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一色義道 Isshikii Yoshimichi(生年不詳-1579年) 別名は一色義辰(よしたつ)・一色義通(よしみち)、「義」の字は室町幕府第15代将軍足利義昭より足利将軍家の通字を賜ったものである。官途は式部大輔、左京大夫。父は義幸、子に義定、兄弟に昭辰(あきたつ)、義清がいる。 一色氏は室町幕府の四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職の名分も宿敵である若狭武田氏に奪われ、長らく続いたかつての守護家の権威をもって丹後の実効支配を続ける状態にあった。 永禄元年(1558年)、父・義幸の隠居により家督を継承し加佐郡の八田守護所および建部山城に入り、実弟の義清を吉原城に配して丹後国の奥三郡を治めさせた。また同じく弟の昭辰(あきたつ)には「辰」の字を与え、彼は同じく将軍足利義昭より偏諱(下の「昭」の字)を授与されてその奉公衆として将軍家に近侍した。 義辰は昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立した。また、越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭将軍より丹後一国を正式に安堵される。しかし、比叡山焼き討ちよって追われた延暦寺の僧を匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には織田家の武将である明智光秀と長岡藤孝による丹後国への侵攻を招いた。 翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、丹後守護所の詰城である建部山城も落城する。義道は但馬国の山名氏への亡命を企てて途中中山城に身を寄せたが、城主の沼田幸兵衛は長岡方に内応したため行き場を失って自害した。(細川家譜には丹後平定戦の最中に病死したとある) 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?) 三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。 しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。 しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。 元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。 しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。 織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。 天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。 天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
三好政勝 Miyoshi Masakatsu(1536年-1632年) 天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。 戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。 やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に和泉の織田方の城を落したり、15代将軍足利義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く比叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている(『信長公記』『尋憲記』)。降伏によって信長から9月20日に摂津豊島郡をあてがわれた(『寛政重修諸家譜』)が、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した(『福地源一郎氏文書』)。 しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている(永禄以来年代記)。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西長信(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。 本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである(『太閤記』)。秀吉の死後は慶長5年(1600年)に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として1400石余を加増され(『寛政重修諸家譜』)、河内三郡の内で2020石を領した。その後は慶長9年(1604年)に因幡守に任官し、大坂の陣にも出陣し、戦場であった河内の案内に功績があったとして表彰され、鷹狩の許可を得た上茶器を与えられるなど厚遇された。徳川秀忠の御咄衆となり、寛永8年(1632年)に96歳の長寿を全うした。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D
三好政康 Miyoshi Masayasu(生年不詳-没年不詳) 三好三人衆の1人。初め右衛門大輔政生、続いて下野守政康と名乗る。後に出家し、釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)と名乗った。 続柄に関しては諸説あり、『続応仁後記』では「三好之長の次男の孫三郎頼澄」とされる。また、『三好別記』によると「三好之長の弟・勝時の子である政長の子」とあり、『狩野文書』の元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によると、一任斎こと政長の子・三好政勝に宛てた手紙の書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記され、下野守政康は政勝の兄と記されている。また『芥川系図』では「政長の子、右衛門大夫政勝の弟」とする。頼澄の子とする場合、兄は三箇城主三好政成とされる。 なお、政康という名は『細川両家記』の誤謬が伝播したものといわれ、他の一次史料などによれば本名は政生(まさなり)となっている。 はじめ細川晴元の家臣として仕え、一族の三好長慶と争うが、後に和解勧告に応じ臣従。長慶の勢力拡大に貢献し、弘治元年(1555年)の丹波八上城攻めや永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に参陣して武功を挙げた。長慶の死後は甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。おしどりを形どった花押を用いていたという。永禄8年(1565年)5月19日、他の三人衆と共に三好氏と対立する室町幕府13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。 しかし、次第に畿内の主導権をめぐり久秀と三人衆との関係は悪化。11月16日、三人衆は河内飯盛山城を襲撃し、義継の身柄を河内高屋城に移すと、義継に久秀との断交を約束させ、義輝の従弟の阿波公方の一族足利義栄を14代将軍に擁立し、三好氏の本拠地である阿波の篠原長房の協力を得ることにも成功した。12月下旬には義栄に御教書を発行させ、軍を久秀の本拠地大和に進駐させ、筒井順慶らを味方につけ久秀を脅かした。一方の久秀は紀伊に逃れていた畠山高政・安見宗房らを扇動して高屋城を襲撃させ、永禄9年(1566年)2月に河内において畠山軍は三人衆に決戦に及んだが、三人衆は2月17日の上芝の戦いで畠山軍に大勝、久秀は大和へ退却する。4月に三人衆は再び大和に侵攻したが、久秀は城を脱出し堺において味方の軍を結集して、再び高屋城を脅かした。そのため三人衆は義継の親征を仰ぎ、摂津の池田勝正や淡路の安宅信康の援軍も得て久秀の3倍の軍で堺に迫ったため、5月30日に久秀は戦わずして逃亡した。この時、阿波の篠原長房が足利義栄を擁し大軍を率いて兵庫に上陸すると、三人衆はようやく長慶の喪を発表して葬儀を実行し、長房の援軍も得て三人衆は畿内の反対勢力をほぼ一掃することに成功した。 8月23日には義栄を摂津越水城に迎え主君として遇したが、これが義継の不興を買い、永禄10年(1567年)2月に義継は出奔、久秀を頼って三人衆と敵対するようになり、三好康長らも三人衆から離反したため、久秀は復権し三好家は再び分裂抗争することになった。大和での東大寺の大仏の炎上事件がおきたのもこの時期の戦乱においてである(東大寺大仏殿の戦い)。しかし戦局は三人衆が有利で、東大寺での敗戦後から立ち直り久秀方の信貴山城を落とし多聞山城を包囲した。 永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、義継・久秀らが織田氏に接近する一方で三人衆は信長との敵対の道を選んだが、9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、政康も城主であった山城木津城から退いた。以後は石山本願寺や信長と不仲となった義昭らを巻き込み信長との抗争は激化したが、畿内での兵乱(元亀兵乱)が信長の優位で決着すると政康の動向は不明となった。死去した時期について、今谷明は消息不明になり没年すら定かではないとしている。一方で天野忠幸は、『二条宴乗記』における永禄12年(1569年)5月26日の記事から5月3日に阿波で死去したと指摘している。 なお、豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳という高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せいかい)という人物が政康の後身という俗説がある。また、講談に登場する真田幸村の部下の「真田十勇士」の1人である「三好清海入道」のモデルになったとされることがある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%BA%B7
三好義繼 Miyoshi Yoshitsugu(1549年-1573年) 十河一存的長子、養父為三好長慶、正室為足利義晴之女;幼名熊王丸,初名十河重存、繼承三好家,名為三好義繼。 義繼出繼三好本家的過程說法不一。一般認為是三好義興死後長慶無嗣才將義繼順理成章的過繼過來,這是順理成章的。不過據『十河家傳』所言,早在十河一存在世時,就已將義繼出繼給其兄三好長慶為養子,而以二哥三好義賢的次子為十河家的養子,這樣三兄弟之間的聯系便得以加深,而後一存又以義賢在阿波的強大軍力為後盾逐步控制贊岐全境。可以肯定的是一存在永祿四年(1561年)四月病逝之後,是十河存保進入十河城繼承十河家,並在其父三好義賢的授意下將居城遷到東贊岐的虎丸城,由此可見義繼出繼三好本家的時間肯定是在一存死之前,所以才無法繼承十河家家督。另外,義繼之所以能出繼到三好家,很大程度上是因為其母是公卿九條稙通的獨生女,而義繼由此便是五攝家的外孫,這種關系自然有助於長慶加強與公卿間的聯系,而對於正試圖掌控畿內的長慶來說,這是非常重要的,結合以上種種原因,義繼在十河一存病死前就過繼到三好本家,也是不難理解的。如果說是長慶主動要義繼過繼到本家,以加強一門眾力量也有很大的可能。 不過過繼與繼承根本就是兩回事,長慶已經有一個非常優秀的嫡子三好義興,讓義繼過繼過來,也只不過是希望他以後在義興身邊發揮義賢之於長慶的那種作用吧。義興在跟隨長慶奮戰畿內時已表現出優秀的才能,永祿四年(1561年)左右長慶已經開始在做著將家督之位讓給義興的准備。從永祿四年(1561年)到永祿六年(1563年)這一段時間三好家的政令,大都是由三好義興發布,松永久秀協助執行,長慶處於半退隱狀態。然而在永祿六年(1563年)八月22日,風華正茂的三好義興卻突然發急病死掉。關於他的死有人一般說是瘟疫,但更多的說法認為是被松永久秀毒死的,因為在這兩年多的執政過程中,義興的英明果敢與久秀的權力欲望不可避免的產生沖突。此事使長慶遭到最撤底的打擊以至幾近崩潰,而後便長期臥床不起。另一方面三好本家的繼承人之位便落到義繼身上,永祿七年(1564)六月22日,義繼被准許以家督繼承人的禮儀上洛,同行的有三好長逸、松永久通等家臣及廣橋大納言國光等公卿,隨行人數達到四千人。六月二十三日,義繼進見將軍足利義輝,得到繼承三好氏家督的正式許可。七月四日,三好長慶病逝,義繼正式成為三好家督,同時由重存改名為三好義繼。 永祿八年(1565)四五月間,三好義繼在松永久秀的陪同下率三好大軍再度上洛。五月19日上午,松永久秀與三好三人眾突然攻入二條城,殺害將軍足利義輝,顯然是得到義繼的許可。而後三好軍在京城橫行到七月份,才在七月五日歸國。從義繼繼任到此期間,松永一直擔任輔佐一職,操縱義繼的行事。十月份,三好三人眾與松永久秀在河內國發生沖突,十一月十六日,乘松永久秀在大和攻擊筒井順慶之機,三好三人眾從松永派的奉行人金山長信手中綁架義繼,並殺死長信,隨後脅持義繼對三好家內外發布義繼與久秀斷絕君臣關系的公告。從此三好家下轄畿內各國國人眾分為三人眾與松永兩派,開始長期混戰。在這一段時期義繼一直居於河內高屋城,處在三好三人眾的監視之下。 永祿十年(1567年)初,三好三人眾正忙於擁立平島公方足利義榮為將軍,乘此空隙,對三人眾一直不滿的義繼在奉行人也是叫金山某(可能與被殺死的金山長信有關)的安排下逃出高屋城,移據到界附近的材木町,受到池田氏保護,二月26日,與松永久秀達成聯合,而後便與久秀一起逃入大和,開始與三好三人眾的長期作戰。由於義繼在兩個勢力間的游移,河內、攝津的大小國人眾也開始反覆不定,而這也使得三好三人眾的立場變得可笑起來。而義繼之所以選擇松永,恐怕與松永毒殺義興的傳聞有很大關系,由於義興之死,義繼才得以繼承三好家,因此義繼對松永久秀不可能不報著一種感恩的心理。加上最初三人眾是以挾持控制義繼,足以使義興產生強烈的反感,在年輕人簡單的思路和個人好惡感影響下,義繼很自然的就投向松永久秀。然而他卻沒看到久秀笑臉下的反覆無常。 永祿十一年(1568年),信長擁代足利義昭入京,攻擊勝龍寺城兵力達到驚人的五萬之巨。受到強大威攝的義繼與久秀一起加入到支持義昭幕府的隊伍中,因為雙方有著共同的敵人,三好三人眾。第二年(1568年)一月,三好三人眾突襲足利義昭的住所,隨後義繼也率軍參加對足利義昭的救援,永祿十二年(1569年)三月五日,為表示感謝,足利義昭與三義繼一起放鷹,這也是當時莫大的榮耀。三月十六日,義繼與松永久秀一起參見信長,得到河內半國安堵的許諾。然而隨著信長對原三好領的全面侵入,義繼與久秀最終認識到最大的危脅就來自織田方,元龍二年(1571年)二月,松永久秀反叛信長,與三好三人眾達成和解,在此事表面上看義繼是保持中立的,實質上他卻一直與松永聯合行動。 元龜二年(1571年)年底到第二年年初這段時間,義繼與松永久秀一起致力於恢復畿內勢力,攻入之前倒向織田方的國人眾。元龜三年(1572年)四月,義繼與久秀從河內和攝津進攻敵對的細川昭元領地,八月份包圍昭元的居城中島城,年底,三好三人眾也加入對中島城的攻擊。第二年二月27日,中島城陷落,細川昭元逃往界。這一段時期正是武田信玄上洛的取得巨大進展,將軍足利義昭由此公然起兵反抗信長,並得到三好義繼的支持,究其原因,義繼當年救援義昭已使兩人結下深厚情宜,而義昭此後也用盡辦法籠絡義繼,甚至不惜將自己的妹妹嫁給義繼作後妻,一向以個人好惡決定立場的義繼自然而然的就站在義昭一方。此時三好三人眾也出現在支持義昭的隊伍中,可以說這是三好家內近十年來頭一次真正的聯合對敵,也許義繼已把這次支持義昭看成三好家再度興盛的契機吧。然而天有不測風雲,四月信玄於上洛途中去世,同月信長包圍義昭的二條城,義昭顯得不堪一擊,在交出人質後與信長講和,七月,義昭在宇治再次兵敗,二十一日,逃入義繼的居城若江城,八月二日信長軍攻擊澱城,三好三人眾中的岩成友通戰死。 十一月五日,足利義昭離開若江城逃往紀伊,十六日佐久間信盛與明智光秀攻擊若江,遭到義繼的頑強抵抗。在此關頭若江的三家老多羅尾右近、池田丹後和野間左吉聯手殺死被義繼委以處理庶政的金山駿河守,而後又打開城門引入佐久間信盛軍,其余各部織田軍紛紛殺入城內,最終包圍天守閣,在此情況之下三好義繼已經完全絕望,留下「憂世もこれまで」(對世間的憂慮到此為止)的辭世句,義無反顧的親手殺死妻妾子女,在最後時刻他終於展現出鬼十河之子的武勇,持槍殺入湧來的織田軍,親手刺死多名敵軍,最後終因體力不繼而以十文字槍切腹,結束游移反覆的短暫一生,年僅二十五歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/1128716.htm
三好長治 Miyoshi Nagaharu(1553年-1577年) 永禄5年(1562年)、父が久米田の戦いで戦死したため、家督を相続する。伯父・三好長慶によって畿内の支配力を強めた三好氏の中でも、本国阿波を預かる重要な役割を担っていた。しかし幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。 有名な分国法である新加制式を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛するなどの事跡を遺しているが、いずれも篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の結果である。 足利義昭を奉戴する織田信長の上洛により劣勢となった三好氏は、本圀寺襲撃(六条合戦)でも戦果を挙げられず、次第に畿内から追われて本国に撤退した。 元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。摂津では、管領細川氏の嫡流・細川六郎(信良・昭元)を大将に担ぎ、三好一門の大半を結集して(信長派となった従兄弟である宗家の三好義継を除く)、織田信長との戦いに挑んだ(野田城・福島城の戦い)。この時は劣勢に追い込まれたものの、石山本願寺の加勢や近江での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。しかし、その後和睦して本国の阿波に撤退した。 元亀3年(1572年)には不仲となった重臣の長房を、異父兄である阿波守護の細川真之と協力して同年内に攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。だが、強権を振りかざす長治の治政に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けている。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(全讃史)。 天正3年(1575年)、三好氏にとって半世紀以上も畿内・和泉における根拠地であった顕本寺が法華宗であったことや、実休は晩年に法華宗に深く帰依して堺に妙国寺を建立するなどしており、長治も信者として阿波全土の国人や領民に対しても法華宗を強要した。ところが、国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、阿波一国の支配力さえ喪失しかねない状態まで悪化した。このような国内の混乱は、隣国・土佐の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発、海部城や大西城などが落とされた。 天正4年(1576年)には阿波守護細川真之とも対立し、これに真之を支持する元親をはじめ福良氏なども協力したため、長治は圧倒的に不利となる。天正5年(1577年)、長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い、敗死した。享年25。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%B2%BB
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳) 三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。 続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。 また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。 こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。 三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。 永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。 しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
三木通秋 Miki Michiaki(1534年—1584年) 天文3年(1534年)8月10日、三木通明(みちあき)の嫡男として英賀城内で誕生。天文13年(1544年)に元服して掃部助通秋を名乗り、三木氏の家督を相続し、英賀三木氏9代目の当主となる。 永禄12年(1569年)に赤松義祐と室町幕府15代将軍・足利義昭や織田信長の支援を受けた赤松政秀が対立した際には義祐方に与し、政秀の侵攻を受け窮地に立たされていた小寺孝隆(黒田孝高)の救援に駆けつけて、共に政秀を破り逆転勝利に貢献した(土器山の戦い)。 元亀元年(1570年)より始まった石山合戦では、領内に英賀御堂を始めとした本願寺門徒衆を多く抱え、自身も熱心な門徒であった事から顕如の檄文に呼応して挙兵し、兵430人を畿内に派遣し石山本願寺に3,000俵を送って支援をして織田氏への対立姿勢を露わにし、親織田に傾きつつあった赤松義祐や、小寺氏・別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。 天正5年(1576年)に毛利輝元が本願寺支援を決めたことで毛利氏と同盟し、英賀に毛利家臣の浦宗勝の軍勢を上陸させて播磨きっての親織田派であった小寺孝隆を5,000の兵で攻撃したが、孝隆の奇策の前に敗退した(英賀合戦)。天正6年(1578年)になると小寺政職や別所長治などの播磨国衆が織田から毛利に転じたため、通秋は三木合戦の始まりを受けて海路を使って別所氏を積極的に支援し、援軍や兵糧を送っている。 しかし、天正8年(1580年)1月に三木城が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて2月13日(4月26日とする書もある)には陥落。通秋は子の安明(やすあき)ら一族とともに命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住して郷士頭となっている。 天正11年(1583年)12月16日に死去。享年50。遺体は播磨の西徳寺に葬られた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%A7%8B
上杉景虎 Uesugi Kagetora(1554年-1579年) 父:北条氏康、母:遠山康光妹、養父:北条幻庵、上杉謙信、正室:北条幻庵女、継室:清円院(長尾政景女)、側室:妙徳院(遠山康光義妹);幼名西堂丸または竹王丸,別名北条氏秀、北条三郎,号出西堂。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された(陰謀説、裏切り説等、これには様々な説がある。また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
上杉謙信 Uesugi Kenshin(1530年-1578年) 長尾為景的幼子、母為虎御前.青岩院、養父為長尾晴景、上杉憲政;幼名虎千代、初名長尾景虎;繼承上杉氏,名為上杉政虎;受足利義輝偏諱「輝」字,改為上杉輝虎;入道法名謙信,以「上杉謙信」之名為人所知。 天文五年(1536年)八月,父親為景進攻越中之前,預計到進程可能不會很順利,先將家督之位讓給長子長尾晴景。十二月,長尾為景在越中旃檀野與一向一揆作戰時中計敗死(另有病死說)。 為景一死,本來就不太平的越後國更加動蕩,各地豪強佔據一方,各自為政,儼然是個「小戰國」。當時謙信年僅七歲,穿著盔甲送為景下葬,國內的混亂可見一斑。按照室町時代武家的傳統習慣,沒有繼承權的幼子常常被送去出家。於是這一年謙信受戒於春日山麓的林泉寺名僧天室光育門下,學習禪與文武之道。 繼承越後守護代的長尾晴景,比謙信年長十八歲,是為景生前最疼愛的兒子。然而,晴景體質虛弱,沒有作為武將的統領之才,被國內的其它勢力所輕視。為緩和自己的窘境,天文十二年(1543年),晴景嘗試著讓十四歲的謙信協助強化統治權,入駐越後中部的栃尾城,在確保長尾家在越後中部領地的同時,牽制本庄繁長、色部勝長、中條藤資等敵對勢力。一開始,附近的國人眾們根本沒把這個少年放在眼裡。但謙信到城後,得到母親家的古志長尾氏和栃尾城代本庄實乃等人的援助,多次擊退敵對勢力的來犯,並很快將安田長秀、北條高廣、小河長資等國人眾收伏於帳下。在栃尾城的一系列作戰是謙信最初的戰爭經歷。天文十四年-天文十五年(1545年-1546年),守護上杉家的老臣黑田秀忠兩度佔據黑瀧城謀反,謙信代兄長晴景率兵平叛,表現神勇,最後依守護上杉定實之命消滅黑田一族。 謙信的聲望迅速壓倒晴景,國中漸漸有改立謙信為守護代的苗頭,這是晴景始料未及的。終於,難以容忍的兄長聯合上田長尾氏長尾政景、黑川清實等人,打出討伐自己弟弟的旗號。內戰中,謙信雖然兵少,卻以攻其不備之法大敗晴景軍。天文十七年(1548年)十二月,雙方由上杉定實做調解人達成和議:晴景引退,謙信作為晴景的養子繼承家督和守護代職,當時謙信十九歲。 天文十九年(1550年)二月二十六日,越後守護上杉定實病死。定實沒有兒子,守護家絕後。兩天後,將軍足利義輝承認謙信有白傘袋和毛氈鞍覆的使用權。這樣,謙信實質的國主地位得到認證。次年,一直不承認謙信地位的長尾政景降服於謙信麾下,越後長尾一族實現統一。天文二十一年(1552年),謙信被授予彈正少弼,從五位下的官位。 天文二十一年(1552年),上野平井城的關東管領山內上杉憲政抵擋不住北條氏康的攻勢,逃到越後求助於謙信。這成為謙信後來十四次進軍關東的起因。下一年,信濃的小笠原長時、村上義清、高梨政賴等來越後泣訴,請謙信幫助回復被武田信玄佔領的信濃領地。以謙信的性格,自無不允,當年八月就爆發對武田氏的第一次川中島會戰。是役雖然只是小規模的接觸,卻介紹謙信和信玄這對宿敵的相識,對其後整個戰國形勢的發展也造成不小的影響。 當年九月,謙信進京,為此前接受彈正少弼,從五位下的官位向皇室獻禮。後奈良天皇授予謙信天杯、御劍和「討伐對鄰國懷有野心之徒」的敕命。無疑,這等於給謙信攻擊武田、北條的名分。 然而,與進京的成功同時而至的是巨大的花銷,圍繞著這些費用的徵收問題在家臣中出現爭執。敏銳的武田信玄立即抓住這一機會。天文二十三年(1554年)十二月,越後刈羽郡北條城主北條高廣在信玄的煽動下自立,但三個月後就失敗投降。北條高廣是鎌倉幕府的名臣大江廣元的後人,越後國人中的實力人物,平日自負武略不遜於謙信,常懷異志。謙信待高廣卻顯得極為寬大,後來還讓他去上野廄橋城經略關東。十三年後的永祿十年(1567年),高廣受北條氏康支持再度謀反。然而越後和相模同盟時,謙信又一次饒恕高廣,依舊像從前那樣重用他。越後鬆散的主從關係由此亦可見一斑。 武田信玄幾乎沒有給謙信喘息的機會。緊接著在弘治元年(1555年)七月,因為締結三國同盟而無後顧之憂的信玄大舉進兵川中島,謙信亦駐軍於善光寺與之對抗。兩雄對峙一百五十多天,各自滴水不漏,互無建樹。最後由今川義元出面調停,議和罷兵,第二次川中島會戰結束。 收兵回國後謙信面臨的是一場內亂,有力家臣間的領土紛爭不絕。謙信被各種訴訟糾纏得心灰意冷,於弘治二年(1556年)三月在給自己的老師天室光育的信中留下「功成名就,急流勇退」的話,宣告隱退,欲獨自一人前往高野山(或說比睿山)出家。這一突如其來的舉動晴天霹靂般地令家臣們大吃一驚,宇佐美定滿和長尾政景二人慌忙召集重臣商議,以「景虎乃越後統合之中心,捨此無人可內服眾將,外御強敵」故,說服中條藤資,驅逐欲乘亂謀反的大熊長秀(大熊朝秀),極力懇請謙信復出。謙信趁機要求諸將提交聯合署名的起誓文書,並向春日山城送出人質。對此當然無人再敢表示異議。謙信的隱退可能只是一種計謀,但在內憂外患前,這出苦肉計式的隱退戲的確帶來強化家臣團統治的好結果。 從越後逃亡的大熊長秀到甲斐投靠武田信玄,上杉、武田間的和約至此破裂。弘治三年(1557年),武田軍進逼栃尾城,謙信親率大軍迎戰。素來以戰法穩健著稱的信玄極力避免打硬仗,只是以先鋒部隊作試探性的攻擊。信玄曾趁夜埋伏下騎兵五十和步兵三百,次日清晨故意放出三匹驚馬,意在誘使上杉軍奪馬而騷亂。謙信任由三馬在陣前狂奔許久,視若無睹。關於第三次川中島會戰的記載很不明確,大體上是沒有決戰就不了了之。 同年,關東管領上杉憲政再度逃到越後,將關東管領職、系圖、重寶等一起轉讓給謙信。為此謙信在永祿二年(1559年)第二次進京,由朝廷和將軍正式認許這一繼承。時值正親町天皇新立,同樣賜予謙信天杯和御劍。 永祿四年(1561年)3月,謙信以關東管領的名義,集合關東諸侯共計十一萬五千兵馬,討伐「逆臣」北條。北條氏康的居城小田原被大軍圍困逾一個半月,但絲毫沒有要陷落的跡象。同時,謙信在陣中收到北條的盟友武田趁虛進兵信濃的探報,無奈之下只得放棄攻取小田原的打算。謙信先順路去鎌倉,在鶴岡八幡宮舉行關東管領的正式就職儀式,接受上杉憲政的「上杉」姓和「政」字,改名為上杉政虎(同年十二月,受將軍足利義輝賜予「輝」一字,而稱上杉輝虎)。從鎌倉往越後的歸途中還攻取北條方的武藏松山城。 而武田信玄和決戰的機會,終於在永祿四年(1561年)夏的第四次川中島會戰中被謙信抓到。 謙信駐軍妻女山,與海津城的信玄對峙十日,雙方都有些一反常態:謙信雖然兵力只有信玄的三分之二,且已近缺糧,卻還是打打小鼓,哼著謠曲『八島』,悠閑地過著每一天;信玄在優勢兵力下毫無進展,採用軍師山本勘助的建議「啄木鳥戰術」,由高阪昌信、馬場信房、真田幸隆等率一萬兩千人的別動隊夜襲妻女山,信玄本陣八千人則守候於山前的八幡原。九月九日傍晚,在慶祝重陽佳節後,謙信照例在山頭遙望海津城,發現武田軍的炊煙比平時濃密,從而預感到武田的行動。九月十日天明,決戰的時刻到來,原來意圖守候伏擊的武田本陣遭受幾乎上杉全軍的突擊。據『甲陽軍鑒』載,當時有一位頭纏白絹,只露出雙眼的越後武士,騎馬突入武田中軍,揮刀直砍坐在折凳上指揮的信玄。信玄不及拔刀,只得以軍配團扇抵擋。第一刀使團扇碎裂,後兩刀砍傷信玄肘、肩部。信玄的近侍二十餘人急來救主,原虎義挺槍刺傷越後武士的馬屁股,馬驚而載著武士逃去。雖然『上杉年譜』說這位武士是謙信的「影武士」荒川伊豆守,『北越軍記』又說遭突襲的也是信玄的影武士,但民間依然傳說這是謙信與信玄的單挑。岌岌可危中的武田本陣因別動隊的及時來援而起死回生,後來豐臣秀吉評說道:「卯時至辰時上杉勝勢,辰時至巳時武田勝勢」。是役乃少見的惡戰,雙方均死傷慘重,戰後信玄一直迴避與謙信的正面對決。 三年後的第五次川中島會戰其實並未交鋒,雙方相持六十餘日,武田與上杉在信濃的拉鋸就這樣結束。信濃人口眾多、資源豐富,又沒有統一的勢力,自然成為武田擴張領地的突破口;而對於上杉來說,撇開道義上的原因,信濃也是越後聯絡關東的通道之一,更是保護越後安全的屏障。兩雄的爭奪在所難免。但是,正因為謙信與信玄棋逢對手,難解難分,二人把一生的過多時間耗費在信濃,錯過進取天下的大好時機,從而使織田信長的成功省不少力。這也許是川中島會戰最大的意義。 關於謙信的戰法之猛烈,後來在大阪戰役中表現神勇而得到德川幕府的感狀的上杉家臣杉原常陸說:「我等追隨謙信公時,歷大戰小戰不計其數,其酷烈無可相比者;縱不期生還之惡戰,亦未足得一感狀。今之戰猶如小兒投石打鬧,彷彿賞花遊山而得褒賞。」 永祿六年(1563年),北條氏康發兵五萬進攻武藏松山城。謙信率軍援救,未至,城已陷,遂移兵附近北條方的私市城。該城背依大湖,建於險要之地,難以卒拔。城的本丸臨湖,築得很高。謙信巡視時,見從本丸通往二丸的廊橋上張著竹簾,湖水中映出橋上站的一個穿素白單衣的人影。謙信三次見到這樣的人影,推測本丸中拘有不少作為人質的婦孺,就先令柿崎景家帶隊猛攻正門。待城內的注意力都被轉移到正門時,派人拆毀附近的民房,用柱子結成大筏投入本丸後的湖中,並故意發出很響的水聲,佯裝要從水路進攻。本丸的婦孺著實被嚇一跳,紛紛奪路逃向二丸。把守正門的兵將不明真相,見到本丸突然大亂,只道是城內有內應已佔據本丸,頓時無心再戰,自殺的自殺,投降的投降。謙信遂拱手而取此堅城。可見謙信用兵之機略。 在關東反反覆復的爭紛又持續好幾年,各方都沒有什麼大進展。永祿十年(1567年),武田信玄開始把矛頭轉向昔日的盟友今川,而三國同盟的另一端北條則站到今川一邊。為一起對付武田,北條氏康甚至與長年敵對的謙信和好並結成短暫的越相同盟。鑒於甲斐是內陸山國,而越後、駿河、相模都是沿海國,今川氏真建議三國共同停止向甲斐運鹽作為制裁。提議得到北條氏康的贊同,但謙信知道後卻說:「斷鹽而使甲州的民眾受苦,非有勇之人所為。勝負當在戰場上分曉,敵國之民亦人眾也,不可採取此等殘忍手段。」遂命藏田五郎左衛門運鹽往信濃深志的集市販賣。 元龜二年(1571年),北條氏康死,武田信玄與北條氏政重新結好後,攻德川家康於三河,開始他的進京作戰。織田信長與謙信締結同盟,謙信出兵信濃長沼,遙相聲援德川家康。時駐守信濃的武田勝賴部僅有八百餘人,勉強前來迎戰。謙信贊其勇,不欲以眾克寡,竟引兵退去。次年四月,武田信玄突然病死於進京途中。死前曾囑勝賴與謙信修好,並以為依託,由此可見其對謙信人格的肯定。謙信知信玄死,亦為之傷感,嘆道:「吾國之弓箭將不利矣。」隨即絕音曲三日,並遣使往海津城弔唁。有老臣進言趁機收復信濃,謙信以「乘人之危之舉,不齒為之」,未予採納。後武田勝賴違背信玄「死後三年不可出戰」的遺言,強行出兵,在長筱慘敗於織田、德川,元氣大傷,越後諸將復請乘虛進攻武田,謙信以同樣理由未准,至死不曾為難勝賴。 信玄死後,謙信與信長雖然還保持著表面上的友好,但決裂已只是時間問題。信長消滅室町幕府之舉使謙信認定信長是天下動亂的禍首,而被驅逐的將軍足利義昭也請求謙信進京再興足利家。從越後進京的道路是順著北陸道,經越中、加賀、越前至近畿。為此,謙信的軍鋒首先指向越中和能登。越中、能登原本都是守護畠山氏的領國,但能登的實權早已旁落入重臣遊佐氏、溫井氏、長氏、三宅氏等手中,形成所謂重臣合議體制。重臣之間明爭暗鬥,可是把畠山氏傀儡化卻是一致的。永祿九年(1566年),欲奪回權力的畠山義續、義綱父子被群臣逐出能登;繼承守護職的畠山義慶還只是個幼童,天正二年(1574年)也不明不白地死於變亂;其弟義隆上台後兩年就病死;群臣中勢力最大的長綱連索性扶立一個年僅兩歲的幼童為主。能登實際上處於極度混亂的無主狀態。至於越中,更早已是國人眾與一向宗勢力林立,其中不少以武田信玄為後盾。信玄進京的同時,謙信也曾出兵奪取越中的大部分地區。 天正五年(1577年),謙信平定越中最後的幾個據點,並順勢掃平能登除七尾城以外的所有地方。七尾城中群臣之首的長綱連與織田素有親交,一面閉城堅守,一面遣其弟長連龍向信長求援。九月,正在圍攻七尾城的謙信接到探報,以柴田勝家(一說為織田信長)為主帥的五萬織田大軍渡過加賀的手取川攻入能登。當時七尾城內已發生傳染病,許多士兵因而病死。十五日,倒向上杉方的遊佐續光、溫井景隆等發動叛亂,誅殺長續連、長綱連父子及其一族,七尾城在困守四十餘日後陷落。謙信隨即率三萬五千人馬迎擊織田軍。織田軍已在手取川前背水列陣,且人數佔優,但聞知七尾城已陷,謙信親自統兵前來時,竟畏其名而戰意盡失,乘夜撤兵。謙信隨後追擊,恰逢手取川漲水,織田軍難以渡回,登時混亂,在謙信的猛攻之下潰不成軍。戰後留在岸邊的織田軍屍體有千餘具,另外數倍於此的人淹死在河裡或被河水沖走。織田與上杉的第一次正面交鋒以慘敗告終。因為北條在關東有所動作,得勝後的謙信沒有乘勢進兵,而是退回越後。 翌年正月,謙信下達關東征討的總動員令。然而,謙信的生命也正隨著越後的積雪一起漸漸消逝。即將出陣前的三月九日,謙信突然昏倒於廁所,並失去知覺。謙信是戰國有名的酒豪,甚至騎在馬上也不忘飲酒,因飲酒過量而造成腦溢血。三月十三日,與世長辭,年49歲。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
不破光治 Fuwa Mitsuharu(生年不詳-1580年?) 家系には諸説あるが、不破隼人藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔・松井蔵人直家の子・直重が不破隼人佐を称したのに始まるとする説がある他、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が美濃国不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったとする説がある。 美濃国西保城主。早くから美濃国の戦国大名・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。 『浅井三代記』によると、近江国小谷城へ赴き浅井氏の家臣・安養寺経世と内談して信長の妹・お市と浅井長政との婚約をまとめ、輿入れの際には内藤勝介と共にお市の方に供奉したというが、同書は元禄年間に出版された軍記物で同時代の史料ではないことに留意する必要がある。 永禄11年(1568年)7月、信長が越前国の朝倉義景に庇護されていた足利義昭の呼びかけに応じて上洛を決意すると、和田惟政・村井貞勝・島田秀満と共に義昭を越前まで迎えに赴き、上洛戦で江北が平定されたときも、立政寺で待機していた義昭を迎えに派遣された。 その後は永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の小谷城攻め、同年9月の志賀の陣、元亀2年(1571年)9月の伊勢長島攻め、元亀3年(1572年)4月の交野城後ろ巻き、天正元年(1573年)7月の槇島城の戦い、同年8月の一乗谷城の戦いに参陣した。天正2年(1574年)には、越前の前波吉継が殺害されたのを受け、羽柴秀吉や丹羽長秀らと敦賀へ出陣、同年6月の伊勢長島攻めにも参陣した。 天正3年(1575年)8月、越前一向一揆平定戦に参陣し、一揆平定後に越前8郡は柴田勝家に預けられ、光治は佐々成政・前田利家と共に同国府中の2郡を治めながら、勝家に対する目付を務めることとなって、府中三人衆と呼ばれた。光治は同国竜門寺城を居城とした。以後は勝家の与力としても活動するようになり、天正5年(1577年)8月の勝家を総大将とした加賀国平定戦には、三人衆そろって参陣。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、勝家に率いられた「越前衆」の一武将として利家らと共に参加していたが、上杉景勝が越中国に侵入して小出城を包囲したとの報せが入り、勝家以下越前衆は直ちに出陣するよう命じられた。 しかし、完全に柴田勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正5年(1577年)2月からの雑賀攻め、天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)9月の伊賀攻めに動員されている。 越前国において死去したが、その年月には諸説あり、『戦国人名事典』では天正8年(1580年)12月14日、『美濃国諸家系譜』では天正9年(1581年)11月8日、『織田信長総合事典』では天正9年(1581年)以降、『織田信長家臣人名事典』では天正11年(1583年)頃としている。法名・雲樹道無大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
丹羽長秀 Niwa Nagahide(1535年-1585年) 丹羽長政的次子、正室為織田信長養女・桂峰院、側室為杉若無心之女;幼名萬千代、通稱五郎左衛門尉、渾名「鬼五郎左、米五郎左」、別名惟住長秀。 依照丹羽家譜的記錄,父親丹羽長政與信長父親織田信秀同為尾張守護斯波氏的家臣。但斯波氏已衰微,自斯波義統以後皆由織田氏為實際統治者。所以長秀在天文十八年(1549年)時就仕於織田家並擔任信長的近衛,後來更娶了信長二哥信廣之女。之後參與在天文二十一年(1552年)的萱津會戰和永祿三年(1560年)的桶狹間會戰,在永祿五年(1562年)時正式獲得一萬貫的知行,同時和柴田勝家、佐佐主知一起擔任寺領安堵的奉行職務。在信長推動兵農分立的政策後,要求領內重臣離開原本世襲的農田遷移至城下住宅,這個措施令一眾老臣感到十分不滿,而支持信長之意率先放棄,改以傭兵替代農民兵的既是丹羽長秀與柴田勝家兩人。 隨後在信長統一尾張的軍事行動中,丹羽長秀寢返了犬山城織田信清的家老和田新介及中島豐後守使犬山城反過來陷入信長軍勢的包圍,在城落後長秀因功受信長策為駐守犬山城的城將。對一統尾張的信長來說北進美濃乃必要的策略,從其父信秀的時代起織田家便長期對美濃展開一連串的行動,歷經齋藤家道三、義龍兩代,現今領主是第三代的龍興,不若乃祖的智謀亦不及親父的武勇,使信長得到北進的良機。由於後來各本太閣記的大興以及後人專看秀吉忽略其他織田家諸將等因素影響,使得這段期間還名喚木下藤吉郎的秀吉之功被過份地誇張為織田家進佔美濃的最大功臣,實際上當時作為信長部將的丹羽長秀同樣有著不俗的功績,長秀充分發揮其智謀武勇,在戰場上領兵攻下堂洞城,此外兵不血刃地在進攻猿啄城時截斷水源逼降城將,之後在秀吉策反大澤基康時施以援手,本身亦仲介加治田城的佐藤紀伊守改投織田家,丹羽長秀的穩重和柴田勝家的驍勇並列著名為織田家的一雙寶。 就在信長一統尾張即將進軍美濃的這段時間裡,織田家的風氣也慢慢開始改變,木下藤吉郎與瀧川一益等出身浮野的司令官從諸將中冒出頭來,不像柴田勝家對木下藤吉郎始終抱持成見,對這些新人丹羽長秀都採支持的態度。就像木下藤吉郎在信長攻下美濃後受命易姓,藤吉郎決意自丹羽和柴田兩人各借一字改姓羽柴,柴田勝家藐視地一笑,丹羽長秀則是開心地說:「是嗎?真是榮幸。」 美濃陷落後,明智光秀以將軍特使的名義來訪,督請信長幫助足利義昭擊敗三好一黨,上京就任將軍。信長在精密考量後先與淺井家建立姻親再假意和六角家談判,然後再出奇不意地出兵近江直驅上落,當時丹羽長秀與羽柴秀吉、佐久間信盛、明智光秀等在一天之內攻下六角家南近江箕作城被世人喻為奇蹟。 信長上洛後,不願後方大本營出現空虛的信長迅速回到岐阜,長秀受命與羽柴秀吉、中川重政、村井貞勝一同擔任京都奉行,在永祿十二年(1569年)丹羽長秀單獨發佈了遍照心院、誓願寺、三井寺花光坊的安堵,同年八月長秀對新降的池田勝正所領的界五力莊做出指示,並與中川重政一起本因寺學道中的知行進納進行確認,同時再次受命出戰伊勢,攻打大河內城的北田具教,與稻葉一鐵、池田恆興夜襲失敗。翌十三年,丹羽長秀先在三月和松井友閑一同擔任對界市的名物茶道具收集購入之職務,然後於四月對若狹廣野孫三郎、武田義統的忠節次第所領下安堵令,禁止渡邊太郎左衛門尉在愛宕山供料外畑村下司職務的不法行為。五月時與塙直政共同擔當鐵砲調達奉行,替織田家進行採購洋槍的事務。 金崎撤退後一直順風順水的織田家陷入了四面皆敵的窘局,越前朝倉家、北近江淺井家、阿波三好餘黨以及四處蜂起的一向宗教徒與不斷發出御信替織田家增加敵人的將軍足利義昭。元龜元年(1570年)四月自越前急遽迴轉京都的織田信長命丹羽長秀和明智光秀出使若狹向武藤友益徵收人質,並與當地公方眾一色藤長會面種下日後支配若狹的伏筆。在長秀於五月回到京都後,當年六月便再次被調上戰場,出陣江北和柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋賴隆於小谷城近邊放火,其後參加姊川之戰和池田恆興協助德川家康攻擊朝倉軍,戰後秀吉攻下橫山城,丹羽長秀也和河尻秀隆、水野信元、市橋九郎右衛門攻打佐和山城,降服淺井家猛將磯野員昌,得到信長厚信的丹羽長秀被封作掌管京、近江、美濃間要衝之地的佐和山城城主,領五萬石領地。 身任佐和山城城主後,丹羽長秀先是將犬上郡的在地領主收為麾下與力,後出兵與佐久間盛信、柴田勝家、中川重政攻打神崎郡的小川城、志村城,元龜二年(1571年)九月與河尻秀隆誘殺高宮右京亮於佐和山,並制訂多賀神社條規防止混亂。隔年,丹羽長秀和明智光秀、中川重政出兵打下木戶城、田中城。七月,和佐久間盛信、柴田勝家燒毀小谷城的城下町,在信長令下丹羽長秀完全封鎖住琵琶湖的水運將淺井、朝倉的對外物資流通切斷。 天正元年(1573年),信長交付給丹羽長秀軍船建造的任務,長秀在召集職人工匠商討後設計製出可拆裝的大型船,在七月五日船隻完工的同時馬上用來攻打將軍足利義昭的槙島城,倚槙島城之險自豪的足利義昭沒想到信長竟然從阪本口搭船穿越琵琶湖攻城,措手不及下城陷被擒,遭到流放,室町幕府足利家就此終結。將軍追放後,信長把軍勢開回江北圍籠小谷城,並且擊退應援的朝倉軍,更以丹羽長秀為先鋒深入越前打下一乘谷城,家督朝倉義景兵敗自盡,嫡男阿君丸也在信長命令下由丹羽長秀殺害。在淺井家的小谷城亦宣告陷落後,信長將毛頭指向伊勢的一向一揆,丹羽長秀和羽柴秀吉、佐久間信盛包圍桑名方面的西別所,攻下中島將監所鎮守的白山城。 在朝倉家滅亡後,丹羽長秀出鎮混亂的若狹確立織田家對當地的支配,對若狹長源寺和遠敷郡瀧村發佈禁令,然後在若狹的御料所接受敕命得到小濱城十萬石領地,並在隔年發佈西福寺寺領的安堵。天正三年(1575年),信長任命的越前守護前波吉繼(桂田長俊)被一向一揆勢力所殺,近在咫尺的丹羽長秀和羽柴秀吉、明智光秀立即出兵鎮壓,和柴田勝家領兵攻下鳥羽城。同年四月,與村井貞勝一同處理將國人眾侵佔地歸還公家眾本領的事務,並在閏十一月,丹羽長秀對若狹遠敷郡鐵屋安堵,妥善安排鐵屋職讓他們繼續為織田家效力鑄造鐵砲。而織田信長也在此時奏請朝廷賜官給他麾下的將領,如柴田勝家官拜修理亮、瀧川一益官拜左近將監。同時期明智光秀得到「惟任」一姓和日向守的官位、塙直政改姓「原田」,拜備中守、粱田廣正易「別喜」姓,封右近大夫、羽柴秀吉拜領築前守一職,令人注目的是丹羽長秀堅決不受越前守一職,僅接受「惟住」的姓氏,依照這次信長大賜官的過程看來,織田家軍團的東西分立該是由此而見,「惟任」、「原田」、「別喜」、「惟住」都是以往鎮西的大姓,顯見拜領了築前守、日向守等九州官職的明智光秀、羽柴秀吉等人該當是往西前進的軍將,然而當時往東的上、中、下三路已分別由北陸的柴田勝家、東海道的德川家康負責,正中與美濃相接的木曾路也有信長嫡子信忠擔綱與不斷對武田部將宣慰的瀧川一益,毫無丹羽長秀可建功的餘地,反觀對西國戰事尚未正式開啟,發揮空間依然很大,所以丹羽長秀拒受越前守,改姓「惟住」該是意圖指染西線戰事的象徵。 天正四年(1576年),丹羽長秀奉信長之命修建安土城,擔任普請奉行。同時身為織田譜代家臣的長秀也率領著若狹眾與瀧川一益、荒木村重組成遊擊軍團,以援軍身份往援在各地方作戰的柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉等軍團,在當年五月協助佐久間信盛圍攻石山本願寺。翌五年二月和佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉轉戰紀伊與協助本願寺的當地國人眾交戰,與明智光秀、瀧川一益合攻鈴木孫市的居城,之後隨柴田勝家出陣加賀迎戰攻下能登後南下的上杉謙信,在手取川戰敗,引發連鎖效應松永久秀起兵反叛,丹羽長秀和瀧川一益、羽柴秀吉協助織田信忠攻入大和,打下多聞城、信貴山城,戰後駐於大和在藥師寺發佈禁令管理當地治安。天正六年(1578年),丹羽長秀再度擔當明智光秀的援軍出兵圍攻丹波八上城、攻打園部城。然後火速轉援在播磨吃緊的羽柴秀吉,先攻下志方城,然後轉入但馬侵略神吉城。十一月,在傳來荒木村重盼變的消息後,丹羽長秀便和瀧川一益、羽柴秀吉、明智光秀隨織田信長展開對村重的圍殲。天正七年(1579年),在安土城落成時丹羽長秀因功得到珠光茶碗和備前長光的名刀。 天正八年(1580年),丹羽長秀隨柴田勝家出陣加賀,平定當地的一向一揆,由長秀自小濱經海路進發截斷一向勢力的物資補給路線。在轉戰各地的同時,丹羽長秀和其他軍團長最大的不同處便是他仍然擔綱著織田家的各項重要內政工作,在五月時替天主教在安土城城下町興建禮拜所,由於之前僅考量到武士的居處,所以未留下多餘的空地,因此在長秀臨時受命後便索性挖山填湖,用山泥將鄰近的湖邊低窪填成平地興建。之後再天正九年(1581年),在正親町天皇觀閱下的大軍事演習中經由信長欽點,丹羽長秀統領武田元明、內藤、熊谷、粟屋、逸見、山縣等若狹眾擔任一番手的馬前率先行進。同年九月,曾攻打伊賀失敗的織田信雄在精通忍術的瀧川一益輔佐下第二次對伊賀展開攻略,丹羽長秀隨軍助戰率領筒井順慶、蒲生氏鄉平定伊賀的名張郡。 天正十年(1582年),丹羽長秀隨軍出征甲信武田家,之後長秀受命輔佐信長的三子信孝應十河存保的求助出兵平定四國,丹羽長秀終在實質上成為一個地方的軍團長,然而緊接而來的本能寺之變讓準備好進佔四國的兩人下半生命運起了翻天覆地的變化,進軍河內森口時四國討伐軍的兵士聞得本能寺之變後逃亡大半,但丹羽長秀仍意圖奮力一搏和信孝帶兵討伐了光秀的女婿織田信澄,然後說服信孝前往尼崎與自中國戰線迴轉的羽柴秀吉聯合討逆。 在叛將明智光秀的戰鬥中,長秀先是在山崎之戰協助羽柴秀吉擊敗明智光秀。明白天下大勢所向的丹羽長秀在清州會議中與池田恆興一起成為秀吉最有力的協力者,支援秀吉擁立信長的年幼嫡孫三法師作為信長的繼承者,會議後加封近江高島・志賀兩郡,以大溝城為居城。自願屈居秀吉下風的長秀甚至還跟遠本地位天差地別的秀吉副將蜂須賀正勝一同擔任與毛利家締盟的職務,和吉川元春來往密切。翌年賤岳之戰時和秀吉聯手於海津口、敦賀口牽制柴田軍並封鎖琵琶湖水運,戰後秀吉加封越前一國與加賀半國能美、江沼兩郡給長秀,成為北之莊城城主,領地達一百二十三萬石,同時替丹羽長秀向朝廷奏請越前守的官位,並且賜姓羽柴。 晚年因身患腫瘤長年臥榻,同十二年時因為德川家康、織田信雄與丹羽長秀聯手的流言直上塵囂,所以秀吉藉機要長秀上洛朝見,病重的長秀屢次回絕,雙方關係一度惡化,最後是在重臣村上義明來回奔走下方告解凍。小牧、長久手之戰前丹羽長秀抱病離開領國進入大阪城,並且派遣嫡子丹羽長重參陣,後於天正十三年(1585年),丹羽長秀在病榻上切腹自盡,年五十一歲,法名為光寺大憐宗。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&parent=151&sn=306&lorder=66&ptitle=%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BB%8B%E7%B4%B9

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