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足利藤氏

佐野豊綱 Sano Toyotsuna(1504年-1559年)豊綱の時代も古河公方にしたがっていたと思われるが、豊綱発給の文書は一つも残されていない。謎の人物である。「系図纂要」によると、豊綱の長男に昌綱、次男に政綱(了伯)、三男に亀王丸(幽願寺で故あって自害)、四男に又次郎(由良信濃守の養子)、五男に毘沙門丸(のちの虎松で上杉謙信の養子)らがあった。 また没年が1559年となっているが、宇都宮側の史料に興味深いものがある。1558年にあった多功ヶ原合戦である。この時、越後の長尾景虎軍の先鋒として、佐野小太郎が出陣したのだが、宇都宮側の猛将・多功長朝に討ち取られている。 多功長朝に討ち取られた「佐野小太郎」はこの豊綱の可能性がある。突然の当主の討ち死にほど混乱するものは無い。当主討死という屈辱的な事実を隠し、事態を収拾するため、一年遅らせて一五五九年に死亡した事にしたか。また、佐野家重臣の赤見伊賀守父子が新年の年賀に来ず、佐野泰綱に攻められ常陸に退去したことも、佐野家中の混乱ぶりを示している可能性がある。もしくは討ち死にしたのは豊綱の子だとも受け取れる。すると初陣だったか。そうすると文献に「佐野小太郎」という名が見えるのもうなずける。そして昌綱を泰綱の次男で豊綱の弟と仮定すると、直系の後継ぎがいなくなったから、兄弟間で家督を継承した事になる。…と、また推測の嵐である。 当時の宇都宮家は復興したばかりで、古河公方の支援も受けていたはずである。佐野家も古河公方に協力していたはずだから、なぜ宇都宮を攻めたか疑問である。一五五四年、古河公方・足利晴氏は北条家に反抗したため攻められ、小田原へ幽閉されてしまう。そして古河公方の座についたのが子の足利義氏である。当時、古河公方内で勢力を持っていた簗田晴助(関宿城主)の力を弱めようと、足利義氏を関宿城へ移した。そして簗田晴助を古河城に移したのだ。古河公方をやりたい放題に使いまわす北条家に反抗するべく、豊綱は北条家および古河公方に協力する近隣諸侯を攻めたと思われる。それとも単なる領地争いかもしれないが…。しかし理由はどちらにしろ、結果は大将討死という最悪の事態になってしまう。1560年直前から、上杉政虎(長尾景虎)は足利藤氏(足利晴氏の子)を押しており、佐野家もこちらに協力していたか。対して足利義氏を押していたのは北条氏康であるから、佐野家×宇都宮家の対立関係は1558年の時点では一応成立する。しかしこの対立説を上げるには、少々無理がある。話は戻るが、1558年の多功ヶ原合戦に関する宇都宮方の感状で、「葦名盛氏の誘いで宇都宮領に攻め入った上杉謙信の越後軍と戦って撃退した」とあるのだ。これは非常に怪しい。謙信は、まだ長尾景虎と名乗っていたからだ。ゆえにこの感状は、やはり後世の作り物である可能性が高い。さらにこの時代、越後の長尾景虎が関わらなくても、古河公方をめぐる近隣諸侯の間でなんらかの争いがあった可能性は高い。自分なりの仮説をたてるとしたら、「佐野豊綱は、古河公方の衰退の懸念から、1558年当時、古河公方と北条氏康の協力もあって復興したての宇都宮家を攻め、宇都宮勢に撃退された」という説をたてる。この時後ろ盾に古河公方、北条家、越後長尾家のいずれかがあったかはここではわからないので黒幕説は立てない事にする。1560年に上杉政虎が関東に攻めてきたときは、宇都宮家はすでに上杉政虎に協力しており、宇都宮家は足利藤氏を押している事になる。佐野家は当主が変わり昌綱になっているが、逆に上杉家に反抗している。この二年間で立場が全く逆となった。先代・豊綱討死(あくまで説)が、新・関東管領への反抗心になったのか、次代・昌綱は、戦国毘沙門天の化身に真っ向勝負を挑む事になる。出處 http://www.geocities.jp/shimotsuke1000goku/sanotousyu.htm
北條氏康 Hojo Ujiyasu(1515年-1571年)北條氏綱的長子、母為養珠院殿、正室為今川氏親之女.瑞溪院;幼名伊豆千代丸、通称新九郎、渾名相模の獅子、相模の虎。生涯前期後北條氏在父親氏綱的領導下,迅速擴張勢力,連敗山內、扇谷兩上杉家,支配武藏國大半領地,並出兵北鄰甲斐郡內地方及東鄰的「總州」;作為氏綱的嫡男,氏康在重臣清水吉政的指導下成長。享祿三年(1530年),氏康於小澤原之戰「初陣」,擊敗扇谷上杉家督朝興;後於天文四年(1535年)甲斐山中湖畔之戰(對抗甲斐守護武田信虎)、天文六年(1537年)河越城攻略(對抗上杉朝定及其家臣),以及天文七年(1538年)第一次國府台之戰(對抗「小弓公方」足利義明和房總半島新興勢力里見義堯)等,均參陣並立下戰功。天文六年(1537年)7月,與父親共同在鎌倉鶴岡八幡宮的社領寄進、天文八年(1539年)6月,獲得將軍足利義晴所贈的巢鷂(雛鷹)。然而,天文五年(1536年)以後,由於今川家家督之爭「花倉之亂」的影響,今川家新主今川義元改與武田信虎聯手,北條家乃轉為與之敵對,以富士川以東的駿河國土為戰場多次交兵「河東之亂」;第一次國府台戰後,原本倚賴父親氏綱支持的「古河公方」足利晴氏,也開始忌憚北條家獨大,而轉與兩上杉家聯手。北條家因而陷入四面受敵的困境。據歷史學家推測,氏康於天文七年(1538年)至天文十年(1541年)間繼任家督;天文十年(1541年)氏綱死去、擔任家督成為第3代當主。一說為天文七年(1538年)氏綱隱居,並將家督讓給氏康,自己擔任後見人。氏綱死前留下5條家訓。勢力擴大及三國同盟天文十四年(1545年)氏康在駿河東部與今川義元軍對陣之際,關東管領山內上杉家當主上杉憲政,聯合上杉朝定及古河公方足利晴氏,集結號稱8萬大軍,包圍僅有3000北條軍駐守的河越城。義元是為了奪回之前被父親氏綱占據的東駿河而出兵(第二次河東ㄧ亂)。氏康自駿河急行退兵之際,今川軍隨即攻陷吉原城及長久保城,狀況非常不利北條。經由甲斐新國主武田晴信(武田信玄)的斡旋,氏康割讓東駿河的河東之地為條件與今川義元和解,從而氏康得以回師關東,全力對抗足利上杉聯軍。天文十五年(1546年)氏康親率8千軍勢馳援河越城,首先去信兩上杉與足利:「此前所占據的土地ㄧ概歸還。」以麻痺圍城軍。並與守將北條綱成協同展開夜襲,一舉擊潰軍心渙散的足利、上杉聯軍,甚至擊斃上杉朝定,致使扇谷上杉家絕嗣而亡,上杉憲政流亡上野平井城,足利晴氏遁走下總。河越夜戰北條軍以絕對劣勢之兵力取得全勝,被譽為「日本戰國三大奇襲戰」之一;此役之後,北條家不僅支配武藏全境,天文十九年(1550年)並攻入上野國(今群馬縣)境內,天文20年迫使上杉憲政逃離居城平井城,流亡常陸(今茨城縣)、越後等國。天文二十三年(1554年)出兵下總,控制自享德四年(1455年)享德之亂以來關東公方的駐在地古河御所,逼退足利晴氏,將其幽禁於秦野,代之以由「芳春院」所出的次男足利義氏,並以氏照繼承大石氏、北條氏邦繼承藤田氏,藉由實質的門眾,氏康樹立了北條家關東霸主的地位。同年,利用今川義元出兵三河,趁隙攻入駿河,與今川及武田援軍對陣。然而,通過今川家重臣太原雪齋的仲介,氏康終與今川義元、武田晴信達成協議(傳說中的「善德寺會盟」),以迎娶晴信之女(黃梅院)為嫡男北條氏政正室,並將女兒(藏春院)嫁與義元嫡男今川氏真做為正室等條件,締結了「甲相駿三國同盟」。對抗上杉謙信和反北條勢力三國同盟成立後,氏康加緊關東支配的步伐,與里見義堯爭奪上總領地;然而弘治元年(1555年)三浦三崎之戰,北條水軍敗於里見水軍,氏康在房總半島的擴張受挫。弘治三年(1557年),足利晴氏的嫡男足利藤氏趁機起兵反抗北條家,結果失敗,與上杉憲政同樣流亡越後,投靠春日山城主長尾景虎(上杉謙信)。永祿二年(1559年)將家督之位讓予北條氏政,隱居於小田原城,被家臣稱為「御本城樣」,仍掌握家中軍政大權。永祿四年(1561年),從流亡越後的上杉憲政處繼承上杉宗家家督名份的上杉政虎(上杉謙信),以擁護正統關東公方足利藤氏為名義,大舉出兵關東;關東各地原上杉家臣及反北條勢力紛起響應,集結成號稱超過十萬的空前大軍,壓制包含古河御所在內的諸多據點,並以藤氏取代足利義氏為關東公方。上杉連合軍包括上野的白井長尾氏、社長尾氏、箕輪長野眾、沼田眾、岩下齋藤氏、金山橫瀨氏、桐生佐野氏。下野的足利長尾氏、小山氏、宇都宮氏、佐野氏。下總的簗田氏、小金高城氏。武藏的忍成田氏、羽生廣田氏、藤田眾、深谷上杉氏、岩付太田氏、勝沼三田氏。常陸的小田氏、真壁氏、下妻多賀谷氏、下館水谷氏。安房的里見氏。上總的東金酒井氏、飯櫃城山室氏,以及佐竹氏。北條氏則包括上野國館林赤井氏、武藏國松山上田氏。下野國那須氏。下總結城氏、下總守護千葉氏、臼井原氏。上總國土氣酒井氏。常陸國大掾氏等人。守備方面,玉繩城為北條氏繁、瀧山城及河越城為北條氏堯、江戶城、小機城及由井城為北條氏照、三崎城為北條綱成、津久井城則為內藤康行,氏康、氏政父子則率軍固守小田原城。由於城堅糧足、全軍戰志堅定,加上當時發生「永祿的饑荒」,武田信玄在信濃川中島所築的海津城也完工。終使來襲的上杉軍無功而退。上杉謙信於鎌倉鶴岡八幡宮正式就任關東管領職後,在攻小田原城不克、諸將失和、糧草不濟,以及武田信玄煽動越中國一向一揆反叛等等不利狀況下,不得不收兵北返;北條軍趁勢追擊,取得局部勝利。上杉謙信自關東撤退後,北條家聲威復振,在關東支配權的爭奪中,逐漸佔得上風。其中,謙信就任關東管領時,自北條方叛離的下總國千葉氏、高城氏再度歸參,氏康自謙信歸國前的6月開始,試圖逐步奪遭上杉氏奪取的領地,9月時攻滅武藏國三田氏,領地授予氏照,此外,為奪回北條氏邦所繼承的藤田氏的領地,攻略秩父日尾城、天神城,順利奪回武藏北部。之後,武藏國的小田氏、深谷城的上杉憲盛也再度歸參,也順利寢返上野國的佐野直綱及下野國的佐野昌綱,但昌綱不久再度向謙信降伏。氏康向武藏國進軍,11月27日爆發生野山之戰,氏康擊退剛歷經第四次川中島之戰的上杉勢,北條趁勢向上野武藏進軍,成功使得秩父高松城降伏,完全收復北條氏邦的領地。永祿五年(1562年)北條軍再度壓制古河御所,足利藤氏被擄往小田原城,終焉不明。永祿六年(1563年),於第飼次川中島之戰獲得戰略性勝利的武田軍,攻向上杉家在北武藏的據點松山城;里見義堯應上杉輝虎(上杉謙信)之邀,派嫡男里見義弘領兵馳援,雖突破北條軍封鎖進入武藏國境,卻因松山城陷落而只得退兵。翌年,為支援反叛北條家的江戶城守將太田康資,義弘率軍1萬2千進佔上總武藏邊境的國府台城;氏康、綱成等領兵2萬與之對抗,隨然兵力佔有優勢,但里見家精銳盡出,北條在失去遠山綱景等有力將領下苦戰而勝(第二次國府台之戰),里見退回安房國,嗣後北條家勢力深入上總。永祿八年(1565年),氏康進攻關東中原據點關宿城,該城位於利根川等水系之要地,氏康非常重視,但遭到城主簗田晴助激烈抵抗,北條軍無奈撤退(第一次關宿合戰)。之後,由於上杉謙信攻略臼井城及和田城失敗,以及箕輪城陷落等因素,造成武藏國成田氏、深谷上杉氏、上野國由良氏、富岡氏、館林長尾氏、下野國皆川氏、上總國酒井氏、土氣(土岐)氏、原氏、正木氏等國人眾均向北條氏降服。永祿十年(1567年),氏康策動上杉家臣上野廄橋城主北條高廣(與後北條氏並非同族)反叛,重挫上杉謙信的關東經略。然而,同年的三船山之戰,由北條氏政、北條氏照指揮的北條軍進攻安房國里見家,但由於正木氏等國人眾與里見氏內通,因而敗於由里見義弘指揮的里見軍,北條家喪失上總國南部地區,對房總半島的影響力再度受挫,女婿太田氏資更於此戰陣亡。生涯後期當北條武田聯手在關東地方及北信濃(今長野縣)對抗上杉的同時,東海道(範圍包括今愛知、靜岡、山梨、神奈川、埼玉、千葉、茨城等縣及東京都)形勢大變,導致甲相駿三國同盟瓦解,牽動東日本勢力重整。永祿三年(1560年)今川義元於尾張(今愛知縣西部)桶狹間戰死後,三河(今愛知縣東部)岡崎城主德川家康獨立,今川家東海道霸權的地位開始動搖。武田信玄為趁機奪取今川家領地,不惜逼死嫡男武田義信,終於永祿十一年(1568年)發兵一萬二千攻入駿河;德川家康也由三河發兵攻入遠江(今靜岡縣西部)。今川家新當主今川氏真雖與上杉謙信結盟,且動員有一萬五千兵力,仍難獨力抵擋武田、德川兩軍交相入侵,今川軍與武田軍作戰後敗北,同時德川軍侵攻掛川城,氏真除派出援軍外,也向北條家求援,由於氏真是北條家的女婿,於是北條氏政親率4萬5千大軍強力干預,於薩多卡與武田軍對峙,方迫使兵力居劣勢的武田軍(一萬八千)退兵。氏康預期信玄與德川之間也互不信任,於是與德川締結密約共同夾擊駿河。此時,富士信忠於大宮城擊退武田軍的進攻,信玄有鑑於兵鋒受挫並考量駿河難以防守,於是從駿河國退回甲斐。北條氏順勢奪取興國寺城、葛山城、深澤城等東駿河領地。自此,氏康與信玄轉變為敵對關係,甲相同盟出現破綻,以此為契機,北條家與上杉謙信和解,以氏康七男成為謙信養子(上杉景虎),上杉方由謙信家臣柿崎景家之子晴家至北條家擔任人質為條件,雙方於永祿十二年(1569年)締結「相越同盟」;北條高廣又復仕於上杉家。根據「相越同盟」,謙信承認氏康外甥足利義氏為關東管領之主,成為古河公方,氏康、氏政則承認謙信為公方的執事,亦即關東管領,且上野、武藏北邊等地區為上杉氏領有,謙信則承認北條氏領有相模、武藏大半的領地。永祿十二年(1569年)9月,武田軍入侵武藏國,但北條氏邦據守缽形城,北條氏照據守瀧山城,武田軍於是撤退,同年10月,武田信玄率軍2萬攻向小田原城,氏康、氏政父子決定籠城守備;武田軍攻至城下,見無法破城,4天後於城外放火撤退。北條氏政親率軍勢2萬餘追擊,並命分別負責守備甲州街道及秩父地方的氏照、氏邦集結另2萬兵力,意圖前後夾擊退卻的武田軍;不料氏照、氏邦所部先在相模北境的三增卡隘口與武田軍交戰,雖然討取武田家譜代家老淺利信種,但仍遭武田軍擊敗,氏政聞訊隨即收兵返回小田原城(三增卡之戰)。武田軍返國後再次出兵進攻駿河,今川家於是在武田、德川兩家夾擊下滅亡;北條家聯合上杉、今川以制衡武田的戰略構想從而落空。此役受挫,刺激北條家加強對甲斐方面的防務,著名的環繞小田原城方圓九公里之「總構え」(環繞外郭及部分城下町的最外圍防禦工事),以及八王子城築城等工程,據信均由此而發。相越同盟成效不如預期,常陸佐竹義重等反北條大名甚且改與武田聯手,依然繼續對抗北條,徒然提升武田信玄在關東的影響力;有鑑於此,氏康乃決定重新檢討其同盟策略,但氏康於元龜元年(1570年)8月左右中風,翌年5月10日發出最後的文書。元龜二年(1571年)10月3日,於小田原城病逝,年五十七歲,戒名大聖寺殿東陽宗岱大居士。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A2%9D%E6%B0%8F%E5%BA%B7
原胤貞 Hara Tanesada(1507年?-1569年/1575年?)原胤清之子;通称孫次郎,法名震岳院、道岳。父親胤清為侍奉千葉勝胤、昌胤、胤富三代的重臣.生實城主,受封相馬郡手賀600貫的知行地。胤貞與次男胤親一同前往手賀治理,胤貞自己也住進與手賀鄰接的柳戶的弘誓院相對的仁王門,獲得大檀那(施主、布施者)的名聲。天文七年(1538年)在關東足利氏古河與小弓的嫡流之爭中,千葉氏與北條氏、足利高基(古河公方)聯手,對抗足利義明(小弓公方);千葉氏分支臼井氏.臼井景胤采取與千葉宗家不同的行動,加入足利義明小弓公方一邊。但由於足利義明最後的失敗,臼井景胤處於千葉昌胤(佐倉城)與原胤清(臼井城)之間被夾擊的形式,只得降伏,臼井氏被安置在原氏的指揮下。胤貞為更容易地支配臼井氏,將女兒(原胤定親女)嫁給臼井景胤,利用戚緣來支配。弘治三年(1557年)10月15日、臼井景胤病死,死前對嫡男臼井久胤留下「把小弓城的原胤貞請來守護土地」的遺言。久胤遵照遺言,請來胤貞並當眾將臼井城的本丸讓於胤貞,胤貞也為久胤在城中築館居住。由於胤貞在臼井城的善政,使得本來的領主臼井久胤在當地的威望日益下降,久胤家臣也對此極為不滿。永祿四年(1561年)1月,上總里見義堯的家老正木時茂的軍勢對臼井城展開攻擊並落城,臼井久胤趁機離開千葉氏向結城晴朝臣從。另一方面,從生實城逃出的胤貞在與千葉胤富的軍勢合併後向臼井城猛攻,從正木時茂手中奪回臼井城。天文二十四年(1555年)6月23日,原氏以胤貞的名義取得八幡庄的中山法華經寺的寺領,之後父親胤清將家督之位讓給胤貞。同年10月10日,長年的宿敵正木時茂在千葉領制造混亂,導致千葉親胤的元服儀式也推遲,實際到12月23日才進行。從那以後,上總與下總的原氏與正木氏之爭一直持續著,永祿三年(1560年)12月24日長尾景虎(上杉謙信)與太田資正(岩槻城主)交戰,原與正木之爭也因此加劇,上杉謙信依靠主筋的上杉憲政,攻擊北條氏康而出陣,在上野國廊橋城屯駐。上杉謙信向正木氏傳達「雖遠境候、年來別而申通之間」、「原方邇可存替覺悟毛頭無之候」之類的話。上杉謙信企求關東局面平靜,勸解原氏與正木氏達成和睦。永祿四年(1561年)2月,上杉謙信向小田原城出陣,北條方任命原氏守備下總,以壓制上總的正木時茂北上的勢頭。同時里見義堯、里見義弘任命正木時忠為總大將,指揮水軍渡過武藏國的六浦,擔任上杉謙信的小田原包圍網的一翼。正木時茂從上總侵入下總,由於千葉氏離開本處地作戰,被時茂攻落佐倉城,在臼井城與胤貞激戰。胤貞的嫡子胤榮從被圍的生實城脫出,落城後,胤貞、胤榮與和佐竹義昭對陣的千葉胤富一起逃出,被正木時茂、正木時忠一直追到鐮倉。但是,小田原包圍線由於兵糧的不足而開始向鐮倉退卻,閏3月16日,在鶴岡八幡宮,上杉謙信接受上杉憲政的「關東管領」及「上杉家督」、「家紋」、「系圖」,上杉謙信擁立足利晴氏的嫡男足利藤氏為新的古河公方,以關宿城的簗田晴助為後見人。之後,上杉憲政(前關東管領)、近衛前久(前關白)進入古河城,上杉謙信退回越後。翌年,北條氏康發動攻勢,對古河城展開猛攻,古河公方的足利藤氏兄弟依靠里見氏逃亡上總,上杉憲政、近衛前久也逃到越後依靠上杉謙信。從古河逃出的足利義氏(足利藤氏之弟)被北條氏擁立,「移座」到上總國佐貫城。同時,胤貞也猛攻奪回生實城。里見義弘由於上杉謙信退回越後,只得忍耐北條氏的攻擊,放棄下總、上總退入安房國岡本城。但是,北條氏繼續對義弘進行攻擊,派遣水軍從相模國三崎進攻,北條氏擁有強大的水軍,里見方龍崎縫殿頭兄弟3人等20人討死。永祿六年(1563年),上杉謙信關東出陣,古河城攻落,在里見氏庇護下的足利藤氏重回古河城。但是,上杉謙信本領在越後,並沒有在關東常駐。後來古河城又被北條氏攻落,連足利藤氏也被小田原方拉攏。聽到這個消息的上杉謙信再次關東出陣,12月27日對里見氏發出出陣要求;里見氏為了回應,於永祿七年(1564年)1月,里見義弘從國府台出陣,之後在北條氏康的猛攻下里見勢大敗,里見氏在上總、下總的據點消失。胤貞於1月11日,從正木時茂手中攻落臼井城奪回舊領。第二次國府台合戰中千葉胤富、原胤貞、高城胤辰加入北條氏康方攻擊里見勢。永祿八年(1565年)2月,胤貞率領酒井胤敏(東金城主)攻擊上杉謙信的內應土氣城主酒井胤治。原氏一戰將對方「原彌太郎、渡邊孫八郎、大畑半九郎、大廄藤太郎、鈴木某」等50人討取。同時,酒井胤治之子_酒井左衛門二郎攻擊宗家的酒井胤敏,將「河嵨新左衛門尉?市藤(市東?)彌八郎」等100人討取。同時,根據酒井胤治的邀請,上杉謙信再次關東出陣,包圍胤貞的居城臼井城。北條氏感到原氏的危機,派遣松田肥後守(松田憲秀?)大軍救援,千葉胤富也派遣500兵救援。胤貞堅守臼井城,上杉勢沒有得到便宜,最後接受將軍足利義秋的命令退回越後。同年5月15日,胤貞獲得上總國八劍神社司、八劍左門的祈禱書的請取狀。永祿九年(1566年)6月12日,獲得上總國真里谷妙泉寺的寺領。從上總國真里谷到八劍神社周邊的地區成為原氏的領地,標志著第二次國府台合戰中敗北的里見氏的勢力從上總撤出。出處 http://baike.baidu.com/view/904481.htm
小山秀綱 Oyama Hidetsuna(1529年-1603年)小山高朝の長男。初めは父・高朝の1字を取って小山氏朝(-うじとも)、のち氏秀(うじひで)と名乗る。双方の「氏」の字はそれまでの慣例に倣い古河公方足利氏より偏諱を受けたものと思われる。「秀綱」はその後に名乗った諱である。永禄3年(1560年)頃に家督を継ぐ。この頃の関東は足利藤氏(古河公方足利晴氏嫡男)を擁し、上杉憲政より関東管領を受け継いだ上杉謙信と足利義氏(藤氏の異母弟・生母は北条氏康の異母妹)を擁する北条氏康の二大勢力の狭間にあった。秀綱は永禄4年(1561年)上杉謙信による北条氏の小田原城攻撃に参加するが、永禄6年(1563年)には北条氏に内応。その翌年に居城の祇園城を謙信に攻められて降伏。更にその翌年には再度北条氏に通じるなど、小山氏の存続のために両陣営を度々移り変わった。このため、早くから北条氏側についていた弟の結城晴朝と度々争っていたという。天正3年(1575年)に居城の祇園城を北条氏照に攻められたが、籠城してこれをしのいでいる。このときすでに北条氏から離反していた晴朝や近隣の宇都宮広綱・佐竹義重の協力のもと、北条氏政に和議を申し入れたが断固として聞き入れられなかった(『小山市史』)。 翌天正4年(1576年)に再び攻め込まれると、祇園城を開城し、嫡子伊勢千代丸(後の政種)とともに佐竹義重のもとへ身を寄せた。その後、祇園城は北条氏の直轄領として北関東攻略の拠点となっている。その後、佐竹義重の協力の下、祇園城奪還を試みるものの、天正9年(1581年)には嫡子政種が戦死してしまうなど、思うようには進まなかった。天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。そのため、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条方として参陣せざるを得ず、豊臣秀吉によって改易された。旧小山氏領は弟である晴朝に与えられ、秀綱は晴朝を頼ることとなり、庶長子の秀広は結城氏の重臣に迎えられた。だが、関ヶ原の戦い直後に秀広が病死したため、秀綱は結城氏の越前移封には従わずに隠退して程なく病死したという。これにより戦国大名としての小山氏は滅亡した(家督は秀広の子の秀恒が継いだ)。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%A7%80%E7%B6%B1
小山高朝 Oyama Takatomo(1508年-1574年)下野國を代表する勇將として知られた。古河公方・足利高基の偏諱を受けて高朝と名乘る。永正十六年(1519年)、高基の意向を受けて小弓公方足利義明に味方する真裡谷氏の城である上總國椎津城を攻擊した武將の中に「結城六郎」が含まれており、これが後の高朝と推定されている。天文四年(1535年)頃に小山政長の養嗣子となって小山氏の家督を繼承した。なお、この際山川氏から來た同じ養子の小四郎を倒したとされている。その後は父や兄と協力して、結城氏の敵對勢力と戰う。天文十六年(1547年)に父が死ぬと、その隙を突いて宇都宮氏が攻めてきたが、高朝は兄と協力してこれを驅逐した。天文十八年(1549年)に北條氏康が古河公方・足利晴氏(高基の嫡男)の後繼に足利義氏を擁立しようと畫策したのに對して、嫡男足利藤氏を擁護する高朝はこれと對立する。だが、兄・政勝がその壓力に屈して義氏方についた上に自分の嫡男である秀綱までもこれに同調したため、隱居を余儀なくされ、永祿三年(1560年)頃に秀綱に家督を讓った。永祿四年(1561年)に上杉謙信が大軍を率いて氏康を攻めたときは、上杉軍の一員として參じている。しかし、謙信の關東管領就任式で千葉胤富に關東諸將の首位の座を奪われたことに不滿を抱いたと言われており、直後に氏康と手を結んだために謙信の怒りを買うこととなり、翌永祿五年(1562年)、高朝は謙信に攻められて降伏した。その後は秀綱に小山城を讓り渡して榎本城に退き、永祿十三年(1570年)頃に出家して命察と號する。兄の結城政勝の死後、三男の晴朝がその家督を繼いだが、晚年の高朝は結城氏の菩提寺の住職にあてて「自分が小山氏を繼いだ頃は、何かがあると兩親(結城政朝夫妻)が小山に來るので困惑したものだが、晴朝の事を考えると兩親の氣持ちが良く分かる」という趣旨の手紙を出して、自分に代わって晴朝を助けてくれる樣に求めている。一方、晴朝も同じ頃に父の健康が優れない事を聞いて、亂世で結城氏を守るためとはいえ父を攻めた罪に惱んでいる事を同じ住職に告白する手紙を送っている。この頃の關東は、古河公方家の內紛や北條氏と上杉氏の爭いの影響を強く受け、親子や同族が敵對する側に立って互いを攻め合う事が多くあり、小山・結城兩氏も例外ではなかったのである。天正二年(1574年)、北條氏政を攻めようと軍備を整えていた直後に急死した。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E9%AB%98%E6%9C%9D
簗田晴助 Yanada Harusuke(1524年-1594年)簗田高助之子,母為赤井若狹守照氏之女,元服後拜領主君足利晴氏的「晴」字,取名晴助。簗田氏為桓武平氏的後裔,世居下野簗田鄉遂自稱為簗田氏,先祖俊助曾隨足利尊氏參與討幕運動,被編入足利氏家臣團中,其子經助在平一揆叛亂之際從屬於鐮倉公方,改易武藏小澤鄉,成為鐮倉公方的奉公眾。後晴助之父簗田高助輔佐足利高基順利繼任古河公方,在與父親簗田政助的鬥爭中勝出,挾威順勢進行庶家支族的被官化,以本據關宿城為中心,重整家臣團並建立有效的互助防禦網,並將女兒嫁給高基的繼承人足利晴氏,坐實在古河公方眾中的筆頭地位,並主導與相模北條家的盟約,讓足利晴氏迎娶北條氏綱之女為側室。後足利晴氏轉向與上杉憲政、上杉朝定同盟,和氏綱之子北條氏康對立,在河越夜戰中慘遭痛擊,北條氏康趁機大力介入古河公方家的內政,先是遞書嚴詞向簗田高助問責,簗田高助為保全本家只好出家謝罪,將家督之位讓給晴助,並於天文二十一年(1552年)強迫足利晴氏廢除晴助之姐所生的嫡男足利藤氏,改以北條家女兒誕下的末子義氏為第五代古河公方。受到如此的壓迫,深為不滿的足利晴氏在天文二十三年(1554年)再度圖謀與北條家對抗,簗田晴助有鑑於雙方實力相差太大,古河公方的權威早已一落千丈,斷無能與正在快速成長的北條家抗衡而諫言不可,卻不被足利晴氏接受,公開宣佈反出北條家,而被北條軍包圍在古河城。簗田晴助雖深知不可敵,但仍基於君臣之義聯同一色、二階堂氏出兵協防,但古河城依然為強悍的北條軍擊破,足利晴氏當場被縛,此後為北條氏康軟禁於相模波多野,繼任古河公方的足利義氏也以遷移居城至小田原城的名義被北條軍帶回相模,古河公方家就此於實質上滅亡,簗田晴助的外甥足利藤氏也在城破之後投向關宿城,接受簗田晴助的庇護。在古河公方遭北條氏康傀儡化後,簗田晴助拒絕臣服北條家,因此被北條氏康透過足利義氏免去了他公方奏者的職位。但由於簗田家居城關宿城乃是築於利根川和江戶川分流間細長沙洲上的低濕地帶,簗田家世代倚仗古河公方家的權力,借地利之便,控制了關東北部的水運,不但可以利用周遭四通八達的水路運輸獲得被稱之為「舟役」的河關通行稅,確保經濟收入。一方面也可充分利用水路連結支城網於短時間內輸送大量的物資、兵員降低被敵人奇襲的風險,使古河公方家雖然為北條氏所滅,原先其帳下的古河眾一宮、二階堂氏等依然憑藉簗田晴助所掌握的關宿城聯合,因此北條氏康甚至說出關宿城的價值等若一國的高度肯定評論。但若讓簗田晴助繼續掌有關宿城這處利根川水上交通的要地,顯然對北條家進軍北關東相當不利,在永祿元年(1558年)八月於足利義氏前往鶴岡八幡宮舉辦元服儀式,簗田晴助鑑於傳統擔綱其太刀役時,以表示仍為古河公方足利義氏的忠實家臣,確保簗田家繼續領導古河眾的名位,而北條氏康也就針對簗田家世代為古河公方高官,並習慣賴其威望的傳統,兼以北條家優勢的武力脅迫,在元服儀式終了後,建議讓足利義氏以古河城和簗田晴助的關宿城進行「居城交換」的提案,更美其名曰這是對簗田晴助忠於古河公方的讚賞。簗田晴助清楚這乃是北條氏康意圖支解簗田家以關宿城建立之權力架構的策略,只得無奈接受,遷往古河城。到了永祿三年(1560年),關東傳統勢力任由北條家宰割的情況因關東管領上杉憲政將家名與官位讓渡長尾景虎後為之一變,改姓上杉的越後強豪上杉謙信在和安房里見氏、常陸佐竹氏結盟後大舉出兵越過上野國俯視關東平原,一時間關東各路國人眾紛紛望風歸附,簗田晴助也應上杉氏出兵加入同盟,為降低上杉謙信以關東管領之名進入關東的威勢,北條氏康也讓足利義氏發出御書否認其關東管領的職務繼承,相對地簗田晴助便趁機建議上杉謙信擁載外甥足利藤氏擔任古河公方,後在足利義氏與千葉胤富畏上杉軍勢大脫出關宿城時,一舉隨軍收復關宿城,並將古河城交予足利藤氏。永祿四年(1561年),集結十萬大軍的上杉謙信因終究未能攻克北條家的小田原城,只能暫時收兵,轉往鶴岡八幡宮舉行關東管領的繼承儀式,同時簗田晴助也率領包括了一宮、二階堂、相馬諸氏及領下被官化的分族橫田、石川、箕匈等家諸氏以古河眾之名參與儀式,並撰述起請文,表明上杉謙信擁立足利藤氏為古河公方的決心,恢復簗田晴助的奏者地位。而上杉謙信也因為北條同盟國武田家侵入上野而鳴金回國進行防備,失去上杉謙信的大軍,關東諸將重新獨立面對來勢洶洶的北條家,解決上杉入侵危機的北條氏康不僅打算恢復舊領,更大規模展開反擊以增加自家領土與實力,在永祿五年(1562年)攻下古河城,足利藤氏被擄,於四年後將之殺害,古河公方的權威再度瓦解。上杉謙信雖被應北條家之請出戰的武田軍騷擾後方而無法及時再入關東,但也屢屢透過里見、佐竹兩家組織反北條同盟的反擊,直到北條氏康在永祿七年(1564年)於第二次國府台之戰大破里見家,並將舊扇谷上杉家老臣太田資正自岩槻城流放後,旋於翌年出征關宿城,以保全之後進軍北關東上野、下野及常陸的戰線。北條氏康遂以降將岩付城主太田氏資為先鋒攻擊,簗田晴助也不甘示弱,在北條軍出陣後宣告決不為足利義氏之臣,假關宿城周遭湖泊河川縱橫的復雜地形佈下伏兵奇襲,擊退太田氏資。隨後遣使向常陸的佐竹義重及上杉謙信求援,在北條氏康主力軍攻城時雙方皆發兵來助,逼退了北條氏康。永祿九年(1566年),簗田晴助的外甥,古河眾中的下總相馬氏當主相馬整胤被姊夫高井治胤所殺,相馬氏為之易主,高井治胤入宗相馬氏並改投北條家,簗田晴助見相馬氏陷入內亂出兵圖謀佔領相馬氏,卻被及時馳援相馬治胤的北條軍所敗,隨後北條氏康仲介調解,但已被簗田晴助攻奪的守田城也在晴助堅持下及北條氏康也屬意採用懷柔手段應對簗田氏而依舊歸屬於晴助掌有。同年三月,相馬治胤為上杉家臣河田長親策反,又投向反北條同盟,並與簗田晴助聯手出兵協助上杉謙信攻擊下總臼井城,但是卻被千葉家的猛將原胤貞及著名謀士白井胤治所阻,上杉謙信退兵,關東氣氛因此傾向對北條家有利。在此大勢中,簗田晴助也在永祿十年(1567年)轉向和北條氏康和談,重新承認足利義氏作為古河公方的名份,同時簗田晴助將家督之位讓渡給長子持助,出家號洗心齋,然而簗田家的實權依舊是由晴助掌控。此時不甘守谷城白白為簗田晴助所佔的相馬治胤和北條家聯合也玩了套手法謀算奪回守谷城,先是相馬治胤向足利義氏遣使提出要求赦免其反抗的書狀,然後讓足利義氏在六月時回覆五箇條同意下總相馬家的降伏,據「取手市史」所記,五條回覆書的內容大至上提及如下:一、義氏同意守谷城的相馬治胤開城投降。二、命江戶眾代為接收守谷城。三、將由公方的奉公眾掌管。四、公方將於今年中由鐮倉移居古河,派遣簗田晴助從守谷城加以協助。五、簗田持助作為關宿城主,進行御座所設置工作。這五條命令乍看下是同意相馬治胤投降的承諾書實際上卻是衝著佔據守谷城的簗田家而來,北條家動作相當快速地派出了麾下軍隊在同年七月作為江戶眾前往接收守谷城,並且讓相馬治胤擔任古河普請役,重修古河城,同時以足利義氏的奉公眾芳春院周興入城,北條氏康也旋即致書持助,要求簗田家將守谷城移交古河公方及著手守谷城御座所的建造,以為古河城重建完工前古河公方居住之用。隨後便在北條家授意下足利義氏遷居守谷城,簗田晴助因始終自守古河公方家臣的身份,所以只能白吞啞巴虧,將軍隊自守谷城撤出。待古河城竣工,足利義氏經由北條氏康指使,任命相馬治胤為守谷城城代,不費一兵一卒以傳統大義間接逼迫簗田晴助交出了守谷城。為了繼續把持古河眾之首身份的簗田晴助並非傻子,吃了這一悶虧自然不忿,與北條家的關係再度急轉直下,因此北條氏康先發制人,在永祿十一年(1568年)迫降簗田晴助的盟友栗橋野田氏,讓次子北條氏照接收位在古河城及關宿城中間的栗橋城,氏照入城後在關宿城周邊的山王山、不動山上構築陣砦,加強對簗田家的軍事壓力。但因為武田信玄破盟攻打今川家,北條氏康為援助今川氏真,決意出兵介入駿河戰事,因此轉向與上杉謙信談和,而上杉謙信也因武田信玄佔據西上野不時阻礙其進入關東,且有意把軍力重置越中戰線,雙方一拍即合,在永祿十二年(1569年)達成越相同盟,北條家將其上野領地讓渡給上杉家,上杉謙信收氏康七子北條氏秀為養子。對關宿城一觸即發的戰況,上杉謙信亦出面指派部將柿崎景家調停,促成現狀維持及承認足利義氏為古河公方並復歸古河城的條件,北條氏照破棄山王山砦撤兵。越相同盟的成立,對關東仰仗上杉家軍力以抗北條家的中小國人眾帶來相當大的衝擊,尤其對倚關宿城獨於下總的簗田晴助而言,在上杉軍不在提供援助後,要繼續保有常陸佐竹氏的來源並不容易,因此晴助和同在房總半島上的里見家結盟,拱足利藤氏之弟足利藤政為古河公方,並且走出上杉、北條中間的第三條外交途徑,派遣使者進入甲州,聯同里見家與武田信玄結盟,建立甲房同盟。武田信玄見獵心喜同意擁護足利藤政為古河公方,並派兵深入上野,在利根川上游建構石倉砦,一時表現出有意進入關東戰場援助反北條同盟的態勢,令簗田晴助和里見家大為振奮。可惜好景不常,在北條氏康於元龜二年(1571年)病故後,氏康臨去前決意放棄攻略駿河遺言指示北條氏政重啟甲相同盟,武田信玄為上洛同意再度締盟,甲房同盟到此終了,信玄的無預警背離,讓簗田晴助陷入同時與北條、武田、上杉三家交惡的劣勢。天正元年(1573年),北條氏照奉兄長氏政之令起兵伺機夜襲關宿城,簗田晴助透過水路情報網,迅速集合兵源物資反擊,令北條氏照無功而返。翌年正月,北條氏照再度攻打關宿城,簗田晴助以城固守,雙方僵持不下,於是透過足利藤政以古河公方之名在同月十六日向上杉謙信、佐竹義重去信和解,並委託太田資正說項請求兩家派出援軍。但是先年越相同盟讓佐竹義重及其家臣都對謙信保有不信感,雙方因此難以協調出一套有效的聯合作戰方案,各行其是。上杉謙信先是在三月於武藏羽生出陣,但後方的金山城由良氏反叛,而迴轉討伐。到八月時,關宿城中的簗田家臣橫田孫七郎及晴助的異母弟簗田助繩見北條軍已漸佔上風,因此內通城外的敵軍主帥北條氏照,為了一舉攻下關宿城,北條家當主氏政於十月親率北條氏邦、氏規領一萬六千主力軍往援,更動員臼井城的原胤成、小金城的高城氏、守谷城的相馬治胤和結城晴朝組成三萬聯軍出征,見事態越發嚴重,上杉謙信也在十月從春日山城發兵,佐竹義重也與宇都宮氏聯手進軍,上杉謙信知道越後軍位置較遠,不易直接援救,以圍魏救趙之策入武藏攻打忍城、騎西城、菖蒲城。但佐竹義重因不願和上杉軍同陣,雙方鬧的很不愉快,佐竹軍因而採觀望態度。潤十一月,歷經長達一年的包圍後,北條軍開始發動總攻擊,佐竹氏為此派出根本太郎忠治、木造清左衛門、同傳吉、近見新六郎等家臣領兵出城協防,最後北條援軍結城氏攻上城門,簗田晴助只能在後方防線指揮洋槍隊勉強抵擋敵軍殺入,但已被攻入城內的簗田家終脫不了彈盡糧絕的命運,遂由佐竹義重出面調解,簗田晴助將關宿城讓給北條家,退往支城水海城,後來簗田城被北條氏改建為進出北關東的據點。而關宿城陷落,也讓足利藤政被北條氏所殺,一時傳出藤政之死乃是用來交換簗田晴助、持助的性命,所以上杉、佐竹兩氏都就此不再信任簗田晴助父子,持助也入仕足利義氏,簗田晴助則居於水海城,簗田家完全屈服於北條家之下。天正十年(1582年)足利義氏病故,古河公方一脈完全斷絕。北條氏照入居古河城,並把關宿城交給當初背叛簗田晴助的異母弟簗田助繩,簗田晴助和持助父子自然十分不滿,對北條家再樹反旗。天正十五年(1587年),簗田晴助之子持助病故,如此噩耗令晴助雄心再挫,無奈對北條氏照表示投降,在氏照仲介下讓持助之子熊千代丸繼任,但是在其元服前便由簗田助繩代行家督之事務。天正十八年(1590年)豐臣秀吉發動小田原征伐出兵攻打北條氏,簗田晴助看準時機宣告投降,再次表達反北條的立場,但是由於駐守關宿城的簗田助繩堅持支援北條方,所以戰後簗田晴助與孫兒貞助不但無法收回關宿城,反倒連僅存的水海城也被處以連坐而被沒收所領,退往常陸。所幸,負責處理接收水海城事務的淺野長政,在得知過往簗田晴助與北條家之戰後給予高度評價,也對他現在的情況相當同情,居中勸說入主關東的新領主德川家康招納簗田晴助祖孫,家康也考量簗田氏歷代為古河公方盡忠,招徠簗田晴助之孫貞助為家臣,給予他一千石的領地。後簗田晴助於文祿三年(1594年)辭世,法名道忠,享年七十歲。簗田貞助也江戶幕府成立後擔任御書院番仕於二代將軍德川秀忠,但在慶長二十年(1615年)的大阪夏之役中簗田貞助獨子助吉陣亡,最後只好以外孫入繼家名,俸祿減至一百石。出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/80025899/
簗田高助 Yanada Takasuke(1493年-1550年)古河公方家の家臣・簗田政助の嫡男、伯父簗田成助の養嗣子、実母は真里谷信勝の娘。古河公方・足利高基から偏諱を賜り、高助を名乗る,号は富春斎、法名は道珊。高基の側近として仕える。その高基が家督を巡って父の政氏と対立(永正の乱)。政氏側についた父・政助に対抗し、高助は高基側について活躍し、宿老筆頭となる。この際に父・政助からは勘当されたものの、伯父・成助が養子とし、その家督を継ぐ形で簗田氏の当主となる。その後、強力な指導力を発揮して一族の被官化を進めて家臣団の再編成を行い、また天文4年(1535年)には高基の跡を継いだ足利晴氏に娘を嫁がせるなど、領主および家中での地位を確固たるものにしていく。その頃、関東では北条氏綱が台頭してくる一方で、古河公方は小弓公方足利義明(高基の弟)や上杉氏の圧迫を受けて衰退著しかった。そこで高助は氏綱の娘(芳春院)を晴氏の側室に迎えて古河公方家の勢力巻き返しを図ることにした。この縁談を実現させた高助は天文8年(1539年)には氏綱と天文12年(1543年)9月には氏綱の後を継いだ北条氏康と盟約を結んだ。だが、次第に北条氏の勢力拡大に危機感を抱くようになった晴氏は氏康との対決を決意し、天文15年(1546年)に上杉氏とともに河越城の戦い(河越夜戦)に突入したものの大敗を喫す。戦後、高助は出家して息子・晴助に家督を譲って許しを乞うが、氏康は高助の娘が生んだ晴氏の嫡男足利藤氏を廃除して、自分の甥である晴氏の末子足利義氏への古河公方相続を要求するようになった。天文19年(1550年)、死去。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%97%E7%94%B0%E9%AB%98%E5%8A%A9
足利晴氏 Ashikaga Haruuji(1508年-1560年)足利高基(足利高氏)的嫡子、母為宇都宮成綱之女、正室為築田高助之女、繼室為北條氏綱之女.芳春院;幼名龜若丸,受將軍足利義晴偏諱「晴」字,名為晴氏,戒名永仙院系山道統。享祿四年(1531年)、經過關東享祿內亂(注一)確立了古河公方的地位。天文七年(1538年)第一次國府台合戰中與北條氏綱同盟、消滅了自父.高基起敵對的自封為小弓公方的叔父足利義明。據『伊佐早文書』、晴氏作為作戰勝利的獎賞任命北條氏綱為關東管領(注二)。然而在北條氏綱死後、晴氏與其接班人北條氏康敵對、與關東管領上杉憲政、上杉朝定結盟、於天文十五年(1546年)進攻北條領時於河越夜戰大敗、作為古河公方權利盡失。後來雖逃過一命、天文二十一年(1552年)不得不將位置讓給兒子足利義氏(北條氏綱之女所生)、天文二十三年(1554年)古河城遭北條氏攻陷、被氏康關押至相模國波多野(神奈川縣秦野市)。弘治三年(1557年)7月、被允許返回古河城、然9月北條氏康發現被廢嫡的足利藤氏(注三,築田高助之女所生)意圖推翻足利義氏的政變計劃。晴氏被送往栗橋城主.野田氏處監禁。最後於永祿三年(1560年)5月27日、在元栗橋(茨城縣五霞町)名為「嵨」之地死去,年五十三歲。現於千葉縣野田市關宿台町宗英寺殘有五輪塔一座。注一:關東享祿內亂:於享祿二年(1529年)‐享祿四年(1531年)於古河足利家與山內上杉家同時爆發的內亂爭鬥雙方為足利高基、上杉憲寬與晴氏、上杉憲政。以晴氏一側勝利、高基一側讓位告終。 注二:關東管領任命權為足利將軍所有,且關東管領上杉憲政尚在,故不具正式地位。 注三:足利藤氏為晴氏長子,因其不具北條血統而被廢嫡。後於長尾景虎關東征伐時被長尾景虎、上杉憲政、近衛前久等人推舉為古河公方。上杉關東征伐受挫後被捕,永祿九年(1566年)之後音信全無,疑為北條氏康所殺。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-125 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%99%B4%E6%B0%8F
足利義氏 Ashikaga Yoshiuji(1541年-1583年)足利晴氏的次子、母為北條氏綱之女.芳春院、正室為北條氏康之女.淨光院殿;幼名梅千代王丸、受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義氏、法號長山善公香雲院。在河越城之戰中,父親晴氏戰敗而被北條氏康幽禁,後北條氏改為擁立義氏成為新任古河公方。其後在天文二十四年(1554年)11月,義氏未有在古河御所,而是在後北條氏的支城葛西城(現東京都葛飾區青戶)舉行元服儀式。義氏元服時,獲室町幕府將軍足利義輝授予足利將軍家的通字「義」,並且由舅父氏康替其加冠。永祿元年(1558年)4月,義氏離開葛西城,前往鎌倉的鶴岡八幡宮參拜,是唯一一位前往該處參拜的古河公方,其後在8月進入古河公方的領國,並且以關宿城為自己的居城來取代歷代的居城古河城。由此可見,義氏是受制於後北條氏的傀儡。此外,後來成為關東管領的上杉謙信認為晴氏的長子足利藤氏才是繼承古河公方的正統人選,因此並不承認義氏的公方地位。隨著上杉氏介入關東地方與後北條氏對立後,義氏經常遊走於與古河無關的地方,而按『小田原眾所領役帳』記載,義氏是「御家人葛西大人」(御家門方葛西樣)。元龜元年(1570年)左右,後北條氏與上杉氏締結越相同盟,作為條件之一,謙信承認義氏的地位。作為古河分方的義氏終於能夠重返古河,然而卻附帶由氏康之子北條氏照擔任其後見人的條件,因此義氏仍然是後北條氏的傀儡。天正十一年(1583年)1月21日,義氏死去,年43歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%B0%8F_%28%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9%29
足利義輝 Ashikaga Yoshiteru(1536年-1565年)足利義晴的長子、母為近衛尚通之女.慶壽院、猶父近衛尚通、正室為近衛前久之姐、側室為小侍從;幼名菊童丸,初名義藤,後改名為義輝,渾名劍豪將軍。出生後送給外祖父近衛尚通當猶子。在義輝幼年期間,父親義晴與掌握實權的幕府管領細川晴元長期失和,多次發生軍事衝突。天文十年(1541年)父親義晴戰敗,逃往近江國阪本,義輝也隨同逃亡。天文十一年(1542年)與父親一起返回京都,但翌年再次與父親逃往近江阪本、朽木谷。天文十五年(1546年)12月,父親義晴將將軍職位讓給11歲的義輝。由於處在逃亡之中,將軍的就職儀式在近江阪本的日吉神社祠官樹下進行,同時進行他的元服禮,以六角定賴為烏帽子親,取名義藤;義晴則以大御所的身份管理政務。天文十七年(1548年),義晴同細川晴元和解,回到京都。晴元也隨即承認義輝的將軍身份。然而細川晴元的家臣三好長慶叛變晴元,歸附細川氏綱,崛起成為畿內的一大勢力。父親義晴、義輝以及細川晴元一起逃離京都,再次來到近江國的阪本,居住於常在寺。天文十九年(1550年)5月,義晴在常在寺死去。此後遷往堅田,翌年移駕朽木。天文二十一年(1552年)正月,義輝以任命細川氏綱為管領為條件,同三好長慶達成和解,回到京都。但義輝這個幕府將軍有名無實,是三好長慶和其家臣松永久秀的傀儡。翌年(1553年),在細川晴元的支持下同長慶作戰,失敗逃往近江國朽木村;此後5年的時間裡都在那裡度過。天文二十三年(1554年)2月12日,逃亡中的將自己的名字義藤改為義輝。永祿元年(1558年)5月,在六角義賢(六角定賴之子)的支援下,同細川晴元一起遷往阪本,在這裡可以窺見京都。翌月在如意岳佈陣同三好長逸等作戰。由於受到六角義賢的支援,足利軍最早處於優勢;但後來三好長慶派弟弟三好義賢反攻,戰局逆轉。11月,在六角義賢的中介下,義輝與三好長慶達成和解,永祿五年(1562年)回到京都,再開幕政。同年12月28日,迎娶伯父近衛稙家的女兒為正室。三好長慶在幕府中權傾一時,擔任御相伴眾一職並被推薦為修理大夫,同時將三好氏的家臣安插擔任幕府的各個要職。義輝試圖奪回將軍的權力,多次暗殺三好長慶但皆失敗。為恢復將軍的權威,義輝盡力同各地的戰國大名搞好關係,曾多次調停大名之間的衝突,例如伊達晴宗與伊達稙宗(1548年)、武田信玄與上杉謙信(1558年)、島津貴久與大友宗麟(1560年)、毛利元就與尼子晴久(1560年)、毛利元就與大友宗麟(1563年)、上杉謙信與北條氏政以及武田信玄(1564年)等等,使將軍威信有所提高。同時出於懷柔政策,任命大友宗麟為築前、豐前守護,任命毛利隆元為安藝守護,批准三好長慶、三好義興父子使用桐紋作為家紋。此外將自己的偏諱「輝」字授予戰國大名毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎(上杉謙信),以及足利氏一門的足利輝氏等人(此前名叫「義藤」的時候曾將「藤」字授予細川藤孝、足利藤氏和筒井藤勝),將足利將軍家的通字「義」字授予島津義久、武田義信等人。《穴太記》對義輝的政治手腕給予很高的評價,許多大名先後承認將軍的權威,織田信長、上杉謙信等人先後上洛拜見將軍,大友宗麟也向將軍獻上鐵炮。永祿年間,甲斐國的武田信玄勢力進入信濃國北部,同越後的上杉謙信發生衝突,引起川中島之戰。義輝為兩者居中調停,武田信玄以得到信濃守護一職為撤軍的條件。義輝同意他的條件,授予信玄信濃守護之職。但武田信玄得寸進尺,希望上杉謙信的勢力完全退出信濃,因此後來在永祿四年(1561年)義輝命令逃亡在外的前信濃守護小笠原長時歸國。永祿元年(1558年)義輝回到京都以後,三好長慶的權力依然很大,畠山高政和六角義賢對此非常不滿,在畿內舉兵反對三好氏。在久米田之戰中,三好氏一族的三好義賢戰死,三好氏出現衰退的跡象。永祿五年(1562年),原本與三好長慶同盟壟斷幕政的政所執事伊勢貞孝突然與長慶反目,但義輝轉而支持長慶,改任攝津晴門為新的政所執事。這激怒貞孝,舉兵叛亂,但於9月被長慶擊斃。這使將軍的勢力重新抬頭,逐漸開始掌握幕政。永祿七年(1564年)三好長慶病死,失去政敵的義輝趁機開始恢復幕府將軍的權力。但三好長慶死後,三好氏的權力悉歸松永久秀管理,松永久秀和三好三人眾見義輝開始恢復權力,視之為眼中釘;計劃廢黜義輝,立足利義維的嫡子足利義榮為新將軍。而在永祿六年(1563年)觀音寺騷動以後,義輝所依賴的近江六角氏迅速衰退,使義輝失去外援。永祿八年(1565年)5月19日,松永久秀和三好三人眾以及主君三好義繼,奉足利義榮為主叛亂,襲擊義輝所居住的二條御所。義輝奮勇抵抗,終寡不敵眾,最後叛軍將城內的紙門與紙窗等拆下來作盾牌,將義輝壓倒並殺死,年三十歲,戒名光源院融山道圓。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D
足利藤氏 Ashikaga Fujiuji(生年不詳-沒年不詳)足利晴氏的長子、母為簗田高助之女;幼名幸千代王丸,受將軍足利義藤偏諱「藤」字,名為藤氏。外祖父簗田高助為家中親北條派的中心,成為父親晴氏迎娶繼室芳春院(北條氏綱之女)的仲介人。不過父親晴氏與北條氏綱的後繼人北條氏康之間的關係漸漸惡化,晴氏與關東管領上杉憲政和上杉朝興等人結成同盟並與北條氏康對抗,但在天文十五年(1546年)的河越夜戰中遭到氏康大敗。氏康令父親晴氏隱退,並令異母妹芳春院的兒子.擁有北條血脈的足利義氏(藤氏的異母弟)成為古河公方。弘治三年(1557年),藤氏舉兵並試圖奪回古河御所,不過失敗,父親晴氏被軟禁在栗橋城,而藤氏亦遭到流放。之後藤氏投靠安房的里見義堯並尋求再起的機會,而跟隨藤氏的簗田晴助(簗田高助之子)等人則依賴滯留在越後的關東管領上杉憲政和庇護憲政的長尾景虎(上杉謙信)的救援。永祿三年(1560年)、父親晴氏於栗橋城死去。永祿四年(1561年),上杉謙信向關東出兵,不只以救援藤氏為名義,更有關東管領上杉憲政、關白近衛前久的大義名分,於是軍勢得到關東諸國人眾的支持並增加至10萬餘人。雖然沒能消滅在小田原城等諸城中籠城的北條方,不過仍然成功放逐足利義氏並奪回古河御所。成功代替上杉憲政執行關東管領擁立古河公方職務的上杉謙信接受憲政讓予上杉氏的家督和關東管領的地位。而上杉謙信與上杉憲政、近衛前久等人一同否定足利義氏就任古河公方,並決定以關白、關東管領的名義正式任命藤氏為父親晴氏的後繼古河公方(在越相同盟締結時,北條氏因為在國府台合戰的戰功而被古河公方任命為關東管領,因為這個職權而主張足利義氏為古河公方(『伊佐早文書』中的『北條氏康條書』),北條氏對上杉氏的關東管領權威作出否認,因此上杉氏作為關東管領,有必要替換足利義氏的古河公方)。因為佐竹氏、里見氏等反北條氏關東諸大名亦接受,於是在數年間,藤氏成為正統的古河公方。不過,在謙信留下藤氏並返回越後的同時,北條氏馬上開始反擊,在同年10月攻擊古河,藤氏逃到里見氏家臣多賀信家(藏人、高明)管治的上總池和田城(現今千葉縣市原市)。後來以古河為目標,上杉和北條不斷持續爭奪戰,藤氏不斷以上杉方代表的身份進入古河和逃到上總。最終在永祿五年(1562年)於北條軍攻略古河御所之際被捕獲並送往小田原。後來藤氏被送到相模、伊豆等北條領地內,在永祿九年(1566年)以後就消息不明,一說是被北條氏康處刑。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E8%97%A4%E6%B0%8F