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三木通秋 Miki Michiaki(1534年—1584年) 天文3年(1534年)8月10日、三木通明(みちあき)の嫡男として英賀城内で誕生。天文13年(1544年)に元服して掃部助通秋を名乗り、三木氏の家督を相続し、英賀三木氏9代目の当主となる。 永禄12年(1569年)に赤松義祐と室町幕府15代将軍・足利義昭や織田信長の支援を受けた赤松政秀が対立した際には義祐方に与し、政秀の侵攻を受け窮地に立たされていた小寺孝隆(黒田孝高)の救援に駆けつけて、共に政秀を破り逆転勝利に貢献した(土器山の戦い)。 元亀元年(1570年)より始まった石山合戦では、領内に英賀御堂を始めとした本願寺門徒衆を多く抱え、自身も熱心な門徒であった事から顕如の檄文に呼応して挙兵し、兵430人を畿内に派遣し石山本願寺に3,000俵を送って支援をして織田氏への対立姿勢を露わにし、親織田に傾きつつあった赤松義祐や、小寺氏・別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。 天正5年(1576年)に毛利輝元が本願寺支援を決めたことで毛利氏と同盟し、英賀に毛利家臣の浦宗勝の軍勢を上陸させて播磨きっての親織田派であった小寺孝隆を5,000の兵で攻撃したが、孝隆の奇策の前に敗退した(英賀合戦)。天正6年(1578年)になると小寺政職や別所長治などの播磨国衆が織田から毛利に転じたため、通秋は三木合戦の始まりを受けて海路を使って別所氏を積極的に支援し、援軍や兵糧を送っている。 しかし、天正8年(1580年)1月に三木城が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて2月13日(4月26日とする書もある)には陥落。通秋は子の安明(やすあき)ら一族とともに命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住して郷士頭となっている。 天正11年(1583年)12月16日に死去。享年50。遺体は播磨の西徳寺に葬られた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%A7%8B
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、滝川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、上杉景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
小寺政職 Kodera Masamoto(1529年-1584年) 享禄2年(1529年)、播磨御着城主・小寺則職の長男として誕生する。小寺氏は、赤松氏の分家にあたり、祖父・政隆(まさたか)の代までは姫路城を本拠としていた。 天文12年(1543年)から塩田城主であった遠戚である小寺福職(とみもと)の補佐役として塩田城へ在城し、天文14年(1545年)父から御着城主を譲られる。小寺氏は代々、播磨国守護・赤松氏の重臣として仕え、赤松政村が「晴政」に改名した1540年から1541年ごろに元服してその偏諱(「政」の字)を受け、政職と名乗る。その後は幾たびかの小競り合いを制し、播州平野を中心として半独立勢力として割拠した。政職は外様家臣であった小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)の能力を認め、自らの従姪(櫛橋氏の娘・光)を娶らせるなど厚遇している。 播磨に東から織田氏、西から毛利氏と大勢力が迫ってくると、当初は織田方に通じる龍野城主赤松政秀や三木城主別所安治・長治親子と敵対し、永禄12年(1569年)には青山・土器山の戦いで赤松軍と、天正元年(1573年)には増位山・有明山城で別所軍と戦っている。しかし後に小寺孝隆の進言を受けて織田信長への従属を決め、天正3年(1575年)に孝隆を岐阜に派遣し、同年のうちに自らも信長の元へ赤松氏・別所氏とともに挨拶に参上している。天正5年(1577年)には播磨沖に襲来した毛利軍を孝隆の奇策によって英賀合戦で打ち破った。これに前後して信長は播磨諸侯に人質の提出を命じたが、政職は子の氏職が病弱であったため、小寺孝隆の子・松寿丸(のちの黒田長政)を代わりに提出させたとされるが、真偽は不明。この頃から小寺孝隆は小寺家臣というより、信長によって派遣された羽柴秀吉の部将として活動することが多くなる。 天正6年(1578年)に荒木村重が摂津有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。当時は東播磨の一大勢力である三木城の別所長治が既に毛利方に寝返っていたが、天正7年(1579年)に有岡城が、天正8年(1580年)に三木城がそれぞれ織田軍の攻撃によって落城し、御着城も天正8年に落城。政職は英賀を経て毛利領の備後国鞆の浦のもとへ落ち延びたという。天正12年(1584年)5月に鞆で没した。 妻は族兄にあたる小寺福職の娘で、永禄10年8月5日(1567年9月17日)に亡くなっている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%94%BF%E8%81%B7
浦上宗景 Uragami Munekage(生年不明-卒年不明) 享祿四年(1531年)、父親村宗在攝津國與細川晴元聯合軍的天王寺一戰中戰死後,兄長政宗以年幼之身繼承了家督之位。但在天文二十年(1551年)、尼子晴久入侵備前國之時,宗景與政宗在對策上有了意見的分歧。此後,兩兄弟各擁山頭,形成兩大權力集團;宗景團結了國中同樣暴露在尼子氏威脅下的國人眾勢力,與傾向尼子氏的哥哥完全對立而分裂了浦上氏。 天文二十三年(1554年)、宗景在天神山城揚旗,並與毛利元就同盟,以對抗和尼子氏站在同一陣線的政宗。宗景在毛利本隊及從屬於毛利氏的備中國大名三村家親親率的「備中眾」等援軍的幫助下,紛紛在各地擊破政宗、尼子聯合軍隊。永祿三年(1560年)左右、將兄長浦上政宗的勢力從備前國東部驅逐出去,完全掌握了備前國的支配權。 但是,和備中國的三村氏相同,在這個時期充其量只是處在毛利氏庇護下的弱小大名,而且內政上也受到毛利氏的介入,很難說是完全掌握權力的戰國大名。此外,三村氏也開始將勢力伸進美作國,兩家因而產生嫌隙。而政宗的勢力雖然已經大幅削弱,但仍存在於備前國,因此宗景的敵人還是很多。 與毛利氏斷交 永祿六年(1563年)5月左右、和政宗和談、斷絕後顧之憂的宗景,和三村家親發生戰爭。同年12月前宣布和毛利氏斷交,開始步上戰國大名之路。 翌年,永祿七年(1564年)、發生政宗和其嫡男清宗為赤松政秀殺害的事件,繼承家業的政宗次子浦上誠宗對此事並未採取任何動作,宗景得以專心和三村氏作戰。經過明善寺之戰等勝利,終於在永祿十年(1567年)時,成功將三村、毛利氏的勢力驅逐出備前國;同年,浦上領家的當主.誠宗也遭其暗殺。翌年,永祿十一年(1568年)、剿滅備前國中為數不多的國人眾松田氏,並將版圖擴展到除瀨戶內海的兒島外,領有備前國全域及美作國東南部,確定了浦上氏在戰國時代的地位。 可是,在此之前的戰爭中立下顯赫戰功的宇喜多直家及其家臣岡氏、長船氏等人,已經成為有獨立傾向的強大勢力。對宗景本身可以說是「在軍事上有著從屬關係的盟友」的勢力,很難說是像大名和家臣那樣的主從關係。因此,宗景在直家領內如水運等重要據點設下很多直轄地、並派官員管理,來限制直家的統治權。此外,浦上氏雖然將勢力擴展到美作國,但直家的封地卻始終限制在西備前國外圍的程度,而美作國仍然交與沼本氏和菅納氏等在地的國人眾治理。在現今、傳聞直家當時已凌駕於主家的論點是有誤的,就算以陪臣(家臣的家臣)水準的俸祿來比較,直家也並未逾矩。然而,直家獲得松田氏舊領的一部分,並在拉攏家臣團上有所建樹,對備前國的影響力也日益增加,這些都成為日後不利於宗景施政的要素。 直家、最初的謀反 永祿十二年(1569年)、赤松義祐和赤松政秀失和。宗景和舊播磨國守護家的赤松義祐、赤松則房及播磨國有力領主小寺政職等人結盟;以出兵援助為名義,吸收了兄長政宗在播磨國的遺領;並為了討伐赤松政秀,率領「備作眾」攻進西播磨。此外,積極支援亟欲復興尼子氏的尼子勝久等反毛利勢力,並和九州的大友宗麟同盟,顯露和毛利氏對抗的態勢。 但是,抵擋不住宗景猛攻的政秀,向同年中順利上洛的將軍足利義昭和織田信長請求援軍。8月到9月、宗景受到信長派遣的池田勝正、別所安治的攻擊;同時,私通信長的宇喜多直家也對宗景掀起反旗,令宗景陷入危境。不過,義昭、織田軍在攻下播磨國數城後很快就撤退了;反而是政秀被浦上軍打到節節敗退,困守在龍野城中。11月、政秀投降,宗景將其領地都收歸在手。而直家眼見形勢不對,也在同年向宗景請罪,重新回歸家中。 解除織田信長威脅的宗景,在翌年的元龜元年(1570年)、入侵備中國南部。此外,派遣援軍前往出雲國幫助尼子勝久;另一方面,還派出分隊向東支援赤松則房,攻擊別所長治的三木城(別所安治於此年過世),在軍事行動上非常活躍。元龜二年(1571年)、經由締結同盟的三好氏篠原長房的協助下,在備前國兒島戰勝毛利軍。同年秋天以後,又在備中國的佐井田城、松島城等地擊退毛利、三村軍隊。但在元龜三年(1572年)、毛利氏和大友宗麟在北九州的競爭暫時告一段落,毛利軍集結東進而來;宗景向足利義昭、織田信長請求調停,謀求和毛利氏的和睦。最初、毛利輝元不肯答應和議;但在10月、毛利氏和浦上氏終於締結和約,雙方歸還城池。 直家、再度的謀反 天正元年(1573年)12月、在信長的斡旋下,與別所長治達成和解;宗景也從信長手中取得備前、播磨、美作三國的朱印狀而被認可擁有上述三國的支配權。於是,宗景得到相當於以前守護的地位,浦上氏的勢力也凌駕於舊主赤松氏之上;浦上氏在宗景一代,其強盛達到了頂點。然而,根據此朱印狀,原先不屬於浦上氏的東播磨領主小寺、別所等人、也形同浦上氏的家臣,這個情形也招來了反感。注意到這點的宇喜多直家,暗中向小寺政職探詢,意圖將浦上政宗之孫久松丸帶往備前。在得到政職的承諾後,久松丸被秘密送進了岡山城。 翌年,天正二年(1574年)3月、擁立久松丸的宇喜多直家再度反叛,宗景的直屬部隊「天神山眾」在備前、美作國各地和宇喜多軍戰鬥。之後宗景也即刻展開外交戰,和備中的三村元親、美作的三浦貞廣等人結盟。此外,也向大友宗麟、三好長治請求援軍,但兩家有各自的敵人要應付而無暇相助。和前次的謀反不同,因為有久松丸的存在、直家在事前施展謀略將沼田氏、菅納氏等美作國人眾及宗景麾下諸將相繼策反,使得宗景陷入苦戰。而且,旁觀的毛利輝元無視於織田信長讓兩家和解的要求,更因為三村氏的反叛,決定支持宇喜多氏打倒浦上氏。天正三年(1575年)6月、毛利軍攻下備中松山城後,三村元親切腹自殺。在經過名為「備中兵亂」的一連串戰事後終於平定三村氏,毛利氏也全力支持直家而將宗景打到走投無路。 接著家中重臣明石景親等人也遭到策反。同年9月、從天神山城宇喜多軍的重重包圍中成功逃離。之後,宗景得到信長派遣的荒木村重支援,奪回了宇喜多端城(所在地不明),之後就以此為居城。 流放後 遭驅逐出天神山城的宗景,家臣並未全部投向直家。宗景以播磨為據點,和坪井氏、馬場氏等舊浦上家臣暗中取得聯繫。他們與一族的浦上秀宗蟄伏在備前國內,等待再起的機會。為了實現復興的夢想,宗景到天正五年(1577年)前曾多次上京拜見信長,但卻得不到積極的支援。結果,得不到信長幫助的宗景只得獨力成事。天正六年(1578年)12月左右、潛伏在備前的秀宗、坪井、馬場等反宇喜多勢力、以幸島(現岡山市水門町附近)為據點紛紛起兵,宗景也率兵前來會合,浦上軍成功收復天神山城。可是在翌年的天正七年(1579年)4月、文獻中記載秀宗和坪井等人退往播磨,可以想見這期間的叛亂已經得到了鎮壓。因此,殘存在備前的浦上派勢力也遭一掃而空,重掌備前國的夢想終究無法達成。失去宇喜多端城的時間則不詳。 關於宗景的晚年並未留下確實的史料,死亡的年代並不明確。《天神山記》中相傳曾應黑田長政邀請前往築前國,於此地出家並在七十~八十多歲時病逝。而宗景的麼子成宗、為元、浦上家臣高取備中守養育成人。備中守在關原之戰戰死後,據說成宗逃往九州,之後再偷偷返回備前定居,延續血脈。《備前浦上氏研究》的作者浦上元,就自稱是成宗的子孫。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%AE%97%E6%99%AF
浦上政宗 Uragami Masamune(1520年?-1564年) 享禄4年(1531年)、父・村宗が摂津天王寺で戦死して、以降家督を相続。この頃まだ幼少の身であった虎満丸は一族の浦上国秀の後見を天文7年(1538年)ごろまで受ける。 当初は父の仇ともいえる赤松政祐とは激しく対立し、西播磨の国衆と結束して抗争を続ける。 しかし天文6年(1537年)に尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まると政祐と和睦。晴政と共にこれに対するも国衆の離反にあって敗北し、備前国から播磨国への撤退を余儀なくされ、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。 その後、天文9年(1540年)初頭ごろになって政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。同時に虎満丸も元服、晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗った。 しばらく雌伏の時が続くが詮久が吉田郡山城の戦いの頃に播磨の駐留軍を退くと天文11年(1542年)に幕府の助力を得て晴政と共に播磨に復帰。天文13年(1544年)ころまでに播磨•備前の両国を回復する事に成功した。ここに至るまでの過程で政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、これ以降政宗は晴政の筆頭宿老の座に就き、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなどした。また、さらに独自に備前西部の松田氏、税所氏らと縁組し室津の室山城を拠点として備前•播磨での勢力をさらに強め赤松の家臣の枠から抜けていく。 しかし天文20年(1551年)、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり弟の宗景と意見が分かれる。そこで政宗は尼子晴久、松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立。備前の国衆も政宗に味方する者(浮田国定など)、宗景に味方する者(中山信正など)が現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。しかし天神山城や新庄山城などで相次いで敗北。さらに旧主晴政も三石城まで出兵してくるなどし敵に囲まれた政宗は味方の国衆の動きを操ることもままならないまま弘治年間(1555年 - 1557年)の内に備前での勢力を大きく後退させてしまう。 この間にも尼子晴久に度々支援を要請しており、これに際して晴久は自ら約30000余りの軍勢を持って美作国に侵攻した宗景を撃破するも、晴久・政宗にとっても決定打とはならなかった。更には晴久の急死により尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待出来ない状況へと追い込まれた。 勢力の弱まった政宗は永禄元年(1558年)になると足利義輝の仲裁で毛利との和睦の道を探る。また、同年中に自身の復権を目指して赤松晴政を廃して子の赤松義祐へと強制的に家督を継がせる事に成功している。しかしながら一方で追放された晴政も娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産むことにも繋がった。 また永禄6年(1563年)には10年以上に渡り対立していた宗景とも和睦が成立。播磨の黒田職隆と縁組して再起を図る。しかし永禄7年(1564年)1月、室山城にて職隆の娘と息子浦上清宗(小次郎、又は与四郎とも)の婚礼が行われている最中、あるいは婚礼当日の夜に赤松政秀の奇襲を受けて親子ともに戦死した。法名は実巌祐真禅定門。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%94%BF%E5%AE%97
赤松広秀 Akamatsu Hirohide(1562年-1600年) 永禄5年(1562年)、播磨国龍野城城主・赤松政秀の子として誕生。母は赤松晴政の娘。正室は宇喜多直家の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広秀(あかまつ ひろひで)といった。のち斎村政広に改名する。名字「斎村」は、父の死後一時避難していた才村(または佐江村)に由来するという。 元亀元年(1570年)に父・政秀、その後に兄・赤松広貞(ひろさだ)が死去すると家督を継承した。政広の家系の赤松氏は、血統上は、本家とされた赤松義祐(晴政の子で政広のおじにあたる)の家系(七条流)よりも、むしろ嫡流の家柄であった。 織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国攻めがおこると、はじめ抵抗したが天正5年(1577年)に降伏し、羽柴軍の蜂須賀正勝の配下となった。信長の死後は秀吉に従い、中国大返しの際には殿軍を務めた。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、天正14年(1586年)に但馬竹田城主となり2万2,000石を与えられた。九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵などにも参戦している。一方で、儒学者・藤原惺窩に教えを受けるなど、文化人としての一面もあった。秀吉の朝鮮侵略により拉致された朝鮮の高官姜沆とも交遊を持ち、その帰国を支援している。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田三成方に味方し、細川幽斎の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原本戦で石田方が敗れると徳川方に寝返って、石田方に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めている。ところが、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。なお、この焼き討ち(焦土戦術)は、政広に寝返りを促して鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策であり、実行者の政広一人に罪をなすり付けたとする説が強いといわれる。竹田城は亀井の配下の山名豊国により収公された。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%BA%83
赤松政秀 Akamatsu Masahide(生年不詳-1570年) 赤松村秀的長子、母不明、妻為赤松晴政之女;幼名彌三郎、別名宇野下野守、宇野政秀,受赤松晴政偏偉「政」字,名為政秀。 政秀在領內國人眾謀求獨立時,卻一力維護赤松家在播磨的統治。政秀娶晴政之女為妻,並拜領晴政名字中的「政」字。晴政被兒子義佑放逐後,政秀迎入晴政對抗義佑。先前,勢力膨脹的浦上氏也發生危機,浦上村宗的兩個兒子政宗、宗景也各霸一方。 永祿六年(1563年),浦上政宗與宗景和解,政秀於次年正月,率部突襲室津城,討殺政宗父子。 永祿八年(1565年)春,晴政病故,政秀失去和主家義佑對抗的名目,在別所氏的調解下雙方和解。與東面的義佑和解後,政秀出兵攻略西北面的佐用郡,和浦上宗景對峙。 永祿九年(1566年)八月,政秀與流亡中足利義昭的使者會面,並且同意為推戴義昭效力。兩年後,義昭在織田信長的上洛軍扶持下就任征夷大將軍,此時浦上宗景在完成備前領內平定戰後開始入侵西播磨,赤松義祐則借口援助也意圖派兵進入政秀的領地。推測義佑的心理,很可能是擔心政秀取代主家播磨守護的地位而有此行動。政秀無奈之下向足利義昭、織田信長求援。 永祿十二年(1569年)八月,攝津池田勝正與東播磨的別所安治等織田方的勢力出兵援助政秀,政秀率領三千人由龍野城出動,但在姬路被小寺家的黑田孝高奇襲,大敗而歸。 政秀無奈中只有在龍野等待時局變化,同時還要防備浦上宗景的侵略。十一月,以和田惟政、池田勝正、伊丹忠親等攝津勢再度進入播磨,但最終無法救援政秀而被迫撤退。孤立的政秀被迫向浦上宗景乞和, 翌年,正在灰心失意中的政秀被人毒殺,但受何人指使卻是個迷。 出處 http://baike.baidu.com/view/2792973.htm
赤松晴政 Akamatsu Harumasa(1513年?-1565年) 守護代の浦上氏との対立に敗れ、強勢隠居へ追いやられた父の義村から、才松丸(晴政の幼名)は1520年に政敵の浦上氏の拘束下で、わずか8歳という幼少で家督を譲られる。その備前守護代・浦上村宗への再反攻に失敗した父・義村を、翌1521年9月に殺されている。山名氏の侵攻に対抗するため一時的に村宗と手を結んだこともあるが、山名氏の脅威が去ると再び争い、一時は居城の置塩城を追われ美作の新庄山城へ避難を余儀なくされたこともある。 1531年、細川晴元と対立する管領細川高国を擁した村宗が摂津国へ侵攻すると、村宗たちの後詰めとして参戦した政祐(当時の諱)だったが、実は堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。同年6月4日、神呪寺に布陣していた政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。晴元方からも挟撃された高国・村宗軍を壊滅させ、村宗は戦死。高国も自害へと追い込んだ(大物崩れ)。 これにより、ある程度は実権を回復したものの、村宗の子である浦上政宗や浦上宗景との対立はその後も続いた。さらに1538年から始まった、出雲国から尼子詮久(後の尼子晴久)による侵攻では西播磨の龍野城まで奪われると、晴政の領国は混乱し、一時別所氏を頼って三木城に逃れた。やがて別所氏も尼子氏と通じたため、堺へ逃亡することになる。 1540年から翌年にかけての尼子氏の安芸国遠征失敗(吉田郡山城の戦いで、毛利元就支援の大内義隆方の陶隆房(後の陶晴賢)の軍と会戦した尼子氏が大敗。尼子久幸(経久の弟)が戦死)によって、播磨から尼子氏が撤退。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、将軍足利義晴より「晴」の字を賜り晴政(はるまさ)と改名したのもこの時期である。 1552年には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も政宗に奪われ続けており、1558年には政宗に擁立される嫡子赤松義祐とやむなく対抗する為、娘婿の赤松政秀の居城龍野城に逃れた。政秀の庇護下で義祐・政宗と争った晴政だったが、1565年1月16日に死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%99%B4%E6%94%BF
赤松義祐 Akamatsu Yoshisuke(1537年-1576年) 赤松晴政的長子、正室為細川晴元之女?;幼名道祖松丸、通稱次郎、受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義祐。 天文二十三年(1554年),密通三好長慶,和安宅冬康一起攻擊正在播磨國明石城的細川晴元。成年後和父親晴政以連署體制共同執行政務。 永祿元年(1558年)8月,在握有家中實權的浦上政宗擁立下,義祐將父親流放,繼承家督之位而成為赤松氏的當主。遭到流放的晴政前往投靠女婿赤松政秀,以龍野城為根據地和義祐對抗。此外,也一度和兒子則房失和,關係緊張到義祐不得不暫住到別所安治的三木城,不過沒多久兩人就和解,義祐也回到置鹽城。 永祿七年(1564年),發生赤松政秀突襲浦上政宗長男.清宗和黑田職隆女兒的結婚典禮,殺死政宗和清宗父子的事件,家中的動亂仍然持續著。 永祿八年(1565年),因為晴政的病故,使得政秀失去和本家繼續對立的理由而與義祐達成和解。之後,政秀為擴展勢力,獨斷發起軍事行動攻下利神城;還在永祿十年(1567年),和當時正在流浪的足利義昭私下接觸。另一方面,東播磨的有力領主別所安治也開始不受控制。在義祐統治下的赤松氏,已經逐漸失去駕馭周遭領主的力量。 永祿十一年(1568年)9月,在織田信長的協助下,足利義昭就任征夷大將軍,成為室町幕府第15代將軍,赤松政秀也將自己的女兒送到將軍家當侍女服侍義昭。政秀這種無視於本家,擅自和將軍家加深交情的行為觸怒義祐,於是命令御著城主小寺政職前往京都綁架政秀的女兒,並以「無道之仁」的理由彈劾政秀;且催促備前國的浦上宗景發兵,欲聯手將政秀徹底打垮。收到請求的宗景,認為這是一個擴展勢力的好機會,率領備前、美作的國人眾進攻播磨國,威脅政秀的領地。翌年永祿十二年(1569年)2月,政秀女兒得到釋放到達京都,但宗景仍然持續猛攻政秀,難以抵擋的政秀只好向足利義昭請求援軍。 得到救援請求的義昭,命令信長援助政秀。同年8月,以池田勝正為大將的攝津眾、加上別所安治的軍隊,攻進義祐的領地。同一時間,浦上軍因為宇喜多直家的謀反,不得不返回備前國;義祐和小寺聯軍不敵池田、別所聯軍,庄山、高砂城等相繼陷落。形勢一轉,義祐從攻擊方陷入窘境,困守在置鹽城中,忍受著池田、別所聯軍的攻擊。 但是幸運的是,在當時三好氏等勢力仍然安在,織田氏還不能說是已經在畿內站穩腳步的階段;9月,信長將攝津眾召回畿內,別所安治也隨後退兵。之後,義祐立即和織田氏接觸,進行關係的修復;並命則房出兵,和攻擊龍野城的浦上軍相互對峙,以做為向織田氏臣屬的證明。 另一方面,赤松政秀發兵攻打黑田職隆、黑田孝高父子的姬路城,但卻在青山、土器山之戰(永祿十二年(1569年)5月至6月)慘敗。之後在浦上宗景的攻擊下,居城龍野城為浦上軍攻佔,政秀被囚禁並在翌年遭到暗殺。而在掀起反旗的宇喜多直家重新歸順浦上氏後,這一連串的動亂終於平息,義祐也脫離困境。 宗景以救援義祐為名義,出兵攻打龍野城,而與之對峙的則房卻無戰意。11月,池田勝正、和田惟政、伊丹忠親等人急援政秀,但在同月中政秀投降浦上氏,援軍幾乎未曾交戰就又返回畿內;而則房也在浦上軍離開播磨國後,回到置鹽城。 翌年元龜元年(1570年),義祐將家督之位讓與兒子赤松則房。在隱居6年後,天正四年(1576年)過世,年40歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E7%A5%90
黑田孝高 Kuroda Yoshitaka(1546年-1604年) 黑田職隆的長子、母為明石正風之女(小寺政職養女)、正室為櫛橋伊定之女・光;幼名萬吉、通稱官兵衛、別名小寺祐隆、小寺孝隆,號如水軒、 法名如水圓清。 永祿五年(1562年)成為小寺政職的近習。同年初次上陣,與父親黑田職隆一同征伐國人眾。永祿七年(1564年)嫁到浦上清宗的妹妹在婚禮當日被赤松政秀攻打,丈夫被絞死。 永祿十年(1567年)時,孝高繼承父親職隆的家督和家老職,迎娶小寺政職的姪兒櫛橋伊定的女兒光(てる)為正室,任命為姬路城代。永祿十二年(1569年),赤松政秀得到擁戴足利義昭的織田信長麾下的池田勝正、別所安治、宇喜多直家等人支援,率領3,000兵攻打姬路城,但孝高施展突襲等戰術,僅以300兵擊退三木通秋援軍,是為青山・土器山之戰)。政秀投降於浦上宗景。 天正元年(1573年)小寺氏等播磨的大名,被討伐淺井長政、流放幕府將軍足利義昭,成功在近畿擴張勢力的織田信長、以及取得山陰山陽的毛利輝元2大勢力夾於其中(浦上宗景投靠信長、宇喜多直家則投靠輝元。)。天正三年(1575年),孝高由於其才能得到信長賞識,被主君・小寺政職勸說投往在長篠之戰中大破武田勝賴的織田氏。同年7月,在羽柴秀吉的安排下到岐阜城謁見信長。而政職亦與赤松廣秀、別所長治等人一同前往京都謁見。另一方面,同年9月、宗景敗於投靠毛利氏的直家。 天正四年(1576年),迎接了流放中的將軍・足利義昭的毛利氏,派遣水軍大將小早川隆景麾下的浦宗勝,以5.000兵從毛利同盟的三木通秋轄下的英賀上陸,進軍播磨,但孝高僅以500兵擊退毛利・三木軍(英賀合戰)。此役後,孝高將長子松壽丸(黑田長政)送往信長當人質。天正五年(1577年)秋、信長在信貴山城之戰中討伐松永久秀後,羽柴秀吉進駐播磨。孝高讓一族移到父親隱居的飾東郡國府山城甲山,把居城的姬路城提供予秀吉,自己則住在二之丸,以參謀的身份活躍。其後跟從羽柴秀長攻打太田垣景近管轄的竹田城(但馬國),與蜂須賀正勝一同參與。 在豐臣秀吉麾下,他以智謀出眾而與竹中半兵衛(竹中重治)併稱秀吉家的兩衛。天正十四年(1586年)朝廷賜與從五位下堪解由次官,參與了豐臣秀吉的九州攻伐,在對島津的戰爭中取得勝利有著極大的貢獻。翌年秀吉統一九州。戰後,被賜與豐前國中津城12萬5千石。當時國人勢力城井鎮房.野中鎮兼一揆勢力興起,孝高給與個各擊破,天正十六年(1588年)為了領內的安定,暗殺了城井。 高山重友(高山右近)比孝高還早接受基督教洗禮,由於天正十五年(1587年)7月豐臣秀吉頒布禁教令,高山右近因反抗被流放,後來孝高首先宣佈棄教令,這時身為秀吉近側的孝高以身作則,使得基督教與宣教師得以傳播信仰,對當時的諸侯產生衝擊。可由當時路易斯·弗洛伊斯留下的書簡殘篇可知。 天正十七年(1589年)將家督讓與黑田長政而退隱,以如水軒行名,仍在豐臣秀吉身旁活躍,隔年,對北條小田原征伐,在協調終戰過程有很大的功勞,於是賜與日光一文字(原氏直所有,現為國寶,福岡市博物館所藏)。文祿二年(1593年),秀吉對朝鮮出兵(文祿.慶長之役),與五奉行之一的石田三成產生爭執,惹怒秀吉,以如水圓清之號出家,隱退,將家督位讓於兒子黑田長政。 慶長五年(1600年)豐臣秀吉逝世,五大老之一德川家康向東討伐會津上杉景勝,三成卻於關原帶領西軍舉兵。其子長政屬於東軍正於關原作戰,本人在九州募兵,擊破得到毛利家支援企圖恢復舊領的大友義統。此時,孝高的行動有促成九州統一的趨勢,並認為上洛與取得天下不是難事而燃起野心。不過當關原戰役在一天內決定大勢後,野心霎時頓挫。 晚年過著隱居生活不過問政治,慶長九年(1604年)病逝於京都伏見藩邸,年五十九歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%91%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
黒田職隆 Kuroda Mototaka(1524年-1585年) 大永4年(1524年)、黒田重隆の子として備前の福岡(現在の岡山県瀬戸内市)にて生まれたと伝わる。初名は満隆(みつたか)。妻は小寺氏の養女で明石正風の娘・いわ、後妻または側室として母里氏、神吉氏がいた。 播磨国御着城主の小寺政職に仕え、天文12年(1543年)には政職の敵であった香山重道を討ち取った。それらの功績から天文14年(1545年)、政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓氏と偏諱(「職」の1字)を与えられて小寺職隆と名乗り(異説あり)、播磨姫路城の城代になった。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。 永禄7年(1564年)には、浦上政宗の子・浦上清宗と自分の娘の婚姻を実現させたが、その宴席中に父・重隆のかつての主である赤松政秀の奇襲で浦上親子が殺害され、職隆は政秀と対立したといわれている。永禄10年(1567年)頃、子の孝高(官兵衛・如水)に家督を譲り、姫路城の南東に位置する国府山城(こうやまじょう)に隠居した。 永禄12年(1569年)、かねてより対立していた赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んで来た際、迎撃に出るも実弟の井手友氏などを失い危機に陥っていた子・孝高救援のために自身も出馬して勝利に貢献した(青山・土器山の戦い)。 その後、主君の小寺政職は織田氏に与するが、天正6年(1578年)に摂津有岡城主・荒木村重の織田氏に対する謀反に政職も呼応する向きを見せた。孝高は村重を説得するために有岡城に乗り込んだが失敗し、捕縛され牢に入れられた。孝高が幽閉され音信不通になってしまった事で黒田氏は当主不在となったが、この時、孝高の重臣7名が連署で主が不在の間は職隆の命に従う事を誓った書状を職隆に宛てて送っている。こうした要請に応じて職隆は孝高が救出されるまでの間、黒田家当主の座に復帰し、織田氏から離反した小寺氏には与さず織田氏に変わらず味方する姿勢を示した。天正8年(1580年)、荒木村重の謀反鎮圧に伴い小寺政職が逃亡すると、その子・氏職を密かに引き取って養育していたという。その清廉で忠義一徹なところを羽柴秀吉にも賞賛され、後に姫路城の留守居を任された。 天正13年(1585年)8月22日、62歳で死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E8%81%B7%E9%9A%86

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