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三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、松平秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、毛利元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、北畠具藤、奥平貞能、尼子勝久、北条氏秀、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、松平秀忠、畠山政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、石成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、木下秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、猪俣邦憲、加藤嘉明、稲富祐直、平野長泰、波多野宗高、浅井久政、国分盛顕、児玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良頼房、松本氏輔、柴田勝豊、戸沢政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、猪苗代盛国、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾満栄、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豊久、矢沢頼康、来島通康、阿蘇惟種、阿蘇惟将、阿蘇惟豊、阿閉貞征、安芸国虎、安見直政、安宅冬康、安田顕元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稲葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、宇都宮高武、羽床資載、臼杵鑑続、延原景能、延沢満延、遠山景任、塩屋秋貞、奥平信昌、岡部長盛、岡本頼氏、屋代景頼、屋代勝永、屋代政国、温井景隆、温井総貞、下間仲孝、下間頼竜、加須屋真雄、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川広照、垣屋光成、垣屋続成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、関一政、関盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証恵、吉見広頼、吉見正頼、吉川経安、吉川経家、吉田孝頼、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親実、久慈信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戸康真、九戸実親、九戸信仲、九戸政実、窪川俊光、窪田経忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童頼兄、原胤栄、原胤貞、原長頼、原田宗時、古田重然、戸川秀安、戸川達安、戸沢政重、戸沢盛重、戸沢道盛、戸田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨頼親、国司元相、国分盛氏、黒岩種直、黒川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木広忠、斎藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、三好秀次、三好政康、三好政勝、三好存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三沢為清、三木国綱、山崎家盛、山崎長徳、山田宗昌、山田有栄、山田有信、山内一豊、山名豊定、山名祐豊、四釜隆秀、市川経好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波経詮、斯波長秀、氏家吉継、氏家守棟、寺崎盛永、寺沢広高、寺島職定、慈明寺順国、慈明寺定次、七里頼周、執行種兼、車斯忠、種子島恵時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種実、秋月文種、十河義継、楯岡満茂、小笠原信浄、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫頼久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、松永忠俊
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、穂井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、長野具藤、奥平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、徳川秀忠、上条政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景
小寺則職 Kodera Norimoto(1495年-1576年) 明応4年(1495年)播磨姫路城主小寺政隆(まさたか)の子として生まれる。政隆は永正16年(1519年)新たに御着城を築いてそこに居を移し、このとき則職は父に代わって姫路城主となる。 永正17年(1520年)守護赤松義村の命で、反抗する浦上村宗に従う武将・中村五郎左衛門討伐のために美作国岩屋城へと出陣する。しかし浦上家臣宇喜多能家の活躍や、友軍の赤松中務丞の寝返りもあって、遠戚の小寺祐職(すけもと)父子を戦死させるなど大敗を喫する。その後、赤松義村は浦上村宗に暗殺され、遺児となった赤松晴政も一時淡路国に落ち延びるなど浦上氏の西播磨での勢力が伸長する。この時の小寺氏は、政隆が晴政に伺候するなど赤松氏寄りの活動を続けており、享禄3年(1530年)播磨庄山城に詰めていた政隆は浦上村宗に攻められて戦死している。 享禄4年(1531年)父に代わって御着城に入り名実ともに家督者となる。則職は赤松晴政とは距離を置いていたようで、天文7年(1538年)尼子晴久が山名氏と提携して播磨に乱入した際には、晴政の籠城した高砂城の攻め手として出陣している。結果、晴政は再び淡路へと遁走している。その後も晴政と播磨国衆の対立は続いたが、子の広峰長職(ながもと)の介入もあり、天文9年(1540年)晴政は則職ら播磨国衆と和睦して播磨復帰を果たしている。 天文14年(1545年)御着城主を子の政職に譲って隠居した。没年は、小寺氏が織田氏・毛利氏の選択を迫られる最中の天正4年(1576年)とされる。 次男・長職は広峰高長の養子に、側室の子である三男・則治(のりはる)は明石郡小寺城主となっている。 播磨における「小寺則職」の発給文書は文明年間や文亀年間に既にあり、その当時の系譜上の小寺家当主は則職の祖父・豊職(とよもと)や父・政隆の時代に相当する。一説には小寺氏は三代に渡って「則職」の名を使用したのではないかともいう。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E5%89%87%E8%81%B7_%28%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%29
浦上政宗 Uragami Masamune(1520年?-1564年) 享禄4年(1531年)、父・村宗が摂津天王寺で戦死して、以降家督を相続。この頃まだ幼少の身であった虎満丸は一族の浦上国秀の後見を天文7年(1538年)ごろまで受ける。 当初は父の仇ともいえる赤松政祐とは激しく対立し、西播磨の国衆と結束して抗争を続ける。 しかし天文6年(1537年)に尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まると政祐と和睦。晴政と共にこれに対するも国衆の離反にあって敗北し、備前国から播磨国への撤退を余儀なくされ、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。 その後、天文9年(1540年)初頭ごろになって政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。同時に虎満丸も元服、晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗った。 しばらく雌伏の時が続くが詮久が吉田郡山城の戦いの頃に播磨の駐留軍を退くと天文11年(1542年)に幕府の助力を得て晴政と共に播磨に復帰。天文13年(1544年)ころまでに播磨•備前の両国を回復する事に成功した。ここに至るまでの過程で政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、これ以降政宗は晴政の筆頭宿老の座に就き、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなどした。また、さらに独自に備前西部の松田氏、税所氏らと縁組し室津の室山城を拠点として備前•播磨での勢力をさらに強め赤松の家臣の枠から抜けていく。 しかし天文20年(1551年)、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり弟の宗景と意見が分かれる。そこで政宗は尼子晴久、松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立。備前の国衆も政宗に味方する者(浮田国定など)、宗景に味方する者(中山信正など)が現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。しかし天神山城や新庄山城などで相次いで敗北。さらに旧主晴政も三石城まで出兵してくるなどし敵に囲まれた政宗は味方の国衆の動きを操ることもままならないまま弘治年間(1555年 - 1557年)の内に備前での勢力を大きく後退させてしまう。 この間にも尼子晴久に度々支援を要請しており、これに際して晴久は自ら約30000余りの軍勢を持って美作国に侵攻した宗景を撃破するも、晴久・政宗にとっても決定打とはならなかった。更には晴久の急死により尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待出来ない状況へと追い込まれた。 勢力の弱まった政宗は永禄元年(1558年)になると足利義輝の仲裁で毛利との和睦の道を探る。また、同年中に自身の復権を目指して赤松晴政を廃して子の赤松義祐へと強制的に家督を継がせる事に成功している。しかしながら一方で追放された晴政も娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産むことにも繋がった。 また永禄6年(1563年)には10年以上に渡り対立していた宗景とも和睦が成立。播磨の黒田職隆と縁組して再起を図る。しかし永禄7年(1564年)1月、室山城にて職隆の娘と息子浦上清宗(小次郎、又は与四郎とも)の婚礼が行われている最中、あるいは婚礼当日の夜に赤松政秀の奇襲を受けて親子ともに戦死した。法名は実巌祐真禅定門。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%94%BF%E5%AE%97
細川持隆 Hosokawa Mochitaka(1497年-1553年) 明応6年(1497年)、細川之持の子として生まれる。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継いで阿波守護となった。細川高国と細川本家当主の座を奪い合っていた細川晴元(持隆の従兄弟)をよく補佐し、享禄4年(1531年)には軍を率いて和泉に渡海し、高国の討伐戦(大物崩れ)で功績を挙げた。ところが、晴元が三好元長を攻めようとした時にこれに反対して晴元から離反して阿波に帰国してしまった。その後、将軍足利義晴の仲裁で晴元と和解する一方で、足利将軍家の連枝である足利義維を阿波に迎え入れた。 天文8年(1539年)、赤松晴政(政村)の要請を受けて備中に出陣し、出雲の尼子晴久(詮久)と戦ったが、このときは敗れた。 天文18年(1549年)、晴元が三好長慶に敗れて没落した後、天文22年(1553年)に長慶の弟・三好実休によって見性寺において殺された(勝瑞事件)。享年57。 勝瑞事件の原因として三好長慶に対抗するため足利義栄(義維の子)を擁して上洛を謀ったが実休に漏れたとする説、阿波国内での実休の力の増大に脅威を感じて暗殺を謀ったのが実休に漏れたとする説、細川晴元の再起を持隆が支援しているのが実休に漏れたとする説があるが、晴元と長慶の戦いの最中に積極的な行動を起こさずに三好氏に好意的とも言える立場を採った持隆が突然長慶・実休と対立するに至った背景には不明な点が多い。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%8C%81%E9%9A%86
細川晴元 Hosokawa Harumoto(1514年-1563年) 細川澄元的長子、母為清泰院、正室為三條公賴之女、繼室為六角定賴之女;幼名六郎,受將軍足利義晴偏諱「晴」字,名為晴元。 晴元出身於阿波細川家,父親澄元為細川氏嫡流京兆家當主細川政元養子;政元最初養子為細川澄之(九条政基之子),但政元與澄之關係不和,在文龜3年(1503年)將澄之廢嫡,改領養澄元。 雖然澄元姑且算是政元的繼承人,但是其後政元又領養更為接近細川氏一族的野州家細川政春之子細川高國,導致同時出現三名繼承人並立的形勢。永正四年(1507年),支持澄之的香西元長和藥師寺長忠暗殺政元,永正之錯亂爆發。 政元被暗殺後,細川家立刻分裂為澄元家和澄之家,彼此互相攻殺。沒有細川氏的血液的澄之首先被家族一致排除。澄之兵敗身死後,澄元、高國兩派對立,將軍足利義澄、義稙兩派的戰爭進一步糾纏得細川家一分為二。 父親澄元與擁立足利義晴(足利義澄之子)的細川高國爭奪家督的地位,但澄元於永正十七年(1520年)6月死去;七歲的晴元繼承家督,此時細川高國作為實際上的天下人君臨畿內,反擊的機會遙不可見。 大永六年(1526年)8月,高國在從弟細川尹賢的讒言下,殺死得力部下香西元盛,元盛的兄弟波多野稙通、柳本賢治起兵造反,高國政權發生內訌。晴元家臣三好元長擁13歲的晴元,於同年內進出畿內,從高國的背後與波多野軍會合。 細川高國與晴元的爭鬥,如果只是爭奪細川氏家督的內鬥,就不需大義名分。然而,高國為當任管領,將軍足利義晴也是高國所擁立,所以高國的軍隊成為名義上的官軍,而晴元的軍隊則被視為賊軍,一些明哲保身的盟友可能逐漸離去。於是晴元為擁立足利義維(義晴之弟,義稙養子)。 大永三年(1523年),足利義維的養父足利義稙兵敗居於阿波國時,曾請求阿波細川家的晴元幫助,但當時的晴元只是10歲,即使幫助義稙也不一定能得手,義稙失意中死去。此後,當時的阿波守護細川持隆(晴元從弟)認為義維應該繼任將軍,而晴元應該繼任細川宗家當主,遂讓兩名監護人在晴元阿波的細川館將義維養育長大。 大永六年(1526年)3月24日,與細川高國的決戰(桂川原合戰)獲勝,高國攜將軍足利義晴逃往近江國。以和泉界作為據點的晴元取代高國政權,擁立足利義維建立「堺公方府」。 至此為止的戰事,三好元長作出卓越貢獻,但柳本賢治和三好家旁支三好政長等人與元長對立,晴元也對元長與高國的和睦不滿。 享祿二年(1529年)憤慨的元長退回領地阿波,堺公方府的軍事力量驟然下降。高國趁機與備前守護代浦上村宗勾結,聯合起兵,迎擊的柳本賢治在享祿三年(1530年)被高國通過刺客暗殺。高國、浦上村宗趁勢進軍攝津,堺公方府陷入窘境。 享祿四年(1531年),細川高國控制攝津國的大半,京都的高國派內藤彥七也圖謀奪回堺公方府。堺公方府進一步暴露出陷入危機的狀況。同年2月,晴元與三好元長和好;3月,元長阻擋高國軍的攻擊,戰事陷入膠著化狀態(中島之戰)。6月,來援的赤松政佑(赤松晴政)成為高國軍潰敗的最後一根稻草,稱天王寺之戰。 戰後,高國逃亡,5日後於潛伏中在攝津尼崎被捕,8日在尼崎的廣德寺自殺,晴元終報亡父之仇。 共同的敵人高國被消滅僅兩個月,內部對立表面化。堺公方府派成為消滅仇敵高國的目標,但內部圍繞這之後的方針產生不同聲音;現任將軍足利義晴沒有實權,扶立足利義維為新將軍似乎是理所應當的,但是支持將軍足利義晴的觀點卻佔上風。 放棄好不容易建立起來的堺公方差不多算是晴元的決斷,但元長和畠山義堯(晴元的義兄弟)堅決反對,他們的意見沒有被採納。足利義維的堺公方府退出歷史舞台,晴元和元長的君臣關係產生裂痕。 翌年,為排除晴元偏袒的木澤長政,晴元受到的三好元長的攻擊;晴元、茨木長隆等攝津國眾與石山本願寺合作,同意本願寺證如發動一向一揆,利用一向宗將元長殺害。 天文二年(1533年)一向一揆的反擊在堺失敗,逃回淡路國,攝津池田城恢復往日狀態。天文四年(1535年)獲得和平(享祿・天文之亂)。天文三年(1534年)在木澤長政的中介下,與三好元長的長子三好長慶和好,將其納入家臣團。 天文五年(1536年),京都法華眾的勢力被比睿山延歷寺和六角定賴聯合消滅(天文法華之亂)。同年討滅率領高國殘黨的高國之弟細川晴國,畿內穩定。天文六年(1537年)時被任命為右京大夫,支配幕政。 天文八年(1539年),上洛,三好長慶與同族三好政長圍繞河內十七處爭鬥,晴元偏袒政長,與長慶對立。經過足利義晴和定賴的中介,與長慶和好。這個時候的小摩擦結束。天文十二年(1543年)高國的養子細川氏綱與紀伊國的畠山氏、游佐長教結盟舉兵叛亂,細川家開始出現衰弱的徵兆。天文十七年(1548年)三好長慶繼承三好宗家家督,晴元指示他對付氏綱,討伐三好政長。可是遭到長慶拒絕。翌年,長慶叛變,改為支持氏綱,晴元在江口之戰大敗。失去主力家臣的晴元,逃到近江。 晴元和將軍足利義輝為奪回政權開始與三好長慶之爭,但是細川方一直處於劣勢。永祿四年(1561年)在六角氏的介入下決定剃髮,於攝津富田隱居。 永祿六年(1563年)病逝,年五十歲。 出處 http://www.doudouask.com/article-859055-1.html
赤松広秀 Akamatsu Hirohide(1562年-1600年) 永禄5年(1562年)、播磨国龍野城城主・赤松政秀の子として誕生。母は赤松晴政の娘。正室は宇喜多直家の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広秀(あかまつ ひろひで)といった。のち斎村政広に改名する。名字「斎村」は、父の死後一時避難していた才村(または佐江村)に由来するという。 元亀元年(1570年)に父・政秀、その後に兄・赤松広貞(ひろさだ)が死去すると家督を継承した。政広の家系の赤松氏は、血統上は、本家とされた赤松義祐(晴政の子で政広のおじにあたる)の家系(七条流)よりも、むしろ嫡流の家柄であった。 織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国攻めがおこると、はじめ抵抗したが天正5年(1577年)に降伏し、羽柴軍の蜂須賀正勝の配下となった。信長の死後は秀吉に従い、中国大返しの際には殿軍を務めた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、天正14年(1586年)に但馬竹田城主となり2万2,000石を与えられた。九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵などにも参戦している。一方で、儒学者・藤原惺窩に教えを受けるなど、文化人としての一面もあった。秀吉の朝鮮侵略により拉致された朝鮮の高官姜沆とも交遊を持ち、その帰国を支援している。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田三成方に味方し、細川幽斎の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原本戦で石田方が敗れると徳川方に寝返って、石田方に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めている。ところが、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。なお、この焼き討ち(焦土戦術)は、政広に寝返りを促して鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策であり、実行者の政広一人に罪をなすり付けたとする説が強いといわれる。竹田城は亀井の配下の山名豊国により収公された。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%BA%83
赤松政秀 Akamatsu Masahide(生年不詳-1570年) 赤松村秀的長子、母不明、妻為赤松晴政之女;幼名彌三郎、別名宇野下野守、宇野政秀,受赤松晴政偏偉「政」字,名為政秀。 政秀在領內國人眾謀求獨立時,卻一力維護赤松家在播磨的統治。政秀娶晴政之女為妻,並拜領晴政名字中的「政」字。晴政被兒子義佑放逐後,政秀迎入晴政對抗義佑。先前,勢力膨脹的浦上氏也發生危機,浦上村宗的兩個兒子政宗、宗景也各霸一方。 永祿六年(1563年),浦上政宗與宗景和解,政秀於次年正月,率部突襲室津城,討殺政宗父子。 永祿八年(1565年)春,晴政病故,政秀失去和主家義佑對抗的名目,在別所氏的調解下雙方和解。與東面的義佑和解後,政秀出兵攻略西北面的佐用郡,和浦上宗景對峙。 永祿九年(1566年)八月,政秀與流亡中足利義昭的使者會面,並且同意為推戴義昭效力。兩年後,義昭在織田信長的上洛軍扶持下就任征夷大將軍,此時浦上宗景在完成備前領內平定戰後開始入侵西播磨,赤松義祐則借口援助也意圖派兵進入政秀的領地。推測義佑的心理,很可能是擔心政秀取代主家播磨守護的地位而有此行動。政秀無奈之下向足利義昭、織田信長求援。 永祿十二年(1569年)八月,攝津池田勝正與東播磨的別所安治等織田方的勢力出兵援助政秀,政秀率領三千人由龍野城出動,但在姬路被小寺家的黑田孝高奇襲,大敗而歸。 政秀無奈中只有在龍野等待時局變化,同時還要防備浦上宗景的侵略。十一月,以和田惟政、池田勝正、伊丹忠親等攝津勢再度進入播磨,但最終無法救援政秀而被迫撤退。孤立的政秀被迫向浦上宗景乞和, 翌年,正在灰心失意中的政秀被人毒殺,但受何人指使卻是個迷。 出處 http://baike.baidu.com/view/2792973.htm
赤松晴政 Akamatsu Harumasa(1513年?-1565年) 守護代の浦上氏との対立に敗れ、強勢隠居へ追いやられた父の義村から、才松丸(晴政の幼名)は1520年に政敵の浦上氏の拘束下で、わずか8歳という幼少で家督を譲られる。その備前守護代・浦上村宗への再反攻に失敗した父・義村を、翌1521年9月に殺されている。山名氏の侵攻に対抗するため一時的に村宗と手を結んだこともあるが、山名氏の脅威が去ると再び争い、一時は居城の置塩城を追われ美作の新庄山城へ避難を余儀なくされたこともある。 1531年、細川晴元と対立する管領細川高国を擁した村宗が摂津国へ侵攻すると、村宗たちの後詰めとして参戦した政祐(当時の諱)だったが、実は堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。同年6月4日、神呪寺に布陣していた政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。晴元方からも挟撃された高国・村宗軍を壊滅させ、村宗は戦死。高国も自害へと追い込んだ(大物崩れ)。 これにより、ある程度は実権を回復したものの、村宗の子である浦上政宗や浦上宗景との対立はその後も続いた。さらに1538年から始まった、出雲国から尼子詮久(後の尼子晴久)による侵攻では西播磨の龍野城まで奪われると、晴政の領国は混乱し、一時別所氏を頼って三木城に逃れた。やがて別所氏も尼子氏と通じたため、堺へ逃亡することになる。 1540年から翌年にかけての尼子氏の安芸国遠征失敗(吉田郡山城の戦いで、毛利元就支援の大内義隆方の陶隆房(後の陶晴賢)の軍と会戦した尼子氏が大敗。尼子久幸(経久の弟)が戦死)によって、播磨から尼子氏が撤退。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、将軍足利義晴より「晴」の字を賜り晴政(はるまさ)と改名したのもこの時期である。 1552年には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も政宗に奪われ続けており、1558年には政宗に擁立される嫡子赤松義祐とやむなく対抗する為、娘婿の赤松政秀の居城龍野城に逃れた。政秀の庇護下で義祐・政宗と争った晴政だったが、1565年1月16日に死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%99%B4%E6%94%BF
赤松義祐 Akamatsu Yoshisuke(1537年-1576年) 赤松晴政的長子、正室為細川晴元之女?;幼名道祖松丸、通稱次郎、受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義祐。 天文二十三年(1554年),密通三好長慶,和安宅冬康一起攻擊正在播磨國明石城的細川晴元。成年後和父親晴政以連署體制共同執行政務。 永祿元年(1558年)8月,在握有家中實權的浦上政宗擁立下,義祐將父親流放,繼承家督之位而成為赤松氏的當主。遭到流放的晴政前往投靠女婿赤松政秀,以龍野城為根據地和義祐對抗。此外,也一度和兒子則房失和,關係緊張到義祐不得不暫住到別所安治的三木城,不過沒多久兩人就和解,義祐也回到置鹽城。 永祿七年(1564年),發生赤松政秀突襲浦上政宗長男.清宗和黑田職隆女兒的結婚典禮,殺死政宗和清宗父子的事件,家中的動亂仍然持續著。 永祿八年(1565年),因為晴政的病故,使得政秀失去和本家繼續對立的理由而與義祐達成和解。之後,政秀為擴展勢力,獨斷發起軍事行動攻下利神城;還在永祿十年(1567年),和當時正在流浪的足利義昭私下接觸。另一方面,東播磨的有力領主別所安治也開始不受控制。在義祐統治下的赤松氏,已經逐漸失去駕馭周遭領主的力量。 永祿十一年(1568年)9月,在織田信長的協助下,足利義昭就任征夷大將軍,成為室町幕府第15代將軍,赤松政秀也將自己的女兒送到將軍家當侍女服侍義昭。政秀這種無視於本家,擅自和將軍家加深交情的行為觸怒義祐,於是命令御著城主小寺政職前往京都綁架政秀的女兒,並以「無道之仁」的理由彈劾政秀;且催促備前國的浦上宗景發兵,欲聯手將政秀徹底打垮。收到請求的宗景,認為這是一個擴展勢力的好機會,率領備前、美作的國人眾進攻播磨國,威脅政秀的領地。翌年永祿十二年(1569年)2月,政秀女兒得到釋放到達京都,但宗景仍然持續猛攻政秀,難以抵擋的政秀只好向足利義昭請求援軍。 得到救援請求的義昭,命令信長援助政秀。同年8月,以池田勝正為大將的攝津眾、加上別所安治的軍隊,攻進義祐的領地。同一時間,浦上軍因為宇喜多直家的謀反,不得不返回備前國;義祐和小寺聯軍不敵池田、別所聯軍,庄山、高砂城等相繼陷落。形勢一轉,義祐從攻擊方陷入窘境,困守在置鹽城中,忍受著池田、別所聯軍的攻擊。 但是幸運的是,在當時三好氏等勢力仍然安在,織田氏還不能說是已經在畿內站穩腳步的階段;9月,信長將攝津眾召回畿內,別所安治也隨後退兵。之後,義祐立即和織田氏接觸,進行關係的修復;並命則房出兵,和攻擊龍野城的浦上軍相互對峙,以做為向織田氏臣屬的證明。 另一方面,赤松政秀發兵攻打黑田職隆、黑田孝高父子的姬路城,但卻在青山、土器山之戰(永祿十二年(1569年)5月至6月)慘敗。之後在浦上宗景的攻擊下,居城龍野城為浦上軍攻佔,政秀被囚禁並在翌年遭到暗殺。而在掀起反旗的宇喜多直家重新歸順浦上氏後,這一連串的動亂終於平息,義祐也脫離困境。 宗景以救援義祐為名義,出兵攻打龍野城,而與之對峙的則房卻無戰意。11月,池田勝正、和田惟政、伊丹忠親等人急援政秀,但在同月中政秀投降浦上氏,援軍幾乎未曾交戰就又返回畿內;而則房也在浦上軍離開播磨國後,回到置鹽城。 翌年元龜元年(1570年),義祐將家督之位讓與兒子赤松則房。在隱居6年後,天正四年(1576年)過世,年40歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E7%A5%90

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