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一萬田鑑實 Ichimada Akizane(生年不詳-1588年) 豐後大友氏的家臣,一萬田氏當主。小牟禮城、鳥屋山城城主。兵部大輔。美濃守。 父親是一萬田親實(鑑相),叔叔有高橋鑑種、宗像鑑久。弟弟有鑑景、鑑通、鎮之。有兩子鎮實和統賢。將一萬田家督讓與嫡男鎮實後,繼承鳥鼻城主橋爪鑑種,並改名橋爪鑑述。法名宗慶。 最初仕奉大友義鑑,和父親一同獲賜偏諱並改名鑑實(父親改名鑑相)。義鑑死後仕奉其子大友義鎮(大友宗麟),但義鎮卻於天文二十二年(1553年)以謀反的嫌疑將父親鑑相及叔父宗像鑑久誅殺,事件發生後鑑實繼承家督,並未怨恨大友宗麟而仍繼續仕奉大友家。天文十九年(1550年)討伐菊池義武、弘治三年(1557年)討伐秋月文種中皆有獲得軍功(此時繼承橋爪氏)。永祿十一年(1568年)叔父高橋鑑種謀反,鑑實並未跟隨而是站在宗麟方討伐鑑種。 永祿十二年(1569年)在與毛利氏的多多良濱之戰和嫡男一萬田鎮實及朽網鑑康一同擊退乃美宗勝和桂元重。天正六年(1578年)耳川之戰擔任殿軍,因軍功任加判眾而得以活躍在大友宗麟的身旁。自天正十四年(1586年)開始和島津氏一連串的戰爭(豐薩合戰),許多大友氏武將包含一萬田氏一族在內紛紛投靠島津氏,鑑實仍留在大友氏並立下不少軍功。 但是在天正十六年(1588年)突然被大友義統(大友宗麟之子)命令自盡。因為在先前的戰爭中家族有人謀反(族人一萬田紹傳投靠島津氏),鑑實受到牽連而被迫自盡。 註:其子鎮實也被迫自盡。鑑實的另一個兒子宗賢在大友家改易之後,曾經跟著黑田長政出征,之後做為肥後細川藩藩士延續到幕末。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_24.html 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%90%AC%E7%94%B0%E9%91%91%E5%AE%9F
佐伯惟教 Saeki Korenori(生年不詳-1578年) 『大友興廃記』によれば、天文19年(1550年)の二階崩れの変の際に大友宗麟を奉じて府内を制圧し、以来宗麟の重臣として信任されたという。また『肥後国史』『大友興廃記』によれば同年、菊池義武や義武に味方する肥後国の領主との戦いで先陣を務め、鎮圧に活躍した。 大友氏の家臣団は、大友氏の同族である同紋衆とそれ以外の家系である他紋衆とに二分されていた。他紋衆の中心的存在であった佐伯氏は集権化を図る大友氏との対立を深め、惟教の祖父・惟治が謀反の疑い有りとして大友義鑑に自害に追い込まれるなど、両者の関係は緊張状態にあった。こうした中、弘治2年(1556年)5月に他紋衆・小原鑑元が中村長直らと共に叛旗を翻した(姓氏対立事件)。惟教は挙兵には参加しなかったが鑑元らと連絡をとっていたとされる。しかし、宗麟はこれを機に惟教の追討を決定し討伐軍が差し向けるが、惟教は抗戦せず一族を伴って伊予国の西園寺実充の下に身を寄せ、その後10年余り居住した。 その後、永禄年間に入ると大友氏は毛利元就と北九州をめぐる争いに突入した。毛利方の水軍に対抗するためには惟教率いる水軍の存在が不可欠であったため、宗麟は惟教に帰参を持ちかけ、永禄12年(1569年)に惟教は臼杵鑑速らのとりなしによって帰参した。翌元亀元年(1570年)には栂牟礼城を還付され、戸次鑑連が筑前国の立花氏を継ぐため豊後国を離れて加判衆から退くと、その後任として加判衆に列した。元亀3年(1572年)に一条兼定が西園寺氏と争うと、宗麟の命により兼定救援のため伊予国に出陣し、飯森城などを攻略して西園寺公広を降した。天正5年(1577年)、剃髪して麟与軒宗天と号した。この頃までには嫡男・惟真に家督を譲っていたと考えられる。 同年12月、日向国の伊東義祐が島津氏に敗れ大友氏の下へ逃れると、島津氏の勢力が日向北部にまで及ぶようになり、それまで大友方に属していた同地の諸勢力の間に動揺が見られるようになった。こうした状況下で、翌天正6年(1578年)1月、松尾城主・土持親成(惟教の妹婿)が離反して島津氏に属したとの情報が伝わると、惟教は直ちに親成に対し弁明を促し自身もとりなしに努めたが許されず、宗麟は惟教に土持氏討伐を命じた。このため、4月10日に惟教は松尾城を攻略し、親成を降伏させた。この時、惟教は親成の助命を嘆願したが許されず、親成は自害させられた。 同年9月、キリスト教に惑溺していた宗麟は、日向にキリスト王国を建設するためとして、重臣一同の反対をことごとく無視して島津攻めに自ら出陣することを決定する。10月には、松尾城攻略後も日向に駐留していた惟教もまた山田有信の籠もる高城攻めへの参加を命じられた。惟教は高城救援に向っていた島津家久の軍と遭遇しこれを撃破したが、田原親賢率いる大友勢は士気の低い武将が多く、各部隊の連携が十分にとれない有様であったために、家久隊に追い討ちをかけられず高城への入城を許してしまった。11月11日、さらに島津義久率いる本隊が北上中との報がもたらされると軍議が開かれ、惟教は包囲を継続して志賀親守・朽網鑑康・一萬田鑑実らの軍勢が肥後から到着するのを待つべきと主張し、親賢もこの意見に同意したが、これに対し即時交戦を強く主張していた田北鎮周は、意見が斥けられると、潔く突撃して死んでみせると言い残して退席した。 翌12日未明、鎮周が予告通り島津勢に突撃し、これに引きずられるようにして大友勢は無秩序に戦闘に突入していった(耳川の戦い)。惟教はやむを得ず全軍を前進させ、兵力の優位を活かしての中央突破を図ったが、高城から出撃した島津家久らの急襲を受けた親賢が全軍に後退命令を下したため大友勢は大混乱に陥り、これに乗じた島津勢の猛攻を浴びて潰滅。乱戦の中、惟教は子の惟真・鎮忠らと共に討死した。家督は本国に残留していた惟真の子・惟定が継いだ。
一百一十二位人物:柳生三厳、赤池長任、和久宗是、東郷重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、W.アダムス、猿飛佐助、霧隠才蔵、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段蔵、蠣崎基広、下国師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顕胤、蘆名盛舜、二本松義国、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、浅利則頼、天童頼長、天童頼貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豊綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信応、長尾憲長、上杉朝定、太田資顕、藤田重利、松平広忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、横田高松、高遠頼継、小笠原長時、小笠原貞種、三木直頼、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覚広、温井続宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定頼、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、内藤国貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成、十河存春、三好政長、筒井順昭、十市遠勝、土橋重治、尼子国久、尼子誠久、庄為資、吉川興経、吉川経世、小寺則職、大内義隆、相良武任、杉興運、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、小早川繁平、和田通興、細川元常、宇都宮豊綱、宇都宮房綱、一条房基、菊池義武、少弐冬尚、小河信安、納富信景、西郷純久、西郷純堯、上村頼孝、米良祐次、土持親成、禰寝清年、長尾虎、世良田元信、浅井茶々、大友桐、十河紫、浅井福、伊達蛍、北条貞、武田菊、有馬奈津、井伊直、木下伶、大内万、女、北条唯、六角辰、浅井文、斎藤郁、大浦戌、朝倉東、蒲生虎、伊達五郎八、伊達秋、最上義、長尾桃、浅井初、島津南、相良良、遠山覚、太田妙、伊達芳、北条鶴、織田秀子、二階堂和、蘆名順、龍造寺千世、北条誉、伊東京、武田梅、南部緑、佐竹英、波多野充、那須正、松平熊、藤田大福、女中、北条春、六角艶、武田見、伊達瞳、織田冬、松平督、前田摩阿、最上駒、今川和、伊達花、小田麗、北条光、相良千代菊、足利詩、大友清、北条静、前田豪、大谷渓、武田恵、関口瀬名、今川嶺、蠣崎圭、長尾華、北条円、最上竹、前田与免、畠山椿、北条苗、武田万里、●●●、斎藤朝、足利氏、太田小少将、松平千、浅井小督、細川扇、蘆名葵、一条喜多、北条睦、太田梶、佐竹藤、六角凪、直江船、武田松、織田五徳、本多小松、織田市、斎藤帰蝶、明智玉子、●●●2、津田宗及、千利休、菊亭晴季、山科言継、朝山日乗、快川紹喜、沢彦宗恩、アルメイダ、ソテロ、フロイス、近衛前久、今井宗久、佐吉、岐秀、老人、農民、鉄砲足軽、僧侶、公家、二本松義継、僧兵、小姓、土田御前、おね、組頭、小笠原秀清、足軽、使者、家老、伝令、忍者衆、忍者、家臣、侍、商人、F.ザビエル、豪族、子供、樋口与六、北条氏康、●●●3、田村顕重、土佐林禅棟、横瀬泰繁、風魔小太郎、真田昌輝、国友藤二郎、望月出雲守、後藤彦三郎、服部保長、津田算長、宮本道意、村上吉継、三島清右衛門、若林道円、名和武顕、三田井親武
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
大友宗麟 Otomo Sorin(1530年-1587年) 大友義鑑的長子、母為大內義興之女、正室為一色義清之女、繼室為奈多鑑基之女、側室為一萬田親實之女;幼名鹽法師丸、實名義鎮、法號宗麟、基督教教名ドン‧フランシスコ(普蘭師司怙)。 父親義鑑原本有意將位子讓與宗麟的同父異母弟鹽市丸,因而欲廢嫡長子宗麟。在天文十九年(1550年)反而被支持宗麟的重臣們謀反,將鹽市丸及其母親殺害、義鑑亦負傷後去世。這次政變被稱為『二階崩之變』,宗麟遂於當時廿一歲繼承大友氏豊後及肥後國領主的地位。關於義鑑把宗麟廢嫡一事,一說宗麟的生母是大內義興的女兒,義鑑想把大內氏勢力排除而計劃廢嫡。 繼承領主地位後,天文二十年(1551年)宗麟接受了陶晴賢的邀請、派遺弟弟大友晴英繼承了大內氏、晴英改名大內義長。天文二十三年(1554年),菊池義武(大友義鑑之弟、宗麟的叔父)趁義鑑死於家中內亂之機,又奪回肥後領地。宗麟計誘叔父義武返回豐後,途中大友軍將義武圍困,迫其自裁,菊池家隨義武的死去而斷絕。 弘治三年(1557年)、大內氏被毛利元就消滅,大內義長自殺。毛利元就繼承了大內氏在西國的領地,開始進軍原本大內氏在北九州的領土,大友與毛利正式決裂。宗麟遂與尼子氏結盟,於築前、築後、豐前等地擴大勢力範圍。當年在他領地豐後府內還出現了劃時代的大事即日本最早的外科手術。 永祿二年(1559年),在足利幕府支持下,宗麟被任命為九州探題。次年、任官左衛門督。 永祿十二年(1569年),大友氏援助長年流亡大友氏的大內義興之侄大內輝弘,試圖恢復大內氏。宗麟遣輝弘率數千軍,向山口發動突襲,往收大內遺臣。大內輝弘成功地在周防國吉敷郡秋穗浦上陸,入占大內家別邸築山館,但終不敵毛利軍,敗逃山口,自殺於富海地方的茶臼山。而毛利因受到大內氏和尼子氏殘餘勢力的反抗,陷入兩難。經權衡得失後,毛利元就決定與大友軍和解,放棄九州領土,讓出門司城,撤兵返回中國地方平定大內氏和尼子氏的殘餘勢力。 元龜元年(1570年),大友已成為九州最強的勢力,九州境內九國佔有北部六個。 同年,大友宗麟欲討伐在肥前勢力逐漸壯大的龍造寺隆信,便派遣弟弟大友親貞率領6萬大軍進攻龍造寺領地,對此龍造寺僅集結了5千兵力防衛佐嘉城(佐賀城)。但大友親貞認為此戰過度容易便輕敵,提前舉辦勝利酒宴,於清晨遭到龍造寺氏的鍋島直茂奇襲。大友親貞在混亂中被龍造寺家臣成松信勝殺死,之後整個大友軍潰散,大友與龍造寺講和撤軍。今山之戰大敗,導致宗麟於天正四年(1576年)傳位給長子義統,隱居至丹生島城。 天正五年(1577年),南九州的島津氏開始進軍日向國,奪取了日向大名伊東家的領地,伊東義祐因此逃向大友家尋求庇護並反擊,宗麟一方面也希望奪下日向國並建設為基督聖地,名義上以繼承人大友義統領軍出陣侵略,自己則在後方做戰略指導,但在天正六年(1578年),耳川之戰中因家臣之間意見不合導致大敗、多數重臣陣亡。另外、將家督讓與大友義統後、他與兒子之間領導意見的不和亦造成大友氏的衰退。當時已開始統一日本的豐臣秀吉試圖經由談判協調島津與大友兩大九州勢力和解。宗麟於天正十四年(1586年)親赴大阪謁見秀吉請求支援對抗島津。島津氏仍持續侵略大友領地、同年12月島津家久軍佔領了他的首府豐後國府內城。丹生島城被包圍,大友宗麟一度使用大砲「國崩」、死守丹生島城。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉親自領兵發動九州征伐,終於使島津氏降伏。在秀吉的統治下,大友義統被確立擁有豐後一國。秀吉原有意封與大友宗麟日向的領地,但宗麟因年紀已大而辭退。 同年,宗麟在豐後國津久見病死、享年五十八歲。 法號:瑞峰院殿羽林次將兼左金吾休庵宗麟大居士。 宗麟以天主教大名的形象廣為人知,天文二十年(1551年)認識了在豐後布教的耶穌會傳教士方濟 沙勿略,並成為好朋友。二十七年後的天正六年(1578年),改信天主教並受洗禮、並派遣家臣帶領親筆信給葡萄牙國王。同時他對領地內的布教活動加以保護、進行與西方的貿易。他另與博多的大商人島井宗室交相友善、進行與中國明朝和朝鮮的貿易。他曾夢想要建立天主教王國,但終於在耳川一戰後夢碎。 宗麟的性格被評論為個性自私,他曾經搶奪家臣的妻子、並因為信仰天主教和妻離婚、另外也有沈溺於酒色、橫征暴歛等記錄,這成了很多家臣和親族對他起而反抗的原因。他因廢弛政務、重臣立花道雪常對他多所勸戒,也因此他很怕遇到立花道雪。 天正十年(1582年),曾派遺了天正遣歐少年使節團前往羅馬謹見天主教教宗。 出處 http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F
大友義鑑 OTomo Yoshiaki(1502年-1550年) 大友義長之子、正室為大內義興之女、繼室為阿蘇惟憲之女;通稱五郎、初名親安,受將軍足利義晴偏諱「義」字,改名為義鑑。 永正十二年(1515年)父親義長隱居,因此繼任家督,成為第20代當主。但是因為年輕,所以直到永正十五年(1518年)為止一直由父親義長輔助,義長死後,由祖父大友親治輔助直到大永四年(1524年)。在繼任家督時,朽網親滿發起叛亂,但馬上被義鑑鎮壓。 此時為了收拾大友氏在義長時期的內在糾紛,義鑑實行積極的領土擴大政策。為此義鑑企圖在沒有大勢力的肥後擴大勢力。肥後國雖然有名族菊池氏,但是當時菊池氏因為內部糾紛而被弱化。義鑑把弟弟大友重治(菊池義武)作為養子送到菊池家,並計劃著支配肥後。但是義武與義鑑不和,最終義武企圖從大友氏之中獨立出來成為大名,於是義鑑與弟弟的骨肉之爭不斷擴大。 之後更受到大內義隆的侵攻,大內軍一時間迫近豐後(勢場原之戰),義鑑處於劣勢,但天文七年(1538年),在室町幕府第12代將軍足利義晴的仲介下,雙方和睦,與足利將軍家維持緊密關係。 天文十二年(1543年)補任肥後守護。 天文十九年(1550年),義鑑引起了後繼者問題,比起病弱的嫡男大友義鎮(大友宗麟),更希望把家督之位讓給被義鑑溺愛的三男鹽市丸。為此義鑑與寵臣入田親誠共謀把大友宗麟派的家臣逐個殺害,反而遭到感到自身危險的大友宗麟方的家臣反擊。 在2月10日,大友宗麟派家臣的津久見美作等人襲擊義鑑的居館,殺害在居館二樓的鹽市丸和鹽市丸的母親,義鑑亦受到瀕死的重傷,在2日後死去,年四十九歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A2%9D%E5%85%BC%E5%AE%9A
相良晴広 Sagara Haruhiro(1513年-1555年) 永正10年(1513年)、上村頼興の長男、籐五郎頼重として上村城(麓城)で生まれた。 上村氏は相良氏初代当主相良長頼の四男の頼村を祖とする分家であったが、曽祖父上村直頼の室は第12代当主為続の姉で、さらに祖父上村頼廉は為続の三男が直頼の養子となったもので、母は直頼の弟上村長国の娘であった。実父頼興と、養父義滋(長唯)およびその異母弟(長祗、長隆)とは、従兄弟の関係にあたる。 大永4年(1524年)に相良長定と犬童長広が謀反を起こし第14代当主長祗を放逐して家督を奪い、大永6年(1526年)、瑞堅(長隆)が兵を起してこの長定と長広を追放したが、相良氏の家臣団は還俗した長隆の家督相続を容認せず、第13代当主長毎の庶長子長唯(義滋)を推戴して、さらに内紛が続いた。 前述のように宗家に匹敵する家柄を持つ上村氏は、家中で大きな影響力を持っていたが、当主の頼興は相良宗家の兄弟爭いに対して中立の立場をとって、長唯の先陣の要請を拒否していた。しかし、長唯は戦略上重要な上村城を味方につけるために、(自分に後継者となる男子がいなかったこともあって)頼興の長男頼重を相良宗家の養嗣子として迎えるという条件で、頼興の協力を取り付け、弟長隆を討ち果たした。 享禄3年(1530年)、約束を守った長唯は頼重を養子とし、18歳の頼重は名を「長為」と改めて宗家の世子となった。 天文4年(1536年)4月8日、頼興は、長為の将来を案じて、家中で信頼の厚い実弟の長種を暗殺させた。また同年5月18日、頼興は、名和氏(伯耆氏とも言う)に使者を遣わして名和武顕の娘と長為との政略結婚をまとめた。これは翌年12月22日に入輿の儀となった。なお、これより少し前の同年11月22日、長為は洞然(外祖父上村長国の号)に教えを請い、相良家の事績や家督継承者としての心得等を記した『洞然長状』を送られている。 天文6年(1538年)12月14日、長為は名を「為清」と再び改めた。 天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。貴久は伊作家・相州家から島津勝久の養子となって島津宗家(奥州家)を継いだが、薩州家の島津実久がこれに反対して乱を起こしていた。相良氏の勢力範囲はこの実久の勢力範囲の背後(北)に位置するため、協力を要請したものと思われる。実久は天草郡の天草尚種とも争乱を起しており、義滋が間に入って調停している。 天文11年(1542年)6月15日、為清は正室名和氏(伯耆氏)と離縁した。理由などはわかっていないが、名和氏との盟約(三家同盟)は破れ、天文12年(1543年)1月26日、名和勢が小川に侵攻し、相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。しかし阿蘇惟前は堅志田城を追われて八代に逃れた。相良氏・名和氏・阿蘇氏は、阿蘇氏の同盟相手を阿蘇惟前から阿蘇惟豊に代えて、天文14年に再び和睦した。 天文14年(1545年)11月27日、大内氏の仲介により、大外記大宮伊治が勅使および室町将軍の使者として八代に来航。12月2日、勅使は長唯を従五位下・宮内大輔を、為清を従五位下・右兵衛佐にそれぞれ叙した。またこの時、将軍足利義晴が一字拝領を許した旨も告げられ、長唯は「義」の字を与えられて義滋と、為清(長為)は「晴」の字を与えられて「晴広」とそれぞれ称することになった。 天文15年(1546年)8月3日、義滋は隠居して家督を晴広に譲った。相良氏が長く内紛に苦しんだ教訓から、義滋は家督相続の事実を内外に広く伝聞して、周知徹底させた。同月25日、義滋は遺書を残して他界した。また同年10月20日に祖父上村長国も死去した。 当主となった晴広は、実父頼興の後ろ楯を得て、戦乱の中でも相良氏を安定に導いていった。島津氏は三州の統一を進めていたが、まだ肥後に進出できるような余裕は無く、薩州島津家とこそ長島の帰属問題で争いがあったものの、島津宗家となった伊作島津家の島津忠良、貴久との関係は、義陽の頃の永禄7年(1564年)に悪化するまでむしろ良好で 、少なくとも晴広の晩年までは比較的平穏だった。 天文18年(1549年)8月、老臣らの勧めにより、嫡子の万満丸(義陽)を世子と定めた。これは同い年の庶弟・徳千代(頼貞)との家督争いが起こるのを未然に避ける意味があった。 これより前、菊池義武(大友重治)は兄の大友義鑑に隈府城を追われて肥前の高来に落ち延び、晴広は彼を庇護してしばしば八代で饗応していたが、天文19年(1550年)2月に義鑑が二階崩れの変で死去して大友義鎮が大友氏の家督を継ぐと、3月14日、隈本城主の鹿子木鎮国(かのこぎ あきくに)が菊池氏旧臣田島重実(たじま しげさね)と謀って菊池家再興の旗印を挙げた。義武はこの機に乗じ、招きに応じてて隈本城に入り、晴広はこれを支援した。晴広は、3月23日、名和・阿蘇・相良の三家同盟にあった阿蘇氏の重臣甲斐親直と、相良綾部助などの老臣を会談させた。大友義鎮は義武の挙兵を驚き、同じ3月23日、相良氏に協力を求めたが、晴広は拒否しただけでなく、義武と名和氏との同盟の仲介を行った。 同年6月、名和行興の家臣皆吉武真(伊予守)が叛乱して宇土城を襲撃した。行興は防戦したが、城を棄てて逃亡した。23日、晴広は自ら出陣して高津賀に陣をしいた。武真はこれを恐れて豊福城に撤退した。これにより名和行興は宇土城を奪還できたので、行興は晴広に感謝してさらに豊福城に進撃するように進言した。しかし25日、皆吉武真は兵百余をつれて八代に来て晴広に投降したので、戦うことなく豊福城は再び相良氏のもとに収まった。 一方、大友義鎮は家臣小原鑑元と佐伯惟教に大軍を与えて菊池義武を攻めさせた。7月11日、義武は合志原でこれを迎え撃った敗れた。7月20日、晴広は薩摩の東郷相模守に相良綾部助を使いに出して、大友氏との和議の仲介を依頼した。しかし8月には隈本城で義武は包囲され、戦利なしとして100騎余をつれて城を脱出し、国人衆に守られた金峰山に籠った。ところが金峰山も大友勢に攻め寄せられて、義武は一族と共に天草の河内浦城に逃れ、さらに島原に渡った。 天文21年(1552年)、頼興が、一族で岡本の地頭相良相模守頼春(長国の子、岡本頼春とも言う)を謀殺し、末弟稲留長蔵を地頭職に据えた。 天文23年(1554年)2月、義武は島津氏を頼ろうとしたが薩摩出水で入国を拒否されたために、3月、晴広を頼って水俣から人吉へと赴いて来て、永国寺で剃髪した。晴広は義武を丁重に保護した。 同年4月1日、人吉城で小火があり、万満丸は家臣宅に難を逃れた。 相良氏と大友氏の和議は成立したものの、伊作家の島津忠良に和睦斡旋を依頼するなどしても、義鎮と義武の調停は上手く行かず、義鎮は義武の身柄引き渡しを要請。4月、豊後から外交僧や田吹上総介が来たが、晴広は応じなかった。5月12日にも再び大友の使いが来たが、同様に拒否した。11月、義鎮は河尻を義武に与えると伝え、重ねて要請したので、義武は覚悟決めてこれを了承し、次男則直と娘・辰若、妻を相良氏に預け、高鑑をつれて11月15日に八代を発ったが、豊後に帰る途上の20日、木原で殺害された。 また同じ天文23年の7月、長島の領主である長島鎮真が堂崎城を放棄し、薩州島津家を頼って出水に逃れた。晴広は同城に兵を進めてこれを占領した。 弘治元年(1555年)2月7日、晴広は式目二十一条を布告した。これは「相良氏法度」として有名なものである。しかしこの「相良氏法度」は相良晴広1人が制定したものではなく、相良氏歴代の当主によって制定されたものに晴広が加筆したものである。第1条から第7条までは相良為続が制定し、第8条から第20条までは相良長毎によって、21条から41条までを相良晴広が制定したものであった。同条により、一向宗は領内で厳しく禁止された。 同年8月12日、先代の築いた八代の鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)で晴広は死去した。享年43。八代林泉院に葬られ、法名は林泉院兆山蓮慶。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%99%B4%E5%BA%83
立花道雪 Tachibana Dosetsu(1513年-1585年) 戶次親家的長子、母為由布惟常之女.正光院、繼母為臼杵鑑速之姊.養孝院、正室為入田氏、繼室為問註所鑑豐之女.仁志姬(西姬/寶樹院)、側室為宗像氏貞之妹.色姬;幼名八幡丸、孫次郎,初名戶次親守、親廉、鑑連,法號麟伯軒、道雪。 少年初陣 大永六年(1526年)3月20日,豐前馬岳城主佐野親基和問田重安內通大內氏而反叛大友家,大友家令豐後大野郡藤北庄的鎧岳城主戶次親家出兵討伐,然而親家重病在床,年約13歲的道雪代父出征,身著系赤縅的鎧甲綁著水色的繩結,頭戴白星兜並附有八相前指物,腰掛家傳寶刀並騎乘附有金紋鞍的愛馬戶次黑毛,率領3千士兵連夜趕往馬岳城,於清晨時分發動攻勢,於一天之內便攻破擁兵5千人的馬岳城降服佐野親基和問田重安,許多大友家臣對道雪以年幼之身便立下如此驚異的戰功皆讚賞不已,戶次家此後受到大友更加的重用。 同年4月19日道雪之父親家病逝,因此繼承戶次家為第十五代家督,天文五年,改名為親廉官稱丹後守,往後拜領大友義鑑的「鑑」字改名為鑑連,並與津賀牟禮城主入田親誠的女兒波津結婚。 義鎮的忠臣 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此時肥後國人之中的阿蘇氏及合志氏率三千兵力反叛菊池想轉為大友援軍為內應,然而道雪卻派使者海老名肥前傳達說:『不管戰爭的勝敗,武士的忠誠心是最優先重要的。並且我從初陣以來未嘗敗績,此戰也將不假他人之力,況此戰有大明神監督當能克敵制勝,我若僥倖得援軍必敗。』而拒絕援軍,希望對方能作為敵方盡忠作戰。此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,家臣綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也盡皆歸降,道雪因此又立忠功。 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也一一歸降,道雪因此又立忠功。 天文十五年(1546年),秋月文種謀反,大友義鑑令道雪與佐伯、臼杵、吉弘等將率兵一萬前往鎮壓。 天文十九年(1550年),大友義鎮(大友宗麟)的叔父菊池義武,和師傅入田親誠,對義鎮感到不悅,因此慫恿大友義鑑轉立義鎮的異母弟鹽市丸為下任家督並廢黜義鎮的繼承人地位,大友義鎮為此情斷義絕,於2月10日與重臣津久見美作守、田口藏人襲擊大友義鑑的居所,史稱「二階崩之變」大友義鑑、義鑑之女、鹽市丸和他的生母,以及侍女皆一同被殺盡,事變後大友義鎮成為大友家第二十一代當主。 之後於3月,道雪接受大友義鎮的命令攻打始作俑者入田親誠的居城津賀牟禮城,道雪因此而和親誠之女波津離婚,反叛兵敗的親誠在逃往阿蘇家後被迫自殺。接著道雪於8月領兵三萬五千攻破菊池義武的隈本城而立下忠功,菊池義武逃亡至島原。後於天文二十三年(1554年)接受義鎮的命令,率家臣安東家忠及小野信幸埋伏於豐後直入郡木原,包圍受到宗麟以和平為由騙其回歸豐後的菊池義武,迫使其自刃。 筑肥豐轉戰 天文二十三年(1554年)為確保豐前的領土,10月13-15日道雪等大友軍於豐前柳浦擊退駐軍於豐前門司城的毛利軍,道雪之奮戰造成毛利元就、小早川隆景大敗總崩,成功奪回門司城。同年,道雪收弟弟戶次鑑方(鑑堅)之子戶次鎮連為養子,繼承鎧獄城。 弘治二年(1556年)6月3日,大友家爆發小原鑑元之亂、道雪率部下高野大膳於豐後海部郡討伐內通毛利氏進行謀反的住民齊藤小左衛門、本庄統綱、中村長直等,15日往肥後進攻小原鑑元的南關城,鎮壓叛亂。 弘治三年(1557年),大友義鎮對倔強不服,於弘治元年(1555年)內通毛利並舉兵反叛的築前國人秋月文種、肥前國人筑紫惟門發動攻勢,於7月令道雪合高橋鑑種、臼杵鑑速以及吉弘、田北、志賀、一萬田、吉岡、田村、佐伯、朽網、小原等將共約二萬前往征討,道雪不負義鎮所望於7月7日接連攻下文種的古處山城和惟門的五箇山城,使得秋月文種自刃並降服筑紫惟門,至12日平定部分築前和肥前地區。同年大友家與毛利家簽定合約,令毛利家承認大友義鎮之弟大內義長於北九州的領地為大友領有,並且不得侵犯。 永祿元年(1558年)大友軍進攻毛利方的豐前松山城,此戰築後星野氏配下七人眾之筆頭的通口實長(通口越前守)為大友軍奮勇作戰。 永祿二年(1559年)1月秋月文種之子秋月種實受舊臣深江美濃守以及毛利家的援助擊退古處山城的大友軍,並與筑紫惟門聯繫再次對抗大友家,大友宗麟為此以加判眾筆頭的田北鑑生為總大將,以真光寺佐藤刑部率築後國人問註所鑑晴、星野鑑泰、田尻親種及肥前犬塚尚家等進攻筑紫惟門的天判山城,卻於第一次侍島之戰敗於筑紫惟門的釣野伏戰術,佐藤刑部、鑑晴、鑑泰、尚家及親種之弟的種廉、種增戰死。 8月,道雪率大友軍進攻北九州國人國人眾宗像家的領地,攻陷白山城、鳶獄城並進至宗像居城許斐山城的同時因為毛利元就破壞約定偷襲大友方門司城,道雪為防前後夾擊放棄攻城撤退至豐後。一方,門司城將怒留湯主水退至豐後,義鎮對於毛利家的毀約大怒,在對毛利以外交操作談不嚨的情形下,於永祿四年(1561年)4月先以道雪、田北鑑生、田北紹鐵、田原親賢等大友軍率六千餘騎進攻豐前,攻擊毛利方位於豐前的香春獄城,城將原田義種以落石一時擊退大友軍,但道雪冷靜的加入兵力,令追擊的原田氏遭到分斷,大友軍再各個予以擊破,終於7月15日攻落,迫使原田義種自刃。然而此舉造成築前國人眾聯手反擊大友,9月毛利軍又趁機攻落香春獄城,被宗麟委派與毛利軍對峙的城將志賀鑑隆(志賀常陸介)敗退回豐後。 後義鎮親率道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增、齊藤鎮實、田原親賢等大軍前往豐前門司城,9月2日開始進攻,大友軍更請來葡萄牙軍艦砲擊門司城,10月9日策反毛利方的稻田禪正、葛原兵庫助,但是由於被毛利方發覺利用,於10月10日的明神尾戰鬥中遭到伏擊敗戰,26日大友軍再度總攻擊,這時道雪率領八百名弓兵攻擊毛利軍,並在數支箭上綁上寫有「戶次伯耆守鑑連隨時候教」的字條以激烈的箭雨射向毛利軍,此後毛利軍中,傳開大友家名將「戶次鑑連」的名字,武名逐漸廣傳於多個地區。同年,道雪擔任大友家掌握軍政系統的加判眾職位。 永祿五年(1562年)大友義鎮因為敗戰以及家中信仰問題而剃髮入道號「宗麟」,道雪也跟隨出家入道號「麟伯軒道雪」,不久道雪被任命為築後方分,領有築後赤司城。同時宗麟贈送黃金五十兩給予幕府,控訴毛利毀約之舉,希望足利義輝將軍出面和議,一方著手進行連絡毛利家背後的尼子義久打算準備夾擊毛利家。9月,道雪又隨大友軍進攻豐前毛利方重臣天野隆重鎮守的松山城,於豐前刈田著陣,並於上毛郡防範毛利方的夜襲,13日於松山城後的海岸與毛利軍激戰,10月13又抵抗毛利軍於柳浦一地集體的攻擊,此戰道雪討取冷泉元豐、赤川元德(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫)三位毛利方大將,11月19日大友軍再次強攻松山城,兩方互有重大死傷。於同年內又再次攻擊香春獄城,降伏城將千手宗元。 永祿六年(1563年)1月,因松山城是個倚海難攻的要害久攻不落,大友軍最終撤退。27日道雪受足利義輝之命令對宗麟提出意見,於豐前進行「豐藝和談」。5月兩家終於談合,毛利家保有門司城,交回松山城於大友,並將香春獄城毀壞,退出九州並停止對豐築諸國人眾的援助。 永祿七年(1564年)3月25日,道雪率其麾下由布惟明等家將,再次於豐前柳浦進行作戰。4月2日大友軍於肥前、築後邊境與筑紫惟門對峙為第二次侍島之戰,5月2日兩軍激戰,大友方再次敗於惟門的釣野伏戰術,築後眾的問註所鑑豐、小河鑑昌戰死。後大友宗麟仍親自率兵平定築後,之後過於滿足現狀開始沉溺酒池肉林的玩樂生活,道雪為此強烈的勸諫宗麟。 筑前爭亂記 永祿八年(1565年)築前有「西大友」之稱的立花鑑載自去年反叛大友家,道雪與吉弘鑑理於6月奉命前往討伐,於7月4日,道雪配下由布惟信一隊討取敵猛將彌須圖書助遂攻落其居城立花山城,之後在宗麟惜其家系下沒有將其殺滅,令鑑載繼續為立花山城主。 永祿九年(1566年)毛利家攻陷月山富田城消滅尼子家後屢對築前國人如原田、麻生、宗像、秋月、筑紫等進行策反,並且岩屋、寶滿二城主的高橋鑑種因早先不滿宗麟色淫兄嫂也一併反亂,宗麟對此派出道雪和吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增(宗歡)、齋藤鎮實五將領豐後、築後、肥後共二萬兵前往鎮壓。 永祿十年(1567年)7月7日,大友軍擊退高橋鑑種八千使其退往寶滿城後,以臼杵鑑速攻向岩屋城討取城將足達兵部少輔二千餘人,而道雪和鑑理先後在短兵相接,矢雨如注的激戰下,以家臣小野鎮幸、足達連安、高野出雲、十時惟次、戶次親繁、戶次親宗之奮戰擊退高橋方的猛將福井玄鐵,並且此戰中道雪家臣十時惟忠(十時右近太夫惟定,連久、連貞的堂兄)奮迅連斬28人,激戰中家臣內田鎮並以肉身抵擋敵方狙擊道雪的弓箭幸而保命,終於攻陷寶滿城降服高橋鑑種。11日齋藤鎮實雖於山上城和侍島二次敗於筑紫惟門、筑紫廣門父子的釣野伏戰術損失兩百餘人,但於27日接受惟門自刃及廣門再三的降伏請求並受取筑紫榮門等人質。8月14日大友二萬兵力終於進攻秋月種實,在秋月城下的甘水、長谷山(瓜生野之戰)一帶和種實一萬二千兵對戰,此時道雪在一日為數七場的戰事當中七度持刀槍衝鋒於敵陣討取秋月方七位小有名氣的武將(此戰於戶次軍談中,記載道雪乘馬奮戰,故此時雙足應還健全。),家臣十時惟忠也手持大薙刀,單手貫穿敵兵更將其投飛,戰地因而被稱為「人投原」。15日大友軍再攻落秋月方的邑城休山茄子城,守將阪田諸正自刃,種實見狀退守至古處山城,大友軍則駐軍於休松一地休息。9月3日,大友軍陣中傳來毛利軍來攻的流言,大友軍勢因此開始撤退動作,秋月種實見機引兵一萬二千打算奇襲道雪,但是道雪一早察知率所部三千兵做迎擊態勢並設置虛旗,擊散秋月先鋒軍內田善兵衛實久和問註所鑑景(秋月治部少輔)更突崩中備軍綾部駿河五千騎,雖然問註所鑑景一度重整二千兵攻擊道雪本陣於亂戰中討取十時惟忠,但秋月種實此時見到道雪所擺之噓旗誤以為大友援軍來襲因而撤退。 4日未明,秋月種實四千兵乘著風雨,夜襲卸下軍備的大友軍吉弘鑑理、臼杵鑑速的陣營,大友軍陷入混亂,吉弘、臼杵的將兵轉往道雪陣營時更發生自相殘殺的慘況,道雪見狀吞下正在食用的飯團,急令家中大將由布惟信、小野鎮幸等人分兵驅敵,並率自軍為殿後援助吉弘、臼杵等軍撤退,更持刀槍衝入敵軍中振奮反擊士氣,激勵大友諸將如朽網宗歷(朽綱鑑康)、清田紹喜、一萬田鑑實(一萬田宗慶)、三池鎮實、田尻鑑種而開始反擊,當中田尻一隊便討取秋月方15人首級,家臣足立連安更突陣連斬18人,終使秋月軍轉為劣勢付出重大死傷而暫時撤退,並傳聞此戰的道雪被稱為「鬼道雪」。然而此戰道雪也失去五位親族,分別為叔父親久、弟弟鑑方、堂弟鑑比(鑑方及鑑比皆有同為鑑堅的名字,於各項記載此戰之文書中常被混淆)及堂叔父親繁、親宗。譜代家臣則有由布五兵衛惟清、綿貫勘解由吉廉、十時右近太夫惟忠等部將十三人以及從宗麟直屬派來助陣的小野彈正忠鑑幸(小野鎮幸之父。)於此戰陣亡,築後國人眾領主三池親高更與家臣43人一同陣亡,隨後大友軍退往築後時秋月種實又追擊至甘木高場討取利光兵庫助、橋本玄蕃允等,大友聯合軍損失約5-60位身分不等的將士,包含被討死4百人。 永祿十一年(1568年)2月立花山城主立花鑑載受到毛利元就策反再次反叛大友家,其家臣薦野宗鎮(薦野三河守,薦野增時之父。)、米多比直知(米多比大學,米多比鎮久之父。)此時為貫徹對大友家的忠義不支持鑑載的行動,遭其殺害,後薦野、米多比一族率兵投靠道雪。鑑載則於4月6日迎來毛利家的清水宗知(清水左近將監,清水宗治之兄)8千餘人和軍船百餘艘,更聯合原田隆種(原田榮)、原田親種父子與高橋鑑種家臣衛藤尾張守約1萬人於立花山城,4月24日道雪與吉弘鑑理、臼杵鑑速、志賀親守3萬餘人包圍立花山城及其白岳、松尾等7處城、砦,三個月後於7月4日大友軍強攻立花山城,道雪一軍在攻略其支城松尾城時,於立花山崖上的不利地形苦戰,先鋒高野出雲、十時惟次(十時攝津,連貞之父。)負傷,道雪因而挺進前線激勵家臣戶次鎮直、戶次鎮時、十時惟次、十時惟由(十時但馬,連貞、連久堂叔)、由布惟定(由布宮內,惟信長子)、高野出雲、小野鎮幸、足立連安(足達對馬守宗園)、吉田兼正、原尻鎮清、竹迫鑑種(竹迫日向守昌種)討取敵兵28人。當晚因為道雪的調略而令立花家臣野田右衛門大夫(野田若狹守)背叛為內應引道雪軍入城,戶次統春(後來的立花統春)、十時連久、臼杵鎮氏(臼杵進士兵衛、臼杵鑑速之弟)、池邊永晟等奮戰生捕安武民部,原田親種、清水宗知、衛藤尾張守不敵逃至立花山城西南邊海岸的名島城。 7月23日立花鑑載因支城各個陷落,帶著家族10餘人脫逃往古子城並打算集結兵力於新宮町,卻被野田右衛門大夫告知行蹤遭到道雪軍追擊,進退不得而自殺,同日道雪又與高橋鑑種於宇美河內一地進行會戰,破之,而原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知則往中國毛利家方面退卻,立花山城則交由臼杵鎮氏、田北鑑益(田北民部丞、田北鑑重之弟)、津留原掃部助暫時代守。7月29日道雪等大友軍將致力於築前反大友勢力的掃討,但清水宗知為奪回立花山城又聯絡原田親種、衛藤尾張守於8月2日又率軍5千至立花山城下,道雪軍再次和鑑理、鑑速反擊,此時臼杵鎮氏和代父指揮的吉弘鎮信率軍分斷衛藤的軍勢,將戰線從立花山城往西南移動向香椎、名島,越過多多良濱並從莒崎往博多追擊,同時道雪於8月5日率4千追擊原田親種軍勢往生松原,其父原田隆種雖率三千援助親種(第一次生松原之戰),親種仍被射落馬下兵敗逃命。14日早朝會合大友軍於立花山麓共擊敵軍,道雪軍以第一隊小野鎮幸、第二隊由布惟信、第三隊後藤種長(後藤隼人佐)、第四隊堀祥(堀東雲軒玉隱)、第五隊安東家久(安東周防守,家忠之弟)、第六隊高野大膳互相配合交替輪流進行攻擊,追擊至莒崎一地,此時高野大膳奮勇討殺於前軍指揮的衛藤尾張守,敵軍皆因為道雪的夾擊攻勢而做四散逃,全軍往東北進擊討取3百餘人於午時追擊至蘆屋一地,清水宗知則僅剩20餘人乘船回毛利領地。同日傍晚時分,為救援原田親種的原田親秀(波多江親秀)率3千和道雪又在生松原激戰,原田方損失太田孫左衛門忠茂、池園四郎兵衛種之、原田伊豆守種冬、笠新八與昌、上原新左衛門泰元以及原田親種之子原田秀種僅12歲戰死,雙方皆損失多位家臣但以道雪軍獲勝告終,此一系列戰事被統稱為蘆屋合戰。 8月19日,秋月種實終於因為失去毛利家的援助而降服大友軍。11月25日,道雪從築前山隈城移動到高良山下的富本(問本)城,28日,道雪為確保築後國人問註所鎮連不參與築前國人反亂,並感念其父鑑豐於永祿7年為大友家出兵築前討伐筑紫惟門於5月2日忠戰而亡,娶鑑豐之女仁志姬為正室。 永祿十二年(1569年)1月,大友宗麟親率五萬大軍征討「肥前之熊」龍造寺隆信,道雪和吉弘鑑理先後拒絕隆信的投降交涉,大友軍於3月23日開始攻擊,道雪與大友諸將領三萬進攻江上武種的勢福寺城並使其降服,4月6日吉弘鑑理於多伏口一地擊敗龍造寺軍主力,欲進擊之時突然發病而錯失良機。一方,在龍造寺隆信的聯絡下毛利元就見隙率吉川元春、小早川隆景、乃美宗勝4萬餘人由吉田郡山城出發經由海路於4月15日包圍立花山城並斷絕水脈,17日在道雪建議下派出城親冬提出與龍造寺的議和,後隆信也派遣老臣納富信景慰問辛勞議和的道雪,並贈送名馬一匹。5月3日立花山城被奪,宗麟聞訊急報道雪等將回軍包圍立花山城,大友軍3萬於5月5日集結於博多,道雪先於5月6日率軍與田尻鑑種一同進攻毛利軍觸發一場小戰,此戰道雪自身持槍殺敵,5月13日毛利軍度過多多良濱川於松原附近放火與大友軍交戰四回,5月18日元春和隆景率毛利軍4萬餘多多良濱,道雪、鑑理、鑑速則率兵1萬5千分三隊為先陣,之後配置約2萬的大友軍力與之對峙,雙方激戰期間,道雪見到小早川隆景一時的陣形空隙,先以8百人鐵砲隊密集射擊後自身拔刀乘馬(『築前國續風土記』載此時道雪乘馬)率隊衝入敵陣營中,毛利軍此時無法敵擋一時遭受敗戰,後撤退於立花山城,是役為堪稱中世紀日本九州最大的合戰「多多良濱合戰」。 此後戰事轉為膠著狀態,直至十月,毛利元就因為大內輝弘乘虛奪取山口高嶺城以及出雲月山富田城方面遭受「尼子復興軍」攻擊的消息,遂下令吉川元春和小早川隆景立刻撤退回國。道雪這時趁機追擊毛利軍,毛利軍陣亡者約三千四百多人。10月13日,大友三老(道雪、鑑理、鑑速)於「蘆屋會談」中決定攻擊築前混亂的元兇高橋鑑種,攻落其居城寶滿城後令其切腹自盡,但是在宗麟心軟之下只將其流放至小倉城。 擊退毛利軍後的大友軍繼續實行攻打龍造寺隆信的計劃,於元龜元年(1570年)大友六萬大軍包圍佐賀城,這時道雪因為包圍時間甚久導致築前勢力不穩而早先向宗麟提議撤軍,8月20日大友軍總大將宗麟之堂弟的大友親貞遭到鍋島直茂的夜襲被成松信勝奪去首級,大友軍失去主將而接連撤退,這時道雪以殿軍防備陣勢抵擋追擊;此戰大友軍戰死者二千人以上,遂因此敗退回領地。 家督繼承 此時立花山城因為立花鑑載的自刃而為空城,為鎮壓築前的反亂勢力,道雪在宗麟的再三說服下轉封至築前立花山城,於元龜二年(1571年)五月形式上的繼承立花氏,並迎娶宗像氏貞之妹色姬做為部份和平鎮壓手段,然而道雪於天正三年(1575年)便將家督之位讓給獨生女,年僅7歲的立花誾千代,自己退居幕後,道雪此舉完全是因為不想繼承大友叛臣立花氏這個姓氏,終生使用戶次姓。同時,被迫流放豐前小倉城的高橋鑑種其高橋氏則由吉弘鑑理次子高橋紹運繼承,鎮守岩屋、寶滿城。 筑前鎮壓戰 天正六年(1578年)大友家於耳川大敗於島津家,使的大友家逐漸式微,築前國人如秋月、原田、宗像、草野等再次大規模反叛,12月3日,秋月種實聯合築後國人眾問註所鑑景、筑紫廣門約4-5千人攻擊岩屋、寶滿城因為高橋紹運的防戰未果,後於4日在柴田川和立花高橋軍對峙,因為立花高橋軍的兵力過少而再交戰不久便撤退至山野之中,此時種實於晚上追擊,反被立花高橋軍埋伏夾擊敗戰,退回居城。同年12月11日,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,13日道雪配下的由布惟信、十時連貞、安東家忠、高野大膳因於宇美等地轉戰立功而一同被合稱「立花四天王」 天正七年(1579年)4月初秋月種實聯合筑紫廣門和豐前國人城井、長野、千手、齋藤、上原及築前國人宗像、麻生、原田、杉等氏反叛,攻向岩屋城被高橋紹運擊退,同時大友宗麟為此派出豐後的家老志賀親守(志賀道輝、道魁)率築前國人小田部鎮元(小田部鎮通、紹叱)、大鶴鎮正(大津留式部、宗雲,實為鎮元之父)二千餘攻進秋月家石阪一地(鍬摺之戰),卻遭到宗像氏貞、麻生元重、杉連並、許斐氏備、原田鑑尚(大鶴鎮正之子,但有一說為鎮正之伯父)呼應秋月軍的的埋伏包圍,紹運因此和道雪出戰夾擊敵軍救援志賀等將,後讓志賀親守暫時駐軍於岩屋城。 7月18日龍造寺隆信出兵築後之際,其武勇出眾的次子江上家種聯合原田親秀以執行總兼為大將率軍侵略大友家的安樂平城(荒平城),城主小田部鎮元頑強抵抗,此時鎮守安樂平支城.池田城的小田部家武將大教坊兼光背叛鎮元。9月11日鎮元聯合鎮守鷲岳城的大鶴鎮正之弟大鶴宗逸對池田城發動夜襲,大教坊一族85人全員戰死,同日龍造寺軍攻向池田城,鎮元與宗逸出城渡江奮戰身亡,另一方面雖然大鶴宗雲早先聯絡到立花道雪以十時連貞、小野鎮幸率6百兵並輸送兵糧物資為援軍,但是趕不及龍造寺軍的激烈攻勢;鎮元籠城長達約三個月最終仍被攻陷,立花軍僅能救走鎮元遺下的次子統房。 期間於7月27日,秋月、筑紫聯軍又偷襲大宰府,道雪聯合紹運將其擊退。8月13日派出家臣足立連安等將救援食糧不足,大友方柑子岳城的木付鑑實,於14日的歸路中在生松原一地遭原田氏夜襲(第二次生松原之戰),道雪此戰乘轎督戰。同月,宗像氏貞、麻生元重、原田鑑尚等反大友聯軍於多多良川左岸的箱崎攻入領地,道雪趁夜派一名家臣涉水度過多多良川,潛入上松城與內應放火並俘虜元重之妻,宗像、麻生、原田三將見自城起煙於是退到許斐城,元重私底下想投降道雪,但被氏貞發覺而被殺,9月18日道雪聯合紹運攻入宗像家領地的鞍手郡,氏貞敗走,鑑尚投降被志賀親守誅殺,同月秋月種實又進攻寶滿城,道雪和紹運於吉水一地將其擊退。 同9月下旬,道雪、紹運、志賀親守(道輝)為討伐原田親秀(原田隆種)進行軍議,決定由紹運留守防備秋月、筑紫,道雪則率三千兵,以小野鎮幸、由布惟信為先鋒進軍肥前高祖山城並放火燒村,原田親秀以一族之原田林慶為大將率六千出擊,將道雪軍衝散並逐漸聚集當地鄉士之兵力,追擊道雪軍至生松原,此時林慶見道雪背後河川滿潮,認為道雪之兵比起溺死將會轉而奮鬥攻擊自軍,因而打算待其退潮,同時小野鎮幸也向道雪提出該利用此背水之陣令士兵突擊敵陣,兩軍互相觀察,隨後小野、由布率五百分左右進擊,道雪後陣遂追擊將原田軍打回高祖山城,林慶則在小野、由布及薦野增時的夾攻下被討死,道雪軍攻破三之丸、二之丸後遂放火燒城返回生松原執行首實驗後回軍立花山城。(此戰載於『大友興廢記』、『戶次軍談』) 10月24日龍造寺隆信趁攻落安樂平城之氣勢再度出陣築前,派出家臣大田兵衛三千餘人聯合筑紫廣門攻擊大鶴鎮正的鷲岳城,因為高橋紹運出兵於山田山和隆信對陣為大鶴鎮正的後援而使大田、筑紫兩將撤退,但11月15日筑紫廣門又派兵游擊偵查,紹運因此鎮守於岩戶一帶監視,同時秋月種實偷襲岩屋城,紹運因此回軍岩屋並於半路打擊筑紫勢的追擊,重整岩屋城的兵力後於高尾山對戰四千秋月軍,秋月軍因紹運的火攻而有部分撤退,同時道雪出陣牽制筑紫軍並和紹運夾擊令其敗退,終令大鶴鎮正脫險。天正八年(1580年)2月,龍造寺隆信聯合秋月、筑紫、原田、草野2萬軍力進逼築前西南邊境的生松原,2日道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士(傳聞此戰也是立花宗茂的初陣),3日於月隈村築砦,16日對豐後諸將發出有名的「九條檄文」。3月,因為宗像氏貞與大友家合議,氏貞將其妹色姬嫁給道雪,並割部分領地為嫁妝,此時道雪67歲,色姬25歲。7月,道雪與龍造寺隆信合議,築前西9郡龍造寺領,東6郡大友領。9月,道雪和紹運於奈須美一帶擊退秋月種實。 天正九年(1581年)3月6日道雪於那珂郡麥野村築砦。同年龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下大鶴鎮正的鷲岳城而於7月27日進軍至大宰府,並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前岩屋城,紹運與之對峙,道雪並派家臣竹迫統種、薦野增時等將為援軍,雖成功於觀世音寺之戰擊退敵軍,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰鬥,此時紹運以弓、鐵砲、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右迴於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取井田親氏,此石阪之戰也是立花宗茂普遍被認為的初陣,其優異的表現令道雪正式興起迎統虎為婿養子的念頭。同年8月,膝下無子的道雪,終於對高橋紹運提出希望其長子高橋統虎(宗茂初名)能繼承立花家,起初紹運因為統虎優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,統虎終於成為道雪的養子。於8月18日,統虎和道雪的女兒立花誾千代結婚成為婿養子而繼承立花家。(但是夫妻相處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居。) 11月6日,大友宗麟為援助被秋月種實、問註所鑑景夾擊的家臣朽網鑑康(朽網宗曆、宗歷),而命道雪、紹運、宗茂出陣,立花高橋共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰(許多史料因同戰地而常與石阪之戰混淆,秋月方史料則記為八木山合戰)。 同年11月12日,立花山城東北方的宗教國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬(宗像氏貞之妹色姬為道雪側室)的嫁妝給立花,趁立花軍一面出戰秋月軍(潤野原之戰),一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、內田鎮家、足立連安等立花家臣800兵前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲(小金原之戰,立花家稱清水原之戰),此戰中足立連安連斬18人,而惟信之子由布惟次也以鐵砲狙擊敵大將河津盛長(河津修理進)立下大功,但隨後奮戰中身受13處重傷,最後在由布、小野、薦野、內田等立花家臣以背日光於高處下山衝陣等兵法上正確的判斷,宗像方大敗,將領吉田貞辰、石松秀兼等人皆被討取,而宗像家的背叛觸怒道雪,兩家之間的同盟因此破裂。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡岩戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦(貓卡城),並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下先於3月16日派小野鎮幸、由布惟信侵攻宗像許斐山城周邊的八並村,4月16日才前往那珂郡岩戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,統虎和薦野率五百兵為伏兵,道雪本隊在危急之時因統虎的策略終於擊退原田勢,隨後讓統虎率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再岩戶一帶的岩門庄久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日,攻入宗像領地,侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月16日的吉原口防戰討取吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,氏貞只能退往白山城,遂驅逐宗像勢力,而宗像氏貞之妹,道雪的側室色姬也因此於隔年3月24日在立花山城中自殺。(一說病死)同天正十一年1月期間,筑紫廣門數次於夜晚派兵侵擾立花領地,2月4日,道雪以家臣竹原藤內為伏兵擊退廣門3百兵,斬獲甚多。3月筑紫廣門又出兵太宰府,道雪與紹運共同抵禦,此戰立花統春作為先鋒立下一番槍,再次擊退筑紫軍勢。4月8日,筑紫軍又潛入築前那珂郡偷割青麥,立花軍先鋒竹原藤內與之對戰,接應主軍並行夾擊,又再次擊退筑紫軍。 筑後遠征期 天正十二年(1584年)4月12日,筑紫廣門又率軍侵攻御笠郡,道雪與紹運反擊至筑紫家領地的武藏城下,道雪家臣吉田連正、後藤連種、佐藤次郎三郎等率其部眾力戰衝鋒陷陣,紹運又分二千兵為三隊進行橫擊,筑紫軍戰敗退入城中。3月,因龍造寺隆信於沖田畷之戰對上島津軍戰敗身死,大友家為此趁機出兵想奪回築後,以宗麟次子大友親家、三子大友親盛率豐後大友軍7千人進攻築後貓尾城的黑木實久(黑木家永),實久則聯合龍造寺軍共2千餘人在貓尾城與高牟禮城籠城抗戰,經過一個月大友軍仍然無法攻落,大友家第二十二代當主大友義統為此要求道雪與高橋紹運出兵,兩軍於8月18日以紹運2千人為先陣、道雪3千人為後陣出發,紹運在渡過築後川擊滅秋月家武將芥田兵庫50餘人後與道雪越過鷹取山,並以由布惟信為殿軍,在狹窄的山道途中又遭到伏兵以鐵砲狙擊,道雪也以弓、鐵砲反擊,此時紹運以擅長鐵砲狙擊的家臣市川平兵衛反狙擊令道雪脫離險境,但伏兵仍攻擊殿軍的由布惟信,道雪又回軍以立花統春、立花成家與敵兵激戰;此時以軍師大橋桂林之計,故意朗誦歌謠悠然進軍,然後突然回軍攻擊,敵兵遂因此逃去。(傳聞此時道雪才以坐在"輿"上行軍) 19日,兩軍到達高牟禮城,隨即寢返黑木家老樁原氏部,氏部並於24日開城,龍造寺援軍的土肥吉春(土肥出雲守)因此離城逃去。此時貓尾城已被孤立,道雪和紹運開始對黑木家同族的何崎重高防守的犬尾城攻略,28日在城島、酒見・榎津・貝津進行掃討,不久開始進攻貓尾城,在樁原氏部的帶領下9月1日(一說5日)攻下貓尾城,黑木實久則自殺身亡。8日又接連攻下蒲池鎮運的山下城以及築後各處的小城如谷川城、邊春城、兼松城、山崎城還有田尻鑑種的鷹尾城,大友軍終於展開對九州築後有名的堅城「柳川城」的攻略,城將龍造寺家晴死守不出,大友軍連翻攻擊未能攻下,道雪遂於10月3日因高良山大社座主良寬之建議移陣至高良山,並攻下久留米城、安武城、西牟田城,且勸降草野鎮永的吉木城,4日改攻籠城於發心岳城的草野鎮永和星野吉實的鷹取城、福丸城,後又侵攻問註所鑑景燒毀竹井城並於秋月領甘木一地對其掃討牽制,之後於年底又回陣高良山時,大友親家和親盛卻因長期戰陣在外以疲倦為由退回豐後(一說是大友義統通知秋月種實的侵略要其回國防備),留下立花高橋軍於築後。另外此時道雪處決擅自回家鄉過年的家臣,連其父母也同罪。 天正十三年(1585年)2月上旬龍造寺家晴、鍋島直茂於柳川城率軍5千出戰布陣於高良山南方的西牟田,北方則有秋月種實、長野鎮展、草野鎮永、城井鎮房、千手氏、星野氏、問註所氏等國人施加壓力,2月中旬龍造寺政家共集結3萬餘大軍近逼高良山。龍造寺軍於4月18日以後藤家信(龍造寺隆信三子)率筑紫廣門、波多親、高木左馬助8千人於築後川壓迫。 此時豐後大友軍朽網鑑康率野上清四郎來援與道雪、紹運三大將共9千8百餘兵力分為兩軍對抗,以朽網鑑康一隊往西牟田壓制北方國人眾,道雪和紹運則於高良山西北方的築後川和寶滿川交接處的小森野一地布陣,紹運以家臣伊藤總右衛門、福田民部少輔5百兵為先鋒但不敵筑紫廣門、後藤家信等龍造寺軍的優勢兵力,紹運因此後退引誘,激戰之時紹運以其剛勇的家臣萩尾治種(萩尾大學)、成富左衛門一千五百騎從龍造寺軍側面筆直突入造成其勢虛弱,後藤、筑紫無法阻止軍勢崩壞兵卒竄逃,道雪3千兵則迂迴至北野村從側面攻擊,追擊渡過築後川至肥前鳥栖、十三部野一地,討取1百87餘名戴甲武士。此戰為小森野之戰。 後大友軍以紹運率豐後日田、玖珠、國東、南部各郡2千兵以野上清四郎為先陣,在築後川上游之一的筒川,沿川邊擺「長蛇之陣」後陣擺「雁行之陣」,又以朽網鑑康布陣於高良山腹以「鳥雲之陣」(形容如鳥群集散於雲層之間,為臨機應變的陣型)潛伏,而道雪率第二陣以小野鎮幸、由布惟信為首率京都鎮安、萩尾治種2千兵為「浮武者」(游擊兵,潛伏並見機突擊之奇兵)潛伏於野中村為後陣,且高良山座主丹波良寬也率法師武者大祝保真、宗崎孝直、稻員安守等7-8百兵力參陣於後備。兩軍以足輕隊開戰,後紹運以200挺鐵砲橫一列猛烈射擊,龍造寺軍也從高良山左側出擊,於十三部野一地野上清四郎捨身碎骨奮勇突進立下一番槍,激戰之時紹運退後,挑釁引誘龍造寺軍追擊並三度反擊討取多人,同時第二陣小野鎮幸、由布惟信與後陣京都鎮安、萩尾治種又從側面突擊斷絕敵軍後路,紹運又將右翼的先陣兵力以長槍加入攻勢,此時先陣後陣的騎兵整齊一列軍勢並進突擊,道雪更突馳追擊至敵本陣前的祇園原,龍造寺的騎馬武者多數陷於田地遂敗,損失2百83名戴甲武士。此戰為十三部野之戰。 4月23日,龍造寺家晴、筑紫廣門又率1萬6千餘後備兵力進攻高良山,於高良川沿堤防分五段軍勢。道雪、紹運、察知龍造寺軍的行動,與良寬、蒲池氏合併8千兵力布陣於祇園原,並將兵力二分,於各處配置伏兵。道雪此次親自為先陣大將,並配置由布惟信、十時惟由、十時連貞為先鋒,安東連忠、內田鎮家、竹迫連種、綿貫吉兼為後陣,高良山法師武者良寬等則隔軍配置做為後備。道雪擺出約120-200挺鐵砲,只要敵軍一接近就只發射20-30發威嚇,而龍造寺軍約7-800挺鐵砲卻因此連發,由於龍造寺軍於山間擊出多發鐵砲造成煙霧瀰漫視界不良並且受回音干擾,道雪的鐵砲隊則因為控制得當沒有受到硝煙影響,而龍造寺軍卻在這不利的狀況憑其大軍猛烈突擊,先鋒的惟信、惟由、連貞遂趁此狀況進行突擊並偽退誘敵,一度將其先鋒擊退後,龍造寺軍交替後陣不知是計猛烈追擊、道雪也加入後陣安東連忠等兵力,兩軍進入激戰被形容有如萬雷震盪,此時道雪立起馬印吹起法螺貝大為鼓舞軍勢,下令分二隊以由布惟信、十時惟由、十時連貞、內田鎮家、竹迫連種從側面突擊,此時十時連秀、綿貫吉兼、後藤種任(後藤新五兵衛)、野上清四郎等揮槍討取龍造寺方不少有功的武士,同時以「鳥雲之陣」潛伏已久的朽網鑑康也突然襲擊,龍造寺軍潰散直至中軍,龍造寺家晴、筑紫廣門無法控制敗勢,道雪追擊約2町距離後引退,而龍造寺軍又重整軍勢反擊之時,紹運和良寬之伏軍又從森林兩旁出現以弓、鐵砲猛烈攻擊,打擊龍造寺軍反擊之軍心,使其受三方圍攻大敗。此為祇園原之戰。 以上小森野、十三部野、祇園原三戰統稱築後久留米合戰(又稱為筒川合戰)是為道雪最後一次大戰役,也是其引用『孫子兵法』的「奇正戰術」最為代表性的一次戰役,其戰績被評價可媲美孫子、吳子。(此戰記載於『大友興廢記』、『九州諸將軍記』、『築後國史』、『高良山物語』等九州方面史料。) 死亡 就在大友軍與龍造寺軍鷸蚌相爭之時,島津家逐漸漁翁得利侵占兩家領地,此時龍造寺家以及一眾築前國人國人眾逐漸附屬於島津家,大友軍持續攻防至6月初,道雪開始發病,紹運因此將軍陣移至高良山下的北野村,9月道雪病狀惡化,在對家臣說:「把我的遺骸穿上甲冑並面向柳川城埋於高良山上,如果有人違背此事,那麼將世代遭受詛咒!」後於9月11日病逝世,年七十三歲。 出處 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臼杵鑑速 Usuki Akihaya(1520年-1575年) 臼杵長景的次子,初名鑑景,取自大友義鑑「鑑」字和父親長景「景」字,後改名為鑑速,法名富春院殿威翁宗勢居士。 父親長景在當初的朽網親滿之亂中表現活躍因而被拔擢為加判眾,更在享祿元年(1528年)加封為速見郡山香鄉的代官,在長景死後,其加判眾的地位由長子鑑續繼承,而鑑速則是在外交與貿易方面為大友家盡力。 天文八年(1539年),大友家嫡子鹽法師丸(大友宗麟)元服,受將軍足利義晴賜偏諱「義」字,名為義鎮,為此當主大友義鑑特別修書回禮由臼杵鑑速帶著太刀、馬、黃金等重禮上洛獻給義晴。之後在天文十六年(1547年)時促成和四國大名一色義晴的婚盟,讓義鎮迎娶了義晴之女。 同時身任志摩郡代對周邊的在地領主進行安撫將其收為與力,替大友家在築前西部勢力的安定盡力。天文十九年(1550年),大友義鎮察覺到父親義鑑想廢掉他另立三弟鹽市丸的想法,遂先透過軍師角偎石宗勸服了包含臼杵鑑續、鑑速、吉岡長增、吉弘鑑理等重臣,然後迅雷不及掩耳地發動了那令九州震驚的二階崩之變,大友義鎮協重臣津久見美作守與田口藏人,襲擊大友義鑑的居所親手弒父殺弟,將大友義鑑、義鑑的女兒、鹽市丸和他的生母全數殺害,奪取君位,成為大友家第二十一代當主。並且向反對他繼位的叔父菊池義武發動攻擊,親率大軍壓境,陣中臼杵鑑速擔當第五軍的副將協助吉岡長增率領海部、宇佐郡眾出陣和上妻鎮房及蒲池鑑盛合力掃蕩了上下築後的親菊池派。 在義鎮奪位之後,臼杵鑑速在大友義鑑的遺命指定下擔任管理大友家重要書籍和日記箱的奉行,同時鑑速因為早先已經和義鎮取得默契,亂後其地位不變,臼杵鑑速也在天文二十一年(1552年)陶晴賢殺害大內義隆後仲介義鎮之弟八郎晴英繼為第三十二代大內家督,是為大內義長。弘治三年(1557年),臼杵鑑速在宗麟政權之中升任加判眾的要職,與吉岡長增、吉弘鑑理並稱「豐後三老」並將名字由鑑景改為鑑速。 嚴島會戰後,大內家在中國的勢力遭到毛利元就侵吞而全數瓦解,義鎮之弟大內義長更在且山城籠城時切腹自殺,意圖奪下大內舊領的大友義鎮和希望指染博多的毛利元就之間的衝突以勢不可擋,兩家正式開戰。在永祿至元龜的這段期間,臼杵鑑速和戶次鑑連、吉弘鑑理等分別擔任各地軍總司令官的勤務,於豐、築、肥等國出陣和毛利家及依附其下與大友為敵的秋月、原田、筑紫、高橋、立花諸氏展開一連串的戰鬥,因功被封為玖珠郡方分〈方分為大友家的特別職銜,相當軍團長之意〉,同時仍兼任外交職務,於永祿二年(1559年)替宗麟修禮上奏向將軍足利義輝獻上三千貫以補任豐前、築前、築後的守護職。 永祿八年(1565年),毛利元就成功策反了大友一族築前立花城主立花鑑載後,寶滿城主高橋鑑種和本來還降服於大友家之下的的筑紫氏、秋月氏紛紛樹起反旗,倒向毛利家。臼杵鑑速與戶次道雪、吉弘鑑理、志賀親度諸將在大友宗麟的授意下率領兩萬大軍出兵征討,於翌年先是攻陷高橋鑑種的巖屋城,逼降五箇山城的筑紫惟門,同時臼杵鑑速還前往博多勸說神屋宗浙勿要放棄博多,讓他重新歸津經商。臼杵鑑速與戶次道雪、吉弘鑑理再度率兩萬大軍出陣,在甘水、長谷山與秋月軍七度激戰,之後猛攻入秋月氏的邑城,迫使秋月種實轉進古處山城。 當時大友軍布陣於莊山,遭到秋月種實的四千奇兵夜襲陷入苦戰,最後是戶次道雪親自殿後抵擋秋月軍的追擊,吉弘、臼杵兩隊方安然撤往築後。永祿十一年(1568年),臼杵鑑速、戶次道雪、吉弘鑑理等再度出兵攻打立花鑑載的立花城,鑑載兵敗自刃,立花山城才重新回到大友家手中。 元龜二年(1571年),臼杵鑑速被大友宗麟封為肥前方分的職務,之後在天正元年(1573年),大友宗麟所派遣的南蠻貿易船歸國之際行經島津家所屬的港口時遭當扣留,最後也是由長期負責大友家外交貿易事務的臼杵鑑速前往進行交涉,贈送了伊集院忠棟鎧甲一領,發揮其圓滑手段將事情解決。 臼杵鑑速辭世於天正三年(1575年)五月八日,年五十五歲。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&parent=151&sn=367&lorder=17&ptitle=%E4%BA%BA%E7%89%A9
菊池義武 Kikuchi Yoshitake(1505年-1554年) 肥後国の名族菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身で、大友重治とも言う。菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持っており、菊池氏の血を引く人物でもある。 豊後国の戦国大名大友義長の次男として生まれた。その頃、隣国である肥後の菊池氏では家督を巡って内紛を続けていた。大友義長は最初は当主である菊池政隆を支持する姿勢を見せていたが、裏で菊池氏の家督を狙う阿蘇氏出身の武経を支援、やがて公然と筑後国・肥後国に侵攻して政隆を滅ぼしてしまった。ところが、更にその裏では武経を追い落として菊法師丸(後の義武)を菊池氏の当主にして同氏を乗っ取る工作を進めており、永正7年(1510年)には相良氏に武経排除への協力を求めている。 永正8年(1511年)に菊池武経は家中の権力闘争に嫌気が差し、矢部に逃亡。永正10年(1513年)、武経は阿蘇氏の家督を弟の惟豊から奪還した。一方、大友義長は菊法師丸を菊池氏の後継者にするように菊池氏の重臣や傘下の国人に公然と働きかけ、菊法師丸に代わって所領の安堵を約束し始めた。だが、義長は永正15年(1518年)に病死してしまう。 大友氏当主は義長の嫡男で菊法師丸の兄である大友義鑑が継いだが、義鑑も肥後に勢力を拡大するために肥後に多大な影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡を詫摩氏出身の武包に継がせ、弟・重治の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。 永正17年(1520年)に武包から家督を譲られて当主となった。重治は享禄4年3月9日に従四位下左兵衛佐に任じられ(『歴名土代』)、天文3年(1534年)までに義国を経て義武と名を改めた。この間、義武は兄・義鑑の方針に従って城氏・赤星氏・隈部氏と言った菊池氏庶流の重臣を老中(家老)から外して大友氏から連れてきた重臣と鹿子木氏や田島氏などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる。 だが、義武は天文3年(1534年)に大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄に反抗し独立する。兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、滅び行く菊池氏再興を願った為か、明確な理由は不明であるが、義武は大友氏当主に未練があり、筑後国領有という領土的野心もあったことが原因だと思われる。一方、義鑑からすれば、肥後を自分のものとするための道具である筈なのにそれが自らの意思で動き出すことは容認できない事態であった。 義鑑はかつて大友氏から義武の老中に派遣されていたことのある山下長就をはじめ、吉岡長増や田北親員らを派遣して筑後から肥後に向けて進軍させた。だが、室町幕府の仲裁によって大友義鑑と大内義隆が和平を結ぶことになると、支援を失った義武の敗北は決定的になった。義武は、肥前国の高来に亡命し、結局姻戚の相良氏を頼って落ち延びた。天文9年(1540年)に相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した。一方、大友義鑑は肥後の直接統治を決意し、天文12年(1543年)には幕府に働きかけて肥後守護職を獲得した。 天文19年(1550年)に義鑑が二階崩れの変で横死すると、鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び隈本城を奪還した。さらに、二階崩れの変をきっかけに豊後国内は内乱に陥ると予測して相良氏・名和氏・三池氏・溝口氏ら肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した。しかし甥の大友義鎮(後の宗麟)は直ちに国内の混乱を鎮圧すると、義武を一族から義絶する旨を表明して大軍を派遣、隈本城は落城して島原に落ち延びた。義鎮は義武討伐に協力した阿蘇氏との関係を強化し、これまで排除の対象であった城氏・赤星氏・隈部氏を取り立てることで肥後支配の安定を確立させることになる。 相良氏当主の相良晴広は、薩摩国の島津忠良に、義武と義鎮の和睦周旋を依頼するなど努めたものの講和は成らなかった。また、義武は天文23年(1554年)に剃髪して日向国か薩摩に亡命しようとするも果たせなかった。同年11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗り豊後へ向かうが、その途上直入郡木原で義鎮の家臣立花道雪とその配下由布惟信、安東家忠、安東連忠、小野信幸の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた。享年50。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実共に滅亡した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E7%BE%A9%E6%AD%A6

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