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下間賴廉 Shimotsuma Rairen(1537年-1626年) 下間賴康之子、母為下間賴次之女;幼名虎壽、通稱源十郎、右衛門尉,法名了入、了悟。 賴廉為擅使鈴木家改進的雜賀步槍高手,而且還有很強的統帥能力,與鈴木重秀(雑賀孫一)合稱「石山左右二將」。在石山包圍戰中,賴廉就代替本願寺顯如指揮全軍守城,因此被稱為「大坂之左右之大將」。 天正八年(1580年),本願寺軍由於在與織田軍的作戰中敗勢濃厚,根據正親町天皇的敕命與織田議和,退出石山本願寺。這時,賴廉與下間賴龍和仲孝等一起在議和書上簽名,可見賴廉在本願寺家中的威望。議和後,賴廉追隨本願寺顯如退去本願寺,並勸導各地對織田軍繼續反抗的信徒停止戰爭。而當本願寺教如(顯如之子)主張與織田信長決戰,但得不到賴廉響應時,教如也只能作罷。 賴廉也不僅僅是單純的軍事指揮官,天正四年(1576年)七里賴周在加賀無法進行統治的時候,賴廉發出改任文書,也足見賴廉在政治方面的重視。 本能寺之變後,豐臣秀吉將隱居的賴廉招入大坂,任命為淨土真宗發源地京都本願寺的法主,因此成為與本願寺顯如並列的本願寺中心人物。面對秀吉、德川家康借出本願寺信徒參加軍隊的屢次要求,賴廉始終保持中立。 賴廉的特點是勇猛之外還具有出眾的謀略與清醒的頭腦。本願寺顯如病亡後,豐臣秀吉提議讓本願寺順如(本願寺教如之弟)繼任法主時,賴廉就向教如進言這是秀吉的陰謀。不久,當教如母親如春尼以顯如臨終遺書為由要教如將法主讓給本願寺准如時,賴廉又建議教如究察書狀的真偽,但教如沒有采納,而是立刻將法主一位讓出。 天正十七年(1589年),從豐臣秀吉處獲得七條豬熊的宅地,擔任京都本願寺町奉行。 寬永三年(1626年)死去,年九十歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/704182.htm
下間賴照 Shimotsuma Raishou(1516年-1575年) 下間賴清之子、母不詳、妻為定專坊了宗之女?;幼名源次,通稱築後法橋,別名賴昭、述賴,法名理乘。 下間氏之祖為下妻宗重,淨土真宗(本願寺)宗祖親鸞於常陸傳教時,可能是傳教不中聽而遭人追殺,下妻宗重出面救親鸞,自此開始追隨親鸞擔任護法。 下妻氏後來改為下間氏,時間與原因不可考。到本願寺蓮如時,蓮如擴張淨土真宗勢力時重用下間氏,舉凡外交、內政、警衛、武裝鬥爭皆由下間一族包辦;甚至蓮如的親信.阿毛心源也被授與下間氏,稱為下間蓮崇,可見下間氏於教內之位高權重。 下間氏主要分支為宮內卿家、刑部卿家、少進家;賴照屬少進家,同族下間賴廉為刑部卿家。越前一向一揆時,賴照被本願寺顯如作為一揆總大將由大坂派遣到越前,從『朝倉始末記』的記述和那個顯如發給的文書可以說明賴照具有實際權力的越前守護,或是守護代。 賴照前半生記錄不詳,到天正元年(1573年)才有詳細資料。此年,朝倉義景被織田信長所滅,越前被置於織田勢力下。 天正二年(1574年)2月,在越前的織田家勢力之間發生內部糾紛,本願寺利用一向一揆開始討伐原織田勢力。賴照被顯如作為一向一揆總大將派遣越前,並先後攻滅織田信長托付歸降的原朝倉勢力前波吉繼、朝倉景鏡等人。 可是作為越前一揆主力的本地勢力,對被大坂派遣的賴照、七里賴周像家臣一樣地對待不滿,謀劃叛亂。11月,賴照利用本願寺方面的勢力鎮壓越前本地勢力。 翌年夏,織田方勢力向越前進攻,賴照建築觀音丸城固守,在木芽卡准備迎擊織田信長。8月15日,信長軍隊在越前發動總攻擊,賴照因不能得到本地一揆陣營的充分合作,在織田方的猛攻下城池陷落。 賴照打算從海路逃跑,但被真宗高田派的門徒發現,遭到討取,年六十歲。 出處#1 http://baike.baidu.com/view/1342707.htm 出處#2 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/91303439
下間頼竜 Shimotsuma Rairyu(1552年-1609年) 本願寺の僧侶。父は下間真頼、妻は池田恒興の養女で織田信時の娘。子に頼広(後の播磨播磨新宮藩主・池田重利)、宮城政次、池田輝政養女(建部光重室)、徳永昌重室、大久保長安室。幼名は松菊、通称は按察使。法名は了明。 本願寺の僧侶の中では、軍事よりも政治や文化方面に通じており、堺の商人達とも茶会などから交流があったといわれている。石山合戦においては元亀3年(1572年)に同族の下間頼資・頼純父子と共に織田信長側の細川昭元を攻めて戦功をあげている。 天正8年(1580年)に本願寺法主・顕如が信長に降伏した時、同族の下間頼廉・下間仲孝と共に和睦条約に連署した。だが、翌年に顕如の長男・教如が石山本願寺への再籠城の企てをした時、教如の側近だった頼龍は教如に従ったため顕如から叱責を受けている。文禄元年(1592年)に顕如が没し、法主となった教如に赦免され、慶長7年(1602年)の本願寺の東西分裂にも教如に従い、東本願寺の坊官となった。慶長14年(1609年)、58歳で死去。 子の頼広も教如に従ったが、やがて出奔して池田輝政に仕え、池田重利と改名して大名となった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E9%A0%BC%E9%BE%8D
不破光治 Fuwa Mitsuharu(生年不詳-1580年?) 家系には諸説あるが、不破隼人藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔・松井蔵人直家の子・直重が不破隼人佐を称したのに始まるとする説がある他、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が美濃国不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったとする説がある。 美濃国西保城主。早くから美濃国の戦国大名・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。 『浅井三代記』によると、近江国小谷城へ赴き浅井氏の家臣・安養寺経世と内談して信長の妹・お市と浅井長政との婚約をまとめ、輿入れの際には内藤勝介と共にお市の方に供奉したというが、同書は元禄年間に出版された軍記物で同時代の史料ではないことに留意する必要がある。 永禄11年(1568年)7月、信長が越前国の朝倉義景に庇護されていた足利義昭の呼びかけに応じて上洛を決意すると、和田惟政・村井貞勝・島田秀満と共に義昭を越前まで迎えに赴き、上洛戦で江北が平定されたときも、立政寺で待機していた義昭を迎えに派遣された。 その後は永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の小谷城攻め、同年9月の志賀の陣、元亀2年(1571年)9月の伊勢長島攻め、元亀3年(1572年)4月の交野城後ろ巻き、天正元年(1573年)7月の槇島城の戦い、同年8月の一乗谷城の戦いに参陣した。天正2年(1574年)には、越前の前波吉継が殺害されたのを受け、羽柴秀吉や丹羽長秀らと敦賀へ出陣、同年6月の伊勢長島攻めにも参陣した。 天正3年(1575年)8月、越前一向一揆平定戦に参陣し、一揆平定後に越前8郡は柴田勝家に預けられ、光治は佐々成政・前田利家と共に同国府中の2郡を治めながら、勝家に対する目付を務めることとなって、府中三人衆と呼ばれた。光治は同国竜門寺城を居城とした。以後は勝家の与力としても活動するようになり、天正5年(1577年)8月の勝家を総大将とした加賀国平定戦には、三人衆そろって参陣。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、勝家に率いられた「越前衆」の一武将として利家らと共に参加していたが、上杉景勝が越中国に侵入して小出城を包囲したとの報せが入り、勝家以下越前衆は直ちに出陣するよう命じられた。 しかし、完全に柴田勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正5年(1577年)2月からの雑賀攻め、天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)9月の伊賀攻めに動員されている。 越前国において死去したが、その年月には諸説あり、『戦国人名事典』では天正8年(1580年)12月14日、『美濃国諸家系譜』では天正9年(1581年)11月8日、『織田信長総合事典』では天正9年(1581年)以降、『織田信長家臣人名事典』では天正11年(1583年)頃としている。法名・雲樹道無大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
中島元行 Nakajima Motoyuki(1552年-1614年) 備中国賀陽郡阿曽郷経山城(現岡山県総社市黒尾)の城主。通称は大炊介。妻は清水宗治の娘。父は中島輝行、弟は中島九右衛門、嫡男は中島義行。 中島家の本姓は藤原氏。先祖は工藤遠江介為憲の末裔(藤原南家工藤氏)の末裔で、鎌倉幕府の政所令・後に別当、十三人の合議制の一人となった。二階堂氏の祖である二階堂行政が、鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。 室町幕府10代将軍足利義稙将軍の近侍であった二階堂大蔵少輔政行のとき、義稙の秘命を帯びて備中国の地頭として管領代大内義興の幕下に属した。初め岡山県浅口郡片島(現岡山県倉敷市)に居城し、岡山県浅口郡片島の中島に在城したので中島と改めた。後に賀陽郡阿曽の経山城の城主となり、政行・氏行・輝行・元行と四代にわたって居城した。 元行の代には大内氏に代わり中国地方の覇者となった毛利氏の幕下に属し、清水宗治とともに小早川隆景の配下となった。 元亀2年(1571年)には、経山城を守って、尼子氏の残党軍と一戦を交えている。 天正10年(1582年)、織田信長の命令により中国攻めの方面軍を率いていた羽柴秀吉が備中に侵攻し、備中国高松城が包囲された際、城主清水宗治とともに副将として元行も籠城して抗戦した(備中高松城の戦い)。 長期間に及んだ籠城戦は、宗治の切腹を条件として秀吉と和議が結ばれた。開城後、元行は宗治の嫡子源三郎(清水景治)の後見をする。 その後、豊臣政権下で大名となった小早川隆景が筑前名島(現福岡県福岡市)に移ると、清水五郎左衛門(清水景治、源三郎)と元行、元行の嫡男義行は小早川家に召しだされ、仕官した。隆景が死去すると皆、小早川家を退去し、景治は毛利輝元に仕え、元行と義行は、小寺村で帰農した。 のち、義行は慶長5年(1600年)の関ヶ原の役後まもなく結城秀康に仕官し、義行の家系は義行の嫡男昌行の子孫が継いだ。 元行は慶長19年(1614年)1月に死去、墓は報恩寺(現岡山県総社市小寺)にある。その後の中島氏は、浅尾藩主蒔田氏より客分として処遇された。 『中国兵乱記』は中島元行が著したものである。 平常の住居は賀陽郡刑部郷小寺村(現岡山県総社市小寺)にあり、南北三丁、東西四丁、四方に二重の堀をめぐらしていたという。小寺にあった中島氏の住居跡地は、現在「小寺中島公園」となっている。庭として使用していたところは、当時に近い状態で残されており、「願主 中島元行」と刻まれた廣峯神社が現在も残っている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%85%83%E8%A1%8C
中川清秀 Nakagawa Kiyohide(1542年-1583年) 父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。 父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。 高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。 ともあれ、中川清秀の父・高山重清は1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。 その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。推測するに、1541年前後と考えられる。 そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。 中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。 しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。 父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。 中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。 池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。 この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。 1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。 1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。 しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛・竹中半兵衛・蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。 この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。 荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。 この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。 中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。 黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。 荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。 荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。 領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の旗下として転戦。 娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。 1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。 1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。 しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。 中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。 墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。 この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助熊田孫七資一熊田兵部次矩熊田三太夫資之森本道徳山岸監物重本杉村久助正英森権之助鳥養四郎太夫大田平八菅杢伝兵衛重武野尻出助重英藤井半右衛門田代太左衛門奥彦太夫光英奥彦作奥孫兵衛田能村杢左衛門入江土佐赤井弥次右衛門元定高山総吉桜井河内正利野口新助田島伝次右衛門玄正亡知半。 他には台所人11人仲間御小人20人余雑兵300人となっている。 当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。 中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。 この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か?古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚) その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。 しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。 出處 http://senjp.com/nakagawa
丹羽長秀 Niwa Nagahide(1535年-1585年) 丹羽長政的次子、正室為織田信長養女・桂峰院、側室為杉若無心之女;幼名萬千代、通稱五郎左衛門尉、渾名「鬼五郎左、米五郎左」、別名惟住長秀。 依照丹羽家譜的記錄,父親丹羽長政與信長父親織田信秀同為尾張守護斯波氏的家臣。但斯波氏已衰微,自斯波義統以後皆由織田氏為實際統治者。所以長秀在天文十八年(1549年)時就仕於織田家並擔任信長的近衛,後來更娶了信長二哥信廣之女。之後參與在天文二十一年(1552年)的萱津會戰和永祿三年(1560年)的桶狹間會戰,在永祿五年(1562年)時正式獲得一萬貫的知行,同時和柴田勝家、佐佐主知一起擔任寺領安堵的奉行職務。在信長推動兵農分立的政策後,要求領內重臣離開原本世襲的農田遷移至城下住宅,這個措施令一眾老臣感到十分不滿,而支持信長之意率先放棄,改以傭兵替代農民兵的既是丹羽長秀與柴田勝家兩人。 隨後在信長統一尾張的軍事行動中,丹羽長秀寢返了犬山城織田信清的家老和田新介及中島豐後守使犬山城反過來陷入信長軍勢的包圍,在城落後長秀因功受信長策為駐守犬山城的城將。對一統尾張的信長來說北進美濃乃必要的策略,從其父信秀的時代起織田家便長期對美濃展開一連串的行動,歷經齋藤家道三、義龍兩代,現今領主是第三代的龍興,不若乃祖的智謀亦不及親父的武勇,使信長得到北進的良機。由於後來各本太閣記的大興以及後人專看秀吉忽略其他織田家諸將等因素影響,使得這段期間還名喚木下藤吉郎的秀吉之功被過份地誇張為織田家進佔美濃的最大功臣,實際上當時作為信長部將的丹羽長秀同樣有著不俗的功績,長秀充分發揮其智謀武勇,在戰場上領兵攻下堂洞城,此外兵不血刃地在進攻猿啄城時截斷水源逼降城將,之後在秀吉策反大澤基康時施以援手,本身亦仲介加治田城的佐藤紀伊守改投織田家,丹羽長秀的穩重和柴田勝家的驍勇並列著名為織田家的一雙寶。 就在信長一統尾張即將進軍美濃的這段時間裡,織田家的風氣也慢慢開始改變,木下藤吉郎與瀧川一益等出身浮野的司令官從諸將中冒出頭來,不像柴田勝家對木下藤吉郎始終抱持成見,對這些新人丹羽長秀都採支持的態度。就像木下藤吉郎在信長攻下美濃後受命易姓,藤吉郎決意自丹羽和柴田兩人各借一字改姓羽柴,柴田勝家藐視地一笑,丹羽長秀則是開心地說:「是嗎?真是榮幸。」 美濃陷落後,明智光秀以將軍特使的名義來訪,督請信長幫助足利義昭擊敗三好一黨,上京就任將軍。信長在精密考量後先與淺井家建立姻親再假意和六角家談判,然後再出奇不意地出兵近江直驅上落,當時丹羽長秀與羽柴秀吉、佐久間信盛、明智光秀等在一天之內攻下六角家南近江箕作城被世人喻為奇蹟。 信長上洛後,不願後方大本營出現空虛的信長迅速回到岐阜,長秀受命與羽柴秀吉、中川重政、村井貞勝一同擔任京都奉行,在永祿十二年(1569年)丹羽長秀單獨發佈了遍照心院、誓願寺、三井寺花光坊的安堵,同年八月長秀對新降的池田勝正所領的界五力莊做出指示,並與中川重政一起本因寺學道中的知行進納進行確認,同時再次受命出戰伊勢,攻打大河內城的北田具教,與稻葉一鐵、池田恆興夜襲失敗。翌十三年,丹羽長秀先在三月和松井友閑一同擔任對界市的名物茶道具收集購入之職務,然後於四月對若狹廣野孫三郎、武田義統的忠節次第所領下安堵令,禁止渡邊太郎左衛門尉在愛宕山供料外畑村下司職務的不法行為。五月時與塙直政共同擔當鐵砲調達奉行,替織田家進行採購洋槍的事務。 金崎撤退後一直順風順水的織田家陷入了四面皆敵的窘局,越前朝倉家、北近江淺井家、阿波三好餘黨以及四處蜂起的一向宗教徒與不斷發出御信替織田家增加敵人的將軍足利義昭。元龜元年(1570年)四月自越前急遽迴轉京都的織田信長命丹羽長秀和明智光秀出使若狹向武藤友益徵收人質,並與當地公方眾一色藤長會面種下日後支配若狹的伏筆。在長秀於五月回到京都後,當年六月便再次被調上戰場,出陣江北和柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋賴隆於小谷城近邊放火,其後參加姊川之戰和池田恆興協助德川家康攻擊朝倉軍,戰後秀吉攻下橫山城,丹羽長秀也和河尻秀隆、水野信元、市橋九郎右衛門攻打佐和山城,降服淺井家猛將磯野員昌,得到信長厚信的丹羽長秀被封作掌管京、近江、美濃間要衝之地的佐和山城城主,領五萬石領地。 身任佐和山城城主後,丹羽長秀先是將犬上郡的在地領主收為麾下與力,後出兵與佐久間盛信、柴田勝家、中川重政攻打神崎郡的小川城、志村城,元龜二年(1571年)九月與河尻秀隆誘殺高宮右京亮於佐和山,並制訂多賀神社條規防止混亂。隔年,丹羽長秀和明智光秀、中川重政出兵打下木戶城、田中城。七月,和佐久間盛信、柴田勝家燒毀小谷城的城下町,在信長令下丹羽長秀完全封鎖住琵琶湖的水運將淺井、朝倉的對外物資流通切斷。 天正元年(1573年),信長交付給丹羽長秀軍船建造的任務,長秀在召集職人工匠商討後設計製出可拆裝的大型船,在七月五日船隻完工的同時馬上用來攻打將軍足利義昭的槙島城,倚槙島城之險自豪的足利義昭沒想到信長竟然從阪本口搭船穿越琵琶湖攻城,措手不及下城陷被擒,遭到流放,室町幕府足利家就此終結。將軍追放後,信長把軍勢開回江北圍籠小谷城,並且擊退應援的朝倉軍,更以丹羽長秀為先鋒深入越前打下一乘谷城,家督朝倉義景兵敗自盡,嫡男阿君丸也在信長命令下由丹羽長秀殺害。在淺井家的小谷城亦宣告陷落後,信長將毛頭指向伊勢的一向一揆,丹羽長秀和羽柴秀吉、佐久間信盛包圍桑名方面的西別所,攻下中島將監所鎮守的白山城。 在朝倉家滅亡後,丹羽長秀出鎮混亂的若狹確立織田家對當地的支配,對若狹長源寺和遠敷郡瀧村發佈禁令,然後在若狹的御料所接受敕命得到小濱城十萬石領地,並在隔年發佈西福寺寺領的安堵。天正三年(1575年),信長任命的越前守護前波吉繼(桂田長俊)被一向一揆勢力所殺,近在咫尺的丹羽長秀和羽柴秀吉、明智光秀立即出兵鎮壓,和柴田勝家領兵攻下鳥羽城。同年四月,與村井貞勝一同處理將國人眾侵佔地歸還公家眾本領的事務,並在閏十一月,丹羽長秀對若狹遠敷郡鐵屋安堵,妥善安排鐵屋職讓他們繼續為織田家效力鑄造鐵砲。而織田信長也在此時奏請朝廷賜官給他麾下的將領,如柴田勝家官拜修理亮、瀧川一益官拜左近將監。同時期明智光秀得到「惟任」一姓和日向守的官位、塙直政改姓「原田」,拜備中守、粱田廣正易「別喜」姓,封右近大夫、羽柴秀吉拜領築前守一職,令人注目的是丹羽長秀堅決不受越前守一職,僅接受「惟住」的姓氏,依照這次信長大賜官的過程看來,織田家軍團的東西分立該是由此而見,「惟任」、「原田」、「別喜」、「惟住」都是以往鎮西的大姓,顯見拜領了築前守、日向守等九州官職的明智光秀、羽柴秀吉等人該當是往西前進的軍將,然而當時往東的上、中、下三路已分別由北陸的柴田勝家、東海道的德川家康負責,正中與美濃相接的木曾路也有信長嫡子信忠擔綱與不斷對武田部將宣慰的瀧川一益,毫無丹羽長秀可建功的餘地,反觀對西國戰事尚未正式開啟,發揮空間依然很大,所以丹羽長秀拒受越前守,改姓「惟住」該是意圖指染西線戰事的象徵。 天正四年(1576年),丹羽長秀奉信長之命修建安土城,擔任普請奉行。同時身為織田譜代家臣的長秀也率領著若狹眾與瀧川一益、荒木村重組成遊擊軍團,以援軍身份往援在各地方作戰的柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉等軍團,在當年五月協助佐久間信盛圍攻石山本願寺。翌五年二月和佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉轉戰紀伊與協助本願寺的當地國人眾交戰,與明智光秀、瀧川一益合攻鈴木孫市的居城,之後隨柴田勝家出陣加賀迎戰攻下能登後南下的上杉謙信,在手取川戰敗,引發連鎖效應松永久秀起兵反叛,丹羽長秀和瀧川一益、羽柴秀吉協助織田信忠攻入大和,打下多聞城、信貴山城,戰後駐於大和在藥師寺發佈禁令管理當地治安。天正六年(1578年),丹羽長秀再度擔當明智光秀的援軍出兵圍攻丹波八上城、攻打園部城。然後火速轉援在播磨吃緊的羽柴秀吉,先攻下志方城,然後轉入但馬侵略神吉城。十一月,在傳來荒木村重盼變的消息後,丹羽長秀便和瀧川一益、羽柴秀吉、明智光秀隨織田信長展開對村重的圍殲。天正七年(1579年),在安土城落成時丹羽長秀因功得到珠光茶碗和備前長光的名刀。 天正八年(1580年),丹羽長秀隨柴田勝家出陣加賀,平定當地的一向一揆,由長秀自小濱經海路進發截斷一向勢力的物資補給路線。在轉戰各地的同時,丹羽長秀和其他軍團長最大的不同處便是他仍然擔綱著織田家的各項重要內政工作,在五月時替天主教在安土城城下町興建禮拜所,由於之前僅考量到武士的居處,所以未留下多餘的空地,因此在長秀臨時受命後便索性挖山填湖,用山泥將鄰近的湖邊低窪填成平地興建。之後再天正九年(1581年),在正親町天皇觀閱下的大軍事演習中經由信長欽點,丹羽長秀統領武田元明、內藤、熊谷、粟屋、逸見、山縣等若狹眾擔任一番手的馬前率先行進。同年九月,曾攻打伊賀失敗的織田信雄在精通忍術的瀧川一益輔佐下第二次對伊賀展開攻略,丹羽長秀隨軍助戰率領筒井順慶、蒲生氏鄉平定伊賀的名張郡。 天正十年(1582年),丹羽長秀隨軍出征甲信武田家,之後長秀受命輔佐信長的三子信孝應十河存保的求助出兵平定四國,丹羽長秀終在實質上成為一個地方的軍團長,然而緊接而來的本能寺之變讓準備好進佔四國的兩人下半生命運起了翻天覆地的變化,進軍河內森口時四國討伐軍的兵士聞得本能寺之變後逃亡大半,但丹羽長秀仍意圖奮力一搏和信孝帶兵討伐了光秀的女婿織田信澄,然後說服信孝前往尼崎與自中國戰線迴轉的羽柴秀吉聯合討逆。 在叛將明智光秀的戰鬥中,長秀先是在山崎之戰協助羽柴秀吉擊敗明智光秀。明白天下大勢所向的丹羽長秀在清州會議中與池田恆興一起成為秀吉最有力的協力者,支援秀吉擁立信長的年幼嫡孫三法師作為信長的繼承者,會議後加封近江高島・志賀兩郡,以大溝城為居城。自願屈居秀吉下風的長秀甚至還跟遠本地位天差地別的秀吉副將蜂須賀正勝一同擔任與毛利家締盟的職務,和吉川元春來往密切。翌年賤岳之戰時和秀吉聯手於海津口、敦賀口牽制柴田軍並封鎖琵琶湖水運,戰後秀吉加封越前一國與加賀半國能美、江沼兩郡給長秀,成為北之莊城城主,領地達一百二十三萬石,同時替丹羽長秀向朝廷奏請越前守的官位,並且賜姓羽柴。 晚年因身患腫瘤長年臥榻,同十二年時因為德川家康、織田信雄與丹羽長秀聯手的流言直上塵囂,所以秀吉藉機要長秀上洛朝見,病重的長秀屢次回絕,雙方關係一度惡化,最後是在重臣村上義明來回奔走下方告解凍。小牧、長久手之戰前丹羽長秀抱病離開領國進入大阪城,並且派遣嫡子丹羽長重參陣,後於天正十三年(1585年),丹羽長秀在病榻上切腹自盡,年五十一歲,法名為光寺大憐宗。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&parent=151&sn=306&lorder=66&ptitle=%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BB%8B%E7%B4%B9
丹羽長重 Niwa Nagashige(1571年-1637年) 丹羽長秀的長子,母親為織田信廣之女-深光院,正室為織田信長的五女-報恩院,幼名鍋丸,號玉峰。 天正十一年(1583年),於賤岳之戰中與父親丹羽長秀一同出兵封鎖琵琶湖的水運並協助羽柴秀吉擊敗柴田勝家,更因此功獲得包含若狹、越前及加賀半國一百二十三萬石的大封賞,長秀遂以北之莊城為居城,長重亦被任為府中城主。天正十二年(1584年)二月,丹羽長重代替重病的父親對領內的小松山王神社奉納,其後代理臥病在床的丹羽長秀應羽柴秀吉之令發兵參與小牧、長久手之戰。 翌年天正十三年(1585年)四月十六日,丹羽長秀辭世,年僅十五歲的丹羽長重繼承了父親一百二十三萬石的遺領,對於將這番龐大的領地交給這樣的年輕人,羽柴秀吉並不放心,兼之現在已經不用再顧忌織田家老同僚的觀感,不需再對丹羽家饗以龐大封賞以安昔日織田家臣之心,因此已穩固執掌天下的秀吉很快就在同年八月出兵富山城攻打佐佐成政時任命丹羽長重為先鋒,然後以長重的家臣違反軍律為由,削去丹羽家越前、加賀的領地,丹羽長重被左遷為若狹小濱城主,封地也僅餘若狹十二萬石。之後在天正十五年(1587年)出兵九州時,丹羽長重再度被豐臣秀吉以丹羽軍兵士違反軍律的藉口褫奪若狹的領地,減封為加賀松任城主,領地大幅縮水至四萬三千石,自長秀以來的重要家臣如長束正家、村上義明、溝口秀勝、戶田重政等人也相繼被豐臣秀吉策誘招募,轉仕豐臣家。 慶長三年(1598年)四月,丹羽長重在文祿之役侵略朝鮮時立功,於是統算他自小田原征伐以來的功績,加封加賀小松八萬石,加上松任的舊領,封地共達十二萬五千石,官拜從三位參議兼加賀守,隨後丹羽長重移居小松城,被世人稱為小松宰相或小松參議。 同年八月,豐臣秀吉病逝。丹羽長重親近德川家康,監視與石田三成親近的金澤城主前田利長。慶長四年(1599年)九月,增田長盛與長束正家向德川家康告密表示以前田利長為首,結合了淺野長政、大野治長及土方雄久等人意圖暗殺家康,德川家康迅速於十月進行反制讓淺野長政被逼在甲斐隱居,大野治長及土方雄久則分別被結城秀康及佐竹義宣拘禁。而對坐擁能登加賀八十萬石的前田利長,德川家康則以「前田利長有叛意」為由,任命丹羽長重為先鋒,組織前田討伐軍出兵加賀,致使前田利長在驚恐之下以家臣橫山長知為使,並託細川忠興代其向德川家康遊說,最後以母親芳春院為人質前往江戶作為條件請降。 翌年,德川家康發兵會津征伐上杉景勝,丹羽長重被置於前田軍指揮下進攻津川口,是役之中丹羽長重和前田利長爆發嚴重口角,丹羽長重對前田利長高傲的態度大為反感,於是以患病為理由領兵回國,前田利長也因為丹羽長重反常的行動起疑,擔心長重攻打前田家在加賀的領地,故隨後回軍歸國。 此時回到小松城的丹羽長重也收到了石田三成發表討伐家康的檄文,這使本與德川家康交好的丹羽長重一時陷入兩難之境,同時在加賀南部的諸大名已先後為大谷吉繼的勸說下加入西軍,於是領軍歸國的前田利長也在七月廿六日宣布加入東軍打著救援伏見城之名領兩萬五千大軍南下,前田利長南下之際先向松任的丹羽長重送信要求加入東軍參戰,丹羽長重考量到昔日兩人的恩怨以及目下自家周遭態勢而拒絕,轉投西軍,反而親領三千士兵據小松城倚天險防守,小松城本就是北陸有名的堅城因此當丹羽長重遭到前田利長大軍包圍攻擊時,雖然手上僅有三千兵馬仍穩守不失,最後前田利長判斷短時間內在小松城必定難以討好,於是索性解圍,繞路攻打大聖寺城的山口宗永,丹羽長重隨即應山口宗永之求出兵救援,侵入前田領內騷擾,但是山口宗永守不到三日,大聖寺城便為前田利長大軍攻破,前田利長挾大勝之姿持續向南進攻,對青木一矩的北之莊城發動攻擊,然而此時西軍在北陸的大將大谷吉繼為了遏阻前田軍的攻勢放出了「上杉景勝制壓越後出兵加賀」、「大谷吉繼發出援軍」等流言,加上大谷吉繼修改了前田家臣中川宗半的密信令前田利長以為大谷吉繼想從海路攻打金澤,於是退兵。 前田利長考慮到撤退途中丹羽長重追擊的可能性,於是將部隊一分為七分散撤退,分別由山崎長德、高山右近、奧山榮明、富田直吉、今枝民部、太田長知率領,最後由長連龍擔任殿軍隱密行動。但是前田軍撤退的消息仍然為丹羽長重得知,決定在前田軍撤退必經的小松城周遭伏擊,小松城周圍都是泥沼深田,不良於行,可以牽制住前田大軍的機動力,反而方便丹羽長重以小部隊游戰。 八月九日,前田軍通過小松城東方淺井畷的山代橋時丹羽軍的江口三郎左衛門正吉對長連龍的殿軍發動突擊,丹羽長重也隨後引援軍來戰,由於淺井畷的地形限制了大軍威力的發揮,使長連龍陷入苦戰,最後因為山崎長德的回援使丹羽長重在兵力上陷入劣勢而撤退,雙方死傷慘重,前田軍更有千人以上陣亡,兩軍未能分出勝負,前田軍順利回到金澤城。前田利長回到居城後方知中計,而家康也以土方雄久出使在九月八日要求利長向美濃進軍,但是利長之弟利政為了防備前田家不會因為西軍勝出而滅亡,據能登宣佈加入西軍。雖然前田家中出現內亂,但是丹羽長重也深知以本身十二萬石的兵力實在不及前田利長所能發動的大軍,尤其大谷吉繼已馳援關原,北陸之事全由丹羽長重一家承擔,於是丹羽長重遣使者透過德川家的軍師本多正信向德川家康表明他對家康並沒有敵意,最終達成與前田利長雙方交換人質和睦。 關原之戰後,丹羽長重因從屬西軍,所領遭到沒收,後蟄居於江戶芝高輪泉岳寺,直到慶長八年(1603年)才被將軍德川秀忠再度起用於常陸古渡獲得一萬石領地。後於慶長十九年(1614年)的大阪冬之陣中參加鷸野之戰,翌年夏之陣中於若江合戰中擊破豐臣方木村重成軍的左翼木村宗明隊立下戰功,並於元和五年(1619年)增俸常陸江戶崎一萬石,同八年又增加至磐城棚倉五萬石。 寬永元年(1624年),丹羽長重奉幕府命令,為據守關東的入口構築棚倉城,長重將棚倉城建在赤館以南的久慈川河岸台地上,並將原本位於久慈川河岸的都都古和氣神社遷移,把棚倉城修建為擁有本丸、二丸的輪郭式大城。寬永三年(1626年),丹羽長重隨將軍德川秀忠上洛,於天皇行幸二條城時擔任「御酌」之務。 寬永四年(1627年),在蒲生家被改易後,丹羽長重移封至其舊領陸奧白河,領有白河、石川、田村、巖瀨四郡十萬七千石的封地,同時奉德川秀忠之命於寬永六年(1629年)起耗費四年光陰以伊達、最上、佐竹、上杉的奧羽地區的外樣大名為假想敵修築白河城鞏固此一接連奧羽、關東的要衝之地。丹羽長重遂於阿武隈川的氾濫平原上東西向的獨立丘陵上進行修築,興建一座梯郭式的平山城,增設可儲藏米糧二之丸及三之丸,並加構三重櫓,使其易守難攻。築城同時丹羽長重也極力整備招徠各地商人、職人移居城下町,並且將失領時流散的家臣重新聚集,重編家臣團。寬永十四年(1637年)閏三月四日,丹羽長重於江戶櫻田上屋敷辭世,享年六十七歲,法名為大鄰寺傑俊英。其子光重後於寬永二十年(1643年)移封二本松存至幕末。 出處 http://m.gamebase.com.tw/forum/3867/70391985
乃美宗勝 Nomi Munekatsu(1527年-1592年) 乃美賢勝之子、正室為末長景盛之女、後室為仁保隆慰之女;通稱兵部丞,別名萬菊丸、新四郎、助四郎、浦宗勝,戒名宗勝寺殿天與勝運大居士。 因父親賢勝曾經作為浦家之養子,故又稱為浦宗勝,為沼田小早川氏之庶流出身。天文十三年(1544年),毛利元就之三男小早川隆景繼承小早川家之後,宗勝向隆景宣示效忠,其才幹獲得隆景之讚賞,擔任小早川水軍的主力武將,加入毛利家旗下,活躍於瀨戶內海及西國、九州各戰場。 天文二十年(1551年),西國第一大名大內義隆遭到家臣陶隆房(陶晴賢)叛變,於「大寧寺之變」遇害,毛利元就按部就班準備妥當後,決心舉兵與陶晴賢作戰。元就鑑於海上武力優劣為勝敗之關鍵,命宗勝利用其與能島村上水軍頭領村上武吉之血緣關係,出面說服武吉協助,宗勝以「只要借用一天的軍船而已」作為台詞,說服村上水軍的加盟,讓毛利軍得以在「嚴島會戰」時掌握制海權,圍困陶晴賢,迫使陶晴賢自殺,取得勝利。 宗勝率領水軍隨同毛利元就、小早川隆景攻佔大內家領土周防、長門,在隆景麾下,與九州霸主大友宗麟之勢力對決。永祿四年(1561年),於「門司城攻防戰」當中,在大友軍的陣前強行登陸,在兩軍將士面前,與大友軍的武將伊美彈正進行「一對一單挑」,宗勝雖然負傷,但將敵將擊斃,使得毛利軍士氣大振,大友軍因無法取勝而退兵。 永祿十二年(1569年)宗勝嗣後又參加「立花城攻防戰」,表現傑出,毛利元就特命宗勝擔任立花城的城主,負責鎮守立花城,擔當毛利軍在北九州的最前線重任。但宗麟利用大內輝弘在背後起事,毛利家腹背受敵,元就命吉川元春及小早川隆景率領的毛利大軍返回平亂,宗勝的留守兵力不過數百人,遭到大友家名將戶次鑑連(立花道雪)的包圍,宗勝與道雪談判,最後同意開城投降,宗勝雖然無法守住立花城,卻也以堂堂正正的姿態撤退回到安藝,道雪亦信守諾言並未追擊,傳為佳話。 宗勝繼續追隨小早川隆景轉戰山陽地區,於天正三年(1575年)備中常山城戰役中,敵軍的城主上野隆德之妻鶴姬(三村元親之妹)率領侍女三十多人,全副武裝殺出,在戰場上蔚為奇觀,使得毛利軍陣式大亂,宗勝趨前對應,鶴姬指明要求與宗勝單挑,宗勝雖欽佩鶴姬之武勇,但以無法與女流之輩交戰為由拒絕,但其誠懇態度,亦讓鶴姬折服,乃將「國平太刀」之傳家寶刀贈予給宗勝後,返回城內自殺,讓宗勝感慨不已。 嗣後,因毛利輝元與石山本願寺顯如合作對抗織田信長,毛利家與織田家對立,天正四年(1576年)宗勝率領毛利水軍於「第一次木津川之戰」痛擊九鬼嘉隆的織田水軍,但嘉隆受信長之命,打造鐵甲船,天正六年(1578年)於「第二次木津川之戰」擊破毛利水軍,宗勝在水戰上首次落敗,但實在是因為裝備不及所致。宗勝亦曾於羽柴秀吉(豐臣秀吉)進攻別所長治的三木城之戰中,擔任援軍完成輸送糧草任務。 秀吉統一天下後,文祿元年(1592年)宗勝曾以水軍將領身份參與攻打朝鮮的「文祿之役」,但因水土不服而病倒,不久就去世,年66歲。若論宗勝之功,其率領的水軍勢力,可以說是毛利家稱霸西國及瀨戶內海的最重要憑藉。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401613
九鬼嘉隆 Kuki Yoshitaka(1542年-1600年) 九鬼定隆的三子、母為英虞郡甲賀出身、正室為橘宗忠之妹.法輪院;渾名海賊大名,戒名泰艘常安隆興寺殿。 九鬼氏出身不詳,但是在家傳書中是藤原北家的子孫,由紀州九鬼浦(現今尾鷲市九鬼町)送到志摩波切的川面氏的養子隆良因為立下武勳,被當地的五奉行推舉而成為地頭。但是隆良沒有兒子,於是收英虞郡和具(志摩町和具)青山豐前的次男為養子。嘉隆與隆良沒有血緣關係,而是在6代後成為當主。 天文二十年(1551年)父親死去,家督由長兄淨隆繼承。永祿三年(1560年),志摩的地頭中,有12人受伊勢國司北町具教的援助而進攻田城。嘉隆幫助田城城主.長兄九鬼淨隆,但是淨隆在戰鬥中死亡,嘉隆於是協助淨隆之子九鬼澄隆,但是失去城主的九鬼一方沒有戰意而慘敗。於是嘉隆等殘黨向朝熊山逃亡。後來在瀧川一益的介紹下,仕於桶狹間之戰後的織田信長。 永祿十二年(1569年),信長進攻北町具教的時候,嘉隆率領水軍攻陷北町的支城大澱城等戰鬥中活躍,因此被迎為正式的織田家家臣團的一員。雖然此戰中織田勢為優勢的一方,但是信長派次男織田信雄成為北町家的養子,雙方和解。 後來志摩的地頭漸漸倒向嘉隆,承認信長領有志摩國,於是嘉隆打算取得九鬼氏家督之位(但是有一說法是,嘉隆在信長死後的天正十一年(1583年)中殺死外甥澄隆並奪取家督之位)。 天正二年(1574年),在信長鎮壓伊勢長島的一向一揆之際,從海上射擊來援護織田軍,於攻略敵陣時相當活躍。 天正四年(1576年),面對石山本願寺方的毛利水軍600隻,嘉隆率領300隻船在攝津木津川的戰鬥中,多數船隻被燒毀而大敗(第一次木津川口之戰)。被這次敗戰激怒的信長命令嘉隆製造不會被燃燒的船。此時嘉隆回答要建造船身被鐵包著的鐵甲船。鐵甲船的建造需要莫大的資金,但是信長表示理解,於是以有限的資源在伊勢浦完成被稱為鐵甲船的大船。 天正六年(1578年),在嘉隆率領6隻鐵甲船與瀧川一益的大船下,輕易克服石山本願寺的抵抗而進入界港,顯示了鐵甲船的威力。對此石山本願寺再度向毛利氏請求援軍,在木津川展開海戰(第二次木津川口之戰)。應信長要求所建造,不會被燃燒的鐵甲船展露出極強大的威力,嘉隆成功擊破毛利水軍600隻。因為這次戰功,嘉隆被信長加增志摩、攝津野田・福島等7千石領地,成為領有合計3萬5千石的大名。還有,這次海戰對本願寺被孤立以及織田軍的優勢有決定性的影響力。以後嘉隆都駐留在界,本能寺之變之際亦身處在界(『宮部文書』)。 天正十年(1582年)6月,信長在本能寺之變中死去,於是嘉隆轉仕於羽柴秀吉,與信長時期的水軍頭領一起被重用。於天正十五年(1587年)的九州征伐、天正十八年(1590年)的小田原征伐等戰鬥中亦有參陣。 在天正十三年(1585年)任從五位下大隅守。同時決定以答志郡鳥羽(鳥羽市鳥羽)之地為本據地,開始著手建築鳥羽城。 由天正二十年(1592年)開始的文祿・慶長之役中,因為在5月至6月被李舜臣率領的朝鮮水軍攻擊,在釜山西方展開的水陸諸部隊受到的損害增加,在7月,嘉隆、脅阪安治、加藤嘉明3個大名被編成水軍並與其對抗。但是脅阪安治突然進攻,在閑山島海戰中敗北,而且為了追擊而出動的嘉隆和加藤嘉明亦在安骨浦受到李舜臣攻擊而撤退。此時嘉隆乘坐「日本丸」,在帆柱被折斷等損害並受到猛烈攻擊下,在夜間成功突圍。因為這些敗戰,秀吉下令轉換戰術:出擊時避免海戰,陸海軍共同在沿岸防備。結果包含九鬼的日本水軍數度擊退朝鮮水軍的攻擊(釜山浦海戰、熊川海戰、第二次唐項浦海戰、場門浦・永登浦海戰),令朝鮮水軍的積極活動激減。 嘉隆在慶長之役中沒有出陣,在慶長二年(1597年)把家督之位讓予次子九鬼守隆後隱居。 慶長五年(1600年),在關原之戰中加入西軍,守隆則加入東軍。這是嘉隆為了存續九鬼家的戰略,不論哪邊戰敗都能保著家名。嘉隆在守隆跟隨德川家康前往會津征伐其間,與堀內氏善等人奪取守備薄弱的鳥羽城,但是西軍在9月15日的決戰中壞滅,於是放棄鳥羽城而逃亡到答志島。 守隆與德川家康會面並請求家康饒過父親一命,家康考慮守隆的功績後答應,但是在守隆的急使把這個消息傳到嘉隆前,擔心九鬼家會被清除的家臣豐田五郎右衛門獨斷地催促嘉隆切腹,接受提議的嘉隆在10月12日於和具的洞仙庵中自殺,年五十九歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%98%89%E9%9A%86
井伊直政 Ii Naomasa(1561年-1602年) 井伊直親的獨子、母為奧山親朝之女、養母井伊直虎、正室為松平康親之女・花(德川家康養女)、側室為伊具;幼名虎松、萬千代,渾名井伊の赤鬼、人斬り兵部,戒名祥壽院殿清涼泰安大居士。 二歲的時候,父親直親因為涉縑暗殺主君今川氏真關係,被氏真下令處死,失去井伊谷的領地。後來生母重嫁給松下清景,改姓松下。不久生母逃到三河國,由於受到今川氏追殺,曾於三河及遠江兩地四處移居。 天正三年(1575年)德川家康在松下城獵鷹,遇上直政,直政請求成為家臣,獲家康接納,獲得井伊谷的領地,復姓井伊。 直政開始在德川家的舞台開始活躍,初次上戰場是高天神城之戰,後來立下不少戰功,更擔任德川家康的旗本手先鋒,與當時德川家的名將本多忠勝和柛原康政齊名。 天正十年(1582年)元服。同年2月,武田氏滅亡,德川家康派遣與北條氏進行外交交涉,過程頗為順利。6月,爆發本能寺之變,明智光秀謀反,當時在織田信長領地的直政陪伴家康等人安全地重返三河國。 後來直政從投降德川的武田遺臣當中,將武田家山縣昌景的赤備隊再次復活,從此赤備成為井伊軍的象徵。後被加封井伊谷4萬石。井伊對部下過度嚴謹,而且非常好戰,所以有人稱之為「赤鬼井伊」。在小牧長久手之戰初次以赤備隊參戰且表現出色,斬殺池田恆興,獲豐臣秀吉曾經高度評價。當德川家康與秀吉和解後,就任官職從五位下侍從.兵部少輔。 天正十三年(1585年)8月,德川家康跟北條同盟一起進攻北信濃和上野,派遣鳥居元忠為總大將帶領7000人,攻打背叛德川投向上杉氏的真田氏上田城。但鳥居元忠在上田城之戰遭伏兵奇襲而退敗,家康震怒之下在9月時命令直政、大須賀康高、松平康重等帶5000人北上前往救援。在小諸城跟鳥居元忠會師穩定軍隊,此時直政聽聞北條氏直率領的3萬人,已在沼田城被真田氏用同樣的戰略敗於真田與上杉聯軍之下。 在盟軍北條擅自退兵與上杉援軍趕到之後,直政判斷此時僅剩己方孤軍跟上杉真田聯軍纏鬥沒任何利益可言,於9月28日留下大久保忠世守備小諸城後亦帶主力回師,沒跟上杉真田作任何交戰。不久德川家發生石川數正出奔事件,讓遭此變故的德川家康全面停止北信攻略。事後家康對直政回師保存德川實力的判斷沒有異議,加封直政至6萬石。 天正十八年(1590年),德川家康參加小田原征伐,任命為直政為總大將,當大軍包圍小田原城時,直政決定夜襲,並成功突圍,更是唯一成功突襲的武將。戰後,家康獲封關東地區,而直政被分封於上野國的箕輪十二萬石,是德川家家臣當中排行第一。慶長三年(1598年),接獲家康命令,將箕輪城拆除,於箕輪城附近以南地區改建高崎城(今群馬縣高崎市)作為居城。 慶長三年(1598年),豐臣秀吉過世,埋藏已久的不和隨之爆發,主要的人物分別是德川家康及石田三成,後來家康決定討伐會津的上杉景勝,直政負責遊說各地大名加入東軍的工作外,後來家康折返江戶,並向近畿地方前進,在關原之戰中協助松平忠吉(家康四男)與小西行長、宇喜多秀家等將領的激烈戰鬥,後來西軍潰敗,德川軍全軍追擊,當他們追擊島津義弘隊的時候,被鐵砲擊中肩部而墮馬受傷。 戰後,積極處理西軍大名的獎罰,與長宗我部氏交涉,後來島津氏交涉(此工作其後交由本多正信處理)。被德川家康分封於石田三成的舊領的佐和山城,石高18萬石,後來積極去除石田三成的政治風格,準備以彥根城取代原有的佐和山城。 慶長七年(1602年)因為關原之戰舊傷口破傷風復發的關係,病逝。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF
井伊直盛 Ii Naomori(1506年/1526年-1560年) 井伊直宗之子、母為井平直鄉之女、妻為新野親矩之妹.祐椿尼、井伊直虎之父;別名次郎,受領名信濃守,戒名龍潭寺殿前信州太守天運道鑑大居士。 明應三年(1494年),駿河國守護今川氏親開始向遠江國伸張勢力,井伊氏與遠江國守護斯波氏及大河內氏聯合與其對抗。兩方於明應、文龜、永正年間斷斷續續持續發生爭鬥,直盛於永正十年(1513年)防禦遠江國三嶽城(禦獄城)失敗後降服,以後仕於今川氏。這場圍繞遠江國的霸權之爭,以大河內氏的滅亡與斯波氏的沒落告終,奪回遠江國守護職的今川氏此後於名於實將駿河遠江兩國置於自己的支配之下。 在亡父今川氏親一代確立支配權的駿河、遠江兩國基礎上又將三河國劃入傘下構築了今川氏最大版圖的今川義元,於永祿三年(1560年)為遠征尾張而做了大軍的動員。直盛在軍中擔任先鋒大將。 今川家不斷奪取織田氏各個據點處於優勢,而同年5月19日,在桶狹間休息的今川本隊遭到織田信長親自率領的部隊襲擊,大量將兵戰死,總大將今川義元也死於亂軍當中(桶狹間之戰)。 直盛於此戰戰死,葬於井伊氏菩提寺龍潭寺(靜岡縣濱松市北區引佐町井伊穀)。 沒有男孩的直盛戰死後,家督由從弟井伊直親(注二)繼承,直親因他人的讒言被懷疑對今川氏有叛意,遭今川氏重臣朝比奈泰朝進攻戰死。 此後不得已由直盛之女井伊直虎執掌政務,遭受脫離今川氏的松平元康(德川家康)的進攻,轉投家康麾下。後來直親的遺兒.井伊直政得到家康青睞,位列德川四天王之一。 注一:井伊直盛死時的年齡有36和56兩種說法,因而其生卒年有1506年與1526年兩種說法,考慮到其祖父井伊直平死於1563年時為75歲或85歲,井伊直盛死時35歲即生於1526年的可能性更大。 注二:井伊直親是井伊直宗之弟直滿之子,與井伊直虎有婚約,然而未完婚即因小野道高之讒言逃往信濃,後於信濃娶妻並生下一子井伊直政,因而與直虎之婚事亦告吹。直盛死後以其養子身份繼承家督。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=4#postid-158 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E7%9B%9B

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