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國司元相 Kunishi Motosuke(1492年-1592年) 國司有相之子、母不詳、正室為渡邊勝之女、繼室為桂廣澄之女;別名助六,官位右京亮、飛驒守。 元相擔任毛利元就的嫡子毛利隆元的傅役,因此獲得隆元的信任。天文九年(1540年),尼子詮久(尼子晴久)帶領大軍進攻毛利氏領地,包圍吉田郡山城。史稱為「吉田郡山城之戰」,元相在青山土取場奮勇抵抗,並一人討取尼子氏34員武將,為擊破尼子方立下大功。 天文十一年(1542年),隨著父親有相的死去,繼承家督。同年,支配毛利氏的戰國大名大內義隆,意圖籍著尼子氏在吉田郡山城的潰敗而乘勝追擊,開始對尼子領地的侵略。雖然成功包圍尼子氏的本據城.月山富田城,但是,尼子氏策動部分從屬大內氏的國人眾倒戈,例如吉川氏,三澤氏等。元相進行危險的撤退戰,雖然受傷,畢竟還是成功撤退。 天文十九年(1550年),毛利元就肅清家老井上元兼一族,而且建立五奉行制。元相與赤川元保、粟屋元親、桂元忠、兒玉就忠一起成為五奉行的成員,天文二十四年(1555年),元相參與毛利氏和大內氏之間的嚴島之戰。 永祿三年(1560年),正親町天皇即位,元相作為毛利氏的使者上洛,同時會見室町幕府將軍足利義輝,被將軍賜予槍之鈴。 翌年,元相與兒玉就忠共同攻破石見國松山城。永祿十年(1567年),元相把奉行職位讓給嫡子國司元武。 天正十九年(1591年),以一百歲的高齡逝世。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E5%8F%B8%E5%85%83%E7%9B%B8
安見直政 Yasumi Naomasa(生年不詳-1571年?) 大和国人越智氏の家臣・中村圓賀の子で、安見氏の養子に迎えられたといわれる。軍記物などの史料では直政(なおまさ)とされているが、古文書で確認できる名は宗房である。当初は大和国人である鷹山弘頼と共に行動しており、山城上三郡に影響を及ぼしていたことから、当初は木沢長政の配下にあり、太平寺の戦いの前に細川晴元方に転じ、その後畠山家に仕えたと推測されている(弓倉弘年・小谷利明らの研究による)。 天文21年(1552年)に畠山家を牛耳っていた遊佐長教が暗殺されたことに伴い、宗房は河内の実力者萱振氏や野尻氏を謀略によって滅亡させ、更に長年の協力者であった鷹山弘頼も殺害、畠山高政を守護に擁立し丹下盛知とともに家中の実力者となった。また滅ぼした野尻氏には息子を養子として入れ、野尻宗泰と名乗らせている。 なお、宗房を守護代とするのは「足利季世記」などの後世の軍記にしか見られない。「天文日記」では畠山氏における宗房の地位は遊佐・丹下・走井といった重臣層に比べて、少なくとも本願寺からは明らかに格下として扱われており、いくら宗房に力があるとはいえ守護代になれる家柄ではなかったと思われる。(代わって守護代になったと伝えられる湯川直光についても同様)。小谷利明氏の見解ではこの時期に守護代に近い立場についていた人物として遊佐太藤の名が挙げられている。 天文22年(1553年)の13代将軍足利義輝と三好長慶の対立の際には三好方に属し丹下盛知と共に援軍に赴いている。永禄年間には狭山池の治水工事を計画している。しかし、主君高政との対立が徐々に表面化し、永禄元年(1558年)には高政が紀伊に出奔。翌永禄2年(1559年)8月、三好長慶の援助を受けた高政と戦いこれに敗北し大和に没落する。しかし高屋城に戻った高政はやがて長慶と不和になり、翌3年(1560年)5月には和睦して復帰する。以降は高政に従い、永禄3年での三好氏との戦い(敗北して高政と没落)や、久米田の戦い・教興寺の戦いにおいても協力している。 将軍義輝が暗殺された永禄の変が起きた際には、早々に義輝の弟である覚慶(足利義昭)の擁立の支援を求め、越後国の上杉謙信に畿内情勢を報告するなど、幕府のために働いた。またこの頃から遊佐姓を名乗るようになっている。三好三人衆と松永久秀が対立すると、高政・秋高兄弟と共に久秀に味方し河内復帰を目論むも敗れている。義昭が織田信長に擁立され上洛し将軍に就任すると、高政・秋高と共にこれに従い、ようやく河内へ戻った。また「言継卿記」によればこの際に幕府奉公衆に取り立てられたという 永禄12年(1569年)、遊佐信教と共に高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、再度高政を追放したとされるが、弓倉弘年氏の指摘によるとこの追放劇は「足利季世記」などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。義昭上洛以降は高政・宗房共に河内支配に関わる形跡が少なくなり、それぞれ穏便な形で秋高・宗泰に家督を譲り在京していたのではないかと思われる。 また元亀2年(1571年5月に交野城にいたところを松永久秀に誘殺されたとされるが、この際に殺された人物は「安見右近」としか書かれておらず、宗房と同一人物かは疑わしい。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A6%8B%E5%AE%97%E6%88%BF
宮本武藏 Miyamoto Musashi(1584年?-1645年) 新免無二之子、養子為三木之助、伊織;幼名弁助、弁之助,別名藤原玄信、新免武藏守、新免玄信、新免武藏、宮本二天,戒名二天道樂居士。 在『五輪書』中,武藏自述在13歲初次決鬥戰勝「新當流」的有馬喜兵衛,16歲擊敗但馬國剛強的兵法家秋山,21歲赴京都,與來自各國的兵法家交手,從13歲到29歲,決鬥60餘次,沒有一次失手。 慶長五年(1600年),武藏自稱隸屬於宇喜多秀家的新免氏武士,以西軍身分參加關原之戰;然而從黑田家之文書(『慶長七年・同9年黑田藩分限帖』)記載著武藏父親新免無二在關原之戰以前是在東軍的黑田家仕官,因此在關原之戰中武藏也很有可能同父親一起侍奉當時豐臣家的黑田孝高,在九州作戰。 『五輪書』中記載「21歲赴京都,與來自各國的兵法家交手,沒有一次不成功的」。從天正十二年(1584年),武藏出生推算的話,赴京應是慶長九年(1604年)。在『新免武藏玄信二天居士碑』(小倉碑文)記載「扶桑第一之兵術吉岡」,應是指吉岡流一門。而武藏與吉岡兄弟決鬥的故事,則在各文藝作品間廣傳至今。 武藏的決鬥事蹟中,最廣為人知的莫過於「岩流島決鬥」,也就是在慶長年間在長門國(今本州山口縣下關市)的舟島(浮在關門海峽上的岩流島),與岩流的兵法家佐佐木小次郎對決的故事。大部份人認為武藏在這次決鬥中戰勝佐佐木小次郎,但實際上決鬥的經過、勝敗、甚至武藏的對手到底叫什麼名字,不同資料的記載亦有不同,仍然有待查證。 大阪之役(大阪冬之陣與大阪夏之陣)之中,武藏以豐臣軍名份參戰的故事,實為稗官野史詄聞毫無根據之誤傳。實際上武藏是以水野勝成的客將以德川軍名義參陣之。與水野勝成的嫡長子水野勝重(水野勝俊)活躍的戰蹟,亦在數個歷史文獻中記載。 之後武藏在姬路城主本多忠刻的交涉下,參予明石的町割(都市計劃),以及姬路、明石等城寨、寺院的修築建設。根據『海上物語』,武藏也在這個時期和夢想權之助(神道夢想流祖師)在明石進行決鬥比試。 元和初年(1615年),武藏收水野家臣中川志摩助的三男,中川三木之助為養子,並推薦三木之助出仕姬路城主本多忠刻。然而三木之助卻在寬永三年(1626年),為本多忠刻亡故而殉死。於是武藏只好在三木之助死後,收播磨武士侍田原久光的次男伊織成為養子。宮本伊織後來出仕明石城城主小笠原忠真,在寬永八年(1631年),年僅20歲時便成為小笠原家的家老。 寬永十五年(1638年),島原之亂爆發,小倉城主小笠原忠真與恃從伊織出陣鎮壓之,武藏與忠真外甥中津城城主小笠原長次也參陣其中。從島原之亂後從武藏寄給延岡城主有馬直純的書信中,寫著「我不會再被石頭打到」的紀錄看來,武藏有被當時島原一揆軍投石擊中而負傷。另外,在小倉寄宿之中,武藏依忠真之命與寶藏院流槍術的高田又兵衛(高田吉次)比武。 寬永十七年(1640年),武藏受熊本城城主細川忠利邀請移駐熊本城。門人7人每人分給18石共300石之俸祿,並在熊本城東部的千葉城武家一處房捨供居住之,武藏更破格可參予以往只有家老身分方可參予的獵鷹活動。細川忠利也邀請武藏和同樣客人身分的足利道鑑(尾池義辰?,足利義輝遺孤),3人依同前往山鹿溫泉。但隔年細川忠利猝死,其第二代藩主細川光尚同樣給予300石的待遇對待之。『武公傳』的武藏弟子士水(山本源五左衛門)記載:『士水傳紀錄:武公肥後的門弟、為首有太守長岡式部寄之、澤村宇右衛門,其他如御家中、御側、外樣、與陪臣、輕士共千餘人』入門武藏門下。在教授劍術兵法之餘,則以繪畫與製作工藝作品流傳至今。 寬永二十年(1643年),武藏登上九州肥後岩戶山(今熊本市附近),並閉居山下的靈岩洞,開始執筆撰寫『五輪書』。另外,在武藏死亡之前數日,武藏則把二書『獨行道』與『五輪書』合稱為「自誓書」並授與弟子寺尾孫之允。 正保二年(1645年)武藏於千葉城的武士居所死亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%97%8F
小笠原貞慶 Ogasawara Sadayoshi(1546年-1595年) 小笠原長時的三子、妻為日野輝資的養女;受長尾景虎偏諱「虎」字,初名貞虎;後改受三好長慶偏諱「慶」字,名為貞慶。 與父親長時一同被武田信玄驅逐出信濃後,也是投靠三好長慶。之後,永祿十一年(1568年),在織田信長尊奉足利義輝之弟.足利義昭上洛時侍奉信長。 天正三年(1575年),織田信長與武田勝賴在三河國長篠激戰,徹底擊潰武田的騎馬軍團。據說戰前貞慶一直催促往信濃出兵。另一方面,信長讓貞慶擔任對東國諸大名的外交役,與佐竹氏、田村氏、小山氏等進行交涉。作為室町幕府的守護家,貞慶的貴族血統得到信長很高的評價,其在外交官一職上也發揮重要的作用。 貞慶在織田政權的存在,後來也得到德川幕府的認可,並被任為司職儀禮的高家。天正九年(1581年),在織田信長為昭顯自己雄霸天下的御馬大會上,貞慶作為公家眾的一員也參列在其中。就這樣,在織田氏政權之下,貞慶已經從守護大名(武家)實質上轉變成公家(朝臣)。不過,貞慶也一直沒有放棄復興小笠原氏的志向。 天正十年(1582年),織田信長發動武田討伐軍,收復府中。但是,小笠原氏原領地的安雲・築摩兩郡還有深志城被分給在武田氏經略中立過功的木曾義昌,失意的貞慶投靠三河的德川家康。六月,信長暴斃於本能寺後,族中的小笠原貞種在得到上杉景勝的援助下,將木曾氏驅逐出深志城。而貞慶則在家康的幫助下將貞種趕回越後;收復夙願已久的府中。之後,貞慶將深志改為松本,在信濃史上留下自己的足跡。 翌年,當上松本城主的貞慶將自己的長子.小笠原秀政作為人質交給德川家康;與德川氏的麾下關系也得到鞏固。期間,貞慶通過安堵(領地所有權的確認)和布施等方式收買小笠原舊臣和諸寺社的人心;並對反貞慶的日岐・會田以及同族的赤澤氏等地域領主進行武力討伐;平定安雲・築摩兩郡。在以家康的麾下關系為基礎上,將自己的領域支配權向前推進。不久後,家康與豐臣秀吉關系緊張,並在小牧・長久手展開合戰。貞慶應家康的要求,攻擊秀吉方的上杉氏控制下的青柳・麻績兩城還有木曾氏所在的福島城,牽制上杉・木曾氏。 後來,發生了德川家康的重臣.石川數正誘拐做家康人質的貞慶之子秀政,出奔到豐臣秀吉帳下的事件。貞慶借此機會也做出脫離家康,與秀吉簽訂盟約的舉動。這也就是貞慶企圖通過臣服即將天下統一的秀吉,為小笠原氏將來謀取安泰的賭博。接著,小笠原氏掉轉槍頭,把家康方的保科氏擊退至伊那高遠城。然而,天正十四年(1586年),秀吉與家康和好,並任命家康統管關東。同時,又將信濃的小笠原・木曾氏等劃歸家康麾下;貞慶的政治賭博也立馬跟著輸個精光。就這樣,貞慶的獨立國主的立場被納入秀吉所推進的近世封建社會軼序當中,作為戰國大名的小笠原氏的歷史即將落下帷幕。 天正十七年(1589年),貞慶再次加入德川家康的麾下,並向家康示好,將家督之位讓給長子秀政。接著,又將家康長子-已故岡崎信康之女迎娶為秀政的正室,努力修復與家康的關系,並借此使小笠原家得以列入德川譜代眾之中。在貞慶的努力下,德川幕藩體制期間豐前小倉藩領十五萬石的譜代大名小笠原氏成立。 隨後,長子秀政跟隨德川家康的關東移封,受領下總古河三萬石。貞慶也移居至古河,於文祿四年(1595年)死去,年50歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/2637567.htm
小笠原長時 Ogasawara Nagatoki(1514年-1583年) 小笠原長棟的長子、母為浦野彈正忠之女、正室為仁科盛能之女;幼名豐松丸,號湖雪齋。 小笠原氏為甲斐源氏的加賀見遠光的次子長清,長清因賴朝的推舉而補任為信濃守,居於甲斐國中巨摩郡小笠原村,以地為姓,始稱小笠原。 天文十四年(1545年),長時就任小笠原家總領職。長時接替父親後,拉攏曾經長期互相對抗的諏訪氏;共同對付甲斐的武田氏。天文年間的信濃國,處於以小笠原長時為首,南佐久的平賀氏、諏訪的諏訪賴重、西築摩的木曾義康、埴科的村上義清並存的群雄割據之勢。當時的信濃國裡沒有一個強力、統一的勢力。 另一方面,甲斐的武田氏由武田信虎實現甲斐國內統一,並開始走向擴張國土的道路。從享祿元年(1528年)開始,武田信虎一直不斷的往鄰國的信濃出兵。天文十年(1541年),武田晴信(武田信玄)在將父親武田信虎放逐到駿河並繼承家督之後,等來了信濃攻略的機會。看到武田氏家督交替,小笠原長時、村上義清、諏訪賴重、木曾義康等信濃四將,企圖先發制人,壓制武田信玄;往甲信國境出兵一萬六千。之後,被武田信玄的八千兵所擊退。翌年,與長時等一同采取過軍事行動的賴重,遭到武田信玄的入侵,於桑原城降服。被押送至甲斐後自刃,諏訪氏滅亡。 天文十四年(1545年),武田信玄進攻信濃,在高遠城降服高遠賴繼後,進而入侵長時的妹夫藤澤賴親所在的福與城。此後,長時雖然支援籠城而戰的藤澤氏,無奈軍事上處於劣勢,城破之後藤澤氏投降;伊那也被分割為南北兩部份。這樣一來,小笠原氏的支配領域,在武田氏的不斷入侵下,逐漸被蠶食。 天文十七年(1548年),信玄在上田原敗於村上義清,隨後村上義清與長時等反武田勢力趁勢入侵武田氏支配下的諏訪。但是,在諏訪地下人(官方)的反擊下,長時負傷撤兵。同年七月,諏訪部份國人眾向武田氏舉起反旗,長時作為後援,往鹽尻嶺出兵。在甲府接報後,信玄緩緩行軍,將到達諏訪的時間從本來的兩天拖到八天。看到武田軍行動遲緩,小笠原方過於麻痺大意,隨後被信玄奇襲。 大出意外的小笠原軍連具足都來不及穿好,就被殺得七零八落。盡管如此,長時也算身經百戰,仍將自己瀕臨崩潰的軍隊重新整編,展開防守。然而,激戰正酣的時候,早已經暗通信玄的小笠原後軍西牧・三村等人突然叛變。小笠原軍頓時全線崩潰,長時潰逃回本城。 武田信玄隨後全力追擊,於村井城布下先陣,繼續追討小笠原一族。天文十九年(1550年)七月,長時逃出據點林城,投奔村上義清。驅逐小笠原氏後,武田氏拆毀林城,在阪西氏的居城修築深志城,任命馬場信春為城代,向「則信府歸武田信玄掌握」的府中經略前進。從林城逃出的長時投靠村上義清,不久後義清在戶石之戰裡擊破武田軍。在村上氏的支援下,長時也企圖奪回府中,於安雲郡冰室布陣。但是之後由於義清撤兵等原因,小笠原氏未能如願地挽回頹勢。 後來,長時在數度失地收復的戰斗中都宣告失敗。天文二十一年(1552年)六月,無法進退的長時被武田軍圍困在中塔城。據說長時曾下決心最後拼死一戰,在京都見仁寺保留下來的長時的戰勝祈願的布施中就有所記載。但是在拒絕武田信玄勸降之後,長時為東山再起,又再次破城逃往越後;並懇求越後的長尾景虎(上杉謙信)出兵攻打信濃。由此,引發戰國史上著名的上杉謙信與武田信玄的「川中島之戰」,牽動兩家大名的政治利害。 之後,長時來到京都寄於三好長慶門下,侍奉將軍足利義輝,並被賜予河內高安的領地。三好氏是阿波小笠原氏的後裔,據說當時長慶曾鄭重的迎接與本家血脈相承的長時。但是,長慶於永祿七年(1564年)病死。翌年,松永久秀與三好三人眾暗殺將軍義輝。為逃避這場京都政變,長時再次投奔越後的上杉謙信。 天正六年(1578年)上杉謙信病死後,長時離開越後,最後寄食於會津的蘆名盛氏門下。 天正十年(1582年)長時的三子.小笠原貞慶恢復大名身份。翌年,長時準備回歸時遭到家臣坂西勝三郎暗殺,客死異鄉,年七十歲。 出處#1 http://baike.baidu.com/view/2637567.htm 出處#2 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%99%82
尼子義久 Amago Yoshihisa(1540年-1610年) 天文9年(1540年)、出雲国の戦国大名・尼子晴久の次男として生まれる。弟に倫久・秀久がいる。幼名は三郎四郎、のち室町幕府13代将軍・足利義輝より偏諱(足利将軍家の通字である「義」の字)の授与を受けて義久と名乗る。なお一説によれば、播磨国赤穂の尼子山城にて一時城代を任されていたというが、詳細は不明。 永禄3年(1560年)12月、父の晴久が急死により家督を継ぐ。未だ毛利氏との石見大森銀山を巡る争いが終結していなかった中での晴久の急死であったため、尼子家臣団の動揺もあって月山富田城内に密葬することとなる。また新宮党粛清による有力な親族衆が殆どいない状態で当主を継承するといった状態であり、更には尼子氏から追放・粛清処分を受けるなど抑圧されてきた国人衆の不満が一挙に噴出し始めていた。 その後、毛利氏は晴久が急死したことを察知し、再び石見国への侵攻を開始する。これに対して義久は父の採っていた毛利氏との石見銀山を巡る対決路線を変更し、室町幕府の仲介により和平をすすめようとしたが、毛利元就はこれを利用して逆に尼子氏の攻略を画策し、和平の条件として石見国への不干渉を申し入れた(雲芸和議)。この条件を義久が了承したため、元就の狙いどおり尼子氏を頼みに毛利氏への反乱を起こしていた福屋氏が孤立し、また福屋氏へ軍事援助を行おうとしていた本城常光、牛尾久清、多胡辰敬らの石見に駐屯していた尼子家臣や温泉英永など尼子方の国人も不利な立場に立たされることとなった。この行動が尼子勢力の崩壊に繋がっていく。一方で、当時の九州大大名であった大友宗麟と同盟関係を結び、毛利氏の軍事力を二方面(大友氏に周防国への侵攻を促すなど)に分散させている。 永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、温泉英永、牛尾久清は出雲へと退却し、雲石国境の刺賀岩山城は毛利氏の攻撃により落城して、城主・多胡辰敬は自刃した。また赤穴氏や三沢氏などの西出雲の有力国人衆は雪崩を打って毛利方へと転じた。この情勢を契機として、毛利元就は出雲へ侵攻を開始し、永禄6年(1563年)8月には松田氏が守備する白鹿城が毛利軍によって落城し、熊野城も抵抗虚しく陥落した。この出雲侵攻において、尼子十旗を守備する赤穴氏・三沢氏・三刀屋氏などの国人衆が殆ど戦わずして開城したのに対し、一部の国衆は毛利元就に対して頑強に抵抗している。これは父・晴久の影響力や中央集権化が未だ完了していなかったことの証左であり、尼子内部に生じていた内紛や不満によって国人衆をまとめることが出来なかったことも示している。 永禄7年(1564年)には伯耆江美城の落城により、尼子氏の糧道がほぼ押さえられ、尼子方の美作江見氏・三浦氏家臣牧氏・後藤氏とも容易に連絡が取れる状況ではなくなり、事実上月山富田城は孤立してしまう。永禄8年(1565年)からは遂に月山富田城を包囲された(第二次月山富田城の戦い)。毛利軍は富田城へ総攻撃を開始したが、城の守りは堅く城兵の士気も旺盛で、損害ばかりが増えたため、攻撃を中止し兵糧攻めに切り替えた。富田城内では次第に兵糧が欠乏し、士気が衰えるなか、尼子氏累代の重臣亀井・河本・佐世・湯・牛尾氏が毛利軍に降伏する。さらに永禄9年(1566年)に宇山久兼(宇山飛騨守と思われる)を義久が謀反の疑いにより誅殺するなど、城内は混乱の極みとなる。 同年11月28日、義久は月山富田城を開城を決意。毛利元就に降伏する旨を伝えると、元就は三男小早川隆景・次男吉川元春の順に義久の身柄を安堵すると記した血判を送り、これにより月山富田城が開城。富田城が陥落したことにより、出雲国内で抵抗していた尼子十旗の城将達も、次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺に幽閉している。これによって、大名としての尼子氏は滅亡した。 その後、義久は天正17年(1589年)、毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、安芸志道に居館を与えられた。慶長元年(1596年)、長門阿武郡嘉年の五穀禅寺において剃髪、出家して友林と号した。 慶長15年(1610年)8月28日、長門で死去した。享年71。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E7%BE%A9%E4%B9%85
岩成友通 Iwanari Tomomichi(生年不詳-1573年) 三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。姓は石成とも書く。通称は主税助。 別名に長信(ながのぶ)とも言い、元亀元年から「長信」の名乗りを使用している。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である。 友通の出自は不明とされる。室町時代の多くを通じて細川氏の支配下であった大和石上神社の摂社に「石成神社」があることから、大和出身ではないかという見解がある他、備後国品治郡石成郷といった地名があることから、それらの土地の土豪との関係を推察されることが多い。『史略名称訓義』には「岩成古〔原文ママ〕通」に註して「主税助と号、種成と名く、備後国岩成荘住人岩成蔵人正辰の男」と記される。また、京都郊外の西九条の下司を務めていたが、やがて三好氏に臣従したともされる。『東寺百合文書』所蔵の三好元長の家臣塩田胤光が発給した文書に「岩成」の名字が見える他、同所蔵の文書には、下司の「岩成」が西九条の荘園を押領したという記述も見られる。今谷明は「阿波出身でないのは確実」と断言しており、いずれにしても、松永久秀と同様に畿内で登用されたと思われる。 史料における初見は天文19年(1550年)であり、北野社の大工職の相論において、照会の役を務めていることが確認される。翌天文20年(1551年)11月には、堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席している。その後は三好長慶の下で奉行衆として仕えた。永禄元年(1558年)の将軍山城占拠に参戦(北白川の戦い)しており、この従軍が軍事行動における友通の初見とされる。永禄5年(1562年)に六角義賢が京都に侵入した時は室町幕府13代将軍・足利義輝の警護を行った。 長慶の死後、三好三人衆の1人(他の2人は三好長逸、三好政康)として甥の三好義継の後見役を務めた。永禄8年(1565年)の足利義輝暗殺(永禄の変)をはじめ他の三人衆と行動を共にし、松永久秀や畠山高政としばしば戦った。 また永禄9年(1566年)には、土豪の中沢満房、革嶋一宣らの立て籠もった山城勝竜寺城を攻め落とすと、友通は敵対した土豪達を厳しく追及、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出し、手に入れた土地の多くを新しい領主に与えた。同時に勝竜寺城を居城とし、山城西部の西岡を支配した。これは、勝竜寺城を拠点に西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される。また、勝竜寺城も、戦の際に土豪が立て籠もる施設程度であったものが、友通が入城・整備して拠点とすることで、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった。友通はそうした点から、勝竜寺城の「最初の城主」とも評される。 永禄10年(1567年)に1万の軍勢を率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲を受けて敗北(東大寺大仏殿の戦い)。翌永禄11年(1568年)に織田信長が上洛してくると、三好長逸、三好政康、篠原長房らと連携し、それまで敵対していた六角義賢と手を組んで強く抵抗したが、守城の勝竜寺城を攻撃され退去した(勝竜寺城の戦い)。しかしこの際、他の畿内の城が抵抗らしい抵抗もせずに降伏してゆく中、友通の籠る勝竜寺城と池田勝正が籠る摂津池田城だけは強硬に抵抗した。これは、友通による支配が一定の奏功をし、土豪達が彼の元に結束していたことの証とされる。敗退の推移について、『多聞院日記』『言継卿記』によれば、永禄11年9月27日に友通は信長に抵抗して勝竜寺城へ籠城したとあるが、9月29日には落城している。言継卿記の翌永禄12年(1569年)の1月8日の記述によれば、勝竜寺城には細川藤孝が入城している。友通が勝竜寺城主であったこの時期には、光源院から勝竜寺城主である友通に礼物が送られていたことが「光源院文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月は未詳となっている。永禄12年1月に信長の庇護下にあった義輝の弟・足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退された(本圀寺の変)。 この後、信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると(信長包囲網)、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。しかし、天正元年(1573年)、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方(番頭大炊助、諏訪飛騨守)の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内(おりつ ごんない)と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い)。享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と推定している。また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した。 三好長逸は行方不明となり、三好政康は既に死去していた。結果、三好三人衆は完全に崩壊した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%90%E5%8F%8B%E9%80%9A
島津實久 Shimazu Sanehisa(1512年-1553年) 島津忠興之子,其母出身肥後相良氏,正室為祖父島津成久之女即實久姑母,繼室為川上忠克之女,島津義虎之父。幼名初千代,統稱太郎三郎、八郎左衛門尉、薩摩守,戒名昌嶽源久大禪伯。島津薩州家第五代當主。 父親忠興為島津薩州家第四代當主,薩州家盤踞薩摩國出水(現鹿兒島縣出水市),實久與薩摩守護同時是島津宗家當主的島津勝久對立,並不斷向勝久施壓迫使其讓出當主之位。然而其做法有些嚴苛過頭,勝久把家督讓給了島津家庶家伊作家的伊作貴久(島津貴久)。實久便把勝久趕到豐後國,然後盤算著消滅貴久和其父島津忠良,進而把家督之位完全掌握在自己手中。 作為應對,島津忠良在天文六年(1537年)5月上旬與實久進行會談,並提出「川邊、加世田賜予我伊作家,鹿兒島、谷山、伊集院、吉田獻給薩州家,並尊實久為守護,從此兩家結為魚水之交」,然而實久不為採納。從此展開了拉鋸戰。然而實久在天文八年(1539年)的加世田之戰與市來之戰接連被忠良父子擊敗,此後的紫原之戰等敗仗連連,最後降於島津貴久,隱居在出水。薩州家家督由子島津義虎繼承(諸地名見注一)。 天文二十二年(1553年)閏1月上洛拜謁室町幕府13代將軍足利義輝,返程途中發病,同年7月7日在返回出水兩周後去世。 然而,近年的研究顯示島津勝久與重臣間存在政治對立,實久的行動不能簡單定性為叛亂,而是被反勝久派的宗家重臣擁立為新當主,天文四年(1535年)至六年(1537年)存在這麼一個時期:實久作為宗家當主,握有守護職並統治島津氏領國。這之後擁立勝久的島津忠良展開反擊控制了鹿兒島所在的薩摩半島,收編了北薩摩的國人眾入來院氏和澀谷氏等,切斷了川內與鹿兒島的交通使實久陷入困境。由於直到實久死去都沒有他向島津忠良、島津貴久父子表示歸順的記錄,因而推測實久到死都在島津氏當主忠良、貴久父子交戰,死前的上洛也是對抗貴久的一系列行動的一環。(另參見島津實久、島津義虎條目) 注一:川邊:現屬鹿兒島縣南九州市。加世田:現屬鹿兒島縣南薩摩市。鹿兒島、谷山、吉田、紫原:現屬鹿兒島縣鹿兒島市。伊集院:現屬鹿兒島縣日置市。市來:現屬鹿兒島縣市來串木野市。川內:現屬鹿兒島縣薩摩川內市。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=8#postid-227 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%9F%E4%B9%85
島津義久 Shimazu Yoshihisa(1533年-1611年) 島津貴久的長子、母為入來院重聰之女.雪窗夫人、正室為島津忠良之女(姑母).花舜夫人、繼室為種子島時堯之女.圓信院殿:幼名為虎壽丸、通稱又三郎、法號龍伯,初名與祖父同名為忠良,後受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義辰,後改名為義久。 天文二十三年(1554年),島津氏與薩摩國、大隅國的國人眾蒲生範清、祁答院良重、入來院重嗣、菱義重豐的巖劍城之戰為義久的初戰。 弘治三年(1557年),蒲生氏降服、永祿九年(1566年),父親貴久隱居,義久繼承家督,成為島津家第十六代當主。 永祿十二年(1569年),相良氏驅逐菱義氏、元龜元年(1570年),東鄉氏、祁答院氏降服,島津氏成功統一薩摩國。 在島津氏統一薩摩國之前,因為日向國的領土真幸院的歸屬,與日向國的大名伊東義祐關系惡化。元龜三年(1572年),伊東義祐指派重臣伊東祐安率兵3000進攻島津家領地。義久的弟弟島津義弘率領不到300人迎敵,義弘在木崎原設下伏兵,引誘敵人進入包圍圈,陣斬伊東軍總大將伊東祐安,斬首五百餘人,這場木崎原之戰被認為是九州版的桶狹間。 島津氏隨後開始統一大隅國的步伐。天正元年(1573年),禰寢氏降服。翌年,肝付氏和伊地知氏降服,義久成功的控制大隅國。 天正四年(1576年),義久在高原城之戰成功擊敗伊東義祐,義祐被迫投靠豐後國的大名大友宗麟。義久成功的控制日向國,達成三州統一。 天正六年(1578年),大友宗麟率軍43000向島津家領地日向國發起攻擊。宗麟滯留在務志賀(延岡市無鹿),而由田原紹忍擔任總大將。大友軍包圍島津方的島津家久與山田有信的城池。義久則率軍30000多人出擊,在高城川與對岸的大友軍對峙。大友軍因為缺少宗麟坐鎮,將領之間發生不和。加上大友軍為宣傳天主教四處搗毀佛像、毀壞佛寺,大失民心。大友軍將領田北鎮周擅自進攻島津軍。無秩序的攻擊使得島津軍有機可乘,義久以「釣野伏」的戰術,擊敗田北鎮周後過河,以伏兵攻擊混亂中的大友軍。大友軍慘敗,傷亡無數,主要將領大部分陣亡。 天正九年(1581年),肥後國人吉城的相良氏降服。 耳川之戰後,肥前國的大名龍造寺隆信由於大友家的衰落而逐漸抬頭。在龍造寺隆信的壓迫下,島原半島上的大名有馬晴信不得不向義久請求援軍。義久在天正十二年(1584年),派遣島津家久作為總大將前往島原,聯合有馬軍共計8000多人大敗超過25000人(一說60000人)的龍造寺軍。是役,隆信戰死。自此,龍造寺氏一蹶不振,最終被重臣鍋島氏取而代之。 沖田畷之戰後​,肥後國的隈部親永、隈部親泰父子,築前國的秋月種實,築後國的筑紫廣門,或降或和。翌年,肥後國的阿蘇惟光降服。九州島的大部分大名從屬於島津氏之下,只剩下大友氏仍在頑強抵抗。此時,已成為關白的豐臣秀吉向九州各大名發出交涉書信,命令九州各勢力停止戰爭,服從豐臣政權領導。 義久無視豐臣秀吉的停戰命令,繼續向大友氏的領地發動攻擊。天正十四年(1586年),島津忠長、伊集院忠棟率軍2萬,將大友軍高橋紹運的居城巖屋城攻下。隨後義久命令島津義弘向肥後國攻擊,在日向國方面由島津家久擔當大將向豐後國攻擊。不過義弘在直入郡的眾城攻略上耽誤時間,同時家久攻陷大友鶴賀城。此時,大友軍的援軍,由仙石秀久、長宗我部元親、長宗我部信親父子、十河存保率領的豐臣聯合軍先頭部隊6000人在九州島登陸。島津家久在戶次川之戰大敗豐臣聯合軍,聯軍損失近4000人,主將長宗我部信親、十河存保戰死。 天正十五年(1587年),豐臣軍的先鋒豐臣秀長率領毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家聯軍15萬餘人在豐前國登陸。隨後,豐臣秀吉率軍10萬在小倉城登陸。豐前、豐後、築前、築後、肥前、肥後諸大名和國人眾紛紛投降豐臣秀吉。島津義弘和島津家久在根白阪合戰中失敗後,豐臣聯軍隨後向薩摩國進軍。 在聯軍的緊逼下,義久決定在鹿兒島剃發出家,道號龍伯,家督由弟弟島津義弘繼承,並派遣伊集院忠棟在川內泰平寺會見豐臣秀吉,正式降服於豐臣政權。 九州征伐後,島津氏保住薩摩國與大隅國的領地,島津義弘掌握島津家的軍事權,但是領地內實權仍然由義久所控制(所謂的「雙殿體制」)。因為義久沒有兒子,所以將自己的三女龜壽嫁給島津義弘的次子島津久保,並指定久保為其繼承人。 文祿元年(1592年),島津義弘第一次參加豐臣秀吉對朝鮮的出兵(文祿之役)。島津氏重臣梅北國兼聯合田尻但馬守、伊集院久信等率軍二千,打著討伐豐臣秀吉的旗號,進攻肥後國的八代城和佐敷城,史稱「梅北一揆」。起義遭到肥後國人吉城城主相良氏的鎮壓。隨後,義久命參與此事的三弟島津歲久切腹。 文祿二年(1593年),島津久保在朝鮮病死,義久命女兒龜壽再次下嫁給島津義弘三子島津忠恆,並指定忠恆為繼承人。 文祿三年(1594年),石田三成受豐臣秀吉之命對島津家領內進行土地丈量。完成後增加日向國為島津家領地。義久移居大隅國富隈城,領有大隅、日向兩國。 慶長元年(1596年),豐臣秀吉命島津義弘再次出陣朝鮮(慶長之役)。 慶長四年(1599年),豐臣秀吉病死,文祿慶長之役結束。島津義弘成功返回領地。 慶長五年(1600年),因在朝鮮的戰功,五大家老會議一致決定增加島津家封地5萬石。同年,島津忠恆設計暗殺伊集院忠棟,伊集院忠真舉兵反抗,不久被平定,史稱「莊內之亂」。 慶長五年(1600年),關原之戰,島津義弘受小西行長之邀,加入西軍。島津軍從中央突破德川軍本陣後,由於其它陣線被相繼突破,不得不撤軍。 戰後,島津忠恆上洛拜見德川家康,表示對德川家的臣服,使島津家免於改易。 慶長七年(1602年),義久正式讓位於養子島津忠恆後隱居,然而他們兩人的關系卻非常惡劣。義久對忠恆提出的進攻琉球的計劃表示強烈的反對。 慶長九年(1604年),大隅國國分城(舞鶴城)建成後,義久移居此城。 慶長十六年(1611年)3月5日,義久於國分城病逝,年七十九歲。 出處 http://b.baidu.com/view/90367.htm
島津義虎 Shimazu Yoshitora(1536年-1585年) 島津實久的長子、母為島津成久娘・上ノ城、正室為島津義久之女.於平、側室為入來院氏之女;幼名初千代,初名晴久,終改名為義虎,戒名大通玄廣庵主。 其父實久為薩州家第五代當主。自室町幕府12代將軍足利義晴處拜領偏諱起名晴久,在義晴死後將名字改為日語中讀音相同的陽久。 其父實久圍繞薩摩守護之位與伊作家的島津忠良、島津貴久父子對立,而義虎卻對伊作家保持著恭順的態度。實久敗於忠良父子,只得隱居在出水。此時義虎娶島津義久的長女於平為妻嘗試和解,以後臣從於伊作島津家即島津宗家。然而,有一說其父實久至死都在與伊作家鬥爭,至實久死後義虎才臣從於伊作家。 義虎雖然臣從於繼承了島津宗家的伊作家,卻經常獨自採取一些行動。永祿六年(1563年)上洛拜謁第13代將軍足利義輝,再次拜領一字,把名字從陽久改為義俊,後改名義虎。另外以東鄉的領主東鄉重治(大和守)偷了義虎家臣湯田兵庫成重秘藏的名犬為導火線,兩邊起了爭端,自天文十六年(1547年)持續爭執長達二十年,多次兵戎相見。後來在永祿八年(1565年)3月,義虎派遣叔父島津忠兼(注一)攻略肥後國天草的長島。此事的背景是義虎在天文二十三年(1554年)庇護了被相良晴廣趕出長島的長島鎮真。忠兼擊殺了代替鎮真擔任長島領主的天草越前守。長島成為了薩州島津家的領地。 永祿十年(1567年)守備羽月城以提防肥後相良氏。永祿十二年(1569年),相良氏殺害了島津方派去講和的使者,聯合菱刈氏舉兵進攻島津氏,義虎從所防禦的羽月城撤退,逃回了本領出水。島津義久對此事大為光火。後來的天正六年(1578年)高城川之戰時駐守出水城以防相良氏呼應大友氏來犯。天正九年(1581年)擔任相良氏討伐的先鋒,最終消滅相良氏。 天正十二年(1584年)3月,在對龍造寺氏的沖田畷之戰也從軍立功。 自從將軍足利義輝拜領「義」字一事可以看出,義虎在島津一門當中有著僅次於宗家當主島津義久的地位,領地除出水之外還有高城、水引、山野,祿高合計3萬1905石。 天正十三年(1585年),死去,年五十歲。 注一:島津忠兼:薩州家四代當主島津忠興之子,島津實久之弟。永祿八年3月24日(1565年4月24日)受義虎之命出征肥後國天草郡長島,並成為長島一代的領主。而忠兼的領主才做了三個月,因天草越前守的遺臣對此懷恨在心向義虎進讒言,被義虎叫回出水殺害。其妻女在獲知消息後亦自殺。此後長島天災不斷,皆言是忠兼作祟。義虎見狀不得不建立若宮神社以慰靈。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=6#postid-184 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E8%99%8E
德川家康 Tokugawa Ieyasu(1543年-1616年) 松平廣忠的獨子、母為水野忠政之女.於大之方、正室為今川義元養女.築山殿、繼室為豐臣秀吉異父妹.朝日姬、側室為正木賴忠之女.養珠院、戶塚忠春之女.西鄉局等等;幼名竹千代,別名次郎三郎,受今川義元偏諱「元」字,初名為松平元信、元康,後改名為德川家康,尊稱大御所。 人質時代 出身於三河松平氏,自稱南北朝新田義貞的後人,新田一族的世良田親氏娶三河松平鄉的國人眾在原信重的女兒,改名松平親氏,為三河松平之祖。 父親廣忠時,松平氏位於今川與織田兩強大大名之間,且父系家族偏今川家,母系水野氏偏織田家。出身讓家康幼年充滿矛盾與危機。2歲時,母系家族首領水野忠政病逝,由水野信元繼任,信元隨後投向織田家,但其父廣忠則帶家康投向今川家,並被迫與於大離婚。6歲時,遭父親繼室之父戶田康光出賣被織田家奪為人質。8歲時,父親廣忠遭織田收買之叛徒殺死,之後今川家打敗織田家,又將家康奪為人質用以控制岡崎城。 永祿三年(1560年),今川義元為上洛,引軍進入尾張與首當其衝的織田軍交戰,家康參與該戰役,並擔任先鋒,負責突襲丸根城,並且取得丸根城守將佐久間大學的首級。不過今川義元於在戰役期間因為大意輕敵受到織田信長的奇襲(即桶狹間之戰)遭到其部下毛利新助和服部小平太梟首,其後家康返回岡崎城,原本尚未打算從今川氏從屬中獨立,不僅不斷出兵騷擾織田氏的領土並且攻打織田氏的城寨,同時頻頻上書給義元之子今川氏真,討伐織田信長,為今川義元復仇雪恥。然而今川氏真的無能使得駿河國內的政情越來越紊亂,有不少今川氏的老臣紛紛出走或逃離,使得家康終於意識到今川氏是確定走向敗亡的路途。 松平獨立 家康與織田信長締結的軍事同盟清洲同盟,又稱為織德同盟、尾三同盟,為左右日後日本歷史發展的重要同盟,是戰國時期許多盟約中締結雙方恪守諾言最好、維持時間最長的一個盟約。永祿五年(1562年)家康接受織田信長的私下求和,在兩國將軍隊撤離邊界與釐清彼此的國界之後,信長邀請家康前往尾張的清洲城締結盟約。 清洲同盟後,永祿六年(1563年)又爆發遍布西三河全境的一向一揆,當時家康的部分家臣加入一揆軍,包括本多正信及三方原之戰中慷慨赴義的夏目吉信,這是家康人生中的第一個大危機,這對當時只領有三河半國的家康是動搖國本的戰爭。經過家康近半年的苦心征戰,最終用攻心的方法將其瓦解。就這樣,岡崎周邊地區不安要素被掃除。從此,家康開始推動對今川氏的攻略。拉攏東三河的戶田氏和西鄉氏這樣的國人眾的同時,軍隊向東推進,消滅鵜殿氏一樣的敵對勢力。永祿九年(1566年)平定東三河、奧三河(三河國北部),統一三河國。 同年,從朝廷得到從五位下、三河守的任命。不久,家康自稱松平氏是清和源氏族新田氏的支流得川氏之末裔,並把「得川」改為「德川」,並於永祿十年(1567年)得敕許,改姓德川。又把從今川義元拜領到的「元」字改為「家」字。這就是後世熟知的德川家康名字的由來。 和戰武田 永祿十一年(1568年),甲斐國的武田信玄開始侵略駿河今川的領地(駿河侵攻),武田信玄遣使至岡崎拜會家康,協議兩家出兵消滅今川氏,並約定戰後以大井川為界,以西歸松平氏,往東屬武田家,史稱大井川會盟。酒井忠次代表家康以割讓遠江國為條件而與武田氏結成同盟,呼應駿河侵攻。同年年底,在武田大破駿府城後家康軍攻克今川領遠江國的曳馬城。永祿十二年(1569年)駿府城失守後,今川氏的新居城掛川城又遭到包圍。氏真本固守城池,在籠城戰的最後,家康進行開城勸告的呼籲,氏真終於投降。自此家康開始支配遠江國。今川氏遭到覆滅的命運,今川氏真也被放逐。從此家康又多獲得廿多萬石的領地,同時提高三河在諸大名眼中的地位。元龜元年(1570年),家康將治所遷往曳馬城,改名濱松。 家康東進的同時,信長也邁出統一全國的第一步。永祿十一年(1568年),織田信長奉室町幕府13代將軍足利義輝的弟弟義昭行上京之途,家康也向信長派遣援軍。當足利義昭以信長包圍網的外交及戰略包圍織田信長時,企圖以副將軍一職來說服家康,然而家康拒絕足利義昭並繼續協助織田信長。元龜元年(1570年)織田氏和德川氏聯軍在姊川(今滋賀縣長濱市野村町附近)與淺井氏、朝倉氏對壘,史稱「姊川合戰」(日語:姊川の戰い)。此戰,德川軍以少勝多擊敗朝倉軍,又配合織田軍擊敗淺井軍,立下大功。 元龜三年(1572年)10月,信長包圍網的參與者之一武田信玄動員兩萬五千人意圖進軍京都(上洛),途經家康的遠江國。當時的家康無論是兵力、戰略以及實力也比不上信玄。起初信玄剛剛入侵遠江國時家康向信長求救,但由於忙於對付近畿一帶的反信長勢力,信長沒有派遣援兵並寫信建議家康放棄遠江退回三河。但是家康並沒有採納信長的建議,也沒有立刻出兵與武田對決。隨著遠江北部的城池一座座被信玄占領(一部分被攻破,另一部分投降),二俁城成為信玄的下一個目標。家康由於等待信長的援軍而沒有救援二俁城,但是當佐久間信盛率領的織田家援軍到達時二俁城已經陷落,家康的居城濱松城暴露在武田家的面前。當武田軍行軍至濱松城北面時突然掉轉方向北上三方原,德川軍亦尾隨至三方原,於同年十二月二十二日下午,兩軍已經在三方原完成布陣。由於雙方兵力懸殊,且用兵之妙信玄又略高一籌,兩軍交戰至下午六時時德川、織田聯軍大敗,織田援將平手泛秀戰死。此戰德川家死傷一千六百餘人,眾多家臣戰死,家康曾一度想要切腹。其部下分四批陸續扮成家康吸引信玄軍兵力,家康本人最終在家臣的拚命保護下突圍逃回濱松城。史稱三方原會戰。傳說家康遭武田軍山縣昌景追擊時,曾嚇到拉褲子。他讓人當場繪下自己愁苦的樣子,作為日後激勵之用。該畫像稱為「顰像」。至於武田信玄則繼續西征,但攻下野田城後突然折返,原因是信玄病重不久病逝。武田信玄死後,織田信長同年先後消滅室町幕府以及朝倉義景和淺井久政,淺井長政父子。整體上威脅織田和德川的勢力暫時結束。戰國大勢趨於統一,而家康一面與武田氏對抗,一面加強領內建設。 天正二年(1574年),武田信玄死後繼承武田家的武田勝賴率25,000大軍攻打高天神城,家康等待織田軍的增援,不過在增援到達前,高天神城已經被攻下。天正三年(1575年),武田勝賴率一萬五千人再次攻擊德川的領地長篠城,守方奧平信昌僅用500兵死守一段時間。同年5月,德川氏聯合意欲一口氣掃平武田氏的織田氏於長篠設樂原大破武田勝賴。織田信長命令士兵一人帶一把木柴,紮成一道柵欄,用3000火槍兵輪番出擊,射死上千武田氏騎兵。雖然兩軍死傷甚多,不過武田軍損失多名大將,間接使武田家衰退,是為長篠之戰。 天正七年(1579年),有謠言說家康正妻築山殿(本名叫瀨名姬,出生於駿河庵原郡瀨名鄉,關口親永之女,母親是今川義元的妹妹,血緣上即是今川義元的甥女)聯合兒子信康(家康嫡長子)欲倒向武田家,以及築山殿和信康對待其妻德姬(織田信長次女)態度惡劣。因此信長下令家康立刻處決築山殿以及信康,最後築山在流放途中被家臣刺殺,信康則是切腹謝罪。 天正十年(1582年),織田和德川攻打武田領地,首先是木曾義昌背叛武田家,接著信長和家康和後北條氏政分三路攻擊武田的根據地,武田家臣則開始大量倒戈,導致織德北三方聯軍只花一個月就殲滅武田家。勝賴在天目山將武田家第二十代家督的身分傳給嫡子武田信勝,完成信玄的遺願後,與妻子切腹自盡。家康因其戰功,被信長增封家康駿河一國。信長頒布武田狩獵令,即任何與武田有關的人都要撲殺(武田氏家臣穴山梅雪因投降信長免遭處罰),家康則暗中命令井伊直政招降並藏匿武田家的遺臣(此即後來在小牧.長久手之戰大放異彩的井伊赤備隊),與織田信長殺害遺臣有所分別,而江戶時代的武田氏族幾乎是家康在此時所藏匿的。 秀吉時代 天正十年(1582年),消滅武田氏的勢力後,家康被信長招待到安土城,部下嫌料理難吃(大多說法是信長嫌光秀招待不周,魚蝦有腥臭),信長當場懲處主辦人明智光秀。6月2日,明智光秀突然謀反,以迅雷不及掩耳之勢包圍京都本能寺,信長被迫自焚,史稱本能寺之變。信長一死,圍繞政權落入誰手的問題各大名之間展開激烈鬥爭。本能寺之變時家康正在界市(又稱「界港」,現位於大阪府中部),因急取近道需經伊賀返回三河,期間由服部半藏正成、茶屋四郎次郎清延等護送平安回到三河,才免遭危難,後稱「神君伊賀穿越」。此時羽柴秀吉在山崎之戰(又稱天王山之戰)擊敗明智光秀。明智光秀逃亡至時小栗栖被專門獵殺落魄武士的農民刺殺。 同年,家康在平安回到岡崎後,乘機發兵進攻統治空窗期的武田舊領,與同時窺伺武田舊領的北條氏發生激烈衝突,期間依田信蕃、真田昌幸的奇襲作戰成功的截斷北條軍的補給線,北條軍在將上野與佐久郡僅有的軍力投入後亦無法挽回頹勢,尤其關東平原的佐竹義重此時又開始蠢蠢欲動,使北條終於決定與德川講和。10月29日締結和議,內容如下:一、氏直迎娶家康之女督姬。二、甲斐、信濃歸家康所有,上野則放任北條侵吞,互不干涉。戰爭至此告一段落。 本能寺之變後,羽柴秀吉迅速趕回並成功打敗明智光秀和政敵柴田勝家之後,成為織田家家臣中,最具威望和實力之人。而此時,織田信長次子織田信雄亦日益感受到秀吉對他的極大威脅。於天正十一年(1583年),與家康聯合,對抗羽柴秀吉。天正十二年(1584年)3月,秀吉挾其在山崎、賤岳兩戰皆勝之餘威號稱約12萬5千餘名大軍準備開戰。當時德川軍加上信雄兵力,總數約6萬餘人,處於劣勢。於是家康在經過深思熟慮之後,所採用策略是:取內線集中優勢兵力以主動攻勢為原則,且視時機而動。3月28日家康急行軍抵達小牧山和自長島趕來的織田信雄軍一起集結布陣。秀吉軍遠道而來,師勞兵疲,兵力雖多,但德川軍防守嚴密,不敢貿然進攻,於是採用池田恆興所建議之迂迴戰術(另一說為其養子三好秀次所建議),派2萬大軍意圖直接攻擊德川居城三河岡崎城,使德川軍軍心動搖,不戰而敗;且小牧山地勢孤立,如果軍隊繞至小牧山後,來個前後夾攻,德川軍必敗無疑。而家康早已得到情報,並在必經之路長久手谷地設伏,池田軍大敗。當秀吉趕來救援為時已晚,戰爭於是陷入僵持階段。由於長期交戰,軍兵疲憊,再加上家康又遲遲不與秀吉就此一戰之後的善後情勢表達其和談條件。羽柴秀吉與織田信雄單方面進行和談。自此之後,家康即在戰略上陷入孤立態勢。12月,家康基於政治及戰略考量下將次子於義丸(結城秀康)送與秀吉作養子,臣服於羽柴秀吉。 天正十三年(1585年)德川氏和北條氏雙方達成分割武田家遺領的協議。可當家康要求當地領主真田昌幸歸還沼田城給北條氏時,真田以此地為我故有支配而拒絕,並與敵對關係的上杉氏友好。同年7月,回到濱松城的家康得知真田昌幸謀反,立即於8月派7千兵力開赴上田城,而真田軍兵力只有1千5百人。8月2日德川軍進攻二丸遭受猛力反擊而撤退,在撤退期間同時遭到上田城城兵的追擊和來自砥石城的側面攻擊,德川軍因而陷入混亂,在追擊戰中矢澤城的士兵同時出擊。結果在神川,德川軍多數的士兵溺死。真田軍憑藉的地形之利使德川軍戰死達1千3百人,而己方只損失40人。不久真田方得知上杉軍派出增援部隊,28日德川軍開始撤退。大久保忠世諸將還留在城內打算奮力一拼。但是11月德川的譜代重臣石川數正出奔到豐臣家,至此德川軍完全放棄,全軍退出。此戰在《真田軍記》和《三河物語》都有記錄。真田昌幸因此被評為擁有優秀智謀的武將,也因此,家康對真田氏評價頗高,故改採懷柔政策,將本多忠勝女兒本多小松嫁給昌幸長子信之。 天正十七年(1589年)後北條氏拒絕臣服豐臣家,於是豐臣秀吉下令全日本大名討伐北條。家康在支援戰線上有不少功勞,以家康為主力的軍隊從東海道向小田原進發,最終北條氏在小田原城被包圍一段時間後投降。關白豐臣秀吉就此統一日本。戰後家康轉封關東,領有相模國、伊豆國、武藏國、上野國大部、下野國小部、下總國、上總國(至關原之戰時,約為二百五十五萬七千石),改建江戶城為居城。家康移封關東之事一宣布,內藤修理亮清成便奉家康令,率領大谷庄兵衛、村田右衛門等人,正式接受城池。天正十八年(1590年)八月,家康踏上決定他後半生命運的江戶土地。 奪取霸權、關原之戰 慶長三年(1598年),豐臣秀吉病逝,繼承人是只有六歲的豐臣秀賴。豐臣秀吉於病逝前設立五大老和五奉行,家康為五大老首席。家康在秀吉病逝前,安排與部分大名進行婚姻,又在秀吉死後,私自分封領地;因此開始造成其他中老和奉行的不滿,尤以石田三成為甚,三成的行動惹來加藤清正、福島正則等人襲擊(文治、武鬥派鬥爭)。在家康安排下,三成在佐和山城隱居。家康繼續在伏見城及大阪城執行政務。 慶長四年(1599年)在大阪城祝賀豐臣秀賴時,家康察覺對自己的暗殺計劃,主謀者是前田利長、淺野長政、大野治長及土方雄久。大阪城內要求討伐前田利長的聲勢高昂。家康在準備出兵之際,前田利長將他的生母芳春院送往江戶城成為人質,事件得以平息。 不過,不滿家康的聲音並沒有減退,戶澤正盛匯報東北地方大名上杉景勝積極進行軍備,行動極不尋常,家康派遣使者要求景勝匯報甚至迫使上洛。上杉景勝沒有理會警告,其家臣直江兼續寫《直江狀》指責家康,家康看過後大怒,終在5月3日發表討伐上杉的宣言。雖然五奉行中的前田玄以、長束正家和增田長盛以及三中老的中村一氏及生駒親正要求中止出征,但家康決意行動,6月16日由大阪城出發,7月2日到達江戶城。 7月中旬,石田三成與部分支持豐臣家的大名開始有所行動,以打倒家康為目的,7月18日包圍伏見城,並開始進行攻擊。8月1日西軍攻下伏見城。7月24日家康在小山的時候,斥候匯報石田三成起兵的舉動。家康在7月25日進行小山評定,大部分的隨行大名支持家康的行動,並立即折返到江戶城。 8月家康回到江戶城,並派遣先鋒部隊在東海地方及東近畿地方交戰。家康在9月1日出發,9月14日到達美濃。9月15日雙方在關原交戰,最初的形勢對東軍不利,西軍逐步進迫到本陣;不過到中午左右,西軍的小早川秀秋受到德川軍恐嚇射擊後叛變支持東軍,形勢得以扭轉(也有論點認為小早川秀秋早就已經暗地和家康勾結,射擊不過只是反叛的信號而已)。最後東軍在此場戰爭取勝,自此權力落在德川家手中。 就任將軍、成立幕府 戰後,家康積極處理政務,調配大名間的領土,而且經常在京都活動。為成為將軍,他嘗試將德川氏的系譜改變(其實從「松平」改為「德川」時就早已改變)。慶長八年(1603年),朝廷中的使者到達伏見城,家康出任征夷大將軍,並創立江戶幕府,也稱為德川幕府,同年將千姬嫁給豐臣秀賴以示友好。慶長十年(1605年)家康退位給三男秀忠,被一般人稱為大御所。家康表面上在駿府城隱居,但實際上家康仍然掌握大權,在岡本大八事件和大久保長安事件之中均由家康作主導。 攻占大阪城 慶長十九年(1614年)方廣寺鐘銘事件中,家康藉口鐘銘內文有對自己不利的文句,嘗試迫使豐臣秀賴完全臣服;但是豐臣方擺出備戰的姿態:豐臣軍積極招募浪人,加強軍備,但卻沒有大名加入大阪方(除阿波的蜂須賀家政但被家督至鎮勸說,放棄舉兵),致使家康下令各諸侯準備攻擊大阪城。德川軍在11月15日開始進行攻擊,並步步進迫,迫使豐臣的軍隊撤回大阪城內,12月4日前田軍和松平軍擅自攻擊真田丸,遭到真田信繁的猛烈反抗,結果大敗。家康最終利用大炮直接攻擊大阪城,迫使淀殿(豐臣秀賴母親)提出交涉,雙方達成協議,大阪方面要求德川不得處分秀賴等參戰諸將,秀賴、淀殿不用前往江戶作人質,家康看似寬大的爽快答應,唯一的條件是:將大阪方面除本丸外所有外城一併拆除並且填平護城溝。至此大阪城成一座裸城,戰事暫告停止,稱大阪冬之陣。 慶長二十年(1615年),填平一切壕溝,拆毀二丸、三丸的大阪城形同空殼,家康見時機成熟再次出兵,而豐臣軍在這次戰役雖然積極迎擊,但是只剩本丸的大阪城比山砦還不如,德川軍在多處地方相繼捷報,最終迫近大阪城。但在天王寺岡山之戰中,家康一度陷入危機,真田信繁擊潰松平忠直帶領的一萬五千越後兵壓進家康本陣,導致家康旗本眾大崩潰,本陣倒退數裡後才穩下陣腳,這也是家康一生除三方原之戰外最狼狽的一戰,甚至一度考慮自盡,最後勉強逃出一命;同時德川秀忠在岡山戰鬥,亦因為過於突出,遭到大野軍的突擊陷入混亂,當眾將聞到家康有危險而作出救援,在兵力懸殊的優勢下,德川軍最終取得勝利,豐臣秀賴切腹自盡,遺兒國松在戰後不久被擄獲而處死,豐臣家正式滅亡,是為大阪夏之陣。 晚年 家康實行一國一城令和武家諸法度等政策,維持國家穩定。元和二年(1616年)1月,在一次出外獵鷹時突然腹痛倒下,從此臥病不起。3月21日獲朝廷贈獲太政大臣一職。4月17日,於駿府城病逝,年七十五歲,法名東照大權現,法號安國院。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B7%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
懸田俊宗 Kakeda Toshimune(生年不詳-1553年?) 伊達家臣。通称は三郎。陸奥国伊達郡懸田城主。 主君・伊達稙宗の娘を継室に迎え、伊達時宗丸入嗣問題では稙宗とともに入嗣の強行を図った。この入嗣問題を契機として起こった伊達氏天文の乱に際しても稙宗に加担し、稙宗の嫡男で俊宗には義兄にあたる伊達晴宗陣営と戦う。 この抗争は晴宗が稙宗を桑折西山城に幽閉したことが端緒であるが、俊宗は小梁川宗朝らによって救出された稙宗を居城・懸田城に迎え、乱の初期段階においてはこの懸田城が稙宗陣営の拠点となっている。このために晴宗や晴宗の岳父・岩城重隆らの軍勢に攻撃されたが、よく城を守り、天文13年(1544)前後には相馬顕胤らと共に稙宗陣営の中心となって伊具郡や伊達郡、信夫郡などに侵攻している。 この乱は天文17年(1548)に将軍・足利義輝の停戦命令で終息したが、その講和条件によって懸田城は破却された。この後も一定の勢力を保持するも、不満は払拭されずに晴宗に叛意を募らせたが、天文22年(1553)7月に長子・義宗ともども誅殺されて懸田氏は滅亡した。 出處 http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/KakedaToshimune.html

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