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三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、滝川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、上杉景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家
小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、豊臣秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶
谷忠澄 Tani Tadazumi(1534年-1600年) 谷忠澄最初為土佐神社的一名神官,後出仕於長宗我部元親,並以出色的外交能力開始活躍。 天正十三年(1585年)四月,羽柴秀長(豐臣秀長)進駐和歌山城,征討四國之勢昭然若揭。長宗我部元親命谷忠澄前往與羽柴秀吉(豐臣秀吉)議和。秀吉要求長宗我部氏交出贊崎、伊予兩國,但元親只願意交出伊予一國,遂和談破裂。於是同年六月,秀吉任命胞弟秀長為總大將,秀長令軍從東路,宇喜多秀家中北路,小早川隆景從西路共十一萬大軍,開始全面四國征討。 面對強敵入侵,長宗我部元親發動全面總動員令,統軍四萬布防,並親帥大軍在白地城統戰指揮。說句題外話,由於秀吉剛剛在小牧、長久手之戰中大敗於德川家康,使得元親覺得四國軍勢亦可一戰退敵。谷忠澄和江村親俊奉命鎮守四國門戶要地,阿波一宮城。面對從淡路渡海而來的敵軍,長宗我部氏動員了九千余人拼死籠城。秀長軍勢中將星薈萃,大將蜂須賀正勝、藤堂高虎、增田長盛、仙石秀久、戶田勝俊等人統軍五萬,從東北西三個方向圍攻一宮城。雙方人數相差懸殊,經過十九晝夜無休的猛攻之下,城內水源被斷,城防工事盡皆被毀。在此形勢下,谷忠澄和江村親俊決定開城投降,隨後谷忠澄返回本家白地城。 隨後元親和谷忠澄所在的白地城便被羽柴和宇喜多軍勢夾攻,谷忠澄在與羽柴氏大軍交手之後,明確的判斷出本家絕無可能勝出,再戰下去只能最終滅亡。為了主家的存續,谷忠澄上書當家元親,闡述自己的觀點,以雙方兵力和武器裝備相差懸殊為由,勸說當主降服於秀吉。元親大怒,認為沒有一絕死戰就投降簡直是奇恥大辱,憤怒之下命谷忠澄切腹謝罪,全軍做好戰到最後一人的覺悟。谷忠澄改變策略,游說家中重臣們,最後聯名勸說主公元親,衡量利弊後最終於同年七月二十五日,長宗我部氏向秀長投降,僅僅保有土佐一國領地,但是避免了被徹底消滅的結局。 四國平定後的天正十四年(1586年),谷忠澄陪同長宗我部家的少主,長宗我部信親隨軍參加九州征討戰。不幸地是在戶次川合戰中,由於仙石秀久部的冒進而全軍潰敗。被島津大軍四面包圍的長宗我部信親最終被新納忠元麾下的鈴木內膳討取,年僅二十二歲。谷忠澄經過與新納忠元交涉後,取回少主信親的遺骸,火化後親自送回土佐岡豐城謝罪。 從九州歸來後,谷忠澄便被任命為中村城的城代,直至最終於慶長五年(1600年)病故辭世,享年六十七歲。 出處 http://www.sengoku.cn/bbs/thread-222867-1-2.html
長宗我部信親 Chosokabe Nobuchika(1565年-1587年) 長宗我部元親的長子、母為石谷光政之女、正室為石谷賴辰之女;幼名千雄丸、別名彌三郎、受織田信長偏諱「信」字,名為信親。 信親武勇過人、立身重義,在戰場上的表現出的氣慨頗有乃父之風,因此極受元親疼愛,家臣們也都對他寄予極大的希望。 天正八年(1580年),征服了伊予西園寺家及河野家的元親意欲將目標放在一統四國,但此時稱雄中央十五國的織田信長也想趁這個時機以征伐三好家餘黨十河存保為由插手四國事務,為此元親派出家臣中島可之助為使者並透過織田重臣明智光秀的斡旋,雙方結為「烏帽子親」由元親的長子千雄丸拜領信長的「信」字,並親往安土受領一把左文字太刀。 天正十年(1582年),信長終於按捺不住自己天下布武的野心,透過羽柴秀吉收服了阿波的十河存保,明智光秀亦勸阻失敗後,信長背棄與長宗我部的盟約,派出三子信孝和老將丹羽長秀進軍四國。所幸因為本能寺之變的發生,在雙方正式接觸交戰前,織田軍便已後撤。 之後信親便隨父親東征阿波勝瑞城,打敗十河存保,完全一統四國。無奈好景不常,由織田家內鬥中脫穎而出的羽柴秀吉為趁勢一統天下,與大阪城僅有一海之隔的四國長宗我部成為首要目標,秀吉發布「四國征討令」讓其弟秀長率大軍出陣,當時信親代替父親據守在居城岡豐,清楚知道前方的一宮城是如何被秀長用斷水戰法攻陷,了解到雙方實力的差距,最後只好與父親元親接受重臣谷忠澄的勸說於八月請降。 天正十四年(1586年),元親受秀吉之命出征九州,原本已一統四國的長宗我部在秀吉的削減下只餘土佐一國,元親受窘於這種情況,因此帶上英武的長子信親一同出兵以盼信親能建立戰功重振家名。 為此元親前往土佐神社祈禱戰勝,結果頭上的斗笠撞上神社的鳥居而折斷了。家臣都覺得這是凶兆,元親倒不在意說:「胡說,這明明是吉兆!」 或許是天要亡長宗我部家,出兵九州與島津家交戰時由於軍監仙石秀久的愚魯數度制肘出兵的軍機,最後導致在戶次川合戰中信親被島津的伏兵圍攻,結果與十河存保的部隊遭到孤立,但是長宗我部信親依然奮戰不懈,森鷗外的長編敘事詩中,有關『長宗我部信親』記載的信親在戶次川畔戰死的姿態描述如下:「大將信親著唐綾「系戚」的甲,穿戴蛇皮冑,騎馬奔馳,手持四尺三寸(自信長處拜領的左文字的太刀)長刀奮戰,但遭到敵人伏擊而戰死,年二十二歲,法名天甫寺常舜禪定門。」,監軍仙石秀久大敗而逃,福留儀重、本山親茂則在敗軍中戰死。 信親的戰死對長宗我部元親來說是很沉重的打擊,他下令推倒神社門前的鳥居,此後再不修建。對他來說失去信親也就等若失去了長宗我部家的未來。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316728
長宗我部元親 Chosokabe Motochika(1539年-1599年) 長宗我部國親的長子、母為齋藤氏之女.祥鳳玄陽、正室為齋藤利三的異父妹.元親夫人、側室為小少將;幼名彌三郎、受細川晴元偏諱「元」字,名為元親,法名雪蹊恕三、別名土佐侍從、渾名:姬若子、鬼若子、土佐の出來人、鳥なき島の蝙蝠。 幼年時,由於皮膚白皙且體弱,而被家中私下譏稱為「姬若子」(像女孩的男孩子)。 永祿三年(1560年),首次上戰場,陪同父親國親迎戰本山茂辰(長濱之戰),元親在出陣前曾向士兵請教長槍的用法,並在練習之後得意地說道:「原來這麼簡單阿!」上陣時,元親親自持槍應戰且戰果不凡,被族人轉而視為勇將,並改稱之為「鬼若子」(像鬼怪一樣兇悍的男孩子)。 同年6月,由於父親猝逝,元親繼承為長宗我部氏的第21代家督。元親動員一領具足擴大勢力,以四國統一為其家族目標。 永祿六年(1563年)迎娶齋藤利三的異父妹,同年,二弟吉良親貞繼承吉良氏。 永祿十一年(1568年),朝倉城之戰降服本山家;翌年,發動八流之戰消滅安芸國虎,並且於元龜二年(1571年)消滅津野家,領土大為擴增。 天正二年(1574年),一條兼定被其家臣放逐後,元親便趁機奪取土佐一國。天正三年(1575年),元親又在渡川之戰擊敗一條兼定,完成土佐的統一。之後元親與織田信長結盟,繼續進侵伊予、讚岐與阿波;但天正四年(1576年)元親的二弟吉良親貞的過世、三好家十河存保的反攻與信長的廢除同盟等,都讓元親在長宗我部家的發展與維持上舉步維艱。 天正十年(1582年),織田信長本來有意集合軍隊渡海攻打四國,但卻於本能寺之變中遇害。信長死後,趁機攻打宿敵十河存保(中富川之戰),並與柴田勝家、德川家康結盟。至天正十三年(1585年)時統一四國。 天正十三年(1585年),羽柴秀吉(豐臣秀吉)派遣羽柴秀長為首等人攻打剛被長宗我部統一的四國,元親下令將兵死守防衛線上,防止對方登陸,元親死守居城應戰,初時秀吉要求長宗我部返還讚岐、伊予二國投降,但長宗我部僅願返還伊予一國而拒絕,戰事開始後,長宗我部軍節節敗退,谷忠澄提出投降建議。最後秀吉將阿波、讚岐與伊予收為己有,僅留土佐一國予長宗我部家治理。元親並上洛謁見秀吉表示臣服之意。 天正十四年(1586年),豐臣秀吉攻打九州時,元親的嫡長子長宗我部信親也參戰(戶次川之戰),但因為軍監仙石秀久的錯誤判斷,使得信親及宿敵十河存保戰死。元親傷心欲絕,從此性情大變,並開始溺愛四子.長宗我部盛親。 天正十六年(1588年),元親將居城遷到大高阪城,之後卻困於繼承人選擇,甚至因為此事件肅清反對派的一門眾,如比江山親興、吉良親實,長宗我部家之局勢因而每況愈下。翌年,被賜姓羽柴。 天正十八年(1590年),參加小田原征伐,率領長宗我部水軍攻略後北條氏的下田城。天正十九年(1591年),元親將居城遷到浦戶城。天正二十年(1592年),參加朝鮮征伐。慶長元年(1596年)進行檢地。慶長二年(1597年),與長宗我部盛親一同制定元親百個條。 慶長三年(1598年),豐臣秀吉病逝,政局變得相當不穩定,因此元親年末留在伏見宅邸,並於11月26日接受德川家康的訪問,隔年年初歸國。 慶長四年(1599年),身體越來越虛弱,為此再次上洛找尋京都及大阪的名醫並謁見豐臣秀賴,在伏見屋敷休養,最終一病不起,向長宗我部盛親交代遺言後病逝,年六十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
香川之景 Kagawa Yukikage(1527年-1600年) 室町時代末期、讃岐国香川氏に生まれる。香川氏は東讃の安富氏と並び、代々讃岐国守護代を務めていた。 多度、三野、豊田三郡(後に那珂を加えた四郡)を領する。居城は讃岐国多度郡本台山城で、有事に際しての牙城として天霧城を有した。 細川京兆家の重臣である父元景は在京し、管領の政務執行を補佐する役目にあったが、京兆家は分裂を繰り返しており、内部抗争が絶えなかった。そこで元景は細川氏の勢力後退を好機として讃岐国内の内政に着手。自立の道を歩み始めることとなる。 之景が讃岐香川家の当主に就いた後、管領家の実権は三好氏が握ることとなった。天文21年(1552年)には三好実休は守護の細川氏に取って代わり讃岐国内を従えようと諸将に書状を送ったが之景はこれに従わなかった。そして永禄6年(1563年)、実休(前年3月戦死)は香西元成を始め安富氏、十河氏、寒川氏など阿淡、東讃の兵八千余人を率いて押し寄せ、一宮に陣をはった。讃岐の諸将にも参陣を呼びかけ9月18日に金蔵寺に陣を移す頃には、羽床資載、福家資顕、瀧宮弥十郎、瀧宮安資、香川行景、長尾元高、新目安光、本目正利、仲行司清左衛門、山脇久友ら中讃以西の諸将も加わりその数総勢一万八千人に及んだと伝わる。 之景は家老である香川元春、河田弥太郎、河田七郎兵衛、三野栄久らと共に天霧城に入城した。そして、それに応じた大平国祐、斉藤師郷、香川左馬助、香川伊勢守、朝比奈弥太郎、秋山良泰、三野菅左衛門尉など、西讃各城の兵も加わり、総勢六千余人が城内外を固く守備した。 いざ戦闘が始まると城外で一進一退の攻防が繰り広げられたが、三好勢は堅固な天霧城へ大規模な攻城戦にはでられず、実休は、長期戦は不利とし、香西元成を介して和議を申し込むことにした。之景もこれを容れ、香川氏の所領は細川政権下の時のまま安堵することを条件に、三好氏に従い畿内の軍役を務めるとの条項で連署状を作った。そして10月20日、三好勢は軍を引き上げていった。この戦で朝比奈弥太郎は防戦の末、討死。弘法大師ゆかりの善通寺大伽藍、そして善正寺が焼失した。 三好家の統治下に収まりはしたが讃岐は三好家への軍役に従い畿内での戦に多くの民衆が駆り立てられ、民政は乱れ、賊による略奪や土一揆が多発、また国人領主間の争いも絶えなかった。とくに直接支配を受けていない西讃地方では反三好の気風が年々高まっていった。そんな中、天正2年(1574年)、之景は勝賀城の香西氏に組し、三好長治と対立した。長治はただちに兵を出したが、大西氏、長尾氏らも香西氏に加勢したため、ついになすところなく兵を撤退した。この年、三好笑岩は織田信長に従う(高屋城の戦い)こととなり、讃岐における三好の勢力は衰退の一途を辿っていくこととなる。 天正3年(1575年)、隣接する那珂郡は領主の奈良元政が畿内の領地からは離れられず、宇多津聖通寺城へ戻れない状況が続き、それに乗じて従兵が民を虐げ、暴虐をなしていた。そこで之景は那珂郡を統べるべく諸氏への諜略を開始した。新目、本目、山脇の三家は之景に従ったが金倉城主金倉顕忠は、それに帰伏しないばかりか、三好氏に通じ、香川氏領との境界を侵し始めたので、兵を挙げてこれを討つ事になった。そこで之景は香西佳清へ使者を送り、香西氏配下の羽床、福家、瀧宮の三家の協力を請うことにした。香西氏はこれを承諾したので之景は香川元春、大平国祐、三野栄久を大将として壱千余人の兵を金倉郷へと差し向けた。時を隔ずして香西氏からの援兵として羽床資載、福家資顕、瀧宮安資、同弥十郎などが馳せ参じ、金倉氏に組する中津為忠城主、為忠将監を攻め、これを撃破した。金倉顕忠は、城に引きこもらず出て切所を構えて防戦した。五百余人を五手に分かち三手を香川方へと向かわせ、残る二手を顕忠自らが率いて、福家資顕の軍に向かって戦いを仕掛けた。しかし頼みの三好氏からの援軍は無く、双方戦闘をしている所へ瀧宮安資と同弥十郎の二軍が左右より挟んでせめかけて来たので顕忠はたまらず兵を引かせた。その撤退の最中に顕忠は福家の従僕の石若なるものに討ち取られ、戦闘は幕を引くこととなった。戦闘終了後、羽床資載の計らいで那珂郡は香川方に属す事となり、ここに香川氏は西讃四郡を直領とすることになった。 織田家の版図拡大は讃岐にも大きな影響を及ぼしていた。天正4年(1576年)、之景は香西佳清と謀り、香川元春と三野栄久を使者として手みやげに大原真盛の太刀を持参し、三好笑岩の仲介で信長に属すことを請うた。信長は喜んで使者を饗応して之景に偏諱を与えた。使者も禄として各々が馬を一頭ずつ賜った。これより之景は名を信景と改めることになった。そんな中、天正5年(1577年)、三好家にはさらなる悲運が待ち受けていた。細川真之が長治討伐の兵を挙げ、長治が別宮浦で自刃してしまったのだ。三好家は讃岐より移った十河存保があとを継いだが、ちょうどその頃、土佐の長宗我部元親が四国を平定すべく着々と讃岐侵攻への準備を進めていた。 翌天正6年(1578年)、ついに土佐の長宗我部元親の軍勢が讃岐へ乱入、香川氏の属城である藤目城が落とされた。斉藤師郷は土佐の軍門に降り、本篠城の財田常久は討死。土佐勢の勢いは止まることなく、破竹の勢いで九十九山城を攻め細川氏政を駆逐し、仁尾城主細川頼弘、天神山城主吉田兼久らも各地で討死、香川氏の諸城は次々と落ちていった。しかし信景は十河氏からの再三の抗戦にも応じることはなかった。そして翌年、信景の弟、香川景全の家老香川備前の元へ大西頼包、先日土佐方へ降った斉藤師郷から土佐国分寺の僧が使いとして送られてきた。その内容は早々に味方になれば本領は安堵されるというものであり、備前守はその由を景全に、さらに景全が信景へと伝えた。信景ももはやなす術もなく、それを容れ、土佐方への恭順の意を僧へ伝えると僧は元親にその旨を伝えた。以後、不戦の約定を交わし、香川元春、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野栄久の四人の家老を二人ずつ交代で土佐へと遣わし質とする代わりに元親の次男親和を香川家に入れることで和睦が成立。ここに香川家は長宗我部家の軍門に降ることとなった。 土佐方と和睦した後、信景は岡豊へと参り元親に謁見した。長宗我部家臣中島重勝が奏者となり、進物に「長光の太刀」、「二字国俊の刀」、真綿五百把、紬百反、紅花五斤、馬一匹、その他子息簾中に至るまで各々に贈り物をし、元親も大いに喜び厚く饗応して、能乱舞などをも催させ五日間の逗留の後に帰国したとある。それからまもなくして、元親は次子親和を多度津へ送ってきた。名を香川家の通名である五郎次郎と改め、信景の娘を嫁にして世継ぎとなった。以後親和は讃岐方面軍の大将として転戦し、中富川の合戦の際には西讃岐勢五千を率いて参陣、十河城を攻撃した(第一次十河城の戦い)。また、信景自身は外交によって香西氏、羽床氏らへ土佐方への恭順を説き、降伏させている。また、引田の戦いでは秀吉の命によって十河氏救援のために渡海してきた仙石秀久の軍を大西氏と共に破った。そして天正13年(1585年)、長宗我部元親は四国のほぼ全域を支配下に収めた。 しかし平安も束の間、信長死後に勢力を拡大した羽柴秀吉が四国侵攻の意志を表明。まもなく長宗我部家と羽柴家の交渉が決裂。6月、秀吉の四国征伐が開始されることとなる。羽柴秀長を総大将に、毛利氏、宇喜多氏も参戦し、総勢11万の大軍で四国へ侵攻。対する四国勢は4万、元親は阿波白地城に本陣を構え四国各地の海岸線の防備を固めて迎え撃つこととなった。讃岐では国吉甚左衛門に西長尾城を守らせ、西讃の陣代として入交蔵人を新居城に置き、長宗我部親吉を植田城に置いて当国の諸将を統領した。しかし多勢に無勢、次々に諸城が落ちていく中、元親は谷忠澄の言を入れ羽柴家の軍門に降った。讃岐には仙石秀久が入り、聖通寺に拠点を置いた。このときの仕置によって、香川家は取り潰しとなり、ここに200余年続いた讃岐香川氏は滅亡することとなった。 その後、数名の家臣と共に土佐へ逃れ、元親から幡多郡山田郷一帯に所領を受けて居住した。最期はそのまま土佐で死去した説、戸次川合戦で戦死した説、肥後の地で暮らしそこで死去した説など諸説あり、その最期は不明である。讃岐弥谷寺に香川氏累代の墓があるが、そこに信景は眠っていない。なお、上記生没年は香川氏の末と伝わる家の系図から引用したものであるが、生没年不詳説もある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E4%B9%8B%E6%99%AF

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