉じて細川晴元に対抗していたが、河内における実権はほぼ河内守護代の遊佐長教に握られている状態だった。しかし天文20年(1551年)に長教が暗殺されたのを契機として天文22年(1553年)に家督を継ぐ。 その後は天文22年の足利義輝と三好長慶の争いでは長慶に丹下盛知・安見宗房を援軍に送るなど長慶との同盟関係を維持していたが、永禄元年(1558年)11月30日に宗房との対立が表面化し、居城の河内高屋城を追放されて堺に逃れる。その後三好の力を借りて永禄2年(1559年)8月2日宗房らを追放して高屋城に復帰するも、永禄3年(1560年)に今度は長慶と対立して宗房と和解する。そのため、その年の11月13日に、三好軍が高屋城を占拠して高政・宗房らは没落した。 河内守護畠山氏は守護代遊佐氏が力をつけるにつれ圧迫される傾向にあったものの、守護の軍事動員権までは放棄しておらず、また紀伊においては遊佐氏の影響を受けない一定の支配力を保っていた。このため紀伊の軍勢を率いて永禄4年(1561年)、細川晴之(細川晴元の次男)・六角義賢と共に京都に進軍し、一時的に長慶を京都から追い出すことに成功する。永禄5年(1562年)3月5日には久米田の戦いで、長慶の弟である三好実休を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の教興寺の戦いで敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退した。 永禄9年(1566年)、13代将軍足利義輝(義澄の孫)が討たれると、義輝の実弟である足利義昭(当時は義秋)を支持し、将軍にするための援助を続けた、更に三好家の家中分裂が起きると松永久秀方に与する。永禄11年(1568年)には上洛してきた義昭および織田信長に従い、三好氏に奪われていた旧領の一部も安堵され、畠山氏の繁栄を図った。義輝の暗殺前後に家督を弟の畠山秋高に譲っており、上洛後は在京している姿が記録に見える。ただ完全に隠居したわけではなく、元亀元年(1570)の野田・福島の戦いでは河内に下向して義昭・信長と戦っている。 なお遊佐信教・安見宗房が高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、高政を追放したという話は、弓倉弘年氏の指摘によるとこの追放劇は「足利季世記」などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。 天正元年(1573年)に弟の畠山昭高が信教に殺されると挙兵し河内に進攻したが、敗北し紀伊に後退する。天正3年(1575年)に信長によって高屋城は破却された。 その後は河内・紀伊を流浪して天正4年(1576年)10月15日に失意の内に死去した(50歳)。晩年はキリスト教の洗礼を受けた。池田丹後守、伊地地文太夫らと関わりがあったため、彼らからキリスト教を紹介されて洗礼を受けたのではないかと推測されている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%AB%98%E6%94%BF
細川氏綱 Hosokawa Ujitsuna(1514年-1564年) 細川尹賢的長子、養父細川高國;幼名二郎、別名家綱。 父親尹賢與養父細川高國為從兄弟關係,享祿四年(1531年),養父高國在仇敵細川晴元的反擊下兵敗身亡。 同年,父親尹賢也被奉細川晴元之命的木澤長政殺死,兩位父親的殺身之仇,使得氏綱自那以後一直在窺視擊破晴元的機會。 天文十二年(1543年),氏綱終於以復權為名義在和泉國舉兵,聯合紀伊國的畠山政國、遊佐長教,筒井氏等畿內勢力,此外還獲得時任將軍足利義晴的支持;但當時晴元方勢力強大,使得氏綱等人幾乎處於壓倒性的不利狀況。 然而,三好長慶與堂叔父三好政長(三好宗三)對立,政長的待遇,使得細川晴元核心的長慶叛逃到氏綱一方,成為形勢大變的決定性因素,之後晴元一方於江口之戰被三好長慶大敗。 天文十八年(1549年),攻破細川晴元軍入京都,成功將晴元驅逐到近江國。 天文二十一年(1552年),氏綱隨三好長慶上洛,並被任命為幕府管領,但氏綱只是長慶的傀儡,全無實權。後來氏綱移居攝津國澱城,處於長慶監視之下。 永祿六年(1564年),氏綱於當地失意中死去,年51歲。 氏綱死後,再無人被任命為室町幕府的管領;一說細川晴元、細川氏綱作為細川家宗家家主死後,細川家宗家衰亡,但他們並未曾被任命為室町幕府管領,室町幕府最後一任管領是細川高國。 出處 http://www.51140.com/show/1259300.shtml
遊佐長教 Yusa Naganori(1491年-1551年) 遊佐氏は出羽の国人領主の家柄で、11世紀末から12世紀にかけての間には出羽に遊佐荘を立荘していたことがわかっている。この荘園は藤原基衡に寄進し、在地領主となった。遊佐氏自身は藤原秀郷の末流と称するが定かではない。史料的には、藤原忠衡が遊佐氏の初代とするものもあるが、確証はない。ただ、出羽の名族であったことは確かであるといえる。 鎌倉時代末期から南北朝時代に一族の者が畠山氏に仕えたとされる。長教の系統の遊佐氏は、畠山基国の時代に遊佐長教からみて曽祖父にあたる遊佐国長(長護)が河内守護代となって以来、代々河内守護代を務めた家柄。別流には能登守護代の遊佐氏や越中守護代の遊佐氏もあり、河内守護代でも畠山氏尾州家(畠山政長の系統)に仕えた彼とは異なり、総州家(畠山義就)に仕えた遊佐氏もいた。出羽で先祖伝来の地を守った一族も存在する。 幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。ただしその根拠は父順盛が長教が生まれて間もない明応2年(1491年)の時点で若江城主であったことの確認が取れることであり、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。 誕生後、長教は父と共に転々とすることになる。理由は、父が仕えていた畠山政長が長教の誕生の翌々年に明応の政変の結果、河内渋川郡正覚寺で自決し、子の畠山尚順が密かに紀州に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で畠山基家(畠山義就の子)を誉田城に包囲していた父も慌しく退却することとなる。その後父は紀伊の地にあったが、この間長教がどこにいたのかは定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀伊の父の元にたどり着いたとする史料がある。 明応6年(1497年)になって畠山尚順や順盛は河内を奪還し、順盛は若江城に復帰し、長教も若江城にいたものと思われる。しかしそれもつかの間、明応8年(1499年)末には細川政元に追われ、元服した場所も定かではない。永正元年(1504年)に再度若江城に復帰したが、永正3年(1506年)に再度追われた。その後すぐに政元が永正の錯乱で暗殺されると、畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く永正8年(1511年)まで続くが、同年の船岡山合戦で長教は父を失い、家督を継いだ。ただし、長教の本格的な活動が見え出すのは天文年間に入ってからである。 長教は父と同じく主君・尚順(改め尚長)を助けて転戦、尚長の子稙長を補佐したが、稙長が近臣を取り立てて長教と対立、享禄・天文の乱に際して石山本願寺や細川高国の残党と結託して細川晴元とも対立するなど、畠山家の統一と畠山家の勢威回復を図る長教にとって障害となったため、天文3年(1534年)に稙長を追放、一旦弟の長経を擁立した。翌天文4年(1535年)に長経も追放(あるいは殺害)、もう1人の弟晴熙を家督代行に擁立、やがて天文7年(1538年)に晴元や総州家の木沢長政と協議し畠山弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として擁立、河内の実権は半国守護代となった長教と長政の2人が握った。 だが、3年後の天文10年(1541年)に長政が晴元に反乱を起こすと長政と対立、稙長と和解し弥九郎と在氏を追放、再度稙長を守護として迎え入れた。そうして長政を孤立させ、翌天文11年(1542年)に晴元の家臣三好長慶らと連合して長政を河内高安郡太平寺で撃破(太平寺の戦い)し、長政を討ち取った。稙長復帰により河内守護家の権力は回復し、半国守護体制は崩壊し長教は稙長の意を奉じて文書を発給する立場に戻っている。 天文12年(1543年)に細川氏綱が挙兵すると稙長と共に密かに援助して晴元政権弱体化を図ったが、天文14年(1545年)に稙長が病死。この時、稙長の後継者が分家の能登守護畠山義総の子(義続かは不明)に定められることになったが、直後の義総の死や稙長の舎弟の反対などで混乱が起こり流れることになる。結局、後継者は弟の政国に定められる。長教は政国とも対立があったようで、「天文日記」などで政国が紀伊に下向していることがわかっている。その後氏綱を唆して高国の旧臣などを煽動して反晴元の気運を高め、天文15年(1546年)になると挙兵して氏綱と共に晴元の領国摂津を転戦したが、翌天文16年(1547年)に三好長慶の反撃で摂津を奪い返され、舎利寺の戦いで長慶に敗れ河内高屋城を長期間包囲されたが、天文17年(1548年)に和睦して娘を長慶に嫁がせ勢力を保った。 やがて長慶が晴元と同族の三好政長と対立すると長慶の要請で同盟を結ぶ。『続応仁後記』によれば、長教が長慶に、長慶の父元長が無念の横死を遂げた一向一揆の蜂起に、政長が強く関与し策動したことを長慶に伝えた為に、長慶は政長討伐を決意したとされる。今谷明は「長教は謀略を好む人」と評価・断定した上で、「彼ならばいかにもやりそうなこと」「そのことを長慶に伝えた場合、そこから生じるであろう混乱に便乗して立身出世を図ったのではないか」と指摘している。天文18年(1549年)の江口の戦いで政長を討ち取り細川政権を崩壊させ、長慶の台頭により三好政権の一翼として活動することとなるが、天文20年(1551年)、刺客に暗殺される。暗殺された場所は若江城とも高屋城とも言われている。長教は酒を片手に、帰依していた昵懇の間柄であった僧侶珠阿弥(時宗の僧侶)と歓談しており、酩酊して横になったところを、実は「敵方に買収され」、長教暗殺の命を帯びていた刺客の珠阿弥によって滅多刺しにされて殺害されたという。暗殺の黒幕は当時長慶と敵対関係にあった13代将軍足利義輝と推測されることもあるが、当時の記録では河内の有力者だった萱振氏が暗殺の犯人として安見宗房に粛清され、また根来寺に入っていた長教の弟も三好氏に殺害されているのみであり、義輝が仕掛け人である確証はない。「天文日記」によれば、遊佐家家中の混乱を収める為、長教の死は100日間秘匿された。その後、娘婿であった長慶は、混乱する遊佐家に介入し、安見氏と萱振氏の婚姻を取りまとめるなど仲裁を行った。。(が、前述の安見による萱振粛清の通りこれは破綻している) 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E4%BD%90%E9%95%B7%E6%95%99

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