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臼杵鑑速

佐伯惟教 Saeki Korenori(生年不詳-1578年) 『大友興廃記』によれば、天文19年(1550年)の二階崩れの変の際に大友宗麟を奉じて府内を制圧し、以来宗麟の重臣として信任されたという。また『肥後国史』『大友興廃記』によれば同年、菊池義武や義武に味方する肥後国の領主との戦いで先陣を務め、鎮圧に活躍した。 大友氏の家臣団は、大友氏の同族である同紋衆とそれ以外の家系である他紋衆とに二分されていた。他紋衆の中心的存在であった佐伯氏は集権化を図る大友氏との対立を深め、惟教の祖父・惟治が謀反の疑い有りとして大友義鑑に自害に追い込まれるなど、両者の関係は緊張状態にあった。こうした中、弘治2年(1556年)5月に他紋衆・小原鑑元が中村長直らと共に叛旗を翻した(姓氏対立事件)。惟教は挙兵には参加しなかったが鑑元らと連絡をとっていたとされる。しかし、宗麟はこれを機に惟教の追討を決定し討伐軍が差し向けるが、惟教は抗戦せず一族を伴って伊予国の西園寺実充の下に身を寄せ、その後10年余り居住した。 その後、永禄年間に入ると大友氏は毛利元就と北九州をめぐる争いに突入した。毛利方の水軍に対抗するためには惟教率いる水軍の存在が不可欠であったため、宗麟は惟教に帰参を持ちかけ、永禄12年(1569年)に惟教は臼杵鑑速らのとりなしによって帰参した。翌元亀元年(1570年)には栂牟礼城を還付され、戸次鑑連が筑前国の立花氏を継ぐため豊後国を離れて加判衆から退くと、その後任として加判衆に列した。元亀3年(1572年)に一条兼定が西園寺氏と争うと、宗麟の命により兼定救援のため伊予国に出陣し、飯森城などを攻略して西園寺公広を降した。天正5年(1577年)、剃髪して麟与軒宗天と号した。この頃までには嫡男・惟真に家督を譲っていたと考えられる。 同年12月、日向国の伊東義祐が島津氏に敗れ大友氏の下へ逃れると、島津氏の勢力が日向北部にまで及ぶようになり、それまで大友方に属していた同地の諸勢力の間に動揺が見られるようになった。こうした状況下で、翌天正6年(1578年)1月、松尾城主・土持親成(惟教の妹婿)が離反して島津氏に属したとの情報が伝わると、惟教は直ちに親成に対し弁明を促し自身もとりなしに努めたが許されず、宗麟は惟教に土持氏討伐を命じた。このため、4月10日に惟教は松尾城を攻略し、親成を降伏させた。この時、惟教は親成の助命を嘆願したが許されず、親成は自害させられた。 同年9月、キリスト教に惑溺していた宗麟は、日向にキリスト王国を建設するためとして、重臣一同の反対をことごとく無視して島津攻めに自ら出陣することを決定する。10月には、松尾城攻略後も日向に駐留していた惟教もまた山田有信の籠もる高城攻めへの参加を命じられた。惟教は高城救援に向っていた島津家久の軍と遭遇しこれを撃破したが、田原親賢率いる大友勢は士気の低い武将が多く、各部隊の連携が十分にとれない有様であったために、家久隊に追い討ちをかけられず高城への入城を許してしまった。11月11日、さらに島津義久率いる本隊が北上中との報がもたらされると軍議が開かれ、惟教は包囲を継続して志賀親守・朽網鑑康・一萬田鑑実らの軍勢が肥後から到着するのを待つべきと主張し、親賢もこの意見に同意したが、これに対し即時交戦を強く主張していた田北鎮周は、意見が斥けられると、潔く突撃して死んでみせると言い残して退席した。 翌12日未明、鎮周が予告通り島津勢に突撃し、これに引きずられるようにして大友勢は無秩序に戦闘に突入していった(耳川の戦い)。惟教はやむを得ず全軍を前進させ、兵力の優位を活かしての中央突破を図ったが、高城から出撃した島津家久らの急襲を受けた親賢が全軍に後退命令を下したため大友勢は大混乱に陥り、これに乗じた島津勢の猛攻を浴びて潰滅。乱戦の中、惟教は子の惟真・鎮忠らと共に討死した。家督は本国に残留していた惟真の子・惟定が継いだ。
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
五十位人物:大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新齋、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑒速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光....
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
小野鎮幸 Ono Shigeyuki(1546年-1609年) 小野鑑幸之子,受大友義鎮偏諱「鎮」字,名為鎮幸、官拜和泉守,別名小野和泉、位列日本槍柱七本、立花四天王之一。 小野家原是藤原道長之孫祐家的後裔,輾轉於戰國時代遷移至豐後成為大友家管轄下的國人眾。 元龜年間,鎮幸以大友家軍目付的身分前往道雪的軍陣,道雪心腹大將由布惟信認為鎮幸的言行舉止不凡,並向道雪提出向主君宗麟要求讓鎮幸轉為立花家麾下的想法,惟信還不惜消減自己領地分給鎮幸,並在鎮幸成功轉為立花家臣時舉行投票讓鎮幸擔任立花家老,道雪甚至讓自己的小姑以養女身份嫁給鎮幸,可見對鎮幸之重視。 被謳歌為知勇兼備的鎮幸,在作戰方面擔任道雪的「奇將」替大友、立花家出戰大戰二十二場,小戰不計其數,奮勇負傷六十七處,包含腰部以上四十四處傷,五處鐵砲傷,七處槍傷,其餘刀傷,領受兩家的感狀有六十八張,為家中屈指的英傑。 更在弘治三年(1557年),攻打秋月文種時展現謀將之才;秋月文種當時受到毛利元就的謀略而反叛大友家,立花道雪、臼杵鑑速二將受命舉兵討伐,鎮幸於此時對仕於秋月家中的堂兄弟做調略,順利的令其反叛成為內應而使秋月文種陷於被包夾圍攻的命運而兵敗自殺。 天正十三年(1585年),立花道雪於出兵築後期間逝世,這時立花家的繼承問題終於爆發,因道雪生前並無親生嫡子,僅留一名親生女子誾千代,為此立花家中的重臣如由布惟信以及薦野增時早先已決定由和道雪齊名的高橋紹運之子高橋統虎(立花宗茂)以入贅的方式迎娶誾千代並繼承立花家,但是鎮幸有感於道雪的恩威,認為立花家應該讓道雪的親生骨肉誾千代來繼承才不失其正統,並以自己的戰功和立花家筆頭家老的身分為憑,堅持讓十歲的誾千代成為名副其實的立花城主,然而高橋紹運以從此不再和立花家合作為由以及大友本家的干涉,鎮幸只能讓步,立花家正式由高橋統虎繼承,並改名立花統虎。 自從大友家於耳川敗於島津家後,大友家如同風中殘燭,面對島津家的築前侵攻,第一防衛線的高橋紹運於巖屋城壯烈玉碎後,緊接著便是立花山城,然而鎮幸對於立花家新繼承人的統虎也終於在此時有信任感,一同艱苦的守住立花城後便隨統虎猛烈的追擊島津軍,並在攻略島津軍築前據點的高鳥居城時雖然雙足皆被鐵砲擊中扔然揮舞著采配指揮,大大的振奮鼓舞士氣,終攻克高鳥居城。 之後豐臣秀吉對於立花統虎的奮戰大為嘉獎,並使其獨立為大名領築後柳川13萬2千石,此時鎮幸以正使身分前往柳川城向前任城主龍造寺晴信交割印信,立花家正式接受柳川城後,鎮幸受領蒲池城5千石,領家中最高俸祿。 文祿年間,鎮幸也隨統虎出兵朝鮮,並於碧蹄館之戰勇猛奮戰,擔任立花家中核備隊之一的鎮幸,反覆與統虎衝進明軍陣中,鎮幸更將明將李有聲勾下馬,和小早川隆景的部將井上景貞一同討殺,隨後更活躍於朝鮮各戰場中,將「立花家有小野鎮幸」的名聲傳至國內外,歸國後和統虎上洛參見豐臣秀吉時,秀吉便褒稱為「日本槍柱七本之筆頭」和本多忠勝、島津忠恆、後藤基次、直江兼續、飯田直景、吉川廣家並列,且為大友、立花家第一功勞者,並期望鎮幸以其精湛的槍術和統虎一同守禦西國。 文祿之役結束後,雖然鎮幸的勇名傳開,但是跟著也出現一項不利於鎮幸的傳聞,當時鎮幸被人認為是守財奴,更被質疑做賄賂等等勾當,家中重臣如由布惟信和安東連直皆質問過鎮幸,然而到慶長元年(1596年)再次出兵朝鮮之前,立花家因為長期出兵於財政面面臨金錢不足的問題,鎮幸此時慷慨付出家財以支出兵費用,終於令眾人領悟鎮幸的作為,也佩服其過往的深意和深謀遠慮。 關原時期,鎮幸主張參加西軍,這是難得和統虎意見一致的場面。然而關原之戰西軍戰敗,立花軍以失望的態度回到柳川,隨即遭到變節的鍋島軍侵攻領地,鎮幸了解統虎為主家的存續不可親自出戰,負責任的擔任立花軍總大將的身分率軍1萬3千於江上八院對戰鍋島軍3萬5千,僅以1千3百名兵力將10倍於己的鍋島軍十二段軍陣衝毀九段,自身也在奮戰中左乳下被鐵砲擊中,四肢也廣佈刀傷槍傷,膝蓋更被弓箭射中,最後和來援的立花成家合作縱橫於鍋島軍中,最終迫使鍋島軍元氣大傷不敢逼近柳川城,而立花軍也因兵力懸殊退回城池。 然而立花家最終遭到德川家康的改易,面對無力支付薪俸的立花家,小野鎮幸為廣大的家族只能轉仕加藤清正,清正也給予4千79石的厚遇。之後其舊主立花宗茂一行人離開肥後往京都流浪,鎮幸因先前關原時的重傷未癒而無法追隨,但扔不忘持續給予其一行人金錢米糧的資助。 鎮幸轉仕加藤清正後,清正每每為鎮幸的豪膽和小心謹慎的處世感到驚訝和佩服,並且近臣們也讚美鎮幸『他確實是豪勇無敵的人,在戰場上讓他進攻的話,即使對方是如何的堅陣也沒有他破不了的,是真正有本領的武士。』 某日鎮幸和清正對話,鎮幸坦白自己從小因為時常作戰而無緣讀書,就算已經六十好幾的歲數仍不會寫「いろは」等等的字,對於這些丟臉的事,鎮幸沒有避諱的敘述自己當時在朝鮮作戰期間,毛利輝元公曾來信至陣中,使者要求當面回信,那時正煩惱著那些不會寫的字,恰巧內田鎮家經過才請他代筆,為此回國後還請妻子教自己寫字,如今總算會書寫那些字。後來清正請到內田鎮家提起此事真偽,鎮家回答確實如此。清正也因此欽佩鎮幸的誠實,說:「鎮幸小事都不會撒謊,更不用說大事會撒謊!」而對鎮幸更加優待。 又某日鎮幸和清正玩著象棋,隔壁房間的近習者突然打架還拔刀相向,當時清正的棋盤已經是快輸的模樣,清正藉口要過去調停打架而想藉機終止這一盤棋,然而鎮幸卻說:「作為主君者是要做好榜樣的,不能在進行某件事時因為別的事情而忘記原本在做的事,如果隔壁打過來就讓我這老人去抵擋就好,請殿下安心的下棋吧!」並怒目而視。對於看穿自己心事的鎮幸,即使是豪勇的清正除臉紅外無話可說。 然而清正對於鎮幸的優遇引起加藤家臣對立花家臣的不快,並於某日的酒席中,加藤家武名極高的飯田直景、莊林一心、森本一久、加藤清兵衛等對著鎮幸說:「我們聽聞很多立花家的戰功,但是宗茂公自身奮戰且戰功最大的戰場是哪一場阿?」鎮幸沉默著沒回答,接著他們又問:「那麼,請鎮幸公談談你的武功?」鎮幸依舊沉默不回答,並在酒席終後退出,結果加藤家臣卻譏諷鎮幸:「人們皆說他是英雄豪傑,說不定在柳川的確是那樣,但是在肥後可真是沒什麼了不起阿。」這件事往後加藤家臣和立花家臣變的更加不合,為此鎮幸思索一條計策。 後日同樣又在夜晚舉行酒宴當中,鎮幸又被問起自身的武勇之事,當初沒回答的鎮幸這次終於同意說明,突然在眾人面前脫去上衣,暴露上半身的四十四所傷痕,眾人不禁啞然,鎮幸淡泊的說:「我參加的合戰很多,今天特地帶感狀來解釋。」並一邊核對感狀一邊核對傷痕講述起來,眾人聽聞鎮幸壯烈的傷痕的事蹟後接連向鎮幸道歉,並說明他們已經了解可以不用在說下去,要不然可是會說到天亮才結束。 這時換鎮幸詢問加藤家臣,說:「聽說以前清正公於佛木板中和木山彈正激戰並且折損槍的一鐮,雖然最終討取木山彈正,但是那時各位在何處呢?既然有看到主君置身於危險之中,卻沒能用自己的武功去護衛而留下事績,你們到底在做什麼呢?」結果眾人皆脹紅著臉。往後又有酒席之時,眾家臣也不敢再鎮幸面前談起自己的武勇事績。 終於,鎮幸於慶長十四年(1609年)6月23日於肥後死去,死前對子孫的遺言為:「我小野家代代都將必是立花家的家臣,要是立花家回封大名,你們定要回仕立花家。」 鎮幸即使到死都認為自己為立花家臣,然而無法撐到立花家回封柳川或許是鎮幸最大的遺憾吧,年六十四歲,法名華德院殿宗珊大居士。 由於鎮幸嫡子質幸早逝,便迎來森下釣雲之子鎮矩來繼承,立花家回封柳川後小野家便由鎮幸嫡孫、鎮矩之子小野茂高繼承,茂高也遵從鎮幸遺命於立花家回封柳川後回仕,擔任家老大組頭領3千石,並擔任立花家在大阪城修築的總奉行指揮,途中病死後由長子小野正俊接續,小野家歷代都成為立花家老。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E9%8E%AE%E5%B9%B8
田原親賢 Tawara Chikakata(生年不詳-1600年) 大友氏の家臣・奈多鑑基の子として誕生。主君・大友宗麟の義兄(妻の兄)にあたるため、側近として重用された。 大友氏一族・田原氏の傍系である武蔵田原家の田原親資(ちかすけ)の養子に入り、宗麟に服従しようとしなかった田原本家(田原親宏)の牽制を行う役目を担った。こうしたこともあり、親賢の大友家中における地位は大幅に引き上げられていき、永禄8年(1565年)には加判衆となり、臼杵鑑速の死後は国政の大部分を預かるようになっていった。こうした親賢の急速な台頭に対し、重臣の立花道雪は異を唱えたが受け入れられず、大友三老など他の重臣が死去していくにつれ、さらに立場を強化していった。 ただし、宗麟はキリスト教を好んだが、親賢はキリスト教を嫌悪したらしく、養子の親虎がキリシタンとなった(洗礼名はドン=シマン)ことを知ると妹の奈多夫人のすすめもありこれを廃嫡したほどである。しかし、あくまで宗麟に対しては忠実で、その所領は大友家中でも随一とされ、当時の宣教師の記録にもその旨の記載がある。 そして大友氏の帰趨を決する戦いとなった天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいては全軍の総指揮を任されることになったが、島津氏に大敗を喫してしまう。事実上、大友一族の凋落はこの一戦から始まっており、今日の親賢を無能と断定する評価の大部分はここから来ている。ただしもともと神仏を排撃する宗麟への不信感が高まっていたことや筑前・豊前などの遠方からかき集められた兵士も多かったことから大友方将兵の士気は低く、また贔屓にされる親賢への反感も相まって指揮系統も混乱を来していた。さらに敵である島津方の史料では「大友方でもっとも奮戦していたのが田原紹忍」と記述されていることもあり、実際の戦場での親賢の働きぶりは明確ではない。 ともあれ妙見嶽城に戻った親賢は敗戦の責を追及され、勢力の巻き返しを図る田原本家の親宏の主張で親宏から奪っていた所領を没収された。天正9年(1581年)には廃嫡した親虎に代わり宗麟の子で自身の甥にあたる大友親盛を養嗣子として迎え、家督を譲ったが、田原本家の田原親貫(親宏養子)が謀反を起こすとそれの討伐にあたるなど、引き続き大友氏のために尽くした。なお、キリスト教への嫌悪は増したらしく、耳川の敗戦はキリシタン信仰によるものとし、キリスト教の施設の破却を宗麟に主張している。 島津氏の豊後侵攻(豊薩合戦)の際には妙見嶽城を親盛に任せ、高崎山城を守備している。後に大友氏の家督を継いだ大友義統が府内を脱出した際にはこれを高崎山城、ついで親盛の守る妙見嶽城へと送った。戦後も吉統の側近として、天正15年(1587年)の宗麟の葬儀の出席や、吉統の嫡子・大友義乗の豊臣秀吉への謁見に随行している。 文禄2年(1593年)に大友氏が改易された後は、豊後岡城主の中川秀成に与力として2000石余で仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに先だって旧主・大友義統が毛利氏の手引きで西軍に与して挙兵すると、他家へ仕えていた宗像鎮続(むなかた しげつぐ)や吉弘統幸をはじめ豊後各地から集まった大友旧臣らとともにこれに従った。しかし石垣原の戦いで鎮続・統幸は討死し、吉統は黒田如水に降伏した。親賢は中川氏に帰参するも、西軍方の太田一吉との戦闘(佐賀関の戦い)に投入され討死した。法名は真士院本誉紹忍居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%B3%A2
秋月文種 Akizuki Fumitane(1512年-1557年) 秋月種時の嫡男、妻為原田義種の妹;別名種方。 享禄4年(1531年)、父の死去により家督を継いで第15代当主となった。 文種が家督を継承した頃は大内義隆に従属している。大内氏と大友氏との和睦に功績があったとされており、天文10年(1541年)には義隆の推挙を受けて、幕臣の1人にまで任じられている。 天文20年(1551年)、陶晴賢の謀反により大内義隆が自害すると(大寧寺の変)、大友宗麟に属した。 弘治3年(1557年)、大内氏が滅んで毛利氏の勢力が北九州にまで及んでくると、文種は毛利元就の調略に応じて大友氏に反旗を翻した。このため7月、宗麟は立花道雪と臼杵鑑速に2万の兵を預けて、文種討伐を命じる。文種は古処山城で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、嫡男の晴種とともに城中にて自刃した。しかし残りの子供達は家臣らに守られ、毛利氏の元に逃れるなどした。文種の死により、秋月氏は一時滅亡し、ほとんどの所領を失うこととなった。残った所領は家臣の深江氏が死守している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%96%87%E7%A8%AE
立花道雪 Tachibana Dosetsu(1513年-1585年) 戶次親家的長子、母為由布惟常之女.正光院、繼母為臼杵鑑速之姊.養孝院、正室為入田氏、繼室為問註所鑑豐之女.仁志姬(西姬/寶樹院)、側室為宗像氏貞之妹.色姬;幼名八幡丸、孫次郎,初名戶次親守、親廉、鑑連,法號麟伯軒、道雪。 少年初陣 大永六年(1526年)3月20日,豐前馬岳城主佐野親基和問田重安內通大內氏而反叛大友家,大友家令豐後大野郡藤北庄的鎧岳城主戶次親家出兵討伐,然而親家重病在床,年約13歲的道雪代父出征,身著系赤縅的鎧甲綁著水色的繩結,頭戴白星兜並附有八相前指物,腰掛家傳寶刀並騎乘附有金紋鞍的愛馬戶次黑毛,率領3千士兵連夜趕往馬岳城,於清晨時分發動攻勢,於一天之內便攻破擁兵5千人的馬岳城降服佐野親基和問田重安,許多大友家臣對道雪以年幼之身便立下如此驚異的戰功皆讚賞不已,戶次家此後受到大友更加的重用。 同年4月19日道雪之父親家病逝,因此繼承戶次家為第十五代家督,天文五年,改名為親廉官稱丹後守,往後拜領大友義鑑的「鑑」字改名為鑑連,並與津賀牟禮城主入田親誠的女兒波津結婚。 義鎮的忠臣 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此時肥後國人之中的阿蘇氏及合志氏率三千兵力反叛菊池想轉為大友援軍為內應,然而道雪卻派使者海老名肥前傳達說:『不管戰爭的勝敗,武士的忠誠心是最優先重要的。並且我從初陣以來未嘗敗績,此戰也將不假他人之力,況此戰有大明神監督當能克敵制勝,我若僥倖得援軍必敗。』而拒絕援軍,希望對方能作為敵方盡忠作戰。此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,家臣綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也盡皆歸降,道雪因此又立忠功。 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也一一歸降,道雪因此又立忠功。 天文十五年(1546年),秋月文種謀反,大友義鑑令道雪與佐伯、臼杵、吉弘等將率兵一萬前往鎮壓。 天文十九年(1550年),大友義鎮(大友宗麟)的叔父菊池義武,和師傅入田親誠,對義鎮感到不悅,因此慫恿大友義鑑轉立義鎮的異母弟鹽市丸為下任家督並廢黜義鎮的繼承人地位,大友義鎮為此情斷義絕,於2月10日與重臣津久見美作守、田口藏人襲擊大友義鑑的居所,史稱「二階崩之變」大友義鑑、義鑑之女、鹽市丸和他的生母,以及侍女皆一同被殺盡,事變後大友義鎮成為大友家第二十一代當主。 之後於3月,道雪接受大友義鎮的命令攻打始作俑者入田親誠的居城津賀牟禮城,道雪因此而和親誠之女波津離婚,反叛兵敗的親誠在逃往阿蘇家後被迫自殺。接著道雪於8月領兵三萬五千攻破菊池義武的隈本城而立下忠功,菊池義武逃亡至島原。後於天文二十三年(1554年)接受義鎮的命令,率家臣安東家忠及小野信幸埋伏於豐後直入郡木原,包圍受到宗麟以和平為由騙其回歸豐後的菊池義武,迫使其自刃。 筑肥豐轉戰 天文二十三年(1554年)為確保豐前的領土,10月13-15日道雪等大友軍於豐前柳浦擊退駐軍於豐前門司城的毛利軍,道雪之奮戰造成毛利元就、小早川隆景大敗總崩,成功奪回門司城。同年,道雪收弟弟戶次鑑方(鑑堅)之子戶次鎮連為養子,繼承鎧獄城。 弘治二年(1556年)6月3日,大友家爆發小原鑑元之亂、道雪率部下高野大膳於豐後海部郡討伐內通毛利氏進行謀反的住民齊藤小左衛門、本庄統綱、中村長直等,15日往肥後進攻小原鑑元的南關城,鎮壓叛亂。 弘治三年(1557年),大友義鎮對倔強不服,於弘治元年(1555年)內通毛利並舉兵反叛的築前國人秋月文種、肥前國人筑紫惟門發動攻勢,於7月令道雪合高橋鑑種、臼杵鑑速以及吉弘、田北、志賀、一萬田、吉岡、田村、佐伯、朽網、小原等將共約二萬前往征討,道雪不負義鎮所望於7月7日接連攻下文種的古處山城和惟門的五箇山城,使得秋月文種自刃並降服筑紫惟門,至12日平定部分築前和肥前地區。同年大友家與毛利家簽定合約,令毛利家承認大友義鎮之弟大內義長於北九州的領地為大友領有,並且不得侵犯。 永祿元年(1558年)大友軍進攻毛利方的豐前松山城,此戰築後星野氏配下七人眾之筆頭的通口實長(通口越前守)為大友軍奮勇作戰。 永祿二年(1559年)1月秋月文種之子秋月種實受舊臣深江美濃守以及毛利家的援助擊退古處山城的大友軍,並與筑紫惟門聯繫再次對抗大友家,大友宗麟為此以加判眾筆頭的田北鑑生為總大將,以真光寺佐藤刑部率築後國人問註所鑑晴、星野鑑泰、田尻親種及肥前犬塚尚家等進攻筑紫惟門的天判山城,卻於第一次侍島之戰敗於筑紫惟門的釣野伏戰術,佐藤刑部、鑑晴、鑑泰、尚家及親種之弟的種廉、種增戰死。 8月,道雪率大友軍進攻北九州國人國人眾宗像家的領地,攻陷白山城、鳶獄城並進至宗像居城許斐山城的同時因為毛利元就破壞約定偷襲大友方門司城,道雪為防前後夾擊放棄攻城撤退至豐後。一方,門司城將怒留湯主水退至豐後,義鎮對於毛利家的毀約大怒,在對毛利以外交操作談不嚨的情形下,於永祿四年(1561年)4月先以道雪、田北鑑生、田北紹鐵、田原親賢等大友軍率六千餘騎進攻豐前,攻擊毛利方位於豐前的香春獄城,城將原田義種以落石一時擊退大友軍,但道雪冷靜的加入兵力,令追擊的原田氏遭到分斷,大友軍再各個予以擊破,終於7月15日攻落,迫使原田義種自刃。然而此舉造成築前國人眾聯手反擊大友,9月毛利軍又趁機攻落香春獄城,被宗麟委派與毛利軍對峙的城將志賀鑑隆(志賀常陸介)敗退回豐後。 後義鎮親率道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增、齊藤鎮實、田原親賢等大軍前往豐前門司城,9月2日開始進攻,大友軍更請來葡萄牙軍艦砲擊門司城,10月9日策反毛利方的稻田禪正、葛原兵庫助,但是由於被毛利方發覺利用,於10月10日的明神尾戰鬥中遭到伏擊敗戰,26日大友軍再度總攻擊,這時道雪率領八百名弓兵攻擊毛利軍,並在數支箭上綁上寫有「戶次伯耆守鑑連隨時候教」的字條以激烈的箭雨射向毛利軍,此後毛利軍中,傳開大友家名將「戶次鑑連」的名字,武名逐漸廣傳於多個地區。同年,道雪擔任大友家掌握軍政系統的加判眾職位。 永祿五年(1562年)大友義鎮因為敗戰以及家中信仰問題而剃髮入道號「宗麟」,道雪也跟隨出家入道號「麟伯軒道雪」,不久道雪被任命為築後方分,領有築後赤司城。同時宗麟贈送黃金五十兩給予幕府,控訴毛利毀約之舉,希望足利義輝將軍出面和議,一方著手進行連絡毛利家背後的尼子義久打算準備夾擊毛利家。9月,道雪又隨大友軍進攻豐前毛利方重臣天野隆重鎮守的松山城,於豐前刈田著陣,並於上毛郡防範毛利方的夜襲,13日於松山城後的海岸與毛利軍激戰,10月13又抵抗毛利軍於柳浦一地集體的攻擊,此戰道雪討取冷泉元豐、赤川元德(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫)三位毛利方大將,11月19日大友軍再次強攻松山城,兩方互有重大死傷。於同年內又再次攻擊香春獄城,降伏城將千手宗元。 永祿六年(1563年)1月,因松山城是個倚海難攻的要害久攻不落,大友軍最終撤退。27日道雪受足利義輝之命令對宗麟提出意見,於豐前進行「豐藝和談」。5月兩家終於談合,毛利家保有門司城,交回松山城於大友,並將香春獄城毀壞,退出九州並停止對豐築諸國人眾的援助。 永祿七年(1564年)3月25日,道雪率其麾下由布惟明等家將,再次於豐前柳浦進行作戰。4月2日大友軍於肥前、築後邊境與筑紫惟門對峙為第二次侍島之戰,5月2日兩軍激戰,大友方再次敗於惟門的釣野伏戰術,築後眾的問註所鑑豐、小河鑑昌戰死。後大友宗麟仍親自率兵平定築後,之後過於滿足現狀開始沉溺酒池肉林的玩樂生活,道雪為此強烈的勸諫宗麟。 筑前爭亂記 永祿八年(1565年)築前有「西大友」之稱的立花鑑載自去年反叛大友家,道雪與吉弘鑑理於6月奉命前往討伐,於7月4日,道雪配下由布惟信一隊討取敵猛將彌須圖書助遂攻落其居城立花山城,之後在宗麟惜其家系下沒有將其殺滅,令鑑載繼續為立花山城主。 永祿九年(1566年)毛利家攻陷月山富田城消滅尼子家後屢對築前國人如原田、麻生、宗像、秋月、筑紫等進行策反,並且岩屋、寶滿二城主的高橋鑑種因早先不滿宗麟色淫兄嫂也一併反亂,宗麟對此派出道雪和吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增(宗歡)、齋藤鎮實五將領豐後、築後、肥後共二萬兵前往鎮壓。 永祿十年(1567年)7月7日,大友軍擊退高橋鑑種八千使其退往寶滿城後,以臼杵鑑速攻向岩屋城討取城將足達兵部少輔二千餘人,而道雪和鑑理先後在短兵相接,矢雨如注的激戰下,以家臣小野鎮幸、足達連安、高野出雲、十時惟次、戶次親繁、戶次親宗之奮戰擊退高橋方的猛將福井玄鐵,並且此戰中道雪家臣十時惟忠(十時右近太夫惟定,連久、連貞的堂兄)奮迅連斬28人,激戰中家臣內田鎮並以肉身抵擋敵方狙擊道雪的弓箭幸而保命,終於攻陷寶滿城降服高橋鑑種。11日齋藤鎮實雖於山上城和侍島二次敗於筑紫惟門、筑紫廣門父子的釣野伏戰術損失兩百餘人,但於27日接受惟門自刃及廣門再三的降伏請求並受取筑紫榮門等人質。8月14日大友二萬兵力終於進攻秋月種實,在秋月城下的甘水、長谷山(瓜生野之戰)一帶和種實一萬二千兵對戰,此時道雪在一日為數七場的戰事當中七度持刀槍衝鋒於敵陣討取秋月方七位小有名氣的武將(此戰於戶次軍談中,記載道雪乘馬奮戰,故此時雙足應還健全。),家臣十時惟忠也手持大薙刀,單手貫穿敵兵更將其投飛,戰地因而被稱為「人投原」。15日大友軍再攻落秋月方的邑城休山茄子城,守將阪田諸正自刃,種實見狀退守至古處山城,大友軍則駐軍於休松一地休息。9月3日,大友軍陣中傳來毛利軍來攻的流言,大友軍勢因此開始撤退動作,秋月種實見機引兵一萬二千打算奇襲道雪,但是道雪一早察知率所部三千兵做迎擊態勢並設置虛旗,擊散秋月先鋒軍內田善兵衛實久和問註所鑑景(秋月治部少輔)更突崩中備軍綾部駿河五千騎,雖然問註所鑑景一度重整二千兵攻擊道雪本陣於亂戰中討取十時惟忠,但秋月種實此時見到道雪所擺之噓旗誤以為大友援軍來襲因而撤退。 4日未明,秋月種實四千兵乘著風雨,夜襲卸下軍備的大友軍吉弘鑑理、臼杵鑑速的陣營,大友軍陷入混亂,吉弘、臼杵的將兵轉往道雪陣營時更發生自相殘殺的慘況,道雪見狀吞下正在食用的飯團,急令家中大將由布惟信、小野鎮幸等人分兵驅敵,並率自軍為殿後援助吉弘、臼杵等軍撤退,更持刀槍衝入敵軍中振奮反擊士氣,激勵大友諸將如朽網宗歷(朽綱鑑康)、清田紹喜、一萬田鑑實(一萬田宗慶)、三池鎮實、田尻鑑種而開始反擊,當中田尻一隊便討取秋月方15人首級,家臣足立連安更突陣連斬18人,終使秋月軍轉為劣勢付出重大死傷而暫時撤退,並傳聞此戰的道雪被稱為「鬼道雪」。然而此戰道雪也失去五位親族,分別為叔父親久、弟弟鑑方、堂弟鑑比(鑑方及鑑比皆有同為鑑堅的名字,於各項記載此戰之文書中常被混淆)及堂叔父親繁、親宗。譜代家臣則有由布五兵衛惟清、綿貫勘解由吉廉、十時右近太夫惟忠等部將十三人以及從宗麟直屬派來助陣的小野彈正忠鑑幸(小野鎮幸之父。)於此戰陣亡,築後國人眾領主三池親高更與家臣43人一同陣亡,隨後大友軍退往築後時秋月種實又追擊至甘木高場討取利光兵庫助、橋本玄蕃允等,大友聯合軍損失約5-60位身分不等的將士,包含被討死4百人。 永祿十一年(1568年)2月立花山城主立花鑑載受到毛利元就策反再次反叛大友家,其家臣薦野宗鎮(薦野三河守,薦野增時之父。)、米多比直知(米多比大學,米多比鎮久之父。)此時為貫徹對大友家的忠義不支持鑑載的行動,遭其殺害,後薦野、米多比一族率兵投靠道雪。鑑載則於4月6日迎來毛利家的清水宗知(清水左近將監,清水宗治之兄)8千餘人和軍船百餘艘,更聯合原田隆種(原田榮)、原田親種父子與高橋鑑種家臣衛藤尾張守約1萬人於立花山城,4月24日道雪與吉弘鑑理、臼杵鑑速、志賀親守3萬餘人包圍立花山城及其白岳、松尾等7處城、砦,三個月後於7月4日大友軍強攻立花山城,道雪一軍在攻略其支城松尾城時,於立花山崖上的不利地形苦戰,先鋒高野出雲、十時惟次(十時攝津,連貞之父。)負傷,道雪因而挺進前線激勵家臣戶次鎮直、戶次鎮時、十時惟次、十時惟由(十時但馬,連貞、連久堂叔)、由布惟定(由布宮內,惟信長子)、高野出雲、小野鎮幸、足立連安(足達對馬守宗園)、吉田兼正、原尻鎮清、竹迫鑑種(竹迫日向守昌種)討取敵兵28人。當晚因為道雪的調略而令立花家臣野田右衛門大夫(野田若狹守)背叛為內應引道雪軍入城,戶次統春(後來的立花統春)、十時連久、臼杵鎮氏(臼杵進士兵衛、臼杵鑑速之弟)、池邊永晟等奮戰生捕安武民部,原田親種、清水宗知、衛藤尾張守不敵逃至立花山城西南邊海岸的名島城。 7月23日立花鑑載因支城各個陷落,帶著家族10餘人脫逃往古子城並打算集結兵力於新宮町,卻被野田右衛門大夫告知行蹤遭到道雪軍追擊,進退不得而自殺,同日道雪又與高橋鑑種於宇美河內一地進行會戰,破之,而原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知則往中國毛利家方面退卻,立花山城則交由臼杵鎮氏、田北鑑益(田北民部丞、田北鑑重之弟)、津留原掃部助暫時代守。7月29日道雪等大友軍將致力於築前反大友勢力的掃討,但清水宗知為奪回立花山城又聯絡原田親種、衛藤尾張守於8月2日又率軍5千至立花山城下,道雪軍再次和鑑理、鑑速反擊,此時臼杵鎮氏和代父指揮的吉弘鎮信率軍分斷衛藤的軍勢,將戰線從立花山城往西南移動向香椎、名島,越過多多良濱並從莒崎往博多追擊,同時道雪於8月5日率4千追擊原田親種軍勢往生松原,其父原田隆種雖率三千援助親種(第一次生松原之戰),親種仍被射落馬下兵敗逃命。14日早朝會合大友軍於立花山麓共擊敵軍,道雪軍以第一隊小野鎮幸、第二隊由布惟信、第三隊後藤種長(後藤隼人佐)、第四隊堀祥(堀東雲軒玉隱)、第五隊安東家久(安東周防守,家忠之弟)、第六隊高野大膳互相配合交替輪流進行攻擊,追擊至莒崎一地,此時高野大膳奮勇討殺於前軍指揮的衛藤尾張守,敵軍皆因為道雪的夾擊攻勢而做四散逃,全軍往東北進擊討取3百餘人於午時追擊至蘆屋一地,清水宗知則僅剩20餘人乘船回毛利領地。同日傍晚時分,為救援原田親種的原田親秀(波多江親秀)率3千和道雪又在生松原激戰,原田方損失太田孫左衛門忠茂、池園四郎兵衛種之、原田伊豆守種冬、笠新八與昌、上原新左衛門泰元以及原田親種之子原田秀種僅12歲戰死,雙方皆損失多位家臣但以道雪軍獲勝告終,此一系列戰事被統稱為蘆屋合戰。 8月19日,秋月種實終於因為失去毛利家的援助而降服大友軍。11月25日,道雪從築前山隈城移動到高良山下的富本(問本)城,28日,道雪為確保築後國人問註所鎮連不參與築前國人反亂,並感念其父鑑豐於永祿7年為大友家出兵築前討伐筑紫惟門於5月2日忠戰而亡,娶鑑豐之女仁志姬為正室。 永祿十二年(1569年)1月,大友宗麟親率五萬大軍征討「肥前之熊」龍造寺隆信,道雪和吉弘鑑理先後拒絕隆信的投降交涉,大友軍於3月23日開始攻擊,道雪與大友諸將領三萬進攻江上武種的勢福寺城並使其降服,4月6日吉弘鑑理於多伏口一地擊敗龍造寺軍主力,欲進擊之時突然發病而錯失良機。一方,在龍造寺隆信的聯絡下毛利元就見隙率吉川元春、小早川隆景、乃美宗勝4萬餘人由吉田郡山城出發經由海路於4月15日包圍立花山城並斷絕水脈,17日在道雪建議下派出城親冬提出與龍造寺的議和,後隆信也派遣老臣納富信景慰問辛勞議和的道雪,並贈送名馬一匹。5月3日立花山城被奪,宗麟聞訊急報道雪等將回軍包圍立花山城,大友軍3萬於5月5日集結於博多,道雪先於5月6日率軍與田尻鑑種一同進攻毛利軍觸發一場小戰,此戰道雪自身持槍殺敵,5月13日毛利軍度過多多良濱川於松原附近放火與大友軍交戰四回,5月18日元春和隆景率毛利軍4萬餘多多良濱,道雪、鑑理、鑑速則率兵1萬5千分三隊為先陣,之後配置約2萬的大友軍力與之對峙,雙方激戰期間,道雪見到小早川隆景一時的陣形空隙,先以8百人鐵砲隊密集射擊後自身拔刀乘馬(『築前國續風土記』載此時道雪乘馬)率隊衝入敵陣營中,毛利軍此時無法敵擋一時遭受敗戰,後撤退於立花山城,是役為堪稱中世紀日本九州最大的合戰「多多良濱合戰」。 此後戰事轉為膠著狀態,直至十月,毛利元就因為大內輝弘乘虛奪取山口高嶺城以及出雲月山富田城方面遭受「尼子復興軍」攻擊的消息,遂下令吉川元春和小早川隆景立刻撤退回國。道雪這時趁機追擊毛利軍,毛利軍陣亡者約三千四百多人。10月13日,大友三老(道雪、鑑理、鑑速)於「蘆屋會談」中決定攻擊築前混亂的元兇高橋鑑種,攻落其居城寶滿城後令其切腹自盡,但是在宗麟心軟之下只將其流放至小倉城。 擊退毛利軍後的大友軍繼續實行攻打龍造寺隆信的計劃,於元龜元年(1570年)大友六萬大軍包圍佐賀城,這時道雪因為包圍時間甚久導致築前勢力不穩而早先向宗麟提議撤軍,8月20日大友軍總大將宗麟之堂弟的大友親貞遭到鍋島直茂的夜襲被成松信勝奪去首級,大友軍失去主將而接連撤退,這時道雪以殿軍防備陣勢抵擋追擊;此戰大友軍戰死者二千人以上,遂因此敗退回領地。 家督繼承 此時立花山城因為立花鑑載的自刃而為空城,為鎮壓築前的反亂勢力,道雪在宗麟的再三說服下轉封至築前立花山城,於元龜二年(1571年)五月形式上的繼承立花氏,並迎娶宗像氏貞之妹色姬做為部份和平鎮壓手段,然而道雪於天正三年(1575年)便將家督之位讓給獨生女,年僅7歲的立花誾千代,自己退居幕後,道雪此舉完全是因為不想繼承大友叛臣立花氏這個姓氏,終生使用戶次姓。同時,被迫流放豐前小倉城的高橋鑑種其高橋氏則由吉弘鑑理次子高橋紹運繼承,鎮守岩屋、寶滿城。 筑前鎮壓戰 天正六年(1578年)大友家於耳川大敗於島津家,使的大友家逐漸式微,築前國人如秋月、原田、宗像、草野等再次大規模反叛,12月3日,秋月種實聯合築後國人眾問註所鑑景、筑紫廣門約4-5千人攻擊岩屋、寶滿城因為高橋紹運的防戰未果,後於4日在柴田川和立花高橋軍對峙,因為立花高橋軍的兵力過少而再交戰不久便撤退至山野之中,此時種實於晚上追擊,反被立花高橋軍埋伏夾擊敗戰,退回居城。同年12月11日,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,13日道雪配下的由布惟信、十時連貞、安東家忠、高野大膳因於宇美等地轉戰立功而一同被合稱「立花四天王」 天正七年(1579年)4月初秋月種實聯合筑紫廣門和豐前國人城井、長野、千手、齋藤、上原及築前國人宗像、麻生、原田、杉等氏反叛,攻向岩屋城被高橋紹運擊退,同時大友宗麟為此派出豐後的家老志賀親守(志賀道輝、道魁)率築前國人小田部鎮元(小田部鎮通、紹叱)、大鶴鎮正(大津留式部、宗雲,實為鎮元之父)二千餘攻進秋月家石阪一地(鍬摺之戰),卻遭到宗像氏貞、麻生元重、杉連並、許斐氏備、原田鑑尚(大鶴鎮正之子,但有一說為鎮正之伯父)呼應秋月軍的的埋伏包圍,紹運因此和道雪出戰夾擊敵軍救援志賀等將,後讓志賀親守暫時駐軍於岩屋城。 7月18日龍造寺隆信出兵築後之際,其武勇出眾的次子江上家種聯合原田親秀以執行總兼為大將率軍侵略大友家的安樂平城(荒平城),城主小田部鎮元頑強抵抗,此時鎮守安樂平支城.池田城的小田部家武將大教坊兼光背叛鎮元。9月11日鎮元聯合鎮守鷲岳城的大鶴鎮正之弟大鶴宗逸對池田城發動夜襲,大教坊一族85人全員戰死,同日龍造寺軍攻向池田城,鎮元與宗逸出城渡江奮戰身亡,另一方面雖然大鶴宗雲早先聯絡到立花道雪以十時連貞、小野鎮幸率6百兵並輸送兵糧物資為援軍,但是趕不及龍造寺軍的激烈攻勢;鎮元籠城長達約三個月最終仍被攻陷,立花軍僅能救走鎮元遺下的次子統房。 期間於7月27日,秋月、筑紫聯軍又偷襲大宰府,道雪聯合紹運將其擊退。8月13日派出家臣足立連安等將救援食糧不足,大友方柑子岳城的木付鑑實,於14日的歸路中在生松原一地遭原田氏夜襲(第二次生松原之戰),道雪此戰乘轎督戰。同月,宗像氏貞、麻生元重、原田鑑尚等反大友聯軍於多多良川左岸的箱崎攻入領地,道雪趁夜派一名家臣涉水度過多多良川,潛入上松城與內應放火並俘虜元重之妻,宗像、麻生、原田三將見自城起煙於是退到許斐城,元重私底下想投降道雪,但被氏貞發覺而被殺,9月18日道雪聯合紹運攻入宗像家領地的鞍手郡,氏貞敗走,鑑尚投降被志賀親守誅殺,同月秋月種實又進攻寶滿城,道雪和紹運於吉水一地將其擊退。 同9月下旬,道雪、紹運、志賀親守(道輝)為討伐原田親秀(原田隆種)進行軍議,決定由紹運留守防備秋月、筑紫,道雪則率三千兵,以小野鎮幸、由布惟信為先鋒進軍肥前高祖山城並放火燒村,原田親秀以一族之原田林慶為大將率六千出擊,將道雪軍衝散並逐漸聚集當地鄉士之兵力,追擊道雪軍至生松原,此時林慶見道雪背後河川滿潮,認為道雪之兵比起溺死將會轉而奮鬥攻擊自軍,因而打算待其退潮,同時小野鎮幸也向道雪提出該利用此背水之陣令士兵突擊敵陣,兩軍互相觀察,隨後小野、由布率五百分左右進擊,道雪後陣遂追擊將原田軍打回高祖山城,林慶則在小野、由布及薦野增時的夾攻下被討死,道雪軍攻破三之丸、二之丸後遂放火燒城返回生松原執行首實驗後回軍立花山城。(此戰載於『大友興廢記』、『戶次軍談』) 10月24日龍造寺隆信趁攻落安樂平城之氣勢再度出陣築前,派出家臣大田兵衛三千餘人聯合筑紫廣門攻擊大鶴鎮正的鷲岳城,因為高橋紹運出兵於山田山和隆信對陣為大鶴鎮正的後援而使大田、筑紫兩將撤退,但11月15日筑紫廣門又派兵游擊偵查,紹運因此鎮守於岩戶一帶監視,同時秋月種實偷襲岩屋城,紹運因此回軍岩屋並於半路打擊筑紫勢的追擊,重整岩屋城的兵力後於高尾山對戰四千秋月軍,秋月軍因紹運的火攻而有部分撤退,同時道雪出陣牽制筑紫軍並和紹運夾擊令其敗退,終令大鶴鎮正脫險。天正八年(1580年)2月,龍造寺隆信聯合秋月、筑紫、原田、草野2萬軍力進逼築前西南邊境的生松原,2日道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士(傳聞此戰也是立花宗茂的初陣),3日於月隈村築砦,16日對豐後諸將發出有名的「九條檄文」。3月,因為宗像氏貞與大友家合議,氏貞將其妹色姬嫁給道雪,並割部分領地為嫁妝,此時道雪67歲,色姬25歲。7月,道雪與龍造寺隆信合議,築前西9郡龍造寺領,東6郡大友領。9月,道雪和紹運於奈須美一帶擊退秋月種實。 天正九年(1581年)3月6日道雪於那珂郡麥野村築砦。同年龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下大鶴鎮正的鷲岳城而於7月27日進軍至大宰府,並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前岩屋城,紹運與之對峙,道雪並派家臣竹迫統種、薦野增時等將為援軍,雖成功於觀世音寺之戰擊退敵軍,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰鬥,此時紹運以弓、鐵砲、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右迴於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取井田親氏,此石阪之戰也是立花宗茂普遍被認為的初陣,其優異的表現令道雪正式興起迎統虎為婿養子的念頭。同年8月,膝下無子的道雪,終於對高橋紹運提出希望其長子高橋統虎(宗茂初名)能繼承立花家,起初紹運因為統虎優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,統虎終於成為道雪的養子。於8月18日,統虎和道雪的女兒立花誾千代結婚成為婿養子而繼承立花家。(但是夫妻相處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居。) 11月6日,大友宗麟為援助被秋月種實、問註所鑑景夾擊的家臣朽網鑑康(朽網宗曆、宗歷),而命道雪、紹運、宗茂出陣,立花高橋共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰(許多史料因同戰地而常與石阪之戰混淆,秋月方史料則記為八木山合戰)。 同年11月12日,立花山城東北方的宗教國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬(宗像氏貞之妹色姬為道雪側室)的嫁妝給立花,趁立花軍一面出戰秋月軍(潤野原之戰),一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、內田鎮家、足立連安等立花家臣800兵前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲(小金原之戰,立花家稱清水原之戰),此戰中足立連安連斬18人,而惟信之子由布惟次也以鐵砲狙擊敵大將河津盛長(河津修理進)立下大功,但隨後奮戰中身受13處重傷,最後在由布、小野、薦野、內田等立花家臣以背日光於高處下山衝陣等兵法上正確的判斷,宗像方大敗,將領吉田貞辰、石松秀兼等人皆被討取,而宗像家的背叛觸怒道雪,兩家之間的同盟因此破裂。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡岩戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦(貓卡城),並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下先於3月16日派小野鎮幸、由布惟信侵攻宗像許斐山城周邊的八並村,4月16日才前往那珂郡岩戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,統虎和薦野率五百兵為伏兵,道雪本隊在危急之時因統虎的策略終於擊退原田勢,隨後讓統虎率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再岩戶一帶的岩門庄久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日,攻入宗像領地,侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月16日的吉原口防戰討取吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,氏貞只能退往白山城,遂驅逐宗像勢力,而宗像氏貞之妹,道雪的側室色姬也因此於隔年3月24日在立花山城中自殺。(一說病死)同天正十一年1月期間,筑紫廣門數次於夜晚派兵侵擾立花領地,2月4日,道雪以家臣竹原藤內為伏兵擊退廣門3百兵,斬獲甚多。3月筑紫廣門又出兵太宰府,道雪與紹運共同抵禦,此戰立花統春作為先鋒立下一番槍,再次擊退筑紫軍勢。4月8日,筑紫軍又潛入築前那珂郡偷割青麥,立花軍先鋒竹原藤內與之對戰,接應主軍並行夾擊,又再次擊退筑紫軍。 筑後遠征期 天正十二年(1584年)4月12日,筑紫廣門又率軍侵攻御笠郡,道雪與紹運反擊至筑紫家領地的武藏城下,道雪家臣吉田連正、後藤連種、佐藤次郎三郎等率其部眾力戰衝鋒陷陣,紹運又分二千兵為三隊進行橫擊,筑紫軍戰敗退入城中。3月,因龍造寺隆信於沖田畷之戰對上島津軍戰敗身死,大友家為此趁機出兵想奪回築後,以宗麟次子大友親家、三子大友親盛率豐後大友軍7千人進攻築後貓尾城的黑木實久(黑木家永),實久則聯合龍造寺軍共2千餘人在貓尾城與高牟禮城籠城抗戰,經過一個月大友軍仍然無法攻落,大友家第二十二代當主大友義統為此要求道雪與高橋紹運出兵,兩軍於8月18日以紹運2千人為先陣、道雪3千人為後陣出發,紹運在渡過築後川擊滅秋月家武將芥田兵庫50餘人後與道雪越過鷹取山,並以由布惟信為殿軍,在狹窄的山道途中又遭到伏兵以鐵砲狙擊,道雪也以弓、鐵砲反擊,此時紹運以擅長鐵砲狙擊的家臣市川平兵衛反狙擊令道雪脫離險境,但伏兵仍攻擊殿軍的由布惟信,道雪又回軍以立花統春、立花成家與敵兵激戰;此時以軍師大橋桂林之計,故意朗誦歌謠悠然進軍,然後突然回軍攻擊,敵兵遂因此逃去。(傳聞此時道雪才以坐在"輿"上行軍) 19日,兩軍到達高牟禮城,隨即寢返黑木家老樁原氏部,氏部並於24日開城,龍造寺援軍的土肥吉春(土肥出雲守)因此離城逃去。此時貓尾城已被孤立,道雪和紹運開始對黑木家同族的何崎重高防守的犬尾城攻略,28日在城島、酒見・榎津・貝津進行掃討,不久開始進攻貓尾城,在樁原氏部的帶領下9月1日(一說5日)攻下貓尾城,黑木實久則自殺身亡。8日又接連攻下蒲池鎮運的山下城以及築後各處的小城如谷川城、邊春城、兼松城、山崎城還有田尻鑑種的鷹尾城,大友軍終於展開對九州築後有名的堅城「柳川城」的攻略,城將龍造寺家晴死守不出,大友軍連翻攻擊未能攻下,道雪遂於10月3日因高良山大社座主良寬之建議移陣至高良山,並攻下久留米城、安武城、西牟田城,且勸降草野鎮永的吉木城,4日改攻籠城於發心岳城的草野鎮永和星野吉實的鷹取城、福丸城,後又侵攻問註所鑑景燒毀竹井城並於秋月領甘木一地對其掃討牽制,之後於年底又回陣高良山時,大友親家和親盛卻因長期戰陣在外以疲倦為由退回豐後(一說是大友義統通知秋月種實的侵略要其回國防備),留下立花高橋軍於築後。另外此時道雪處決擅自回家鄉過年的家臣,連其父母也同罪。 天正十三年(1585年)2月上旬龍造寺家晴、鍋島直茂於柳川城率軍5千出戰布陣於高良山南方的西牟田,北方則有秋月種實、長野鎮展、草野鎮永、城井鎮房、千手氏、星野氏、問註所氏等國人施加壓力,2月中旬龍造寺政家共集結3萬餘大軍近逼高良山。龍造寺軍於4月18日以後藤家信(龍造寺隆信三子)率筑紫廣門、波多親、高木左馬助8千人於築後川壓迫。 此時豐後大友軍朽網鑑康率野上清四郎來援與道雪、紹運三大將共9千8百餘兵力分為兩軍對抗,以朽網鑑康一隊往西牟田壓制北方國人眾,道雪和紹運則於高良山西北方的築後川和寶滿川交接處的小森野一地布陣,紹運以家臣伊藤總右衛門、福田民部少輔5百兵為先鋒但不敵筑紫廣門、後藤家信等龍造寺軍的優勢兵力,紹運因此後退引誘,激戰之時紹運以其剛勇的家臣萩尾治種(萩尾大學)、成富左衛門一千五百騎從龍造寺軍側面筆直突入造成其勢虛弱,後藤、筑紫無法阻止軍勢崩壞兵卒竄逃,道雪3千兵則迂迴至北野村從側面攻擊,追擊渡過築後川至肥前鳥栖、十三部野一地,討取1百87餘名戴甲武士。此戰為小森野之戰。 後大友軍以紹運率豐後日田、玖珠、國東、南部各郡2千兵以野上清四郎為先陣,在築後川上游之一的筒川,沿川邊擺「長蛇之陣」後陣擺「雁行之陣」,又以朽網鑑康布陣於高良山腹以「鳥雲之陣」(形容如鳥群集散於雲層之間,為臨機應變的陣型)潛伏,而道雪率第二陣以小野鎮幸、由布惟信為首率京都鎮安、萩尾治種2千兵為「浮武者」(游擊兵,潛伏並見機突擊之奇兵)潛伏於野中村為後陣,且高良山座主丹波良寬也率法師武者大祝保真、宗崎孝直、稻員安守等7-8百兵力參陣於後備。兩軍以足輕隊開戰,後紹運以200挺鐵砲橫一列猛烈射擊,龍造寺軍也從高良山左側出擊,於十三部野一地野上清四郎捨身碎骨奮勇突進立下一番槍,激戰之時紹運退後,挑釁引誘龍造寺軍追擊並三度反擊討取多人,同時第二陣小野鎮幸、由布惟信與後陣京都鎮安、萩尾治種又從側面突擊斷絕敵軍後路,紹運又將右翼的先陣兵力以長槍加入攻勢,此時先陣後陣的騎兵整齊一列軍勢並進突擊,道雪更突馳追擊至敵本陣前的祇園原,龍造寺的騎馬武者多數陷於田地遂敗,損失2百83名戴甲武士。此戰為十三部野之戰。 4月23日,龍造寺家晴、筑紫廣門又率1萬6千餘後備兵力進攻高良山,於高良川沿堤防分五段軍勢。道雪、紹運、察知龍造寺軍的行動,與良寬、蒲池氏合併8千兵力布陣於祇園原,並將兵力二分,於各處配置伏兵。道雪此次親自為先陣大將,並配置由布惟信、十時惟由、十時連貞為先鋒,安東連忠、內田鎮家、竹迫連種、綿貫吉兼為後陣,高良山法師武者良寬等則隔軍配置做為後備。道雪擺出約120-200挺鐵砲,只要敵軍一接近就只發射20-30發威嚇,而龍造寺軍約7-800挺鐵砲卻因此連發,由於龍造寺軍於山間擊出多發鐵砲造成煙霧瀰漫視界不良並且受回音干擾,道雪的鐵砲隊則因為控制得當沒有受到硝煙影響,而龍造寺軍卻在這不利的狀況憑其大軍猛烈突擊,先鋒的惟信、惟由、連貞遂趁此狀況進行突擊並偽退誘敵,一度將其先鋒擊退後,龍造寺軍交替後陣不知是計猛烈追擊、道雪也加入後陣安東連忠等兵力,兩軍進入激戰被形容有如萬雷震盪,此時道雪立起馬印吹起法螺貝大為鼓舞軍勢,下令分二隊以由布惟信、十時惟由、十時連貞、內田鎮家、竹迫連種從側面突擊,此時十時連秀、綿貫吉兼、後藤種任(後藤新五兵衛)、野上清四郎等揮槍討取龍造寺方不少有功的武士,同時以「鳥雲之陣」潛伏已久的朽網鑑康也突然襲擊,龍造寺軍潰散直至中軍,龍造寺家晴、筑紫廣門無法控制敗勢,道雪追擊約2町距離後引退,而龍造寺軍又重整軍勢反擊之時,紹運和良寬之伏軍又從森林兩旁出現以弓、鐵砲猛烈攻擊,打擊龍造寺軍反擊之軍心,使其受三方圍攻大敗。此為祇園原之戰。 以上小森野、十三部野、祇園原三戰統稱築後久留米合戰(又稱為筒川合戰)是為道雪最後一次大戰役,也是其引用『孫子兵法』的「奇正戰術」最為代表性的一次戰役,其戰績被評價可媲美孫子、吳子。(此戰記載於『大友興廢記』、『九州諸將軍記』、『築後國史』、『高良山物語』等九州方面史料。) 死亡 就在大友軍與龍造寺軍鷸蚌相爭之時,島津家逐漸漁翁得利侵占兩家領地,此時龍造寺家以及一眾築前國人國人眾逐漸附屬於島津家,大友軍持續攻防至6月初,道雪開始發病,紹運因此將軍陣移至高良山下的北野村,9月道雪病狀惡化,在對家臣說:「把我的遺骸穿上甲冑並面向柳川城埋於高良山上,如果有人違背此事,那麼將世代遭受詛咒!」後於9月11日病逝世,年七十三歲。 出處 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筑紫廣門 Tsukushi Hirokado(1556年-1623年) 筑紫惟門的長子,正室為齋藤長實之女;別名義冬、夢庵。 筑紫氏本是大宰少貳氏的一族,但是由於筑紫系圖並不只有一本,因此其源頭總共有四種說法之多,不過有鑑筑紫家紋跟少貳家紋同是寄掛目結,所以無論是何種說法都將筑紫氏與少貳氏牽連在一起。目前看來似乎較為可信的是嘉吉元年,少貳教賴將姪子賴門分封擔任築前國御笠郡筑紫村地頭一職,之後又兼任筑紫神社的宮司,方自稱為筑紫氏。 父親惟門為築後上妻郡的國人眾,先是由少貳氏改依大友宗麟,之後又因為毛利元就針對大友家的後方攪亂策略,而於永祿八年(1565年),受其寢返與高橋鑑種、秋月文種等一同反出大友家,因而遭到大友家臣臼杵鑑速、戶次道雪、吉弘鑑理、志賀親度諸將率兩萬大軍攻擊直逼近居城五箇山城。礙於形勢比人強,筑紫惟門被迫投降,在永祿十年(1567年)七月自害,惟門死後筑紫氏再度臣降大友家,家督之位由當時年方十二歲的筑紫廣門繼任,之後廣門也迎娶了大友家臣齋藤長實之女以示從屬地位。 此後九州漸成大友、龍造寺、島津三強鼎立的局面,直到天正六年(1578年),大友宗麟為了協助伊東義祐恢復在日向的領地與島津家交戰,在耳川一役中慘虧,往昔威信盡喪。對大友家早有反意的筑紫廣門趁大友家新敗,士氣低落之際與秋月文種遺兒秋月種實聯絡,在種實得到毛利家贊助八十貫軍資金及三千援軍後聯繫秋月家舊臣隈江城主深江美濃守,再度對大友家掀起反旗,並於翌七年與秋月種實聯軍攻打大友家勇將高橋紹運鎮守的巖屋城不果。 天正十年(1582年)十月,筑紫廣門對博多聖福寺領三宅村郡職發佈安堵。隔年三月,筑紫廣門讓手下士兵喬裝成茶葉商人混入巖屋城的城下町伺機放火燒毀外圍城防。天正十二年(1584年),龍造寺隆信於沖田綴之戰中被島津家討取,筑紫廣門與秋月種實見島津家勢力已漸漸向北九州延伸於是選擇與其交好,同時也再次出兵攻打巖屋城。 天正十三年(1585年),高橋紹運受大友宗麟之命遠征築後,筑紫廣門窺得此機以秋月種實為援出兵攻討高橋紹運的寶滿城。同時在築後陣中大友家名將立花道雪於御井郡北野病逝,見到家中再失支柱大友宗麟心中一橫親往上洛向當時已經制霸近畿的豐臣秀吉臣降並要求其出兵九州。新奪下寶滿城的筑紫廣門,在聽聞此一消息後迅速改變家中策略,轉與高橋紹運談和,但是因為兩家交戰多年彼此為宿敵互信不足,所以筑紫廣門圖謀跟高橋紹運締結姻親也是變相送人質給高橋紹運來強化雙方關係,但是因為紹運長子高橋統虎已經入繼立花家迎娶道雪之女誾千代,於是在翌天正十四年(1586年)二月,將已十七歲女兒加彌姬嫁給了紹運還只有十五歲的次子高橋統增,本來紹運的妻子宋雲院和廣門之妻就是嫡親姐妹,兩家不但領地相鄰而且因為筑紫廣門曾經長年臣屬大友家使得兩邊家臣、領民中很多都是互相熟識的朋友或是親戚,因此擇當吉日後便十分明快地在高橋、筑紫兩家家老的見證下成婚,兩家正式和睦。婚後筑紫廣門便將將寶滿城交給高橋統增夫妻,兩家共管寶滿城。 筑紫廣門態度一百八十度大轉變地倒向大友家,讓遭到他背棄的盟友秋月種實寢食難安,筑紫廣門和高橋紹運的領地合攏使秋月種實陷入兩面戰線皆敵的劣勢,尤其長年為盟友且曾多次聯合作戰的筑紫廣門更是深諳秋月軍的虛實,於是秋月種實只好向薩摩島津氏求助並請託島津軍出兵攻打筑紫廣門。同樣筑紫廣門也因為和高橋紹運聯合使居城勝尾城不得不擔任巖屋城的前衛,必須正面面對島津、秋月、龍造寺對大友家的包圍網,並直接迎戰北伐的島津軍。 天正十四年(1586年),島津氏出兵攻打巖屋城,立花山城、寶滿城以及筑紫廣門駐紮的勝尾城同樣也都遭受島津軍的圍攻,面對島津軍的攻打筑紫廣門將城中守兵一分為二,一部分隨自己仗堅城死守,另一半則由嫡子晴門率領出城進行游擊戰,待島津軍攻打本城時由背後夾擊,或是在島津軍籠城時夜襲側擊其陣營和截斷後援補給線以收交相呼應之效。但是這個策略卻被島津軍主將島津家久識破,反而針對筑紫廣門兵分二處、各自不足的缺陷施以反制,在籠城之後固守本陣,顛倒設伏算計晴門的游擊隊,使筑紫晴門在發動攻擊時中伏戰死。失去大批兵力及嫡男的筑紫廣門唯有依靠山下城來抵擋敵軍,但是在島津家久的連環猛攻下,不過杯水車薪而已,五日之後便再難堅持,只好宣告降伏,被幽閉於築後三瀦大善寺,而高橋紹運也在連續十四日的攻防戰後城陷身死。筑紫廣門也在幽閉期間留下和歌雲:「忍ぶれば,いつか世に出ん,折りやある,奧まで照らせ,山のはの月。」 天正十五年(1587年)正月,豐臣秀吉正式開始進行九州討伐,得知秀吉軍已登陸九州的筑紫廣門雖然被困在大善寺,卻仍然成功暗中糾集舊臣,自島津軍的監視中脫出並收復昔日舊居城五箇山城,之後前往高良山拜揭秀吉隨即參加對島津家的用兵,轉戰肥後、薩摩。戰後因功得到築後上妻郡一萬八千石領地的安堵。後在文祿元年(1592年),秀吉侵略朝鮮時作為小早川隆景的屬軍出陣。 在秀吉死去後於慶長五年(1600年),石田三成和德川家康掀起關原之戰,筑紫廣門與子茂成隨立花宗茂一同加入西軍,當時身為西軍將領的京極高次突然於九月三日脫離西軍遠征加賀的部隊,返回居城近江大津城加強城防並叛變至東軍。石田三成急命毛利元康(末次元康)及立花宗茂、筑紫廣門領一萬五千大軍攻伐僅有三千士兵的大津城。不料就在攻下大津城同日傳來了西軍已在關原戰敗的消息,戰後筑紫廣門如立花宗茂一般遭到領國全被沒收的不幸命運,失去所領的筑紫廣門寄身於加藤清正處並剃髮自號夢庵,後於元和九年(1623年)四月二十三日辭世,年六十八歲。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/392639
臼杵鑑速 Usuki Akihaya(1520年-1575年) 臼杵長景的次子,初名鑑景,取自大友義鑑「鑑」字和父親長景「景」字,後改名為鑑速,法名富春院殿威翁宗勢居士。 父親長景在當初的朽網親滿之亂中表現活躍因而被拔擢為加判眾,更在享祿元年(1528年)加封為速見郡山香鄉的代官,在長景死後,其加判眾的地位由長子鑑續繼承,而鑑速則是在外交與貿易方面為大友家盡力。 天文八年(1539年),大友家嫡子鹽法師丸(大友宗麟)元服,受將軍足利義晴賜偏諱「義」字,名為義鎮,為此當主大友義鑑特別修書回禮由臼杵鑑速帶著太刀、馬、黃金等重禮上洛獻給義晴。之後在天文十六年(1547年)時促成和四國大名一色義晴的婚盟,讓義鎮迎娶了義晴之女。 同時身任志摩郡代對周邊的在地領主進行安撫將其收為與力,替大友家在築前西部勢力的安定盡力。天文十九年(1550年),大友義鎮察覺到父親義鑑想廢掉他另立三弟鹽市丸的想法,遂先透過軍師角偎石宗勸服了包含臼杵鑑續、鑑速、吉岡長增、吉弘鑑理等重臣,然後迅雷不及掩耳地發動了那令九州震驚的二階崩之變,大友義鎮協重臣津久見美作守與田口藏人,襲擊大友義鑑的居所親手弒父殺弟,將大友義鑑、義鑑的女兒、鹽市丸和他的生母全數殺害,奪取君位,成為大友家第二十一代當主。並且向反對他繼位的叔父菊池義武發動攻擊,親率大軍壓境,陣中臼杵鑑速擔當第五軍的副將協助吉岡長增率領海部、宇佐郡眾出陣和上妻鎮房及蒲池鑑盛合力掃蕩了上下築後的親菊池派。 在義鎮奪位之後,臼杵鑑速在大友義鑑的遺命指定下擔任管理大友家重要書籍和日記箱的奉行,同時鑑速因為早先已經和義鎮取得默契,亂後其地位不變,臼杵鑑速也在天文二十一年(1552年)陶晴賢殺害大內義隆後仲介義鎮之弟八郎晴英繼為第三十二代大內家督,是為大內義長。弘治三年(1557年),臼杵鑑速在宗麟政權之中升任加判眾的要職,與吉岡長增、吉弘鑑理並稱「豐後三老」並將名字由鑑景改為鑑速。 嚴島會戰後,大內家在中國的勢力遭到毛利元就侵吞而全數瓦解,義鎮之弟大內義長更在且山城籠城時切腹自殺,意圖奪下大內舊領的大友義鎮和希望指染博多的毛利元就之間的衝突以勢不可擋,兩家正式開戰。在永祿至元龜的這段期間,臼杵鑑速和戶次鑑連、吉弘鑑理等分別擔任各地軍總司令官的勤務,於豐、築、肥等國出陣和毛利家及依附其下與大友為敵的秋月、原田、筑紫、高橋、立花諸氏展開一連串的戰鬥,因功被封為玖珠郡方分〈方分為大友家的特別職銜,相當軍團長之意〉,同時仍兼任外交職務,於永祿二年(1559年)替宗麟修禮上奏向將軍足利義輝獻上三千貫以補任豐前、築前、築後的守護職。 永祿八年(1565年),毛利元就成功策反了大友一族築前立花城主立花鑑載後,寶滿城主高橋鑑種和本來還降服於大友家之下的的筑紫氏、秋月氏紛紛樹起反旗,倒向毛利家。臼杵鑑速與戶次道雪、吉弘鑑理、志賀親度諸將在大友宗麟的授意下率領兩萬大軍出兵征討,於翌年先是攻陷高橋鑑種的巖屋城,逼降五箇山城的筑紫惟門,同時臼杵鑑速還前往博多勸說神屋宗浙勿要放棄博多,讓他重新歸津經商。臼杵鑑速與戶次道雪、吉弘鑑理再度率兩萬大軍出陣,在甘水、長谷山與秋月軍七度激戰,之後猛攻入秋月氏的邑城,迫使秋月種實轉進古處山城。 當時大友軍布陣於莊山,遭到秋月種實的四千奇兵夜襲陷入苦戰,最後是戶次道雪親自殿後抵擋秋月軍的追擊,吉弘、臼杵兩隊方安然撤往築後。永祿十一年(1568年),臼杵鑑速、戶次道雪、吉弘鑑理等再度出兵攻打立花鑑載的立花城,鑑載兵敗自刃,立花山城才重新回到大友家手中。 元龜二年(1571年),臼杵鑑速被大友宗麟封為肥前方分的職務,之後在天正元年(1573年),大友宗麟所派遣的南蠻貿易船歸國之際行經島津家所屬的港口時遭當扣留,最後也是由長期負責大友家外交貿易事務的臼杵鑑速前往進行交涉,贈送了伊集院忠棟鎧甲一領,發揮其圓滑手段將事情解決。 臼杵鑑速辭世於天正三年(1575年)五月八日,年五十五歲。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&parent=151&sn=367&lorder=17&ptitle=%E4%BA%BA%E7%89%A9
高橋紹運 Takahashi Joun(1548年-1586年) 吉弘鑑理的次子、母為大友義鑑之女、正室為齋藤鎮實之妹・宋雲院;幼名千壽丸,受大友義鎮偏諱「鎮」字,初名鎮理;繼承高橋氏,受高橋鑑種偏諱「種」字,名為高橋鎮種,入道法號「紹運」,以「高橋紹運」之名為人所知。 永祿四年(1561年),紹運十三歲迎來了初陣,作為吉弘隊的一員隨大友軍與毛利軍展開豐前門司城的爭奪戰。由於毛利水軍於此戰先奪得了制海權,大友軍遭到挫敗,為抵擋毛利軍的追擊,紹運遂負責吉弘隊的殿後工作,並且目睹了前輩戶次鑑連(立花道雪)的奮戰,於這場撤退戰之中得到了寶貴的作戰經驗。 自從毛利家介入北九州的爭奪戰後,勢力不穩的築前國人如秋月種實、原田親種、以及不滿大友宗麟的高橋鑑種、立花鑑載 相繼接受毛利家的寢返而叛亂。 紹運在參與永祿八年(1565年)的立花鑑載討伐後,永祿九年(1566年)巖屋、寶滿二城主的高橋鑑種因早先不滿宗麟色淫兄嫂也一併反亂,宗麟對此派出立花道雪和吉弘鑑理、臼杵鑑速三將前往鎮壓,紹運也隨軍參加。 永祿十年(1567年),紹運隨父鑑理及立花道雪、臼杵鑑速的進攻下,大友軍勢於7月7日先後在短兵相接,矢雨如注的激戰下攻陷高橋鑑種的巖屋城和寶滿城,降服了高橋鑑種,11日大友軍齋藤鎮實也於苦戰後於27日接受了筑紫廣門的降服,8月14日大友二萬軍勢於秋月城下的甘木、長谷山一帶和秋月種實對戰,鎮理此時於秋月城旁的小石原川的奮戰也不遜於道雪。 15日,種實見邑城休山茄子城遭到攻陷退守至古處山城,大友軍則駐軍於休松一地休息,9月3日,秋月種實夜襲紹運和父親吉弘鑑理的陣營,大友軍一時混亂形成同士討的慘況,立花道雪此時率自軍為殿後援助吉弘、臼杵等軍撤退,紹運也奮力抵擋追兵,終使秋月軍轉為撤退。 永祿十一年(1568年)2月,立花山城主立花鑑載受到毛利元就策反再次反叛大友家,其家臣薦野宗鎮(薦野三河守,薦野增時之父。)、米多比直知(米多比大學,米多比鎮久之父。)此時為了貫徹對大友家的忠義不支持鑑載的行動,遭其殺害,鑑載則於4月6日迎來毛利家的清水宗知(左近將監,清水宗治之兄)8千餘人和軍船百餘艘,更聯合原田隆種(原田了榮)、原田親種父子與高橋鑑種家臣衛藤尾張守約1萬人於立花山城,4月24日大友軍以立花道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速、志賀親守3萬餘人包圍了立花山城及其白岳、松尾等7處城、砦,三個月後於7月4日大友軍強攻立花山城,其中紹運一隊在追擊立花軍後人數所剩不多並且多數已經餓壞,紹運此時分發飯團並激勵了士氣。 7月23日,立花勢因為道雪的調略而令立花家臣野田右衛門大夫背叛為內應,立花鑑載因而兵敗離城脫逃後自殺,而原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知則往中國毛利家方面退卻,立花山城則交由臼杵鎮氏(臼杵進士兵衛)、田北民部丞、津留原掃部助暫時代守。7月29日,紹運隨父鑑理等大友軍將致力於築前反大友勢力的掃討,不料原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知於8月2日突然又奪下了立花山城,此時紹運和兄長吉弘鎮信代父指揮吉弘軍,和臼杵鎮氏合作率軍分斷了衛藤的軍勢,將戰線從立花山城往南移動向香椎、名島,越過多多良濱並從莒崎往博多追擊;最後大友軍以立花道雪為主力於14日奪回了立花山城並給於敵軍莫大反擊。19日,秋月種實終於因為失去了毛利家的援助而降服大友軍。 永祿十二年(1569年)1月,大友宗麟親率大軍征討「肥前之熊」龍造寺隆信,隆信拒絕了立花道雪和吉弘鑑理的和平交涉,大友軍於3月開始攻擊,大友諸將領三萬進攻江上武種的勢福寺城並使其降服,後紹運和兄長鎮信隨父吉弘鑑理於多伏口一地擊敗龍造寺軍主力,欲進擊之時鑑理卻突然發病而錯失良機。一方,在龍造寺隆信的聯絡下毛利元就見隙率吉川元春、小早川隆景、乃美宗勝4萬餘人由吉田郡山城出發經由海路於4月15日,包圍立花山城並斷絕水脈,17日,在道雪建議下派出城親冬提出與龍造寺的議和。5月3日,立花山城被奪,宗麟聞訊急報大友軍各將回軍包圍立花山城,大友軍3萬於5月5日,集結於博多,5月13日,毛利軍度過多多良濱川於松原附近放火與大友軍交戰四回,5月18日,元春和隆景率毛利軍4萬餘多多良濱,大友軍以道雪、鑑理、鑑速率兵1萬5千分三隊為先陣,之後配置了約2萬的大友軍力與之對峙,這時紹運和兄長鎮信一同作為吉弘隊先鋒與毛利軍激戰,之後兩軍陷入膠著狀態。十月,毛利元就得到山口高嶺城和月山富田城分別被大內輝弘和山中鹿之介攻擊的消息,立即下令吉川元春和小早川隆景撤退。紹運與兄長鎮信此時又一同領軍進行追擊,擊敗了毛利軍。 10月13日,大友三老(道雪、鑑理、鑑速)於「蘆屋會談」中決定攻擊築前混亂的元凶高橋鑑種,攻落其居城寶滿城後令其切腹自盡,但是在宗麟心軟之下只將其流放至小倉城,自此高橋本家斷絕。 大友家在討平了立花鑑載和高橋鑑種後,因為其居城立花山城和巖屋、寶滿城皆為築前軍事要地,要是不快點派有能之人鎮守將會重現如多多良濱之戰一樣的窘境戰事,大友宗麟於是考慮由自己信賴的家臣擔任城督之職。由於前巖屋城主高橋鑑種的本家一萬田家(高橋鑑種乃大友家臣一萬田親泰之子,天文十五年(1546年)入繼高橋家)與吉弘家有著姻緣關係,宗麟因此考慮到令紹運之父吉弘鑑理繼承,但是當時鑑理病重不能理事,長子鎮信已經繼承了吉弘家業管理筧城,因此當時在家中人望甚高的紹運就變成了不二人選,於永祿十二年(1569年)繼承了高橋氏,領巖屋、寶滿二城,並將名字繼承高橋家通字「種」改名為高橋鎮種。而立花氏則由大友家第一名將立花道雪於元龜二年(1571年)坐鎮於立花山城而繼承,便是世人所熟知的「立花道雪」。 天正六年(1578年),大友家於耳川大敗於島津家,紹運之兄吉弘鎮信以及紹運之妻宋雲院的兄長齋藤鎮實皆壯烈戰死於此役,紹運因此剃髮入道號紹運(紹雲)。 耳川之敗使的大友家逐漸式微,不僅使的肥前龍造寺隆信大舉入侵築前築後,築前國人如秋月、原田、宗像、草野等也再次大規模反叛,12月,以秋月種實為首的築前國人率先攻擊巖屋、寶滿城,但是因為紹運的奮力防戰而沒被攻下,但呼應種實的築後國人眾問註所鑑景約4~5千人卻攻下了柴田城,因此紹運聯絡立花道雪一同抵抗於柴田川佈陣的秋月聯軍,從矢戰到鐵砲戰並於川中作戰,不久因為立花高橋軍的兵力過少便打算撤退至山野之中設伏引誘秋月軍追擊,此時種實不疑有他追擊至夜晚,在紹運的引誘下配合立花家的由布惟信、小野鎮幸等將繞過山陰從秋月軍背後奇襲,種實因而大敗,狼狽的退往柴田城,一方面紹運在秋月撤退的路上事先擺好了數十面軍旗和馬印假為豐後大友援軍到來,秋月種實中計而繞路逃回領地,又繼續遭到紹運和道雪的追擊,高橋軍此時討取了3百人,秋月家此戰損失許多家臣。 天正七年(1579年)正月,筑紫廣門聯合秋月種實進攻巖屋城,被紹運的重臣屋山種速擊敗,3月豐前蓑島城主杉重良反叛大友家,紹運攻落其居城將其討伐,4月初秋月種實聯合筑紫廣門和豐前國人城井、長野、千手、齋藤、上原及築前國人宗像、麻生、原田、杉等氏反叛攻向巖屋城,在築前石栗領一地被高橋紹運擊破,同時大友宗麟為此派出豐後的家老志賀親守(志賀道輝、道魁)率築前國人小田部鎮元(小田部鎮通、紹叱)、大鶴宗雲(大津留式部、鎮正,實為鎮元之父)二千餘攻進秋月家石阪一地,卻遭到宗像氏貞、麻生元重、杉連並、許斐氏備、原田鑑尚呼應秋月軍的的埋伏包圍,紹運因此和道雪出戰夾擊敵軍救援了志賀等將,後讓志賀親守暫時駐軍於巖屋城,18日,原田隆種(了榮)、筑紫廣門進攻小田部的安樂平城之時,紹運又出兵相救,然而秋月種實又趁機出兵巖屋城聯合宗像、杉兩軍包圍志賀親守並於針磨山佈陣,紹運也出兵往二日市與之對陣,並散播大友方於筑紫方面的援軍朝夜須郡前來的虛報,秋月種實中計因而退回居城。 7月27日,紹運與道雪又和秋月種實、筑紫廣門戰於大宰府,9月18日,道雪聯合紹運攻入宗像家領地的鞍手郡,宗像氏貞敗走,原田鑑尚投降被志賀親守誅殺。同月秋月種實又進攻寶滿城,紹運和道雪於吉水一地將其擊退,10月24日,龍造寺隆信趁著先於9月11日,攻落大友方小田部鎮元的安樂平城之氣勢再度出陣築前,派出家臣大田兵衛三千餘人聯合筑紫廣門攻擊大友方大鶴宗雲的鷺岳城,紹運為此出兵於山田山和隆信對陣為大鶴宗雲的後援,遂使大田、筑紫兩將撤退,但11月15日,筑紫廣門又派兵游擊偵查,紹運因此鎮守於巖戶一帶監視,同時秋月種實又偷襲巖屋城,紹運因此回軍巖屋並於半路打擊筑紫勢的追擊,重整巖屋城的兵力後於高尾山對戰四千秋月軍,秋月軍因紹運的火攻而有部分撤退,同時道雪出陣牽制筑紫軍並和紹運夾擊令其敗退,終令大鶴宗雲脫險。 天正八年(1580年),紹運持續對戰秋月家於豬膝合戰,始終沒讓秋月、宗像等敵對勢力佔到便宜,維持了大友家的領地。同年8月下旬秋月種實內通了紹運的筆頭重臣北原鎮久。由於鎮久早因為大友家逐漸勢微,覺得高橋家於築前被敵對勢力圍繞難以生存,而想投靠秋月家,並向紹運如此建議,但紹運仍然不為所動,於是鎮久計畫追放紹運,聯合秋月家另尋高橋家當主,然而知曉這項計畫的高橋家臣伊藤一蓑不顧洩漏密謀將被誅殺的危機,毅然通知了紹運,於是紹運在鎮久登城之時,安排萩尾治種(萩尾大學)、內田下野埋伏殺了鎮久,而鎮久之子北原種興(北原進士兵衛、攝津守)原本打算聯合一族為父報仇,但紹運以書信告知種興:「你的父親內通秋月家將給高橋家帶來禍害,於是不由得將他殺害,但是你的忠誠心我非常清楚,由於你和這件事毫無關係沒有參予謀反,因此勿對我起疑心,殺你父親實在是百般無奈,然而對此反叛之人不誅不行,現在令你為北原家當主,希望能洗刷你父的污名盡忠。」並將鎮久的領地全交由種興繼承,而種興了解了事情之原委是秋月種實作祟之故,並發誓對高橋家盡忠而將喪父之恨轉向秋月。 同時紹運利用此事逆向操作,以種興寫書信通知秋月家臣內田彥五郎:「我父親與秋月的密約因為被發現而被誅殺,因此我極度怨恨紹運,已有與其一戰致死的覺悟,痛失父親的我即使是當主,也恨不得將其殺之復仇,請在近日派兵至巖屋,開戰之時我將率兵於巖屋放火,待討取紹運後將歸參秋月家。」反過來騙取秋月家進攻,秋月種實不疑有他,派內田彥五郎率5百餘兵前往巖屋城,種興遂在居城‧龍城的蘆木山以酒餚招待秋月軍,至夜晚趁秋月軍兵酒醉睡眠之時,紹運從巖屋城率6百兵與種興進行包圍夜襲秋月軍,自內田彥五郎戰死以下損失3百餘人,其悽慘的戰況被稱為「蘆木的慘劇」。 同年9月,秋月種實為了報內田彥五郎被殺之仇,以問註所鑑景(秋月治部少輔)、上野四郎兵衛、惠利暢堯、綾部駿河守率1萬2千軍勢殺向巖屋城,並於奈須美一帶的森林佈陣。紹運便聯合立花道雪軍勢,以小野鎮幸、由布惟信為先鋒,遂在奈須美展開激戰,兩軍互以鐵砲、弓矢、槍隊攻擊難分勝負,這時立花高橋軍以綿貫吉兼(四月一日佐三兵衛)、竹迫連種(竹迫進士兵衛)為遊軍側面突擊秋月終使秋月軍開始崩壞後退,紹運、道雪見狀追擊更令秋月軍更加崩潰,秋月種實見自軍後退而不斷喊叫自軍回陣,然而種實又看見戰場另一側出現大友軍的旗幟,反而意識到再不撤退將被斷了後路,於是敲鐘收兵退回古處山城。而戰場另一側的大友軍旗實為紹運早先安排好的噓旗計策,成功令秋月種實的復仇之戰徒勞無功,而此戰被稱為「血風奈須美之陣」。 天正九年(1581年),龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下大鶴宗雲的鷺岳城而於7月27日,進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰鬥,此時紹運以弓、鐵砲、長槍隊分三段佈置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右迴於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是立花宗茂普遍被認為的初陣,率1百50人配合紹運和道雪的攻勢奇襲秋月軍後陣討取了敵將堀江備前,其優異的表現令立花道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。8月18日,令高橋統虎(立花宗茂)和道雪生女立花誾千代結婚,宗茂因而繼承立花氏,高橋氏則由紹運次子高橋統增為繼承人。 同年11月,大友宗麟接獲一直忠於大友家的問註所統景的急報,要求出兵討伐早先反叛至秋月家的一族問註所鑑景,11月4日,宗麟派出朽網鑑康(朽網宗曆、宗歷)3千人包圍了築後鑑景的井上城,秋月種實為此率6千人夾擊宗曆,這時立花道雪和高橋紹運以及長子宗茂受到大友宗麟的指示率5千前往救援,然而宗曆卻在豐後大友軍的援助下與秋月軍於8日的原鶴合戰後安全退卻,期間於6日,立花高橋軍通過秋月領地撤退,在穗波、嘉麻一帶割取糧草並放火延緩秋月軍追擊,後佈陣於八木山潤野原一帶迎擊秋月軍,最終秋月軍敗戰損失7百60人,立花高橋軍損失3百餘人,當地因此被稱為千人塚,是為潤野原之戰。(許多史料因同戰地而常與石阪之戰混淆,秋月方史料則記為八木山合戰) 天正十一年(1583年)9月底,肥前國人筑紫廣門入侵紹運轄內的三笠郡,紹運與筑紫勢拉據了五、六日後,逼退了筑紫勢。10月2日,秋月種實又趁隙攻下紹運領地的米山,紹運迅速出兵於當日隨即對戰秋月軍奪回了米山,並追擊討取2百餘人。 天正十二年(1584年)3月,龍造寺隆信於沖田啜之戰對上島津軍戰敗身死,大友家為此趁機出兵想奪回築後,以宗麟次子大友親家、三子大友親盛率豐後大友軍7千人進攻築後貓尾城的黑木實久(黑木家永),實久則聯合龍造寺軍共2千餘人在貓尾城與高牟禮城籠城抗戰,經過了一個月大友軍仍然無法攻落,大友家第二十二代當主大友義統為此要求道雪與高橋紹運出兵,兩軍於8月18日,以紹運2千人為先陣、道雪3千人為後陣出發,紹運在渡過築後川擊滅秋月家武將芥田兵庫50餘人後與道雪越過鷹取山,並以由布惟信為殿軍,在狹窄的山道途中又遭到伏兵以鐵砲狙擊,道雪也以弓、鐵砲反擊,此時紹運以擅長鐵砲狙擊的家臣市川平兵衛反狙擊令道雪脫離險境。 19日,兩軍到達高牟禮城,隨即寢返黑木家老樁原氏部,氏部並於24日開城,龍造寺援軍的土肥出雲因此離城逃去。此時貓尾城已被孤立,道雪和紹運開始對黑木家同族的川崎重高防守的犬尾城攻略,並在城島城巡邏,不久開始進攻貓尾城,在樁原氏部的帶領下9月1日,攻下了貓尾城,黑木實久則自殺身亡。此後又接連攻下蒲池鎮運的山下城以及築後各處的小城如谷川城、邊春城、兼松城、山崎城還有田尻鑑種的鷹尾城,大友軍終於展開對九州築後有名的堅城「柳川城」的攻略,大友軍在連翻攻擊下未能攻下此城,道雪遂於10月3日,移陣至高良山,4日改攻籠城於發心岳城的草野鎮永和問註所鑑景並燒毀竹井城,這段期間因為道雪和紹運兩軍時常一同出擊立功,使得當時有人這麼說著:『有紹運的地方一定會有道雪』因而被讚稱為「大友雙璧」 之後於年底兩軍又回陣高良山時,大友親家和親盛卻因嫉妒紹運和道雪的戰功以及長期戰陣在外以疲倦為由退回豐後,僅留下立花高橋軍於築後。 天正十三年(1585年)2月上旬,龍造寺家晴、鍋島直茂於柳川城率軍5千出戰佈陣於高良山南方的西牟田,北方則有秋月種實、長野鎮展、草野鎮永、城井鎮房、千手氏、星野氏、問註所氏等國人施加壓力,2月中旬龍造寺政家共集結3萬餘大軍近逼高良山。龍造寺軍於4月18日,以後藤家信(龍造寺隆信三子)率筑紫廣門、波多親、高木左馬助8千人於築後川壓迫。 此時豐後大友軍朽網鑑康率野上清四郎來援與道雪、紹運三大將共9千8百餘兵力分為兩軍對抗,以朽網鑑康一隊往西牟田壓制北方國人眾,道雪和紹運則於高良山西北方的築後川和寶滿川交接處的小森野一地佈陣,紹運以家臣伊藤總右衛門、福田民部少輔5百兵為先鋒但不敵筑紫廣門、後藤家信等龍造寺軍的優勢兵力,紹運因此後退引誘,激戰之時紹運以其剛勇的家臣萩尾治種(萩尾大學)、成富左衛門一千五百騎從龍造寺軍側面筆直突入造成其勢虛弱,後藤、筑紫無法阻止軍勢崩壞兵卒竄逃,道雪3千兵則迂迴至北野村從側面攻擊,追擊渡過築後川至肥前鳥棲、十三部野一地,討取1百87餘名戴甲武士。此戰為小森野之戰。 後大友軍以紹運率豐後日田、玖珠、國東、南部各郡2千兵以野上清四郎為先陣,在築後川上游之一的筒川,沿川邊擺「長蛇之陣」後陣擺「雁行之陣」,又以朽網鑑康佈陣於高良山腹以「鳥雲之陣」(形容如鳥群集散於雲層之間,為臨機應變的陣型)潛伏,而道雪率第二陣以小野鎮幸、由布惟信為首率京都鎮安、萩尾治種2千兵為「浮武者」(游擊兵,潛伏並見機突擊之奇兵)潛伏於野中村為後陣,且高良山座主丹波良寬也率法師武者大祝保真、宗崎孝直、稻員安守等7~8百兵力參陣於後備。 兩軍以足輕隊開戰,後紹運以200挺鐵砲橫一列猛烈射擊,龍造寺軍也從高良山左側出擊,於十三部野一地野上清四郎捨身碎骨奮勇突進立下一番槍,激戰之時紹運退後,挑釁引誘龍造寺軍追擊並三度反擊討取多人,同時第二陣小野鎮幸、由布惟信與後陣京都鎮安、萩尾治種又從側面突擊斷絕敵軍後路,紹運又將右翼的先陣兵力以長槍加入攻勢,此時先陣後陣的騎兵整齊一列軍勢並進突擊,道雪更突馳追擊至敵本陣前的祇園原,龍造寺的騎馬武者多數陷於田地遂敗,損失2百83名戴甲武士。此戰為十三部野之戰。 4月23日,龍造寺家晴、筑紫廣門又率1萬6千餘後備兵力進攻高良山,於高良川沿堤防分五段軍勢。道雪、紹運、察知龍造寺軍的行動,與良寬、蒲池氏合併8千兵力佈陣於祇園原,並將兵力二分,於各處配置伏兵。 道雪此次親自為先陣大將,並配置由布惟信、十時惟由、十時連貞為先鋒,安東連忠、內田鎮家、竹迫連種、綿貫吉兼為後陣,高良山法師武者良寬等則隔軍配置做為後備。 道雪擺出約120~200挺鐵砲,只要敵軍一接近就只發射20~30發威嚇,而龍造寺軍約7~800挺鐵砲卻因此連發,由於龍造寺軍於山間擊出多發鐵砲造成煙霧瀰漫視界不良並且受迴音干擾,道雪的鐵砲隊則因為控制得當沒有受到硝煙影響,而龍造寺軍卻在這不利的狀況憑其大軍猛烈突擊,先鋒的惟信、惟由、連貞遂趁此狀況進行突擊並偽退誘敵,一度將其先鋒擊退後,龍造寺軍交替後陣不知是計猛烈追擊、道雪也加入後陣安東連忠等兵力,兩軍進入激戰被形容有如萬雷震盪,此時道雪立起馬印吹起法螺貝大為鼓舞軍勢,下令分二隊以由布惟信、十時惟由、十時連貞、內田鎮家、竹迫連種從側面突擊,此時十時連秀、綿貫吉兼、後藤種任、野上清四郎等揮槍討取龍造寺方不少有功的武士,同時以「鳥雲之陣」潛伏已久的朽網鑑康也突然襲擊,龍造寺軍潰散直至中軍,龍造寺家晴、筑紫廣門無法控制敗勢,道雪追擊約2町距離後引退,而龍造寺軍又重整軍勢反擊之時,紹運和良寬之伏軍又從森林兩旁出現以弓、鐵砲猛烈攻擊,打擊了龍造寺軍反擊之軍心,使其受三方圍攻大敗。此為祇園原之戰。 以上小森野、十三部野、祇園原三戰統稱築後久留米合戰(又稱為筒川合戰)是為道雪、紹運引用《孫子兵法》的「奇正戰術」最為代表性的一次戰役,其戰績被評價可媲美孫子、吳子。(此戰記載於《大友興廢記》、《九州諸將軍記》、《築後國史》、《高良山物語》等九州方面史料。) 兩軍在數戰中維持著膠著狀態,而九州南部的島津家卻在這時快速崛起,侵攻大友及龍造寺的領地,龍造寺不敵降服了島津家,築前國人如秋月、原田等見狀也陸續歸屬島津家。 於6月頃立花道雪突然於陣中發病,紹運對這位如同父親一般的前輩除了迅速請來醫師看診外,每天日夜不離的照顧,並將軍隊從高良山下移至北野村。9月11日,道雪再對家臣說完壯烈的遺言後逝去,頓失支柱的大友軍只能撤退,這時紹運說了: 『如同喪失柺杖的老人和於無燈的闇夜中行走一樣,我等復興大業已不可成,心頭就像行屍走肉一般空虛...』 之後紹運擔任殿軍運送道雪遺體,敵對的士兵見狀並沒有攻擊,而是深深的對道雪這位徹頭徹尾忠心於大友家並且一生37場大合戰皆無敗的名將致敬。 同年9月13日,筑紫廣門趁著道雪新死之際出兵奪下了紹運的寶滿城,他於入夜後先以千手喜雲率3百人以和尚之姿入侵寶滿山,並於城中放火,然後再派家臣島田武藏於和久堂城、村山近江守於柴田城出陣,擊破了防守的高橋老臣伊藤源右衛門和花田加右衛門,最後高橋軍在家老屋山中務的奮戰下護送了城中的紹運之妻宋雲院和次男統增至巖屋城,而寶滿城則被廣門攻下。 此時豐臣秀吉在本能寺事變後迅速提高地位成為關白,大友宗麟見自家衰落而向秀吉臣服並希望能援救被島津家攻擊的自家。筑紫廣門此時風聞秀吉的九州征伐計畫,遂決定離反島津家而想以紹運之子統增娶廣門之女的方式和紹運談和,因為紹運之妻和廣門之妻是姊妹,兩家皆由衷希望同盟,紹運便以歸還寶滿城以及交換雙方家老、中老之子為人質答應這項和議,而紹運會答應的原因,無非不是因為多了一道防衛島津家的戰線。天正十四年(1586年)2月,紹運次子高橋統增和廣門之女加禰姬結婚,至此,築前呈現立花、高橋和筑紫的「三國小同盟」。 秋月種實見筑紫和高橋家的同盟後要求龍造寺及島津出兵攻擊,島津義久為此慎重考慮過後於6月令一族的島津忠長為總大將聯合肥築兩州國人約5萬人進攻築前,7月6日,筑紫廣門遭受島津家接連攻陷居城更痛失愛子筑紫晴門後不敵投降,之後紹運將主力兵集結於巖屋城,寶滿城則留下統增夫婦和筑紫家臣約6百餘人,不久紹運聽聞筑紫家臣因為廣門被島津家俘虜而呈現不穩的情勢,反覆在兩城之間調動兵力警戒守備,果然筑紫家臣挾持了統增夫婦,最後在高橋家臣伊藤源右衛門果斷的圍攻下平息了這場小亂事。 7月14日,島津軍五萬對巖屋城發動了攻勢,紹運以763人相差了約50倍的兵力抵擋,每日不間斷的持續攻防... 《築前續風土記》中記載: 「終日終夜,槍聲都未有停息之時,士卒們在城中廝殺的呼喊生於大地之間回盪。城中隨處都可能是決定生死的場所,一次次的進攻被擊退,生命在戰鬥中消失。」 島津軍進攻了10日,不僅沒攻下敵砦還丟失了部分自軍兵砦,損失了許多兵士,島津忠長為此斷糧阻水,但是巖屋城的士兵仍然士氣高漲,並且負傷的高橋士兵其面對敵人的程度勝過了當時的島津士兵。之後島津軍替換生力軍攻擊,高橋將士才略顯疲態,終於在26日,島津軍攻破了巖屋城外圍進至二之丸和三之丸,此時高橋軍以大石大木和弓矢鐵砲攻擊島津軍,一時之間又遭受更大的損害。 忠長為此派出新納忠元為使者向紹運勸降,卻被紹運以忠言駁斥,其言語也受到島津士兵的喝采,忠元找不到話回覆,島津忠長遂決定於27日展開總攻擊。 27日,早朝約4~6時島津軍發動最後攻勢,紹運等高橋家臣雖然拚命的防戰,但是在踩踏著己方屍體蜂泳而至的島津軍面前,敗亡只是時間的問題了,殘存的士兵們在和紹運做了訣別後以遍體鱗傷之軀向敵軍發動了杜絕的逆襲,在本丸指揮的紹運,親自給負傷著敷藥以示鼓勵,並背誦佛經為亡者弔喪。這時候島津軍終於攻入了本丸,紹運手持大長刀帶領著旗本衝入敵軍陣中,斬殺了十七人。紹運此時的奮戰之姿被記載在《西藩野史》中: 「紹運雄略絕倫,領兵上陣,數次擊破薩軍攻勢、殺傷甚多。」 面對紹運等人瘋狂的奮戰,畏怯的敵軍敗逃出了本丸,不過紹運身上也已經傷痕累累了,兵士們也只剩下最後的五十餘人,多數也是有重傷在身。知道自己到了最後的時刻的紹運登上了本丸的最高處,在門檻上刻下辭世句後就切腹自殺了,享年39歲,時間是在下午五點左右。因紹運作為榜樣,殘存的武士們全體切腹殉死了,為紹運介錯的吉野左京亮也用同一把刀自盡。當為了奪取紹運頭顱而衝進本丸的島津將兵們,看到眼前這種壯烈場面都驚訝的的停止了腳步。 島津軍總大將島津忠長雖然與紹運敵對,但仍給他極高的稱讚,並用最高的軍禮執行首實檢。而且忠長還嘆息道: 『哎!這麼英勇的武將卻死在我的手裡,如果能和他成為朋友該是件多麼令人愉快的事情啊。弓矢可以取得人命,但我現在卻痛恨它們起來。』並在往後於紹運的墓上刻下讚詩: 一將功成冠九州 戰場血入染河流 殺人刀是活人劍 月白風高巖屋秋 島津軍在此戰因為紹運的死命防戰下,戰死的大將有二十七騎,死者則高達三千人之多,負傷者也有一千五百人。高橋軍還給予島津日向方面的援軍上井覺兼壞滅的打擊,並且曾在耳川之戰守住高城的勇將山田有信也被打的重傷昏迷,島津嫡系子弟也死傷慘重。 次年,用大軍降伏島津家的秀吉,在經過大宰府時讚嘆紹運主從的忠義,稱讚其為「亂世之華」並對他的陣亡感到十分可惜。 後來紹運之子立花宗茂在封地柳河建了天叟寺,統增在封地三池修建紹運寺,紹運的家臣藤內重勝在太宰府修建了西正寺,用來祭祀紹運和在巖屋城陣亡的將兵們,巖屋城周邊也有紹運的墓所和將士的首塚,並有一塊石碑刻著「嗚呼壯烈巖屋城」。紹運法名「天叟寺殿性海紹運大居士」 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%B4%B9%E9%81%8B