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中島元行 Nakajima Motoyuki(1552年-1614年) 備中国賀陽郡阿曽郷経山城(現岡山県総社市黒尾)の城主。通称は大炊介。妻は清水宗治の娘。父は中島輝行、弟は中島九右衛門、嫡男は中島義行。 中島家の本姓は藤原氏。先祖は工藤遠江介為憲の末裔(藤原南家工藤氏)の末裔で、鎌倉幕府の政所令・後に別当、十三人の合議制の一人となった。二階堂氏の祖である二階堂行政が、鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。 室町幕府10代将軍足利義稙将軍の近侍であった二階堂大蔵少輔政行のとき、義稙の秘命を帯びて備中国の地頭として管領代大内義興の幕下に属した。初め岡山県浅口郡片島(現岡山県倉敷市)に居城し、岡山県浅口郡片島の中島に在城したので中島と改めた。後に賀陽郡阿曽の経山城の城主となり、政行・氏行・輝行・元行と四代にわたって居城した。 元行の代には大内氏に代わり中国地方の覇者となった毛利氏の幕下に属し、清水宗治とともに小早川隆景の配下となった。 元亀2年(1571年)には、経山城を守って、尼子氏の残党軍と一戦を交えている。 天正10年(1582年)、織田信長の命令により中国攻めの方面軍を率いていた羽柴秀吉が備中に侵攻し、備中国高松城が包囲された際、城主清水宗治とともに副将として元行も籠城して抗戦した(備中高松城の戦い)。 長期間に及んだ籠城戦は、宗治の切腹を条件として秀吉と和議が結ばれた。開城後、元行は宗治の嫡子源三郎(清水景治)の後見をする。 その後、豊臣政権下で大名となった小早川隆景が筑前名島(現福岡県福岡市)に移ると、清水五郎左衛門(清水景治、源三郎)と元行、元行の嫡男義行は小早川家に召しだされ、仕官した。隆景が死去すると皆、小早川家を退去し、景治は毛利輝元に仕え、元行と義行は、小寺村で帰農した。 のち、義行は慶長5年(1600年)の関ヶ原の役後まもなく結城秀康に仕官し、義行の家系は義行の嫡男昌行の子孫が継いだ。 元行は慶長19年(1614年)1月に死去、墓は報恩寺(現岡山県総社市小寺)にある。その後の中島氏は、浅尾藩主蒔田氏より客分として処遇された。 『中国兵乱記』は中島元行が著したものである。 平常の住居は賀陽郡刑部郷小寺村(現岡山県総社市小寺)にあり、南北三丁、東西四丁、四方に二重の堀をめぐらしていたという。小寺にあった中島氏の住居跡地は、現在「小寺中島公園」となっている。庭として使用していたところは、当時に近い状態で残されており、「願主 中島元行」と刻まれた廣峯神社が現在も残っている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%85%83%E8%A1%8C
伊達稙宗 Date Tanemune(1488年-1565年) 伊達尚宗的長子、母為上杉定實之姐.積翠院;幼名次郎、初名受將軍足利義高偏諱「高」字,名為高宗,後受將軍足利義稙偏諱「稙」字,改為稙宗。 永正十一年(1514年),父親尚宗死去繼承家督,成為第十四代當主。 永正十四年(1517年),為祝賀重任第十代將軍職的足利義稙而上洛(前往京都),進貢大量的物品,而經由擔任管領細川高國那裡獲得左京大夫的官職(左京大夫是本來的奧州探題大崎氏所世襲的官位。而伊達氏能夠獲得此官位,就代表於名於實都已經取代大崎氏。稙宗也利用此點,使自己的家格上昇。(小林宏『伊達家塵芥集の研究』創文社1970))。同時他也提出「一字拜領」(日本戰國時代中常見的一種賞賜,從將軍的名字中選取一字作為自己的名字,以表示忠誠)的希望,把名字改成稙宗。 大永二年(1522年)被任命為陸奧守護,在天文元年(1532年)時把居城從梁川城移到西山城。 至於其他的內政與外交方面,不斷的重復與最上氏、葛西氏、岩城氏等抗爭,擴大勢威。但是在天文十一年(1542年)時,因為三男伊達實元將送到越後守護上杉定實當養子與相馬顯胤要求割讓伊達家領地等事件,與長男伊達晴宗跟其家臣團產生對立,而被晴宗幽禁在西山城。 後來經由小梁川宗朝的幫忙被救出之後,開始徹底的跟伊達晴宗對立,也引起招致奧州全體混亂的「天文之亂」。 父子之爭一開始是由稙宗獲得優勢,但在天文十六年(1547年),因為同一陣線的蘆名盛氏(當時蘆名氏是除伊達氏外的陸奧有力大名)投靠伊達晴宗,戰況急轉直下。 天文十七年(1548年)9月,稙宗投降,結束這場父子之爭,不得不把家督的位置讓給伊達晴宗而隱居於丸森城。 永祿八年(1565年)6月19日,於丸森城死去,年七十八歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%A8%99%E5%AE%97
蠣崎光広、南部政康、大浦光信、大浦盛信、浪岡顕具、斯波詮高、稗貫稙重、葛西政信、葛西晴重、大崎義兼、大崎高兼、留守郡宗、亘理宗元、相馬盛胤、泉田胤直、岩城常隆、岩城由隆、田村義顕、白河政朝、白河顕頼、蘆名盛高、富田盛実、二階堂行詮、二階堂晴行、安東忠季、安東尋季、戸沢秀盛、小野寺晴道、大宝寺政氏、大宝寺澄氏、最上義淳、最上義定、伊達尚宗、佐竹義舜、佐竹義信、佐竹政義、江戸通雅、小田成治、足利成氏、足利政氏、足利高基、千葉勝胤、真里谷信勝、里見義通、里見実堯、正木通綱、宇都宮成綱、宇都宮忠綱、那須資親、那須資房、大関宗増、佐野秀綱、佐野泰綱、上杉顕定、上杉憲房、長尾景長、横瀬成繁、横瀬景繁、岩松尚純、岩松昌純、長尾景春、沼田泰輝、上杉朝良、曾我祐重、太田資家、太田資頼、成田親泰
六角定賴 Rokkaku Sadayori(1495年-1552年) 六角高賴的次子;通稱四郎,諡號江雲,幼年於京都相國寺出家為僧,稱吉侍者。 永正十一年(1514年)二月,父親高賴追放重臣伊庭貞隆、貞說父子,伊庭氏逃奔琵琶湖北近江,得到當時京極氏同族淺井氏的支持。 永正十三年(1516)八月,伊庭貞說發動對南近江的反攻,當時的父親高賴已經將合戰指揮權委托給長兄氏綱。然而大敵來隙,氏綱卻發足疾無法上陣,高賴無奈想到已入僧籍的次子定賴。 定賴被臨時任命為總大將,指揮戰役,時年二十二歲。伊庭軍勢倚仗其水上力量,控制琵琶湖的交通水陸並進,直攻六角氏的本城觀音寺城。定賴率軍於城下西北約5到6公里的島鄉口迎敵,奮勇將正面之敵擊退。同時聯絡長命寺的僧兵,偷襲伊庭的岡山城,切斷伊庭方的運補線。 永正十五年(1518),長兄氏綱不治先逝,還俗的定賴逐漸發動反攻,永正十七年(1520年)八月終於壓倒敵勢攻陷岡山城,自貞隆第一次為細川氏所援護開始的長達六年的內戰結束,兩個月之後父親高賴亡故,定賴繼承家督之位。 當時京都政局極度混亂,控制近江北部的淺井亮政也想染指南部,定賴就任近江守護後對兩方的情況都十分關注,京都方面足利義材(足利義稙)一系的足利義晴被擁立後,與義晴對立的三好長慶退入近江,定賴與攝津細川晴元聯盟協助義晴與三好氏作戰,打破與三好氏、淺井氏兩面敵對的狀況,專心進行近江攻略。 足利義晴病逝後,定賴支援其子足利義輝,以足利將軍支持者的身分,介入當時室町幕府的中央政治,影響力占統治性的地位,保衛京都的安定。與此同時,定賴開始頻頻發動對淺井氏的攻勢,大永五年(1525年)包圍小谷城大破淺井亮政,亮政被迫逃往美濃。 享祿四年(1531年)、天文七年(1538年),又於琵琶湖北岸擊破淺井軍勢,亮政不得不暫時降伏,成為其附屬大名。 天文十八年(1549年)建築位於南近江要沖之地觀音寺山的觀音寺城本丸四層。 在內政上,率先推出「城割」的命令,要家臣們各自毀掉原有的居城,全部集中於觀音寺城,以方便管理。「城割」命令,被認為是後來出現的一國一城令的雛形。同時也是第一位實施樂市的大名,使觀音寺城的城下町成為眾商雲集的商業都市。在外交上,也以政治聯姻的方式,讓自己的子女跟各鄰國大名聯姻。在定賴領導期間,六角氏達到全盛期。 天文二十一年(1552年),定賴去世,年五十八歲。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%AE%9A%E8%B5%96 出處#2 http://baike.baidu.com/view/757087.htm
大內義興 Ouchi Yoshioki(1477年 - 1529年) 大內政弘的長子、母為畠山義統養女.今小路、正室為內藤弘矩長女.東向殿;幼名龜童丸、通稱六郎あるいは次郎,受將軍足利義尚偏諱「義」字,名為義興,尊稱大內介。 延德四年(1492年)參與討伐近江國大名六角高賴(長享.延德之亂)。明應三年(1494年),父親政弘患病後宣佈隱居,義興繼任家督。 明應四年(1495年)政弘逝世後,家臣陶武護大進讒言中傷長門守護代內藤弘矩,誣衊內藤弘矩意圖擁立義興之弟大內隆弘為主,義興聽信讒言誅殺內藤弘矩及其子內藤弘和,後來義興察知當中冤情,反倒誅殺陶弘護並娶內藤弘矩之女為正室,立內藤弘矩之侄內藤興盛繼任內藤氏家督再興內藤氏。 在義興統領下,大內氏在北九州與大友氏、少貳氏戰鬥,同時在原有領土周防、長門、豐前、築前,再兼任安藝、石見的守護職,甚至擴充勢力至九州西北的肥前。明應五年(1496年),義興介入大友氏的內亂,將殺害其已隱居的前主大友政親,另立大友親實繼承大友氏,但遭到政親之弟大友親治反抗而未能得逞。 明應六年(1497年)1月,義興以救援九州探題澀川尹繁為名出兵肥前,攻打肥前守護少貳政資和少貳高經父子。4月,少貳父子逃亡中途自盡,大內氏徹底控制北九州。 少貳政資的三子少貳資元於明應十年(1501年)起兵復仇,並於永正三年(1506年)聯合大友親治互為同盟,組織聯軍攻擊大內氏北九州領地。永正四年(1507年),義興以巧妙的政治手腕,利用從明應九年(1500年)流亡到山口、接受大內氏保護的流亡將軍足利義尹擔任中間人,藉助幕府僅餘的權威調停三家之間的紛爭,成功保住北九州領地。 永正四年(1507年)管領細川政元被養子細川澄之暗殺之際,管領細川家分裂,細川政元三名養子細川澄之、細川澄元、細川高國互相攻殺。細川澄之首先敗死,義興把握細川氏內亂的機會擁立前將軍足利義材涉足畿內事務,以協助將軍上洛為名,發佈命令動員勢力範圍內的九州及中國地方國人眾出兵。11月大內氏部隊從山口出發,12月進入備後國跟細川高國達成同盟,第二年上洛擊敗細川澄元,使澄元與其支持的將軍足利義澄逃往近江。 義材成功再任將軍並改名為足利義稙,義興因擁立之功被封為管領代(細川高國則為管領)、左京大夫、山城守護,與細川高國聯合在京都執掌政事。 但是細川澄元並未屈服,他集結來自阿波的細川氏部隊,在重臣三好之長輔佐下誓要奪回京都而積極展開反攻。經歷一系列戰鬥,例如如意岳之戰、蘆屋河源合戰、深井城合戰,細川高國和義興在近畿地區戰敗而暫時撤退到京都西部的丹波。永正七年(1510年)8月14日,細川澄元手中的皇牌.將軍足利義澄突然死去,為義興和細川高國一方創造了機會。8月23日,雙方在船岡山展開決戰,是為船岡山之戰,義興、細川高國聯軍擊破細川澄元軍,重奪京都。 此刻大內氏和義興本人可說達致事業上的巔峰。永正九年(1512年)獲得從三位晉身公卿行列。義興亦把自己的女兒嫁給足利義稙的養子足利義維。永正十三年(1516年),大內氏獲得了派遣遣明船的特權,壟斷了利潤甚豐的日明貿易,此舉動搖了細川高國一方的利益,引起後來在中國發生的貿易糾紛寧波之亂。 義興前後在京都十年,伴隨其出征的國人眾有部分於船岡山之戰之前擅自離隊回國,後來戰鬥完結之後義興亦允許部分國人眾撤退,礙於義興一直在京都留守及七家安藝國人眾締結國人一揆同盟,大內氏亦無暇追究擅自離隊的責任(毛利氏、吉川氏及高橋氏)。永正十五年(1518年)曾隨義興出陣京都的出雲國人尼子經久突然起兵襲擊安藝、石見並得到安藝守護武田元繁響應,義興才於永正十五年(1518年)辭去管領代一職率兵回國,並於同年10月5日回到山口。之後義興一直於安藝、石見跟尼子軍戰鬥。 尼子經久隨曾參與大內氏上洛之戰鬥,但亦於戰鬥結束之後回國,藉機自身擴大勢力。大永三年(1523年)尼子氏出兵石見波志浦,與此同時攝於尼子氏的威勢,安藝、備後、石見多數國人眾宣佈歸順尼子氏,當中包括安藝勢力較大的毛利氏。尼子經久拉攏毛利氏當主毛利幸松丸的監護人、其叔父毛利元就,兩家更合兵攻擊大內氏在安藝西條的橋頭堡鏡山城(鏡山城之戰),毛利元就運用離間計內通城主藏田房信叔父藏田直信,得其協助破城,藏田房信自盡。大內氏同時在各地戰線被尼子氏壓倒。 然而義興迅速站穩腳跟使戰況不久陷入膠著。義興於大永四年(1524年)反擊,以嫡子大內義隆為帥出兵安藝攻擊尼子氏盟友安藝武田氏,包圍其居城佐東銀山城。尼子氏出兵救援並發佈命令使安藝國人眾出兵為武田氏解圍。戰役以大內氏主動撤退結束。儘管如此,大內氏亦非全無戰果,憑著此戰大內氏逼使櫻尾城的友田興藤投降。次年,已繼任毛利氏家督的毛利元就怨憤尼子經久暗中支持其弟相合元綱叛亂,宣佈重新歸順大內氏。尼子經久此時忙於東進攻打山名氏,令義興奪回石見而使戰況向大內氏有利。 大永八年(1528年),義興攻打安藝門山城時染病;翌年,於山口館病逝,年52歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%A7%E7%BE%A9%E8%88%88
山名豐賴 Yamana Toyoyori(生沒年不詳) 山名豐時之子,山名誠通之父,因幡守護。 父親豐時為因幡守護;豐賴出生年不詳,在史料上初次出現是永正八年(1511年)8月24日,在船岡山合戰中與其兄豐重(注一)共同擔任山名宗家山名致豐的名代加入足利義材(足利義稙)方參戰。 永正九年(1512年)12月,在但馬山名宗家當主山名誠豐支援下在布勢天神山城殺害了當時擔任因幡守護的兄長豐重,強奪守護一職就任守護(注二)。 據收錄於『萩藩閥閱錄』,推測發出於永正十年(1513年)2月10的「山名豐賴書狀」,豐賴曾將山名誠豐的意向傳達給備後國人杉原氏,由此事可見,他和與山名致豐有著密切聯繫的兄長豐重一樣處於但馬山名家的巨大影響之下。 雖說強奪守護職一事有但馬的宗家做後盾,此事還是成為了助長國內反守護勢力的重要原因。在其就任守護之後,不斷受到被他殺害的豐重之子豐治(注三)的攻擊。永正十年(1513年)3月29日之布施天馬口合戰,4月26日之布施正木口合戰與守護所布勢天神山城周邊的合戰接連不斷,可見事態已經頗為嚴重,戰火已經延燒到中樞地區。 因而豐賴的守護做了最多三年就不得不卸任。他在史料上最後一次直接出現是永正十一年(1514年)5月15日給家臣北川氏撥發國衙公用錢30貫文。因為史料稀缺,豐賴的結局也很不明了。據『伊勢貞助記』記載的永正十二年(1515年)10月16日伊勢貞助獲知因幡守護山名小次郎(豐治)嫁予將軍足利義稙作側室的妹妹阿茶局懷孕一事(然次年流產,未有子嗣)這一點史料推斷守護職的交替可能發生在永正十二年夏天。 史料豐賴最後一次可確認的活動是一個月後的永正十一年(1514年)6月18日,因幡八上郡的古剎大安興寺毀於戰火。由此看來豐賴與豐治的鬥爭已擴散到因幡全國。 注一:山名豐重:山名豐時長子。自長享元年(1487年)始不斷參與足利家在畿內的爭鬥。文龜年間(1501-1503年)就任因幡守護。後與伯耆守護山名澄之摩擦不斷。永正八年(1511年)8月參與船岡山合戰,次年死於其弟之手。 注二:1512年是壬申年,有種說法『因幡民談記』中的「申歲崩」其實是豐重被殺一事。因史料不足誤記為天文十七年(1548年,戊申年)山名誠通被殺(參見山名誠通條目)。 注三:山名豐治:山名豐重之子。同其父一樣與足利幕府來往密切。其父死後開始領導反守護活動。雖打倒豐賴就任守護,然而不斷受到豐賴後盾但馬山名氏的壓迫,最後一次見諸史料是大永七年(1527年)5月6日通過將軍足利義晴向但馬家求和,此後不久死去,山名誠通成為因幡守護。『因幡民談記』記載其急死,從求和一事來看也可能是死於但馬家之手。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=7#postid-204 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E9%A0%BC
畠山稙長 Hatakeyama Tanenaga(1504年-1545年) 畠山尚順(のち尚長)の子で長経、政国、晴熙の兄とされる。通称は次郎。家の慣例により、第10代将軍足利義稙より偏諱を賜い稙長(別名:稙家(たねいえ))と名乗る。官位は右衛門佐、尾張守。法名は大和寺殿覚源悟公。 永正12年(1515年)に元服し、永正14年(1517年)に父の隠居により家督を継承するが、既に永正8年(1511年)に河内高屋城を父より譲られるなど、その活動は河内や京都において数年前から確認でき、同時期に父の活動は越中や紀伊方面に注がれていた形跡があり、家督継承の前から二元的な統治形態を取っていたと考えられている。 父は室町幕府管領の細川高国政権の下で守護職を回復し、明応の政変以前の地位を幕府においてある程度取り戻すことに成功したものの、管領は高国が任命され、山城守護職も大内義興に握られるなど不満があったため、幕府と関係する畿内での活動には稙長を当たらせ、自身は領国を固め将来の対立に備えるためか、隠居以降は紀伊に在国し活動を続けていた。幕府での権力回復になおも執着する尚順の姿勢は、幕府を主宰する高国と、戦乱に飽いて幕府との協調を願う畠山家臣団にとって憂慮すべきことであり、尚順を失脚させるためにまだ若年の稙長が利用されたと思われる。 永正15年(1518年)に義興が周防に帰国し、高国と将軍・足利義稙が対立すると、明応の政変以来の義稙の支持者であった尚順は義稙に味方したが、永正17年(1520年)に紀伊を追放され、堺に逃れることになる。これにより稙長は正式に畠山氏の当主として活動するようになる。同年2月に父の宿敵である畠山義英に高屋城を包囲され、3月に落とされ逃亡したが、5月に高屋城を奪い返し義英を大和へ追放した。同年6月から10月に高国と協議の上で大和に介入、尚順派と義英派に分かれて争っていた筒井順興と越智家栄を始めとする大和国人衆を和睦させ、大和への影響を保った。 一方、尚順は翌大永元年(1521年)にかつての宿敵である義英と結び高屋城を攻撃するが敗れ、義稙を奉じ淡路において再起を図るも果たせないまま翌大永2年(1522年)に病没する。翌大永3年(1523年)に義稙も死去、ほぼ同じ時期に総州家においても義英に代わり畠山義堯が当主となり、敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家の勢力と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌が再発する。このため越中においては河内畠山氏の影響力が低下し、分家である能登畠山氏に統治を委ねざるを得ない状況になってしまった。 大永2年においては高屋城が焼失するなど、稙長の統治は安泰とはいえなかった。稙長の支持者であった高国が大永6年(1526年)の桂川原の戦い以降の内紛に悩まされる中、享禄元年(1528年)、稙長の高屋城が反高国派の柳本賢治によって陥落させられ、堺公方政権の下で高屋城は畠山義堯のものとなった。 享禄4年(1531年)には高国が大物崩れにおいて自刃するなど稙長は苦境に立たされるが、義堯が細川晴元の家臣三好元長と結んで晴元と対立し、天文元年(1532年)に両者が晴元に加勢した一向一揆に攻められ自刃に追い込まれると(享禄・天文の乱)、これを好機とみた稙長は実権の回復をめざし活動を活発化させた。ところが、晴元は12代将軍足利義晴と和睦し、義堯の元家臣で晴元に寝返っていた木沢長政もまた義晴方に転じると、稙長は実権を回復するため天文3年(1534年)1月に石山本願寺との同盟を画策、高国派の残党とも結ぼうとした。 しかし、この稙長の行動はかつての尚順の行動と同様、幕府への反抗と取られかねないものであり、畠山家臣団の反発を受けることになる。同年8月、河内守護代の遊佐長教により稙長は紀伊へ追放され、長教は弟の長経を擁立するが、長経もまた独自路線を志向することが分かったため天文4年(1535年)に廃し(後に長政に暗殺されたとも)、弟の晴熙を家督代行に擁立した。やがて天文7年(1538年)に晴元や長政と協議し畠山弥九郎に家督を継がせ、弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として置いた。尾州家と総州家の実力者である長教と長政が一向一揆などの脅威に備えるため両畠山氏の和睦に動き、このような体制を構築したのであるが、実権は2人が握っていた。 天文10年(1541年)、晴元や長教と仲違いした長政が反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し弥九郎、在氏を追放し、高屋城を回復し畠山氏の当主に復帰した。孤立した長政は三好長慶と長教によって討伐され、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて戦死した。長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡したことになる。 在氏はその後幕府に帰参したが、もはや尾州家と敵対しうる勢力ではなくなっており、この後の畠山氏の内訌は尾州家内部の争いが中心になることになる。 長政の滅亡後、天文12年(1543年)にかつての高国の残党の盟主として祭り上げられた細川氏綱が堺で挙兵し、「細川氏綱の乱」と呼ばれる争乱が勃発することになる。稙長は氏綱に与力し晴元と敵対するも、強大な軍事力を有する三好長慶を配下に持つ晴元を下すことができないまま、天文14年(1545年)に病没する。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%A8%99%E9%95%B7
筒井順興 Tsutsui Junko(1484年-1535年) 筒井順尊の次男。順賢の弟。妻は越智家令の娘。順昭、順政、順国、福住順弘、女子(十市遠忠妻)らの父。筒井順慶の祖父。生年月日は明応2年7月7日(1493年8月18日)とも言われる。 大永元年(1521年)、兄の順賢の跡を継いで当主となり、越智氏と和睦してその娘を娶った。同年3月、将軍足利義稙が管領細川高国と仲違いして和泉を経て淡路島に出奔した後10月に堺に上陸、畠山尚順・畠山義英が呼応して畠山稙長(尚順の子)と戦った時、順興は越智家栄と共に稙長側に参陣、義英軍を打ち破った。その後も稙長軍に属して義英と戦った。 享禄元年(1528年)、柳本賢治が大和に侵攻して苦戦を強いられるが、享禄3年(1530年)に賢治が暗殺されたのも束の間、天文元年(1532年)に大和で一向一揆が発生、十市遠治や越智氏と協力して鎮圧に努めた(天文の錯乱)。 衰退した筒井氏を再興して大和に勢力を築き、十市氏など周辺の国人領主と縁戚関係を結ぶなどして勢力を拡大していった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E8%88%88
細川晴元 Hosokawa Harumoto(1514年-1563年) 細川澄元的長子、母為清泰院、正室為三條公賴之女、繼室為六角定賴之女;幼名六郎,受將軍足利義晴偏諱「晴」字,名為晴元。 晴元出身於阿波細川家,父親澄元為細川氏嫡流京兆家當主細川政元養子;政元最初養子為細川澄之(九条政基之子),但政元與澄之關係不和,在文龜3年(1503年)將澄之廢嫡,改領養澄元。 雖然澄元姑且算是政元的繼承人,但是其後政元又領養更為接近細川氏一族的野州家細川政春之子細川高國,導致同時出現三名繼承人並立的形勢。永正四年(1507年),支持澄之的香西元長和藥師寺長忠暗殺政元,永正之錯亂爆發。 政元被暗殺後,細川家立刻分裂為澄元家和澄之家,彼此互相攻殺。沒有細川氏的血液的澄之首先被家族一致排除。澄之兵敗身死後,澄元、高國兩派對立,將軍足利義澄、義稙兩派的戰爭進一步糾纏得細川家一分為二。 父親澄元與擁立足利義晴(足利義澄之子)的細川高國爭奪家督的地位,但澄元於永正十七年(1520年)6月死去;七歲的晴元繼承家督,此時細川高國作為實際上的天下人君臨畿內,反擊的機會遙不可見。 大永六年(1526年)8月,高國在從弟細川尹賢的讒言下,殺死得力部下香西元盛,元盛的兄弟波多野稙通、柳本賢治起兵造反,高國政權發生內訌。晴元家臣三好元長擁13歲的晴元,於同年內進出畿內,從高國的背後與波多野軍會合。 細川高國與晴元的爭鬥,如果只是爭奪細川氏家督的內鬥,就不需大義名分。然而,高國為當任管領,將軍足利義晴也是高國所擁立,所以高國的軍隊成為名義上的官軍,而晴元的軍隊則被視為賊軍,一些明哲保身的盟友可能逐漸離去。於是晴元為擁立足利義維(義晴之弟,義稙養子)。 大永三年(1523年),足利義維的養父足利義稙兵敗居於阿波國時,曾請求阿波細川家的晴元幫助,但當時的晴元只是10歲,即使幫助義稙也不一定能得手,義稙失意中死去。此後,當時的阿波守護細川持隆(晴元從弟)認為義維應該繼任將軍,而晴元應該繼任細川宗家當主,遂讓兩名監護人在晴元阿波的細川館將義維養育長大。 大永六年(1526年)3月24日,與細川高國的決戰(桂川原合戰)獲勝,高國攜將軍足利義晴逃往近江國。以和泉界作為據點的晴元取代高國政權,擁立足利義維建立「堺公方府」。 至此為止的戰事,三好元長作出卓越貢獻,但柳本賢治和三好家旁支三好政長等人與元長對立,晴元也對元長與高國的和睦不滿。 享祿二年(1529年)憤慨的元長退回領地阿波,堺公方府的軍事力量驟然下降。高國趁機與備前守護代浦上村宗勾結,聯合起兵,迎擊的柳本賢治在享祿三年(1530年)被高國通過刺客暗殺。高國、浦上村宗趁勢進軍攝津,堺公方府陷入窘境。 享祿四年(1531年),細川高國控制攝津國的大半,京都的高國派內藤彥七也圖謀奪回堺公方府。堺公方府進一步暴露出陷入危機的狀況。同年2月,晴元與三好元長和好;3月,元長阻擋高國軍的攻擊,戰事陷入膠著化狀態(中島之戰)。6月,來援的赤松政佑(赤松晴政)成為高國軍潰敗的最後一根稻草,稱天王寺之戰。 戰後,高國逃亡,5日後於潛伏中在攝津尼崎被捕,8日在尼崎的廣德寺自殺,晴元終報亡父之仇。 共同的敵人高國被消滅僅兩個月,內部對立表面化。堺公方府派成為消滅仇敵高國的目標,但內部圍繞這之後的方針產生不同聲音;現任將軍足利義晴沒有實權,扶立足利義維為新將軍似乎是理所應當的,但是支持將軍足利義晴的觀點卻佔上風。 放棄好不容易建立起來的堺公方差不多算是晴元的決斷,但元長和畠山義堯(晴元的義兄弟)堅決反對,他們的意見沒有被採納。足利義維的堺公方府退出歷史舞台,晴元和元長的君臣關係產生裂痕。 翌年,為排除晴元偏袒的木澤長政,晴元受到的三好元長的攻擊;晴元、茨木長隆等攝津國眾與石山本願寺合作,同意本願寺證如發動一向一揆,利用一向宗將元長殺害。 天文二年(1533年)一向一揆的反擊在堺失敗,逃回淡路國,攝津池田城恢復往日狀態。天文四年(1535年)獲得和平(享祿・天文之亂)。天文三年(1534年)在木澤長政的中介下,與三好元長的長子三好長慶和好,將其納入家臣團。 天文五年(1536年),京都法華眾的勢力被比睿山延歷寺和六角定賴聯合消滅(天文法華之亂)。同年討滅率領高國殘黨的高國之弟細川晴國,畿內穩定。天文六年(1537年)時被任命為右京大夫,支配幕政。 天文八年(1539年),上洛,三好長慶與同族三好政長圍繞河內十七處爭鬥,晴元偏袒政長,與長慶對立。經過足利義晴和定賴的中介,與長慶和好。這個時候的小摩擦結束。天文十二年(1543年)高國的養子細川氏綱與紀伊國的畠山氏、游佐長教結盟舉兵叛亂,細川家開始出現衰弱的徵兆。天文十七年(1548年)三好長慶繼承三好宗家家督,晴元指示他對付氏綱,討伐三好政長。可是遭到長慶拒絕。翌年,長慶叛變,改為支持氏綱,晴元在江口之戰大敗。失去主力家臣的晴元,逃到近江。 晴元和將軍足利義輝為奪回政權開始與三好長慶之爭,但是細川方一直處於劣勢。永祿四年(1561年)在六角氏的介入下決定剃髮,於攝津富田隱居。 永祿六年(1563年)病逝,年五十歲。 出處 http://www.doudouask.com/article-859055-1.html
足利義晴 Ashikaga Yoshiharu(1511年-1550年) 足利義澄的長子、母為日野永俊之女、養父為足利義稙、正室為近衛尚通之女-慶寿院、側室為大舘常興之女;幼名龜王丸。 永正四年(1507年),細川政元遭到暗殺,細川氏陷入內訌(永正錯亂)。足利義稙見機決定復辟。 永正五年(1508年)4月,在大內氏的支持下聯合中國地方和九州的大名進軍京都,並得到細川高國等人的支持。6月佔領京都,放逐了將軍足利義澄和管領細川澄元,7月復位為將軍。 此後義澄逃往近江國,試圖奪回將軍之位。足利義晴就是在此期間出生在近江國朽木谷的。義晴出生後不久義澄就病逝了。永正十年(1513年)2月14日,義澄派和義稙派達成和解,足利義稙將軍之位得到了確定。次年義晴被送往播磨國,受到兼任播磨、備前、美作三國守護的義澄派重要人物赤松義村的庇護和養育。 大永元年(1521年)3月7日,第10代將軍義稙由於與管領細川高國不合而出奔。由於同月22日即將舉行後柏原天皇的即位儀式,將軍的出奔令天皇非常憤怒。天皇下令即位儀式照常進行,並讓細川高國擔任警備事務。高國提議罷免足利義稙的將軍職,任命義晴就任將軍。7月6日,細川高國迎義晴上洛,8月29日行參賀之禮。朝廷接受高國的建議,於11月25日任命義晴為右馬頭。12月24日義晴元服後,次日就被任命為第12代將軍。 大永六年(1526年),細川高國的家臣香西元盛被殺,細川氏內部糾紛因此而起。與高國對立的細川晴元,在阿波國人三好元長的援助下,擁立義晴之弟義維,並與高國開戰。元盛的被殺後,其兩位兄長波多野稙通、柳本賢治等叛離高國。大永七年(1527年),桂川原之戰中細川高國被打敗,細川晴元及實權掌握者三好元長等人攻入京都。義晴與細川高國、武田元光等人逃亡至近江國。 享祿元年(1528年),在近江國人朽木稙綱的幫助下居住在朽木(興聖寺),以若狹守護武田元光等軍事勢力為後盾,同三好元長所擁立界公方足利義維對立。享祿四年(1531年),細川高國在中島之戰中被打敗,不久又在大物崩中兵敗自殺身亡。 戰後細川晴元與三好元長對立。天文元年(1532年),細川晴元聯合本願寺的一向一揆對抗三好元長(享祿天文之亂),義晴移駕近江國的桑實寺,試圖回到京都。晴元在得到本願寺之協力下廢去界公方義維,三好元長也被殺。天文三年(1534年)在六角定賴、六角義賢父子為後援下,義晴得歸回京中。此時將軍權威完全蕩然無存,成為傀儡。但義晴一直試圖恢復將軍權力,設立由自己親信組成的內談眾為政治中樞,試圖親政。同時迎娶朝廷重臣近衛家的女子為正室,試圖得到朝廷的支持。 天文十年(1541年)因與細川晴元不和,逃往近江的阪本;次年回到京都。天文十二年(1543年)再次逃往近江。 天文十六年(1547年)義晴進入瓜生山城,同細川晴元對立,但被晴元擊敗(舍利寺之戰)。此後義晴將將軍職讓給其子足利義輝,並以大御所的身份繼續執掌幕政。不久與細川晴元達成和解,回到京都。但天文十八年(1549年)又與細川晴元及其重臣三好長慶發生對立。江口之戰戰敗後,義晴與義輝一起逃往近江朽木谷。 天文十九年(1550年)在近江穴太死去,享年44歲。葬於義晴地藏寺。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%B9%89%E6%99%B4
足利義澄 Ashikaga Yoshizumi(1481年-1511年) 足利政知的次子、母為武者小路隆光之女、養父足利義政、足利義尚,正室為日野阿子、繼室為斯波義寬(一說六角高賴)之女.武衛娘;法名清晃、初名義遐,不久改名義高,後改為義澄,別名阿波御所。 父親政知為關東伊豆的初代堀越公方,義澄出生之時,父親將義澄異母兄茶茶丸立為嫡子,當作堀越公方的繼承人。根據在職的幕府將軍足利義政的安排,義澄被送到京都天龍寺的香嚴院出家,並於文明十九年(1487年)六月到達香嚴院,法號清晃。 長享三年(1489年)三月,擔任幕府將軍的從弟足利義尚死去,其父足利義政失去後繼者。翌年義政也死去,室町幕府將軍之位空虛,義澄被幕府選為足利義政的猶子,並成為將軍候選人之一。義澄雖有管領細川政元的支持,但足利義視的兒子足利義材(足利義稙)卻在足利義政的遺孀日野富子的推舉下成為第10代將軍。 延德二年(1490年)四月二十七日,日野富子決定將自己曾經居住過的小川御所讓給義澄居住。足利義視認為日野富子準備將義澄立為將軍的繼承人,因此在翌月拆毀小川御所,這導致足利義稙與日野富子的關係惡化。 明應二年(1493年),管領細川政元聯合日野富子、伊勢貞宗等人發動明應之變,廢去將軍足利義稙,幽禁於龍安寺;隨後讓義澄元服,擁立為第11代將軍(此時改名為義遐,不久改名義高)。但義澄沒有實權,實權掌握在日野富子、伊勢貞宗等人手裡。而且前將軍足利義稙也逃出幽禁地,號召各地支持者反對幕府。 文龜二年(1502年),日野富子死去,義澄試圖親政(此時改名為義澄),因此與被時人稱為「半將軍」的管領細川政元發生對立。細川政元辭去管領一職前往丹波,義澄親自率部前往慰留,包圍政元於岩倉的金龍寺(妙善院)。為重任管領一職,細川政元與伊勢貞宗達成協議,派人殺害留在京都的足利義稙的弟弟實相院義忠。 實相院義忠是政元所主意的將軍繼承人,殺害義忠使細川政元廢黜義澄一事成為泡影,此後細川政元與義澄一直試圖維持著關係。 永正四年(1507年)細川政元被暗殺,細川氏(京兆家)陷入爭奪家督之位的內訌中(永正錯亂)。翌年四月,周防守護大內義興得知此事後,擁戴前將軍足利義稙進軍京都。義澄在近江守護六角高賴的擁護下逃奔朽木谷,後逃往蒲生郡水莖岡山城。七月,義澄被廢黜,義稙再次成為將軍。 義澄恢復自己的勢力之後試圖復辟,派遣細川澄元、三好之長、三好長秀等進攻京都,但為細川高國、大內義興、畠山尚順等人所敗。隨後義澄派人暗殺足利義稙的陰謀宣告流產。 永正七年(1510年),足利義稙派遣細川高國、大內義興攻打近江,被近江國人眾擊退。此後義澄又向豐後國的大友親治、播磨國的赤松義村發出御內書,尋求復辟的支持。 翌年八月十四日,義澄同足利義稙、細川高國、大內義興對峙時,在近江國水莖岡山城死去,年三十二歲,戒名法住院殿旭山道晃。 出處 http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BE%84
足利義稙 Ashikaga Yoshitane(1466年-1523年) 足利義視之子、母為日野重政之女、猶父足利義政、足利義尚,正室為細川成之之女・清雲院、側室為山名豊重之女;初名義材,後改名義尹,終改名為義稙。 長享三年(1489年)3月26日,從兄足利義尚在征討近江國六角高賴期間死去,義稙隨父親義視一起到達京都,參加義尚的葬禮,並希望成為義尚的繼承人。同時從兄香嚴院清晃(足利義澄)受到管領細川政元的推舉,政元反對義稙繼任將軍,因此執政的足利義政(足利義尚之父)沒有指定繼任的將軍。翌年正月,義政逝世後,義稙受到義政遺孀日野富子(母親姐姐)的推舉,成為第十代將軍。 義稙繼任初期,實權掌握在大御所父親義視手裡。延德三年(1491年)正月,父親義視死去,義稙同前管領町山政長協調,欲獨斷幕政。然而這卻將擁立義稙的日野富子推向對立面。同時管領細川政元也反對義稙並支持足利義澄,一時間許多幕府高官都反對義稙。同年8月,義稙不顧細川政元的反對,繼承前將軍足利義尚的事業征討六角高賴並成功將其驅逐。 町山氏在應仁之亂中分裂為町山政長和町山義就兩派。明應二年(1493年)2月,町山義就病逝,義稙、町山政長等率軍赴河內,討伐其繼任者町山義豐(町山基家)。 然而反對派趁義稙在外之機發動政變。4月,細川政元、日野富子、伊勢貞宗等人宣布廢黜義稙,擁立足利義澄為將軍。隨後肅清其在京都的黨羽,京都市中騷然。由於義稙是被後土御門天皇親自任命為將軍的,因此天皇非常憤怒,準備退位,但被權大納言甘露寺親長勸阻。而根據『公卿補任』記載,直到後土御門天皇駕崩之後,朝廷才承認足利義澄的將軍之位。 政變發生後,細川政元派人出兵河內國,擊敗義稙。町山政長自殺,義稙持足利將軍家的兩件傳家寶:甲冑「御小袖」和「御劍」,前往細川政元家臣上原元秀的軍中投降。隨後義稙被押往京都,幽禁在龍安寺。在此期間,日野富子指示毒死義稙,但失敗。 義稙在幽禁期間,得知自己將被流放到小豆島;同年6月29日,在側近人的幫助下逃離京都,到達町山政長的領國越中國的放生津,並受到政長家臣神保長誠的保護,在該地區豎立幕府,稱為「越中公方」或「越中御所」。後世史學家稱之為「放生津幕府」。此時義稙僅僅只是沒有實力的亡命者。 明應七年(1498年)9月,義稙決定與細川政元方面交涉,前往越前國受到朝倉貞景的庇護(於此時改名義尹)。同時得到町山尚順(町山政長之子)的支持,一起進軍京都。又有延曆寺、根來寺和高野山僧兵的呼應,一時進逼近江國。但在近江阪本遭六角高賴的擊敗,逃往河內國時又為細川政元所敗,義稙只得逃往周防國,投奔在應仁之亂中曾支持父親義視的大內氏,寄居大內義興的門下。町山尚順則逃往紀伊國。 永正四年(1507年),細川政元遭到暗殺,細川氏陷入內訌(永正錯亂)。義稙見機決定復辟;翌年4月,在大內氏大內義興的支持下聯合中國地方和九州的大名進軍京都,並得到細川高國等人的支持。6月佔領京都,放逐將軍足利義澄和管領細川澄元,7月復位為將軍。 此後義稙派與足利義澄派發生戰爭,但在永正八年(1511年)8月船岡山之戰爆發前義澄病死,而且此戰中義稙派勝利。義稙的將軍之位得到確定(於此時改名義稙)。義稙任命細川高國為管領、大內義興為管領代,並以大內義興為軍事支持。然而由於義稙有很強的親政傾向,永正十年(1513年)3月,由於與細川氏、大內氏、町山氏等家族的對立,義稙逃往甲賀,並在當地生病。一時間流傳著將軍死亡的說法,東寺和伊勢神宮為將軍的病癒而祈禱。同年5月,義稙與各家族和解並回到京都。 永正十五年(1518年)大內義興以領內有事為由,辭去管領代之職歸國。義稙同管領細川高國發生很深的對立。 大永元年(1521年)3月,義稙再次出奔,到達和泉國的界。由於同月將舉行後柏原天皇即位儀式,將軍的出奔可能會使即位儀式推遲。因此天皇大怒,在沒有將軍參加的情況下照常舉行即位儀式,命令細川高國擔任警備事務。 在後柏原天皇的同意下,細川高國擁立足利義晴(足利義澄之子)為新任將軍。而義稙失去朝廷的支持和信賴,逃亡淡路再次舉兵討伐高國,戰敗。 大永三年(1523年)病逝於阿波國的撫養,年五十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99

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