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織田秀信

三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、松平秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、毛利元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、北畠具藤、奥平貞能、尼子勝久、北条氏秀、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、松平秀忠、畠山政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、石成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、木下秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、猪俣邦憲、加藤嘉明、稲富祐直、平野長泰、波多野宗高、浅井久政、国分盛顕、児玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良頼房、松本氏輔、柴田勝豊、戸沢政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、猪苗代盛国、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾満栄、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豊久、矢沢頼康、来島通康、阿蘇惟種、阿蘇惟将、阿蘇惟豊、阿閉貞征、安芸国虎、安見直政、安宅冬康、安田顕元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稲葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、宇都宮高武、羽床資載、臼杵鑑続、延原景能、延沢満延、遠山景任、塩屋秋貞、奥平信昌、岡部長盛、岡本頼氏、屋代景頼、屋代勝永、屋代政国、温井景隆、温井総貞、下間仲孝、下間頼竜、加須屋真雄、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川広照、垣屋光成、垣屋続成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、関一政、関盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証恵、吉見広頼、吉見正頼、吉川経安、吉川経家、吉田孝頼、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親実、久慈信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戸康真、九戸実親、九戸信仲、九戸政実、窪川俊光、窪田経忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童頼兄、原胤栄、原胤貞、原長頼、原田宗時、古田重然、戸川秀安、戸川達安、戸沢政重、戸沢盛重、戸沢道盛、戸田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨頼親、国司元相、国分盛氏、黒岩種直、黒川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木広忠、斎藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、三好秀次、三好政康、三好政勝、三好存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三沢為清、三木国綱、山崎家盛、山崎長徳、山田宗昌、山田有栄、山田有信、山内一豊、山名豊定、山名祐豊、四釜隆秀、市川経好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波経詮、斯波長秀、氏家吉継、氏家守棟、寺崎盛永、寺沢広高、寺島職定、慈明寺順国、慈明寺定次、七里頼周、執行種兼、車斯忠、種子島恵時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種実、秋月文種、十河義継、楯岡満茂、小笠原信浄、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫頼久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、松永忠俊
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
前田玄以 Maeda Geni(1539年-1602年) 前田基光之子、正室為村井貞勝之女;實名前田基勝、別名孫十郎、半夢齋、號德善院,出家法名「玄以」。 最初為尾張小松原寺的僧侶,後來前往比叡山延曆寺。其後,玄以替織田信長效力,並且成為信長嫡子織田信忠的家臣。 天正十年(1582年),玄以在本能寺之變爆發期間與織田信忠身在二條御所,信忠得悉事變後命玄以帶同嫡子三法師(織田秀信)逃離京都,最初前往美濃岐阜城,後來再逃至尾張清洲城。 天正十一年(1583年),玄以出仕於信長次子織田信雄,並且獲任命為京都所司代,不過在翌年羽柴秀吉(豐臣秀吉)的勢力擴展至京都後,改仕於豐臣氏。天正十三年(1585年),玄以獲秀吉賞賜5萬石,成為龜山城主。 在豐臣政權下,作為京都所司代的玄以負責與朝廷交涉,身為奉行的玄以在天正十六年(1588年)亦成功讓後陽成天皇行幸至聚樂第。與此同時,玄以亦負責管理治社、管理京都內外區域的民政以及壓迫吉利支丹(基督教),後來才放寬處理,對基督教採取和平共處的政策。慶長三年(1598年),玄以獲秀吉任命為豐臣政權下的五奉行之一。 豐臣秀吉死後,玄以盡力平息豐臣政權的內部鬥爭,同時亦反對德川家康發動會津征伐。慶長五年(1600年),石田三成在大阪城舉兵後,玄以選擇加盟西軍,並且聯署討伐家康的彈劾狀,與此同時卻又暗中通知家康有關三成舉兵的消息。其後,玄以稱自己是豐臣秀賴的後見人而留在大阪,並且以患病為由未有出陣。玄以的把連番舉動,讓作為西軍一員的他在關原之戰後獲安堵於丹波龜山的本領,並且成為龜山藩主。慶長七年(1602年)5月20日,玄以死去,享年63歲。由於長子前田秀以早死,由三子前田茂勝繼承家督之位。 玄以為人深思熟慮,且無私心,因此深得織田信長和織田信忠父子信賴。由於玄以是僧人,所以曾經打壓基督教,後來採取理解的態度。秀吉領佈伴天連追放令後的文祿二年(1593年),玄次曾經在京都暗中保護基督教,亦曾經與葡萄牙的印度總督就基督教的關係進行交涉,他的兩名兒子也是基督教徙。按『佛洛伊斯日本史』第69章記載,僧侶出身的玄以,常有與僧人不相乎的舉動而遭到批評。 五奉行之一的增田長盛與玄以一樣留守於大阪城,亦將西軍的情報密告給德川家康,但是在關原之戰後依然被改易。這是因為家康希望利用玄以在朝廷的人脈,才優待玄以。另外,玄以促成天皇在秀吉的聚樂第行幸一事,則成為其一生的榮耀。 此外,玄以曾經成功擒獲盜賊石川五右衛門,石川五右衛門死於烹刑。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%8E%84%E4%BB%A5
堀秀政 Hori Hidemasa(1553年-1590年) 堀秀重的長子、妻為喜多島良滋之女,幼名菊千代,通稱久太郎。 出生於美濃國,幼時和從兄弟奧田直政(堀直政)由伯父一向宗僧人-堀掃部太夫一同養育。最初仕於織田信長側近-大津長昌,接著仕於木下秀吉(豐臣秀吉)。 在永祿八年(1565年)成為織田信長的小姓和側近。16歲時擔任將軍足利義昭暫住的本國寺的普請奉行等,負責各種奉行職,確立了側近的地位。信長的側近除了秀政以外,還有菅屋長賴、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、萬見重元等人。 秀政漸漸從奉行職轉移到戰場上有活躍的表現。參加織田軍主要的合戰,天正三年(1575年)參與討伐越前的一向一揆。天正五年(1577年)的紀州征伐,離開信長的本陣,與佐久間信盛和秀吉等人一同率領一支部隊。天正六年(1578年)的有岡城之戰中與萬見、菅屋等人率領鐵砲隊。天正七年(1579年)安土宗論時與菅屋、長谷川等人擔任奉行。天正八年(1580年)與菅屋、長谷川等人擔任傳教士屋敷的造營奉行。同年,在信長向蜂須賀正勝送出的書狀中發出副狀。 天正九年(1581年)的第二次天正伊賀之亂中在信樂口率領部隊。同年.被賜予近江國阪田郡2萬5千石。天正十年(1582年)甲州征伐中,跟隨信長進入甲信,因為織田信忠已經消滅武田氏而沒有參加戰鬥。本能寺之變前,明智光秀被奪接待德川家康的役職後,與丹羽長秀一同負責,在這次接待後,被編制到備中的秀吉之下。 天正十年(1582年),信長在本能寺之變後死去,秀政作為秀吉的軍監留在備中國。此後成為秀吉的家臣,在山崎之戰中參戰。與中川清秀、高山右近等人擔任先陣。 明智光秀受到柴田勝全的幫助逃離山崎後,秀政把援助光秀的從兄弟明智秀滿迫入阪本城。對敗北有所覺悟的秀滿把先祖代代相傳的家寶讓給秀政的家老直政後,在城中放火自殺。 清洲會議後,秀政取代丹羽長秀拜領近江佐和山城並成為三法師(織田秀信)藏入領的代官和守役。 在天正十年(1582年)10月20日送出的書狀中使用羽柴姓,被認為是在秀吉一族以外最初被賜予羽柴氏的人。翌年(1583年)4月,秀吉進攻越前北之莊的柴田勝家。家康向秀吉送出的書狀中寫著褒揚秀政軍功的字句。 戰後敘任從五位下左衛門督,被賞賜近江佐和山9萬石。因為從兄弟六右衛門是一向宗蓮照寺的住職的關係,於是亦負責與本願寺方交涉。 在天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰中,己方遭到德川方大敗,但是秀政把自軍分為3個部隊,伏擊正在追擊的大須賀康高和榊原康政等人,進行挾擊並令其敗走,與家康本隊沒有戰鬥並退卻。 天正十三年(1585年),秀吉成為關白,秀政敘任從四位下侍從兼左衛門督。在同年的紀州征伐(千石堀城之戰、第二次太田城之戰)和四國平定戰中因為軍功而被賜予丹羽長秀的遺領越前國北之莊18萬石,並獲得加賀小松的村上義明、加賀大聖寺的的溝口秀勝為與力。在天正十四年(1586年)與長谷川秀一一同被允許昇殿。在秀政於各地轉戰期間,佐和山城由父親秀重和弟弟多賀秀種以城代身份在城內進行統治(『新修彥根市史第1卷(通史編古代・中世)』彥根市史編集委員會2007年1月)。 天正十五年(1587年)九州征伐中,被任命為先鋒部隊。天正十六年(1588年)被賜豐臣姓。 天正十八年(1590年)小田原征伐中參戰,被任命為左備的大將(『寬政重修諸家譜』)。進攻箱根口並攻陷山中城,攻入小田原早川口,把本陣佈在海藏寺,不過在陣中患病死去,享年38歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
山内一豊 Yamauchi Kazutoyo(1545年-1605年) 岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)の黒田城、もしくは岩倉(現在の愛知県岩倉市)に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、後に信賢)の配下で、父の盛豊は家老として仕えていた。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立する。弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に岩倉城が落城した際、父の盛豊は討死もしくは自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。 一豊は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)をはじめ、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕える。景隆が織田信長に逆らって出奔したことから、永禄11年(1568年)頃から信長の配下に入り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の下で家人となったと考えられるが、秀吉への仕官を天正2年頃とする説もある。 元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いでは顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。この戦闘の際、一豊の頬に刺さったとされる矢は、矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられた。 なお、「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573年)の間であったと見られる。 天正4年(1576年)の竹生島奉加帳に「山内伊右衛門」と署名しており、この頃までには秀吉の直臣となっていたことが確認されている。 天正5年(1577年)には、播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2,000石を領した。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や因幡の鳥取城包囲・高松城水攻め(備中高松城の戦い)などに参加している。 天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談がある。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっている。 四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共にその宿老の1人として付けられて、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく秀次が近江八幡に転封すると、一豊も近江へ移り、長浜城主として2万石を領した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、秀次に従い山中城攻めにも参加した。織田信雄の改易に伴って再び秀次が尾張・伊勢で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠江国掛川に5万1,000石の所領を与えられた。この頃から大名としての行動が見られ、掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主中村一氏とともに行っている。朝鮮の役では、他の秀次配下の諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出した。 文禄4年(1595年)に秀次が謀反の疑いで処刑され、この頃に秀次の宿老であった前野長康と渡瀬繁詮はこの事件の責任を負わされて、秀次を弁護した繁詮は切腹を命じられ、長康は中村一氏に預かりとされて蟄居後、賜死とされた。しかし一豊や田中・中村・堀尾ら配下の大名衆は、秀吉の命令を遂行して秀次らを取り調べる立場となり、秀次の処断の後で逆に遺領から8,000石を加増されている。 秀吉の死後の慶長5年(1600年)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加した。家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われる。また大坂の妻からの密書で石田三成の挙兵の知らせを受けたという話も有名である。これらは話の信憑性には疑問があるものの、東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていた。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、豊臣恩顧の家臣衆の取り纏め役を果たしていたとは考えられる。 関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を、池田輝政や浅野幸長らと共に破った。本戦でこれらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当したが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家隊が南宮山に蓋をしていたためにさしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場へ移動した。戦後は小山会議での右顧左眄(うこさべん)していた諸侯を一挙に徳川加担に向かわせた発言が功績として高く評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。 慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり、余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要な役職を主に外来の家臣で固めたが、有益な長宗我部旧臣は懐柔して登用した。当時はまだ土佐領内に不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城の築城の際などには一豊と同装束六人衆を影武者として共に現地を視察したと言う。 高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行った。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わる。それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。 慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されて、従四位下土佐守に叙任された。 慶長10年(1605年)、高知城にて病死した。享年60。法名は大通院殿心峯宗伝大居士。墓所は高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院。 現在、高知城には(右上の写真にある)一豊が騎馬姿で槍を持った姿の銅像が建てられている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A
柴田勝家 Shibata Katsuie(1522年?-1583年) 柴田勝義之子?、正室為織田信長之妹.阿市;通稱權六郎、權六,號淨勝,渾名鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田。 早年是織田信秀的家臣,在織田家中與佐久間信盛並稱『衝鋒柴田』、『撤退佐久間』,信秀死後成為織田信勝(織田信行)的家老。天文二十一年(1552年)織田信長與清洲城城主織田信友交戰時勝家擔任大將,先是斬殺敵方家老阪井甚介,後又立下了討取三十騎的戰功。弘治二年(1556年)8月與林秀貞策劃叛變計劃,試圖推翻織田信長。兩軍最終在稻生原交戰,過程中勝家殺死敵方勇將佐佐孫介(佐佐成政次兄),最終信行方戰敗,勝家被捕後,由於信長母親土分御前的求情,及被織田信長賞識勇武而受用,之後勝家為表示忠誠而剃髮。弘治三年(1557年)信行再次謀反,不過計劃被勝家發現,向信長揭發事件,因而使信行遭信長派遣的河尻秀隆暗殺,之後信長命令柴田勝家將信行的兒子津田信澄撫養至成人。 織田信行死後勝家獲得織田信長的重用,身為先鋒戰場突進力極為優秀,在軍事與政務上皆有貢獻。他參加尾張統一戰、桶狹間之戰及對齋藤氏的戰爭,齋藤氏勢力瓦解後,協助信長進行上洛的戰爭,率領織田軍內四先鋒一路攻下城池,替信長開了一條上洛的康庄大道。永祿十二年(1569年)1月、為鎮壓三好三人眾的本國寺之變,與信長再度上京、4月上旬之前,在京都與畿內擔任行政事務5人組,有著不錯的評價。同年8月、支配南伊勢5郡,參與討伐北町氏的戰爭。永祿十三年(1570年)足利義昭向織田信長宣戰,信長包圍網時期不斷跟隨信長作戰,擔任先鋒大將立下了眾多戰功。5月六角氏響應包圍網再次攻擊琵琶湖,柴田勝家被大量的敵人重重包圍,水源又遭壟斷,勝家將水缸打破,讓敵人以為織田軍水源充足,當晚勝家待在部隊最前線衝鋒殺入敵陣,與佐久間信盛、森可成及中川重政奮戰,最後完全殲滅敵軍,獲得了過人的戰果。 元龜二年(1571年)5月參與攻擊長島一向一揆,地形狹窄樹林茂密對織田軍不利,多數織田戰將死於此役,織田軍撤退之時由勝家擔任墊軍,奮戰之下勝家自身也受到重傷,之後墊軍部隊交由氏家直元指揮,後直元也在此役中陣亡。元龜四年(1573年)2月勝家參與對足利義昭攻擊,勝家率領軍隊攻略義昭數城池使其投降,但是被松永久秀從中議和妨礙而失敗。4月跟隨織田信長攻打足利義昭居城,信長指示勝家放火燒城,義昭逃離京都被逼到槙島城。義昭的側近三淵藤英據有二條城,也在勝家的調略下開城投降。7月,勝家擔任攻打槙島城的總大將,七萬人向勝家投降,此後義昭已無任何權勢,逃到毛利氏的勢力範圍,室町幕府實質滅亡。8月份擔任攻打朝倉氏的先鋒,突破朝倉軍陣後以火攻燒毀朝倉大本營一乘谷城,朝倉義景的勢力從此被趕出越前。 天正二年(1574年)第三次攻擊長島一向宗,與佐久間信盛共同指揮,今次終於攻陷。天正三年(1575年)參與長篠之戰,戰鬥途中擋下了攻入防馬欄的真田信綱與真田昌輝兩兄弟的突擊,使真田信綱死於火槍的攻擊,真田昌輝則負傷撤退。天正4年(1576)年,當織田信長攻下了越前之後,勝家獲封北陸方面軍總大將,下轄越前五人眾:前田利家、原長賴、不破光治、金森長近、佐佐成政,受封為北陸越前國國主,領有越前國八郡49萬石和北之庄城,並在越前當地實施日本歷史上首次的刀狩令。天正五年(1577年),越後國大名上杉謙信出兵攻打加賀,柴田勝家作出迎擊,雙方在手取川交戰,柴田勝家和羽柴秀吉發生了戰術上的衝突,之後秀吉自行率兵撤退。勝家因無法單獨對抗上杉謙信而收兵撤退。消息快速的傳入上杉謙信的耳裡,謙信在夜中追擊被手取川河水暴漲所擾的柴田軍,勝家在當下做出了正確的判斷,命令全軍撤退並親自殿軍,所幸如此織田軍沒有失去任何重要將領,而勝家本人也相安無事回歸。 手取川之戰後,上杉謙信急病逝去,而上杉家繼承人出現了內亂。天正八年(1580年)勝家完全平定作亂90多年的加賀一向一揆,這是朝倉氏歷代與朝倉宗滴不曾做到的壯舉。天正九年(1581年)以越前眾的身份參與京都舉行的馬揃活動,同年為防範上杉軍透過伊達家臣遠藤基信與伊達氏外交並聯手。 天正十年(1582年)3月攻擊上杉氏的魚津城及松倉城,6月3日攻克魚津城後,包圍松倉城時,得知織田信長在本能寺身亡的消息,勝家嘗試前往京都了解情況,但軍隊受到上杉軍的攻擊,未能前往京都。於6日當晚撤兵返回北之庄城。。 本能寺之變後,柴田勝家與羽柴秀吉的分歧變大,在清州會議決定織田家繼承人問題之爭,清州會議後勝家雖然增加了北近江3郡及長濱城共6萬石的領地,但是秀吉更是增加了河內、丹波及山城共70萬石,而且織田家繼承人確定為秀吉推薦的織田信長長孫三法師(織田秀信)。不久,柴田勝家迎娶織田信長之妹阿市。後來試圖拉攏瀧川一益及織田信孝與秀吉對抗,然而秀吉趁著北陸大雪封山之際,首先針對留守長濱城的勝家養子柴田勝豐進行壓迫與懷柔。其次包圍岐阜的織田信孝並使其屈服。天正十一年(1583年)正月,秀吉對瀧川一益的北伊勢發動7萬大軍爭討。一益於3月兵敗逃亡。隨一益及信孝失利,秀吉矛頭直指向勝家。 天正十一年(1583年)3月12日,勝家進軍北近江,與北伊勢的羽柴秀吉對峙(賤岳之戰),在此之前,勝家向毛利家保護的足利義昭去信,要求毛利出兵夾擊秀吉未果。進行了一段時間的持久戰之後,勝家派遣姪子佐久間盛政突襲敵軍,殺死了敵方將領中川清秀。雖然獲得了一時的勝利,但是盛政違反軍令拒絕撤退,4月16日,秀吉擊敗再度舉兵的織田信孝與瀧川一益後,自岐阜進攻勝家在賤岳的大岩山砦,盛政因而在山砦中被擊潰。之後前田利家又忽然率軍撤退,丹羽長秀也解除了琵琶湖水道的封鎖,使本來兵力就較少的柴田軍戰敗。 戰後,羽柴軍大舉包圍勝家居城北之庄城,然而勝家卻原諒前田利家在賤岳之戰不出手相救的舉動,並讓利家和自己的家臣們去追隨羽柴秀吉,4月24日,妻子阿市與80多位家臣跟隨勝家一同自盡身亡,家臣中村聞荷齋擔任介錯。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6
池田恆興 Ikeda Tsuneoki(1536年-1584年) 池田恆利之子、母為養德院、妻荒尾善次之女.善應院;別名勝三郎、紀伊守、號勝入。 其母為織田信長之乳母,據說信長之父織田信秀,起初為信長找了許多乳母,都因當時名為「吉法師」的信長吸奶方式強烈而造成乳頭破裂,不斷地更換乳母,直至養德院當乳母後才獲得改善。信長與生母關係不睦,卻與養德院互動良好,並尊稱其為「大御乳」。亦有學者指出後來養德院原配丈夫去世後,由信秀納為側室。 基於母親與信長深厚的緣分,恆興從十歲起就擔任信長的「馬迴眾」(親衛部隊),逐步累積戰功。於元龜元年(1570年),受封為尾張犬山城主,但其後隸屬於信長嫡子織田信忠麾下,沒有獲得進一步的發展。直至信長召回恆興,擔任進攻叛變的荒木村重之任務,於掃蕩完荒木殘黨據守的攝津花隈城後,受封攝津一國。 天正十年(1582年),信長於「本能寺之變」遭明智光秀攻擊而死,嫡子信忠亦戰死,織田家眾將群龍無首,羽柴秀吉(豐臣秀吉)從姬路城率軍兼程趕回近畿地區,恆興之領地攝津,位處西國通往近畿之要道,恆興當下選擇加入秀吉的軍團,共同討伐光秀,於「山崎會戰」中,擔任右翼指揮,於兩軍激戰時,率軍突破明智軍左翼部隊,迫近光秀本陣左側,成為決定該戰勝敗的最後關鍵。 光秀敗亡後,恆興與秀吉、丹羽長秀及柴田勝家等四人,以織田家宿老地位參與「清州會議」。會議前,秀吉早與恆興、長秀兩人事先聯絡好,力拱信長嫡孫三法師(織田秀信)擔任織田家名義上的繼承人,三票對一票,讓欲推舉信長三子織田信孝的勝家難以抗衡,會議結束後,恆興除原有的攝津之外,另取得近畿部分領地。天正十一年(1583年),在秀吉擊敗勝家的「賤岳會戰」後,恆興又取得美濃大垣城。恆興判斷秀吉已經是信長事業的實質繼承者,急速從織田家宿老身份,轉而成為秀吉的屬將。 天正十二年(1584年),信長次子織田信雄受到秀吉威逼,向德川家康求救,家康率軍前往尾張、美濃一帶與秀吉對抗,恆興與女婿森長可都加入秀吉陣營,恆興發動攻勢先奪下犬山城,但森長可在「羽黑之戰」時敗給德川軍的酒井忠次等人,使得秀吉勢力無法繼續南進。家康鑑於恆興的犬山城攻略成功,乃決定將本陣設在小牧山一帶,並興建防禦工事,準備作長期對抗。為替女婿森長可討回面子,恆興向秀吉獻策:趁家康出兵濃尾之際,以偏軍進攻三河本土。 秀吉乃以外甥羽柴秀次擔任名義上的總大將,堀秀政擔任輔佐,由恆興與森長可擔任先鋒,合計二萬兵力從尾張進逼三河,但該軍事行動已被家康察知,家康秘密率軍從小牧山本陣出發,從後方追擊,並派榊原康政擔任先鋒先行出發圍堵入侵軍,完全沒有料到有伏軍存在,後方的秀次軍隊遭到攻擊,軍勢大亂,秀次潰走,崛秀政退兵,恆興與長子池田元助、女婿森長可在前方擔心秀次安危,急忙從前方退軍救援,結果大軍困在長久手附近的森林區域,遭到家康及康政的軍隊前後夾擊而殲滅,恆興、元助、森長可均當場戰死,年49歲。 恆興次子池田輝政後來繼續在豐臣、德川政權下效力,最後成為播磨的姬路城主。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401585
池田輝政 Ikeda Terumasa(1565年-1613年) 池田恆興的次子,母親為荒尾善次之女-善應院,幼名古新,初名照政。 池田家是源賴光的五代孫泰政的後裔,此外也有楠木正行後裔的說法,出身地有美濃池田郡的池田莊、尾張春日部郡池田鄉、攝津池田莊等,在輝政祖父恆利的時候正式投向尾張織田家,而池田輝政的父親池田恆興因為母親是織田信長的乳母,是信長的乳兄弟,因而與信長關係親密,長久以來都是擔任他的直屬將領,直到在平定荒木村重叛亂時立下大功,才受封村重的舊領攝津伊丹、尼崎。同時年僅十六歲的輝政也在攻打花隈城以弱冠之年立下戰功,得到信長賜下的感狀。 天正十年(1582年),織田軍大舉攻打武田家,池田輝政被配入信長長子織田信忠麾下自伊那口攻進信濃,本能寺之變後在決定織田家繼承人的清州會議中,因為與秀吉的交情聲援協助支持信長嫡孫三法師接任家主,會後以織田家宿老的身份領美濃大垣城十三萬石,輝政也被任命為池尻城主。天正十二年(1584年),不滿秀吉地位竟在自己之上的織田信雄聯合德川家康與秀吉對抗,兩軍在小牧對峙。之後父親池田恆興在攻擊家康的居城三河岡崎時被德川家康從背後襲擊與姐夫森武藏守、長兄之助一同在長久手討死,輝政僅以身免。 父兄皆亡後,輝政接任家督之職於天正十三年(1585年)繼承父親遺領擔任美濃大垣城主領十三萬石封地,同時參與對佐佐成政之戰,翌年轉封為歧阜城主,天正十五年(1587年)秀吉征伐九州後,賜輝政「羽柴」姓,翌十六年後陽成天皇行幸聚樂第,輝政在秀吉的奏請下拜從四位下侍從,並被賜姓豐臣。之後輝政隨秀吉出戰小田原征伐之戰,轉戰於關東平原,直達東北會津一帶戰功彪炳。戰後全國宣告統一,殺父仇人德川家康也由此時轉封至關東八州,輝政則是得到他的舊領三河寶飯、設樂、八名、渥美四郡共十五萬二千石的封地,任吉田城主,因此他也被時人冠上「吉田侍從」的稱號。後於文祿年間豐臣秀吉侵略朝鮮時,池田輝政未渡海參戰,而是留守吉田城負責東國警衛的職務,也在這段期間擔綱山城伏見城、大和多內城的構築普請事務。 輝政先娶織田信長部將中川清秀的女兒糸子為妻,但是後來離異。文祿三年(1594年),秀吉為了協調輝政與德川家康的關係,主動作媒讓他迎娶家康的親生女兒督姬為繼室,督姬原本是北條氏直的妻子,由於北條家在小田原之戰後滅亡,氏直也在戰後一年便過世,遂再嫁給輝政。成婚後輝政到家康的府第拜見岳父時,提出與斬下父親首級的永井傳八郎見面的要求,本來家康不願答應,但在輝政的百般請求下,家康讓輝政承諾不會殺永井的條件後,才命人把永井傳八郎找來,永井一到輝政便問他一句:「你殺了我父得到多少賞賜?」永井照實說加了五千石,輝政悲泣道:「難道我父的首級只值這些?」聽到女婿這麼說,德川家康連忙承諾日後會在給永井加封,後來果真讓永井成為下總古河城主領七萬兩千石。 慶長三年(1598年),秀吉死後不久,豐臣家分裂成文治武功兩派,池田輝政由於長年與福島正則、加藤清正並肩作戰而相善,然而意圖奪取天下的家康有意無意地無視豐臣秀吉「諸大名不能私婚」的遺命,讓衝突不斷加劇,同時也以武功派支持者的身份暗中主持大局。慶長四年(1599年),前田利家辭世,池田輝政和福島正則、加藤清正、黑田長政、細川忠興、加藤嘉明、池田輝政及淺野幸長等七人於當晚襲擊石田三成的屋邸,石田三成被迫向德川家康尋求保護,也因此被逼隱居佐和山城。 隨後家康對了壓制上杉景勝展開會津征伐,石田三成也趁機發動關原之戰的前奏曲圍攻伏見城,小山軍議上池田輝政和黑田長政、淺野幸長、細川忠興等人附合福島正則之意加入東軍。為了保障東軍將領的城池,池田輝政與福島正則聯手擔任東軍的先鋒東上會師於清州城,池田輝政協同淺野幸長、山內一豐、堀尾忠氏、一柳直盛等率兵 一萬八千經木曾川上游攻打岐阜城。而福島正則與細川忠興、黑田長政則經木曾川下游攻打竹鼻城,隨後兩軍會合一同以優勢軍力攻下西軍方織田秀信的岐阜城,戰後因功獲得播磨五十二萬石領地。 關原之役後,池田輝政遷居至姬路城並於慶長六年(1601年)正式將姬路城擴建成五層六階、地下一階的天守閣襯上修飾的白色漆底,使整座姬路城更加優雅美觀,好似展翼白鷺,從此之後姬路城就得到白鷺城的美名,而且他治國嚴謹,法規明確,再加上是征夷大將軍德川家康的女婿,份屬親族。而且在事實上再輝政之弟池田長吉領有因幡國六萬石,次子忠繼也領有備前岡山二十八萬石、三男忠雄領有淡路洲本六萬三千石,統整算來池田家總共擁有近百萬石的大領地,因此池田輝政也為世人稱道為西國將軍或姬路宰相。 慶長十七年(1612年),池田輝政的幕府賜姓松平,並且得到正四位上參議的官位,但旋即於隔年中風病歿,享年四十八歲,法名國清院泰叟玄高大居士。 歷史上給池田輝政的評語是「少時倜儻,及長雄偉,為人剛直,臨下以寬。」輝政歿後,播磨遺領由長男利隆繼承,後其子光政因繼位時年僅七歲,被轉封至分家池田長吉一脈所領有的因幡國,領三十二萬石,為後來的鳥取藩。輝政次子忠繼後又加增了十萬石,領地多至三十八萬石,但池田忠繼於十七歲時便英年早逝,由三弟忠雄繼承,領三十一萬五千石,即為岡山藩。而長吉之子池田長幸改封至備中松山六萬石,至其子長常時無嗣而絕。明治維新後,鳥取、岡山藩池田家皆被列為侯爵。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/73090002/1
瀧川一益 Takigawa Kazumasu(1525年-1586年) 瀧川資清的次子、母不詳;幼名久助、通稱彥右衛門、號不幹、法名道榮。 相比起很多織田信長家臣,一益的能力很早就被信長發掘出來,並加以重用。永祿四年(1561年),擔任使者邀請松平元康(德川家康)前往清洲城即信長當時的居城,達成同盟(即清洲同盟)。 永祿十年(1567年)2月,被委任為進攻伊勢的總大將,成功的攻下桑名、員辨二郡,於是織田信長將伊勢侵略全權交給一益,不久後用計拉攏木造具政,以對抗伊勢最大勢力北畠具教,而之後信長迅速以大軍壓進伊勢國內,使得原本猶豫不決的諸勢力迅速倒向織田方,北畠氏的滅亡指日可待。兩年後(1569年),一益以寡兵奮戰,利用伊勢國人眾的倒戈,終於使得北畠具教接受信長的勸降命令,並收織田信雄(信長次子)為養子,織田信孝(信長三子)則被神戶具盛收為養子。之後則被任命防守伊勢(大河內城之戰)。 元龜三年(1572年)的三方原之戰,與平手汎秀、佐久間信盛共同被織田信長命為援軍,然而在德川軍全面崩潰時逃亡,但並沒有被信長制裁。 元龜四年(1573年),隨同織田信長征討足利義昭,攻陷其所在的稹島城。然後立刻前往加入淺井、朝倉討伐軍,勢如破竹的攻進朝倉本據地一乘谷城,之後負責安撫朝倉降將及越前國人的任務。同年九月,信長攻擊長島一向一揆,也加入攻勢中,戰後受封北勢五郡,兼任長島城主,信長還申請左近將監的官位給一益。天正三年(1575年)5月,長篠之戰中率領鐵炮隊出陣,也參與同年的越前一向一揆殲滅戰。 天正五年(1577年)2月,則是隨著已經漸漸減少出陣的織田信長征討紀州的雜賀眾,8月則前往越前支援柴田勝家對上杉謙信的手取川之戰,但敗北,10月則加入織田信忠(信長嫡男)對松永久秀的討伐戰,久秀自殺後,迅速前往丹波協助明智光秀。之後播磨的羽柴求援,便帶著丹羽、明智前往播磨參戰。天正六年(1578年),被信長要求,造出能擊敗毛利家水軍的大船,之後與九鬼嘉隆造出六艘鐵甲船,在第二次木津川之戰中大敗毛利水軍,九鬼嘉隆因此役而受封領地,被人稱為海賊大名。同年,鎮守攝津有岡城的荒木村重突然謀反,因此信長迅速誘降中川清秀、並勸降高山右近以求孤立村重,並且親自出爭攝津,一益與丹羽長秀和信忠則於他處夾攻,攻陷有岡城,一益則立下大功。 天正八年(1580年),稱霸關東的北條氏頻頻透過一益來向織田信長示好,而與武田交惡的信長自然樂見其成,於是任一益為「關八州御警固」,以維持與北條聯繫。 天正九年(1581年),輔佐織田信雄進攻伊賀,即第二次伊賀進攻,在善用兵的一益協助下,曾大敗信雄的伊賀眾只抵抗的不到半個月就被消滅。 天正十年(1582年)3月,在一益長期勸誘下,武田勝賴旗下鎮守東山道的大將木曾義昌也倒戈至織田軍,而織田信長則於此時聯絡德川、北條氏,討伐武田氏,此戰總兵力達到十七萬之眾,織田軍勢如破竹,武田方因勝賴長期惡政,織田方完全沒有受到抵抗就攻至新府城,勝賴則在家臣的守護下完成切腹,源氏名族,稱霸東海的甲斐武田就此滅亡。同年,官位已是正二位內府的信長,將原是上杉氏所有的關東管領職賜給一益,並封給一益上野一國和信濃二郡的領地,此時一益所領的石高已經直逼百萬石,而關東的經營信長則全權交由一益來處理。 6月2日,當主織田信長在本能寺因為明智光秀的謀反而死亡,而一益則深知此事不可能隱瞞,於是開誠布公告訴投靠在他旗下的上野國人眾,讓他們自己決定去留,結果所有人都因感佩而留在一益旗下,但是北條氏此時一方面來信安撫,一方面則迅速動員大軍六萬人以取回失去的關八州主導權。而一益早就由手下甲賀眾遞上的情報判斷出北條氏的野心,於是迅速備戰,徵招到一萬三千人的軍勢。後來兩軍開戰,一益迅速攻下制高點的金窪城,並大敗來援的的北條氏邦,而北條氏則在神流川合流五萬兵力對瀧川方發起總攻,但是在一益的運籌帷幄之下北條氏久攻不下,焦急的北條氏判斷一益的目的是迅速趕回近畿處理織田家事務,因此詐敗,當一益大喜而深入的時候,北條方發起反攻,瀧川軍大敗,此戰史稱神流川之戰。 一益以往的勇猛及武運也隨著神流川之戰大敗而煙消雲散,往後伴隨著他的是一連串的敗戰與羞辱.... 在一益費盡千辛萬苦終於回到長島城時,羽柴秀吉(豐臣秀吉)早已經為織田信長報仇,然而清洲會議上,秀吉硬是將一益從宿老的位置上拉下來,而後來在信長的百日祭時也被秀吉譏稱:「沒有瀧川大人的位置。」在織田家形成派系後,一益迅速的加入柴田方。 同年12月,羽柴秀吉發兵攻打岐阜城的織田信孝,而信孝則交出在清洲會議上被秀吉推選為繼承者的織田三法師(織田秀信)後談和。天正十一年(1583年)正月,一益對羽柴軍的龜山城發起猛攻,而信孝也迅速進攻大垣城以牽制秀吉,替柴田勝家對秀吉的決戰增加優勢,然而就在此時,秀吉之弟羽柴秀長(豐臣秀吉)竟然迅速的攻下伊勢諸城,使得一益只能暫時降服,靜觀其變。然而一益的期望落空,柴田在賤岳之戰大敗,一益的領地全被秀吉沒收,只被賜與區區的五千石。 天正十二年(1584年)加入羽柴方參與小牧長久手之戰,但失利,戰後被羽柴秀吉斥責。不久後出家,號入山庵,將家督讓給次子一時,蟄居於越前,領三千石的隱居料,後來秀吉一度想以一萬二千石重新起用一益。 天正十四年(1586年),在失意中病死,年六十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E7%80%A7%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
竹中重門 Takenaka Shigekado(1573年-1631年) 竹中重治的長子、母為安藤守就之女.得月院、正室為加藤光泰之女;幼名吉助。 由於父親重治在隨軍出征播磨三木城時因病溘然長逝,改由年僅七歲的重門繼承家督之位,也因為重門年僅七歲,所以採取折衷作法讓重門的叔父,也就是時為織田信長馬迴的竹中重矩擔任名代,輔佐重門統帥竹中氏的兵力繼續協助攻打三木城。 天正十年(1582年),本能寺之變爆發,同時在美濃也有齋藤利堯掀起的叛變,更一股進佔重門岐阜城,美濃國內一揆蜂起,竹中重矩為平定紛亂出兵,在六月六日於不破郡長佐村和一揆交戰時陣亡,得年三十七歲。三年之中,竹中家接連喪失重門兩位主要領導人物,使竹中家陷入失去權威基礎的困境。加上名義上的家主重門僅有九歲,因此被秀吉沒收重門知領地位,只給重門微薄的俸祿維生。 因此在六年後,天正十二年(1584年)時,為重門重興竹中家,重門在家臣鼓勵下,以十二歲的束髮之齡率領舊臣百餘人參加對德川家康的小牧、長久手之戰,雖然並未立下顯著戰功,但是因為重治之子的身份,令秀吉產生同情,於是讓重門恢復舊領,重新回到菩提山城。並於天正十六年(1588年),天皇行幸聚樂第時,替年僅十六歲的重門拜請敘任從五位下丹後守的官位。重門也在同年廢棄菩提山城,改在山麓興建陣屋巖手城。之後重門便做為秀吉家臣參加小田原征伐,並在侵朝戰爭中在文祿年間擔任東二之丸後備眾,領兵兩百駐屯名護屋城,於文祿三年(1594年)時,加封河內大縣郡佃村、安宿郡玉手村共一千石的加封。後來在慶長年間受命擔任軍目付,渡海進入朝鮮。 在秀吉死後,為天下誰屬而發生重門關原之戰,身為秀吉近臣的重門,先是從屬於西軍,在織田秀信的調配下與妻弟加藤貞泰一同協助石川貞清守備犬山城以抵禦來犯的東軍部隊,但是在東軍的黑田長政勸說下重門早與東軍內通,向井伊直政派出密使。岐阜城破後,重門便經由井伊直政仲介易幟。擔任東軍嚮導,與山內一豐協同行動與東軍前鋒黑田長政隊合流。開戰後,在井伊直政、松平忠吉、福島正則出擊西軍時,重門和黑田長政一同點燃重門丸山上的狼煙,正是揭起關原合戰最激烈的一幕。 之後重門和黑田長政、細川忠興一同擔任東軍的右翼先鋒與西軍石田三成部隊交戰。在戰後的落武者狩中,重門的家臣伊藤治右衛門在九月十九日於伊吹山中捕獲重門西軍有力武將的小西行長,並送交至德川家康在草津的陣地,竹中軍因此立下大功。戰後,重門的領地美濃巖手六千石獲得安堵,並得到德川家康的感狀,成為幕府旗本。同時家康也為撫卹竹中軍的陣亡者,賜贈一千石米作為供養料,重門利用這一千石在巖手城外加設外堀,這道外堀也因此被稱作千石堀。 此後重門以幕府旗本活躍於內政工作上,曾參加二條城普請,並在慶長十三年(1608年)的名古屋城普請中,擔任砍伐木曾山木材奉行。兩次大阪之陣,也都隨軍出兵,獲得八萬石大名格的待遇。公務之餘,重門還師從林羅山學習和漢文學,尤善文筆詩詞,在歌道上也有不俗成就,並將侍從豐臣秀吉時的所見所聞留下記錄。 寬永八年(1631年)死去,年五十九歲。 出處 http://facebook.zone.gamebase.com.tw/zone/facebook/forum/3867/topic/75154925/1#1164638319
織田秀信 Oda Hidenobu(1580年-1605年) 織田信忠的長子、母為鹽川長滿之女.德壽院、正室為和田孫太夫之女、繼室為生地真澄之女.町野;幼名三法師、別名三郎、通稱「岐阜中納言」、法名「大善院圭嚴松貞」。 織田秀信出生時,由於當時織田信忠的正室死前並未誕下兒子,因此秀信並非是信忠的嫡長子,而是長子。 天正十年(1582年)本能寺之變期間,留在歧阜城,在前田玄以的保護下,到清洲城避難。在清洲會議中,羽柴秀吉力挺秀信為織田家繼承人,由四位家臣行使守護職責,史稱「織田四宿老」,分別為羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恆興(織田信長乳兄弟)。結果秀信獲得近江國阪田郡3萬石領地,由堀秀政(名義上是織田家臣,實際上是羽柴家臣,在羽柴家中享受同族待遇)代管。天正十二年(1584年),遷移到丹羽長秀的阪本城。 天正十六年(1588年),在歧阜城元服,名為三郎秀信。就任從四位下官職。同年4月後陽成天皇前往聚樂弟時,在『聚樂亭行幸記』中以朝臣三郎侍從秀信被記載。在當時列席人士官位排第五,與前田利長、豐臣秀勝、結城秀康並列。 天正十八年(1590年),小田原征伐時列入第六番隊,是堀秀政隊中左備大將指揮鐵炮隊。 天正二十年(1592年),豐臣秀勝死後獲得歧阜13萬石領地,將部分織田氏的舊家臣再次召集,稻葉貞通時任家老。 天正二十年(1592年)跟隨長岡忠興,出征朝鮮。翌年返回日本,與豐臣秀吉會面後,獲贈羽柴姓,在當時的史書中有岐阜中納言名字。 織田秀信信奉吉利支丹(基督教),慶長二年(1597年)與弟織田秀則一起信奉。秀信在領地內建設基督教設施,不過沒有一面傾向支持基督教,亦保護佛寺、神道寺廟。 慶長五年(1600年),關原之戰爆發,織田秀信拜見豐臣秀賴後獲得200枚黃金及2000至3000石的兵糧。石田三成以美濃及尾張兩國領地利誘秀信加入西軍,並派遣家臣柏木彥右衛門及河瀨左馬之助支援秀信。面德川軍的先遣部隊向岐阜城進軍,織田秀信選擇迎擊,雙方在木曾川及米野交戰,織田軍戰敗退守歧阜城。織田軍在防守歧阜城時仍然奮戰,但是由於雙方兵力懸殊,織田軍戰敗。 原本織田秀信與弟秀則打算切腹自殺,卻被福島正則阻止。戰後,織田秀信的13萬石領地被沒收,並被流放到高野山,五年後過世,年二十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1
豐臣秀吉 Toyotomi Hideyoshi(1537年-1598年) 木下彌右衛門之子,母為阿仲(大政所),繼父竹阿彌,猶父近衛前久,正室為淺野長勝養女.寧寧(高台院),側室為淺井長政長女.茶茶(淀殿)、成田氏長之女.甲斐姬;幼名日吉丸,初名藤吉郎,後改名秀吉,取丹羽長秀和柴田勝家各一字,改姓羽柴;認近衛前久為猶父,以其本家藤原氏為姓、後受天皇賜姓豐臣;別名元吉,綽號猴子。 由於秀吉的出身並非顯貴,有關於他早期的文獻記載十分有限,僅大概知道他少年時曾在尾張、三河、駿河等地方活動,父親曾在尾張地方國人眾蜂須賀氏(蜂須賀正利)麾下當雇傭性質的雜兵,修理兵器鍛造,七歲喪父造,八歲母改嫁。入光明寺當小沙彌(被喚為禿鼠的原因),曾經在遠江國引馬城支城頭陀寺城成為松下之綱的部下,『太閤記』記載秀吉元服時由松下之綱為烏帽子親並命名中村秀吉,但離開原因不明。後從遠房姨媽伊都父親清兵衛的鍛冶屋拿針販賣。 天文二十三年(1554年)以小者的身分成為了織田信長的家僕,被信長喚為猿或禿鼠(禿げ鼠),地位在足輕與「中間」之下,作為小者中的「草履取」的等級,若隨信長上陣,「中間」可以持脅差或木刀,小者只能幫主公提武具或充當「人夫」。後來因幫信長拿草鞋時將草鞋放進懷裡暖鞋獲得信長的歡心。天文二十四年(1555年)陪同信長側室生駒吉乃回娘家小折城的生駒屋敷,經吉乃介紹認識生駒氏親戚蜂須賀正勝與川並眾。永祿四年(1561年)與淺野長勝的養女.寧寧結婚,從妻姓,更名為木下秀吉。永祿十三年(1570年)信長準備進攻朝倉義景的中途,在金崎遭到盟友淺井長政攻擊背後,此戰秀吉為殿後軍一員,保護信長安全撤離(金崎之戰)。 元龜元年(1570年)姊川之役後,秀吉擔任此役奪取的近江國橫山城城代,並以此領地可動員的兵力一千人及在地情報,天正元年(1573年)在小谷城之戰從防禦土壘最矮(約一米五)的中段京極丸,切斷淺井父子倆的防守區域,因此信長擊敗了淺井長政,長政自盡,淺井的舊屬歸織田家所有,以此功秀吉支配(領有一小部分600貫約2400石-3000石)北近江三郡十二萬石成為城主,將根據地移至近江國今濱城,利用小谷城的土石建材增建今濱城後易名為長濱城。後賜苗字「羽柴」。 他同時也招募家臣,在封為城主前他底下的家臣就是蜂須賀正勝(與力)、重治(寄騎小姓)、前野長康(小六若黨),尚未元服的福島正則、加藤清正,一門眾的淺野長政、羽柴秀長。而大谷吉繼、石田三成等家臣,皆是出身於近江地侍小姓,增田長盛則出身尾張國中島郡增田村,原為信長家臣後改寄騎羽柴秀吉。 天正四年(1576年)支援北陸柴田勝家對抗上杉軍,秀吉因為和勝家戰略上意見不一而擅自撤離,結果勝家在手取川之戰中大敗,使勝家和信長有所不滿。在織田信忠的指揮下,秀吉參與攻擊松永久秀的戰鬥。 天正五年(1577年)赤松則房、別所長治、小寺政職臣從信長之下,秀吉受命攻略中國地方,任播磨國國主,根據城為姬路城,受命後不久別所長治及荒木村重背叛織田信長,秀吉討伐,天正七年(1579年)使宇喜多氏完全臣服於織田氏,天正八年(1580年)別所長治和荒木村重戰敗,別所被捕,切腹自盡;荒木逃離,全家被信長誅殺。秀吉開始與毛利氏及山名氏交戰,攻下了鳥取城、三木城、高松城等重要據點,秀吉在此發揮了長時間包圍戰城池戰法——斷糧(干殺し),使敵軍提早開城投降。 天正十年(1582年)明智光秀於支援秀吉出兵毛利氏途中,發動背叛兵變,攻佔京都並夜襲投宿在本能寺的織田信長,是為本能寺之變,信長焚毀本能寺,屍骨無獲,其長子織田信忠於二條御所戰敗後切腹自盡。當時羽柴秀吉正親自率兵包圍備中國的高松城。由於黑田官兵衛(黑田孝高)用計水攻高松城,而使光秀向毛利氏報信的信使隔天在被水包圍的城下被羽柴軍所抓,所以秀吉在事變隔天便得知消息。秀吉向毛利氏隱瞞信長身亡的消息,透過毛利家外交僧安國寺惠瓊與城主清水宗治斡旋。之後,在毛利氏大老小早川隆景主導下,他迅速與毛利氏議和,並率兵在五日內「強行軍」約200公里返京,並隨即與明智軍展開決戰,這次行軍史稱「中國大撤退(中國大返し)」,行動之迅速大大震撼了京師的明智軍。回師之時,秀吉以信長之名為號召,成功收納流竄在各地的信長舊屬,於山崎之戰,大敗準備不及的明智光秀,最終明智光秀逃走時被獵殺落難武士的村民殺死,秀吉乘機控制京都一帶,不過無法阻止織田氏內部出現派系分裂。主要分裂為柴田勝家、織田信雄、織田信孝以及羽柴秀吉等派系。 秀吉在清洲城重臣在清洲會議上得到多數織田族人與家臣支持,擁立尚在襁褓的織田信忠長男三法師(織田秀信)繼任家督。但為此得罪了同屬織田重臣的柴田勝家,導致其擁立信長三子織田信孝對抗秀吉。隔年,雙方決裂,秀吉先迫使信孝投降,後來羽柴與柴田軍在賤岳決戰,最初勝家佔盡優勢,中川清秀遭到突擊陣亡,但是秀吉率兵衝上前線使形勢急變,最終秀吉取得勝利。隨著羽柴軍包圍北之庄城,勝家與妻子阿市自殺,此外織田家另一重臣瀧川一益則被迫蟄居,織田信孝不久被殺,丹羽長秀和池田恆興歸服,大致上平定了織田家內反秀吉勢力。天正十一年(1583年),秀吉在石山本願寺的舊址上建大阪城,當時到訪的大友宗麟將它稱為「戰國無雙的城」,但城堡在防禦上亦有缺點,在大阪冬之陣中,真田信繁進行了修築加強防禦。 天正十二年(1584年),原先與秀吉合作的信長次子織田信雄聯合德川家康反對秀吉,羽柴軍便與兩人展開史稱小牧.長久手之戰的戰事。此戰之初擁有兵力優勢的羽柴軍直撲德川領地,但途中卻遭到德川軍伏擊,有「鬼武藏」之稱的大將森長可與池田恆興戰死,秀吉其後撤兵,改為攻擊美濃國織田信雄,信雄投降,迫使雙方談和,德川軍與羽柴軍達成和戰協議。 天正十三年(1585年),秀吉派遣秀長、小早川隆景等將領攻打剛統一四國的長宗我部氏,利用兵力的差距迫使其歸降並減封至只剩土佐一國。此外秀吉派遣藤堂高虎為首的部隊,平定了雜賀眾,首領鈴木重意被斬首處死。此外,秀吉派重兵攻打越中國佐佐成政,開戰派大軍包圍,成政不戰而降。秀吉原本覬覦征夷大將軍一職,不過流浪的前將軍足利義昭拒絕以秀吉為猶子,不入源氏籍,便無法成為將軍。於是秀吉轉目標為關白(需入攝家),當任的關白二條昭實也拒絕了秀吉要求。天正十三年(1585年)秀吉找上公家的前關白近衛前久幫忙,讓近衛前久認自己為猶子(以本家藤原氏為姓),迫二條昭實讓位,就任關白。天正十四年(1586年),為了攏絡德川家康使其成為自己的助力,秀吉將其妹旭姬(四十二歲)嫁與德川家康(四十三歲),並為家康正室,甚至將自己的母親大政所送回家康身邊成為人質,德川家康此後臣從秀吉。同年,受天皇賜姓豐臣並就任太政大臣(平民出身者第一人),確立了政權。 天正十四年(1586年),九州大名大友宗麟向秀吉請求支援,天正十五年(1587年)派遣秀長率領大軍攻擊島津氏的支城,使義久投降,戰後島津氏被分配到薩摩、大隅、日向三國。平定九州後遷入聚樂第,同年十月於北野天滿宮舉辦北野大茶會,邀請農民與公卿貴族,據說兒時玩伴石川五右衛門也有參加。天正十六年(1588年)秀吉開始實行刀狩令,加強了兵農分離的政策。 天正十五年(1587年),禁止基督教。天正十七年(1589年)北條氏的家臣豬俁邦憲奪取了真田昌幸管轄下名胡桃城,導致秀吉下令全日本大名討伐北條氏,不服從者將會受到失去領土的處分。次年3月1日秀吉率20萬大軍向北條氏攻擊,攻陷北條各個支城下逐漸向小田原城包圍,7月北條氏政、氏直父子開城投降。氏政、氏照兩兄弟切腹自盡,氏直被流放到高野山,戰後秀吉為各大名分封新的領土。天正十九年(1591年)奧州大名「獨眼龍」伊達政宗自動來請降,日本三島(本州、四國、九州)到此統一。 天正十九年(1591年),將關白之位讓給外甥豐臣秀次,自稱太閤。天正十九年(1591年)秀吉進行他人生中最後一場日本國內戰爭,派遣了蒲生氏鄉、淺野長政及石田三成聯同東北地方大名平定九戶政實之亂。同年,秀吉命令茶人千利休切腹自盡,詳細原因不明。一說是利休於寺廟擺設自己的雕像激怒到秀吉;另有一說是由於利休過於向秀吉進諫(例如反對秀吉意欲向大明出兵)以致。 文祿元年(1592年)秀吉率兵20萬侵略朝鮮,史稱「文祿之役」(朝鮮方面稱為壬辰倭亂)。兵員以西日本諸大名為主。戰爭初期,久經沙場的日軍攻勢猛烈、勢如破竹,以極快的速度先後攻佔朝鮮王京漢城與陪都平壤,並迅速攻佔朝鮮境內大量主要城市,直趨明朝邊境。朝鮮宣祖馬上向明朝求救。秀吉於5月攻佔漢城後便研議要遷都北京,將北京周圍10「國」之地獻為御用,賜公卿以俸祿,賜其部下以10倍於原有的領地,甚至命豐臣秀次為大唐(中國)關白,日本關白由羽柴秀秋或宇喜多秀家擔任,朝鮮則交給羽柴秀勝或宇喜多秀家統治。明神宗派遣遼東總兵李如松率兵入援朝鮮。在明軍(約5萬)和朝鮮三道水師提督李舜臣等的反擊下,日軍攻勢遇阻。終於在文祿二年(1593年)日軍因遭逢損失,秀吉遂被迫與明朝和談。 其實日方代表小西行長出身商人家庭,精於商業謀略,偽造秀吉降表與明朝議和,而明方使者沈惟敬本是市井無賴,就稱秀吉的目的是要求恢復雙邊貿易。雙方於是締結和約,日軍就此暫退釜山。 文祿四年(1595年),秀吉將豐臣秀次流放到高野山,然後將秀次處死,其過程嚴酷出乎人們意料,秀次的一家連同侍女和孩子39人都被砍頭,之後屍首被拋荒不得埋葬。此外亦令秀次支持者切腹,包括前野長康等人。賜死的原因可能是當時輿論流傳著「殺生關白」(豐臣秀次的綽號)過去所發生的亂行,加上秀吉打算以年幼的次男秀賴作為家中的繼承人,因此秀次就成了眼中釘。 文祿五年(1596年)九月,秀吉歡喜地迎接明朝使者,明、朝議和使來日,秀吉宴饗之。然宣讀國書,始知議和實為冊封,大明欲封秀吉為日本國王。秀吉方覺受騙,大怒道:「吾掌握日本,欲王則王,何待髯虜之封!且吾而為王,何以對天皇!」,並欲殺明朝使節,為旁人勸止,於是下令驅逐明朝使節。慶長二年(1597年)正月,秀吉再次遣兵入侵朝鮮,史稱「慶長之役」(朝鮮方面稱為「丁酉再亂」)。日軍盤據釜山,再進逼漢陽。然而明朝援軍(約8萬)加入戰鬥行列後,日軍攻勢再度受阻,被迫死守於海岸各倭城。 慶長三年(1598年)8月18日,秀吉在伏見城突然逝世,年六十二歲。死前他亦已託付前田利家監視德川家康及輔佐豐臣秀賴。而入侵朝鮮半島的豐臣軍在接獲德川家康為首的五大老命令及以石田三成為首的五奉行安排下,向明朝隱瞞了秀吉的死訊,隨後與明朝議和並逐漸從朝鮮撤軍。可是這場戰役豐臣氏為首的軍隊損失巨大;大名元氣大傷,此役也埋下了德川家康日後成為征夷大將軍的一個重要伏因。而日本與朝鮮的關係,到慶長十二年(1607年)才恢復正常。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B0%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89