首頁 Tags 足利晴氏

Tag: 足利晴氏

太田資正 Ota Sukemasa(1522年-1591年) 太田道灌的曾孫、太田資賴的次子、母為太田下野守之女、正室為難波田憲重之女;通称源五郎、法名三樂齋道譽。 太田氏出自清和源氏,其祖為源賴光的玄孫源賴政末子源廣綱,廣綱的子孫源資國住丹波國桑田郡太田鄉,以太田為苗字,稱為太田氏。室町幕府時期太田氏仕於上杉氏,後上杉氏被幕府任命為關東管領而跟隨移居關東。 最初,父親與兄長・資顯同於扇谷上杉氏仕官。天文五年(1536年)父親死後、由兄長繼承家督、由於資正和資顯相處不睦、就離開岩付城前往舅舅難波田憲重的松山城居住。之後、兄長投靠相模國的北條氏、資正則與憲重仍然仕於扇谷上杉氏。天文六年(1537年)、憲重與北條氏戰爭,失去了3個兒子及外甥隼人正、資正就成為憲重婿養子,並取得松山城的繼承權。 天文十五年(1546年)、主君上杉朝定在與北條氏康的河越夜戰中被討死、扇谷上杉氏滅亡。資正退出松山城、暫時在橫瀨氏支配下的上野新田安頓。天文十六年(1547年)9月、趁北條氏不備急襲松山城並將之奪回。同年10月兄長死去,12月趁當主不在時進攻岩付城、以軍事實力繼承家督。致使親北條派的一部家臣逃離投靠北條氏。但隨即遭到北條方反擊,同時松山城守備上田朝直也遭到北條氏寢返、並且圍攻岩付城、天文十七年(1548年)1月向北條氏降伏。之後、天文二十三年(1554年)4月拜領父親的美濃守名位。 相模北條氏與甲斐武田氏、駿河今川氏三國同盟後,關東後北條氏與越後上杉氏之間的抗爭隨之展開、資正當時為北條家臣、北條氏康考量資正乃名門太田家的末裔、名目上也是古河公方・足利義氏的家臣、於是將女兒嫁給資正的嫡男太田氏資。但是永祿三年(1560年),越後國上杉謙信率領關東大軍包圍小田原城(小田原城之戰),資正叛變成為上杉軍一方,從北條氏離反。氏康為了報復資正,幾度派兵攻擊武藏岩付城、松山城。 永祿六年(1563年)7月2日受朝廷任命為民部大輔。一說為北條氏對於資正採行的懷柔政策。但資正不為所動。 永祿七年(1564年),安房的里見義堯應上杉謙信之邀揮軍下總,打算從背後騷擾北條氏。太田資正亦率軍支持里見軍,雙方在市川北方的國府台決戰(第二次國府台之戰),但里見太田聯軍大敗。所幸5月經由上總酒井胤治(自北條方叛變)的支援下,仍保住了岩付城。7月資正前往密會了里見氏,但親北條派的長子太田氏資卻趁機聯合北條氏,將其弟弟梶原政景幽禁,順勢佔領了岩付城,將資正追放。資正前往投靠女婿成田氏長,永祿八年(1565年)5月試圖將岩付城奪還,可惜失敗。這期間出家,法號「三樂齋道譽」。後來資正先前往投靠下野宇都宮氏,繼而投靠常陸國的佐竹義重,成為佐竹配下。佐竹義重在攻取北條氏小田天庵的片野城後,將資正任命為城主。資正的次子政景則與大石氏合流,並協助佐竹家臣真壁久幹擴展佐竹勢力。柿岡城原本為真壁氏居城,梶原政景成為真壁久幹的女婿後,真壁久幹將居城柿岡城讓給梶原政景。 永祿十二年(1569年)甲相駿三國同盟崩壞,北條氏轉與甲斐武田氏為敵,並與越後上杉氏締結同盟(越相同盟)。北條與上杉的同盟使得關東國眾人心動搖,資正對於上杉謙信同盟締結的舉動持反對意見。同盟協議中涉及資正的待遇問題,北條要求上杉方應歸還原先佔領的片野城及柿岡城。資正無視上杉的要求,雙方因而產生裂痕。所幸在山吉豐守及河田長親調解下,於元龜三年(1572年)8月再度交涉,才讓關係緩和,進而天正三年(1575年)8月在資正奔走下,北條、佐竹與里見締結同盟。資正也在這時候與織田信長取得連絡。 天正六年(1578年)上杉景勝傳來上杉謙信的死報,即是由資正告知織田信長。本能寺之變後,北條氏與佐竹氏的鬥爭白熱化、天正十二年(1584年)5月發生沼尻合戰,6月時,資正的次男梶原政景突然與北條氏內通,自佐竹氏方叛離。7月北條與佐竹達成和議,佐竹義重出兵討伐梶原政景,於10月降伏政景,但政景之前的功績一概不承認。此後,資正的三男資武成為太田家唯一後繼者,並於天正十六年(1588年)繼任太田氏家督。 天正十八年(1590年)參加小田原征伐,曾針對小田原攻伐向豐臣秀吉獻策,並要秀吉不要自恃兵多將廣而輕視北條,引來秀吉不悅。雖然一心想要回歸故土,但仍然於天正十九年(1591年)9月病逝,年七十歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E6%AD%A3
小山秀綱 Oyama Hidetsuna(1529年-1603年) 小山高朝の長男。初めは父・高朝の1字を取って小山氏朝(-うじとも)、のち氏秀(うじひで)と名乗る。双方の「氏」の字はそれまでの慣例に倣い古河公方足利氏より偏諱を受けたものと思われる。「秀綱」はその後に名乗った諱である。 永禄3年(1560年)頃に家督を継ぐ。この頃の関東は足利藤氏(古河公方足利晴氏嫡男)を擁し、上杉憲政より関東管領を受け継いだ上杉謙信と足利義氏(藤氏の異母弟・生母は北条氏康の異母妹)を擁する北条氏康の二大勢力の狭間にあった。秀綱は永禄4年(1561年)上杉謙信による北条氏の小田原城攻撃に参加するが、永禄6年(1563年)には北条氏に内応。その翌年に居城の祇園城を謙信に攻められて降伏。更にその翌年には再度北条氏に通じるなど、小山氏の存続のために両陣営を度々移り変わった。このため、早くから北条氏側についていた弟の結城晴朝と度々争っていたという。 天正3年(1575年)に居城の祇園城を北条氏照に攻められたが、籠城してこれをしのいでいる。このときすでに北条氏から離反していた晴朝や近隣の宇都宮広綱・佐竹義重の協力のもと、北条氏政に和議を申し入れたが断固として聞き入れられなかった(『小山市史』)。 翌天正4年(1576年)に再び攻め込まれると、祇園城を開城し、嫡子伊勢千代丸(後の政種)とともに佐竹義重のもとへ身を寄せた。その後、祇園城は北条氏の直轄領として北関東攻略の拠点となっている。 その後、佐竹義重の協力の下、祇園城奪還を試みるものの、天正9年(1581年)には嫡子政種が戦死してしまうなど、思うようには進まなかった。 天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。 そのため、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条方として参陣せざるを得ず、豊臣秀吉によって改易された。旧小山氏領は弟である晴朝に与えられ、秀綱は晴朝を頼ることとなり、庶長子の秀広は結城氏の重臣に迎えられた。だが、関ヶ原の戦い直後に秀広が病死したため、秀綱は結城氏の越前移封には従わずに隠退して程なく病死したという。これにより戦国大名としての小山氏は滅亡した(家督は秀広の子の秀恒が継いだ)。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%A7%80%E7%B6%B1
小山高朝 Oyama Takatomo(1508年-1574年) 下野國を代表する勇將として知られた。古河公方・足利高基の偏諱を受けて高朝と名乘る。 永正十六年(1519年)、高基の意向を受けて小弓公方足利義明に味方する真裡谷氏の城である上總國椎津城を攻擊した武將の中に「結城六郎」が含まれており、これが後の高朝と推定されている。天文四年(1535年)頃に小山政長の養嗣子となって小山氏の家督を繼承した。なお、この際山川氏から來た同じ養子の小四郎を倒したとされている。 その後は父や兄と協力して、結城氏の敵對勢力と戰う。天文十六年(1547年)に父が死ぬと、その隙を突いて宇都宮氏が攻めてきたが、高朝は兄と協力してこれを驅逐した。 天文十八年(1549年)に北條氏康が古河公方・足利晴氏(高基の嫡男)の後繼に足利義氏を擁立しようと畫策したのに對して、嫡男足利藤氏を擁護する高朝はこれと對立する。だが、兄・政勝がその壓力に屈して義氏方についた上に自分の嫡男である秀綱までもこれに同調したため、隱居を余儀なくされ、永祿三年(1560年)頃に秀綱に家督を讓った。 永祿四年(1561年)に上杉謙信が大軍を率いて氏康を攻めたときは、上杉軍の一員として參じている。しかし、謙信の關東管領就任式で千葉胤富に關東諸將の首位の座を奪われたことに不滿を抱いたと言われており、直後に氏康と手を結んだために謙信の怒りを買うこととなり、翌永祿五年(1562年)、高朝は謙信に攻められて降伏した。その後は秀綱に小山城を讓り渡して榎本城に退き、永祿十三年(1570年)頃に出家して命察と號する。 兄の結城政勝の死後、三男の晴朝がその家督を繼いだが、晚年の高朝は結城氏の菩提寺の住職にあてて「自分が小山氏を繼いだ頃は、何かがあると兩親(結城政朝夫妻)が小山に來るので困惑したものだが、晴朝の事を考えると兩親の氣持ちが良く分かる」という趣旨の手紙を出して、自分に代わって晴朝を助けてくれる樣に求めている。一方、晴朝も同じ頃に父の健康が優れない事を聞いて、亂世で結城氏を守るためとはいえ父を攻めた罪に惱んでいる事を同じ住職に告白する手紙を送っている。この頃の關東は、古河公方家の內紛や北條氏と上杉氏の爭いの影響を強く受け、親子や同族が敵對する側に立って互いを攻め合う事が多くあり、小山・結城兩氏も例外ではなかったのである。 天正二年(1574年)、北條氏政を攻めようと軍備を整えていた直後に急死した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E9%AB%98%E6%9C%9D
小田政治 Oda Masaharu(1492年-1548年) 明応元年(1492年)、堀越公方・足利政知の子として生まれる。父の政知は前年に死去していたため、父の死後に生まれたことになる。また、室町幕府第11代将軍・足利義澄の弟に当たる。 但し、『小田事蹟』では小田氏第13代当主・小田成治の実子(三男)であるとしている。この場合、第8代将軍足利義政(政知の弟、1436-1490)から「政」の字を賜っている筈だが、政治が生まれた時には義政も政知に先立って亡くなっており、しかもおおよそ将軍が兄の11代将軍義澄(明応3年(1495年)から在任)の代になっているので、生誕年に誤りがない限りはこの説は誤りとみて良いだろう。よって、成治の嫡男である小田治孝がその弟の小田顕家に暗殺されたため、政知の子を成治の養嗣子に迎えたとする説が有力と思われる。この場合、名前については亡き父・政知と養父・成治から1字ずつ取ったということになる。 永正11年(1514年)、成治の死去により家督を継いで第14代当主となる。 古河公方の内紛では宇都宮成綱・忠綱、結城政朝らとともに足利高基を支持し、佐竹義舜、小山成長、岩城常隆・由隆、結城顕頼ら足利政氏を支持した戦国大名らと対立した。 また、高基が父・政氏に勝利し古河公方になったことで、関東南部で急激に勢力を拡大する後北条氏を危惧し、妹を佐竹義篤の妻にさせ、佐竹氏との関係強化を図った。 享禄4年(1531年)、石岡の戦いで江戸氏を破った。天文6年(1537年)には多賀谷氏と同盟して結城政勝と戦ったが敗れている。他にも古河公方足利家などと戦うなど、多方面で敵勢力と戦い、小田氏の勢力を拡大した。天文14年(1545年)の河越夜戦では足利晴氏に味方して敗れており、政治の晩年ころから小田氏の衰退が始まった。 天文17年(1548年)に死去。享年57。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%B2%BB
水谷正村 Mizunoya Masamura(1524年-1598年) 水谷治持的長子,妻為結城政勝之女-小藤姬,拜領結城政勝「政」字,又名水谷政村,法號蟠龍齋。 水谷氏源於藤原秀鄉的後裔近藤太能成之子能直,在能直隨源賴朝出征奧州時積功領田村莊地頭一職,之後其弟仲教繼承所領稱田村氏,到了仲教之孫重輔之時移封至近江犬上郡水谷鄉,遂又稱水谷氏。後來重輔之子清有領陸奧行方郡猿田七鄉,而居於猿田。 在南北朝時代裡,水谷氏隨結城朝祐跟從足利尊氏屬於北朝方,後在水谷勝氏擔任家督時輔佐結城成朝為回復舊領一事盡力,事後因功位列重臣之座,獲得長沼十二鄉、伊佐三十三鄉、中村十二鄉的領地,於長享元年(1487年)築下館城移居伊佐郡,與山川、多賀谷、巖上三家合稱結城四天王。 天文八年(1539年),武藏吉見城主大串武成、重義父子投向相模北條家,古河公方足利晴氏派遣近臣野渡光時領討伐,名義仍是古河公方臣下的結城政勝於是也出兵支援,由水谷治持和多賀谷家重領軍攻打大串領。此戰是水谷正村的初陣,役中年方十六歲的水谷正村隨父水谷治持出戰,擔任水谷勢的殿軍。當時大串氏也帶兵出戰與水谷、多賀谷軍在吉見、古河國境交接之處遭遇野戰,三百多賀谷軍與四百大串軍正面交鋒,另外二百水谷軍則自側面進襲,經過三日的死鬥水谷、多賀谷軍終擊潰大串氏,大串武成敗回城中自刃,而正村也於戰中討取了武成重元、侍大將田谷右兵衛尉以下等四十八顆首級。 大串合戰之後,水谷治持宣告隱居將當主之位正式交付給正村,同時在結城家中水谷、多賀谷兩族之間的關係卻日益惡化,此事起因為多賀谷家重在大串合戰中取得了大串武成的首級,時常吹噓戰勝之功全在多賀谷氏,輕視水谷軍的戰功,新接任家督之位的水谷正村自然不能忍氣吞聲墮了家威,於是兩人時起口角。當時多賀谷氏所領約有六萬石,水谷氏則只有一萬二千石,天文九年(1540年)時多賀谷氏的執事成田知虎過度無禮,惹怒水谷家臣鶴見內藏助,雙方爆發武力衝突,多賀谷家重遂領兵急襲下館城攻打水谷氏,兩軍在城下展開激烈的戰鬥。兩門重臣未抗外敵,反同室操戈的消息很快便傳入主家結城政勝的耳中,於是連忙派出使者居間介入,才讓兩家罷手,達成和議。 天文十三年(1544年),二十一歲的水谷正村迎娶了主君結城政勝的女兒小藤姬,拜領「政」字,又名水谷政村,同年出兵水谷、宇都宮領之間國境線上的中村城,然而鎮守著中村城的是宇都宮家屈指可數的猛將中村日向入道玄角,中村玄角以嫡子時長迎戰水谷正村,一度將正村往下館城方向迫回,水谷正村也刻意讓忍者散播出水谷軍敗象已現的風聲,使戰勝的中村父子志得意滿地在夜晚時召開酒宴,而水谷正村也伺機於中村城兵將酒酣耳熱之際率三百精兵夜襲,一夜之間逆轉勝敗情勢將中村父子擊敗,中村玄角被石垣落石打中身亡、中村時長逃向宇都宮家,水谷正村一舉攻克了中村城。為了防備宇都宮方的反擊,水谷正村在國境線上另築久下田城,並親自移居於和宇都宮家相接最前線的久下田城,把原來的本據下館城讓渡給三弟勝俊。 翌年天文十四年(1545年)二月,水谷正村的妻子小藤姬因為難產在生下女兒後過世,悲痛的正村遂在久下田城修建蟠龍齋芳全寺,同時結城家的乘國寺剃髮出家法號蟠龍齋,然而就在他為亡妻進行祭祀之時宇都宮方重臣芳賀高定的一門眾八木岡貞家亦受命出征還在修建的久下田城,水谷正村親自率兵出城進行游擊戰,待八木岡貞家攻城時由八木岡軍背後出擊,搭配家臣平澤七郎、村田治衛門統領的城內守軍兩邊挾攻,使八木岡貞家敗戰潰走。同年九月,適逢正村之父治持的忌日,八木岡貞家覬得此機,於忌日當天再度領二百騎兵出襲水谷勢。八木岡貞家的趁虛而入早在正村的意料之中,於是在祭奠之處設置陷阱並在八木岡貞家的退路上安置伏兵,待八木岡貞家殺入一瞬間陷阱隨之發動,令八木岡軍受創不少,同時水谷正村的伏兵也由後方襲來,八木岡貞家當下遭到水谷軍討取,水谷正村在取得八木岡貞家的首級後,以此開路領兵直取八木岡城,拿下了原屬於八木岡貞家的八木岡城。 中村、八木岡兩城相繼淪陷後,宇都宮家當主尚綱為了維持邊境領土的幅員針對水谷氏,於天文十五年(1546年)派遣武田信隆率三千兵馬前往攻擊久下田城,自知本身兵力不足以與宇都宮家主力軍相抗衡的正村遂向主君結城政勝求援,水谷正村匯聚了結城政勝的三百援軍後,將鶴見內藏助、平澤七郎統領騎兵七十人、步兵五百人隱於境內的芳全寺,叔父水谷治持五十騎兵及步兵五百人北方的大木戶,結城家的三百援軍,一百配置於西方的木戶、一百配置於南方的木戶,剩下的一百人則和水谷正村親自率領的五百騎兵鎮守城中。進入水谷領的武田信隆首先攻擊北方的大木戶,水谷治持不敵轉進城中,武田信隆領兵長驅直入,但是與水谷正村匯集兩軍後組成完整陣形使武田信隆一時難越雷池,而左右兩邊的結城援軍一齊殺出,令宇都宮軍陷入三方夾擊,就在宇都宮軍漸漸後退時芳全寺的水谷伏兵立時出擊,宇都宮軍終於全潰,總大將武田信隆以下秋山三右衛門等三百人陣亡,己方更只有戰死騎兵二十八人、雜兵八十餘人的小損失,這也是水谷正村初次將洋槍用於戰場上。 天文十六年(1547年)五月,多賀谷氏在小田政治奧援下反出結城家於下妻自立,多賀谷重政、政經父子更與小田家的軍勢聯合出兵結城領,但是卻為結城政勝於關郡擊敗,翌年水谷正村在結城政勝的命令下與真壁氏朝聯手逼進下妻攻打多賀谷氏,多賀谷重政、政經父子戰敗降服。天文十七年(1548年)二月,小田政治辭世,水谷正村成功說服真壁城主真壁氏幹取消跟小田氏的盟約轉而和結城氏締盟。弘治二年(1556年),結城政勝動員水谷正村、山川氏重、巖上但馬守、多賀谷政廣等家臣集結軍勢加上古河公方、北條家的援兵以三千士兵包圍小田家的海老島城,並在山王堂截擊前來援助海老島城的小田氏治獲得大勝,小田軍戰死近五百人,小田氏領中郡四十二鄉、田中莊、海老島、大島、小栗、沙塚、豐田全為結城家所奪。 永祿二年(1559年)八月,結城政勝病故,結城家迎小山高朝之子晴朝為新當主。隔年,上杉謙信以身為關東管領之名義在佐竹氏的要請下擁上杉憲政兵進關東平原,本來傾向北條家的主君結城晴朝在水谷正村的勸說下倒向上杉方,正村之弟水谷勝俊也附上杉軍驥尾參加攻打下總臼井城,而水谷正村也在結城晴朝麾下與多賀谷氏、山川氏一同參加圍攻小田原城。在上杉謙信退兵後,關東一帶北條家勢力再次興起,此後兩家勢力在關東時有變化消長,而結城晴朝也就在其間首鼠兩端、搖擺不定。 永祿十一年(1568年),時年四十七歲的水谷正村隱居把家督寶座讓給親弟勝俊,但是正村依然活躍於結城家的各處場合中,除了以猛將之名威揚四鄰外,施政上每逢欠收之年便減免年貢的三分之一,因善待領民而廣泛獲得人民的愛戴,並修繕破損的神社佛閣,同時引進白木綿和宇治的茶種提升領國的產業育成。並於外交方面與織田信長、德川家康結交,獻上獵鷹、駿馬,獲得信長回贈的唐物茶入、陣羽織。天正元年(1573年),多賀谷政經再度反出結城家,但為水谷正村於野殿不動阪擊敗,之後多賀谷政經與佐竹、宇都宮、小田圍攻當時和北條家親善的結城家。天正二年(1574年),結城家在宇都宮、佐竹氏的軟硬兼施下投向上杉家,北條家遂於天正五年(1577年)由當主氏直親自發兵,連同父親氏政、叔父氏照攻打結城家。水谷正村、勝俊兄弟聞訊後立即聯合同在反北條陣營中多賀谷氏一起出兵援護主家,其後佐竹義重、宇都宮國綱、那須資胤也都陸續發兵參陣抵抗北條家,最後在上杉軍亦出發來援後,北條家終退兵撤走。 天正六年(1578年),反北條陣營的大黑柱上杉謙信腦溢血身亡,多賀谷重經於翌年再次對結城領發動攻勢,將關郡的大半收入其支配之下,就在重經想收割更多戰果時,水谷正村已然出兵於雛子阪阻其攻勢,在連續四日的戰鬥裡水谷正村以勇猛突進的戰術,硬生生逼退了本在兵力上佔有優勢的多賀谷重經。 天正十年(1582年),織田信長亡於本能寺,為了爭奪其遺領甲斐、信濃、上野,德川、北條兩家於甲斐對陣,期間水谷正村也做為德川方的援軍出兵至甲斐參陣,在新府城謁見德川家康。在德川、北條兩家達成協議締結婚盟,家康將女兒督姬嫁給北條當主氏直由德川家獲得甲信兩國、北條家取上野,德川家不進入關東。信長之死讓北條家在關東的勢力越見穩固,於是結城晴朝在此大勢下再次和北條家交好,水谷正村也因此受命在北條家攻打下野南部時,北上攻打從屬於宇都宮家的笠間氏。 宇都宮家中益子氏與笠間氏由於領地鄰接,在重疊連接之處時有紛爭,結城晴朝見縫插針誘降益子氏並以加藤大隈守父子為援協助益子重綱和笠間氏交戰,在益子氏為笠間氏擊敗後水谷正村便趁笠間氏攻略益子氏的金敷城之際出兵攻打笠間氏的本據田邊城,當時田邊城中只剩羽石時政、時義兄弟及百餘名城兵留守根本不是水谷正村的對手,被水谷軍先鋒鶴見俊行一戰破之,羽石時政更在肉搏戰中被水谷正村親手討取。 天正十四年(1586年),佐竹義重為協助宇都宮家壓制結城家以客將常陸片野城主太田三樂齋資正率長倉遠江守、真壁安芸守等三千兵馬侵攻水谷領,太田資正乃是曾經在上杉家中曾經打過、「川越夜戰」、「國府台合戰」等萬人大戰的老將,之後協助上杉謙信圍攻小田原城轉戰關東,名聲遠播。結城家臣片見伊賀守於太田軍途中在板敷山布防迎戰,但是被太田資正輕易攻破,伊賀守兵敗自殺。水谷正村在向主軍結城晴朝借來援軍後率一千二百騎由下館城出戰,將戰場拉至常陸大和村西部的弓袋卡,水谷正村親率五百士兵為主陣以水谷勝俊率領三百人擔任先鋒、第二隊水谷五郎率二百人經小栗路越過富谷、水谷四郎率二百騎走大國玉之道。而太田資正則以長倉遠江守領五百騎配置在櫻川,一開始雙方隔櫻川互相以弓矢交鋒,之後水谷五郎溯櫻川上游而至,水谷四郎也從犬田的山路轉北進入戰場,使長倉遠江守受到三方面的壓迫,於是太田資正讓太田六郎率三百騎壓制水谷五郎的軍隊,然後親率兩千兵力投入戰場,同時水谷正村也將所率的主力加入戰事,當兩軍各自重新整頓陣形後,太田六郎領一千兵由東與下館方的水谷勝俊交戰、此外長倉遠江守也領七百騎應戰西進的水谷五郎軍。太田三樂齋資正親身帶領一千五百軍勢與水谷正村的主力軍決戰,戰後雙方各自退卻,水谷氏討死五十餘人,太田軍則陣亡了二百之眾。 之後宇都宮國綱為了收復田邊城而出兵,水谷正村迅速反制以水谷五郎為先鋒率三百人出陣上三川,水谷勝俊擔當副將七百士兵經由長田行軍替水谷五郎押陣,然後親率一千兵士正面迎戰三千宇都宮軍。不過就在開戰前夕結城晴朝居中調解令兩軍罷戰。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉集結大軍出兵北條氏,包圍小田原城。水谷正村、勝俊兄弟與主君結城晴朝透過多賀谷重經仲介前往石垣山城拜謁豐臣秀吉參陣,戰後論功行賞得到所領常陸、下野三萬二千石安堵的朱印狀。慶長三年(1598年)六月,水谷正村於久下田城病逝,享壽七十五歲。之後其弟勝俊在關原之戰中加入東軍並協助牽制佐竹義宣,戰後加封下館四萬七千石,由結城家中獨立出成為一藩大名。 水谷正村在戰國時代中是罕見的少敗之將,受時人稱譽為「常勝蟠龍齋」名馳遠近,水谷正村除了作戰勇猛、悍不畏死外,他活用智計、眼光精準,善待人民令領民願為其效死命都是十分重要的因素。水谷正村曾經留下以家寶換糧食分給領民的逸話,此事雖然不一定為真,但已然可見他不但在戰場上善戰,同時也是一位擅長治理內政的領主,所以才會贏得人民的歌頌。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/67315206/1
白河晴綱 Shirakawa Harutsuna(1520年?-1573年) はじめ直広(なおひろ)と名乗り、1542年に左京大夫に任ぜられると同時に、当時の古河公方・足利晴氏の偏諱を受けて晴広(はるひろ)と改名、さらにその後晴綱(はるつな)と名を変えた。義綱から家督を譲られ白河結城氏の当主となったのはこの時期と見られる。 近隣の二階堂氏や田村氏、石川氏と和戦を繰り広げた。岩城氏とは友好関係を保ち、佐竹氏と抗争が起きた際には何度か調停を受けている。 伊達氏の天文の乱に晴綱は積極的に参加した形跡は見られない。しかし、1545年に晴宗から友好を求められたこと、同年に二階堂照行(稙宗婿)の領地を侵したこと、1546年に晴宗から田村義顕・隆顕(稙宗婿)父子を背後から牽制するように要請を受けた(それに応じた気配はない)ことなどが知られており、晴宗派であったと思われる。しかし一方で、稙宗とも友好関係を結んでいたようである。 1539年、下野の那須政資・高資父子が争った際、下総結城氏の結城政勝・小山高朝に協力して高資を支援した。 1551年には二本松義国と共同して、対立していた蘆名氏と田村氏を仲介し講和を成立させた。 内訌を克服し領内に侵攻してきた佐竹氏に対抗すべく、1555年に一門の筆頭であった小峰義親の室に蘆名盛氏の娘を迎え蘆名氏と同盟し、また小田原の北条氏とも同盟して佐竹氏と争うが、那須氏との争いも勃発するなどして、次第に勢力を失っていった。 晴綱の治世下においても佐竹氏の北進を止めることはできず、1560年に寺山城を、1564年には羽黒山城を佐竹義昭によって制圧されている。1574年には、義昭の跡を継いだ佐竹義重によって赤館城を攻め落とされて、南郷一帯はことごとく佐竹氏の支配下に落ちたという。 晩年は失明し、重病の床に伏した。嫡男の義顕は幼少だったため、白河結城氏は小峰義親が家政を執り行うこととなった。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E6%99%B4%E7%B6%B1
簗田晴助 Yanada Harusuke(1524年-1594年) 簗田高助之子,母為赤井若狹守照氏之女,元服後拜領主君足利晴氏的「晴」字,取名晴助。 簗田氏為桓武平氏的後裔,世居下野簗田鄉遂自稱為簗田氏,先祖俊助曾隨足利尊氏參與討幕運動,被編入足利氏家臣團中,其子經助在平一揆叛亂之際從屬於鐮倉公方,改易武藏小澤鄉,成為鐮倉公方的奉公眾。後晴助之父簗田高助輔佐足利高基順利繼任古河公方,在與父親簗田政助的鬥爭中勝出,挾威順勢進行庶家支族的被官化,以本據關宿城為中心,重整家臣團並建立有效的互助防禦網,並將女兒嫁給高基的繼承人足利晴氏,坐實在古河公方眾中的筆頭地位,並主導與相模北條家的盟約,讓足利晴氏迎娶北條氏綱之女為側室。 後足利晴氏轉向與上杉憲政、上杉朝定同盟,和氏綱之子北條氏康對立,在河越夜戰中慘遭痛擊,北條氏康趁機大力介入古河公方家的內政,先是遞書嚴詞向簗田高助問責,簗田高助為保全本家只好出家謝罪,將家督之位讓給晴助,並於天文二十一年(1552年)強迫足利晴氏廢除晴助之姐所生的嫡男足利藤氏,改以北條家女兒誕下的末子義氏為第五代古河公方。 受到如此的壓迫,深為不滿的足利晴氏在天文二十三年(1554年)再度圖謀與北條家對抗,簗田晴助有鑑於雙方實力相差太大,古河公方的權威早已一落千丈,斷無能與正在快速成長的北條家抗衡而諫言不可,卻不被足利晴氏接受,公開宣佈反出北條家,而被北條軍包圍在古河城。簗田晴助雖深知不可敵,但仍基於君臣之義聯同一色、二階堂氏出兵協防,但古河城依然為強悍的北條軍擊破,足利晴氏當場被縛,此後為北條氏康軟禁於相模波多野,繼任古河公方的足利義氏也以遷移居城至小田原城的名義被北條軍帶回相模,古河公方家就此於實質上滅亡,簗田晴助的外甥足利藤氏也在城破之後投向關宿城,接受簗田晴助的庇護。 在古河公方遭北條氏康傀儡化後,簗田晴助拒絕臣服北條家,因此被北條氏康透過足利義氏免去了他公方奏者的職位。但由於簗田家居城關宿城乃是築於利根川和江戶川分流間細長沙洲上的低濕地帶,簗田家世代倚仗古河公方家的權力,借地利之便,控制了關東北部的水運,不但可以利用周遭四通八達的水路運輸獲得被稱之為「舟役」的河關通行稅,確保經濟收入。一方面也可充分利用水路連結支城網於短時間內輸送大量的物資、兵員降低被敵人奇襲的風險,使古河公方家雖然為北條氏所滅,原先其帳下的古河眾一宮、二階堂氏等依然憑藉簗田晴助所掌握的關宿城聯合,因此北條氏康甚至說出關宿城的價值等若一國的高度肯定評論。 但若讓簗田晴助繼續掌有關宿城這處利根川水上交通的要地,顯然對北條家進軍北關東相當不利,在永祿元年(1558年)八月於足利義氏前往鶴岡八幡宮舉辦元服儀式,簗田晴助鑑於傳統擔綱其太刀役時,以表示仍為古河公方足利義氏的忠實家臣,確保簗田家繼續領導古河眾的名位,而北條氏康也就針對簗田家世代為古河公方高官,並習慣賴其威望的傳統,兼以北條家優勢的武力脅迫,在元服儀式終了後,建議讓足利義氏以古河城和簗田晴助的關宿城進行「居城交換」的提案,更美其名曰這是對簗田晴助忠於古河公方的讚賞。簗田晴助清楚這乃是北條氏康意圖支解簗田家以關宿城建立之權力架構的策略,只得無奈接受,遷往古河城。 到了永祿三年(1560年),關東傳統勢力任由北條家宰割的情況因關東管領上杉憲政將家名與官位讓渡長尾景虎後為之一變,改姓上杉的越後強豪上杉謙信在和安房里見氏、常陸佐竹氏結盟後大舉出兵越過上野國俯視關東平原,一時間關東各路國人眾紛紛望風歸附,簗田晴助也應上杉氏出兵加入同盟,為降低上杉謙信以關東管領之名進入關東的威勢,北條氏康也讓足利義氏發出御書否認其關東管領的職務繼承,相對地簗田晴助便趁機建議上杉謙信擁載外甥足利藤氏擔任古河公方,後在足利義氏與千葉胤富畏上杉軍勢大脫出關宿城時,一舉隨軍收復關宿城,並將古河城交予足利藤氏。 永祿四年(1561年),集結十萬大軍的上杉謙信因終究未能攻克北條家的小田原城,只能暫時收兵,轉往鶴岡八幡宮舉行關東管領的繼承儀式,同時簗田晴助也率領包括了一宮、二階堂、相馬諸氏及領下被官化的分族橫田、石川、箕匈等家諸氏以古河眾之名參與儀式,並撰述起請文,表明上杉謙信擁立足利藤氏為古河公方的決心,恢復簗田晴助的奏者地位。而上杉謙信也因為北條同盟國武田家侵入上野而鳴金回國進行防備,失去上杉謙信的大軍,關東諸將重新獨立面對來勢洶洶的北條家,解決上杉入侵危機的北條氏康不僅打算恢復舊領,更大規模展開反擊以增加自家領土與實力,在永祿五年(1562年)攻下古河城,足利藤氏被擄,於四年後將之殺害,古河公方的權威再度瓦解。 上杉謙信雖被應北條家之請出戰的武田軍騷擾後方而無法及時再入關東,但也屢屢透過里見、佐竹兩家組織反北條同盟的反擊,直到北條氏康在永祿七年(1564年)於第二次國府台之戰大破里見家,並將舊扇谷上杉家老臣太田資正自岩槻城流放後,旋於翌年出征關宿城,以保全之後進軍北關東上野、下野及常陸的戰線。北條氏康遂以降將岩付城主太田氏資為先鋒攻擊,簗田晴助也不甘示弱,在北條軍出陣後宣告決不為足利義氏之臣,假關宿城周遭湖泊河川縱橫的復雜地形佈下伏兵奇襲,擊退太田氏資。隨後遣使向常陸的佐竹義重及上杉謙信求援,在北條氏康主力軍攻城時雙方皆發兵來助,逼退了北條氏康。 永祿九年(1566年),簗田晴助的外甥,古河眾中的下總相馬氏當主相馬整胤被姊夫高井治胤所殺,相馬氏為之易主,高井治胤入宗相馬氏並改投北條家,簗田晴助見相馬氏陷入內亂出兵圖謀佔領相馬氏,卻被及時馳援相馬治胤的北條軍所敗,隨後北條氏康仲介調解,但已被簗田晴助攻奪的守田城也在晴助堅持下及北條氏康也屬意採用懷柔手段應對簗田氏而依舊歸屬於晴助掌有。同年三月,相馬治胤為上杉家臣河田長親策反,又投向反北條同盟,並與簗田晴助聯手出兵協助上杉謙信攻擊下總臼井城,但是卻被千葉家的猛將原胤貞及著名謀士白井胤治所阻,上杉謙信退兵,關東氣氛因此傾向對北條家有利。在此大勢中,簗田晴助也在永祿十年(1567年)轉向和北條氏康和談,重新承認足利義氏作為古河公方的名份,同時簗田晴助將家督之位讓渡給長子持助,出家號洗心齋,然而簗田家的實權依舊是由晴助掌控。 此時不甘守谷城白白為簗田晴助所佔的相馬治胤和北條家聯合也玩了套手法謀算奪回守谷城,先是相馬治胤向足利義氏遣使提出要求赦免其反抗的書狀,然後讓足利義氏在六月時回覆五箇條同意下總相馬家的降伏,據「取手市史」所記,五條回覆書的內容大至上提及如下:一、義氏同意守谷城的相馬治胤開城投降。二、命江戶眾代為接收守谷城。三、將由公方的奉公眾掌管。四、公方將於今年中由鐮倉移居古河,派遣簗田晴助從守谷城加以協助。五、簗田持助作為關宿城主,進行御座所設置工作。這五條命令乍看下是同意相馬治胤投降的承諾書實際上卻是衝著佔據守谷城的簗田家而來,北條家動作相當快速地派出了麾下軍隊在同年七月作為江戶眾前往接收守谷城,並且讓相馬治胤擔任古河普請役,重修古河城,同時以足利義氏的奉公眾芳春院周興入城,北條氏康也旋即致書持助,要求簗田家將守谷城移交古河公方及著手守谷城御座所的建造,以為古河城重建完工前古河公方居住之用。隨後便在北條家授意下足利義氏遷居守谷城,簗田晴助因始終自守古河公方家臣的身份,所以只能白吞啞巴虧,將軍隊自守谷城撤出。待古河城竣工,足利義氏經由北條氏康指使,任命相馬治胤為守谷城城代,不費一兵一卒以傳統大義間接逼迫簗田晴助交出了守谷城。 為了繼續把持古河眾之首身份的簗田晴助並非傻子,吃了這一悶虧自然不忿,與北條家的關係再度急轉直下,因此北條氏康先發制人,在永祿十一年(1568年)迫降簗田晴助的盟友栗橋野田氏,讓次子北條氏照接收位在古河城及關宿城中間的栗橋城,氏照入城後在關宿城周邊的山王山、不動山上構築陣砦,加強對簗田家的軍事壓力。但因為武田信玄破盟攻打今川家,北條氏康為援助今川氏真,決意出兵介入駿河戰事,因此轉向與上杉謙信談和,而上杉謙信也因武田信玄佔據西上野不時阻礙其進入關東,且有意把軍力重置越中戰線,雙方一拍即合,在永祿十二年(1569年)達成越相同盟,北條家將其上野領地讓渡給上杉家,上杉謙信收氏康七子北條氏秀為養子。對關宿城一觸即發的戰況,上杉謙信亦出面指派部將柿崎景家調停,促成現狀維持及承認足利義氏為古河公方並復歸古河城的條件,北條氏照破棄山王山砦撤兵。 越相同盟的成立,對關東仰仗上杉家軍力以抗北條家的中小國人眾帶來相當大的衝擊,尤其對倚關宿城獨於下總的簗田晴助而言,在上杉軍不在提供援助後,要繼續保有常陸佐竹氏的來源並不容易,因此晴助和同在房總半島上的里見家結盟,拱足利藤氏之弟足利藤政為古河公方,並且走出上杉、北條中間的第三條外交途徑,派遣使者進入甲州,聯同里見家與武田信玄結盟,建立甲房同盟。武田信玄見獵心喜同意擁護足利藤政為古河公方,並派兵深入上野,在利根川上游建構石倉砦,一時表現出有意進入關東戰場援助反北條同盟的態勢,令簗田晴助和里見家大為振奮。 可惜好景不常,在北條氏康於元龜二年(1571年)病故後,氏康臨去前決意放棄攻略駿河遺言指示北條氏政重啟甲相同盟,武田信玄為上洛同意再度締盟,甲房同盟到此終了,信玄的無預警背離,讓簗田晴助陷入同時與北條、武田、上杉三家交惡的劣勢。天正元年(1573年),北條氏照奉兄長氏政之令起兵伺機夜襲關宿城,簗田晴助透過水路情報網,迅速集合兵源物資反擊,令北條氏照無功而返。 翌年正月,北條氏照再度攻打關宿城,簗田晴助以城固守,雙方僵持不下,於是透過足利藤政以古河公方之名在同月十六日向上杉謙信、佐竹義重去信和解,並委託太田資正說項請求兩家派出援軍。但是先年越相同盟讓佐竹義重及其家臣都對謙信保有不信感,雙方因此難以協調出一套有效的聯合作戰方案,各行其是。上杉謙信先是在三月於武藏羽生出陣,但後方的金山城由良氏反叛,而迴轉討伐。到八月時,關宿城中的簗田家臣橫田孫七郎及晴助的異母弟簗田助繩見北條軍已漸佔上風,因此內通城外的敵軍主帥北條氏照,為了一舉攻下關宿城,北條家當主氏政於十月親率北條氏邦、氏規領一萬六千主力軍往援,更動員臼井城的原胤成、小金城的高城氏、守谷城的相馬治胤和結城晴朝組成三萬聯軍出征,見事態越發嚴重,上杉謙信也在十月從春日山城發兵,佐竹義重也與宇都宮氏聯手進軍,上杉謙信知道越後軍位置較遠,不易直接援救,以圍魏救趙之策入武藏攻打忍城、騎西城、菖蒲城。但佐竹義重因不願和上杉軍同陣,雙方鬧的很不愉快,佐竹軍因而採觀望態度。 潤十一月,歷經長達一年的包圍後,北條軍開始發動總攻擊,佐竹氏為此派出根本太郎忠治、木造清左衛門、同傳吉、近見新六郎等家臣領兵出城協防,最後北條援軍結城氏攻上城門,簗田晴助只能在後方防線指揮洋槍隊勉強抵擋敵軍殺入,但已被攻入城內的簗田家終脫不了彈盡糧絕的命運,遂由佐竹義重出面調解,簗田晴助將關宿城讓給北條家,退往支城水海城,後來簗田城被北條氏改建為進出北關東的據點。 而關宿城陷落,也讓足利藤政被北條氏所殺,一時傳出藤政之死乃是用來交換簗田晴助、持助的性命,所以上杉、佐竹兩氏都就此不再信任簗田晴助父子,持助也入仕足利義氏,簗田晴助則居於水海城,簗田家完全屈服於北條家之下。天正十年(1582年)足利義氏病故,古河公方一脈完全斷絕。北條氏照入居古河城,並把關宿城交給當初背叛簗田晴助的異母弟簗田助繩,簗田晴助和持助父子自然十分不滿,對北條家再樹反旗。天正十五年(1587年),簗田晴助之子持助病故,如此噩耗令晴助雄心再挫,無奈對北條氏照表示投降,在氏照仲介下讓持助之子熊千代丸繼任,但是在其元服前便由簗田助繩代行家督之事務。 天正十八年(1590年)豐臣秀吉發動小田原征伐出兵攻打北條氏,簗田晴助看準時機宣告投降,再次表達反北條的立場,但是由於駐守關宿城的簗田助繩堅持支援北條方,所以戰後簗田晴助與孫兒貞助不但無法收回關宿城,反倒連僅存的水海城也被處以連坐而被沒收所領,退往常陸。所幸,負責處理接收水海城事務的淺野長政,在得知過往簗田晴助與北條家之戰後給予高度評價,也對他現在的情況相當同情,居中勸說入主關東的新領主德川家康招納簗田晴助祖孫,家康也考量簗田氏歷代為古河公方盡忠,招徠簗田晴助之孫貞助為家臣,給予他一千石的領地。後簗田晴助於文祿三年(1594年)辭世,法名道忠,享年七十歲。 簗田貞助也江戶幕府成立後擔任御書院番仕於二代將軍德川秀忠,但在慶長二十年(1615年)的大阪夏之役中簗田貞助獨子助吉陣亡,最後只好以外孫入繼家名,俸祿減至一百石。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/80025899/
簗田高助 Yanada Takasuke(1493年-1550年) 古河公方家の家臣・簗田政助の嫡男、伯父簗田成助の養嗣子、実母は真里谷信勝の娘。古河公方・足利高基から偏諱を賜り、高助を名乗る,号は富春斎、法名は道珊。 高基の側近として仕える。その高基が家督を巡って父の政氏と対立(永正の乱)。政氏側についた父・政助に対抗し、高助は高基側について活躍し、宿老筆頭となる。この際に父・政助からは勘当されたものの、伯父・成助が養子とし、その家督を継ぐ形で簗田氏の当主となる。その後、強力な指導力を発揮して一族の被官化を進めて家臣団の再編成を行い、また天文4年(1535年)には高基の跡を継いだ足利晴氏に娘を嫁がせるなど、領主および家中での地位を確固たるものにしていく。 その頃、関東では北条氏綱が台頭してくる一方で、古河公方は小弓公方足利義明(高基の弟)や上杉氏の圧迫を受けて衰退著しかった。そこで高助は氏綱の娘(芳春院)を晴氏の側室に迎えて古河公方家の勢力巻き返しを図ることにした。この縁談を実現させた高助は天文8年(1539年)には氏綱と天文12年(1543年)9月には氏綱の後を継いだ北条氏康と盟約を結んだ。 だが、次第に北条氏の勢力拡大に危機感を抱くようになった晴氏は氏康との対決を決意し、天文15年(1546年)に上杉氏とともに河越城の戦い(河越夜戦)に突入したものの大敗を喫す。戦後、高助は出家して息子・晴助に家督を譲って許しを乞うが、氏康は高助の娘が生んだ晴氏の嫡男足利藤氏を廃除して、自分の甥である晴氏の末子足利義氏への古河公方相続を要求するようになった。 天文19年(1550年)、死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%97%E7%94%B0%E9%AB%98%E5%8A%A9
結城政勝 Yuki Masakatsu(1503年-1559年) 結城政朝的次子、養子為結城晴朝;幼名六郎,戒名乘國寺(安穩寺)殿大雲藤長。 一般認為大永七年(1527年)父親主政朝隱退,長兄結城政直繼承家督,但是政直病逝,最後由政勝繼承家督。 政勝繼承家督後,與隱居的父親政朝一同計策讓結城氏的領土擴大,並開始與鄰國佐竹氏、宇都宮氏對抗。此時的關東也發生巨大的變化。北條氏當主北條早雲佔據小田原城,勢力急速膨脹,並且嚴重威脅到關東管領扇谷氏和古河公方的統治地位。古河公方足利晴氏在天文十四年(1545年)十月開始發動戰爭,號召扇谷氏、山內上杉氏一同進攻北條氏的河越城。聯軍由於在包圍河越城被北條氏夜襲而擊敗,北條氏康成功佔領武藏國北部。 天文十六年(1547年)父親政朝病逝,在政朝病逝之前委託政勝和小山高朝(政勝的弟弟,小山氏當主)二人要聯手抗敵,把敵人的首級放在政朝的墓上拜祭。五十多天後,宇都宮氏果然派兵進攻小山氏,政勝馬上出兵救援小山高朝,兄弟二人成功打敗宇都宮軍,並在戰場上討取很多敵人的首級,把這些首級都拿到父親的墓前拜祭,實現當初的承諾。 政勝和高朝兄弟兩家建立牢不可破的同盟關係,這也使得他們有實力在與宇都宮氏等敵人對立的同時,還能不斷擴充自己的勢力,而其實這一切都要歸功於父親政朝臨終的告誡。天文十七年(1548年),政勝嫡子結城明朝夭折。最後政勝將弟弟小山高朝的三男小山晴朝收為養子,改名為結城晴朝,指定晴朝為結城氏的家督繼承人,這一舉動也使得兩家的關係更加親密。 為壓制結城氏發展,小田、佐竹、宇都宮三家建立同盟,而對應此舉,結城氏拉攏宇都宮氏的敵人那須氏結為盟友。此時關東的形勢也又發生巨大的變化,自北條早雲以小田原為據點之後,後北條氏的勢力急劇膨脹,並且已經嚴重威脅到關東管領和古河公方的統治地位。 天文十四年(1545)十月,古河公方足利晴氏與扇谷、山內上杉三家的聯軍進攻北條氏的河越城,翌年四月,正在包圍河越城的聯軍遭受到北條氏康的夜襲而被擊敗,北條氏康乘勝進一步佔領武藏北部,並向下野、下總、常陸各國擴張,古河公方也幾乎處於他的控制之下。此時政勝開始與北條氏結成同盟,以此來對付小田、佐竹、宇都宮三家。 弘治二年(1556),戰鬥取得突破性進展,政勝連同古河公方、北條氏的援兵共三千餘人包圍小田氏的海老島城,聯軍首先攻克據點,討取守將平塚長春,然後在山王堂重創來援的小田氏治。據『結城家記』記載,結成氏通過此役取得小田氏的四十二鄉、海老島、大島綢、小栗、沙塚、豐田等地的控制權,領地進一步擴大。 政勝的一生最大的功績除擴大領土之外,也制定有名的分國法『結城氏新法度』,它是與伊達氏的『塵介集』、武田氏的『甲州法度』齊名的戰國家法,法規的內容包括本文一百零四條、制定批註、兩個追加條例及家臣的聯名請文。此時結城氏的控制範圍達到最大值,囊括下館、下妻、山川、小山、富鋪、小栗、海老島等諸多地區,而法規的實施範圍卻有著一定的限制。前文所說的領地是指控制範圍或者說是勢力圈,而結城氏的實際直轄領地只是結城城為中心的結城郡北部地區,在南部山川城的山川氏、在東方下館城水的谷氏、及在東南下妻城的多賀谷氏,他們都有著各自獨立的支配領域和家臣團,與其說他們是結城氏的家臣還不如說是做為同盟者而存在。三家也有獨立於結城氏的外交政策,多賀谷氏就曾和小田氏聯合進攻過結城氏。他們此時作為同盟者,結城氏承認三家獨立的支配領地,所以在他們領地內並沒有實施該法度。 制定『結城氏新法度』的主要目的是維持家中秩序,法度中預先明示家中統治規範,以此抑制家臣不正當的主張和保持領土內的和平團結。至於法度的內容,重點在於明確主從關係、行政手續、刑事違法行為,然後是關於財產、家族、從屬身份的規定,法度中所描述的基本上都是戰國時代諸侯領主統治領地時面臨的基本問題。 永祿二年(1559年)病逝,年五十七歲。 出處#1 http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_583237.html 出處#2 http://www.twwiki.com/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E6%94%BF%E5%8B%9D
結城晴朝 Yuki Harutomo(1534年-1614年) 小山高朝的三子、養父為結城政勝、正室為水谷正村之女,通稱七郎,受古河公方・足利晴氏偏諱「晴」字,初名小山晴朝,繼承結城氏,名為結城晴朝。 永祿二年(1559)八月,養父結城政勝病逝,身為養子的晴朝繼任家督。翌年,小田氏聯合佐竹、宇都宮三家一齊進攻結城城,最後兩軍在城下議和。然而此時關東的形勢又發生了變化,在扇谷、山內上杉兩家沒落之後,「越後之龍」也開始涉足關東。 永祿四年,長尾景虎(上杉謙信)接受來自佐竹氏的請求,奉關東管領.上杉憲政之命出兵關東。三月,上杉謙信率領北關東諸將組成的聯軍包圍了北條氏的小田原城,但一個半月以後被迫退兵。翌年閏三月,上杉謙信在鐮倉鶴岡八幡宮正式繼承關東管領之職,並接受上杉憲政的「上杉」姓和「政」字而改名為上杉政虎,與此對應,北條氏康卻奉古河公方之命來對抗關東管領,關東的局勢還是由兩大對立勢力控制著。 當上杉謙信在鐮倉繼任關東管領的時候,上杉方在『關東幕注文』中記下了來參加此次儀式的關東諸將名單,在名單上面並沒有結城氏,這是因為晴朝一直在擁戴古河公方,而且正與那須氏、壬生氏一起和北條氏站在同一陣線。結城氏以前的盟友小山氏、山川氏、水谷氏、多賀谷氏卻全都跑到了上杉一方。其實在提倡「爾虞我詐」的戰國時代,「盟友」這個詞自然要看的淡一些。永祿十二年(1569),為了壓制甲斐的武田信玄,北條氏康與長年敵對的上杉謙信和好,並結成短暫的「越相同盟」,而此時古河公方的家主足利義氏是北條氏康的外甥,並且已經徹底成為北條氏的傀儡。結城氏不斷在兩個派系之間搖擺,天正二年(1574),由於看到上杉氏的實力彷彿更強一些,結城氏最終脫離了與北條氏的聯盟。 天正六年三月(1578),上杉謙信在春日山城病逝,但關東的平衡仍然沒被打破,結城晴朝與宿敵佐竹、宇都宮氏一起對抗北條氏。天正十二年(1584),佐竹義重在下野沼尻與北條氏直對陣的時候,結城氏也參加了此次戰鬥,在諸多小大名的共同努力下,北條氏最終也未能實現獨霸關東的夢想。 在結城氏等眾大名與北條氏抗爭之時,近畿的局勢發生了很大變化。天正十年(1582),織田信長與德川家康聯手消滅了甲斐武田氏,加速了天下統一的進程,雖然織田信長同年在本能寺被殺,但繼承了信長基業的羽柴秀吉(豐臣秀吉)在轉瞬間平定了中國、四國和九州。 天正十七年(1589)春,結城晴朝主動向秀吉示好,並派遣家臣水谷勝俊和多賀谷安藝抵達大阪,同時請求將豐臣秀吉的一位一門眾招為女婿,但此事並未成行。翌年,豐臣秀吉率大軍征討小田原的北條氏,結城晴朝藉機臣服於豐臣氏而得以保全了領地。同年七月,晴朝再次派家臣向豐臣秀吉提出請求,於是秀吉同意讓養子結城秀康(德川家康的次子)與晴朝的養女結親。七月十四日,秀康奉命進入結城城成為結城氏的女婿,晴朝也就此隱居,將家督之位讓給秀康,結城氏也通過此舉和豐臣、德川兩家同時建立了姻親關係。其實晴朝早在天正五年(1578)就已經把宇都宮廣綱之子結城朝勝收為養子,在秀康到來之後,可憐的朝勝就被趕出了家門,而另一名養子水谷勝俊也成為秀康的家臣。 天正二十年(1592),豐臣秀吉派兵入侵朝鮮,結城秀康於同年二月二日率軍前往參戰,但此後一直駐紮在肥前名古屋,並未赴朝參戰。翌年,豐臣秀吉將名義上仍然是自己養子的秀康正式過繼給結城氏。 慶長五年(1600)九月,「關原之戰」爆發,結城秀康從屬於德川家康的東軍,並被留在關東負責防備上杉景勝,雖說此次結城氏一仗也沒有打,但是秀康畢竟是家康的親兒子啊,戰後晴朝被轉封到越前北之莊城,領地知行達六十八萬石。翌年,結城一族離開了十餘代人世代所居的下總國移居越前。慶長九年(1604)八月,秀康恢復松平本姓。 慶長十二年(1607)四月,結城秀康病逝,嫡子忠直繼任家督,同時遵照秀康的意願,秀康的五子直基繼承結城氏,所領為越前勝山三萬石,但是直基後來也恢復本姓松平,而跟隨秀康前往越前的結城晴朝也於慶長十九年(1614)七月二十四日病死,年81歲,結城氏嫡流的家名就此斷絕。 出處 http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_583240.html
芳賀高定 Haga Takasada(1529年-1588年) 益子勝宗的三子,通稱紀十郎,本名益子宗之,繼承芳賀氏改名為芳賀高定。 芳賀氏以天武天皇之子捨人親王的九代孫清原高重為遠組,清原高重因故惹怒花山法皇而被流放至下野芳賀郡大內莊,其後代遂自稱芳賀氏,七代孫高親時投入宇都宮家麾下,後於源賴朝的奧州征伐中芳賀氏與益子氏大為活躍,芳賀氏因本姓「清原」被稱為清黨,與紀黨益子氏並稱「紀清兩黨」,乃是家中的重要戰力。 芳賀氏作為宇都宮家重臣威勢日重,在宇都宮家第十七代當主成綱時,芳賀景高擔任成綱的輔佐奉行人,家勢達到極盛,其子高勝繼父位後,更出現了高勝發出文書命令後,再由成綱追認的情形,芳賀氏已顯然有凌駕主家之上的態勢。於是成綱為保衛君權,遂謀害了高勝一脈,並強勢讓其弟興綱入繼。後來興綱謀逆,聯合結城氏攻下宇都宮城,殺害姪兒忠綱奪得家督之位,而高勝之弟芳賀高經也伺機與壬生綱房起兵攻打興綱,逼迫興綱自刃。 興綱死後,宇都宮家由其子尚綱繼承,並於天文十年(1541年)舉兵攻打芳賀氏,芳賀高經也據宇都宮南方的兒山城防守,但在寡不敵眾下戰敗。是役中,益子宗之身為紀黨的一員,隨父親勝宗出戰,於初戰中便立下大功,戰後受到尚綱讚賞,並在勝宗允許後讓益子宗之繼承芳賀氏以為賞賜,改名芳賀高定,獲得真岡城。芳賀高經死後,其長子高照遠走奧州白河,後投入那須家。三男高繼年紀尚幼,芳賀高定遂保護之,將他交由實家益子氏養育。 天文十四年(1545年),芳賀高定受宇都宮尚綱之命由鷺宮出陣,抵御結城家猛將水谷正村的侵攻。天文十八年(1549年)九月,主公宇都宮尚綱應古河公方足利晴氏之邀出兵攻打與北條氏相善的那須家,由芳賀高定負責宇都宮城的居留守役,但是在那須高資的善戰下,兵力佔優的尚綱在五月女阪之戰中遭到奇襲射殺,家督戰死的消息一傳開,宇都宮家頓時大亂,宇都宮家老壬生綱房內通那須家和借得那須家相助的芳賀高照趁亂佔據了宇都宮城,鹽谷郡亦被那須高資所奪,混亂的情勢中芳賀高定仍盡忠主家,竭力保護年僅六歲的幼主,帶同宇都宮尚綱之子伊勢壽丸離開險境,並在壬生綱房遣其子綱雄出兵飛山城追擊時,親自率兵牽制。 天文二十年(1551年),芳賀高定巧妙利用那須家中高資、資胤兄弟間的爭端,居中布計,趁那須高資流放其弟資胤之際,說動支持資胤的那須家臣千本資俊合作,以鑑賞名馬為由邀請那須高資,於宴會中將之刺殺,既是報主君之仇,同時也讓那須家陷入二度易主的重整期,斷去了宇都宮城中芳賀高照的有力後援。同時芳賀高定也遣家臣大島大炊助出兵壬生氏的領地岡本鄉,但是被壬生周長擊退。 為了重興宇都宮家,芳賀高定深知依照現下的情勢,宇都宮家並無力獨自撥亂反正的能力,這是因為宇都宮家終究仍是採取國人眾聯盟制的舊體制大名,家中軍權分散在各地國人眾、家臣、以及宇都宮寄眾手中,幼主伊勢壽丸並沒有足夠的權威與實力號召其協助,反之現下佔據了宇都宮城的壬生氏及芳賀高照看似更有崛起一統下野的姿態,因此芳賀高定轉向周遭大名尋求外援,以傑出的外交手段縱橫於佐竹義昭、江戶忠通、小田政治、古河公方、北條氏康等大名之間,為奪回宇都宮城布置計畫。 弘治元年(1555年),芳賀高定於真岡城舉辦芳賀高經的追善供養法事,並擺出低姿態邀請芳賀高照前來參與,芳賀高照不疑有他,認為這是高定一方的示弱,待入城後隨即被芳賀高定的兵士伏擊,被迫切腹,同年壬生綱房也在宇都宮城中急逝,時人一度疑為綱房亦是為芳賀高定所派遣的忍者暗殺,不過完全找不到任何能證實此一說法的有力證據,況且當時綱房已年過七十,其死亡並不出人意外,因此近代史家多持否定觀點。 翌年,壬生綱房之子綱雄為反制芳賀高定的謀略,以那須家為後盾大舉侵犯芳賀郡,連同宇都宮舊臣鹽谷、西方、今泉等家起兵三千連下飛山、八木、祖母井諸城。但隨即在弘治三年(1557年),芳賀高定便以聯姻換來了佐竹家的介入,並運用計謀策反壬生綱雄的外援那須家,借佐竹、那須、江戶三家援軍,於芳賀郡乙連原大敗壬生軍,並進而奪回宇都宮城,將壬生綱雄逼回鹿沼、壬生兩城,令壬生綱雄送表稱降。戰後芳賀高定依照約定讓時年十五歲的伊勢壽丸元服,改名廣綱,迎娶了佐竹義昭之女為正室,兩家結成姻盟。 奪回宇都宮城後,為重興主家貢獻良多的芳賀高定以宇都宮家宿老掌握了家中大權,但是高定仍然不改忠勤,輔佐幼君行政,宇都宮氏的樑柱支撐大亂後統御力大幅下降的主家,同時也與壬生周長相交,令壬生氏分裂成鹿沼城的壬生綱雄親北條,而壬生城的壬生周長親宇都宮,令壬生家分成兩派,降低其抗力,壬生綱雄也失去自父親以來的重要軍師親叔壬生周長的支援。 永祿四年(1561年),上杉謙信南下關東,芳賀高定作為宇都宮家的代表統領清黨、宇都宮各家國人眾率軍出陣參與攻打北條家。同九年,小田氏治與北條、武田同盟,上杉謙信聯合關東大名孤立小田家,並出兵攻打小田城,宇都宮家也和盟友佐竹、結城、小山一同出陣,由於當主宇都宮廣綱體弱多病,因此仍是由芳賀高定作為代官領兵出擊。 永祿十一年(1568年),在芳賀高定歷戰歸國後,宣佈隱居,將芳賀家名還給一手扶養長大的芳賀高照之弟高繼,讓親子信高改繼承小貫氏,還權於芳賀舊族,往赴小貫隱居,入道號機山道鑒,後於天正十六年(1588年)辭世,享年六十八歲。 芳賀高定一生盡忠宇都宮家,在一片下剋上風潮中,費盡心血收復宇都宮家舊領的芳賀高定,大權在握主導著宇都宮家的國策,曾被世人稱道「廣綱不過是他的影子」,但是芳賀高定卻能謹守本分,安定本家,並且還權於芳賀氏,來去一身清白,能得此智德兼備的賢臣實乃宇都宮家之幸,惟可惜因為宇都宮家之體制,縱然芳賀高定身懷高才,也始終無法為宇都宮家做出徹底的改革,興利除弊,甚至連高定實家益子氏後來亦叛出宇都宮家,這或許也是芳賀高定畢生的遺憾吧! 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&sn=1352
足利晴氏 Ashikaga Haruuji(1508年-1560年) 足利高基(足利高氏)的嫡子、母為宇都宮成綱之女、正室為築田高助之女、繼室為北條氏綱之女.芳春院;幼名龜若丸,受將軍足利義晴偏諱「晴」字,名為晴氏,戒名永仙院系山道統。 享祿四年(1531年)、經過關東享祿內亂(注一)確立了古河公方的地位。 天文七年(1538年)第一次國府台合戰中與北條氏綱同盟、消滅了自父.高基起敵對的自封為小弓公方的叔父足利義明。據『伊佐早文書』、晴氏作為作戰勝利的獎賞任命北條氏綱為關東管領(注二)。 然而在北條氏綱死後、晴氏與其接班人北條氏康敵對、與關東管領上杉憲政、上杉朝定結盟、於天文十五年(1546年)進攻北條領時於河越夜戰大敗、作為古河公方權利盡失。後來雖逃過一命、天文二十一年(1552年)不得不將位置讓給兒子足利義氏(北條氏綱之女所生)、天文二十三年(1554年)古河城遭北條氏攻陷、被氏康關押至相模國波多野(神奈川縣秦野市)。 弘治三年(1557年)7月、被允許返回古河城、然9月北條氏康發現被廢嫡的足利藤氏(注三,築田高助之女所生)意圖推翻足利義氏的政變計劃。晴氏被送往栗橋城主.野田氏處監禁。最後於永祿三年(1560年)5月27日、在元栗橋(茨城縣五霞町)名為「嵨」之地死去,年五十三歲。現於千葉縣野田市關宿台町宗英寺殘有五輪塔一座。 注一:關東享祿內亂:於享祿二年(1529年)‐享祿四年(1531年)於古河足利家與山內上杉家同時爆發的內亂爭鬥雙方為足利高基、上杉憲寬與晴氏、上杉憲政。以晴氏一側勝利、高基一側讓位告終。 注二:關東管領任命權為足利將軍所有,且關東管領上杉憲政尚在,故不具正式地位。 注三:足利藤氏為晴氏長子,因其不具北條血統而被廢嫡。後於長尾景虎關東征伐時被長尾景虎、上杉憲政、近衛前久等人推舉為古河公方。上杉關東征伐受挫後被捕,永祿九年(1566年)之後音信全無,疑為北條氏康所殺。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-125 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%99%B4%E6%B0%8F
Send this to a friend