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三好長治 Miyoshi Nagaharu(1553年-1577年) 永禄5年(1562年)、父が久米田の戦いで戦死したため、家督を相続する。伯父・三好長慶によって畿内の支配力を強めた三好氏の中でも、本国阿波を預かる重要な役割を担っていた。しかし幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。 有名な分国法である新加制式を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛するなどの事跡を遺しているが、いずれも篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の結果である。 足利義昭を奉戴する織田信長の上洛により劣勢となった三好氏は、本圀寺襲撃(六条合戦)でも戦果を挙げられず、次第に畿内から追われて本国に撤退した。 元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。摂津では、管領細川氏の嫡流・細川六郎(信良・昭元)を大将に担ぎ、三好一門の大半を結集して(信長派となった従兄弟である宗家の三好義継を除く)、織田信長との戦いに挑んだ(野田城・福島城の戦い)。この時は劣勢に追い込まれたものの、石山本願寺の加勢や近江での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。しかし、その後和睦して本国の阿波に撤退した。 元亀3年(1572年)には不仲となった重臣の長房を、異父兄である阿波守護の細川真之と協力して同年内に攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。だが、強権を振りかざす長治の治政に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けている。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(全讃史)。 天正3年(1575年)、三好氏にとって半世紀以上も畿内・和泉における根拠地であった顕本寺が法華宗であったことや、実休は晩年に法華宗に深く帰依して堺に妙国寺を建立するなどしており、長治も信者として阿波全土の国人や領民に対しても法華宗を強要した。ところが、国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、阿波一国の支配力さえ喪失しかねない状態まで悪化した。このような国内の混乱は、隣国・土佐の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発、海部城や大西城などが落とされた。 天正4年(1576年)には阿波守護細川真之とも対立し、これに真之を支持する元親をはじめ福良氏なども協力したため、長治は圧倒的に不利となる。天正5年(1577年)、長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い、敗死した。享年25。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%B2%BB
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳) 三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。 続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。 また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。 こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。 三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。 永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。 しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
三木通秋 Miki Michiaki(1534年—1584年) 天文3年(1534年)8月10日、三木通明(みちあき)の嫡男として英賀城内で誕生。天文13年(1544年)に元服して掃部助通秋を名乗り、三木氏の家督を相続し、英賀三木氏9代目の当主となる。 永禄12年(1569年)に赤松義祐と室町幕府15代将軍・足利義昭や織田信長の支援を受けた赤松政秀が対立した際には義祐方に与し、政秀の侵攻を受け窮地に立たされていた小寺孝隆(黒田孝高)の救援に駆けつけて、共に政秀を破り逆転勝利に貢献した(土器山の戦い)。 元亀元年(1570年)より始まった石山合戦では、領内に英賀御堂を始めとした本願寺門徒衆を多く抱え、自身も熱心な門徒であった事から顕如の檄文に呼応して挙兵し、兵430人を畿内に派遣し石山本願寺に3,000俵を送って支援をして織田氏への対立姿勢を露わにし、親織田に傾きつつあった赤松義祐や、小寺氏・別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。 天正5年(1576年)に毛利輝元が本願寺支援を決めたことで毛利氏と同盟し、英賀に毛利家臣の浦宗勝の軍勢を上陸させて播磨きっての親織田派であった小寺孝隆を5,000の兵で攻撃したが、孝隆の奇策の前に敗退した(英賀合戦)。天正6年(1578年)になると小寺政職や別所長治などの播磨国衆が織田から毛利に転じたため、通秋は三木合戦の始まりを受けて海路を使って別所氏を積極的に支援し、援軍や兵糧を送っている。 しかし、天正8年(1580年)1月に三木城が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて2月13日(4月26日とする書もある)には陥落。通秋は子の安明(やすあき)ら一族とともに命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住して郷士頭となっている。 天正11年(1583年)12月16日に死去。享年50。遺体は播磨の西徳寺に葬られた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%A7%8B
三村元祐 Mimura Motosuke(生年不詳-1567年/1571年/1575年) 三村家親的長子,三村元親之兄。後過繼給庄為資(一說穗井田實近)作養子,別名庄元祐(穗井田元祐)。 由於備中守護細川氏早已威風不在,戰國時代的備中國人眾分成尼子、大內等不同勢力相互爭鬥。庄氏本與三村氏相互聯合以圖勢力擴張,然而在永祿二年(1559年)的猿掛合戰兩家兵戎相見。兩方相持不下,毛利氏在父親家親邀請下做了兩家中介,終於和解。作為結果庄為資亦或是同族的庄實近(穗井田)收了元祐作為養嗣子。元祐做了庄氏養子後繼承了庄氏歷代相傳的通字「資」字改名「元資」(「元」獲賜自毛利氏),花押也一併變更。另外在15世紀中有同名猿掛城主庄元資,然而是另一人。此後作為三村氏分家同時也是毛利氏麾下武將四處征戰。 永祿十年(1567年),在為祭奠遭宇喜多直家暗殺的父親家親而發動的明善寺合戰(明禪寺合戰)中擔任三村軍的右翼,然而因為全軍陷入苦戰,元祐也被打得大敗(注一)。然而此後在毛利氏麾下率備中國眾出兵九州。其活躍受到毛利氏的稱讚。 元祐的結局眾說紛紜。據同時代資料,元資在支援佐井田城(又名齊田城,位於現岡山縣真庭市)時被浦上.宇喜多軍擊殺,時為元龜二年(1571年)9月4日。另說,據三村氏子孫的傳說與系圖,天正三年(1575年)的備中兵亂(注二)中加入本家備中松山三村氏一方,大戰毛利氏不敵,死於佐井田城。另有毛利家資料指出元祐於元龜二年(1571年)1月於佐井田城與宇喜多勢交戰時不敵被殺。 根據後來做成的毛利家系譜,毛利元就第四子毛利元清(穗井田元清)曾當過元祐的養子,另據元清自身寫的書狀,因所居之猿掛城(今岡山縣倉敷市)所在穗田而起名穗田(穗井田)因而否定了元祐和庄氏的關係。 注一:一說元祐在此戰中遭宇喜多忠家、戶川秀安等人所率軍勢擊殺。遊戲中也採用了這一說法。然而介於此後仍有大量文獻記載其健在,推測應為宇喜多方的誤報。 注二:天正二年(1574年),三村元親因對毛利氏與殺父仇人宇喜多直家結盟感到不滿,內通織田信長起兵反抗毛利氏。天正三年(1575年)遭小早川隆景平定。詳情見三村元親條目。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=9#postid-242 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%85%83%E7%A5%90
三村元範 Mimura Motonori(1549年?-1575年?) 三村家親的三子,三村元祐、三村元親之弟。備中國槓城主。 其父家親死後,作為家臣輔佐兄長.三村家當主元親。後元親與織田信長聯合起兵對抗毛利輝元(備中兵亂,見三村元親條目),作為三村一方固守槓城(又做楪城,位於今岡山縣新見市)遭毛利氏小早川隆景進攻,寡不敵眾陣亡。元範是長刀達人,英勇戰鬥至最後一刻。年二十七歲。 「備中兵亂記」載槓城於天正三年(1575年)1月8日落城,「萩藩閥閱錄」則有天正二年(1574年)11月6日輝元發給楢崎豊景的感狀一封,其中載「槓城落去」,槓城落城時間可能比備中兵亂記中記載的早一些(注一)。 新見市高尾有紀念元範的「三村元範討死碑」。 注一:據此則其生卒年為1548年-1574年。 作者江蛤蟆 出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=9#postid-241
三村元親 Mimura Motochika(生年不詳-1575年) 三村家親的次子,母為阿波三好氏之女。 父親家親以毛利氏為後盾、將備中國幾近全域及備前國一部分納入勢力範圍,並謀求將勢力擴展到備前、美作國。永祿九年(1566年)、宇喜多直家因正面攻擊無法取勝,而派人以鐵砲將家親暗殺。 長兄元祐為備中庄氏養子,元親繼承家督後,向宇喜多氏展開復仇。永祿十年(1567年),率領約2萬士兵攻進備前國,但卻被僅有5千士兵的宇喜多軍所大敗(明禪寺之戰)。此役讓在備中享有威名的三村氏出現衰退,在毛利氏的援助下,元親總算止住頹勢。 之後,天正二年(1574年)、因為毛利氏與仇敵宇喜多直家結盟,元親不顧叔父三村親成、竹井氏等一部分重臣的反對,改投織田信長,反叛毛利氏。此外,也在同年支援受到宇喜多直家叛亂之苦的浦上宗景。 相對於認為這是毛利家中大事而進言討伐三村氏的小早川隆景,吉川元春(反對毛利氏與宇喜多氏結盟)進言應直接和元親見面,勸說元親回心轉意以避免用兵。可是,負責山陰道的元春進言不被接受,而採用負責山陽道的隆景意見討伐三村氏。 毛利軍難以攻下在元親手中要塞化的本城備中松山城,於是採取先將周圍支城依序攻下的作戰方式。在支城紛紛陷落後,毛利軍包圍備中松山城進行持久戰。在寡不敵眾的情形下,城池終於淪陷。元親聽從家臣意見,和妻子、家臣一起逃出,但在途中受了重傷,於是派出使者向毛利軍提出切腹的請求。元親在毛利家中舊識粟屋元方的照看下,留下辭世詩數首在松連寺切腹自殺。以下是其中一首: 「人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に」(人,不過是借用名字的軀體;我的生命如同消失的露水,回歸到原本的水滴。) 元親是個精通詩歌等雅緻學問的文化人,和細川藤孝也有深交。據說在元親困守備中松山城時,藤孝曾送去『八雲集』;元親自殺之際,也贈與藤孝一首詩歌。之後,元親之子勝法師丸被捕,雖然懇求饒命,但小早川隆景擔心他的聰明伶俐會在將來造成危害,還是將其殺害。至此,戰國大名三村氏的血脈完全斷絕,元親的叔父親成等旁支以他國家臣的身分延續下去。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E5%85%83%E8%A6%AA
三村親成 Mimura Chikashige(生年不詳-1609年) 備中国の戦国大名・三村宗親の三男として誕生。兄の三村家親の甥ともいわれる。 備中三村氏が従属していた毛利氏からの信任が厚く、毛利元就が三村氏宛の文書を当主・家親のみならず親成にも見せるように使者に言い含めていたほどである。永禄9年(1566年)に、美作国・備前国へ出陣中の兄・家親が宇喜多直家からの刺客(遠藤秀清、俊通の遠藤兄弟)に暗殺されると、機転をきかせて陣中の動揺を押さえ、兄が率いていた軍勢を代行指揮する。家親横死を秘しての余りに鮮やかな引き際であったため、直家は暗殺成功の報告を容易に信じなかったという。以後は備中兵乱に至るまで、成羽から本家である備中松山の元親をよく補佐し、三村家の屋台骨と評された。 ところが、毛利氏が三村氏にとって不倶戴天の宇喜多氏と結び、それを好機と見て取った織田信長が毛利氏からの離反を誘うが、親成は三村氏旧臣・竹井氏などとともに「織田はとても信用できかねる相手であり、毛利と手を切って織田と手を結ぶのは時期尚早である」旨の主張した。しかし、前当主・三村家親を慕う一族の大勢は織田方につくことで一致し、当主・三村元親は毛利氏離反を決定した。そのため、身の危険を感じた親成は毛利氏に通じ三村氏討伐に協力した。備中兵乱後、一定の功績が毛利氏より認められて備中成羽(鶴首)城主の地位は安堵されたが、備中松山・三村本家の叛乱を諫止できなかった咎を問われ、所領は原封の半分以下といわれる約8,000石にまで減封された。 関ヶ原の戦いまで成羽(鶴首)城主の地位にあったが、戦後に備中成羽からの離封を余儀なくされ没落。その後、備前児島三宅氏のもとへ身を寄せていたが、江戸幕府開府後、備後国に封ぜられた水野勝成に家老として召抱えられたといわれる。ただし、勝成の備後入封は親成死去から10年後の元和5年(1619年)であり矛盾している。なお、記録によると、息子の親良は慶長19年(1614年)に、親宣は元和5年(1619年)にそれぞれ勝成に召出されている。 慶長14年(1609年)10月1日に死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E8%A6%AA%E6%88%90
三枝昌貞 Saegusa Masasada(1537年-1575年) 甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。諱は「守友」とされてきたが、近年は確実な文書上の表記から「昌貞」であることが指摘される。 父虎吉は「三枝右衛門尉」を名乗り武田家の奉行人として活動し、現在の山梨県中央市木原に本領を有していたという。戦国期に三枝氏は武田譜代山県昌景を寄親としている。 『甲陽軍鑑』『寛永諸家系図伝』などに拠れば昌貞は虎吉の嫡子で、武田信玄の近習衆として仕えていたが、信玄にその才能を認められて足軽大将に出世したという。『甲陽軍鑑』では昌貞は山県昌景と同族の山県氏の出自で三枝氏の養子になったとされているが、『寛永伝』では逆に昌景の娘婿(後に猶子)となり山県善右衛門尉を名乗ったとしている。なお、文書上においては永禄11年(1568年)頃から「山県勘解由左衛門尉」を称していることが確認される。『甲陽軍鑑』によれば30騎、足軽70人を指揮したという。 『寛永伝』三枝守友譜に拠れば、弘治年間には信玄の勘気を受け一時蟄居したという。文書上の初見は川中島の戦いに際した永禄4年(1561年)3月で、昌貞は信濃における活躍で知行を与えられている。さらに永禄6年(1563年)には叔父の守直(新十郎)の遺児養育と後見を命じられている。永禄12年8月には甲斐塩後郷(山梨県甲州市塩山)において代官を務めており、この頃には赦免されていると考えられている。 その後は奉行衆や武田氏の御料所の代官などを務めている。昌貞関係文書において、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められ、『寛永伝』に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められている。また、昌貞関係文書は信玄直筆のものも多く含まれ、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている一方で、昌貞は武田家に順調に加増されていることが指摘され、信玄と昌貞の親近性を反映しているとも考えられている。 永禄8年(1565年)10月に武田家では信玄嫡男義信による謀反事件が発生しているが(義信事件)、これを受けて翌永禄9年8月には武田家臣が信玄への忠誠を誓う起請文を信濃国生島足島神社へ奉納しているが(「下之郷起請文」)、永禄9年8月の起請文では長坂昌国(源五郎)、矢島義房、佐藤民部少輔らとともに昌の名が見られる。武田家ではさらに翌永禄10年8月にも起請文の徴収を行っており昌貞はこの際も再び起請文の提出を行っており、昌貞が義信に近い立場であった可能性も考えられている。 永禄11年(1568年)の駿河今川領への侵攻(駿河侵攻)に際しては父の虎吉が駿河田中城の城将などを務めていることが確認されるが、『甲陽軍鑑』によれば信玄は同じく信玄近習の真田昌幸や曽根昌世とともに昌貞の存在を重視し、昌貞は花沢城攻めで一番槍の武功を立てたことにより信玄から感状を受け、山県昌景からは名刀「吉光」を与えられたとい逸話を記している。なお、永禄11年推定の「武田信玄陣立書」(山梨県立博物館所蔵)においては、昌貞は弓衆を率いる立場として記されている。 昌貞は信玄後期から勝頼期まで活動し、『甲陽軍鑑』『信長公記』に拠れば、以下の逸話を記している。天正3年(1575年)の長篠の戦いのときは、河窪信実(信玄の異母弟)を主将とした長篠城を監視する鳶ノ巣山の砦を守備する別働隊に配属された。そこでの守友は、鳶ノ巣山の山ろくに当たる「姥が懐」という所に設けられた支砦の守備を弟たちと担当していたため、信実と同様に主戦場から離れていた。だが、織田信長の命で送り出された酒井忠次が率いる織田・徳川の別働隊による襲撃を5月21日早朝に受ける。 酒井奇襲隊は、武田軍守備隊が無警戒な山奥から尾根伝いに背後へ迫って、5砦を撃滅する目的であった。その上、不運にも守友の担当した「姥が懐」の砦だけが、山頂や尾根に構えられた砦ではなかった為、敵襲の察知が一段と遅れたとも言われる。奇襲隊副将格の本多広孝の軍勢に、直上から逆落とし同然に攻め掛かられた守友たちではあったが、数で劣りながらも奮戦は目覚ましかったという。しかし、次第に劣勢に立たされていくばかりか、敵方には隣砦「君ヶ伏床」を壊滅させた松平清宗などが増援に加わるが、武田守備隊へは増援が無く万事休す。2人の弟・源左衛門守義、甚太郎守光たちと共に戦死したという。 昌貞が討たれた「姥が懐」の付近(愛知県新城市乗本字東畑)に、「三枝兄弟」の墓碑が所在している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9D%E6%98%8C%E8%B2%9E
上杉景勝 Uesugi Kagekatsu(1556年-1623年) 長尾政景的次子、母為上杉謙信之姐.仙桃院、養父為上杉謙信、正室為武田信玄之女.菊姬、側室為四辻公遠之女.桂岩院;幼名卯松、初名長尾顯景、繼承上杉氏,改名為上杉景勝、法名宗心。 永祿七年(1564年),政景與謙信的家臣宇佐美定滿(定行)於野尻池遊舟時意外溺死,成為謙信的養子,改名為上杉景勝。 天正六年(1578年)3月13日,謙信於征伐越中時病歿,謙信生前並沒有立下後繼者。使景勝與謙信的另一個養子上杉景虎因爭奪家督繼承權而展開內戰,景勝一方自稱根據謙信遺言景勝才是合法繼承人,並於3月24日佔據春日山城本丸(實城)與金庫,景虎則進駐春日山城下的上杉憲政的官邸(御館)與景勝對峙。 同年6月,景勝為了盡快解決與景虎的鬥爭,以東上野四郡與部分的黃金讓渡為條件交換與甲信武田家的和睦並取得其支持,翌年9月景勝迎娶武田家當主・勝賴的異母妹・菊姬為正室,締結「甲越同盟」。 天正七年(1579年)3月,雙方達成議和,由景勝的養祖父上杉憲政偕同景虎的嫡長子・道滿丸進入春日山城作為人質,卻在前往的途中被不知情的景勝手下斬殺(一說為直江兼續所策畫),聽聞噩耗的景虎於御館切腹自盡。為期兩年的御館之亂終告結束。不管怎麼說,在繼承權上,至少景勝(母親是謙信公的姐姐,父親也是長尾氏一族)在血緣上比外來子景虎(實父北條氏康)更有說服力。 上杉氏於謙信時期的天正四年(1576年)時與北陸本願寺達成協議共同對抗織田氏,但是在御館之亂爆發之後,北陸的上杉軍陷入混亂使得織田軍有機可乘。天正九年(1581年),北越後的新發田重家因不滿獎賞不公而反叛,並與織田信長內通,同時信長麾下的北陸攻略軍團・柴田勝家展開對越中上杉領內的侵攻。翌年,景勝為了出兵越中對抗柴田勝家而無暇顧及武田家,使得武田勝賴於天目山之戰中被織田氏消滅,武田氏滅亡,越後的上杉氏頓時陷入了唇亡齒寒的局面。 天正十年(1582年),織田軍壓制魚津城,上杉氏失去了在越中的所有領地。同年6月2日,京都的明智光秀叛變,引發「本能寺之變」,織田信長自盡。織田氏的北陸征伐軍受挫、柴田勝家退兵,景勝死裡逃生。但是御館之亂長期以來的混亂局面再加上織田氏的侵攻,讓謙信時期以來所擴大的國力大幅的衰退。也使得新發田重家的叛亂到了豐臣時代才得以平息。 本能寺之變後,羽柴秀吉在山崎之戰擊敗明智光秀成為織田霸權的繼承者,景勝隨後派遣直江兼續前往,達成「越水同盟」(實則為臣屬關係)。天正十一年(1583年)秀吉與其對立的柴田勝家展開賤岳之戰,景勝也奉命入侵越中。天正十二年(1584年),爆發小牧・長久手之戰,翌年真田氏以與上杉家平等關係為由放棄了同盟關係,轉而臣服於秀吉。 天正十四年(1586年)6月,景勝與直江兼續上洛會見秀吉,以養子・畠山義真作為人質成功保住了領地。同時景勝也拜揭正親町天皇受任右近衛少將。 天正十五年(1587年),在秀吉作為後盾之下,景勝討伐新發田重家平定內亂、統一越後。天正十六年(1588年)再次上洛,6月15日敘昇為從三位・參議。天正十七年(1589年),討伐佐渡本間氏,平定佐渡。此時上杉氏的領地為越後、佐渡、出羽莊內三郡以及信濃川中島四郡,合併共90萬石。同年8月,趁最上義光派遣援軍幫助大崎氏防御伊達政宗的侵攻之時,命令本莊繁長協助大寶寺氏奪回莊內地方的統治權,在十五裡原之戰大敗最上軍奪回莊內地方,後秀吉承認大寶寺氏為上杉家的與力大名。 天正十八年(1590年),秀吉以違反無事令為由,下令各家大名出兵討伐關東北條氏,是為小田原之役,景勝即派出山浦景國為先鋒會同前田利家與真田昌幸攻略上野、武藏境內的北條氏領地。同年7月,小田原城開城投降,北條氏滅亡。 文祿元年(1592年),秀吉開始向朝鮮出兵,爆發「文祿之役」,景勝率領5000人駐紮於肥前名護屋城,隨後渡海進軍朝鮮。 文祿三年(1594年),上洛拜領「豐臣」之姓並敘昇權中納言,人稱越後中納言。 文祿四年(1595年)1月,秀吉授命景勝管領越後、佐渡的金山、銀山。同年,原來的「豐臣五大老」之一的小早川隆景因病隱居,由景勝接替隆景的空位,「五大老」分別為:內大臣德川家康、大納言前田利家、中納言毛利輝元、中納言上杉景勝、中納言宇喜多秀家。 慶長三年(1598年),移封會津一百二十萬石,是豐臣政權之下少有超過一百萬石的大名(其中出羽米澤6萬石為其家老直江兼續的封賞),往後便改稱「會津中納言」,代替蒲生氏監視東北各大名(尤其是野心極大的伊達政宗)。雖然移封會津,但景勝仍實際支配佐渡一國與越後東蒲原郡以及出羽莊內地方。 慶長三年(1598年)8月,秀吉病歿。 慶長五年(1600年),上杉景勝命令直江兼續增建神指城增加防御力。後來堀秀治向德川家康報告,指出上杉景勝有叛意。5月3日,德川家康下命各大名進攻會津。由於德川家康的軍隊在上野國小山得知石田三成進攻伏見城,經過會議後決定返回關東重整軍勢,德川軍主力沒與上杉景勝交戰,成為雙方在關原交戰的序幕。 慶長五年(1600年)10月,關原之戰中歸屬西軍,在東北地區與伊達和最上兩軍交戰。後來西軍敗北,景勝的領地由一百二十萬石減至三十萬石,並移封至本為家臣的直江兼續的領地米澤城,成為米澤藩。 元和九年(1623年)在米澤城病逝,年69歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
上杉景虎 Uesugi Kagetora(1554年-1579年) 父:北条氏康、母:遠山康光妹、養父:北条幻庵、上杉謙信、正室:北条幻庵女、継室:清円院(長尾政景女)、側室:妙徳院(遠山康光義妹);幼名西堂丸または竹王丸,別名北条氏秀、北条三郎,号出西堂。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された(陰謀説、裏切り説等、これには様々な説がある。また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
上杉謙信 Uesugi Kenshin(1530年-1578年) 長尾為景的幼子、母為虎御前.青岩院、養父為長尾晴景、上杉憲政;幼名虎千代、初名長尾景虎;繼承上杉氏,名為上杉政虎;受足利義輝偏諱「輝」字,改為上杉輝虎;入道法名謙信,以「上杉謙信」之名為人所知。 天文五年(1536年)八月,父親為景進攻越中之前,預計到進程可能不會很順利,先將家督之位讓給長子長尾晴景。十二月,長尾為景在越中旃檀野與一向一揆作戰時中計敗死(另有病死說)。 為景一死,本來就不太平的越後國更加動蕩,各地豪強佔據一方,各自為政,儼然是個「小戰國」。當時謙信年僅七歲,穿著盔甲送為景下葬,國內的混亂可見一斑。按照室町時代武家的傳統習慣,沒有繼承權的幼子常常被送去出家。於是這一年謙信受戒於春日山麓的林泉寺名僧天室光育門下,學習禪與文武之道。 繼承越後守護代的長尾晴景,比謙信年長十八歲,是為景生前最疼愛的兒子。然而,晴景體質虛弱,沒有作為武將的統領之才,被國內的其它勢力所輕視。為緩和自己的窘境,天文十二年(1543年),晴景嘗試著讓十四歲的謙信協助強化統治權,入駐越後中部的栃尾城,在確保長尾家在越後中部領地的同時,牽制本庄繁長、色部勝長、中條藤資等敵對勢力。一開始,附近的國人眾們根本沒把這個少年放在眼裡。但謙信到城後,得到母親家的古志長尾氏和栃尾城代本庄實乃等人的援助,多次擊退敵對勢力的來犯,並很快將安田長秀、北條高廣、小河長資等國人眾收伏於帳下。在栃尾城的一系列作戰是謙信最初的戰爭經歷。天文十四年-天文十五年(1545年-1546年),守護上杉家的老臣黑田秀忠兩度佔據黑瀧城謀反,謙信代兄長晴景率兵平叛,表現神勇,最後依守護上杉定實之命消滅黑田一族。 謙信的聲望迅速壓倒晴景,國中漸漸有改立謙信為守護代的苗頭,這是晴景始料未及的。終於,難以容忍的兄長聯合上田長尾氏長尾政景、黑川清實等人,打出討伐自己弟弟的旗號。內戰中,謙信雖然兵少,卻以攻其不備之法大敗晴景軍。天文十七年(1548年)十二月,雙方由上杉定實做調解人達成和議:晴景引退,謙信作為晴景的養子繼承家督和守護代職,當時謙信十九歲。 天文十九年(1550年)二月二十六日,越後守護上杉定實病死。定實沒有兒子,守護家絕後。兩天後,將軍足利義輝承認謙信有白傘袋和毛氈鞍覆的使用權。這樣,謙信實質的國主地位得到認證。次年,一直不承認謙信地位的長尾政景降服於謙信麾下,越後長尾一族實現統一。天文二十一年(1552年),謙信被授予彈正少弼,從五位下的官位。 天文二十一年(1552年),上野平井城的關東管領山內上杉憲政抵擋不住北條氏康的攻勢,逃到越後求助於謙信。這成為謙信後來十四次進軍關東的起因。下一年,信濃的小笠原長時、村上義清、高梨政賴等來越後泣訴,請謙信幫助回復被武田信玄佔領的信濃領地。以謙信的性格,自無不允,當年八月就爆發對武田氏的第一次川中島會戰。是役雖然只是小規模的接觸,卻介紹謙信和信玄這對宿敵的相識,對其後整個戰國形勢的發展也造成不小的影響。 當年九月,謙信進京,為此前接受彈正少弼,從五位下的官位向皇室獻禮。後奈良天皇授予謙信天杯、御劍和「討伐對鄰國懷有野心之徒」的敕命。無疑,這等於給謙信攻擊武田、北條的名分。 然而,與進京的成功同時而至的是巨大的花銷,圍繞著這些費用的徵收問題在家臣中出現爭執。敏銳的武田信玄立即抓住這一機會。天文二十三年(1554年)十二月,越後刈羽郡北條城主北條高廣在信玄的煽動下自立,但三個月後就失敗投降。北條高廣是鎌倉幕府的名臣大江廣元的後人,越後國人中的實力人物,平日自負武略不遜於謙信,常懷異志。謙信待高廣卻顯得極為寬大,後來還讓他去上野廄橋城經略關東。十三年後的永祿十年(1567年),高廣受北條氏康支持再度謀反。然而越後和相模同盟時,謙信又一次饒恕高廣,依舊像從前那樣重用他。越後鬆散的主從關係由此亦可見一斑。 武田信玄幾乎沒有給謙信喘息的機會。緊接著在弘治元年(1555年)七月,因為締結三國同盟而無後顧之憂的信玄大舉進兵川中島,謙信亦駐軍於善光寺與之對抗。兩雄對峙一百五十多天,各自滴水不漏,互無建樹。最後由今川義元出面調停,議和罷兵,第二次川中島會戰結束。 收兵回國後謙信面臨的是一場內亂,有力家臣間的領土紛爭不絕。謙信被各種訴訟糾纏得心灰意冷,於弘治二年(1556年)三月在給自己的老師天室光育的信中留下「功成名就,急流勇退」的話,宣告隱退,欲獨自一人前往高野山(或說比睿山)出家。這一突如其來的舉動晴天霹靂般地令家臣們大吃一驚,宇佐美定滿和長尾政景二人慌忙召集重臣商議,以「景虎乃越後統合之中心,捨此無人可內服眾將,外御強敵」故,說服中條藤資,驅逐欲乘亂謀反的大熊長秀(大熊朝秀),極力懇請謙信復出。謙信趁機要求諸將提交聯合署名的起誓文書,並向春日山城送出人質。對此當然無人再敢表示異議。謙信的隱退可能只是一種計謀,但在內憂外患前,這出苦肉計式的隱退戲的確帶來強化家臣團統治的好結果。 從越後逃亡的大熊長秀到甲斐投靠武田信玄,上杉、武田間的和約至此破裂。弘治三年(1557年),武田軍進逼栃尾城,謙信親率大軍迎戰。素來以戰法穩健著稱的信玄極力避免打硬仗,只是以先鋒部隊作試探性的攻擊。信玄曾趁夜埋伏下騎兵五十和步兵三百,次日清晨故意放出三匹驚馬,意在誘使上杉軍奪馬而騷亂。謙信任由三馬在陣前狂奔許久,視若無睹。關於第三次川中島會戰的記載很不明確,大體上是沒有決戰就不了了之。 同年,關東管領上杉憲政再度逃到越後,將關東管領職、系圖、重寶等一起轉讓給謙信。為此謙信在永祿二年(1559年)第二次進京,由朝廷和將軍正式認許這一繼承。時值正親町天皇新立,同樣賜予謙信天杯和御劍。 永祿四年(1561年)3月,謙信以關東管領的名義,集合關東諸侯共計十一萬五千兵馬,討伐「逆臣」北條。北條氏康的居城小田原被大軍圍困逾一個半月,但絲毫沒有要陷落的跡象。同時,謙信在陣中收到北條的盟友武田趁虛進兵信濃的探報,無奈之下只得放棄攻取小田原的打算。謙信先順路去鎌倉,在鶴岡八幡宮舉行關東管領的正式就職儀式,接受上杉憲政的「上杉」姓和「政」字,改名為上杉政虎(同年十二月,受將軍足利義輝賜予「輝」一字,而稱上杉輝虎)。從鎌倉往越後的歸途中還攻取北條方的武藏松山城。 而武田信玄和決戰的機會,終於在永祿四年(1561年)夏的第四次川中島會戰中被謙信抓到。 謙信駐軍妻女山,與海津城的信玄對峙十日,雙方都有些一反常態:謙信雖然兵力只有信玄的三分之二,且已近缺糧,卻還是打打小鼓,哼著謠曲『八島』,悠閑地過著每一天;信玄在優勢兵力下毫無進展,採用軍師山本勘助的建議「啄木鳥戰術」,由高阪昌信、馬場信房、真田幸隆等率一萬兩千人的別動隊夜襲妻女山,信玄本陣八千人則守候於山前的八幡原。九月九日傍晚,在慶祝重陽佳節後,謙信照例在山頭遙望海津城,發現武田軍的炊煙比平時濃密,從而預感到武田的行動。九月十日天明,決戰的時刻到來,原來意圖守候伏擊的武田本陣遭受幾乎上杉全軍的突擊。據『甲陽軍鑒』載,當時有一位頭纏白絹,只露出雙眼的越後武士,騎馬突入武田中軍,揮刀直砍坐在折凳上指揮的信玄。信玄不及拔刀,只得以軍配團扇抵擋。第一刀使團扇碎裂,後兩刀砍傷信玄肘、肩部。信玄的近侍二十餘人急來救主,原虎義挺槍刺傷越後武士的馬屁股,馬驚而載著武士逃去。雖然『上杉年譜』說這位武士是謙信的「影武士」荒川伊豆守,『北越軍記』又說遭突襲的也是信玄的影武士,但民間依然傳說這是謙信與信玄的單挑。岌岌可危中的武田本陣因別動隊的及時來援而起死回生,後來豐臣秀吉評說道:「卯時至辰時上杉勝勢,辰時至巳時武田勝勢」。是役乃少見的惡戰,雙方均死傷慘重,戰後信玄一直迴避與謙信的正面對決。 三年後的第五次川中島會戰其實並未交鋒,雙方相持六十餘日,武田與上杉在信濃的拉鋸就這樣結束。信濃人口眾多、資源豐富,又沒有統一的勢力,自然成為武田擴張領地的突破口;而對於上杉來說,撇開道義上的原因,信濃也是越後聯絡關東的通道之一,更是保護越後安全的屏障。兩雄的爭奪在所難免。但是,正因為謙信與信玄棋逢對手,難解難分,二人把一生的過多時間耗費在信濃,錯過進取天下的大好時機,從而使織田信長的成功省不少力。這也許是川中島會戰最大的意義。 關於謙信的戰法之猛烈,後來在大阪戰役中表現神勇而得到德川幕府的感狀的上杉家臣杉原常陸說:「我等追隨謙信公時,歷大戰小戰不計其數,其酷烈無可相比者;縱不期生還之惡戰,亦未足得一感狀。今之戰猶如小兒投石打鬧,彷彿賞花遊山而得褒賞。」 永祿六年(1563年),北條氏康發兵五萬進攻武藏松山城。謙信率軍援救,未至,城已陷,遂移兵附近北條方的私市城。該城背依大湖,建於險要之地,難以卒拔。城的本丸臨湖,築得很高。謙信巡視時,見從本丸通往二丸的廊橋上張著竹簾,湖水中映出橋上站的一個穿素白單衣的人影。謙信三次見到這樣的人影,推測本丸中拘有不少作為人質的婦孺,就先令柿崎景家帶隊猛攻正門。待城內的注意力都被轉移到正門時,派人拆毀附近的民房,用柱子結成大筏投入本丸後的湖中,並故意發出很響的水聲,佯裝要從水路進攻。本丸的婦孺著實被嚇一跳,紛紛奪路逃向二丸。把守正門的兵將不明真相,見到本丸突然大亂,只道是城內有內應已佔據本丸,頓時無心再戰,自殺的自殺,投降的投降。謙信遂拱手而取此堅城。可見謙信用兵之機略。 在關東反反覆復的爭紛又持續好幾年,各方都沒有什麼大進展。永祿十年(1567年),武田信玄開始把矛頭轉向昔日的盟友今川,而三國同盟的另一端北條則站到今川一邊。為一起對付武田,北條氏康甚至與長年敵對的謙信和好並結成短暫的越相同盟。鑒於甲斐是內陸山國,而越後、駿河、相模都是沿海國,今川氏真建議三國共同停止向甲斐運鹽作為制裁。提議得到北條氏康的贊同,但謙信知道後卻說:「斷鹽而使甲州的民眾受苦,非有勇之人所為。勝負當在戰場上分曉,敵國之民亦人眾也,不可採取此等殘忍手段。」遂命藏田五郎左衛門運鹽往信濃深志的集市販賣。 元龜二年(1571年),北條氏康死,武田信玄與北條氏政重新結好後,攻德川家康於三河,開始他的進京作戰。織田信長與謙信締結同盟,謙信出兵信濃長沼,遙相聲援德川家康。時駐守信濃的武田勝賴部僅有八百餘人,勉強前來迎戰。謙信贊其勇,不欲以眾克寡,竟引兵退去。次年四月,武田信玄突然病死於進京途中。死前曾囑勝賴與謙信修好,並以為依託,由此可見其對謙信人格的肯定。謙信知信玄死,亦為之傷感,嘆道:「吾國之弓箭將不利矣。」隨即絕音曲三日,並遣使往海津城弔唁。有老臣進言趁機收復信濃,謙信以「乘人之危之舉,不齒為之」,未予採納。後武田勝賴違背信玄「死後三年不可出戰」的遺言,強行出兵,在長筱慘敗於織田、德川,元氣大傷,越後諸將復請乘虛進攻武田,謙信以同樣理由未准,至死不曾為難勝賴。 信玄死後,謙信與信長雖然還保持著表面上的友好,但決裂已只是時間問題。信長消滅室町幕府之舉使謙信認定信長是天下動亂的禍首,而被驅逐的將軍足利義昭也請求謙信進京再興足利家。從越後進京的道路是順著北陸道,經越中、加賀、越前至近畿。為此,謙信的軍鋒首先指向越中和能登。越中、能登原本都是守護畠山氏的領國,但能登的實權早已旁落入重臣遊佐氏、溫井氏、長氏、三宅氏等手中,形成所謂重臣合議體制。重臣之間明爭暗鬥,可是把畠山氏傀儡化卻是一致的。永祿九年(1566年),欲奪回權力的畠山義續、義綱父子被群臣逐出能登;繼承守護職的畠山義慶還只是個幼童,天正二年(1574年)也不明不白地死於變亂;其弟義隆上台後兩年就病死;群臣中勢力最大的長綱連索性扶立一個年僅兩歲的幼童為主。能登實際上處於極度混亂的無主狀態。至於越中,更早已是國人眾與一向宗勢力林立,其中不少以武田信玄為後盾。信玄進京的同時,謙信也曾出兵奪取越中的大部分地區。 天正五年(1577年),謙信平定越中最後的幾個據點,並順勢掃平能登除七尾城以外的所有地方。七尾城中群臣之首的長綱連與織田素有親交,一面閉城堅守,一面遣其弟長連龍向信長求援。九月,正在圍攻七尾城的謙信接到探報,以柴田勝家(一說為織田信長)為主帥的五萬織田大軍渡過加賀的手取川攻入能登。當時七尾城內已發生傳染病,許多士兵因而病死。十五日,倒向上杉方的遊佐續光、溫井景隆等發動叛亂,誅殺長續連、長綱連父子及其一族,七尾城在困守四十餘日後陷落。謙信隨即率三萬五千人馬迎擊織田軍。織田軍已在手取川前背水列陣,且人數佔優,但聞知七尾城已陷,謙信親自統兵前來時,竟畏其名而戰意盡失,乘夜撤兵。謙信隨後追擊,恰逢手取川漲水,織田軍難以渡回,登時混亂,在謙信的猛攻之下潰不成軍。戰後留在岸邊的織田軍屍體有千餘具,另外數倍於此的人淹死在河裡或被河水沖走。織田與上杉的第一次正面交鋒以慘敗告終。因為北條在關東有所動作,得勝後的謙信沒有乘勢進兵,而是退回越後。 翌年正月,謙信下達關東征討的總動員令。然而,謙信的生命也正隨著越後的積雪一起漸漸消逝。即將出陣前的三月九日,謙信突然昏倒於廁所,並失去知覺。謙信是戰國有名的酒豪,甚至騎在馬上也不忘飲酒,因飲酒過量而造成腦溢血。三月十三日,與世長辭,年49歲。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
上泉信綱 Kamiizumi Nobutsuna(1508年-1577年) 上泉秀繼(義綱)的次子,幼名源五郎,原名上泉秀綱,拜領武田信玄「信」字,改名為信綱。 永正五(1508)年,武藏守義綱的二兒子源五郎,在上野大胡城城外的同國桂萱鄉上泉城出生了。而上泉城舊址在現在的群馬縣前橋市附近。元服後的源五郎,便采用了秀綱。信綱的稱謂。在史書所記中,多以秀綱之名錄入。 而永正五年(1508年)的形勢,還在近畿流浪的前將軍義稙被細川高國,畠山尚順等迎入了泉州界,而前將軍義澄卻從近江追來,七月一日將將軍位還於了義稙,因此引發了義澄的將軍職被解的混亂。此時的甲斐武田信虎與叔父大井信惠父子為爭奪甲斐守護職,同族間內戰。同年出生,與秀綱同世代的武將還有足利晴氏。小山高朝。蒲生賢秀。大內義隆。裡見義弘。 再說上泉家與劍道間的關系,其祖父時秀是天真正伝香取神道流分下飯筱長威齋家直陰流之祖愛洲移香齋久忠門下生,其父義綱也有從長威齋門下的鹿島新當流之祖松元備前守愛洲移香齋修行的記錄。而秀綱,則隨父親做松元備前守門下的入門修行,十七歲之時已得天真正伝神道流的奧義皆傳資格。 享祿三(1530)年、秀綱23歲時。祖父時秀逝世前,愛洲移香齋往上泉城拜訪。當時移香齋與秀綱相見,歎曰「此子非凡才能出眾,乃繼承我陰流並超越我之極限者。」翌年,移香齋傳授秀綱陰流之伝書.秘卷.太刀一腰全本,令其按法修行,隨以飄然姿態消失於歷史舞台。如同,後來武州小金原一刀流之祖.伊東一刀齋助其弟子御子神典膳(後之小野忠明)與在於善鬼的決鬥中勝出然後退隱的事跡極其相似。 另外說一點就是,同在享祿三年(1530年)1月,後與秀綱有聯系的一位人物,在越後春日山城出生。幼名虎千代、父為長尾為景、母是古志長尾顯吉之女:虎御前。正是他日以合戰之神響譽戰國的巨星:上杉謙信。 隨後,秀綱於享祿四(1531)年終成為了陰流正統愛洲移香齋久忠繼承者。 在這之後,關東局勢發生了很大變化。秀綱本家是居於大胡城之扇谷上杉家麾下。而此時的扇谷上杉朝興正與北條氏綱進行著對江戶的爭奪戰。然而尚未完成心願的朝興在天文六(1537)年病勢,家督位由十三歲的朝定繼承,退出了對江戶的爭奪。江戶終歸入了北條家。作為大胡城一族的守護,上泉家依然自認是扇谷上杉氏的屬下,由上泉義綱.秀綱一起指揮執行對家中之統制與管理。 到了天文14(1545)年9月,山內上杉憲政聯合扇谷上杉朝定集結了東國勢六萬五千兵力對北條方之勇將北條綱成所鎮守的武藏河越城進行包圍戰。不久,古河公方足利晴氏率一萬五千援軍趕至與上杉兩軍合流、共計8萬大軍包圍河越城從而向北條氏康宣戰布告。 雙方對壘到翌年4月,北條氏康救援河越城的援軍從小田原出陣,至武藏三ツ木一地布陣。軍勢達八千人。4月20 日,信號突起,氏康朝早已斷糧的上杉憲政。朝定。足利晴氏聯軍發起突如其來的夜襲,聯軍被擊破,扇谷上杉朝定戰死(享年22歲)、憲政逃回上野平井城、晴氏向古河逃竄。這便是後世盛傳的戰國三大奇襲戰之一的。 秀綱在享祿元(1528)年結婚娶妻,妻子乃大森式部少輔泰賴之女。而大森式部少輔泰賴其人,是明應四(1495)年被北條早雲以謀略奪城的原小田原城主大森實賴.藤賴親子的子孫。然,不幸的是,妻子在生下兒子秀胤後早逝。後來秀綱娶了第二位妻子,卻是先前說述北條氏勇將北條綱成的女兒。 河越夜戰以後,山內上杉家的聲望急劇下跌,且還要面對已經統治關東的對手北條氏康的不住侵略。小領主爭先恐後投向了氏康之傘下,上杉家可謂日薄西山。然而在這樣的情況下,仍然有員世之名將義無反顧,堅定地支持著已如斜陽般的上杉憲政。他,就是箕輪城主長野業正。 秀綱作為長野業正的部屬,表現非常之活躍。乃是長野家之勇將藤井豊後守友忠。白川滿勝等合稱的「長野十六槍」之一人,而且得到了「上野一本槍」這樣的榮譽稱號。這些,是秀綱在上杉憲政麾下的表現。所以說,他與小田原北條氏當時是敵對關系。 然而作為戰國時代小領主的悲哀,秀綱個人的思惑卻無力改變領地內居民的慣性作為。家臣為守護個人之財產而逐步與他之國人眾的步調越見相似。「今日侍上杉、明日侍北條」的思想,不難想象為什麼怎麼多人「恥も外聞もない日和見的進退」(大概意思是被恥因往昔所做之進退,指兩邊倒的人)事實上,關東的國人眾早已在上杉謙信與北條氏康.氏政之間不斷搖擺不定。他們這種可恥之極的作法,使秀綱產生了強烈的厭世觀點。這也是為什麼秀綱在箕輪落城,長野家滅亡後,毅然放棄了地位與領土,選擇以武道家的身份生活的一個重要原因,他也是被戰國社會的風氣逼出來的。 清興曰:「傳說愛洲移香齋教授信綱的第一劍術就是像猴子一樣的攻擊方式,而這個陰流的傳統到後來背新陰流完全繼承,即是新陰流劍術奧義的猿飛之術……老實說,擬態似乎是人作為高等動物的一種高明技術,用在武術上的次數不算少。猴拳就是其中之一了。」 初之上洛和箕輪落城 上泉信綱在山內上杉家名將長野業正沒後,協助其遺孤業盛鎮守箕輪城。直至箕輪落城,業盛自害後離開家鄉,開始了他一生流浪修行之路的始端。 在天文年間的曆史記載中,有著秀綱上洛的記錄。詳細時日不明,但追其目的,是為新陰流一脈之傳與壯大與曾祖父一色義直一族的追善供養之事。當其在旅途中路經小田原城時,曾在北條氏康面前展現新陰流之妙技。氏康震驚,令北條綱成拜入其門下修行,並做媒使秀綱取得綱成之女為後妻。而嫡子秀胤也從此入仕北條家,秀綱因此暫留小田原城。(「上泉家文書」記載) 然而,以之後秀綱的行動來思考,顯然對這事非常之感激不盡。只需要看秀胤一直跟隨北條家,至國府台合戰戰死,如此之忠可以想見秀綱的態度。氏康是以其過人之眼力(或者是說觀人之法吧)發現日後以劍術而聞達關東一地者,唯秀綱一人耳。當他款待秀綱時,並不單純將其視為個武術家,而是以後會得天下共敬的名武將。 到達京都的秀綱,與當時的一些超一級知識人(指有極高名望的名人)見了面。其中便有以『言繼卿記』聞名的高位之公家.權大納言山科言繼。言繼與秀綱可謂一見如故,在其以後的書信中不斷有秀綱之名出現。在這期間,後來的神影流創始者奧山孫次郎公重(休賀齋)。真新陰流之祖小笠原源信齋長治拜入了秀綱門下。 時至天文二十(1551)年。首先的大事是2月12日,甲斐的武田晴信削發入道改名信玄。不久的3月3日,尾張織田信秀在末森城病歿(享年42歲),其子信長繼承家督位,後世之霸主終登上曆史舞台。3月10日,北條氏康出陣。上野平井城的上杉憲政率三萬騎直取小田原。上杉憲政與長野業正.太田資正部在神流川迎擊北條,然而勢單力薄,敗走。連平井城也放棄了,投奔了越後的長尾景虎。在這種沒有一人援助的情況下,在平井城11歲的嫡子龍若丸也被遺棄。然後,不幸的龍若丸為北條軍捉住,最後在足柄海岸被北條氏康殺害。 逃亡越後的憲政很快受到了長尾景虎的歡迎,並邀請他作為以後出陣關東的參謀人員。北條家意識到了景虎的意圖,為防止這種情況的發生,決定先發制人,在上州發起國人動亂,侵略之意昭然若揭。而北條之西甲斐的武田信玄也不能允許北條的作為。大胡城無可避免地陷入了這場曆史的旋渦中。不久,信玄首個發動了進攻,目標箕輪城。而此時堅守城池的便是名將長野業正和他麾下一萬精兵 自知難敵的業正於是一面聯絡長尾景虎,一面全力阻擋信玄東進。因業正武勇,至死亦未讓甲斐之虎信玄破城而入,得獲「上州の黃班」(即黃斑之虎的意思)之稱號。而此時秀綱作為「長野十六槍」的筆頭,在此役中表現活躍。 可是到了永祿四(1561)年11月22日,業正病勢。而在之前的9月,戰國史上有名的第四次川中島合戰在武田信玄與上杉謙信間展開。長野家所刻意隱瞞業正之死,然終究紙包不住火,信玄得知此情況,滿懷信心出陣再戰,以二萬兵力圍城並發起總攻。秀綱在當時也為箕輪城做了最後的奮戰,然而兵力的懸殊,終事與願違。在勇將藤井友忠戰死後,已有覺悟的業正之子業盛開城門,果敢殺出。突入馬場信房之陣,斬敵十八騎而回,留下辭世之句後自害。享年19歲。 而對於秀綱落城後卻存在兩種說法,一說帶著神後伊豆守,疋田文五郎突入武田陣,欲死戰,卻被信玄本陣特使穴山信君飛馬趕至勸降。二說跟隨桐生城的桐生直綱逃離箕輪城。然而信玄卻派特使穴山信君至秀綱居所勸降。無論哪個是真哪個是假,秀綱最後伺候了武田信玄卻是重要的事實。 國修行 秀綱最終接受了信玄的邀請入仕武田家。而在信玄心中,對這位協助箕輪城主長野業正數年來使武田不得越雷池一步的武士相當重視,給予破格的厚遇。秀綱仕官信玄也使得曾請過秀綱入仕的北條氏康,上杉謙信終未能如願。 然而已仕官武田的秀綱,始終無法忘記出國修行之旅以成就自我劍術流派的宏願,最後向信玄告辭。信玄進行初步交涉,秀綱卻決意已定,不得已,以「不得至他家仕官」為條件答應。秀綱義無反顧。信玄雖不捨,依然守信放行,並賜予秀綱厚禮:自分己名之一字「信」與秀綱,故改稱「信綱」。經其事所見,無論是「旅立之餞行」,還是「不入他家之契約」,均見出名將信玄的見解獨到與過人的眼光。 從此以後,秀綱為眾人所知的那樣改名為「上泉伊勢守信綱」,恢複了自由之身。在神後伊豆守宗治,疋田文五郎景兼協助下開始了他傳奇的出國修行。而他與信玄之間的約定,秀綱終身堅守,一生再未入仕別家。今後的史書中,得留「信綱」之名。 清興曰:「所謂大器晚成。我看在日本戰國時代裏,這個名詞和箕輪城到聯系在一起了。這兒不說信綱了(他的確算一個大器晚成的典型),單是信綱所效力的城主長野業正,就是其中最最有名的大器晚成名將之一。看了很多記載,關於業正的詳細記錄基本上是從他留守上州的箕輪城開始。計算下,當時他已經五十好幾。這個年齡段才混出個名將的名聲,實在是太晚了些。不過相信不會有人懷疑他的實力,可以讓甲斐之虎在己有生之年,無力跨進箕輪半步。怕業正在黃泉底下業大呼夠本了!」 意味深長 恢複自由身的信綱,在旅途中遇到了伊勢的北畠具教,從而開始了他人生的轉折。 離開信玄進行修業的信綱一行,一路至京都,而對於他所走的路線,世人有兩種不同的說法。一是取中山道;一則是走東海道。因為與小田原北條氏的關系,經東海道的可能性會比較大。借居小田原的信綱,在氏康.綱成的支助下,永祿六(1563)年從小田原出發,開始了新的旅程。 離開小田原的信綱一行,理所當然經過了今川。松平領,一直上洛。而在桶狹間之戰後脫離今川家,並在前年與織田信長結為同盟的松平元康長男信康與信長女德姬的婚禮在這段時間舉行了,松平元康同時改名德川家康。不久統一三河全境。信綱一路朝伊勢而去,終於在上京前遇到了那個改變他人生的人,這個人的名字是——北畠具教。 具教是代為伊勢國司職務的名族北畠晴具之子,伊勢國司北畠家最後的當主。永祿六年(1563年)年,其父父晴具歿,享年61歲。具教繼承家督的位置。相傳具教的劍術是其任國司時,求學於來到伊勢的劍聖塚原ト伝高幹。ト伝甚至「唯授一人」地傳授具教鹿島新當流的秘傳「一つの太刀」。以至於出現了這樣的事實,在ト伝將死之際,向嫡男彥四郎留下了「北畠卿より伝授を受けよ」(去找北畠具教學習「一つの太刀」)的遺言,而彥四郎也是經具教相授後,終修得奧義。 十三代將軍足利義輝與具教交好。對於享祿元(1528)年生的具教來說,36歲之時已經作為「武芸者」為世人稱道。 在前往伊勢的途中,有一則對信綱而言意味深遠的小插曲。對一代劍聖而言,一生中的插曲不少,且此類的插曲多為人知之。 在信綱一行經過尾張的一個小村落時,發覺村中發生了大騷亂。信綱遂派已成為其弟子的疋田文五郎上前詢問,得知是因作惡而被追捕的浪人,劫持了村中小孩做人質,頑固地據守在一間房中,並威脅如果有人闖入,就殺掉人質。孩子的父母發瘋似的哭泣,但仍然一籌莫展。 信綱聞言臉色瞬息改變, 便讓一旁的一位僧人借其僧衣,一邊念道,一邊請僧人為己剃度。即使弟子神後伊豆。文五郎也不明白師傅這個行動是要做什麼。信綱化身僧侶,並讓村民拿來兩個飯團,逐步挨近民家入口。而當他靠近房門時,浪人有所察覺。 「不准進來!再近一步我就取這孩子的命」 浪人叫嚷著,並用武士刀抵住人質咽喉相威脅。 「你怕什麼,我不過是個路過的和尚,現在拿飯團過來而已」 「好吵!你不要騙我,你一定是來捉我的人」 「當然不是。你看,那孩子又沒有罪。而我的雙手都握的是飯團,沒有武器」 從昨日起,已經整日未進一粒糧食的浪人難忍腹中饑餓,終於有點相信信綱的話,但架在孩子脖子上的刀並沒有松下。 「好了,你站在那裏把飯團拋過來。但如果上前我就取人質的性命」 「沒問題。不過你必須答應我,給你的兩個飯團,必須有一個是給人質吃」 信綱看准了浪人空腹的破綻用計,浪人的態度終於軟化,轉而抱住人質胸口,以為人盾,遂叫道 「你拋過來,我這樣接」 信綱向浪人拋出第一個飯團,未等浪人反映過來又緊接著拋出第二個。浪人用左手抱住人質,用右手持刀指人質咽喉。當見飯團飛來,不假思索伸出抱人質的左手去接,然而當第二個飯團被拋來時,情不自禁丟下右手長刀,伸出右手想接住飯團。結果正中信綱之計算。‍ 在浪人放刀的一剎那,信綱飛身上前一把將其手扣住,再一個翻轉,歹徒便渾身無法動彈,束手就擒。 村人自然是非常之喜悅,當信綱將袈裟還與僧侶時,僧侶深為感動收藏之,這就是所謂的信綱所贈袈裟。而那浪人在之後才知道捉住他的人是誰。 進入伊勢的信綱一行,很快找到了有「太ノ御所」之稱的北畠具教的居館。在這裏開始了雙方的初次交談。本來具教在天文二十三(1554)年已取得了從三位權中納言的職位,以信綱一介棄國武士的身份因此是不可能聚在一起交談的。但同樣身為「劍術」之武者,使得原本地位懸殊的二人會發生拜師這樣的事情。 二人互談劍術談義。然後,當時信綱所表現出來的驚人劍技,使比他年輕20歲的具教自認劍術遠遠弱於對方。而當時的具教已是劍道界中數一數二的高手。信綱劍術表面尋常但卻無法看穿,使得具教心悅誠服,感歎「幸得此會」,並介紹了大和的二人與信綱,正是寶藏院胤榮與柳生宗嚴。 寶藏院胤榮乃奈良興福寺的塔頭(住持?),也是寶藏院中有著覺禪坊之稱的槍術高手,日後的寶藏院流槍術之祖。而另外一人,柳生宗嚴是中條流.新當流的高手,在當時「畿內隨一」(畿內首屈一指)評判的劍豪武將。也正是因為他的加入,最後將新陰流發揚光大,得以飛翔般的成就。而這,卻是當時的信綱所無法預料的。 清興曰:「這裏我要談的是心理學在劍術方面的作用。無奈和老友龍吟月比起來。我在這方面幾乎沒什麼研究。只能泛泛而談。信綱計捉浪人的這場表演,無疑是心理學運用的一目。人,無論是何等高級動物,始終無法擺脫某些動物本能,在特定環境下,這些深藏心底的本能會背外界環境引發出來。浪人的餓,信綱手裏食物的引誘,特別的手法,最後結果是浪人解決饑餓的本能代替了他的警覺性,以至為接飯團而放開了保命的刀。這就是心理戰術被運用到實戰終的表現。還有一幕,在信綱之後,宮本武藏VS佐佐木小次郎的嚴流島之戰,武藏合適地運用了心理戰,引出了小次郎不成熟的一面:容易暴躁,而最後獲得勝利。心理優勢何心理戰法,該是劍術大師級人物必備的條件吧。」 一代劍豪柳生宗嚴 信綱一行在大和與寶藏院胤榮。柳生宗嚴碰面,而宗嚴的人品學識令信綱認定了他日將新陰流道統繼承並發揚光大者,非宗嚴不可。 離開伊勢後的信綱一行,來到大和首先拜訪的是寶藏院胤榮。胤榮隆重地接待了這批來賓。不久,兩人閑談之後開始了試合。胤榮使用的是慣用的長槍,而信綱則是手持袋韜(用皮包著的短竹枝,最後演化,成為了……下面有介紹)相對。​‍ 信綱所持的「袋韜」,在這時的作用不過是令脆弱而極易碎裂的竹枝在毛皮包裹下變得比較牢固而已。雖然在那個時間裏,木刀的使用已經相當普及,但是依舊有不小的危險性,最壞的場合下很有可能至人於死地。在信綱的門人中,也存在著試合時被誤殺的事件。於是乎信綱對制劍的材料進行了一定的研究,最後發明了「袋韜」這種東西。可以說,信綱正是現代劍道所采用的竹刀的發明者。 勝負很快揭曉。後之寶藏院流之祖,獨立發明了十文字鎌槍而揚名世間的荒法師胤榮,幾乎在沒有任何抵抗下被信綱以袋韜所敗。胤榮事後拜服於信綱精湛的劍術之下,請信綱指導他做了新陰流劍道的入門。被派出使者以信箋通知劍友柳生宗嚴趕來。接到他信件的柳生宗嚴,立即趕至「運命の立ち會い」(命運將發生巨變)的寶藏院道場。 趕到寶藏院道場的宗嚴急切希望與信綱比試劍術。然而,他所得到的答複卻是。「ではまずこの疋田文五郎と立ち會いなされ」(請先與我的弟子疋田文五郎比劍)。一瞬間,宗嚴幾乎懷疑是不是自己聽錯了。「畿內隨一」的實力評價,居然只配與其弟子比試.極度不滿的宗嚴認為這不過是小菜一碟,然而誰知道…… 勝負揭曉時,一度對疋田文五郎揚言要在一合內取勝的宗嚴,連續三次被三招完敗。在當時,被徒弟擊敗的人按道理是沒理由再向師傅挑戰的。但宗嚴卻這麼做了。更不可思議的是,信綱竟然愉快地答應了對方請求。 以寶藏院胤榮在旁為證,信綱與宗嚴間持續三晝夜的比劍展開。比試結束後,心悅誠服的宗嚴拜信綱為師,並邀請眾人到柳生之鄉讓自己好好招待。信綱接受邀請來到了柳生之鄉。美麗的鄉村讓信綱十分喜歡,更何況還有宗嚴的父親家嚴帶領柳生家所有族人熱情歡迎。 在柳生之鄉住下的信綱,珍惜這個難得的機會,向柳生一族傳授他的技藝。特別是對宗嚴進行了嚴格的訓練。戰國世事無常,在柳生之鄉迎來永祿七(1564)年正月的信綱,突然得到噩耗。 正月七日,北條氏康所統治的下總國府台被裡見義弘.太田資正連合軍擊破,信綱之子秀胤在此役英勇戰死。得到消息的信綱悲痛萬分,又見在柳生一族的傳業基本完成,於是留下給宗嚴的劍術研究課題,離開了柳生之地。而這個課題,正是柳生新陰流的精髓「無刀取り」,即身無寸鐵而如何壓倒對方得到最後勝利的方法。宗嚴領受。 而疋田文五郎則繼續留在了柳生之鄉。 信綱回到關東,料理完秀胤後事。緊接著上京,訪問山科言繼。就在他滯留京都這段時間裏,上泉信綱的名聲傳到了將軍足利義輝耳裏,並請信綱至官邸一敘。這也成為了信綱登上他人生顛峰的基點。雖然有人中傷說,這個邊遠地區的劍客的武藝不可能背將軍看中。然而以弘流為人生目標的信綱對虛名根本不重視。 在北畠具教與山科言繼相繼推薦下,終於,永祿七(1564)年6月18日,信綱將一生最大的舞台搬到了京都二條御所。 在其上覽演武之際,信綱將打太刀任務交給了神後伊豆,這個25歲的青年劍士。而此時,已經聞名天下的丸目藏人佐長惠得知了信綱演武得消息。丸目藏人佐長惠,肥後相良家家臣。是當時九州島一之兵法者天草伊豆守弟子,且劍術駕淩師傅之上的麒麟兒。在上洛時已得聞信綱之名,故見面即要求比試,這與宗嚴的做法但很相似。經過簡單的切磋,藏人佐長惠也拜在了信綱門下。信綱為了青年的發展,遂安排弟子神後伊豆守當場演練劍法,結果神後伊豆大獲成功。義輝感服,賜予信綱「兵法新陰、軍法軍配天下一」的稱號,並經信綱推薦,任命神後伊豆為將軍家的指南役(武術教練)。信綱就此迎來了他人生的顛峰。 劍聖上泉信綱之終 當「無刀取り」這個難題被解決,授予柳生宗嚴流派之印可狀。告別眾弟子,萬般感慨的信綱心懷故土,回到家鄉度過了他人生最後的日子。 永祿八(1565)年4月,信綱再次來到大和柳生之鄉。想見見許久為碰面的得意弟子宗嚴的進度。 而宗嚴一見師傅,立即請信綱至道場,將己最近研習劍術所領悟的在信綱面前展示。信綱見之無限感慨,因為自己一生的夢想「無刀取り」,已經由這名得意弟子最終完成了。於是說出了「もはや我らの及ぶところではない」(我之技不及你)的贊揚,並當場授予宗嚴新陰流的印可狀。 翌年五月,悲報傳來。將軍義輝被松永久秀等暗殺。信綱想及義輝之恩德,再次起程趕往京都祭奠。而趕往京都期間,其記錄卻不知什麼原因沒記錄在任何的史書中。元龜元(1570)年6月27日,京都,信綱得到了在正親町天皇御前演武的榮譽,並因此獲得從四位下武藏守的官位。 元龜二(1571)年七月,信綱離京返回了故鄉上州。當時信綱64歲。其後足跡不明,有在天正五(1577)年上泉領地為下總國府台合戰戰死的秀胤的13回忌做法事的記載。之後又有他與後妻(北條綱成之女)所生二子有綱.行綱成為了兵法師範,入仕小田原北條家的說法。 天正十(1582)年。不世出之劍聖.新陰流祖上泉武藏守信綱,前半生身陷戰亂紛爭的上州小領主;後半生偉大的劍客,在相模小田原結束了他的生涯。享年75歲。 在信綱逝世後,新陰流中劍豪輩出,更多的流派從其衍生。其道統一直傳到今日。 在這戰國的亂世,劍法至為興隆的時代,天下到處充斥著武藝高強的劍客,而信綱卻以更上乘的武技技壓群雄,故推崇為當世的劍聖。 出處 http://baike.baidu.com/view/89716.htm?fromtitle=%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BC%8A%E5%8A%BF%E5%AE%88&fromid=8189269&type=syn#4

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