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足利義晴 Ashikaga Yoshiharu(1511年-1550年) 足利義澄的長子、母為日野永俊之女、養父為足利義稙、正室為近衛尚通之女-慶寿院、側室為大舘常興之女;幼名龜王丸。 永正四年(1507年),細川政元遭到暗殺,細川氏陷入內訌(永正錯亂)。足利義稙見機決定復辟。 永正五年(1508年)4月,在大內氏的支持下聯合中國地方和九州的大名進軍京都,並得到細川高國等人的支持。6月佔領京都,放逐了將軍足利義澄和管領細川澄元,7月復位為將軍。 此後義澄逃往近江國,試圖奪回將軍之位。足利義晴就是在此期間出生在近江國朽木谷的。義晴出生後不久義澄就病逝了。永正十年(1513年)2月14日,義澄派和義稙派達成和解,足利義稙將軍之位得到了確定。次年義晴被送往播磨國,受到兼任播磨、備前、美作三國守護的義澄派重要人物赤松義村的庇護和養育。 大永元年(1521年)3月7日,第10代將軍義稙由於與管領細川高國不合而出奔。由於同月22日即將舉行後柏原天皇的即位儀式,將軍的出奔令天皇非常憤怒。天皇下令即位儀式照常進行,並讓細川高國擔任警備事務。高國提議罷免足利義稙的將軍職,任命義晴就任將軍。7月6日,細川高國迎義晴上洛,8月29日行參賀之禮。朝廷接受高國的建議,於11月25日任命義晴為右馬頭。12月24日義晴元服後,次日就被任命為第12代將軍。 大永六年(1526年),細川高國的家臣香西元盛被殺,細川氏內部糾紛因此而起。與高國對立的細川晴元,在阿波國人三好元長的援助下,擁立義晴之弟義維,並與高國開戰。元盛的被殺後,其兩位兄長波多野稙通、柳本賢治等叛離高國。大永七年(1527年),桂川原之戰中細川高國被打敗,細川晴元及實權掌握者三好元長等人攻入京都。義晴與細川高國、武田元光等人逃亡至近江國。 享祿元年(1528年),在近江國人朽木稙綱的幫助下居住在朽木(興聖寺),以若狹守護武田元光等軍事勢力為後盾,同三好元長所擁立界公方足利義維對立。享祿四年(1531年),細川高國在中島之戰中被打敗,不久又在大物崩中兵敗自殺身亡。 戰後細川晴元與三好元長對立。天文元年(1532年),細川晴元聯合本願寺的一向一揆對抗三好元長(享祿天文之亂),義晴移駕近江國的桑實寺,試圖回到京都。晴元在得到本願寺之協力下廢去界公方義維,三好元長也被殺。天文三年(1534年)在六角定賴、六角義賢父子為後援下,義晴得歸回京中。此時將軍權威完全蕩然無存,成為傀儡。但義晴一直試圖恢復將軍權力,設立由自己親信組成的內談眾為政治中樞,試圖親政。同時迎娶朝廷重臣近衛家的女子為正室,試圖得到朝廷的支持。 天文十年(1541年)因與細川晴元不和,逃往近江的阪本;次年回到京都。天文十二年(1543年)再次逃往近江。 天文十六年(1547年)義晴進入瓜生山城,同細川晴元對立,但被晴元擊敗(舍利寺之戰)。此後義晴將將軍職讓給其子足利義輝,並以大御所的身份繼續執掌幕政。不久與細川晴元達成和解,回到京都。但天文十八年(1549年)又與細川晴元及其重臣三好長慶發生對立。江口之戰戰敗後,義晴與義輝一起逃往近江朽木谷。 天文十九年(1550年)在近江穴太死去,享年44歲。葬於義晴地藏寺。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%B9%89%E6%99%B4
足利義氏 Ashikaga Yoshiuji(1541年-1583年) 足利晴氏的次子、母為北條氏綱之女.芳春院、正室為北條氏康之女.淨光院殿;幼名梅千代王丸、受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義氏、法號長山善公香雲院。 在河越城之戰中,父親晴氏戰敗而被北條氏康幽禁,後北條氏改為擁立義氏成為新任古河公方。其後在天文二十四年(1554年)11月,義氏未有在古河御所,而是在後北條氏的支城葛西城(現東京都葛飾區青戶)舉行元服儀式。義氏元服時,獲室町幕府將軍足利義輝授予足利將軍家的通字「義」,並且由舅父氏康替其加冠。 永祿元年(1558年)4月,義氏離開葛西城,前往鎌倉的鶴岡八幡宮參拜,是唯一一位前往該處參拜的古河公方,其後在8月進入古河公方的領國,並且以關宿城為自己的居城來取代歷代的居城古河城。由此可見,義氏是受制於後北條氏的傀儡。 此外,後來成為關東管領的上杉謙信認為晴氏的長子足利藤氏才是繼承古河公方的正統人選,因此並不承認義氏的公方地位。隨著上杉氏介入關東地方與後北條氏對立後,義氏經常遊走於與古河無關的地方,而按『小田原眾所領役帳』記載,義氏是「御家人葛西大人」(御家門方葛西樣)。 元龜元年(1570年)左右,後北條氏與上杉氏締結越相同盟,作為條件之一,謙信承認義氏的地位。作為古河分方的義氏終於能夠重返古河,然而卻附帶由氏康之子北條氏照擔任其後見人的條件,因此義氏仍然是後北條氏的傀儡。 天正十一年(1583年)1月21日,義氏死去,年43歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%B0%8F_%28%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9%29
足利義輝 Ashikaga Yoshiteru(1536年-1565年) 足利義晴的長子、母為近衛尚通之女.慶壽院、猶父近衛尚通、正室為近衛前久之姐、側室為小侍從;幼名菊童丸,初名義藤,後改名為義輝,渾名劍豪將軍。 出生後送給外祖父近衛尚通當猶子。在義輝幼年期間,父親義晴與掌握實權的幕府管領細川晴元長期失和,多次發生軍事衝突。 天文十年(1541年)父親義晴戰敗,逃往近江國阪本,義輝也隨同逃亡。天文十一年(1542年)與父親一起返回京都,但翌年再次與父親逃往近江阪本、朽木谷。 天文十五年(1546年)12月,父親義晴將將軍職位讓給11歲的義輝。由於處在逃亡之中,將軍的就職儀式在近江阪本的日吉神社祠官樹下進行,同時進行他的元服禮,以六角定賴為烏帽子親,取名義藤;義晴則以大御所的身份管理政務。天文十七年(1548年),義晴同細川晴元和解,回到京都。晴元也隨即承認義輝的將軍身份。 然而細川晴元的家臣三好長慶叛變晴元,歸附細川氏綱,崛起成為畿內的一大勢力。父親義晴、義輝以及細川晴元一起逃離京都,再次來到近江國的阪本,居住於常在寺。天文十九年(1550年)5月,義晴在常在寺死去。此後遷往堅田,翌年移駕朽木。 天文二十一年(1552年)正月,義輝以任命細川氏綱為管領為條件,同三好長慶達成和解,回到京都。但義輝這個幕府將軍有名無實,是三好長慶和其家臣松永久秀的傀儡。翌年(1553年),在細川晴元的支持下同長慶作戰,失敗逃往近江國朽木村;此後5年的時間裡都在那裡度過。天文二十三年(1554年)2月12日,逃亡中的將自己的名字義藤改為義輝。 永祿元年(1558年)5月,在六角義賢(六角定賴之子)的支援下,同細川晴元一起遷往阪本,在這裡可以窺見京都。翌月在如意岳佈陣同三好長逸等作戰。由於受到六角義賢的支援,足利軍最早處於優勢;但後來三好長慶派弟弟三好義賢反攻,戰局逆轉。11月,在六角義賢的中介下,義輝與三好長慶達成和解,永祿五年(1562年)回到京都,再開幕政。同年12月28日,迎娶伯父近衛稙家的女兒為正室。三好長慶在幕府中權傾一時,擔任御相伴眾一職並被推薦為修理大夫,同時將三好氏的家臣安插擔任幕府的各個要職。義輝試圖奪回將軍的權力,多次暗殺三好長慶但皆失敗。 為恢復將軍的權威,義輝盡力同各地的戰國大名搞好關係,曾多次調停大名之間的衝突,例如伊達晴宗與伊達稙宗(1548年)、武田信玄與上杉謙信(1558年)、島津貴久與大友宗麟(1560年)、毛利元就與尼子晴久(1560年)、毛利元就與大友宗麟(1563年)、上杉謙信與北條氏政以及武田信玄(1564年)等等,使將軍威信有所提高。同時出於懷柔政策,任命大友宗麟為築前、豐前守護,任命毛利隆元為安藝守護,批准三好長慶、三好義興父子使用桐紋作為家紋。 此外將自己的偏諱「輝」字授予戰國大名毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎(上杉謙信),以及足利氏一門的足利輝氏等人(此前名叫「義藤」的時候曾將「藤」字授予細川藤孝、足利藤氏和筒井藤勝),將足利將軍家的通字「義」字授予島津義久、武田義信等人。 《穴太記》對義輝的政治手腕給予很高的評價,許多大名先後承認將軍的權威,織田信長、上杉謙信等人先後上洛拜見將軍,大友宗麟也向將軍獻上鐵炮。 永祿年間,甲斐國的武田信玄勢力進入信濃國北部,同越後的上杉謙信發生衝突,引起川中島之戰。義輝為兩者居中調停,武田信玄以得到信濃守護一職為撤軍的條件。義輝同意他的條件,授予信玄信濃守護之職。但武田信玄得寸進尺,希望上杉謙信的勢力完全退出信濃,因此後來在永祿四年(1561年)義輝命令逃亡在外的前信濃守護小笠原長時歸國。 永祿元年(1558年)義輝回到京都以後,三好長慶的權力依然很大,畠山高政和六角義賢對此非常不滿,在畿內舉兵反對三好氏。在久米田之戰中,三好氏一族的三好義賢戰死,三好氏出現衰退的跡象。永祿五年(1562年),原本與三好長慶同盟壟斷幕政的政所執事伊勢貞孝突然與長慶反目,但義輝轉而支持長慶,改任攝津晴門為新的政所執事。這激怒貞孝,舉兵叛亂,但於9月被長慶擊斃。這使將軍的勢力重新抬頭,逐漸開始掌握幕政。 永祿七年(1564年)三好長慶病死,失去政敵的義輝趁機開始恢復幕府將軍的權力。 但三好長慶死後,三好氏的權力悉歸松永久秀管理,松永久秀和三好三人眾見義輝開始恢復權力,視之為眼中釘;計劃廢黜義輝,立足利義維的嫡子足利義榮為新將軍。而在永祿六年(1563年)觀音寺騷動以後,義輝所依賴的近江六角氏迅速衰退,使義輝失去外援。 永祿八年(1565年)5月19日,松永久秀和三好三人眾以及主君三好義繼,奉足利義榮為主叛亂,襲擊義輝所居住的二條御所。義輝奮勇抵抗,終寡不敵眾,最後叛軍將城內的紙門與紙窗等拆下來作盾牌,將義輝壓倒並殺死,年三十歲,戒名光源院融山道圓。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D
路易斯.弗洛依斯 Luis Frois(1532年-1597年) 葡萄牙天主教傳教士,年輕時已經離葡萄牙,主要在日本傳教,是『日本史』及『日歐比較文化』的作者。在方濟 沙勿略(Francis Xavier)推薦下來日傳教,曾與織田信長見面,最後記載日本二十六聖人被處死的事件。 生於葡萄牙里斯本,1541年,9歲進入葡萄牙的宮廷,在王室秘書廳擔任書記見習,累積日後文書處理的經驗。1548年,16歲加入耶穌會,同年前往當時葡萄牙在印度的根據地果阿,接受養成教育。在果阿遇到決心前往遠東傳教的方濟各.沙勿略與薩摩出身的日本翻譯彌次郎,對於弗洛依斯後來的人生與命運產生重大影響。1561年在果阿晉升為司鐸,以語言及寫作方面的能力見長,從事與各傳教地通訊的工作。 永祿六年(1563年),31歲在日本九州肥前橫瀨浦(今長崎縣西海市)登陸,開始在日本從事傳教工作。學習日語後,永祿七年(1564年)從平戶前往京都。永祿八年(1565年)1月31日抵達京都,但是對於將軍足利義輝與室町幕府威信的旁落感到失望。在混亂的戰國時代艱困的在京都、近畿地區負責傳教的工作。 永祿十二年(1569年)弗洛依斯與上洛的中原新霸主織田信長在建築中的二條城初次見面。織田信長對既存的佛教反感,從火燒比叡山等事可以得知,但是信長對於南蠻事物很感興趣。弗洛依斯得到織田信長的信任,被准許在畿內傳教。弗洛依斯與永祿十三年(1570年)來日的義大利傳教士奧爾岡蒂諾(Organtino Gnecchi-Soldo)一起在京都進行傳教活動,得到許多信徒。弗洛依斯的著作中提到織田信長雖是異教徒,但是對於基督教始終抱著寬容的態度(弗洛依斯的著作出現許多『信長公記』沒有的記述,是研究日本史的重要資料之一)。天正四年(1576年)京都南蠻寺(教堂)在奧爾岡蒂諾的指揮以及眾人的協力下完工。 天正五年(1577年)弗洛依斯將京都地區傳教負責人的職位轉讓給奧爾岡蒂諾,到豐後擔任地區負責人的職務,在大友氏領內從事傳教事業。赴任後,與大友宗麟、義統父子成為親交。天正八年(1580年)傳教士范禮安(Alessandro Valignano)來日時陪同擔任翻譯,在安土城拜謁織田信長。天正十一年(1583年),由於上級指示離開第一線的傳教工作,開始記錄耶穌會在日本的活動,執筆『耶穌會日本年報』;後來將精力投入在記錄日本各地的見聞上,開始編纂『日本史』。 織田信長在本能寺被弒後,豐臣秀吉一開始繼承信長對基督教的政策,但是當基督教勢力擴大後,開始感到不安。天正十五年(1587年)6月19日豐臣秀吉發布『伴天連追放令』,命令耶穌會傳教士立即停止傳教、在20日內離開日本本土、並破壞京都等地的南蠻寺,弗洛依斯於是來到長崎定居。 天正十八年(1590年),弗洛依斯偕同歸國的天正遣歐少年使節及范禮安在聚樂第會見豐臣秀吉。天正二十年(1592年)與范禮安一起遠渡澳門,文祿四年(1595年)返回長崎。 慶長二年(1597年)留下『二十六聖人殉教記』的最後報告後,於7月8日逝世,年65歲。 弗洛依斯直接目擊基督教早期在日本的發展、榮光、悲劇與餘暉,以聖職的身分與織田信長、豐臣秀吉、大友宗麟等一代風雲人物熟識,並以出色的文筆詳實的紀錄京畿、九州地區的風土民情,為這個時期的日本留下寶貴的紀錄。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%AF%E6%98%93%E6%96%AF%C2%B7%E5%BC%97%E6%B4%9B%E4%BC%8A%E6%96%AF
近衛前久 Konoe sakihisa(1536年-1612年) 近衛稙家的長子、母親是細川高基之女、妻為久我晴通之女;受將軍足利義晴偏諱「晴」字,初名為「晴嗣」。 天文九年(1540年)元服,接受室町幕府第12代將軍足利義晴的偏諱「晴」字,取名晴嗣;天文十年(1541年)敘從三位,列公卿;天文十六年(1547年)任內大臣;天文二十二年(1553年)任右大臣;天文二十三年(1554年)任關白左大臣,同時就任藤氏長者;弘治元年(1555年)捨棄了「晴」字,改名「前嗣」。 永祿二年(1559年)越後國的長尾景虎(上杉謙信)上洛之際,前久與之肝膽相照,寫下了血書起請文,結為盟友。前久以關白的身份,於永祿三年(1560年)下越後,翌年初夏更是越山,協助謙信平定關東,前往上野、下總等地,以公家的身份為其出了不少力。 此後謙信出兵信濃,與武田信玄展開第四次川中島之戰。前久從古河城送信向謙信的勝利表示祝賀(『歷代古案』)。謙信回到越後之後,前久居住在古河城,協助謙信統一越後。在此期間將名字「前嗣」改名「前久」,將自己公家的花押樣式改為武家樣式。然而上杉氏陷入了同武田氏和北條氏兩面作戰的泥潭,無法平定關東,近衛前久最終於永祿五年(1562年)8月失意地回到京都。 永祿八年(1565年)發生永祿之變,將軍足利義輝被三好三人眾和松永久秀殺害。足利義輝的正室是近衛前久的姐姐,為了保護姐姐,前久同意推戴足利義榮為新任征夷大將軍。 然而永祿十一年(1568年)織田信長奉義輝的弟弟足利義昭上洛。由於永祿之變之後前久推戴義榮,而且義昭懷疑前久參與此事。再加上前任關白二條晴良對其落井下石,結果義昭奏請朝廷,將前久流放。 前久被解除關白職務後,在丹波國赤井直正的幫助下,從京都前往黑井城的下館居住,此後在第11世本願寺顯如的幫助下移居攝津國的石山本願寺。此時認顯如的長子.本願寺教如為自己的養子。信長包圍網建成之後,受到三好三人眾的委託慫恿顯如參加了包圍網。然而前久對織田信長並沒有敵意,他僅僅希望將將軍足利義昭和關白二條晴良排除。為此在天正元年(1573年)義昭被信長逐出京都、晴良遭到信長疏遠之後,前久便脫離了赤井直正的信長包圍網。天正三年(1575年),信長奏請讓前久回到了京都。 此後近衛前久與織田信長的親交很深,兩人尤其是在鷹狩方面有著共同的愛好,兩人屢屢在對方面前互相誇耀自己的成果。9月應信長的邀請下九州,試圖與大友氏、伊東氏、相良氏、島津氏達成和議。天正五年(1577年)回到京都,翌年接受准三宮的待遇。此後接受信長的邀請同本願寺調停,天正八年(1580年)顯如退回石山本願寺。織田信長對近衛前久為平定石山本願寺的功績評價很高,信長許諾在平定天下之後獻上一個國的領地給近衛家。天正十年(1582年)2月任太政大臣5月辭職、3月隨信長參加甲州征伐。 然而6月2日發生本能寺之變,織田信長突然死去,近衛前久的命運急轉直下。失意的前久自號「落飾龍山」。有讒言稱明智光秀的軍隊從近衛前久的府邸向本能寺射擊,因此前久受到了織田信孝和羽柴秀吉(豐臣秀吉)的詰問。為此前久在德川家康的幫助下前往遠江的濱松。 一年以後,在德川家康的斡旋之下,羽柴秀吉的誤會解除,前久回到京都。天正十二年(1584年)小牧.長久手之戰中兩者發生激烈衝突,前久的地位岌岌可危,暫時寄居奈良,在雙方和解之後方才回到京都。晚年在慈照寺東求堂過著隱居生活。根據貞享三年(1686年)刊行的『雍州府志』的說法,前久隱居的時候慈照寺處在沒有住職的狀態之中。 慶長十七年(1612年)5月8日死去,享年77歲,葬於京都東福寺,法名東求院龍山空譽。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
遊佐長教 Yusa Naganori(1491年-1551年) 遊佐氏は出羽の国人領主の家柄で、11世紀末から12世紀にかけての間には出羽に遊佐荘を立荘していたことがわかっている。この荘園は藤原基衡に寄進し、在地領主となった。遊佐氏自身は藤原秀郷の末流と称するが定かではない。史料的には、藤原忠衡が遊佐氏の初代とするものもあるが、確証はない。ただ、出羽の名族であったことは確かであるといえる。 鎌倉時代末期から南北朝時代に一族の者が畠山氏に仕えたとされる。長教の系統の遊佐氏は、畠山基国の時代に遊佐長教からみて曽祖父にあたる遊佐国長(長護)が河内守護代となって以来、代々河内守護代を務めた家柄。別流には能登守護代の遊佐氏や越中守護代の遊佐氏もあり、河内守護代でも畠山氏尾州家(畠山政長の系統)に仕えた彼とは異なり、総州家(畠山義就)に仕えた遊佐氏もいた。出羽で先祖伝来の地を守った一族も存在する。 幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。ただしその根拠は父順盛が長教が生まれて間もない明応2年(1491年)の時点で若江城主であったことの確認が取れることであり、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。 誕生後、長教は父と共に転々とすることになる。理由は、父が仕えていた畠山政長が長教の誕生の翌々年に明応の政変の結果、河内渋川郡正覚寺で自決し、子の畠山尚順が密かに紀州に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で畠山基家(畠山義就の子)を誉田城に包囲していた父も慌しく退却することとなる。その後父は紀伊の地にあったが、この間長教がどこにいたのかは定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀伊の父の元にたどり着いたとする史料がある。 明応6年(1497年)になって畠山尚順や順盛は河内を奪還し、順盛は若江城に復帰し、長教も若江城にいたものと思われる。しかしそれもつかの間、明応8年(1499年)末には細川政元に追われ、元服した場所も定かではない。永正元年(1504年)に再度若江城に復帰したが、永正3年(1506年)に再度追われた。その後すぐに政元が永正の錯乱で暗殺されると、畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く永正8年(1511年)まで続くが、同年の船岡山合戦で長教は父を失い、家督を継いだ。ただし、長教の本格的な活動が見え出すのは天文年間に入ってからである。 長教は父と同じく主君・尚順(改め尚長)を助けて転戦、尚長の子稙長を補佐したが、稙長が近臣を取り立てて長教と対立、享禄・天文の乱に際して石山本願寺や細川高国の残党と結託して細川晴元とも対立するなど、畠山家の統一と畠山家の勢威回復を図る長教にとって障害となったため、天文3年(1534年)に稙長を追放、一旦弟の長経を擁立した。翌天文4年(1535年)に長経も追放(あるいは殺害)、もう1人の弟晴熙を家督代行に擁立、やがて天文7年(1538年)に晴元や総州家の木沢長政と協議し畠山弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として擁立、河内の実権は半国守護代となった長教と長政の2人が握った。 だが、3年後の天文10年(1541年)に長政が晴元に反乱を起こすと長政と対立、稙長と和解し弥九郎と在氏を追放、再度稙長を守護として迎え入れた。そうして長政を孤立させ、翌天文11年(1542年)に晴元の家臣三好長慶らと連合して長政を河内高安郡太平寺で撃破(太平寺の戦い)し、長政を討ち取った。稙長復帰により河内守護家の権力は回復し、半国守護体制は崩壊し長教は稙長の意を奉じて文書を発給する立場に戻っている。 天文12年(1543年)に細川氏綱が挙兵すると稙長と共に密かに援助して晴元政権弱体化を図ったが、天文14年(1545年)に稙長が病死。この時、稙長の後継者が分家の能登守護畠山義総の子(義続かは不明)に定められることになったが、直後の義総の死や稙長の舎弟の反対などで混乱が起こり流れることになる。結局、後継者は弟の政国に定められる。長教は政国とも対立があったようで、「天文日記」などで政国が紀伊に下向していることがわかっている。その後氏綱を唆して高国の旧臣などを煽動して反晴元の気運を高め、天文15年(1546年)になると挙兵して氏綱と共に晴元の領国摂津を転戦したが、翌天文16年(1547年)に三好長慶の反撃で摂津を奪い返され、舎利寺の戦いで長慶に敗れ河内高屋城を長期間包囲されたが、天文17年(1548年)に和睦して娘を長慶に嫁がせ勢力を保った。 やがて長慶が晴元と同族の三好政長と対立すると長慶の要請で同盟を結ぶ。『続応仁後記』によれば、長教が長慶に、長慶の父元長が無念の横死を遂げた一向一揆の蜂起に、政長が強く関与し策動したことを長慶に伝えた為に、長慶は政長討伐を決意したとされる。今谷明は「長教は謀略を好む人」と評価・断定した上で、「彼ならばいかにもやりそうなこと」「そのことを長慶に伝えた場合、そこから生じるであろう混乱に便乗して立身出世を図ったのではないか」と指摘している。天文18年(1549年)の江口の戦いで政長を討ち取り細川政権を崩壊させ、長慶の台頭により三好政権の一翼として活動することとなるが、天文20年(1551年)、刺客に暗殺される。暗殺された場所は若江城とも高屋城とも言われている。長教は酒を片手に、帰依していた昵懇の間柄であった僧侶珠阿弥(時宗の僧侶)と歓談しており、酩酊して横になったところを、実は「敵方に買収され」、長教暗殺の命を帯びていた刺客の珠阿弥によって滅多刺しにされて殺害されたという。暗殺の黒幕は当時長慶と敵対関係にあった13代将軍足利義輝と推測されることもあるが、当時の記録では河内の有力者だった萱振氏が暗殺の犯人として安見宗房に粛清され、また根来寺に入っていた長教の弟も三好氏に殺害されているのみであり、義輝が仕掛け人である確証はない。「天文日記」によれば、遊佐家家中の混乱を収める為、長教の死は100日間秘匿された。その後、娘婿であった長慶は、混乱する遊佐家に介入し、安見氏と萱振氏の婚姻を取りまとめるなど仲裁を行った。。(が、前述の安見による萱振粛清の通りこれは破綻している) 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E4%BD%90%E9%95%B7%E6%95%99
香西元成 Kozai Motonari(1518年-1560年) 細川氏の忠実な家臣で、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いに参戦、内藤氏や三宅氏と共に軍を率いて功績を挙げた。 天文18年(1549年)の江口の戦いにおいては摂津三宅城を守り三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、政長は敗死し、主君の細川晴元も長慶に京都から近江へ追われることになる。それからは三好政勝(政長の子)と行動を共にして丹波を拠点に長慶への抵抗を始め、天文20年(1551年)3月に政勝と共に丹波から下向して京都を襲撃、一旦引き上げた後7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れ逃亡した(相国寺の戦い)。 天文22年(1553年)、室町幕府13代将軍足利義輝が晴元支持を表明すると7月に京都へ進み義輝・晴元と合流、8月に霊山城が落とされ義輝らが近江へ逃れた後も反長慶の姿勢を崩さず、9月に政勝・波多野晴通と組んで丹波守護代内藤国貞を討ち取り八木城を奪ったが、松永長頼に奪い返された。播磨国人の明石氏と結託したが、こちらも天文24年(1555年)に長慶に降伏、かえって長慶の勢力拡大に繋がった。その後も長慶に徹底して対立・抵抗したが、永禄3年(1560年)、山城炭山城で三好氏と戦い討死した。 三好政勝らと共に織田信長と戦い、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いで降伏した後、再び本願寺に味方して天正3年(1575年)に堺の近辺の新堀の出城に籠城して織田軍に捕えられ誅殺された「香西越後守」は、名乗りから考えて元成の後継者と考えられるが、その素性は明らかでない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E8%A5%BF%E5%85%83%E6%88%90
齋藤義龍 Saito Yoshitatsu(1527年-1561年) 齋藤道三的長子,母親為一色義遠之女-深芳野,幼名豐太丸,通稱新九郎。 天文二十三年(1554年),在國內治理飽受爭議的齋藤道三想出了隱居暫避的對策,將稻葉山城、美濃守護代的官職和齋藤家家督臨時託付給義龍,在常在寺剃髮出家,號「道三」,隱居於鷺山城。但義龍和道三之間關係險惡,傳聞深芳野在土岐賴藝賜給齋藤道三之前已經懷有身孕,義龍一直懷疑自己是否為土岐氏一脈。 道三晚年偏愛次子孫四郎和三子喜平次,厭惡「愚蠢」的義龍,作為嫡子的孫四郎(義龍為側室深芳野所生,是庶長子)很有可能作為最終的繼承人選,加之另一個弟弟喜平次獲得幕府名門一色氏之姓,改稱「一色右兵衛大輔」。道三儘力為兩個弟弟鋪設前程而完全忽略義龍存在的舉動,使義龍感受到了自己渺茫的未來,道三和義龍之間的矛盾終於到了不可挽回的地步。 弘治元年(1555年)年底,義龍假裝病倒。第二年年初,義龍拉攏經常在弟弟身邊的叔父長井道利共謀大事。接著義龍假稱病危,有話要交代給弟弟們,於是孫四郎和喜平次被召到私宅會面,由長井道利使計讓兩人將兵刃置於室外,見面之後在座的人故意將孫四郎和喜平次灌醉,由義龍身邊的家臣日根野弘就以誇讚刀具為借口趁機將二人殺害。事至此,義龍正式與道三決裂,道三聽到消息後十分驚恐,立刻捨棄稻葉山城,逃奔美濃山中,奪取了稻葉山城的義龍開始討伐追殺齋藤道三,此事得到了西美濃有力國人「美濃三人眾」的支持。 齋藤道三在鶴山布陣與義龍對峙,此時道三的女婿織田信長也帶兵渡過木曾川和飛驒川,在大良(岐阜縣羽島市)的戶島、東藏坊布陣,試圖支援岳父。20日,義龍的部隊向長良川南岸移動,道三也率軍下山,沿北岸移動,兩軍開始正面交鋒。由於國人眾的支持,此時義龍擁兵達17500餘人,道三卻只能動員到2700餘人。 交戰開始,由於兵力上的優勢,義龍軍決定先發制人,由家臣竹腰道鎮發起突擊,然而對手雖然兵力處於劣勢,但統帥者畢竟是美濃蝮蛇、久經沙場的齋藤道三,道鎮雖勉強將道三本陣沖亂,然而最終在道三的從容指揮下,道鎮的第一波進攻還是敗下陣來,道鎮本人則當場戰死。 眼看首戰敗北,義龍決定親自帶兵渡河。此時義龍軍中長屋甚右衛門向道三軍發起單挑,道三手下柴田角內應戰,兩軍對峙的場面,形勢千鈞一髮。混戰在所難免,然而道三的軍隊終因寡不敵眾而瓦解。另一方面,義龍料到織田信長會派兵前來支援道三,所以早已部署兵力在木曾川岸邊阻攔織田軍。 道三最終被義龍手下長井忠左衛門道勝活抓,由小牧源太刺傷道三小腿使其不能逃走,又收繳其兵器,之後發生長井道勝與小牧源太爭功的小插曲,最終小牧源太割下道三的鼻子為證,以下克上而成為大名的道三,最終也因下克上而死。 長良川之戰的勝利鼓舞的義龍軍的士氣,鑒定完道三首級後,織田軍的動向引起了義龍的注意,義龍軍向大良河灘移動,兩軍便激戰於此。織田方面的山口取手介和土方彥三郎戰死,義龍軍中的千石又一則被森可成刺中膝蓋而撤退。雙方互有傷亡,戰局陷入膠著,然而織田軍終究還是收到了道三已兵敗身死的消息,已然無心戀戰的織田軍最終在當時的新式武器——鐵炮的掩護下渡河撤退。 上任之初,義龍首先清剿了道三餘黨,其中也包括了後來甚為有名的竹中氏和明智氏。當然,義龍的目的也並非單純的報復敵對,竹中家和明智家此前在國內仗勢欺人的行為早已引起不滿,清剿主要是為以後家中的團結鋪平道路。 接著義龍又在美濃推行了以貫高製為基礎、以安撫國人為目的的一系列政策,同時引入家臣合議制(宿老制),將權力分化,這些政策有別於道三時期的高壓集權統治,緩和了國內各勢力之間的矛盾。 之後為了避開弒父的污名,同時為了加強統治,義龍在擔任大名之初便改姓一色氏。此舉得到當時的征夷大將軍足利義輝的首肯。至於為何改姓一色氏,則有非常深遠的政治目的。首先義龍之母深芳野據說為足利一門丹後一色氏大名一色義遠之女(也有說是一色義清之女),而一色義遠曾任尾張知多郡和海東郡守護之職,這給義龍討伐織田家無形中提供了一個微妙的大義名分。其次,義龍不單自己改姓一色,還把自己的家臣團桑原、安藤、日根野、竹腰等都全改為一色氏國人之姓,包括延永、伊賀、氏家、成吉等,這次集體改姓攀親不單鞏固了自己的家臣團,同時提高了自家的地位和名聲,密切了本家與室町公方的聯繫,實為一舉多得之策。 在針對織田家的計略方面,由於道三在臨終之前送了一封信給信長,大意是說信長不必發兵援助,美濃就作為女兒齋藤歸蝶的嫁妝送給織田信長了。因為道三之死使信長與義龍間的衝突急速增加,為了先發制人,義龍拉攏反信長同父異母的庶兄織田信廣一同對付信長,覬覦織田家家督之位的信廣很快就倒向美濃的義龍,兩人約定由義龍佯攻信廣鎮守的守山城,然後信廣向信長求援,趁信長出兵居城清洲城防守空虛之際加以奪取。沒想到此計被信長看穿,他按兵不動穩守不出,令義龍和信廣大失所望,就在義龍命令齋藤軍退回美濃後,信長卻突然出兵攻打織田信廣,信廣戰敗降伏。 這次失敗讓義龍更堅定了他打倒信長的決心,為了在日後的交戰取得先機,齋藤義龍成功策反北尾張犬山城城主織田信清倒戈,義龍此計之精妙絲毫不亞於道三,尤其是他挑撥離間利誘信清反叛的手段與眼光更有乃父之風。犬山城歸入了齋藤家,那他就可以讓稻葉山城、北方城、大垣城和犬山城組成半月形包圍住清洲城。難怪連道三也在給信長的信中稱讚他用兵技巧十分精純。 永祿元年(1558年),義龍被冊封為治部大輔;永祿二年(1559年)被任命為足利幕府相伴眾,獲得戰國大名的名分。之後預測到織田家和淺井家的日後將形成的威脅,義龍決定與南近江的六角家結盟,並於永祿四年(1561年)年初,應六角義賢之邀聯合攻擊淺井家,然而帶病出征的義龍終究不敵當時風頭正勁淺井長政,聯軍在美影寺川戰敗。 同年,義龍得了當時無葯可醫的絕症—癩病(麻風病),在被加封為左京大夫不久後病歿,時年三十五歲,葬於美濃常在寺。 出處#1 http://www.twwiki.com/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E7%BE%A9%E9%BE%8D 出處#2 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89

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