首頁 Tags 蘆名盛隆

Tag: 蘆名盛隆

二階堂盛義 Nikaido Moriyoshi(1544年-1581年) 二階堂輝行之子,母親為伊達稙宗之女,正室爲伊達晴宗之女.阿南;別名二階堂行盛。 盛義接任當主後,在永祿五年(1562年)戰勝入侵岩濑郡松山城的田村清顯。永祿八年(1565年)時控制著會津四郡的大名蘆名盛氏發兵接連攻下松山、橫田兩座城池。盛義自知不敵蘆名氏決定臣服講和,並送出年僅七歲的長男(蘆名盛隆)作爲人質。 天正二年(1574年),田村清顯再度攻入岩濑郡河東鄉,盛義向蘆名家求援。同年三月,蘆名盛氏的長子蘆名盛興在越久一帶與田村清顯對峙,但是最後被田村清顯擊敗,戰死八百多人。 同年六月,蘆名盛興病故,作爲人質留在會津的二階堂家長子在蘆名盛氏主導下迎娶盛興的未亡人,繼承蘆名家改名爲蘆名盛隆,順利將蘆名與二階堂家一體化。而盛義也作爲蘆名盛隆的生父,既是作爲蘆名盛隆掌握蘆名家的後盾,也利用蘆名家的實力擴張二階堂家的地盤。 天正三年(1575年),盛義與蘆名盛隆父子聯合田村清顯、白河義親在石川郡雲霧城左近戰勝佐竹義重、石川昭光。天正五年(1577年)七月,盛義和蘆名盛隆父子聯合佐竹義重、石川昭光入侵安積郡,在日出山城擊破田村清顯。 天正八年(1580年)三月,田村清顯以其弟田村重顯挂帥發兵兩千再度入侵岩濑郡。盛義在下小山田迎擊田村軍,並在八幡山布下伏兵,自率一百人在賀須內川布陣誘敵深入,利用伏兵在田村軍渡川時奇襲,田村軍陣亡兩百余人,主將田村重顯戰死,盛義趁勢攻入田村郡奪取了田村家的大平城。 翌年八月二十六日,病死,年三十八歲 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E7%9B%9B%E7%BE%A9
伊達輝宗 Date Terumune(1544年-1585年) 伊達晴宗的次子、母為岩城重隆之女.久保姬、正室為最上義守之女.義姬(保春院);通稱彥太郎、總次郎,受足利義輝偏諱「輝」字,名為輝宗,戒名覺範寺殿性山受心大居士。 因為長兄親隆成為外祖父岩城重隆的養子,於是輝宗成為世子。天文二十四年(1555年)3月19日元服,受將軍足利義輝的偏諱而改名為輝宗。於永祿七年(1564年)迎娶最上義守之女.義姬(最上義光的妹妹),同年末期繼承家督。 不過此時家中的實權被已經隱居的父親晴宗和在天文之亂期間成為家中最大實力者的重臣中野宗時、牧野久仲父子所掌握。因此希望得到家中統制的輝宗在永祿十三年(1570年)4月,以中野宗時企圖謀反的口實攻陷久仲的居城小松城,此後把中野父子流放。另外輝宗還處罰沒有幫助自己的小梁川盛宗、白石宗利、宮內宗忠等人。 同年,正室義姬父家最上家中最上義守、最上義光父子之間發生鬥爭,輝宗出兵支援義守並進攻義光,不過因為義姬請求輝宗撤兵而歸還。 此時已掌握家中實權的輝宗提拔鬼庭良直為評定役並加以重用,而且發現中野宗時的家來遠藤基信的才能而把其召到自己身邊,令基信負責外交。以這兩人為中軸的輝宗政權持續執行父親晴宗的方針,與蘆名氏保持同盟關係,另一方面則調停南奧羽諸侯之間的紛爭。更進一步展開廣大的外交活動,在天正三年(1575年)7月向中央的實力者織田信長贈送鷹等,再命遠藤基信向北條氏政和柴田勝家頻繁地送出書簡和禮物,建築出多方的友好關係。 天正六年(1578年)因為上杉謙信死去而引發的御館之亂中,輝宗把對相馬氏的戰線交給叔父亙理元宗,並基於北條的同盟而與蘆名盛氏一同支援上杉景虎方參戰,不過御館之亂最終由上杉景勝方得到勝利,蘆名、伊達軍沒能夠阻止新發田長敦、新發田重家兄弟的奮鬥。但是在御館之亂後的論功行賞時,新發田勢的軍功被低估,而且希望仲裁的安田顯元自殺,於是新發田重家在天正九年(1581年)向上杉景勝發動叛亂,輝宗與蘆名盛氏的後繼者蘆名盛隆(二階堂盛義之子)一同支援重家,而柴田勝家亦一同連手介入越後的戰鬥。於是新發田的叛亂就陷入7年的長期戰中。 另一方面,在對相馬氏的戰鬥中,因為相馬盛胤、相馬義胤父子相當善戰,戰局完全沒有好轉,不過在天正七年(1579年)迎田村清顯的女兒愛姬為嫡男伊達政宗的正室來壓迫相馬方,於天正十年(1582年)向小齋城城主佐藤為信的調略成功的同時,在天正十一年(1583年)5月17日終於成功奪回天文之亂以後最重要的要衝丸森城,翌年(1584年)1月11日,攻略金山城(在於寬文7年(1667年)的相馬中村藩士中津幸政編纂的『奧相茶話記』中記載,因為田村清顯在天正十一年(1583年)2月的仲介下而決定丸森、金山兩城的返還)。獲得伊具郡全域的輝宗決定停戰。 同年5月,以祖父伊達稙宗的隱居領伊具郡為伊達領地,宇多郡為相馬領地,於是與相馬氏達成和解。此時的伊達家恢復稙宗時代的勢力圈(11郡餘),而且更將影響力遍及南奧羽全域。 天正十一年(1583年)收到盟友柴田勝家4月在賤岳之戰中被羽柴秀吉擊敗並滅亡的消息,於同年6月5日送給姪子岩城常隆的書狀中,提到秀吉的勢力已經蔓延到東國,希望聯合奧羽的諸大名對抗(在『性山公治家記錄』和『大日本史料』都記載書狀的發出日期是天正十一年(1583年)6月5日。另一方面,小林清治的『米澤市史』(1985)則記載是天正十年(1582年))。 天正十二年(1584年)10月6日,蘆名盛隆因為男色問題而被家臣殺害,輝宗成為出生只有1個月的當主.盛隆的兒子龜王丸的後見。輝宗在此時決定把伊達家的家督讓予嫡男伊達政宗,並移居至已修築的館山城。以後自身專注介入越後方面的事情。而繼任家督的政宗則與上杉景勝講和,並放棄伊達、蘆名、最上共同介入越後的策略,於是蘆名家中開始增大對伊達家的不信任感。 翌年(1585年)春天,響應田村清顯的請求,以清顯向伊達、蘆名方服從為條件,伊達氏命令從田村氏之下獨立的小濱城城主大內定綱返回田村氏的支配下。(田村氏在前年與大內氏鬥爭之際,因為對輝宗的調停方案不服而沒有跟從,於是遭到向大內氏支援的石川昭光、岩城常隆、伊達成實等人攻擊,於是田村氏屈服)而定綱則拒絕返回田村氏的命令,於是伊達政宗在同年4月向大內氏下達討伐命令。定綱向蘆名盛隆的未亡人彥姬(輝宗的妹妹,龜王丸的母親)求助,但是政宗在5月突然侵攻蘆名的領地(關柴合戰),在失敗後再向定綱和定綱的親戚.二本松城城主畠山義繼(二本松義繼)加強攻擊。因為政宗這樣激烈地轉換戰略方針,使輝宗所建構出的南奧羽外交秩序開始出現破綻。 同年10月,二本松義繼向伊達政宗請求降伏,政宗對義繼顯示出苛烈的態度,向其宣告要大幅削減所領,不過負責調停的輝宗則對政宗的決定表示不滿(義繼向輝宗請求減輕處分),於是政宗亦決定減輕處分。 10月8日,二本松義繼為向負責調停的輝宗表達謝意而前往宮森城(一說是義繼看見在館內磨刀的士兵,於是態度出現變化),突然挾持輝宗返回二本松城。伊達政宗前往追趕義繼,雙方在阿武隈川河畔的安達郡平石村高田相遇。此時政宗命令鐵炮隊射擊,於是義繼和輝宗都被擊殺(一說是義繼知道自己無路可逃,於是在殺害輝宗後割腹自殺),年四十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97
伊達阿南 Date Onami(1541年-1602年) 伊達晴宗的長女、母為岩城重隆之女.久保姬、二階堂盛義的正室、兄長岩城親隆、弟弟伊達輝宗等;號為大乘院,戒名大乘院殿法岸秀蓮大姊。 永祿四年(1561年)出產長子平四郎(蘆名盛隆),元龜元年(1570年)出產次子二階堂行親。永祿八年(1565年)夫.二階堂盛義敗於蘆名盛氏時,長男平四郎作為人質送往蘆名氏的黑川城,天正三年(1575年)因蘆名盛氏後繼蘆名盛興死去之故,一介人質的平四郎被迎入蘆名家,成為蘆名氏當主蘆名盛隆。 天正九年(1581年),夫.二階堂盛義病死後出家為尼,號為大乘院。家督由次子行親繼承,天正十年(1582年)行親急死後,阿南姬成為須賀川城主,須田盛秀作為城代進行實質上的領內統治。後來於天正十二年(1584年)長子蘆名盛隆遭暗殺身亡。 之後與生家伊達氏展開爭鬥,天正十六年(1588年)作為蘆名、相馬聯合軍的一員出兵參加郡山合戰。天正十七年(1589年)6月,侄子伊達政宗於摺上原之戰中滅亡了蘆名氏。 阿南姬多次收到伊達政宗的降服勸告,然而全部拒絕。與佐竹氏和岩城氏的援兵共同進行防禦戰。然而因保土原行藤作了內應,同年10月26日,須賀川城被攻陷。阿南姬被人救出,政宗提出讓她移住信夫郡杉目之厚遇,阿南姬甚為厭惡,拒絕了該建議,前去投靠侄子岩城常隆。天正十八年(1590年)常隆死去,轉而寄身於外甥.佐竹義宣之處。 慶長七年(1602年),伴隨佐竹家之轉封前往出羽國途中,於須賀川付近不幸患病死去,年六十二歲。墓所位於須賀川長祿寺。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=4#postid-156 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E5%A7%AB
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
大內定綱 Ouchi Sadatsuna(1545年-1610年) 大內義綱的長子;別名太郎左衛門、勘解由左衛門、廉也齋。 在父親義綱一代,陸奥大內氏本為鹽松石橋氏的重臣,後來在田村氏的政治工作下,義綱驅逐主君石橋尚義、成為鹽松領主並隸屬於田村氏旗下。定綱繼承家督之後,對田村、大內兩家家臣之間紛爭的裁決結果感到不滿,於是有從田村氏獨立的打算。 天正十年(1582年)、伊達輝宗攻打小齋城之際,定綱來到伊達軍陣中而進入伊達氏的保護傘下,之後對相馬氏的戰爭也多次協同作戰。此外,定綱還將女兒嫁予二本松城主二本松義繼之子.國王丸(二本松義綱),穩固立足之地。 天正十一年(1583年)、定綱攻擊田村方的百目木城主石川光昌(石川氏舊臣,和義綱一同驅逐尚義的有信之子),在與田村氏對立的蘆名盛隆的支援下,擊敗田村清顯而成功獨立。 天正十二年(1584年)、伊達輝宗之子.伊達政宗(正室為田村清顯之女愛姬)繼承家督之位;雖然定綱持續表明對伊達氏的忠誠,不過經常在伊達氏和蘆名氏之間搖擺不定。在田村氏的壓力下,政宗於翌年的天正十三年(1585年)攻擊大內氏。小手森城淪陷後政宗下令屠城,定綱也決定放棄小濱城逃往二本松城,接著再前往會津投靠蘆名氏。 天正十六年(1588年)的郡山之戰,定綱擔任蘆名軍的先鋒攻打苗代田城;後在伊達成實的勸誘下,和弟弟片平親綱一同回歸伊達氏。 此後,定綱參與摺上原之戰、鎮壓葛西大崎一揆及文祿.慶長之役(萬曆朝鮮之役)都立下戰功。天正十九年(1591年)、政宗轉封到岩出山城後,定綱也受封膽澤郡20餘邑(大約1萬石)的領地,並擔任前澤城主。 慶長五年(1600年),關原之戰時,定綱擔任留守京都伊達氏宅邸的工作(留守居);因定綱的功績,其子大内重綱被授與仙台藩內一族的家格。 定綱本身以擅於作戰而享有盛名,也長於謀略,此外在槍術(十文字槍)上也有獨到之處。 慶長十五年(1610年),死去,年六十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%A7%E5%AE%9A%E7%B6%B1
安田顕元 Yasuda Akimoto(生年不詳-1580年) 永禄年間ごろに父・景元の跡を継ぐ。同じ上杉家臣の安田長秀をはじめとする大見安田氏とは別氏族である、毛利安田氏(安田長秀#大見安田氏を参照)出身。 上杉謙信に仕え、川中島の戦いなどで功績を挙げ、信濃国の飯山城を任された。また、「顕」の字は謙信より拝領したものである。 天正6年(1578年)の上杉謙信死後、越後国内での後継者争いである御館の乱が勃発すると、顕元は誓紙を出して上杉景勝側に味方し、五十公野治長(後の新発田重家)や堀江宗親等の、当初は上杉景虎側についていた国人衆を調略して、景勝側に引き入れ、景勝の勝利に大いに貢献した。ところが乱の終結後の論功行賞において、恩賞のほとんどが景勝子飼いの上田衆に与えられることとなり、新発田ら国人衆はこれに猛反発する。 顕元は重家と景勝との仲裁に乗り出して両者の説得を試みたが上手くいかず、両者の板ばさみとなった。結局、顕元は責任を感じて、面目を保つために自害した。 刈羽安田氏の家督は顕元の弟・安田能元が継いだ。 顕元の死により、重家は上杉からの離反の意志を固め、翌天正9年(1581年)、陸奥国の伊達輝宗・蘆名盛隆に通じて独立した(新発田重家の乱)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E9%A1%95%E5%85%83
小峰義親 Komine Yoshichika(1541年-1626年) 永正の変により断絶していた白河結城氏の庶流である小峰氏を継いでいた。宗家の結城晴綱の存命中はあまり政治の場に表れることはなかったが、晴綱が病により当主としての活動が困難となった永禄10年(1567年)頃から、家中の実権を握るようになる。天正元年(1573年)に晴綱が病死し幼少の結城義顕が家督を継ぐと、その後見人となって白河結城氏を取り仕切った。しかし、天正3年(1575年)に家老の和知美濃守と図って義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城氏の当主となる(天正の変)。義親の謀反の原因は、自身の野望によるものとも、岳父の蘆名盛氏に唆されたからともいわれているが、真意の程は不明。また、最近は義親は晴綱の嫡男(または弟で養子になったとも)であり小峰氏は継いでおらず、家督簒奪ではないという説も出てきている。 なお、『白河市史』の編纂の過程で、晴綱の没後に結城白河氏の当主になったのは、系図上では存在を知られていなかった「結城隆綱」であることが明らかになったが、この人物について義親の初名である説が有力視される一方、晴綱と義顕の間に位置づけて義親の謀叛によって白河を追放された当主とみる説もある。 この頃の白河結城氏は後ろ盾としていた蘆名氏が二階堂氏、田村氏と争いを始め混乱を極めた。この混乱の中、蘆名盛興は死去している。白河結城氏は佐竹氏の侵攻に遭って衰退しており、義親は遂にその臣下として屈せざるを得なかった。しかし、天正5年(1577年)7月、蘆名氏・田村氏が佐竹氏が南方から北条氏政に攻められたのに乗じて白河城を攻め落とすと、義親が再び白河家の実権を掌握した。その後の講和条件によって天正7年(1579年)に佐竹義重の次男義広を養子に迎え、義親は入道し不説斎と号し佐竹氏に恭順の意を示して義広の後見人となり、白川(白河)の名跡は義広が継いだ。天正15年(1587年)に義広が蘆名氏を継いだため、再び義親が白河結城氏の当主となった(義親は佐竹氏侵攻以前より、婿の大関晴増を養子に迎えていたが、晴増はこの年に実家である大関氏に戻ってその家督を継いだ)。天正10年(1582年)には蘆名盛隆の斡旋で、追放した義顕が白河に帰参しているが、義広が蘆名氏を継いだ後は義親が白河結城氏の跡を継いでおり、義顕はその臣下という位置づけであった。 その後は佐竹氏に従って伊達氏としばしば争ったが、天正17年(1589年)に蘆名氏が滅ぼされると佐竹氏に見切りをつけ伊達氏に服属した。そして、天正18年(1590年)の小田原征伐において、伊達政宗に参陣を止められていたため、政宗に託して豊臣秀吉に貢物を贈ったが、参陣しなかったために許されず、所領を没収され改易された。(奥州仕置) その後義親は所領回復を願って会津の蒲生氏郷を頼り、願いはかなわず諸国を放浪していたが、慶長6年(1601年)、義親は伊達政宗に召し抱えられ、子孫はのち伊達一門に列せられ、仙台藩士となった。義親は嫡子がいなかったため、甥で弟小峰義名の子、白河義綱を養子にした。晩年は政宗に厚遇されたという。元和5年(1619年)、79歳で家督を義綱に譲り隠居した。 寛永3年(1626年)2月16日に86歳で没した。法名は月翁道雲照院。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B0%E7%BE%A9%E8%A6%AA
新發田重家 Shibata Shigeie(1560年-1601年) 上杉謙信に仕え、川中島の戦い(第4次川中島の戦いで諸角虎定を討ち取ったのは新発田勢とも言われている)や関東出兵などに参加する。謙信の死後に起こった御館の乱では安田顕元の誘いに応じて上杉景勝を支持し、上杉景虎方についた同族の加地秀綱を降し、三条城の神余親綱を討ち、乱に介入した蘆名盛氏・伊達輝宗の兵を退けるなど大いに活躍した。 天正8年(1580年)、兄の死により新発田家に戻って家督を相続し、新発田重家と名乗った。 三条攻略・蘆名撃退など数々の武功を挙げた重家は、新発田勢の活躍に相応する恩賞を期待していた。しかし、重家が貰えるものと思っていた恩賞のほとんどは、景勝子飼いの上田衆の手に渡り、亡くなった兄・長敦の功績は軽んじられ、重家に対する恩賞も新発田家の家督相続保障のみに終わった。重家を景勝陣営に引き入れた顕元は、景勝と重家の和解に奔走したものの効果がなく、重家に謝罪する意味合いで自刃し果てた。 天正9年(1581年)、蘆名盛氏の後を継いだ盛隆と伊達輝宗は、重家が景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った。こうして6月16日、重家は一門衆のほか、加地秀綱ら加地衆や、上杉景虎を支持していた豪族を味方に引き入れ新潟津を奪取、同地に新潟城を築城し独立する。景勝は本庄繁長・色部長真(重家の義弟)に重家の抑えを命じたが、年内にはそれ以上の動きはなかった。一方、西側から上杉領攻略を進めていた織田信長の重臣柴田勝家は、この機に乗じて輝宗との連携を緊密にし、ますます上杉への攻勢を強めた。 天正10年(1582年)2月、景勝は重家に対する最初の攻勢を発動したが、あっけなく撃退されてしまった。そこで景勝は蘆名盛隆に背後から重家を襲うよう依頼したが、反乱の仕掛人である盛隆が応じる筈もなく、重臣の津川城主金上盛備に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなどかえって介入を強化した。4月に入り雪解けが本格化すると、景勝は再び重家攻めに着手したが、西からの柴田勝家、南からの森長可・滝川一益らの侵攻に対処するため本庄繁長・色部長真に重家対策を任せることとした。6月2日、本能寺の変で信長が死に、織田軍が撤退したため、とりあえず西方と南方からの脅威は取り除かれたが、景勝自身は織田の旧領をめぐって、休む間もなく信濃で北条氏直と対陣していたので、この時は重家との本格的な戦は無かった。景勝は7月に北条と和睦すると重家攻めに力を入れたものの、兵糧不足に陥り撤兵した。 天正11年(1583年)に入っても状況は変わらず、景勝は4月と8月に出陣したが頑強な抵抗は相変わらずで、8月の出陣の際には、上杉勢は豪雨と湿地帯のせいで大混乱に陥り、間隙を突いた新発田勢に散々に打ち据えられ、危うく景勝を討ち取られそうになった(放生橋の戦い)。この猛反撃で、重家の勢力範囲は一時的にせよ広がる結果となった。一方で景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、直江兼続に命じて富田氏実・新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し、揺さぶりをかけた。 天正12年(1584年)8月、景勝は水原城奪還のため出陣した。上杉勢は重家率いる本隊を水原城下に引き付けて戦い、その間に迂回していた景勝が八幡砦を奪取して水原城を孤立させたため、新発田方は水原城を放棄して退却した(八幡表の戦い)。ところが上杉方は直江兼続の陣が重家の攻勢を受けて崩壊し大損害を蒙っていたため、それ以上兵を進めることが出来なくなり、水原城もほどなくして新発田方の手に戻った。そのため新発田方の意気は揚がり、一時は佐々成政と共に景勝の挟撃を目論むほどであった。 しかし、10月6日に蘆名盛隆が家臣に殺害されたことで、重家を取り巻く状況が暗転し始める。天正13年(1585年)5月、伊達輝宗に家督を譲られた政宗が蘆名と開戦し、秋には上杉に新発田への道を貸すなど、輝宗による越後介入路線を完全に放棄した。さらには10月8日には輝宗が死んだことで、伊達・蘆名両家による重家の支援体制は崩れ、重家は後ろ盾を失った。加えて11月20日に新潟城と沼垂城が藤田信吉の調略によって上杉方の手に落ちると、新発田方は新潟港から塩の津潟を経由して新発田に至る水利権を失い、これにより物資の大量輸送が困難になり、蘆名家との津川経由のルートによって当面の物資を補給せざるをえない状況に追い込まれた。 天正14年(1586年)、景勝は上洛して正式に羽柴秀吉に臣従した。これによって強力な後ろ盾を得た景勝は、新発田攻めに全力を傾けたものの、決着をつけることは出来なかった。しかし、この頃になると新発田方では兵糧が欠乏し、配下の討死や寝返りなどもあって戦力が目に見える形で衰えていった。 天正15年(1587年)夏、秀吉の支援を受けた景勝は1万余の大軍をもって新発田城を遠巻きに取り囲んだ。また、景勝と親交があった青蓮院門跡尊朝法親王が重家に和睦を勧告したが、重家はこれを断固としてはねつけた。周囲の諸城は上杉勢に次々攻略され、金上盛備が赤谷城の救援に向かうも藤田信吉に阻まれて撤退。9月19日、赤谷城が攻略された事により補給路は陸路・水路共に完全に寸断され、新発田城は義弟の五十公野信宗らが籠る五十公野城共々、孤立した。 9月24日、秀吉からの使者が先ず景勝に対し派遣された。「因幡守(重家)城を出て降参すれば赦すべし」との降伏勧告・ただし助命条件であり、景勝は使者を新発田城に送った。使者は重家に対面して勧告内容を伝えたが重家は拒否、景勝は秀吉に早飛脚を送り勧告の結果を報告した。折り返し、秀吉から景勝に対し「来春までには落着すべし」と厳命が下ったことにより、景勝は先ずは五十公野城を総攻撃することになった。 10月13日、藤田信吉らが五十公野城を陥落させ、残る主要な城は新発田城のみとなった。10月25日、景勝勢に厳重に包囲された新発田城内で重家は最期の宴を催し、それが終わるや否や城を打って出た。重家自らが率いる一隊は色部長真の陣に突入し、重家は「親戚のよしみをもって、我が首を与えるぞ。誰かある。首をとれ」と甲冑を脱ぎ捨て真一文字に腹を掻き切って自刃した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%AE%B6
田村清顯 Tamura Kiyoaki(生年不詳-1586年) 田村隆顯的長子、正室為相馬顯胤之女・於北、女為伊達政宗之妻.愛姬。 元龜二年(1571年)七月,清顯聯合蘆名盛氏與佐竹義重爆發戰爭,清顯攻擊了佐竹氏在仙道的據點寺山城。戰鬥中田村一門眾.田村月齋擊破滑津方向襲來的佐竹軍。清顯與蘆名盛氏又在天正二年(1574年)二月,聯合擊敗由赤館襲來的佐竹義重軍。但此後田村氏開始與蘆名、二階堂交惡,跟會津蘆名的關係轉變成敵對。 同年五月,在圍繞安積郡福原支配權的交戰中,田村軍取得了斬殺蘆名氏重臣松本氏、平田氏八百人的重大勝利。 天正二年(1574年),蘆名盛氏、白河義親和下野那須資胤結盟攻擊佐竹義重,在赤館與佐竹軍展開戰鬥。然而在當年十一月,蘆名盛氏、白河義親、佐竹義重三方和解。根據和議,蘆名、二階堂、石川、白河、岩城氏決定結成聯盟,田村清顯周圍立刻變得強敵環繞,僅僅北方的相馬、伊達兩家和田村家保持良好的關係。 在這樣不利的狀況中,清顯展示出優秀的軍事才能。天正三年(1575年)九月攻取安積郡大槻城,同年十月,攻取安積郡久保田城。翌年,作為田村先鋒的岩松郡大內備前擊敗安積郡片平城的伊東佑時,並將其放逐到會津。此後不久,由於安積郡高倉城主畠山治部,郡山城主伊東太郎左衛門先後臣服於清顯,安積郡大片領土被納入田村家的手中。 天正五年(1577年)夏,蘆名盛隆與父親二階堂盛義一起出兵安積,同時岩城常隆從背後夾擊田村,但清顯擊退了這些進犯。清顯和常陸小田氏治互通書信,同年七月,清顯攻陷白河城,並持續攻擊白河、佐竹家的諸城,屢次擊敗佐竹義重。 天正七年(1579年)冬,田村清顯的女兒愛姬嫁給伊達輝宗的嫡子伊達政宗。伊達和田村的婚姻的成立,伊達、田村氏聯合對抗佐竹、蘆名、白河、二階堂、石川、岩城氏的形式形成。 天正八年(1580年)三月,清顯的弟弟氏顯進攻二階堂的岩瀨失敗,二階堂軍反攻田村領地大平、大善寺。另一方面,二本松的畠山義國、義繼八千多騎從本宮出發,不過由於田村氏二千五百多騎出陣安積郡擊退了畠山氏。 同年六月,蘆名盛氏的死去反而使得蘆名氏對田村氏的攻勢愈發強化。天正九年(1581年),佐竹義重和蘆名盛隆聯合進攻田村領並攻佔御代田。翌年初,蘆名、佐竹、白河的盟約強化,到春天時,蘆名盛隆得到父家二階堂氏的支持,聯合佐竹義重出陣岩瀨郡長沼的田村領地。不久由於伊達氏的斡旋,田村達成和蘆名、二階堂的和睦。不過,一紙合議不久就被二階堂氏撕破,「須賀川勢千餘騎」攻白岩城,接著包抄守山城,不過田村軍擊退了這次進犯。 天正十一年(1583年)開始,清顯麾下的大內定綱反叛,並以二本松畠山氏作為後盾與清顯對立。隨後田村和大內之間紛爭不斷,不過每次都以田村氏的敗退而告終。終於,清顯親自帶領兵到鹽松的千石森構築新城對抗大內。大內定綱親自出馬並破壞新城,田村軍在新城大敗。清顯接受新田民部的諫言退回三春本領。 從此大內氏完全從田村氏獨立,東安達被大內領有並被從田村家領內分離。岩城常隆、蘆名盛隆在田村家陷入窘境時都顯示出侵攻之相,陷入窮境的清顯被逼無奈終於向伊達政宗求助出征鹽松。 天正十二年(1584年)十月,伊達政宗接替隱退的父親輝宗繼承伊達家。同年冬,大內定綱造訪米澤出席家督繼任儀式,表明臣服伊達家的態度。然而在定綱返回居城小濱城後又聯合蘆名氏向政宗舉起反旗。清顯於是立刻請求政宗發兵討伐反覆無常的大內氏,政宗立刻出兵響應。 田村氏也參加政宗對大內定綱小手森城的進攻。由於政宗為懲罰大內定綱的反叛而將小手森城全城屠戮,受到震懾的定綱捨棄居城小濱城逃向蘆名的二本松城,鹽松全部落入伊達家的手中。清顯報復大內定綱的目的達到,不過鹽松卻又被伊達氏領有。 天正十四年(1586年)十月,清顯在沒有繼嗣的情況下突然死去。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%B0%8F
相馬利胤 Soma Toshitane(1581年-1625年) 相馬義胤(第16代)の長男,正室は蘆名義広の娘(実際は蘆名盛隆の娘)・江戸崎御前。江戸崎御前の没後は、徳川秀忠養女(土屋忠直の異父妹で、岡田元次の娘)を正室として迎えた。初名は相馬三胤、相馬蜜胤。 はじめ父・義胤が佐竹義宣と共に石田三成と親密な関係であったため三胤(みつたね)と名乗った。 慶長元年(1596年)、従五位下大膳亮に叙任。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは父の義胤が佐竹家とともに中立を決め込んだため、徳川家康によって所領を没収され、改易の危機に立たされた。このとき秋田に転封された佐竹義宣から所領を裾分けするという誘いを受け、義胤は秋田に移るもやむを得ずという結論に達したが、三胤は義胤の前に進み出て、 「自分は尊慮の他に存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮無し。自ら江戸へ出府し、両大君の御念を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すにおいては本望、左なくば家を滅するか罪科を受くべし」 と訴えた。義胤はこの案を採用し、三胤は石田三成由来の「三」の字を改め蜜胤(読みは同じく「みつたね」)と名前を変えて、僅かの家臣を伴い、直訴のため自ら江戸に赴いた。 幕閣に取り入る縁故が全くなかったが、義胤の旧縁を頼りに大身旗本の島田重次を頼り、さらに本多正信へ取り次ぐことに成功した。 家康・秀忠への正信の説得もあり、所領を安堵された。このとき相馬家の仇敵でもあった伊達政宗のとりなしもあったという(『藩翰譜』新井白石著)。だが、新井白石は事件当時まだ生まれておらず、この「伊達政宗のとりなし」は間違った情報であるという説もある。 慶長6年(1601年)、正室である蘆名義広の娘(実際は蘆名盛隆の娘)・江戸崎御前が亡くなると、慶長7年(1602年)12月に徳川秀忠の養女という形式で、旗本の岡田元次の次女を継室に迎えた。蜜胤は将軍の代理として婚礼の席に赴いた、幕府の実力者の土井利勝に頼み、土井家の通字「利」の偏諱をもらって利胤(としたね)と名を改めた。12月18日、従四位下に昇叙し、大膳亮如元。 慶長16年(1611年)、居城を小高城から相馬中村城へ移した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川秀忠軍の先鋒として奮戦している。その後は中村の城下町を京のような碁盤の目のような町に改造したり(現在の相馬市の基礎となった)、家臣に陶芸を学ばせて相馬駒焼の基礎を作り出すなど、政治的に優れた名君ぶりを発揮した。 寛永2年(1625年)9月10日、父に先立って45歳で死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%88%A9%E8%83%A4
相馬義胤 Soma Yoshitane(1548年-1635年) 永禄2年(1559年)、伊達稙宗(丸森城)が小高城へ来訪、自分の娘を義胤の嫁に薦める。翌年(1560年)、稙宗の末娘・越河御前と結婚した。永禄6年(1563年)、青田顕治と中村城代・草野直清の反乱鎮圧にて初陣する。同年の室町幕府の記録には全国五十三名の大名が「大名在国衆」として上げられ、奥州では伊達晴宗・蘆名盛氏が織田信長らと名をつらね、相馬盛胤・岩城重隆らは「関東衆」として記されていた。 永禄8年(1565年)、伊達稙宗が死去。伊達晴宗との間で稙宗の遺言をめぐり領土問題が起きる。この頃、家中では義胤の継母(実家は武石氏・亘理氏)の意見が多くなり、越河御前と離縁し、伊達家に帰したとされる。越河御前は離縁してからほどなくして死去したという(『戦国相馬三代記』森鎮雄著)。 義胤は父に付き従い各地を転戦。相馬家は亘理氏(亘理城)、蘆名氏(黒川城)、田村氏(三春城)との不戦関係を維持する一方で天文の乱以来の宿敵となる伊達氏(米沢城)と稙宗の隠居領を巡って伊具郡・亘理郡付近で争うことになる。 元亀4年(1573年)7月、織田信長が足利義昭を京より追放し室町幕府が崩壊。奥州探題・伊達晴宗の権威が弱体化した。 天正元年(1573年)、出羽国では最上氏当主の最上義守と長男の最上義光父子の間で争いが勃発(天正最上の乱)。 天正2年1月(1573年12月)、南陸奥では佐竹義重が白川義親(白河城)の弟・善七郎を内応させて浅川(石川郡浅川町)に挙兵させた。27日には須賀川勢(二階堂氏・須賀川城)が蘆名氏・田村氏と手切れしている。『伊達輝宗日記』正月二十日条には「会津より、田村より、須賀川むかって廿七日に手切候とて脚力参候」と記される(伊達文書『福島県史』)。このとき田村隆顕・清顕父子は二階堂領だけでなく、勢いに乗って蘆名領、白川領まで攻め入り、田村氏の最大版図を築いた。一方、佐竹義重は赤館(東白川郡棚倉町) 他10城程を攻めとり、一旦は白川義親を本城に孤立させたが(宇都宮文書『福島県史7』)、蘆名勢の加勢によって追い払われた(会津四家合考所収文書『福島県史7』)。 3月、蘆名盛氏は田村氏との和睦の調停を伊達輝宗に依頼するが容易に成立しない。3月23日には「会津・磐瀬ノ士卒」が田村領を攻め、二階堂氏が蘆名氏に服属した。 天正2年(1574年)4月、伊達実元・蘆名盛興が二本松義国・堀越宗範の八丁目城を攻略。 9月には田村隆顕が死去。同9月、再び赤館に押し寄せた佐竹勢を蘆名勢が撃退し、蘆名盛氏は白川義親と対面し、さらに那須資胤(烏山城)と面会して誓書を交わし、三家の同盟によって佐竹勢に対抗することをはかった(那須文書『会津若松史8』)。 10月、奥州管領の末裔・二本松畠山氏が伊達・蘆名方へ降伏した。 『東州雑記』は「(天正)三年(1574年)義重白川へ動(はたらき)、二月手ニ入、白川善七郎名代ニ立ル也」と記す。『奥羽永慶軍記』では白川義親は和田昭為の離反で敗れて佐竹義重に降参したとされる(年月日は記されず)。5月、蘆名氏は田村氏と戦い、蘆名家重臣の松本氏輔らが戦死(『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条。伊達文書『福島県史7』)。7月には二階堂盛義の実子・盛隆が蘆名家の人質から蘆名盛興の病死を経て蘆名家当主となっていた(『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条、『性山公治家記録』同年七月二十日条)。 相馬氏は伊具郡・亘理郡で伊達氏と一進一退の攻防を続けていた。 天正3年(1575年)6月下旬、名取郡で大敗を喫す。亘理元宗、橋を落とし相馬軍の退路を断つ。盛胤後室の実家である亘理氏の伊達側への離反が発覚。相馬父子、辛くも撤退に成功する(奥相茶和記)。 天正4年(1576年)春、義胤は桃生郡深谷(旧鳴瀬町)の小野城主長江盛景の娘を妻に迎えた。7月17日の矢野目(丸森町舘矢間と小斎の中間付近)・冥加山(冥護山・明護山)の戦いでは伊達輝宗と戦い大勝を挙げている(奥相茶和記)。 天正5年(1577年)7月、蘆名氏は田村氏とともに白河城を攻め落とした。佐竹氏が南方から北条氏政(小田原城)に攻められたのに乗じたものである(白河証古文書『会津若松史8』)。白川義親が再び白川家の実権を掌握した。次いで蘆名・田村は石川を攻め、石川昭光を「在城一ヶ所」に追いこんで石川領を制圧した(上杉輝虎公記所収浜崎文書『会津若松市8』・佐竹文書『福島県史7』)。 天正5年12月5日(1578年1月12日)には伊達晴宗が死去。 天正6年(1578年)1月、義胤は父の隠居により家督を継承。3月には関東管領の上杉謙信(春日山城)が死去し、御館の乱が勃発。同3月、義胤は二階堂家臣・須田大膳大夫の援軍を得た岩城氏と相馬領南方の松本権現堂(推定・双葉郡浪江町権現堂)で戦っている(藤葉栄衰記)。 4月、伊達輝宗が実弟石川昭光の苦境を救わんとして調停をはかるも蘆名、田村ともにこれを峻拒(松藩捜古所収文書『福島県史7』・大槻文書『郡山史8』)。6月には田村清顕が塩松領主小浜城の大内定綱と不和となり(首藤石川文書『福島県史7』)、8月以降抗争を繰り返すようになった(富田古文雑収所集文書『郡山市史8』)。蘆名・田村氏と石川氏の和睦は昭光の依頼を受けた白川義親が蘆名氏に接触して7月下旬に成立した(伊達文書『福島県史7』)。8月、白川義親と佐竹義重の和睦も成立した。その条件は赤館を白川方に、石川領を石川氏に返却すること、白川氏の名跡を義重次男が相続することなどとするものであった(早稲田大学白河文書『白河市史五』)。義重次男喝喰丸が義親の養子となって入嗣し、白川氏の佐竹氏への服属が確定することとなる。 蘆名盛氏は早くから佐竹氏との交友を策し、二階堂盛義には田村氏との連携は滅亡の途であると説いていた(初瀬川文書『福島県史7』)。 義胤は戦において引けを取ることはなかったが、天正8年(1580年)頃までには黒木中務宗俊(宗元)、堀内四郎宗和(晴胤)兄弟に背かれ、2人は輝宗の下に走った。2人の父である宇多郡黒木城主・藤田七郎晴近は義胤の母と同じ懸田一族である。天正7年(1579年)冬、輝宗が相馬と同盟していた三春城主・田村清顕の娘・愛姫を自身の嫡男・政宗の正室に迎え入れると田村氏の後援も得難くなった。 天正8年(1580年)2月には、蘆名盛隆・佐竹義重・白川義親が出陣して田村氏との合戦となった(金上文書『新潟県史資料編5』滝田為四郎文書『福島県史7』)。これは伊達氏に親近する田村氏と蘆名・佐竹連合軍の最初の合戦である。蘆名・佐竹連合軍には母が佐竹義重の妹であり、この頃二階堂盛義の娘を妻とした飯野平城の岩城常隆も加えられた。田村氏は北の塩松領主・大内氏との不和が続く中、西と南の勢力から同時に攻められることとなり、3月には田村清顕の弟重顕が二階堂勢を攻めて討ち取られている。6月、この田村氏劣勢の中、蘆名止々斎は死去した。 天正9年(1581年)3月半ば、伊達輝宗が信夫郡杉目城に出馬し、使者を持って田村と蘆名・二階堂・岩城の調停に乗り出した。輝宗は田村清顕から援軍の要請を受けている。4月1日、蘆名盛隆は佐竹義重へ御代田(郡山市田村町)を包囲したことを知らせ、輝宗からの使者は申し払ったことを伝えた(伊達文書『福島県史7』)。 4月10日、伊達勢が相馬の支城である新地(新地町谷地小屋、蓑首城)・駒ヶ嶺城(臥牛城)を攻略せんと坂本(山元町)に出陣する。相馬父子もまた大坪(相馬市)に出陣し対陣する。4月11日、伊具郡小斎城主・佐藤為信が離反(奥相茶話記・東奥中村記 他)。5月1日、伊達勢、小深田(新地町菅谷)に出陣。相馬父子、これを破る。5月上旬、伊達政宗初陣。7月13日、これより先に伊達父子金山・丸森を攻める。この日相馬父子、矢野目にて破られる。8月9日、伊達父子、再び小深田に出陣、相馬父子も大坪に出陣。谷地(新地町)に戦って伊達父子を破る。8月26日、二階堂盛義が死去。11月15日、相馬、伊達両軍伊具郡館山(丸森町)に戦う。同年、嫡男・虎王が生まれた。 天正10年(1582年)4月18日、田村氏と蘆名・佐竹氏との和睦が成る(伊達文書『福島県史7』『性山公治家記録』天正十年条)。 天正10年(1582年)6月2日、織田信長が死去(本能寺の変)。8月、伊達輝宗・政宗伊具郡金津より矢野目に出陣。義胤は小斉・金山の境の冥加山に出陣して対した。二本松義継(二本松城)と大内定綱(小浜城)は伊達勢を援けて参陣している(性山公治家記録)。 天正11年(1583年)1月、佐竹義重・岩城常隆・田村清顕使者をもって相馬・伊達の調停をはかる(奥相茶和記・東奥中村記)。2月6日、伊達輝宗・政宗父子と伊具郡丸森城・金山城で戦った(『性山公治家記録』『戦国時代の相馬』)。『相馬戦国三代記(原著・奥相茶和記)』は2月下旬、田村清顕自身が宇多郡中村城下の長徳寺に来訪し、百日ほど長徳寺に宿泊して「金山・丸森はもともと伊達領であるので、これを返して和睦されよ。」と種々の条件を示したので遂にこれに応じて、5月にまず丸森を返還し、翌天正12年(1584年)金山を返還して和睦したとしている。和議の成立の時期は天正11年(1583年)5月とする『奥相茶話記』(相馬史料)の記述と天正12年(1584年)年5月とする『性山公治家記録』(伊達史料)の記述で異なっている。 某年9月15日付け蘆名盛隆の「塩松境の者共、一両ヶ所心替わり候。之(これ)によって拠んどころ無く候間、来たる十八、風雨の嫌い無く出張」(原和様漢文)するとして、小川荘の小田切但波に黒川出馬を求めた書状がある(小田切氏文書『新潟県史資料編4』)。塩松に紛争が起こり、盛隆自身が領主大内定綱の支援に出陣することを述べたものであろう。 天正11年12月、蘆名盛隆は、大内家中の混乱を伊達氏が「助勢」して取り静めたことを、「盛隆の所へ御昵懇の筋目」(原和様漢文)として伊達氏に謝した(『片倉代々記』天正十一年十二月条所収文書)。大内定綱は窮境のなかで蘆名・伊達両氏に接近している(新編会津風土記所収文書『福島県史7』)。 某年4月5日、義胤は伊達政宗と金山に対陣しているが、『歴代古案』はこれを天正12年としている。蘆名盛隆は「田村表」を攻撃し(『歴代古案』)、宇田(相馬市)・金山(宮城県伊具郡丸森町)の間の通路に出陣して相馬氏を攻める伊達政宗に鉄砲隊・須江弾正左衛門の援軍を送った(『歴代古案』『会津若松市7』『戦国時代の相馬』)。田村清顕は相馬義胤と連携し、二本松義継の援軍を求めつつ、二階堂領小原田(郡山市小原田)を攻めた(安部文書『三春町史7』)。岩城常隆は伊達輝宗に書状を呈し、蘆名盛隆と相談して出馬したことを知らせ、「塩松の儀、御意見に及ばざれ候や。肝要(の至りに候カ)。年内太(大)内所へ別して御懇切の験(しるし)、この時に候」(原和様漢文)と伝えた(『大日本古文書伊達家文書』)。 『性山公治家記録』天正12年5月下旬条には田村清顕が「(前略)当春以来又宇多郡マテ出馬シ、逗留有テ様々御扱ヒ」を行ったものの、伊達輝宗が応じず、そのため清顕は佐竹義重・岩城常隆をも介入させて、ようやく和睦がなったことが記されている。 相馬氏は和睦の成立に伴い、伊達氏と協力して四本松(旧安達郡岩代町)の大内定綱を攻める密約を交わしたという(「奥相茶和記」小高町史・昭和50年12月)。 田村清顕は大内定綱を五度攻めるが、自身の出馬した天正12年(1584年)8月12日の五度目の戦には弟の田村友顕が討たれ敗北を喫した。9月13日、岩城常隆が田村方の小野城を攻め谷津作(田村郡小野町)に陣を構えると10月、義胤が岩城領に攻め入ったため岩城常隆は兵を引いている。 天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆死去。同月、伊達輝宗が隠居し、政宗が家督を継ぐ。 天正13年(1585年)、大内定綱が伊達氏からの離反を画策。まず相馬氏を頼りとして使いを走らせたが、義胤は大内が田村と不和であることを理由に断った(奥相茶和記)。4月、定綱は蘆名氏を頼って伊達氏から離反。5月、政宗、蘆名氏を攻め敗北する(関柴合戦)。6月14日、最上義光は岩城氏の家老三坂越前宛に書状を送り、岩城氏の会津後援を賛し、岩城氏が更に相馬氏と結んで伊達氏に対することを勧めた。 7月、羽柴秀吉が関白となり豊臣姓を名乗る。8月27日、田村勢が伊達政宗を援けて大内定綱の小手森城(二本松市針道)を攻める。9月、輝宗・政宗父子が大内定綱を攻めるべく安達郡宮森に在陣した。義胤は三春訪問の途次、政宗と小浜城・宮森城付近の陣所で初対面を果たしている。 10月8日、伊達輝宗が二本松義継に捕らわれて死去。14日には政宗の二本松攻めの援軍として田村清顕と共に三春城より出陣した。しかし、佐竹義重が二本松城救援のために北上してくると、義胤は他の南奥諸大名と共に佐竹方に付いた。11月17日の人取橋の戦いでは、蘆名・佐竹連合軍に加わり、約300騎で佐竹勢と二階堂勢との間に本陣を構え、東義久、岩城常隆らが伊達勢の高倉城を貫くと、佐竹義重・白川不説斎の本陣勢と共に政宗の本陣へ攻め上った。 天正14年(1586年)、二本松城を攻めあぐねていた伊達方は、老臣伊達実元を中心に政宗を説き伏せ、義胤に和議の斡旋を依頼。その結果、7月16日に二本松城は開城され、二本松国王丸・新城盛継らが会津へと退去した。実元の子・伊達成実は二本松城主となった。成実の正室・亘理御前は義胤から見れば妹の娘に当たる。10月9日に田村清顕が死去すると、田村家中では相馬・伊達のどちらにつくべきかで争いが生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していく。11月、蘆名盛隆の実子・亀王丸が死去した。 天正15年(1587年)3月、蘆名家臣金上盛備の斡旋で佐竹義重の実子・義広が白河結城家から出て、蘆名家へ養子に迎えられた。これに対して4月25日、政宗は相馬・岩城との同盟を強くすべく家臣国井新左衛門を三春に遣わし、岩城・相馬の両家の和睦を田村の家臣に取持つよう命じた。仲介役は田村起雲斎憲顕(田村義顕の次男)が務めた。5月18日、和睦が成立して相馬領と岩城領の国境である大菅原(富岡町)で義胤は岩城常隆と対面した(『貞山公治家記録』『奥相茶和記』)。 天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉が九州を征伐(九州征伐)。10月14日、最上義光の娘を妻にしていた鮎貝宗信が伊達家を離反。政宗に討伐される。この頃になると、佐竹は惣無事令によって、伊達と蘆名の和睦斡旋を命じられたために、自ら兵を公然と動かすことができなくなり、かえって政宗の軍事行動が容易になり、その勢力伸長を抑えられなくなった。同年、相馬氏も豊臣政権より奥羽惣無事を命ぜられている(『天正15(1587年)年極月3日富田左近将監書状。相馬家文書(原町市史)』)。 天正16年(1588年)2月、大崎家中の内紛に介入した政宗が敗北すると(大崎合戦)これを好機とみた蘆名義広は仙道を北上し、伊達領に攻め入った(郡山合戦)。4月18日、蘆名勢が伊達成実、大内定綱らによって退けられると、4月20日、政宗は相馬側へ離反した田村家臣石川弾正を討つべく安達郡築館(二本松市木幡)に出陣。義胤は月山(築山)城(二本松市戸沢)に入り弾正を支援した。5月11日、義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて、田村家中の伊達派を押さえ込もうと三春城入城をはかったが、伊達派の田村月斎らに銃撃されて江井胤治ら側近多数が討死し、命からがら船引城(田村市船引町)へ逃れた。5月15日、伊達政宗・片倉小十郎が大越城(田村市大越町上大越)を攻めたが、守備していた標葉郷大将の泉田雪斎・胤清父子らがこれを撃退した。5月16日、政宗は石川弾正と相馬義胤の兵を小手森(二本松市針道)に攻めた。義胤が船引から脱出し、石川弾正が月山城を捨てると、5月17日には石沢(田村市船引町石沢)・百目木(二本松市)の城も落とされたが、閏5月23日、亘理元宗父子が新地・駒ヶ嶺の間の大森へ出陣してくると義胤はこれを撃退した。6月20日、義胤は田村顕康(月斎の子)を田村郡宇都志城(田村市船引町上移)に攻めるが、鬼庭綱元が百目木より出陣し押し返され退却を余儀なくされた(貞山公治家記録)。同月、仙道方面での蘆名勢と伊達勢の戦いは膠着状態に入った。7月4日、義胤、常盤(田村市常葉町)を攻めた。7月16日、岩城氏の仲介で蘆名・佐竹氏と伊達氏は和睦した。結果、8月、田村家当主には伊達方の推す田村宗顕が即いた。 天正17年(1589年)正月2日、岩城常隆が田村領小野に侵攻、5日、田村梅雪斎(相馬派)の小野城(小野町)が落城。同じく4月20日、鹿俣城(田村市)が落城する。5月1日、伊達勢の桜田元親らが飯土居(相馬郡飯舘村)に攻め入る(『伊達文書』)。5月4日、伊達政宗によって安子ヶ島城が、次いで5日、高玉城が落城。同月、相馬・岩城・佐竹が連合して田村領を攻める。17日、義胤は岩城勢と共に常盤城(田村市常葉町)を攻め落とすが、19日には政宗によって駒ヶ嶺城、20日に新地(蓑首城)など宇多郡の拠点を奪い取られた。政宗は駒ヶ嶺に黒木宗元、新地に亘理重宗を配した(政宗記・東奥中村記)。27日、門沢城(田村市船引町)を岩城勢が、6月4日、大平城(郡山市大平町)を佐竹勢が落とした。しかし、猪苗代盛国が伊達方に寝返り、6月5日に蘆名義広が摺上原の戦いで政宗に敗れると蘆名氏は本城黒川城を失い常陸に逃れ、事実上の滅亡となった。南奥州での形勢が大きく変わった。連合勢は田村領に在陣。7月3日、岩城常隆が下枝城(郡山市中田町下枝)に進攻するも伊達勢の激しい抵抗にあい退却した。 7月4日、豊臣秀吉は上杉景勝、佐竹義重に政宗討伐を命じた。7月上旬、相馬父子は新地・駒ヶ嶺を奪還すべく岩城常隆の援兵とともに亘理重宗を攻めたが、重宗の奥方(義胤の妹)が間に入って陳謝したため一旦引きあげている(奥相茶話記・東奥中村記)。7月18日、相馬勢は合計600余騎、上下5,000余人で夜中に中村城を出発。亘理勢と坂本犀ノ鼻(山元町)で戦った(奥相茶話記・東奥中村記・貞山公治家記録)。しかし、連合勢は亘理氏の本城亘理城、田村氏の本城三春城を落とすことはなく、同7月には白川不説斎が伊達氏に服属。10月には友軍の二階堂氏の本城須賀川城が陥落して二階堂氏は滅亡した。11月4日には石川昭光が伊達氏に服属。11月27日には岩城常隆が伊達氏と和睦した。伊達氏は蘆名氏の版図(福島県の会津地方・中通り地方)を併呑し、相馬氏も一気に滅亡の危機に立たされることになる。 11月28日、豊臣政権による小田原征伐が決定し、石田三成より来月の上旬に出仕を求める書状が届く。12月20日、政宗は中島宗久あての書状の中で、来春の相馬攻めのことを告げた(伊達文書)。 天正18年(1590年)1月3日、これより先に義胤は中島宗久の仲介で伊達との和議を請うが、これは難航する(伊達文書)。同日、政宗は中島氏当ての書状を送り、相馬の様子を探らせた(伊達文書)。相馬は岩城と伊達の和睦を知り、単独で伊達への抵抗が難しいことを悟ったが、政宗の方略は北条と結んで佐竹を屈服させ、さらに秀吉に対抗するところにあった。1月20日、秀吉が政宗に書を送り小田原参陣を命じる。政宗応じず。 3月18日、弟の中村城代・相馬隆胤の兵が駒ヶ嶺を攻めて敗北している(奥相茶話記・東奥中村記)。 4月3日、豊臣秀吉が小田原を包囲。4月上旬、会津黒川城西館において伊達政宗毒殺未遂事件が起き、政宗、弟の小次郎を斬る(伊達治家記録)。4月23日、相馬盛胤・義胤父子は新地城を攻めて失敗した(奥相茶話記・東奥中村記)。 5月9日、政宗は黒川城を出発(政宗記)。5月14日、相馬隆胤が黒木宗元・亘理重宗の兵と塚部(相馬市)の小豆畑で戦い敗北。童生淵(相馬市)で討死した(奥相茶話記・東奥中村記・貞山公治家記録)。奥相茶話記によれば、この後、義胤は伊達家臣・中島宗求から降伏を勧められたが、討死を決意して「我と死生を同じくしようとする者は(相馬氏ら千葉一門の守護神である)妙見のご神前において神水を飲むべし。異儀を唱えるものは来るに及ばず。我は少しも恨みに思いはしない。」と言い、まさに最後の一戦を挑まんとしたという。この時一同が飲んだとされる御神水の井戸は、小高城跡に立つ小高神社の裏にある。作戦は伊達勢が攻めてきた場合を想定して立てられた。5月下旬、義胤は豊臣秀吉に謁見のため相模小田原に赴く(相馬藩御経済略記 他)。 6月5日、政宗は小田原に到着。秀吉から出羽・奥州の仕置を任された。片倉景綱は相馬氏について政宗留守中の戦闘(駒ヶ嶺城攻め)を言語道断とし、相馬討伐の許しを得ていた(天正十八年六月十四日 片倉景綱書状「原町市史中世編年史料」)。小田原より帰還した政宗は相馬攻めを計画した(天正十八年六月廿六日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。 7月5日、北条氏政が豊臣政権に降伏。7月7日、政宗は大里城(岩瀬郡天栄村)に拠る矢田野氏の抵抗が未だ収まらなかったため、そちらに全勢力を傾け相馬攻めを延期した(天正十八年七月七日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。7月26日、小田原征伐を終え奥州仕置に向かった豊臣秀吉は宇都宮に到着。義胤は三郡の本領を安堵された。葛西晴信・大崎義隆の両名は小田原に参陣しなかった事を理由に領地を没収された。8月9日、秀吉は黒川城に入り奥州仕置きを命令。政宗が滅ぼした蘆名氏の旧領へは蒲生氏郷が、大崎氏・葛西氏の旧領には木村吉清・清久父子が封ぜられた。10月初旬、葛西大崎一揆が勃発。12月7日、三郡検地の結果、相馬氏は宇多・行方・標葉3郡の内に48,000石の安堵となった(豊臣秀吉朱印宛行状)。 天正19年(1591年)、長女(岩城貞隆室)が生まれた。同年9月、伊達政宗が置賜郡米沢から玉造郡岩手沢へ移封されている。 文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役に従軍し名護屋の本宮へ在陣。文禄2年(1594年)、次男(左近及胤)出生。 文禄4年(1595年)2月7日、蒲生氏郷が死去。 慶長元年(1596年)8月、妻子と共に小高へ帰城。嫡男・虎王の元服に際しては石田三成から偏諱を受けて「三胤」と名付け、蘆名盛隆の次女(蘆名義広の養女)を三胤の正室に迎えた(江戸崎御前)。同年には、現在の南相馬市小高区村上海岸に面した丘陵に村上城を築き居城の移転を進めるが、火事により焼失したため、これを不吉として断念。次いで牛越城(南相馬市原町区牛越)を建築した。同年から日本列島で慶長大地震が起きている。 慶長2年(1597年)正月1日、秀吉、朝鮮再征を令す。5月、居城を小高城から北の牛越城に移す。この牛越城普請のとき重臣・泉胤政が出奔している。原因は公儀の下奉行と胤政の奉行とが喧嘩を起こしたのを胤政が私曲して伐したので、義胤が胤政を誅伐しようと出馬したためとされる。胤政は後に上杉家に仕えて慶長出羽合戦で活躍した逸話があり、さらに後の慶長7年(1602年)に相馬家に帰参しており、帰参の時期が相馬家の改易の時期と重なることから牛越城近くに海運拠点を欲した義胤が、もとは田村氏の一族であり中郷(行方郡新井田川流域)の大将格であった泉氏を障害として排除しようとしたのではないかという説がある。 慶長3年(1598年)3月、上杉景勝が越後から会津へ転封。7月、三胤上京する。 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉死去。慶長4年(1599年)8月、大阪より相馬領小高へ下向。三胤は大阪に留まる。 慶長5年(1600年)、相馬封境の警備を固めた。6月17日、政宗は大阪を経ち帰途に着く。義胤は政宗の相馬領通過と宿泊を承諾。7月、徳川家康が上杉景勝を攻めんとして会津征伐軍を挙げると石田三成が挙兵し、9月15日、関ヶ原の戦いが勃発した。時期不明であるが、同年、義胤に三男(越中尚胤)が出生。長女は岩城貞隆(佐竹義重の三男)の正室となっている(『相馬の歴史と民俗』)。 慶長6年(1601年)1月11日、伊達政宗が新たな居城として仙台城の城普請を始めている。1月20日、家臣水谷胤重の進言によって伊達勢とともに上杉景勝領の二本松に夜襲を仕掛けさせた(月夜畑の戦い)。なお、この年、義胤の親族に訃報が続いている。3月、弟・郷胤死去。5月、三胤室・江戸崎御前死去。10月、父・盛胤死去。 慶長7年(1602年)5月、佐竹義宣が現在の秋田県へ転封されると、佐竹氏の与力大名であった相馬氏も連座して改易された。義宣から1万石を与えると誘われたが丁重に断り、改易撤回の訴訟を求める長男相馬蜜胤(石田三成の偏諱の三胤から改名)を江戸へ向かわせた。この時、水谷胤重が記しておいた月夜畑の戦いにおける相馬方の戦死者名簿を提出し、加えて徳川家重臣本多正信のとりなしもあり、10月に改易は撤回され所領安堵となった。同年には徳川秀忠の養女を蜜胤の正室に迎えている。 慶長8年(1603年)再び小高城を居城とし、牛越城は廃城となる。 慶長17年(1612年)4月、義胤は家督を相馬利胤(三胤→蜜胤→土井利勝の偏諱から利胤と改名)に譲って小高城から泉田(浪江町北幾世橋)に隠居した。慶長19年(1614年)大坂冬の陣には利胤が出陣。翌年(1615年)の大阪夏の陣にも利胤が向かうが、その途中病気となり、急遽代わりに義胤が向かった。利胤が寛永2年(1625年)に病死すると、孫の2代藩主・虎之助の後見役となり、隠居した後も直接ではないが、藩政に深く関与していた。 寛永12年(1635年)11月16日没。享年88。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%83%A4_(%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
蘆名盛隆 Ashina Moritaka(1561年-1584年) 父:二階堂盛義、母:阿南姫(伊達晴宗の娘)、養父:蘆名盛氏、正室:彦姫(伊達輝宗養女、伊達晴宗の娘);平四郎(仮名)、左京亮(受領名)、三浦介(尊称) 永禄4年(1561年)、須賀川二階堂氏の第18代当主・二階堂盛義の長男として生まれる。 永禄8年(1565年)に父・盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の盛氏のもとに送られた。ところが、天正3年(1575年)に蘆名氏第17代当主・盛興が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫(叔母にあたる)を自らの正室に迎えた上で、盛氏の養子となって第18代当主となり、天正8年(1580年)に盛氏が死去すると実権を掌握した。 この頃、越後国の上杉氏と争っていた織田信長がこれを挟撃するべく、上杉景勝から離反した新発田重家及び東北の諸大名の懐柔のため交渉を始めた。当初、盛隆は景勝とは誼を通じ度々連絡を交わしていたが、天正9年(1581年)に家臣の荒井万五郎を上洛させ信長と交渉を行った(これについては、『信長公記』『当代記』『異本塔寺長帳』『会津旧事雑考』『会津四家合考』などの史料に言及があるが、史料ごとに差異がある)。これは、盛隆から接近したとも、信長が景勝を挟撃するために盛隆を誘ったともいわれる。盛隆は信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上すると、信長はこれに応えて、盛隆が三浦介に補任されるよう朝廷へ斡旋した。蘆名氏は三浦義明の末裔であり、盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは名誉であり、信長もこのことで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる。その後、盛隆は家臣の金上盛備を上洛させている。 信長と接近したことで、盛隆は上杉景勝との関係が微妙になった。その後も景勝からは援軍の要請などがあったが、盛隆はこれに対して曖昧な態度を取り続けることに終始している。 蘆名氏当主となった盛隆は、父・盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務めた。そのため、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった。例えば、天正12年(1584年)6月に盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて栗村盛胤・松本行輔らに黒川城を占拠されたが、盛隆はこれを素早く鎮圧し、7月には長沼城主・新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた。 同年10月6日、黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。享年23。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、亀王丸の母・彦姫が隠居した兄・伊達輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめることになった。しかし、輝宗の跡を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め(関柴合戦)、亀王丸も天正14年(1586年)に疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、蘆名家中は混迷した。この盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因といえる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%86%E5%90%8D%E7%9B%9B%E9%9A%86

Send this to a friend