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三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、滝川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、上杉景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家
壬生綱房 Mibu Tsunafusa(1533年-1590年) 父である壬生綱重が鹿沼城を任されるようになってからは、綱房は壬生城主となった。永正6年には1509年に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。永正9年に起きた宇都宮錯乱の時も父に従い成綱方だったと思われる。永正17年(1520年)には、浄宝寺縄吊し合戦で那須氏の居城である山田城を謀略で落とすなどの功績を上げている。 大永3年(1523年)に皆川氏との間で起こった河原田合戦では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対しており宇都宮軍の退路を遮断したという。同年、主君・宇都宮忠綱が結城政朝との対立で猿山合戦で敗北し、成綱の三男である芳賀興綱が宇都宮城を乗っ取り、主君・宇都宮忠綱を追って家督を簒奪した際には綱房は忠綱派だったため、忠綱を居城に保護した。しかし、その後、忠綱を見限り、興綱らと裏で繋がり忠綱を暗殺したという。その後は芳賀高経・芳賀高孝ら反忠綱派によって擁立され、宇都宮宗家の家督と継いだ宇都宮興綱に仕えている。 この頃から野心をむき出しにしており、忠綱没後、綱房は日光山を掌握しようと、二男・座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄期の頃に日光山御神領惣政所となり、日光山の統治者となった。日光山岳の宿の改修や鹿沼の今宮権現の造営など日光山の統治者しての活動に尽力した。 反忠綱派によって擁立された興綱は当時10歳と若年であり、芳賀高経は興綱を傀儡として扱い宇都宮錯乱で失った権力を取り戻し、綱房もそれに乗じて瞬く間に権力を増大化させていき、興綱の代に宿老の地位を固めた。 興綱が成人して独自の行動を取るようになると綱房は芳賀高経とともに興綱と対立。一度は宇都宮家臣の赤埴氏・戸祭氏らの取り成しによって和解したが、その後再び対立した。天文元年(1532年)に芳賀高経、芳賀高孝と手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し、強制的に隠居させ、今度は成綱の二男である宇都宮俊綱を擁立する。さらに天文5年(1536年)には高経とともに興綱を自殺に追い込んだ。 また、綱房は天文元年(1532年)に鹿沼城の大改築を行い、城を山城から平山城とした。 天文期の頃になると綱房の権力の増大化によって壬生氏の地位は芳賀氏、益子氏に次ぐ相当なものになっていた。壬生領に隣接している小山氏の当主小山高朝が白河結城氏の結城義綱に心苦しいと書状を送ったほどであったという。また、同時期に綱房に対して危機感を抱いた芳賀高経と不和になる。綱房は興綱自害の一件で高経と関係が悪化している当主宇都宮俊綱に接近し高経と対立。綱房は高経の謀反の噂を流したとされる。高経が宇都宮氏と敵対している小山氏と関係を持ち始めたことをきっかけに天文10年(1541年)、古河公方足利晴氏・小田政治・佐竹義篤らとともにこれを滅ぼしている。 天文11年(1542年)、綱房の二男・座禅院昌膳は、壬生氏の力が日光山に及びすぎることに不満を抱き、久野村に隠居した。それに対し綱房は昌膳の謀反の噂を捏造して広めさせ、嫡男の壬生綱雄に攻めさせ、これを滅ぼしたという。 高経がいなくなったことで綱房を抑えられる者はいなくなり、壬生氏は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した。 天文18年(1549年)喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱が戦死すると混乱に乗じて宇都宮城を占拠した。綱房は那須氏と和議し芳賀高経の子・芳賀高照を宇都宮城に招いて共同政治体制をしいた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。 綱房は壬生城に嫡男の壬生綱雄を置き、今まで居城だった鹿沼城に弟の壬生徳雪斎を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子伊勢寿丸を保護している芳賀高定のみとなった。 天文20年(1551年)、反乱の起きた結城氏のために古河公方から援軍を要請された時には、嫡男の壬生綱雄を総大将にして出陣させた。この合戦には弟の壬生徳雪斎も従軍していたという。乗っ取られる前の宇都宮氏に匹敵する3000もの兵を動員し、大勝利する。この大戦果によって周辺国に壬生氏の勢いを見せつけることができた。 綱房は、着実に旧宇都宮領を侵攻し壬生領として版図を拡大させ、綱房に敵対する多功氏、今泉氏、芳賀氏を牽制した。塩谷氏はどちらにもつかず中立な立場をとった。 天文24年(1555年)芳賀高照が芳賀高定の謀略によって殺された後に綱房は急死した(芳賀高定による謀殺とも)。綱房没後は嫡男綱雄が宇都宮城に入った。また、弘治3年(1557年)には、綱雄が守った宇都宮城も高定を始めとする宇都宮勢に奪還された。
多功長朝 Takou Nagatomo(1485年-1558年) 下野国の大名、宇都宮氏の家臣。多功城城主。多功氏は宇都宮氏の庶流である。多くの合戦に出陣し、活躍しており、宇都宮家中一の侍大将といわれている。父は多功建昌。子に多功房朝(房興)、多功綱継がいる。 多功氏は代々、宇都宮氏の重臣として多功城に拠り、数多くの合戦に出陣しており、宇都宮氏の有力武士団紀清両党、大須賀党と並び、宇都宮氏の武を支えた。 天文18年(1549年)那須高資との喜連川五月女坂の戦いでは宇都宮軍の先陣として奮戦し、大功を挙げたが、宇都宮尚綱の討死によって敗北している。 弘治3年(1557年)、宇都宮氏の忠臣芳賀高定の活躍によって壬生氏の壬生綱雄から宇都宮城を奪還して間もなく、永禄元年(1558年)に上杉謙信が会津の蘆名盛氏らと連合して上野国から下野国に侵攻してきた。小山氏の祇園城、壬生氏の壬生城を攻略され、多功城を攻撃した際には、これを撃退している。子の多功房朝、家臣の児山兼朝、簗朝光・吉朝父子、石崎通季、野澤保辰、高木道重、上野祐朝、伊澤遠江守、木田淡路守、援軍で駆け付けた祖母井吉胤、矢板長則などが多功氏側の主な将だったという。先陣の佐野豊綱を討ち取るなど数多くの武将を討ち取る活躍を見せている。さらには敗走する上杉軍を追って上野国上州白井まで追いかけて追撃したが、太田資正の仲介によって和睦となった(多功ヶ原の合戦)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%8A%9F%E9%95%B7%E6%9C%9D
大田原資清 Otawara Sukekiyo(1486年-1560年) 父胤清とともに永正11年(1514年)上那須家の相続争いで、幼主那須資久を擁し、那須資永を攻め滅ぼしたが、その際不慮の事故で資久をも失い、上那須家は断絶、下那須家から那須資房を当主として迎えることになる(統一那須氏)。 資清は智勇に優れ、上記の上那須家のお家騒動の際にも活躍し、資房からは名の一字を与えられるほど信任された。しかし、その優れていた智勇を周囲に危険視され、永正15年(1518年)、同僚の大関宗増の讒言を受けて失脚、出家した。僧になっていた兄の縁をたよって永平寺に潜み越前朝倉氏の保護を受けたともいう。 天文11年(1542年)に復帰し、宗増の嫡男・大関増次を謀殺し、長男・高増を大関氏へ養嗣子として送り込んだ。さらに福原氏にも次男・資孝を養嗣子として送り込み、資清は那須七騎の内の大田原・大関・福原の三家を支配し、那須家中でも最有力の実力者となった。資房の子那須政資に自分の娘を娶わせるなど、主家との繋がりも深めた。外孫資胤の家督相続を図って、政資の子那須高資と対立し。 天文20年(1551年)、芳賀高定の調略に加担した千本資俊により高資が誘殺されると、孫である資胤を当主に据え権力をふるった。 永禄3年(1560年)、死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%B3%87%E6%B8%85
宇都宮広綱 Utsunomiya Hirotsuna(1545年-1576年) 宇都宮尚綱の子。母は結城政朝の娘。幼名は伊勢寿丸。正室は佐竹義昭の娘・南呂院。子に宇都宮国綱・結城朝勝・芳賀高武。 天文14年(1545年)に誕生。戦国時代、下野国は伊勢信仰が流行しており、その影響を強く受けていたためか、幼名は伊勢寿丸である。 天文18年(1549年)、父・尚綱が喜連川五月女坂の戦いで敗死すると、宿老・壬生綱房が野心を剥き出しにし、宇都宮城を乗っ取ってしまう。綱房は芳賀高経の子芳賀高照を傀儡として利用するために当主として迎え入れ、塩谷氏などの宇都宮重臣らを従え、広綱に敵対する。そして下野各地を侵攻し、統一に乗り出す。大永の内訌から始まった宇都宮氏の衰退はピークを迎え、滅亡の危機に晒された。 当時、広綱は5歳という幼少であったため、家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延び、真岡城にて高定の補佐を受けて育つ。2年後の天文20年(1551年)、芳賀高定が謀略を駆使して父の仇である那須高資を殺害。弘治元年(1555年)には、高定が反抗的な家臣芳賀高照を真岡城へ誘い出して暗殺。さらに同年、宇都宮城を占領していた壬生綱房が急死したが、綱房の嫡子の壬生綱雄が新たに宇都宮城主になっている。この間も壬生氏による激しい侵攻が続いており、祖母井城、八ツ木城などが落とされている。その後、高定の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、外交手腕によって北条氏康を味方につけ、弘治3年(1557年)、氏康の命で広綱・高定を支援するために佐竹義昭が5000騎の兵を連れて下野に出陣し、飛山城に在陣したという。芳賀高定の尽力によって宇都宮城は広綱の手に戻り、滅亡を回避することができた。 永禄元年(1558年)には越後上杉勢が下野に侵攻してきたが、家臣の多功長朝の奮闘によって撃退に成功している。 その後、家臣の芳賀高定の外交手腕によって佐竹義昭の娘南呂院を妻に迎えており、強固な同盟関係が築かれた。広綱は上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。永禄7年(1564年)には上杉謙信、佐竹義重と共に北条方の小田城主・小田氏治を小田城の戦いで敗走させている。 広綱は生来病弱であり、元亀3年には花押も押せないほどにまで病状が悪化していた。宇都宮氏の重臣皆川俊宗はこの状況を利用して宇都宮城乗っ取りを計画する。武田信玄、北条氏政による甲相同盟の締結によって、下野南部が北条、武田の二大勢力によって脅威に晒されることになったことが俊宗による宇都宮城乗っ取りが起こった主な原因である。 元亀3年(1572年)1月14日の夜、上杉謙信との外交を任されていた宇都宮氏の筆頭重臣岡本宗慶が俊宗によって暗殺され、その翌日、宇都宮城は皆川氏によって占拠された。占拠されてから約1年間の間は皆川俊宗が宇都宮氏の主導権を握っており、俊宗は徐々に後北条氏寄りの立場を取るようになる。このために一時的だが、宇都宮氏は北条氏に屈した形となった。 元亀4年(1573年)には同盟国の佐竹義重らとともに、皆川氏討伐を行っている。 天正4年(1576年)8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BA%83%E7%B6%B1
水谷正村 Mizunoya Masamura(1524年-1598年) 水谷治持的長子,妻為結城政勝之女-小藤姬,拜領結城政勝「政」字,又名水谷政村,法號蟠龍齋。 水谷氏源於藤原秀鄉的後裔近藤太能成之子能直,在能直隨源賴朝出征奧州時積功領田村莊地頭一職,之後其弟仲教繼承所領稱田村氏,到了仲教之孫重輔之時移封至近江犬上郡水谷鄉,遂又稱水谷氏。後來重輔之子清有領陸奧行方郡猿田七鄉,而居於猿田。 在南北朝時代裡,水谷氏隨結城朝祐跟從足利尊氏屬於北朝方,後在水谷勝氏擔任家督時輔佐結城成朝為回復舊領一事盡力,事後因功位列重臣之座,獲得長沼十二鄉、伊佐三十三鄉、中村十二鄉的領地,於長享元年(1487年)築下館城移居伊佐郡,與山川、多賀谷、巖上三家合稱結城四天王。 天文八年(1539年),武藏吉見城主大串武成、重義父子投向相模北條家,古河公方足利晴氏派遣近臣野渡光時領討伐,名義仍是古河公方臣下的結城政勝於是也出兵支援,由水谷治持和多賀谷家重領軍攻打大串領。此戰是水谷正村的初陣,役中年方十六歲的水谷正村隨父水谷治持出戰,擔任水谷勢的殿軍。當時大串氏也帶兵出戰與水谷、多賀谷軍在吉見、古河國境交接之處遭遇野戰,三百多賀谷軍與四百大串軍正面交鋒,另外二百水谷軍則自側面進襲,經過三日的死鬥水谷、多賀谷軍終擊潰大串氏,大串武成敗回城中自刃,而正村也於戰中討取了武成重元、侍大將田谷右兵衛尉以下等四十八顆首級。 大串合戰之後,水谷治持宣告隱居將當主之位正式交付給正村,同時在結城家中水谷、多賀谷兩族之間的關係卻日益惡化,此事起因為多賀谷家重在大串合戰中取得了大串武成的首級,時常吹噓戰勝之功全在多賀谷氏,輕視水谷軍的戰功,新接任家督之位的水谷正村自然不能忍氣吞聲墮了家威,於是兩人時起口角。當時多賀谷氏所領約有六萬石,水谷氏則只有一萬二千石,天文九年(1540年)時多賀谷氏的執事成田知虎過度無禮,惹怒水谷家臣鶴見內藏助,雙方爆發武力衝突,多賀谷家重遂領兵急襲下館城攻打水谷氏,兩軍在城下展開激烈的戰鬥。兩門重臣未抗外敵,反同室操戈的消息很快便傳入主家結城政勝的耳中,於是連忙派出使者居間介入,才讓兩家罷手,達成和議。 天文十三年(1544年),二十一歲的水谷正村迎娶了主君結城政勝的女兒小藤姬,拜領「政」字,又名水谷政村,同年出兵水谷、宇都宮領之間國境線上的中村城,然而鎮守著中村城的是宇都宮家屈指可數的猛將中村日向入道玄角,中村玄角以嫡子時長迎戰水谷正村,一度將正村往下館城方向迫回,水谷正村也刻意讓忍者散播出水谷軍敗象已現的風聲,使戰勝的中村父子志得意滿地在夜晚時召開酒宴,而水谷正村也伺機於中村城兵將酒酣耳熱之際率三百精兵夜襲,一夜之間逆轉勝敗情勢將中村父子擊敗,中村玄角被石垣落石打中身亡、中村時長逃向宇都宮家,水谷正村一舉攻克了中村城。為了防備宇都宮方的反擊,水谷正村在國境線上另築久下田城,並親自移居於和宇都宮家相接最前線的久下田城,把原來的本據下館城讓渡給三弟勝俊。 翌年天文十四年(1545年)二月,水谷正村的妻子小藤姬因為難產在生下女兒後過世,悲痛的正村遂在久下田城修建蟠龍齋芳全寺,同時結城家的乘國寺剃髮出家法號蟠龍齋,然而就在他為亡妻進行祭祀之時宇都宮方重臣芳賀高定的一門眾八木岡貞家亦受命出征還在修建的久下田城,水谷正村親自率兵出城進行游擊戰,待八木岡貞家攻城時由八木岡軍背後出擊,搭配家臣平澤七郎、村田治衛門統領的城內守軍兩邊挾攻,使八木岡貞家敗戰潰走。同年九月,適逢正村之父治持的忌日,八木岡貞家覬得此機,於忌日當天再度領二百騎兵出襲水谷勢。八木岡貞家的趁虛而入早在正村的意料之中,於是在祭奠之處設置陷阱並在八木岡貞家的退路上安置伏兵,待八木岡貞家殺入一瞬間陷阱隨之發動,令八木岡軍受創不少,同時水谷正村的伏兵也由後方襲來,八木岡貞家當下遭到水谷軍討取,水谷正村在取得八木岡貞家的首級後,以此開路領兵直取八木岡城,拿下了原屬於八木岡貞家的八木岡城。 中村、八木岡兩城相繼淪陷後,宇都宮家當主尚綱為了維持邊境領土的幅員針對水谷氏,於天文十五年(1546年)派遣武田信隆率三千兵馬前往攻擊久下田城,自知本身兵力不足以與宇都宮家主力軍相抗衡的正村遂向主君結城政勝求援,水谷正村匯聚了結城政勝的三百援軍後,將鶴見內藏助、平澤七郎統領騎兵七十人、步兵五百人隱於境內的芳全寺,叔父水谷治持五十騎兵及步兵五百人北方的大木戶,結城家的三百援軍,一百配置於西方的木戶、一百配置於南方的木戶,剩下的一百人則和水谷正村親自率領的五百騎兵鎮守城中。進入水谷領的武田信隆首先攻擊北方的大木戶,水谷治持不敵轉進城中,武田信隆領兵長驅直入,但是與水谷正村匯集兩軍後組成完整陣形使武田信隆一時難越雷池,而左右兩邊的結城援軍一齊殺出,令宇都宮軍陷入三方夾擊,就在宇都宮軍漸漸後退時芳全寺的水谷伏兵立時出擊,宇都宮軍終於全潰,總大將武田信隆以下秋山三右衛門等三百人陣亡,己方更只有戰死騎兵二十八人、雜兵八十餘人的小損失,這也是水谷正村初次將洋槍用於戰場上。 天文十六年(1547年)五月,多賀谷氏在小田政治奧援下反出結城家於下妻自立,多賀谷重政、政經父子更與小田家的軍勢聯合出兵結城領,但是卻為結城政勝於關郡擊敗,翌年水谷正村在結城政勝的命令下與真壁氏朝聯手逼進下妻攻打多賀谷氏,多賀谷重政、政經父子戰敗降服。天文十七年(1548年)二月,小田政治辭世,水谷正村成功說服真壁城主真壁氏幹取消跟小田氏的盟約轉而和結城氏締盟。弘治二年(1556年),結城政勝動員水谷正村、山川氏重、巖上但馬守、多賀谷政廣等家臣集結軍勢加上古河公方、北條家的援兵以三千士兵包圍小田家的海老島城,並在山王堂截擊前來援助海老島城的小田氏治獲得大勝,小田軍戰死近五百人,小田氏領中郡四十二鄉、田中莊、海老島、大島、小栗、沙塚、豐田全為結城家所奪。 永祿二年(1559年)八月,結城政勝病故,結城家迎小山高朝之子晴朝為新當主。隔年,上杉謙信以身為關東管領之名義在佐竹氏的要請下擁上杉憲政兵進關東平原,本來傾向北條家的主君結城晴朝在水谷正村的勸說下倒向上杉方,正村之弟水谷勝俊也附上杉軍驥尾參加攻打下總臼井城,而水谷正村也在結城晴朝麾下與多賀谷氏、山川氏一同參加圍攻小田原城。在上杉謙信退兵後,關東一帶北條家勢力再次興起,此後兩家勢力在關東時有變化消長,而結城晴朝也就在其間首鼠兩端、搖擺不定。 永祿十一年(1568年),時年四十七歲的水谷正村隱居把家督寶座讓給親弟勝俊,但是正村依然活躍於結城家的各處場合中,除了以猛將之名威揚四鄰外,施政上每逢欠收之年便減免年貢的三分之一,因善待領民而廣泛獲得人民的愛戴,並修繕破損的神社佛閣,同時引進白木綿和宇治的茶種提升領國的產業育成。並於外交方面與織田信長、德川家康結交,獻上獵鷹、駿馬,獲得信長回贈的唐物茶入、陣羽織。天正元年(1573年),多賀谷政經再度反出結城家,但為水谷正村於野殿不動阪擊敗,之後多賀谷政經與佐竹、宇都宮、小田圍攻當時和北條家親善的結城家。天正二年(1574年),結城家在宇都宮、佐竹氏的軟硬兼施下投向上杉家,北條家遂於天正五年(1577年)由當主氏直親自發兵,連同父親氏政、叔父氏照攻打結城家。水谷正村、勝俊兄弟聞訊後立即聯合同在反北條陣營中多賀谷氏一起出兵援護主家,其後佐竹義重、宇都宮國綱、那須資胤也都陸續發兵參陣抵抗北條家,最後在上杉軍亦出發來援後,北條家終退兵撤走。 天正六年(1578年),反北條陣營的大黑柱上杉謙信腦溢血身亡,多賀谷重經於翌年再次對結城領發動攻勢,將關郡的大半收入其支配之下,就在重經想收割更多戰果時,水谷正村已然出兵於雛子阪阻其攻勢,在連續四日的戰鬥裡水谷正村以勇猛突進的戰術,硬生生逼退了本在兵力上佔有優勢的多賀谷重經。 天正十年(1582年),織田信長亡於本能寺,為了爭奪其遺領甲斐、信濃、上野,德川、北條兩家於甲斐對陣,期間水谷正村也做為德川方的援軍出兵至甲斐參陣,在新府城謁見德川家康。在德川、北條兩家達成協議締結婚盟,家康將女兒督姬嫁給北條當主氏直由德川家獲得甲信兩國、北條家取上野,德川家不進入關東。信長之死讓北條家在關東的勢力越見穩固,於是結城晴朝在此大勢下再次和北條家交好,水谷正村也因此受命在北條家攻打下野南部時,北上攻打從屬於宇都宮家的笠間氏。 宇都宮家中益子氏與笠間氏由於領地鄰接,在重疊連接之處時有紛爭,結城晴朝見縫插針誘降益子氏並以加藤大隈守父子為援協助益子重綱和笠間氏交戰,在益子氏為笠間氏擊敗後水谷正村便趁笠間氏攻略益子氏的金敷城之際出兵攻打笠間氏的本據田邊城,當時田邊城中只剩羽石時政、時義兄弟及百餘名城兵留守根本不是水谷正村的對手,被水谷軍先鋒鶴見俊行一戰破之,羽石時政更在肉搏戰中被水谷正村親手討取。 天正十四年(1586年),佐竹義重為協助宇都宮家壓制結城家以客將常陸片野城主太田三樂齋資正率長倉遠江守、真壁安芸守等三千兵馬侵攻水谷領,太田資正乃是曾經在上杉家中曾經打過、「川越夜戰」、「國府台合戰」等萬人大戰的老將,之後協助上杉謙信圍攻小田原城轉戰關東,名聲遠播。結城家臣片見伊賀守於太田軍途中在板敷山布防迎戰,但是被太田資正輕易攻破,伊賀守兵敗自殺。水谷正村在向主軍結城晴朝借來援軍後率一千二百騎由下館城出戰,將戰場拉至常陸大和村西部的弓袋卡,水谷正村親率五百士兵為主陣以水谷勝俊率領三百人擔任先鋒、第二隊水谷五郎率二百人經小栗路越過富谷、水谷四郎率二百騎走大國玉之道。而太田資正則以長倉遠江守領五百騎配置在櫻川,一開始雙方隔櫻川互相以弓矢交鋒,之後水谷五郎溯櫻川上游而至,水谷四郎也從犬田的山路轉北進入戰場,使長倉遠江守受到三方面的壓迫,於是太田資正讓太田六郎率三百騎壓制水谷五郎的軍隊,然後親率兩千兵力投入戰場,同時水谷正村也將所率的主力加入戰事,當兩軍各自重新整頓陣形後,太田六郎領一千兵由東與下館方的水谷勝俊交戰、此外長倉遠江守也領七百騎應戰西進的水谷五郎軍。太田三樂齋資正親身帶領一千五百軍勢與水谷正村的主力軍決戰,戰後雙方各自退卻,水谷氏討死五十餘人,太田軍則陣亡了二百之眾。 之後宇都宮國綱為了收復田邊城而出兵,水谷正村迅速反制以水谷五郎為先鋒率三百人出陣上三川,水谷勝俊擔當副將七百士兵經由長田行軍替水谷五郎押陣,然後親率一千兵士正面迎戰三千宇都宮軍。不過就在開戰前夕結城晴朝居中調解令兩軍罷戰。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉集結大軍出兵北條氏,包圍小田原城。水谷正村、勝俊兄弟與主君結城晴朝透過多賀谷重經仲介前往石垣山城拜謁豐臣秀吉參陣,戰後論功行賞得到所領常陸、下野三萬二千石安堵的朱印狀。慶長三年(1598年)六月,水谷正村於久下田城病逝,享壽七十五歲。之後其弟勝俊在關原之戰中加入東軍並協助牽制佐竹義宣,戰後加封下館四萬七千石,由結城家中獨立出成為一藩大名。 水谷正村在戰國時代中是罕見的少敗之將,受時人稱譽為「常勝蟠龍齋」名馳遠近,水谷正村除了作戰勇猛、悍不畏死外,他活用智計、眼光精準,善待人民令領民願為其效死命都是十分重要的因素。水谷正村曾經留下以家寶換糧食分給領民的逸話,此事雖然不一定為真,但已然可見他不但在戰場上善戰,同時也是一位擅長治理內政的領主,所以才會贏得人民的歌頌。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/67315206/1
芳賀高定 Haga Takasada(1529年-1588年) 益子勝宗的三子,通稱紀十郎,本名益子宗之,繼承芳賀氏改名為芳賀高定。 芳賀氏以天武天皇之子捨人親王的九代孫清原高重為遠組,清原高重因故惹怒花山法皇而被流放至下野芳賀郡大內莊,其後代遂自稱芳賀氏,七代孫高親時投入宇都宮家麾下,後於源賴朝的奧州征伐中芳賀氏與益子氏大為活躍,芳賀氏因本姓「清原」被稱為清黨,與紀黨益子氏並稱「紀清兩黨」,乃是家中的重要戰力。 芳賀氏作為宇都宮家重臣威勢日重,在宇都宮家第十七代當主成綱時,芳賀景高擔任成綱的輔佐奉行人,家勢達到極盛,其子高勝繼父位後,更出現了高勝發出文書命令後,再由成綱追認的情形,芳賀氏已顯然有凌駕主家之上的態勢。於是成綱為保衛君權,遂謀害了高勝一脈,並強勢讓其弟興綱入繼。後來興綱謀逆,聯合結城氏攻下宇都宮城,殺害姪兒忠綱奪得家督之位,而高勝之弟芳賀高經也伺機與壬生綱房起兵攻打興綱,逼迫興綱自刃。 興綱死後,宇都宮家由其子尚綱繼承,並於天文十年(1541年)舉兵攻打芳賀氏,芳賀高經也據宇都宮南方的兒山城防守,但在寡不敵眾下戰敗。是役中,益子宗之身為紀黨的一員,隨父親勝宗出戰,於初戰中便立下大功,戰後受到尚綱讚賞,並在勝宗允許後讓益子宗之繼承芳賀氏以為賞賜,改名芳賀高定,獲得真岡城。芳賀高經死後,其長子高照遠走奧州白河,後投入那須家。三男高繼年紀尚幼,芳賀高定遂保護之,將他交由實家益子氏養育。 天文十四年(1545年),芳賀高定受宇都宮尚綱之命由鷺宮出陣,抵御結城家猛將水谷正村的侵攻。天文十八年(1549年)九月,主公宇都宮尚綱應古河公方足利晴氏之邀出兵攻打與北條氏相善的那須家,由芳賀高定負責宇都宮城的居留守役,但是在那須高資的善戰下,兵力佔優的尚綱在五月女阪之戰中遭到奇襲射殺,家督戰死的消息一傳開,宇都宮家頓時大亂,宇都宮家老壬生綱房內通那須家和借得那須家相助的芳賀高照趁亂佔據了宇都宮城,鹽谷郡亦被那須高資所奪,混亂的情勢中芳賀高定仍盡忠主家,竭力保護年僅六歲的幼主,帶同宇都宮尚綱之子伊勢壽丸離開險境,並在壬生綱房遣其子綱雄出兵飛山城追擊時,親自率兵牽制。 天文二十年(1551年),芳賀高定巧妙利用那須家中高資、資胤兄弟間的爭端,居中布計,趁那須高資流放其弟資胤之際,說動支持資胤的那須家臣千本資俊合作,以鑑賞名馬為由邀請那須高資,於宴會中將之刺殺,既是報主君之仇,同時也讓那須家陷入二度易主的重整期,斷去了宇都宮城中芳賀高照的有力後援。同時芳賀高定也遣家臣大島大炊助出兵壬生氏的領地岡本鄉,但是被壬生周長擊退。 為了重興宇都宮家,芳賀高定深知依照現下的情勢,宇都宮家並無力獨自撥亂反正的能力,這是因為宇都宮家終究仍是採取國人眾聯盟制的舊體制大名,家中軍權分散在各地國人眾、家臣、以及宇都宮寄眾手中,幼主伊勢壽丸並沒有足夠的權威與實力號召其協助,反之現下佔據了宇都宮城的壬生氏及芳賀高照看似更有崛起一統下野的姿態,因此芳賀高定轉向周遭大名尋求外援,以傑出的外交手段縱橫於佐竹義昭、江戶忠通、小田政治、古河公方、北條氏康等大名之間,為奪回宇都宮城布置計畫。 弘治元年(1555年),芳賀高定於真岡城舉辦芳賀高經的追善供養法事,並擺出低姿態邀請芳賀高照前來參與,芳賀高照不疑有他,認為這是高定一方的示弱,待入城後隨即被芳賀高定的兵士伏擊,被迫切腹,同年壬生綱房也在宇都宮城中急逝,時人一度疑為綱房亦是為芳賀高定所派遣的忍者暗殺,不過完全找不到任何能證實此一說法的有力證據,況且當時綱房已年過七十,其死亡並不出人意外,因此近代史家多持否定觀點。 翌年,壬生綱房之子綱雄為反制芳賀高定的謀略,以那須家為後盾大舉侵犯芳賀郡,連同宇都宮舊臣鹽谷、西方、今泉等家起兵三千連下飛山、八木、祖母井諸城。但隨即在弘治三年(1557年),芳賀高定便以聯姻換來了佐竹家的介入,並運用計謀策反壬生綱雄的外援那須家,借佐竹、那須、江戶三家援軍,於芳賀郡乙連原大敗壬生軍,並進而奪回宇都宮城,將壬生綱雄逼回鹿沼、壬生兩城,令壬生綱雄送表稱降。戰後芳賀高定依照約定讓時年十五歲的伊勢壽丸元服,改名廣綱,迎娶了佐竹義昭之女為正室,兩家結成姻盟。 奪回宇都宮城後,為重興主家貢獻良多的芳賀高定以宇都宮家宿老掌握了家中大權,但是高定仍然不改忠勤,輔佐幼君行政,宇都宮氏的樑柱支撐大亂後統御力大幅下降的主家,同時也與壬生周長相交,令壬生氏分裂成鹿沼城的壬生綱雄親北條,而壬生城的壬生周長親宇都宮,令壬生家分成兩派,降低其抗力,壬生綱雄也失去自父親以來的重要軍師親叔壬生周長的支援。 永祿四年(1561年),上杉謙信南下關東,芳賀高定作為宇都宮家的代表統領清黨、宇都宮各家國人眾率軍出陣參與攻打北條家。同九年,小田氏治與北條、武田同盟,上杉謙信聯合關東大名孤立小田家,並出兵攻打小田城,宇都宮家也和盟友佐竹、結城、小山一同出陣,由於當主宇都宮廣綱體弱多病,因此仍是由芳賀高定作為代官領兵出擊。 永祿十一年(1568年),在芳賀高定歷戰歸國後,宣佈隱居,將芳賀家名還給一手扶養長大的芳賀高照之弟高繼,讓親子信高改繼承小貫氏,還權於芳賀舊族,往赴小貫隱居,入道號機山道鑒,後於天正十六年(1588年)辭世,享年六十八歲。 芳賀高定一生盡忠宇都宮家,在一片下剋上風潮中,費盡心血收復宇都宮家舊領的芳賀高定,大權在握主導著宇都宮家的國策,曾被世人稱道「廣綱不過是他的影子」,但是芳賀高定卻能謹守本分,安定本家,並且還權於芳賀氏,來去一身清白,能得此智德兼備的賢臣實乃宇都宮家之幸,惟可惜因為宇都宮家之體制,縱然芳賀高定身懷高才,也始終無法為宇都宮家做出徹底的改革,興利除弊,甚至連高定實家益子氏後來亦叛出宇都宮家,這或許也是芳賀高定畢生的遺憾吧! 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&sn=1352
芳賀高継 Haga Takatsugu(1526年-1592年) 芳賀高経の三男で、高照の弟。初名は高規。 真岡城を領していた。兄の高照は、芳賀高定によって殺害された。父の死後、高定の実家である益子氏のもとで養育され、高定から家督を継ぐ宇都宮氏への忠誠心が篤い人物ではあったが、1589年(天正17年)勢力争いから自分を養育してくれた益子氏を攻め滅ぼしている。 1566年(永禄9年)、宇都宮広綱の名代として宇都宮軍を率いて小田氏治を攻撃する。翌年も、広綱の代わりに出陣した。広綱の死後は子の宇都宮国綱に仕え、後北条氏と巧みな外交をしながら独立を保ち、その一方で結城氏や佐竹氏、白河結城氏と手を結んで北条氏と対抗した。 1580年代年半ばには、宇都宮広綱の正室・南呂院らの要望で、国綱の弟・時綱(後の芳賀高武)に跡を譲り、宇都宮に近い芳賀家の飛山城に隠居した。 晩年はその親北条路線が、親佐竹路線を採る主君・国綱と反目し関係が悪化。1589年には、北条氏に寝返り、北条氏邦らと共に手勢を率いて、多気山城を攻撃したが 宇都宮家臣多功綱継の活躍によって退却している。小田原征伐後に許され、復帰したようだが、程なく奥州白河へ追放され、同地で没した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E8%B3%80%E9%AB%98%E7%B6%99
那須資胤 Nasu Suketane(生年不詳-1583年) 那須政資的次子、正室為蘆野資豊之女;最初繼承森田氏,但與異母兄家督.那須高資對立,一時逃走。 天文二十年(1551年),異母兄高資因芳賀高定的計略被千本資俊殺害,資胤復歸繼承家督。 最初和佐竹氏結盟並與結城氏、蘆名氏對立,但是在弘治元年(1555年)改為與北條氏康、足利義氏結盟。 永祿三年(1560年)的小田倉之戰中,自身負傷而陷入苦戰,此時叱責家臣大關高增、大田原綱清,以追究責任為契機而與大關氏、大田原氏對立。 大關高增計劃迎佐竹義重的弟弟佐竹義尚(那須資綱)為那須氏的養子來排斥資胤,得到佐竹義重援軍的高增,於永祿六年(1563年)至永祿十年(1567年)為止一直與資胤對立,甚至被侵攻至烏山城下,但資胤將其擊退。 翌年,大關高增、大田原綱清兄弟以資胤隱居為條件達成和睦。 元龜三年(1572年),與佐竹氏達成和睦,此際資胤的女兒與當時三歲的佐竹義宣成立婚約,把武茂、茂木地方割讓給佐竹氏,那須家領地形式上已成為佐竹氏所有。 天正六年(1578年),以佐竹氏為中心與宇都宮氏、結城氏、江戶氏、大掾氏在常陸國小川台締結盟約,與後北條氏對抗。 天正十一年(1583年)死去,一說於天正十四年(1586年)。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E8%B3%87%E8%83%A4
那須高資 Nasu Takashi(生年不詳-1551年) 那須政資的長子、母為岩城常隆之女;受古河公方・足利高基偏諱「高」字,名為高資。 那須氏以藤原道長的六男藤原長家之孫資家為遠祖,因討平奧州白河郡八溝山的山賊,被封在下野那須郡,本稱須藤氏。在平安時代末期的當主資隆時,才完全改以地名為苗字,稱那須氏。在源平相爭時,於屋島之戰大放異彩的神射手那須與一亦為其一族,後在室町時代被列位御家人,家名達到最盛,後一度分裂為上、下兩那須家,直到高資之父那須政資在上那須家內亂後入繼,才將兩那須家統一。 那須高資自幼便由重臣大關宗增所扶養,雖然精通馬術武勇過人,卻性情粗暴。當時那須政資與宇都宮家來回征戰多次,那須高資與大關宗增擔任守備役的同時,也暗中增強在家中的權力。面對親子的離心,為不失家督之位,那須政資決定與宇都宮家和談,也恢復多年征戰後領內的民生。但是此一措舉卻引來大關宗增的強烈反彈,做為家中老臣大關宗增所圖謀的是領地不斷擴張,以在主家擴張之餘增加自家領地,而那須高資也因為大關宗增的影響,希冀彰顯家名,對外征戰,父子之爭終究演變成戰事。 為了奪取家督之位,那須高資和大關宗增在取得相模北條家的協助後於天文八年(1539年)起兵攻打那須政資所在的烏山城,將烏山城包圍,政資也立即反制向盟友佐竹、宇都宮請求援軍,但是那須高資以圍點打援的戰術,以小股兵力游擊佐竹、宇都宮派出的援軍。翌年,佐竹軍首先因不耐久戰而撤退,隨後宇都宮家也因為小山、結城等家的入侵調回兵力防戰。萬般無奈下,那須政資同意和睦,將家督之位傳給高資,大關宗增也於此時成為那須氏的首席家老。 那須家由武鬥派的那須高資、大關宗增當政後,為準備日後的軍事行動,那須高資極力強化軍備,增加鍛鍊士卒的時間,但是軍役的延長,相對也減少了農作的時間,短期影響雖然不大,卻足以讓領民心生不忿。天文十年(1541年),宇都宮家中芳賀高經、高照父子聯合壬生綱房於兒山城叛亂失敗,高經戰死。那須高資趁機招降納叛,收容芳賀高經之子高照,以瞭解宇都宮領的情報。 天文十一年(1542年),昔日因大關宗增進言被祖父資房追放的大田原資清在越前朝倉氏的支援下歸國,並且趁大關宗增之子增次出外鷹狩時於石井澤將之討殺,宣稱是為了討伐橫暴的大關家父子而歸來,同時迅速壓制大關家,大田原資清更強迫大關宗增收其子高增為繼並立即隱居,隨後也以同樣方式讓次子資孝繼承另一家重臣福原家。喪失了大關宗增的支援,讓高資在家中頓失左膀右臂,在大田原資清的強勢手段,自高資以下皆以默認為私鬥,性格強硬的高資肯這樣忍氣吞聲,主要是大田原資清已經在家中建立了相當的實力基礎,其外孫也就是高資的異母弟那須資胤,儘管資清必然有扶助那須資胤的企圖,但是中間仍有許多可轉圜運作的空間,既然事實已經造成,要替大關宗增復仇也不過是無用之舉,這就是在戰國時代中的現實。 天文十七年(1548年),宇都宮尚綱與古河公方足利晴氏聯合與北條家為敵,當時那須氏因為高資是藉助北條家的幫助才擊敗父親政資奪位,所以在高資主政時外交方針主要是與北條家親善,因此宇都宮尚綱旋於翌年九月率兩千五百兵出陣,襲向那須家領地西端的喜連川五月女阪,那須高資在二十七日亦領兵前往應戰,但人數僅有三百多,實力相差懸殊。據「多卻系圖」記載,為了因應此戰,那須高資動員了大田資清、大關高增、伊王野資宗、千本通長等重臣聯同出戰,面對壓倒性的不利戰況,那須高資以精兵來回迎擊,將戰況打亂,但是那須軍方面卻也戰死近兩百人,那須高資領殘兵退向福原城。 那須高資撤走,自認大勝的宇都宮尚綱見獵心喜,隨後窮追不捨。這正是那須高資的誘敵之計,在那須高資往福原城轉進同時,由伊王野資宗、蘆野資豐率領的部隊由蘆野氏的領地出陣,急襲進攻宇都宮軍的後方,混戰中宇都宮尚綱被伊王野資宗的家臣鯰箇家光射殺,宇都宮軍大亂,那須高資伺機再度殺出,以寡擊眾猛攻宇都宮軍,宇都宮軍失去主將後家臣商量後改以芳賀高綱率領退走。 那須高資在喜連川五月女阪之戰逆轉劣勢獲得大勝,宇都宮當主尚綱之亡更成為那須家擴展領地的契機,那須高資先是扶助宇都宮家叛將芳賀高照與壬生綱房進佔宇都宮城,將尚綱之廣綱和芳賀高定逼往真岡城,同時也對外出擊,趁宇都宮家陷入混亂之時發兵攻下鹽谷郡東部,擴張那須家在下野的版圖。同時為鞏固自身在家中的權威,挾大勝之勢,在二弟那須資胤前往熊野參拜時,宣布將其流放。 但那須高資顯然被勝利沖昏了頭,他高興得太快也太早了。那須資胤被流放後,實際上是被重臣千本資俊藏匿在家中,以及為了宇都宮再興對那須高資燃起復仇之火的芳賀高定,再加上大田原資清始終有扶助那須資胤之意,其若有若無的配合。 天文二十年(1551年),芳賀高定見縫插針與千本資俊合作,利用那須高資喜愛馬術的癖好,以「獲得名馬,希望邀主公一同品鑑」的名義,在千本城設宴招待高資,酒過三巡後遣刺客暗殺,在戰場叱吒一時的那須高資便因此死於家中的內鬥,年二十三歲。 那須高資死後,在大田原資清主導下那須資胤繼為那須氏當主,大田原氏作為強勢外戚與千本資俊同為那須資胤的心腹,掌握了那須家的實權。那須高資雖然在戰場有顯著的功績,但是過度張狂的性格忽視家臣感受,無法認清單憑武勇並不能安定家中權力結構,以為一場大勝便能扭轉人心,這樣過度的自信在人生最後讓他吞下了苦果。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/74311486/

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