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足利義輝

三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?) 三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。 しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。 しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。 元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。 しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。 織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。 天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。 天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
三好政勝 Miyoshi Masakatsu(1536年-1632年) 天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。 戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。 やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に和泉の織田方の城を落したり、15代将軍足利義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く比叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている(『信長公記』『尋憲記』)。降伏によって信長から9月20日に摂津豊島郡をあてがわれた(『寛政重修諸家譜』)が、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した(『福地源一郎氏文書』)。 しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている(永禄以来年代記)。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西長信(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。 本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである(『太閤記』)。秀吉の死後は慶長5年(1600年)に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として1400石余を加増され(『寛政重修諸家譜』)、河内三郡の内で2020石を領した。その後は慶長9年(1604年)に因幡守に任官し、大坂の陣にも出陣し、戦場であった河内の案内に功績があったとして表彰され、鷹狩の許可を得た上茶器を与えられるなど厚遇された。徳川秀忠の御咄衆となり、寛永8年(1632年)に96歳の長寿を全うした。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D
三好政康 Miyoshi Masayasu(生年不詳-没年不詳) 三好三人衆の1人。初め右衛門大輔政生、続いて下野守政康と名乗る。後に出家し、釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)と名乗った。 続柄に関しては諸説あり、『続応仁後記』では「三好之長の次男の孫三郎頼澄」とされる。また、『三好別記』によると「三好之長の弟・勝時の子である政長の子」とあり、『狩野文書』の元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によると、一任斎こと政長の子・三好政勝に宛てた手紙の書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記され、下野守政康は政勝の兄と記されている。また『芥川系図』では「政長の子、右衛門大夫政勝の弟」とする。頼澄の子とする場合、兄は三箇城主三好政成とされる。 なお、政康という名は『細川両家記』の誤謬が伝播したものといわれ、他の一次史料などによれば本名は政生(まさなり)となっている。 はじめ細川晴元の家臣として仕え、一族の三好長慶と争うが、後に和解勧告に応じ臣従。長慶の勢力拡大に貢献し、弘治元年(1555年)の丹波八上城攻めや永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に参陣して武功を挙げた。長慶の死後は甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。おしどりを形どった花押を用いていたという。永禄8年(1565年)5月19日、他の三人衆と共に三好氏と対立する室町幕府13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。 しかし、次第に畿内の主導権をめぐり久秀と三人衆との関係は悪化。11月16日、三人衆は河内飯盛山城を襲撃し、義継の身柄を河内高屋城に移すと、義継に久秀との断交を約束させ、義輝の従弟の阿波公方の一族足利義栄を14代将軍に擁立し、三好氏の本拠地である阿波の篠原長房の協力を得ることにも成功した。12月下旬には義栄に御教書を発行させ、軍を久秀の本拠地大和に進駐させ、筒井順慶らを味方につけ久秀を脅かした。一方の久秀は紀伊に逃れていた畠山高政・安見宗房らを扇動して高屋城を襲撃させ、永禄9年(1566年)2月に河内において畠山軍は三人衆に決戦に及んだが、三人衆は2月17日の上芝の戦いで畠山軍に大勝、久秀は大和へ退却する。4月に三人衆は再び大和に侵攻したが、久秀は城を脱出し堺において味方の軍を結集して、再び高屋城を脅かした。そのため三人衆は義継の親征を仰ぎ、摂津の池田勝正や淡路の安宅信康の援軍も得て久秀の3倍の軍で堺に迫ったため、5月30日に久秀は戦わずして逃亡した。この時、阿波の篠原長房が足利義栄を擁し大軍を率いて兵庫に上陸すると、三人衆はようやく長慶の喪を発表して葬儀を実行し、長房の援軍も得て三人衆は畿内の反対勢力をほぼ一掃することに成功した。 8月23日には義栄を摂津越水城に迎え主君として遇したが、これが義継の不興を買い、永禄10年(1567年)2月に義継は出奔、久秀を頼って三人衆と敵対するようになり、三好康長らも三人衆から離反したため、久秀は復権し三好家は再び分裂抗争することになった。大和での東大寺の大仏の炎上事件がおきたのもこの時期の戦乱においてである(東大寺大仏殿の戦い)。しかし戦局は三人衆が有利で、東大寺での敗戦後から立ち直り久秀方の信貴山城を落とし多聞山城を包囲した。 永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、義継・久秀らが織田氏に接近する一方で三人衆は信長との敵対の道を選んだが、9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、政康も城主であった山城木津城から退いた。以後は石山本願寺や信長と不仲となった義昭らを巻き込み信長との抗争は激化したが、畿内での兵乱(元亀兵乱)が信長の優位で決着すると政康の動向は不明となった。死去した時期について、今谷明は消息不明になり没年すら定かではないとしている。一方で天野忠幸は、『二条宴乗記』における永禄12年(1569年)5月26日の記事から5月3日に阿波で死去したと指摘している。 なお、豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳という高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せいかい)という人物が政康の後身という俗説がある。また、講談に登場する真田幸村の部下の「真田十勇士」の1人である「三好清海入道」のモデルになったとされることがある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%BA%B7
三好義繼 Miyoshi Yoshitsugu(1549年-1573年) 十河一存的長子、養父為三好長慶、正室為足利義晴之女;幼名熊王丸,初名十河重存、繼承三好家,名為三好義繼。 義繼出繼三好本家的過程說法不一。一般認為是三好義興死後長慶無嗣才將義繼順理成章的過繼過來,這是順理成章的。不過據『十河家傳』所言,早在十河一存在世時,就已將義繼出繼給其兄三好長慶為養子,而以二哥三好義賢的次子為十河家的養子,這樣三兄弟之間的聯系便得以加深,而後一存又以義賢在阿波的強大軍力為後盾逐步控制贊岐全境。可以肯定的是一存在永祿四年(1561年)四月病逝之後,是十河存保進入十河城繼承十河家,並在其父三好義賢的授意下將居城遷到東贊岐的虎丸城,由此可見義繼出繼三好本家的時間肯定是在一存死之前,所以才無法繼承十河家家督。另外,義繼之所以能出繼到三好家,很大程度上是因為其母是公卿九條稙通的獨生女,而義繼由此便是五攝家的外孫,這種關系自然有助於長慶加強與公卿間的聯系,而對於正試圖掌控畿內的長慶來說,這是非常重要的,結合以上種種原因,義繼在十河一存病死前就過繼到三好本家,也是不難理解的。如果說是長慶主動要義繼過繼到本家,以加強一門眾力量也有很大的可能。 不過過繼與繼承根本就是兩回事,長慶已經有一個非常優秀的嫡子三好義興,讓義繼過繼過來,也只不過是希望他以後在義興身邊發揮義賢之於長慶的那種作用吧。義興在跟隨長慶奮戰畿內時已表現出優秀的才能,永祿四年(1561年)左右長慶已經開始在做著將家督之位讓給義興的准備。從永祿四年(1561年)到永祿六年(1563年)這一段時間三好家的政令,大都是由三好義興發布,松永久秀協助執行,長慶處於半退隱狀態。然而在永祿六年(1563年)八月22日,風華正茂的三好義興卻突然發急病死掉。關於他的死有人一般說是瘟疫,但更多的說法認為是被松永久秀毒死的,因為在這兩年多的執政過程中,義興的英明果敢與久秀的權力欲望不可避免的產生沖突。此事使長慶遭到最撤底的打擊以至幾近崩潰,而後便長期臥床不起。另一方面三好本家的繼承人之位便落到義繼身上,永祿七年(1564)六月22日,義繼被准許以家督繼承人的禮儀上洛,同行的有三好長逸、松永久通等家臣及廣橋大納言國光等公卿,隨行人數達到四千人。六月二十三日,義繼進見將軍足利義輝,得到繼承三好氏家督的正式許可。七月四日,三好長慶病逝,義繼正式成為三好家督,同時由重存改名為三好義繼。 永祿八年(1565)四五月間,三好義繼在松永久秀的陪同下率三好大軍再度上洛。五月19日上午,松永久秀與三好三人眾突然攻入二條城,殺害將軍足利義輝,顯然是得到義繼的許可。而後三好軍在京城橫行到七月份,才在七月五日歸國。從義繼繼任到此期間,松永一直擔任輔佐一職,操縱義繼的行事。十月份,三好三人眾與松永久秀在河內國發生沖突,十一月十六日,乘松永久秀在大和攻擊筒井順慶之機,三好三人眾從松永派的奉行人金山長信手中綁架義繼,並殺死長信,隨後脅持義繼對三好家內外發布義繼與久秀斷絕君臣關系的公告。從此三好家下轄畿內各國國人眾分為三人眾與松永兩派,開始長期混戰。在這一段時期義繼一直居於河內高屋城,處在三好三人眾的監視之下。 永祿十年(1567年)初,三好三人眾正忙於擁立平島公方足利義榮為將軍,乘此空隙,對三人眾一直不滿的義繼在奉行人也是叫金山某(可能與被殺死的金山長信有關)的安排下逃出高屋城,移據到界附近的材木町,受到池田氏保護,二月26日,與松永久秀達成聯合,而後便與久秀一起逃入大和,開始與三好三人眾的長期作戰。由於義繼在兩個勢力間的游移,河內、攝津的大小國人眾也開始反覆不定,而這也使得三好三人眾的立場變得可笑起來。而義繼之所以選擇松永,恐怕與松永毒殺義興的傳聞有很大關系,由於義興之死,義繼才得以繼承三好家,因此義繼對松永久秀不可能不報著一種感恩的心理。加上最初三人眾是以挾持控制義繼,足以使義興產生強烈的反感,在年輕人簡單的思路和個人好惡感影響下,義繼很自然的就投向松永久秀。然而他卻沒看到久秀笑臉下的反覆無常。 永祿十一年(1568年),信長擁代足利義昭入京,攻擊勝龍寺城兵力達到驚人的五萬之巨。受到強大威攝的義繼與久秀一起加入到支持義昭幕府的隊伍中,因為雙方有著共同的敵人,三好三人眾。第二年(1568年)一月,三好三人眾突襲足利義昭的住所,隨後義繼也率軍參加對足利義昭的救援,永祿十二年(1569年)三月五日,為表示感謝,足利義昭與三義繼一起放鷹,這也是當時莫大的榮耀。三月十六日,義繼與松永久秀一起參見信長,得到河內半國安堵的許諾。然而隨著信長對原三好領的全面侵入,義繼與久秀最終認識到最大的危脅就來自織田方,元龍二年(1571年)二月,松永久秀反叛信長,與三好三人眾達成和解,在此事表面上看義繼是保持中立的,實質上他卻一直與松永聯合行動。 元龜二年(1571年)年底到第二年年初這段時間,義繼與松永久秀一起致力於恢復畿內勢力,攻入之前倒向織田方的國人眾。元龜三年(1572年)四月,義繼與久秀從河內和攝津進攻敵對的細川昭元領地,八月份包圍昭元的居城中島城,年底,三好三人眾也加入對中島城的攻擊。第二年二月27日,中島城陷落,細川昭元逃往界。這一段時期正是武田信玄上洛的取得巨大進展,將軍足利義昭由此公然起兵反抗信長,並得到三好義繼的支持,究其原因,義繼當年救援義昭已使兩人結下深厚情宜,而義昭此後也用盡辦法籠絡義繼,甚至不惜將自己的妹妹嫁給義繼作後妻,一向以個人好惡決定立場的義繼自然而然的就站在義昭一方。此時三好三人眾也出現在支持義昭的隊伍中,可以說這是三好家內近十年來頭一次真正的聯合對敵,也許義繼已把這次支持義昭看成三好家再度興盛的契機吧。然而天有不測風雲,四月信玄於上洛途中去世,同月信長包圍義昭的二條城,義昭顯得不堪一擊,在交出人質後與信長講和,七月,義昭在宇治再次兵敗,二十一日,逃入義繼的居城若江城,八月二日信長軍攻擊澱城,三好三人眾中的岩成友通戰死。 十一月五日,足利義昭離開若江城逃往紀伊,十六日佐久間信盛與明智光秀攻擊若江,遭到義繼的頑強抵抗。在此關頭若江的三家老多羅尾右近、池田丹後和野間左吉聯手殺死被義繼委以處理庶政的金山駿河守,而後又打開城門引入佐久間信盛軍,其余各部織田軍紛紛殺入城內,最終包圍天守閣,在此情況之下三好義繼已經完全絕望,留下「憂世もこれまで」(對世間的憂慮到此為止)的辭世句,義無反顧的親手殺死妻妾子女,在最後時刻他終於展現出鬼十河之子的武勇,持槍殺入湧來的織田軍,親手刺死多名敵軍,最後終因體力不繼而以十文字槍切腹,結束游移反覆的短暫一生,年僅二十五歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/1128716.htm
三好義興 Miyoshi Yoshioki(1542年-1563年) 三好長慶的長子、母為波多野稙通之女;通稱孫次郎,初名慶興,受將軍足利義輝偏諱「義」字,改名為義長,後改為義興。 天文二十一年(1552年)元服。永祿二年(1559年)2月,義興與父親長慶一同上洛,謁見室町幕府第13任將軍足利義輝,並且出仕於足利氏。同年12月18日,義興獲義輝賜予其名諱「義」字,改名義長。 永祿三年(1560年)1月21日,義興獲任命為正五位下築前守。後來,長慶移師至河內飯盛山城後,便將攝津芥川山城交由義興打理。 永祿四年(1561年)1月28日,義興與松永久秀一同從正五位下升官至從四位下。2月1日,義興與父親長慶、松永久秀一同獲准使用足利將軍家的桐紋,並且獲任命為御供眾和相伴眾。 六角義賢進攻京都時,義興率領7000名士兵守於梅津,松永久秀亦率領7000名士兵在西院與六角氏交戰。雖然三好軍在這場戰事中不被看好,但是在11月松永久秀的反擊下成功擊殺敵將長原重澄,雙方對峙至永祿五年(1562年),隨著叔父三好義賢在與町山高政的戰鬥中戰死後,義興讓義輝前往男山八幡避難,自己則與松永久秀在山崎布陣。因此,六角軍一度攻佔京都,後來義興在5月下旬擊敗町山軍後,六角軍才撤出京都。6月22日,義輝重返京都後賞賜義興和松永久秀等人。 8月,伊勢貞孝在京都北山串同六角軍謀反,義興與松永久秀一同率領8000名士兵在9月11日將其擊敗。另外,義興素有教養,因此獲得將軍義輝和一眾公家的信任。 永祿六年(1563年)6月,義興病倒,雖然曲直瀨道三前往替其診症,但是病情惡化,最終在8月25日於芥川山城死去,年二十二歲,按『足利季世記』記載他是死於黃疸。 義興死後,其父長慶開始變得精神恍惚,最終在翌年亦死去。長慶死後,三好氏由義興的堂弟三好義繼繼承家督之位。 有些說法認為義興試圖鏟除松永久秀,從而被意圖取代主家的松永久秀毒殺,但是一手史料中沒有任何記載,顯示松永久秀暗殺義興。就算講述這些說法的『足利季世紀』和『續應仁後記』也說明義興被松永久秀毒殺只是傳言,未有斷言,二手史料和軍記物對於這項傳言亦多有懷疑,因此推測謠言是由嫉妒松永久秀擁有不遜於主家的實力的人散播出去。『續應仁後記』形容義興是治理天下之材,卻不幸英年早逝。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E8%88%88
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳) 三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。 続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。 また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。 こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。 三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。 永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。 しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
上杉定實 Uesugi Sadazane(生年不詳-1550年) 上杉房實之子、養父為上杉房能、姐為伊達稙宗之母.積翠院、正室為上杉房能之女、繼室為長尾為景之妹;法名玄清。 文龜三年(1503年)迎上杉房能的女兒為正室,成為房能的婿養子。永正四年(1507年)8月,守護代長尾為景率兵擊敗房能。翌年,定實於被為景擁立為守護,但實權在守護代為景手中,此時迎娶長尾為景的妹妹,宇佐美房忠向定實獻上名刀「宇佐美貞光」。 與長尾景虎(上杉謙信)有義理上的叔姪關係,長尾為景的妹妹為定實誕下女兒,後定實將其嫁給長尾晴景,為長尾晴景外父。 永正六年(1509年),受到上杉房能兄長.關東管領上杉顯定侵攻,敗走越中佐渡。翌年,得知上杉顯定軍不能掌握越後諸將的內情後,與長尾為景一同率領佐渡的軍勢反擊,在長森原之戰中擊殺上杉顯定。 永正十年(1513年)對於成為為景的傀儡感到不滿,聯合守護家家臣的宇佐美房忠、定滿父子、繼承上條氏的弟弟.上條定憲、以及揚北眾等諸勢力佔據春日山城並持續進行抵抗,不過最終失敗而被幽禁等,漸漸失去權威。後因上條定憲等人再度集結反為景勢力,為景被迫隱居。而繼承為景的女婿.長尾晴景比起其父為景軟弱,定實的部份權力亦一時間得到回復。 定實沒有子嗣,中條藤資向定實建議迎定實外甥.伊達稙宗之子時宗丸(伊達實元,母親為中條藤資之妹)為養子,藉此恢復實權,但是卻受到色部勝長、本庄房長等揚北眾的大力反對。更令伊達氏發生內訌(天文之亂),於是這次立養子的行動被中止,定實的計劃亦告失敗。 天文年間末期,黑田秀忠的反亂令到越後動搖,後上杉謙信代兄長晴景率兵平叛,謙信的才能得到定實和眾人肯定。 天文十七年(1548年),在晴景和謙信的鬥爭中擔任仲介,擁立謙信。晚年出家,法名玄清。 天文十九年(1550年)病死。定實死後,越後守護家亦斷絕,第13代將軍足利義輝命令謙信代行越後守護。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%AF%A6
上杉謙信 Uesugi Kenshin(1530年-1578年) 長尾為景的幼子、母為虎御前.青岩院、養父為長尾晴景、上杉憲政;幼名虎千代、初名長尾景虎;繼承上杉氏,名為上杉政虎;受足利義輝偏諱「輝」字,改為上杉輝虎;入道法名謙信,以「上杉謙信」之名為人所知。 天文五年(1536年)八月,父親為景進攻越中之前,預計到進程可能不會很順利,先將家督之位讓給長子長尾晴景。十二月,長尾為景在越中旃檀野與一向一揆作戰時中計敗死(另有病死說)。 為景一死,本來就不太平的越後國更加動蕩,各地豪強佔據一方,各自為政,儼然是個「小戰國」。當時謙信年僅七歲,穿著盔甲送為景下葬,國內的混亂可見一斑。按照室町時代武家的傳統習慣,沒有繼承權的幼子常常被送去出家。於是這一年謙信受戒於春日山麓的林泉寺名僧天室光育門下,學習禪與文武之道。 繼承越後守護代的長尾晴景,比謙信年長十八歲,是為景生前最疼愛的兒子。然而,晴景體質虛弱,沒有作為武將的統領之才,被國內的其它勢力所輕視。為緩和自己的窘境,天文十二年(1543年),晴景嘗試著讓十四歲的謙信協助強化統治權,入駐越後中部的栃尾城,在確保長尾家在越後中部領地的同時,牽制本庄繁長、色部勝長、中條藤資等敵對勢力。一開始,附近的國人眾們根本沒把這個少年放在眼裡。但謙信到城後,得到母親家的古志長尾氏和栃尾城代本庄實乃等人的援助,多次擊退敵對勢力的來犯,並很快將安田長秀、北條高廣、小河長資等國人眾收伏於帳下。在栃尾城的一系列作戰是謙信最初的戰爭經歷。天文十四年-天文十五年(1545年-1546年),守護上杉家的老臣黑田秀忠兩度佔據黑瀧城謀反,謙信代兄長晴景率兵平叛,表現神勇,最後依守護上杉定實之命消滅黑田一族。 謙信的聲望迅速壓倒晴景,國中漸漸有改立謙信為守護代的苗頭,這是晴景始料未及的。終於,難以容忍的兄長聯合上田長尾氏長尾政景、黑川清實等人,打出討伐自己弟弟的旗號。內戰中,謙信雖然兵少,卻以攻其不備之法大敗晴景軍。天文十七年(1548年)十二月,雙方由上杉定實做調解人達成和議:晴景引退,謙信作為晴景的養子繼承家督和守護代職,當時謙信十九歲。 天文十九年(1550年)二月二十六日,越後守護上杉定實病死。定實沒有兒子,守護家絕後。兩天後,將軍足利義輝承認謙信有白傘袋和毛氈鞍覆的使用權。這樣,謙信實質的國主地位得到認證。次年,一直不承認謙信地位的長尾政景降服於謙信麾下,越後長尾一族實現統一。天文二十一年(1552年),謙信被授予彈正少弼,從五位下的官位。 天文二十一年(1552年),上野平井城的關東管領山內上杉憲政抵擋不住北條氏康的攻勢,逃到越後求助於謙信。這成為謙信後來十四次進軍關東的起因。下一年,信濃的小笠原長時、村上義清、高梨政賴等來越後泣訴,請謙信幫助回復被武田信玄佔領的信濃領地。以謙信的性格,自無不允,當年八月就爆發對武田氏的第一次川中島會戰。是役雖然只是小規模的接觸,卻介紹謙信和信玄這對宿敵的相識,對其後整個戰國形勢的發展也造成不小的影響。 當年九月,謙信進京,為此前接受彈正少弼,從五位下的官位向皇室獻禮。後奈良天皇授予謙信天杯、御劍和「討伐對鄰國懷有野心之徒」的敕命。無疑,這等於給謙信攻擊武田、北條的名分。 然而,與進京的成功同時而至的是巨大的花銷,圍繞著這些費用的徵收問題在家臣中出現爭執。敏銳的武田信玄立即抓住這一機會。天文二十三年(1554年)十二月,越後刈羽郡北條城主北條高廣在信玄的煽動下自立,但三個月後就失敗投降。北條高廣是鎌倉幕府的名臣大江廣元的後人,越後國人中的實力人物,平日自負武略不遜於謙信,常懷異志。謙信待高廣卻顯得極為寬大,後來還讓他去上野廄橋城經略關東。十三年後的永祿十年(1567年),高廣受北條氏康支持再度謀反。然而越後和相模同盟時,謙信又一次饒恕高廣,依舊像從前那樣重用他。越後鬆散的主從關係由此亦可見一斑。 武田信玄幾乎沒有給謙信喘息的機會。緊接著在弘治元年(1555年)七月,因為締結三國同盟而無後顧之憂的信玄大舉進兵川中島,謙信亦駐軍於善光寺與之對抗。兩雄對峙一百五十多天,各自滴水不漏,互無建樹。最後由今川義元出面調停,議和罷兵,第二次川中島會戰結束。 收兵回國後謙信面臨的是一場內亂,有力家臣間的領土紛爭不絕。謙信被各種訴訟糾纏得心灰意冷,於弘治二年(1556年)三月在給自己的老師天室光育的信中留下「功成名就,急流勇退」的話,宣告隱退,欲獨自一人前往高野山(或說比睿山)出家。這一突如其來的舉動晴天霹靂般地令家臣們大吃一驚,宇佐美定滿和長尾政景二人慌忙召集重臣商議,以「景虎乃越後統合之中心,捨此無人可內服眾將,外御強敵」故,說服中條藤資,驅逐欲乘亂謀反的大熊長秀(大熊朝秀),極力懇請謙信復出。謙信趁機要求諸將提交聯合署名的起誓文書,並向春日山城送出人質。對此當然無人再敢表示異議。謙信的隱退可能只是一種計謀,但在內憂外患前,這出苦肉計式的隱退戲的確帶來強化家臣團統治的好結果。 從越後逃亡的大熊長秀到甲斐投靠武田信玄,上杉、武田間的和約至此破裂。弘治三年(1557年),武田軍進逼栃尾城,謙信親率大軍迎戰。素來以戰法穩健著稱的信玄極力避免打硬仗,只是以先鋒部隊作試探性的攻擊。信玄曾趁夜埋伏下騎兵五十和步兵三百,次日清晨故意放出三匹驚馬,意在誘使上杉軍奪馬而騷亂。謙信任由三馬在陣前狂奔許久,視若無睹。關於第三次川中島會戰的記載很不明確,大體上是沒有決戰就不了了之。 同年,關東管領上杉憲政再度逃到越後,將關東管領職、系圖、重寶等一起轉讓給謙信。為此謙信在永祿二年(1559年)第二次進京,由朝廷和將軍正式認許這一繼承。時值正親町天皇新立,同樣賜予謙信天杯和御劍。 永祿四年(1561年)3月,謙信以關東管領的名義,集合關東諸侯共計十一萬五千兵馬,討伐「逆臣」北條。北條氏康的居城小田原被大軍圍困逾一個半月,但絲毫沒有要陷落的跡象。同時,謙信在陣中收到北條的盟友武田趁虛進兵信濃的探報,無奈之下只得放棄攻取小田原的打算。謙信先順路去鎌倉,在鶴岡八幡宮舉行關東管領的正式就職儀式,接受上杉憲政的「上杉」姓和「政」字,改名為上杉政虎(同年十二月,受將軍足利義輝賜予「輝」一字,而稱上杉輝虎)。從鎌倉往越後的歸途中還攻取北條方的武藏松山城。 而武田信玄和決戰的機會,終於在永祿四年(1561年)夏的第四次川中島會戰中被謙信抓到。 謙信駐軍妻女山,與海津城的信玄對峙十日,雙方都有些一反常態:謙信雖然兵力只有信玄的三分之二,且已近缺糧,卻還是打打小鼓,哼著謠曲『八島』,悠閑地過著每一天;信玄在優勢兵力下毫無進展,採用軍師山本勘助的建議「啄木鳥戰術」,由高阪昌信、馬場信房、真田幸隆等率一萬兩千人的別動隊夜襲妻女山,信玄本陣八千人則守候於山前的八幡原。九月九日傍晚,在慶祝重陽佳節後,謙信照例在山頭遙望海津城,發現武田軍的炊煙比平時濃密,從而預感到武田的行動。九月十日天明,決戰的時刻到來,原來意圖守候伏擊的武田本陣遭受幾乎上杉全軍的突擊。據『甲陽軍鑒』載,當時有一位頭纏白絹,只露出雙眼的越後武士,騎馬突入武田中軍,揮刀直砍坐在折凳上指揮的信玄。信玄不及拔刀,只得以軍配團扇抵擋。第一刀使團扇碎裂,後兩刀砍傷信玄肘、肩部。信玄的近侍二十餘人急來救主,原虎義挺槍刺傷越後武士的馬屁股,馬驚而載著武士逃去。雖然『上杉年譜』說這位武士是謙信的「影武士」荒川伊豆守,『北越軍記』又說遭突襲的也是信玄的影武士,但民間依然傳說這是謙信與信玄的單挑。岌岌可危中的武田本陣因別動隊的及時來援而起死回生,後來豐臣秀吉評說道:「卯時至辰時上杉勝勢,辰時至巳時武田勝勢」。是役乃少見的惡戰,雙方均死傷慘重,戰後信玄一直迴避與謙信的正面對決。 三年後的第五次川中島會戰其實並未交鋒,雙方相持六十餘日,武田與上杉在信濃的拉鋸就這樣結束。信濃人口眾多、資源豐富,又沒有統一的勢力,自然成為武田擴張領地的突破口;而對於上杉來說,撇開道義上的原因,信濃也是越後聯絡關東的通道之一,更是保護越後安全的屏障。兩雄的爭奪在所難免。但是,正因為謙信與信玄棋逢對手,難解難分,二人把一生的過多時間耗費在信濃,錯過進取天下的大好時機,從而使織田信長的成功省不少力。這也許是川中島會戰最大的意義。 關於謙信的戰法之猛烈,後來在大阪戰役中表現神勇而得到德川幕府的感狀的上杉家臣杉原常陸說:「我等追隨謙信公時,歷大戰小戰不計其數,其酷烈無可相比者;縱不期生還之惡戰,亦未足得一感狀。今之戰猶如小兒投石打鬧,彷彿賞花遊山而得褒賞。」 永祿六年(1563年),北條氏康發兵五萬進攻武藏松山城。謙信率軍援救,未至,城已陷,遂移兵附近北條方的私市城。該城背依大湖,建於險要之地,難以卒拔。城的本丸臨湖,築得很高。謙信巡視時,見從本丸通往二丸的廊橋上張著竹簾,湖水中映出橋上站的一個穿素白單衣的人影。謙信三次見到這樣的人影,推測本丸中拘有不少作為人質的婦孺,就先令柿崎景家帶隊猛攻正門。待城內的注意力都被轉移到正門時,派人拆毀附近的民房,用柱子結成大筏投入本丸後的湖中,並故意發出很響的水聲,佯裝要從水路進攻。本丸的婦孺著實被嚇一跳,紛紛奪路逃向二丸。把守正門的兵將不明真相,見到本丸突然大亂,只道是城內有內應已佔據本丸,頓時無心再戰,自殺的自殺,投降的投降。謙信遂拱手而取此堅城。可見謙信用兵之機略。 在關東反反覆復的爭紛又持續好幾年,各方都沒有什麼大進展。永祿十年(1567年),武田信玄開始把矛頭轉向昔日的盟友今川,而三國同盟的另一端北條則站到今川一邊。為一起對付武田,北條氏康甚至與長年敵對的謙信和好並結成短暫的越相同盟。鑒於甲斐是內陸山國,而越後、駿河、相模都是沿海國,今川氏真建議三國共同停止向甲斐運鹽作為制裁。提議得到北條氏康的贊同,但謙信知道後卻說:「斷鹽而使甲州的民眾受苦,非有勇之人所為。勝負當在戰場上分曉,敵國之民亦人眾也,不可採取此等殘忍手段。」遂命藏田五郎左衛門運鹽往信濃深志的集市販賣。 元龜二年(1571年),北條氏康死,武田信玄與北條氏政重新結好後,攻德川家康於三河,開始他的進京作戰。織田信長與謙信締結同盟,謙信出兵信濃長沼,遙相聲援德川家康。時駐守信濃的武田勝賴部僅有八百餘人,勉強前來迎戰。謙信贊其勇,不欲以眾克寡,竟引兵退去。次年四月,武田信玄突然病死於進京途中。死前曾囑勝賴與謙信修好,並以為依託,由此可見其對謙信人格的肯定。謙信知信玄死,亦為之傷感,嘆道:「吾國之弓箭將不利矣。」隨即絕音曲三日,並遣使往海津城弔唁。有老臣進言趁機收復信濃,謙信以「乘人之危之舉,不齒為之」,未予採納。後武田勝賴違背信玄「死後三年不可出戰」的遺言,強行出兵,在長筱慘敗於織田、德川,元氣大傷,越後諸將復請乘虛進攻武田,謙信以同樣理由未准,至死不曾為難勝賴。 信玄死後,謙信與信長雖然還保持著表面上的友好,但決裂已只是時間問題。信長消滅室町幕府之舉使謙信認定信長是天下動亂的禍首,而被驅逐的將軍足利義昭也請求謙信進京再興足利家。從越後進京的道路是順著北陸道,經越中、加賀、越前至近畿。為此,謙信的軍鋒首先指向越中和能登。越中、能登原本都是守護畠山氏的領國,但能登的實權早已旁落入重臣遊佐氏、溫井氏、長氏、三宅氏等手中,形成所謂重臣合議體制。重臣之間明爭暗鬥,可是把畠山氏傀儡化卻是一致的。永祿九年(1566年),欲奪回權力的畠山義續、義綱父子被群臣逐出能登;繼承守護職的畠山義慶還只是個幼童,天正二年(1574年)也不明不白地死於變亂;其弟義隆上台後兩年就病死;群臣中勢力最大的長綱連索性扶立一個年僅兩歲的幼童為主。能登實際上處於極度混亂的無主狀態。至於越中,更早已是國人眾與一向宗勢力林立,其中不少以武田信玄為後盾。信玄進京的同時,謙信也曾出兵奪取越中的大部分地區。 天正五年(1577年),謙信平定越中最後的幾個據點,並順勢掃平能登除七尾城以外的所有地方。七尾城中群臣之首的長綱連與織田素有親交,一面閉城堅守,一面遣其弟長連龍向信長求援。九月,正在圍攻七尾城的謙信接到探報,以柴田勝家(一說為織田信長)為主帥的五萬織田大軍渡過加賀的手取川攻入能登。當時七尾城內已發生傳染病,許多士兵因而病死。十五日,倒向上杉方的遊佐續光、溫井景隆等發動叛亂,誅殺長續連、長綱連父子及其一族,七尾城在困守四十餘日後陷落。謙信隨即率三萬五千人馬迎擊織田軍。織田軍已在手取川前背水列陣,且人數佔優,但聞知七尾城已陷,謙信親自統兵前來時,竟畏其名而戰意盡失,乘夜撤兵。謙信隨後追擊,恰逢手取川漲水,織田軍難以渡回,登時混亂,在謙信的猛攻之下潰不成軍。戰後留在岸邊的織田軍屍體有千餘具,另外數倍於此的人淹死在河裡或被河水沖走。織田與上杉的第一次正面交鋒以慘敗告終。因為北條在關東有所動作,得勝後的謙信沒有乘勢進兵,而是退回越後。 翌年正月,謙信下達關東征討的總動員令。然而,謙信的生命也正隨著越後的積雪一起漸漸消逝。即將出陣前的三月九日,謙信突然昏倒於廁所,並失去知覺。謙信是戰國有名的酒豪,甚至騎在馬上也不忘飲酒,因飲酒過量而造成腦溢血。三月十三日,與世長辭,年49歲。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
上泉信綱 Kamiizumi Nobutsuna(1508年-1577年) 上泉秀繼(義綱)的次子,幼名源五郎,原名上泉秀綱,拜領武田信玄「信」字,改名為信綱。 永正五(1508)年,武藏守義綱的二兒子源五郎,在上野大胡城城外的同國桂萱鄉上泉城出生了。而上泉城舊址在現在的群馬縣前橋市附近。元服後的源五郎,便采用了秀綱。信綱的稱謂。在史書所記中,多以秀綱之名錄入。 而永正五年(1508年)的形勢,還在近畿流浪的前將軍義稙被細川高國,畠山尚順等迎入了泉州界,而前將軍義澄卻從近江追來,七月一日將將軍位還於了義稙,因此引發了義澄的將軍職被解的混亂。此時的甲斐武田信虎與叔父大井信惠父子為爭奪甲斐守護職,同族間內戰。同年出生,與秀綱同世代的武將還有足利晴氏。小山高朝。蒲生賢秀。大內義隆。裡見義弘。 再說上泉家與劍道間的關系,其祖父時秀是天真正伝香取神道流分下飯筱長威齋家直陰流之祖愛洲移香齋久忠門下生,其父義綱也有從長威齋門下的鹿島新當流之祖松元備前守愛洲移香齋修行的記錄。而秀綱,則隨父親做松元備前守門下的入門修行,十七歲之時已得天真正伝神道流的奧義皆傳資格。 享祿三(1530)年、秀綱23歲時。祖父時秀逝世前,愛洲移香齋往上泉城拜訪。當時移香齋與秀綱相見,歎曰「此子非凡才能出眾,乃繼承我陰流並超越我之極限者。」翌年,移香齋傳授秀綱陰流之伝書.秘卷.太刀一腰全本,令其按法修行,隨以飄然姿態消失於歷史舞台。如同,後來武州小金原一刀流之祖.伊東一刀齋助其弟子御子神典膳(後之小野忠明)與在於善鬼的決鬥中勝出然後退隱的事跡極其相似。 另外說一點就是,同在享祿三年(1530年)1月,後與秀綱有聯系的一位人物,在越後春日山城出生。幼名虎千代、父為長尾為景、母是古志長尾顯吉之女:虎御前。正是他日以合戰之神響譽戰國的巨星:上杉謙信。 隨後,秀綱於享祿四(1531)年終成為了陰流正統愛洲移香齋久忠繼承者。 在這之後,關東局勢發生了很大變化。秀綱本家是居於大胡城之扇谷上杉家麾下。而此時的扇谷上杉朝興正與北條氏綱進行著對江戶的爭奪戰。然而尚未完成心願的朝興在天文六(1537)年病勢,家督位由十三歲的朝定繼承,退出了對江戶的爭奪。江戶終歸入了北條家。作為大胡城一族的守護,上泉家依然自認是扇谷上杉氏的屬下,由上泉義綱.秀綱一起指揮執行對家中之統制與管理。 到了天文14(1545)年9月,山內上杉憲政聯合扇谷上杉朝定集結了東國勢六萬五千兵力對北條方之勇將北條綱成所鎮守的武藏河越城進行包圍戰。不久,古河公方足利晴氏率一萬五千援軍趕至與上杉兩軍合流、共計8萬大軍包圍河越城從而向北條氏康宣戰布告。 雙方對壘到翌年4月,北條氏康救援河越城的援軍從小田原出陣,至武藏三ツ木一地布陣。軍勢達八千人。4月20 日,信號突起,氏康朝早已斷糧的上杉憲政。朝定。足利晴氏聯軍發起突如其來的夜襲,聯軍被擊破,扇谷上杉朝定戰死(享年22歲)、憲政逃回上野平井城、晴氏向古河逃竄。這便是後世盛傳的戰國三大奇襲戰之一的。 秀綱在享祿元(1528)年結婚娶妻,妻子乃大森式部少輔泰賴之女。而大森式部少輔泰賴其人,是明應四(1495)年被北條早雲以謀略奪城的原小田原城主大森實賴.藤賴親子的子孫。然,不幸的是,妻子在生下兒子秀胤後早逝。後來秀綱娶了第二位妻子,卻是先前說述北條氏勇將北條綱成的女兒。 河越夜戰以後,山內上杉家的聲望急劇下跌,且還要面對已經統治關東的對手北條氏康的不住侵略。小領主爭先恐後投向了氏康之傘下,上杉家可謂日薄西山。然而在這樣的情況下,仍然有員世之名將義無反顧,堅定地支持著已如斜陽般的上杉憲政。他,就是箕輪城主長野業正。 秀綱作為長野業正的部屬,表現非常之活躍。乃是長野家之勇將藤井豊後守友忠。白川滿勝等合稱的「長野十六槍」之一人,而且得到了「上野一本槍」這樣的榮譽稱號。這些,是秀綱在上杉憲政麾下的表現。所以說,他與小田原北條氏當時是敵對關系。 然而作為戰國時代小領主的悲哀,秀綱個人的思惑卻無力改變領地內居民的慣性作為。家臣為守護個人之財產而逐步與他之國人眾的步調越見相似。「今日侍上杉、明日侍北條」的思想,不難想象為什麼怎麼多人「恥も外聞もない日和見的進退」(大概意思是被恥因往昔所做之進退,指兩邊倒的人)事實上,關東的國人眾早已在上杉謙信與北條氏康.氏政之間不斷搖擺不定。他們這種可恥之極的作法,使秀綱產生了強烈的厭世觀點。這也是為什麼秀綱在箕輪落城,長野家滅亡後,毅然放棄了地位與領土,選擇以武道家的身份生活的一個重要原因,他也是被戰國社會的風氣逼出來的。 清興曰:「傳說愛洲移香齋教授信綱的第一劍術就是像猴子一樣的攻擊方式,而這個陰流的傳統到後來背新陰流完全繼承,即是新陰流劍術奧義的猿飛之術……老實說,擬態似乎是人作為高等動物的一種高明技術,用在武術上的次數不算少。猴拳就是其中之一了。」 初之上洛和箕輪落城 上泉信綱在山內上杉家名將長野業正沒後,協助其遺孤業盛鎮守箕輪城。直至箕輪落城,業盛自害後離開家鄉,開始了他一生流浪修行之路的始端。 在天文年間的曆史記載中,有著秀綱上洛的記錄。詳細時日不明,但追其目的,是為新陰流一脈之傳與壯大與曾祖父一色義直一族的追善供養之事。當其在旅途中路經小田原城時,曾在北條氏康面前展現新陰流之妙技。氏康震驚,令北條綱成拜入其門下修行,並做媒使秀綱取得綱成之女為後妻。而嫡子秀胤也從此入仕北條家,秀綱因此暫留小田原城。(「上泉家文書」記載) 然而,以之後秀綱的行動來思考,顯然對這事非常之感激不盡。只需要看秀胤一直跟隨北條家,至國府台合戰戰死,如此之忠可以想見秀綱的態度。氏康是以其過人之眼力(或者是說觀人之法吧)發現日後以劍術而聞達關東一地者,唯秀綱一人耳。當他款待秀綱時,並不單純將其視為個武術家,而是以後會得天下共敬的名武將。 到達京都的秀綱,與當時的一些超一級知識人(指有極高名望的名人)見了面。其中便有以『言繼卿記』聞名的高位之公家.權大納言山科言繼。言繼與秀綱可謂一見如故,在其以後的書信中不斷有秀綱之名出現。在這期間,後來的神影流創始者奧山孫次郎公重(休賀齋)。真新陰流之祖小笠原源信齋長治拜入了秀綱門下。 時至天文二十(1551)年。首先的大事是2月12日,甲斐的武田晴信削發入道改名信玄。不久的3月3日,尾張織田信秀在末森城病歿(享年42歲),其子信長繼承家督位,後世之霸主終登上曆史舞台。3月10日,北條氏康出陣。上野平井城的上杉憲政率三萬騎直取小田原。上杉憲政與長野業正.太田資正部在神流川迎擊北條,然而勢單力薄,敗走。連平井城也放棄了,投奔了越後的長尾景虎。在這種沒有一人援助的情況下,在平井城11歲的嫡子龍若丸也被遺棄。然後,不幸的龍若丸為北條軍捉住,最後在足柄海岸被北條氏康殺害。 逃亡越後的憲政很快受到了長尾景虎的歡迎,並邀請他作為以後出陣關東的參謀人員。北條家意識到了景虎的意圖,為防止這種情況的發生,決定先發制人,在上州發起國人動亂,侵略之意昭然若揭。而北條之西甲斐的武田信玄也不能允許北條的作為。大胡城無可避免地陷入了這場曆史的旋渦中。不久,信玄首個發動了進攻,目標箕輪城。而此時堅守城池的便是名將長野業正和他麾下一萬精兵 自知難敵的業正於是一面聯絡長尾景虎,一面全力阻擋信玄東進。因業正武勇,至死亦未讓甲斐之虎信玄破城而入,得獲「上州の黃班」(即黃斑之虎的意思)之稱號。而此時秀綱作為「長野十六槍」的筆頭,在此役中表現活躍。 可是到了永祿四(1561)年11月22日,業正病勢。而在之前的9月,戰國史上有名的第四次川中島合戰在武田信玄與上杉謙信間展開。長野家所刻意隱瞞業正之死,然終究紙包不住火,信玄得知此情況,滿懷信心出陣再戰,以二萬兵力圍城並發起總攻。秀綱在當時也為箕輪城做了最後的奮戰,然而兵力的懸殊,終事與願違。在勇將藤井友忠戰死後,已有覺悟的業正之子業盛開城門,果敢殺出。突入馬場信房之陣,斬敵十八騎而回,留下辭世之句後自害。享年19歲。 而對於秀綱落城後卻存在兩種說法,一說帶著神後伊豆守,疋田文五郎突入武田陣,欲死戰,卻被信玄本陣特使穴山信君飛馬趕至勸降。二說跟隨桐生城的桐生直綱逃離箕輪城。然而信玄卻派特使穴山信君至秀綱居所勸降。無論哪個是真哪個是假,秀綱最後伺候了武田信玄卻是重要的事實。 國修行 秀綱最終接受了信玄的邀請入仕武田家。而在信玄心中,對這位協助箕輪城主長野業正數年來使武田不得越雷池一步的武士相當重視,給予破格的厚遇。秀綱仕官信玄也使得曾請過秀綱入仕的北條氏康,上杉謙信終未能如願。 然而已仕官武田的秀綱,始終無法忘記出國修行之旅以成就自我劍術流派的宏願,最後向信玄告辭。信玄進行初步交涉,秀綱卻決意已定,不得已,以「不得至他家仕官」為條件答應。秀綱義無反顧。信玄雖不捨,依然守信放行,並賜予秀綱厚禮:自分己名之一字「信」與秀綱,故改稱「信綱」。經其事所見,無論是「旅立之餞行」,還是「不入他家之契約」,均見出名將信玄的見解獨到與過人的眼光。 從此以後,秀綱為眾人所知的那樣改名為「上泉伊勢守信綱」,恢複了自由之身。在神後伊豆守宗治,疋田文五郎景兼協助下開始了他傳奇的出國修行。而他與信玄之間的約定,秀綱終身堅守,一生再未入仕別家。今後的史書中,得留「信綱」之名。 清興曰:「所謂大器晚成。我看在日本戰國時代裏,這個名詞和箕輪城到聯系在一起了。這兒不說信綱了(他的確算一個大器晚成的典型),單是信綱所效力的城主長野業正,就是其中最最有名的大器晚成名將之一。看了很多記載,關於業正的詳細記錄基本上是從他留守上州的箕輪城開始。計算下,當時他已經五十好幾。這個年齡段才混出個名將的名聲,實在是太晚了些。不過相信不會有人懷疑他的實力,可以讓甲斐之虎在己有生之年,無力跨進箕輪半步。怕業正在黃泉底下業大呼夠本了!」 意味深長 恢複自由身的信綱,在旅途中遇到了伊勢的北畠具教,從而開始了他人生的轉折。 離開信玄進行修業的信綱一行,一路至京都,而對於他所走的路線,世人有兩種不同的說法。一是取中山道;一則是走東海道。因為與小田原北條氏的關系,經東海道的可能性會比較大。借居小田原的信綱,在氏康.綱成的支助下,永祿六(1563)年從小田原出發,開始了新的旅程。 離開小田原的信綱一行,理所當然經過了今川。松平領,一直上洛。而在桶狹間之戰後脫離今川家,並在前年與織田信長結為同盟的松平元康長男信康與信長女德姬的婚禮在這段時間舉行了,松平元康同時改名德川家康。不久統一三河全境。信綱一路朝伊勢而去,終於在上京前遇到了那個改變他人生的人,這個人的名字是——北畠具教。 具教是代為伊勢國司職務的名族北畠晴具之子,伊勢國司北畠家最後的當主。永祿六年(1563年)年,其父父晴具歿,享年61歲。具教繼承家督的位置。相傳具教的劍術是其任國司時,求學於來到伊勢的劍聖塚原ト伝高幹。ト伝甚至「唯授一人」地傳授具教鹿島新當流的秘傳「一つの太刀」。以至於出現了這樣的事實,在ト伝將死之際,向嫡男彥四郎留下了「北畠卿より伝授を受けよ」(去找北畠具教學習「一つの太刀」)的遺言,而彥四郎也是經具教相授後,終修得奧義。 十三代將軍足利義輝與具教交好。對於享祿元(1528)年生的具教來說,36歲之時已經作為「武芸者」為世人稱道。 在前往伊勢的途中,有一則對信綱而言意味深遠的小插曲。對一代劍聖而言,一生中的插曲不少,且此類的插曲多為人知之。 在信綱一行經過尾張的一個小村落時,發覺村中發生了大騷亂。信綱遂派已成為其弟子的疋田文五郎上前詢問,得知是因作惡而被追捕的浪人,劫持了村中小孩做人質,頑固地據守在一間房中,並威脅如果有人闖入,就殺掉人質。孩子的父母發瘋似的哭泣,但仍然一籌莫展。 信綱聞言臉色瞬息改變, 便讓一旁的一位僧人借其僧衣,一邊念道,一邊請僧人為己剃度。即使弟子神後伊豆。文五郎也不明白師傅這個行動是要做什麼。信綱化身僧侶,並讓村民拿來兩個飯團,逐步挨近民家入口。而當他靠近房門時,浪人有所察覺。 「不准進來!再近一步我就取這孩子的命」 浪人叫嚷著,並用武士刀抵住人質咽喉相威脅。 「你怕什麼,我不過是個路過的和尚,現在拿飯團過來而已」 「好吵!你不要騙我,你一定是來捉我的人」 「當然不是。你看,那孩子又沒有罪。而我的雙手都握的是飯團,沒有武器」 從昨日起,已經整日未進一粒糧食的浪人難忍腹中饑餓,終於有點相信信綱的話,但架在孩子脖子上的刀並沒有松下。 「好了,你站在那裏把飯團拋過來。但如果上前我就取人質的性命」 「沒問題。不過你必須答應我,給你的兩個飯團,必須有一個是給人質吃」 信綱看准了浪人空腹的破綻用計,浪人的態度終於軟化,轉而抱住人質胸口,以為人盾,遂叫道 「你拋過來,我這樣接」 信綱向浪人拋出第一個飯團,未等浪人反映過來又緊接著拋出第二個。浪人用左手抱住人質,用右手持刀指人質咽喉。當見飯團飛來,不假思索伸出抱人質的左手去接,然而當第二個飯團被拋來時,情不自禁丟下右手長刀,伸出右手想接住飯團。結果正中信綱之計算。‍ 在浪人放刀的一剎那,信綱飛身上前一把將其手扣住,再一個翻轉,歹徒便渾身無法動彈,束手就擒。 村人自然是非常之喜悅,當信綱將袈裟還與僧侶時,僧侶深為感動收藏之,這就是所謂的信綱所贈袈裟。而那浪人在之後才知道捉住他的人是誰。 進入伊勢的信綱一行,很快找到了有「太ノ御所」之稱的北畠具教的居館。在這裏開始了雙方的初次交談。本來具教在天文二十三(1554)年已取得了從三位權中納言的職位,以信綱一介棄國武士的身份因此是不可能聚在一起交談的。但同樣身為「劍術」之武者,使得原本地位懸殊的二人會發生拜師這樣的事情。 二人互談劍術談義。然後,當時信綱所表現出來的驚人劍技,使比他年輕20歲的具教自認劍術遠遠弱於對方。而當時的具教已是劍道界中數一數二的高手。信綱劍術表面尋常但卻無法看穿,使得具教心悅誠服,感歎「幸得此會」,並介紹了大和的二人與信綱,正是寶藏院胤榮與柳生宗嚴。 寶藏院胤榮乃奈良興福寺的塔頭(住持?),也是寶藏院中有著覺禪坊之稱的槍術高手,日後的寶藏院流槍術之祖。而另外一人,柳生宗嚴是中條流.新當流的高手,在當時「畿內隨一」(畿內首屈一指)評判的劍豪武將。也正是因為他的加入,最後將新陰流發揚光大,得以飛翔般的成就。而這,卻是當時的信綱所無法預料的。 清興曰:「這裏我要談的是心理學在劍術方面的作用。無奈和老友龍吟月比起來。我在這方面幾乎沒什麼研究。只能泛泛而談。信綱計捉浪人的這場表演,無疑是心理學運用的一目。人,無論是何等高級動物,始終無法擺脫某些動物本能,在特定環境下,這些深藏心底的本能會背外界環境引發出來。浪人的餓,信綱手裏食物的引誘,特別的手法,最後結果是浪人解決饑餓的本能代替了他的警覺性,以至為接飯團而放開了保命的刀。這就是心理戰術被運用到實戰終的表現。還有一幕,在信綱之後,宮本武藏VS佐佐木小次郎的嚴流島之戰,武藏合適地運用了心理戰,引出了小次郎不成熟的一面:容易暴躁,而最後獲得勝利。心理優勢何心理戰法,該是劍術大師級人物必備的條件吧。」 一代劍豪柳生宗嚴 信綱一行在大和與寶藏院胤榮。柳生宗嚴碰面,而宗嚴的人品學識令信綱認定了他日將新陰流道統繼承並發揚光大者,非宗嚴不可。 離開伊勢後的信綱一行,來到大和首先拜訪的是寶藏院胤榮。胤榮隆重地接待了這批來賓。不久,兩人閑談之後開始了試合。胤榮使用的是慣用的長槍,而信綱則是手持袋韜(用皮包著的短竹枝,最後演化,成為了……下面有介紹)相對。​‍ 信綱所持的「袋韜」,在這時的作用不過是令脆弱而極易碎裂的竹枝在毛皮包裹下變得比較牢固而已。雖然在那個時間裏,木刀的使用已經相當普及,但是依舊有不小的危險性,最壞的場合下很有可能至人於死地。在信綱的門人中,也存在著試合時被誤殺的事件。於是乎信綱對制劍的材料進行了一定的研究,最後發明了「袋韜」這種東西。可以說,信綱正是現代劍道所采用的竹刀的發明者。 勝負很快揭曉。後之寶藏院流之祖,獨立發明了十文字鎌槍而揚名世間的荒法師胤榮,幾乎在沒有任何抵抗下被信綱以袋韜所敗。胤榮事後拜服於信綱精湛的劍術之下,請信綱指導他做了新陰流劍道的入門。被派出使者以信箋通知劍友柳生宗嚴趕來。接到他信件的柳生宗嚴,立即趕至「運命の立ち會い」(命運將發生巨變)的寶藏院道場。 趕到寶藏院道場的宗嚴急切希望與信綱比試劍術。然而,他所得到的答複卻是。「ではまずこの疋田文五郎と立ち會いなされ」(請先與我的弟子疋田文五郎比劍)。一瞬間,宗嚴幾乎懷疑是不是自己聽錯了。「畿內隨一」的實力評價,居然只配與其弟子比試.極度不滿的宗嚴認為這不過是小菜一碟,然而誰知道…… 勝負揭曉時,一度對疋田文五郎揚言要在一合內取勝的宗嚴,連續三次被三招完敗。在當時,被徒弟擊敗的人按道理是沒理由再向師傅挑戰的。但宗嚴卻這麼做了。更不可思議的是,信綱竟然愉快地答應了對方請求。 以寶藏院胤榮在旁為證,信綱與宗嚴間持續三晝夜的比劍展開。比試結束後,心悅誠服的宗嚴拜信綱為師,並邀請眾人到柳生之鄉讓自己好好招待。信綱接受邀請來到了柳生之鄉。美麗的鄉村讓信綱十分喜歡,更何況還有宗嚴的父親家嚴帶領柳生家所有族人熱情歡迎。 在柳生之鄉住下的信綱,珍惜這個難得的機會,向柳生一族傳授他的技藝。特別是對宗嚴進行了嚴格的訓練。戰國世事無常,在柳生之鄉迎來永祿七(1564)年正月的信綱,突然得到噩耗。 正月七日,北條氏康所統治的下總國府台被裡見義弘.太田資正連合軍擊破,信綱之子秀胤在此役英勇戰死。得到消息的信綱悲痛萬分,又見在柳生一族的傳業基本完成,於是留下給宗嚴的劍術研究課題,離開了柳生之地。而這個課題,正是柳生新陰流的精髓「無刀取り」,即身無寸鐵而如何壓倒對方得到最後勝利的方法。宗嚴領受。 而疋田文五郎則繼續留在了柳生之鄉。 信綱回到關東,料理完秀胤後事。緊接著上京,訪問山科言繼。就在他滯留京都這段時間裏,上泉信綱的名聲傳到了將軍足利義輝耳裏,並請信綱至官邸一敘。這也成為了信綱登上他人生顛峰的基點。雖然有人中傷說,這個邊遠地區的劍客的武藝不可能背將軍看中。然而以弘流為人生目標的信綱對虛名根本不重視。 在北畠具教與山科言繼相繼推薦下,終於,永祿七(1564)年6月18日,信綱將一生最大的舞台搬到了京都二條御所。 在其上覽演武之際,信綱將打太刀任務交給了神後伊豆,這個25歲的青年劍士。而此時,已經聞名天下的丸目藏人佐長惠得知了信綱演武得消息。丸目藏人佐長惠,肥後相良家家臣。是當時九州島一之兵法者天草伊豆守弟子,且劍術駕淩師傅之上的麒麟兒。在上洛時已得聞信綱之名,故見面即要求比試,這與宗嚴的做法但很相似。經過簡單的切磋,藏人佐長惠也拜在了信綱門下。信綱為了青年的發展,遂安排弟子神後伊豆守當場演練劍法,結果神後伊豆大獲成功。義輝感服,賜予信綱「兵法新陰、軍法軍配天下一」的稱號,並經信綱推薦,任命神後伊豆為將軍家的指南役(武術教練)。信綱就此迎來了他人生的顛峰。 劍聖上泉信綱之終 當「無刀取り」這個難題被解決,授予柳生宗嚴流派之印可狀。告別眾弟子,萬般感慨的信綱心懷故土,回到家鄉度過了他人生最後的日子。 永祿八(1565)年4月,信綱再次來到大和柳生之鄉。想見見許久為碰面的得意弟子宗嚴的進度。 而宗嚴一見師傅,立即請信綱至道場,將己最近研習劍術所領悟的在信綱面前展示。信綱見之無限感慨,因為自己一生的夢想「無刀取り」,已經由這名得意弟子最終完成了。於是說出了「もはや我らの及ぶところではない」(我之技不及你)的贊揚,並當場授予宗嚴新陰流的印可狀。 翌年五月,悲報傳來。將軍義輝被松永久秀等暗殺。信綱想及義輝之恩德,再次起程趕往京都祭奠。而趕往京都期間,其記錄卻不知什麼原因沒記錄在任何的史書中。元龜元(1570)年6月27日,京都,信綱得到了在正親町天皇御前演武的榮譽,並因此獲得從四位下武藏守的官位。 元龜二(1571)年七月,信綱離京返回了故鄉上州。當時信綱64歲。其後足跡不明,有在天正五(1577)年上泉領地為下總國府台合戰戰死的秀胤的13回忌做法事的記載。之後又有他與後妻(北條綱成之女)所生二子有綱.行綱成為了兵法師範,入仕小田原北條家的說法。 天正十(1582)年。不世出之劍聖.新陰流祖上泉武藏守信綱,前半生身陷戰亂紛爭的上州小領主;後半生偉大的劍客,在相模小田原結束了他的生涯。享年75歲。 在信綱逝世後,新陰流中劍豪輩出,更多的流派從其衍生。其道統一直傳到今日。 在這戰國的亂世,劍法至為興隆的時代,天下到處充斥著武藝高強的劍客,而信綱卻以更上乘的武技技壓群雄,故推崇為當世的劍聖。 出處 http://baike.baidu.com/view/89716.htm?fromtitle=%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BC%8A%E5%8A%BF%E5%AE%88&fromid=8189269&type=syn#4
丸目長惠 Marume Nagayoshi(1540年-1629年) 丸目與三右衛門之子,母親為赤池伊豆之女,通稱藏人佐,號徹齋。 在弘治元年(1555年)以十六歲的弱冠之齡隨父參加當主相良義陽攻打上村賴孝,於大畑合戰中初陣,並表現不凡,協助打退敵方菱刈重住的援軍,以此拔群的戰功獲得主君相良義陽賞識賜姓「丸目」,遂與父親一同改姓,並自稱藏人佐、石見守。 翌弘治二年(1556年),年僅十七歲的丸目長惠離開領地,前往肥後天草郡,向同為相良家臣的本渡城主天草伊豆守種元學習兵法,兼修練中條流劍術,並精通槍術、薙刀、騎術、手裡劍,後在永祿元年(1558年),以十九歲之年上洛遊學,期間自稱九州第一,被天皇召入殿獻示劍技與新陰流創始者上泉信綱交手,此為劍法史上最初的天覽,儘管丸目長惠遠較上泉信綱年輕,但年輕卻不代表劍技的精鍊,上泉信綱持袋竹刀,接連三次,僅以一刀便把丸目長惠擊敗,丸目長惠遂於天覽後求師上泉信綱,拜入其門中學習新陰流,和柳生宗嚴、疋田文五郎、神後伊豆守並稱為上泉門下的四天王。 永祿五年(1562年),丸目長惠與其師上泉信綱一同在將軍足利義輝的面前進行上覽,演武展示劍術,和師父上泉信綱一同獲得上泉信綱的感狀,此後丸目長惠一度拜別歸鄉擔任相良家的兵法指南役。歸國後四年,丸目長惠於永祿九年(1566年)在弟子陪伴下再度上洛,但適逢上泉信綱回轉上野,因此師徒兩人錯過,而丸目長惠為求挑戰也在愛宕山、誓願寺、清水寺立下「兵法天下一」的告示,但是卻沒有人膽敢向他挑戰,因此在隔年二月上泉信綱便授予丸目長惠新陰流的印可。 永祿十二年(1569年),相良家與薩摩島津家的關係惡化,刀戈將起,丸目長惠作為劍術達人受到重視,任命為與薩摩交界處前線的大口城守將,當時島津家來攻的是家督義久之弟島津家久,在大口城的攻防戰中島津家久因丸目長惠的堅守而討不了好,遂以奇計誘之,讓後勤補給隊大剌剌經過大口城外圍,丸目長惠不願容許敵軍如此大模大樣的通過自己眼皮下,有同僚看出此為島津軍的陷阱,但丸目長惠堅持攻擊,親率守軍出城,果真中了島津家久的埋伏,相良軍受到重創,丸目長惠雖仗持自身武藝高強逃過一劫,但是大口城就此失陷,令相良家的腹地完全暴露在島津軍的目光中。 此次大敗,惹來當主相良義陽的震怒,一度要求丸目長惠自裁謝罪,所幸丸目長惠名聲素著,加上家中許多重臣子弟皆在其門下學藝,經過一番求情與商討後,改處以出仕停止,解除丸目長惠作為相良家兵法指南役的職務,丸目長惠因此下野,出旅九州諸國進行兵法修行,並廣授新陰流劍術,包含立花宗茂、蒲池鑑廣等武將都是在此時投入丸目長惠門下。後於天正五年(1577年),師父上泉信綱辭世後,率同弟子上洛弔祭。 回歸九州後,丸目長惠歷經數年日以繼夜的鍛鍊,綜合自己學習劍術所得,開創出以實戰為重點的新一派劍術「體捨流」,體捨流乃是以新陰流劍技為基礎,強調主動攻擊,最大特徵是至右半開始,劈斬至左半開的斜斬招式,被稱為「袈裟斬」的獨特劍技結構可以運用人體力學,以更大幅度的伸展發揮力量,出招時甚至可以將敵手震飛,丸目長惠便曾以此強力劍招打敗過披甲上陣的武士。天正十五年(1587年),在相良義陽在阿蘇家的戰事中失敗身死,且相良家隨島津家投降豐臣秀吉後,丸目長惠再度為相良家新任當主相良長每聘為兵法指南役,得到新知一百十七石的俸祿,當時體捨流已是在九州全土廣為流傳的流行武技。 丸目長惠除了精通武技劍術之外,對書道、和歌、仕舞、笛子都有頗為精深的造詣,尤其他流傳後世的書法更得到了不低的評價,乃是著名的文化人,晚年自號徹齋,在向相良長每申請隱居後,遁於切原野操作農業,進行開墾,於當地引水灌溉、鼓勵造林,平靜渡過餘生。寬永六年(1629年)辭世,享壽八十九歲,葬於球磨郡錦町切原野堂山,法名雲山春龍居士。 據說長年來自認劍術天下第一的丸目長惠曾經因柳生但馬守被世人稱之為劍術天下第一而不忿,遂親上江戶向其挑戰,柳生但馬守乃是幕府兵法指南役,受到德川家的重用,而丸目長惠乃是與其父柳生宗嚴同學於上泉信綱門下的父執輩,較勁起來哪方落敗都不是美事,因此柳生但馬守便向丸目長惠說道:「以新陰流流傳之地二分之,貴公乃西國三十三國的天下第一,在下為東國三十三國的天下第一。」丸目長惠才因此滿足作罷。此一逸話充分顯示出丸目長惠之高傲心態,也是他早年自稱天下第一的狂態反映,也是他早年由盛轉衰的關鍵,然歷經大口城之敗及年歲日長,晚年後安於隱逸的丸目長惠應再無如此強烈的勝負心,因此這一故事權充逸話觀之即可。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/577049
京極高吉 Kyogoku Takayoshi(1504年-1581年) 京極高清次子,一說為京極材宗之子,後為京極高清養子。妻淺井久政之女(京極瑪利亞)。子京極高次、京極高知、松之丸殿(武田元明妻、後豐臣秀吉側室)、女(氏家行廣室)、瑪格達萊納(Magdalena,朽木宣綱室)。 高吉深受父親高清的寵愛,與其兄京極高廣(京極高延)爭奪家督,然而敗於受到淺見貞則、淺井亮政等一幹國人達支持的高廣,遭到流放。後高廣也因與淺井亮政對立而被流放,此時京極氏的衰退成為定局。 被流放後的高吉在南近江六角氏支援下與京極高廣、淺井亮政爭鬥。後來和父親高清一起被與京極高廣對立的淺井亮政接回北近江一時重回領主之位,然而所謂領主不過是傀儡,因此再次離開近江。有一段時間作為近臣出仕足利義輝。 永祿三年(1560年)為奪回權力,返回近江再次與六角氏合作對淺井亮政之孫.淺井賢政(淺井長政)用兵,遭到擊敗,在近江殘留的支配權盡失。 永祿八年(1565年)永祿之變中,足利義輝慘遭暗殺,為擁立義輝之弟足利義昭竭盡心力。然而義昭與織田信長對立使得高吉不得不隱居近江,將兒子小法師(京極高次)送往信長處作為人質。小法師元服後起名高次,就此仕於信長。 天正九年(1581年)與妻一同在安土城內在古內奇.索爾蒂.奧爾岡蒂諾(注一)處受洗成為天主教徒,然而數天之後突然死去。因其急死街頭巷尾都流傳他受了佛罰。 注一:Gnecchi-Soldo Organtino 耶穌會傳教士,元龜元年(1570年)來日,負責京都一帶的傳教工作。姓名音譯自日語,可能不準確。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=3#postid-143 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E5%90%89
伊勢貞昌 Ise Sadamasa(1570年-1641年) 天正9年(1581年)、肥後国水俣の陣にて元服する。以後は島津義弘に随従し、豊後国の大友氏攻略戦や、豊臣秀吉の九州征伐に伴う豊後国よりの退却戦などで首級を上げる。 島津氏の降伏後は、元足利義輝の有職故実家で近衛家の家臣となっていた伊勢貞知より、有職故実の伝授を受けた。また義弘の嫡男・久保に従い、上洛や小田原征伐の際はその供をする。文禄元年(1592年)の文禄の役にも久保に従い朝鮮に出兵するが、翌年に久保や父・貞真が朝鮮にて病死すると、久保の遺体を伴い帰国し、飯野(宮崎県えびの市)へ戻った。その後、久保の弟・忠恒が朝鮮への渡海が決まるとその供をし、6年間朝鮮に在陣した。 慶長4年(1599年)の庄内の乱に出兵、翌5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは義弘が所領へ帰還する際、伊東氏家臣・稲津重政の軍が綾に乱入していたため、これを打ち破り、多くの首級を討ち取った。 以後は島津家の筆頭家老となり、忠恒に徳川家康の諱を賜れるよう働きかけたり、家久と名を改めた忠恒が参勤する際は必ずその供をするようになる。またその妻子も、寛永元年(1624年)より家久継室(島津忠清娘)と子の又三郎(島津光久)、又十郎(北郷久直)が人質として江戸住まいとなった際にその世話役となり、同17年(1640年)まで勤めている。 寛永元年に嫡子・貞豊が死去すると、他に世継がいなかったため、貞昌は家久に願い出て、その十三男である貞昭を継嗣子とした。寛永15年(1638年)に家久が死去した後も、その跡を継いだ光久の家老として活躍した。 寛永18年(1641年)に江戸にて病死した。享年72。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E6%98%8C