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織田信長

繼承家督 1551 4 野心的肇始──被譽為『尾張之虎』的織田信秀因病而過世,人稱『大傻瓜』的嫡子‧信長繼承了當主地位。鄰國的威脅、同族之爭……眼前障礙堆積如山,但他的雙眸仍注視著遙遠的未來。 嚴島之戰 1555 10 西國巨人‧大內家的崩毀帶給了其麾下毛利元就一個大好機會。原本只不過是區區國人的毛利家,將逐漸成長為爭霸天下的戰國大名。元就的下個目標便是擊破大內義隆的驍將‧陶晴賢。謀神之箭即將貫穿敵人。
「信長之野望.創造 威力加強版」已發售,將逐漸更新網站內容。 ■ 12月11日 每日武將—德川家康 ■ 12月10日 每日武將—北條氏綱 ■ 12月09日 每日武將—朝倉宗滴 ■ 12月08日 每日武將—三好長慶 ■ 12月07日 每日武將—黑田孝高 ■ 12月06日 每日武將—織田信秀 ■ 12月05日 每日武將—長尾為景 ■ 12月04日 每日武將—陶晴賢 ■ 12月03日 每日武將—上杉景勝 ■ 12月02日 每日武將—瀧川一益 ■ 12月01日 每日武將—武田信虎 ■ 11月30日 每日武將—長野業正 ■ 11月29日 每日武將—大友宗麟 ■ 11月28日 每日武將—島津忠良 ■ 11月27日 每日武將—黑田長政 ■ 11月26日 每日武將—石田三成 ■ 11月25日 每日武將—宇喜多秀家 ■ 11月24日 每日武將—細川忠興 ■ 11月23日 每日武將—長宗我部信親 ■ 11月22日 每日武將—小西行長 ■ 11月21日 每日武將—龍造寺隆信 ■ 11月20日 每日武將—福島正則 ■ 11月19日 每日武將—伊達晴宗 ■ 11月18日 每日武將—後藤基次 ■ 11月17日 每日武將—島津豐久 ■ 11月16日 每日武將—本多正信 ■ 11月15日 每日武將—長宗我部盛親 ■ 11月14日 每日武將—仙石秀久 ■ 11月13日 宣傳影片第2弾、售前每日武將 ■ 11月07日 Fami通雜誌大圖 ■ 11月06日 新要素「會戰編」影片&姬武將、 系統強化調略、Fami通雜誌圖片 ■ 11月02日 ファミ通.com採訪小笠原 ■ 10月30日 新要素「外交編」介紹影片 ■ 10月23日 新要素「軍團編」介紹影片 ■ 10月17日 新要素「内政編」介紹影片 ■ 10月05日 Fami通雜誌圖 ■ 10月04日 4gamer.net 720P圖片分享 ■ 10月02日 官方網、fami通情報彙集 ■ 09月26日 樂天市場預購遊戲內容消息 ■ 09月22日 東京電玩展宣傳影片放出 ■ PC/PS3/PS4平台同時12月11日發售預定。
以下數據只適用於「信長之野望.創造」本體版,加強版 請到「信長之野望.創造 威力加強版」專長習得條件(成長類型)「信長之野望.創造」本體版 專長習得條件(成長類型) 歷史武將的成長類型,可於「信長之野望.創造」本體版 全武將數據一覽查出成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型 成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型 成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型 成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型 成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型 成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型 成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型 成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型 成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型 成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型 成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型 成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型 自創武將成長類型的條件 武將如何增加四圍屬性? 遊戲的武將情報中,每個屬性下方都有一個經驗條,當某個經驗條滿了,對應的屬性就會+1,上限是+20。 填滿一個經驗條需要100點經驗,以下列出部份命令能得到的經驗。 數據來源: 01‧城主:4圍每月獲得7點經驗 02‧內政-開發:每月政治經驗+16(出陣武將無法獲得開發經驗) 03‧普請-建設:每次政治經驗+21 04‧普請-設營:每次政治經驗+18 05‧普請-整備:每次政治經驗+18 06‧普請-築城:每次政治經驗+60 07‧外交-工作:每月知略經驗+19 08‧調略-懷柔:每次知略經驗+28 09‧調查-巡查:每次知略經驗+24 10‧調查-偵查:每次知略經驗+24 11‧普請-修復:每月政治經驗+28 統率&武勇經驗,除了城主固定加以外,只能靠戰爭來獲得,但戰爭經驗計算比較複雜無法列出,但同一部隊大將和副將獲得經驗是一樣的。 出處 http://forum.gamer.com.tw/C.php?bsn=64&snA=8870 成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型自創武將成長類型的條件
本作以《信長之野望·創造》的基礎上制作的全新遊戲而非追加DLC,主打武將扮演而非系列傳統的君主扮演模式,玩家可扮演一名武將通過「立身出世」「下克上」等等元素在遊戲中揚名天下。預計於2016年3月24日發售。
一色満信 Isshikii Mitsunobu(生年不詳-1582年?)父は一色義道、妻は細川藤孝(幽斎)の娘・伊也(『一色軍記』では”菊の方”);別名は義定、義俊、義有。通称を五郎。剛勇に優れ、父・義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。天正7年(1579年)に義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を長岡氏(細川氏)と分割統治した。中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A
一色義道 Isshikii Yoshimichi(生年不詳-1579年)別名は一色義辰(よしたつ)・一色義通(よしみち)、「義」の字は室町幕府第15代将軍足利義昭より足利将軍家の通字を賜ったものである。官途は式部大輔、左京大夫。父は義幸、子に義定、兄弟に昭辰(あきたつ)、義清がいる。一色氏は室町幕府の四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職の名分も宿敵である若狭武田氏に奪われ、長らく続いたかつての守護家の権威をもって丹後の実効支配を続ける状態にあった。永禄元年(1558年)、父・義幸の隠居により家督を継承し加佐郡の八田守護所および建部山城に入り、実弟の義清を吉原城に配して丹後国の奥三郡を治めさせた。また同じく弟の昭辰(あきたつ)には「辰」の字を与え、彼は同じく将軍足利義昭より偏諱(下の「昭」の字)を授与されてその奉公衆として将軍家に近侍した。義辰は昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立した。また、越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭将軍より丹後一国を正式に安堵される。しかし、比叡山焼き討ちよって追われた延暦寺の僧を匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には織田家の武将である明智光秀と長岡藤孝による丹後国への侵攻を招いた。翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、丹後守護所の詰城である建部山城も落城する。義道は但馬国の山名氏への亡命を企てて途中中山城に身を寄せたが、城主の沼田幸兵衛は長岡方に内応したため行き場を失って自害した。(細川家譜には丹後平定戦の最中に病死したとある)出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
七里賴周 Shichiri Yorichika(1517年-1576年?)賴周本來是本願寺的青侍(下級武士),因本願寺顯如認為其頗有前途於是當上了坊官,受命領導加賀一向一揆。織田信長與石山開戰後,受顯如之命指揮加賀的一向門徒同織田軍反復爭鬥,因而被一向門徒稱作「加州大將」。天正二年(1574年),越前國的前波吉繼(桂田長俊)施行暴政,國人與民眾的不滿達到了極點。於是在富田長繁的調動下民眾掀起了針對長俊的土一揆,富田長繁自己出任大將帶兵包圍了長俊據守的一乘穀城並將其攻破,消滅了長俊。長繁接著又殺害了魚住景固。一揆眾對消滅並無敵意的魚住一族一事頗有微詞,決定與無謀的長繁劃清界限。於是一揆眾將長繁拉下大將寶座,籌劃著另尋他人做自己的領導人。這時賴周於眾人當中脫穎而出。究其原因是因為一揆眾中有相當數量的本願寺門徒,正是這些門徒推薦他出任大將。因而一揆由富田長繁領導的土一揆轉變為賴周領導的一向一揆。一揆眾將長繁及其同黨,土橋信鏡(朝倉景鏡),平泉寺等敵對勢力相繼消滅。之後,越前一國由本願寺派來的下間賴照進行支配,賴周也被納入賴照的指揮下。在二月中旬的時候,一向門徒上交了被消滅的國人眾黑阪一族的首級,賴周大怒,以「沒有我的命令就自作主張將武士殺害是違犯軍律」為由將其處死。然而,賴周藉著自己大權在握,上述處刑之類的蠻橫行為也屢見不鮮,因而在門徒當中人望盡失,門徒們彈劾賴周的彈劾信一直送到石山本願寺坊官下間賴廉之處。就這樣,發生了越前一向門徒與加賀一向門徒的分裂(一揆內一揆)。織田信長發覺了這一機會,在天正三年(1575年)8月,派大軍攻入越前。下間賴照與賴周兩人在門徒中毫無聲望,完全無法進行指揮,被打得大敗。賴照被殺死在逃亡過程中,賴周則逃亡到了加賀。次年,賴周將加賀司令之位交與下間賴純,然而一揆據點之一的加賀松任城主鏑木賴信萌生叛意將其殺害,此為一說。另一說賴周敗給織田軍撤退過程中被殺。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=12#postid-283 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%87%8C%E9%A0%BC%E5%91%A8
三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?)三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
三好政勝 Miyoshi Masakatsu(1536年-1632年)天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に和泉の織田方の城を落したり、15代将軍足利義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く比叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている(『信長公記』『尋憲記』)。降伏によって信長から9月20日に摂津豊島郡をあてがわれた(『寛政重修諸家譜』)が、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した(『福地源一郎氏文書』)。しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている(永禄以来年代記)。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西長信(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである(『太閤記』)。秀吉の死後は慶長5年(1600年)に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として1400石余を加増され(『寛政重修諸家譜』)、河内三郡の内で2020石を領した。その後は慶長9年(1604年)に因幡守に任官し、大坂の陣にも出陣し、戦場であった河内の案内に功績があったとして表彰され、鷹狩の許可を得た上茶器を与えられるなど厚遇された。徳川秀忠の御咄衆となり、寛永8年(1632年)に96歳の長寿を全うした。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D
三好政康 Miyoshi Masayasu(生年不詳-没年不詳)三好三人衆の1人。初め右衛門大輔政生、続いて下野守政康と名乗る。後に出家し、釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)と名乗った。続柄に関しては諸説あり、『続応仁後記』では「三好之長の次男の孫三郎頼澄」とされる。また、『三好別記』によると「三好之長の弟・勝時の子である政長の子」とあり、『狩野文書』の元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によると、一任斎こと政長の子・三好政勝に宛てた手紙の書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記され、下野守政康は政勝の兄と記されている。また『芥川系図』では「政長の子、右衛門大夫政勝の弟」とする。頼澄の子とする場合、兄は三箇城主三好政成とされる。なお、政康という名は『細川両家記』の誤謬が伝播したものといわれ、他の一次史料などによれば本名は政生(まさなり)となっている。はじめ細川晴元の家臣として仕え、一族の三好長慶と争うが、後に和解勧告に応じ臣従。長慶の勢力拡大に貢献し、弘治元年(1555年)の丹波八上城攻めや永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に参陣して武功を挙げた。長慶の死後は甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。おしどりを形どった花押を用いていたという。永禄8年(1565年)5月19日、他の三人衆と共に三好氏と対立する室町幕府13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。しかし、次第に畿内の主導権をめぐり久秀と三人衆との関係は悪化。11月16日、三人衆は河内飯盛山城を襲撃し、義継の身柄を河内高屋城に移すと、義継に久秀との断交を約束させ、義輝の従弟の阿波公方の一族足利義栄を14代将軍に擁立し、三好氏の本拠地である阿波の篠原長房の協力を得ることにも成功した。12月下旬には義栄に御教書を発行させ、軍を久秀の本拠地大和に進駐させ、筒井順慶らを味方につけ久秀を脅かした。一方の久秀は紀伊に逃れていた畠山高政・安見宗房らを扇動して高屋城を襲撃させ、永禄9年(1566年)2月に河内において畠山軍は三人衆に決戦に及んだが、三人衆は2月17日の上芝の戦いで畠山軍に大勝、久秀は大和へ退却する。4月に三人衆は再び大和に侵攻したが、久秀は城を脱出し堺において味方の軍を結集して、再び高屋城を脅かした。そのため三人衆は義継の親征を仰ぎ、摂津の池田勝正や淡路の安宅信康の援軍も得て久秀の3倍の軍で堺に迫ったため、5月30日に久秀は戦わずして逃亡した。この時、阿波の篠原長房が足利義栄を擁し大軍を率いて兵庫に上陸すると、三人衆はようやく長慶の喪を発表して葬儀を実行し、長房の援軍も得て三人衆は畿内の反対勢力をほぼ一掃することに成功した。8月23日には義栄を摂津越水城に迎え主君として遇したが、これが義継の不興を買い、永禄10年(1567年)2月に義継は出奔、久秀を頼って三人衆と敵対するようになり、三好康長らも三人衆から離反したため、久秀は復権し三好家は再び分裂抗争することになった。大和での東大寺の大仏の炎上事件がおきたのもこの時期の戦乱においてである(東大寺大仏殿の戦い)。しかし戦局は三人衆が有利で、東大寺での敗戦後から立ち直り久秀方の信貴山城を落とし多聞山城を包囲した。永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、義継・久秀らが織田氏に接近する一方で三人衆は信長との敵対の道を選んだが、9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、政康も城主であった山城木津城から退いた。以後は石山本願寺や信長と不仲となった義昭らを巻き込み信長との抗争は激化したが、畿内での兵乱(元亀兵乱)が信長の優位で決着すると政康の動向は不明となった。死去した時期について、今谷明は消息不明になり没年すら定かではないとしている。一方で天野忠幸は、『二条宴乗記』における永禄12年(1569年)5月26日の記事から5月3日に阿波で死去したと指摘している。なお、豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳という高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せいかい)という人物が政康の後身という俗説がある。また、講談に登場する真田幸村の部下の「真田十勇士」の1人である「三好清海入道」のモデルになったとされることがある。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%BA%B7
三好長治 Miyoshi Nagaharu(1553年-1577年)永禄5年(1562年)、父が久米田の戦いで戦死したため、家督を相続する。伯父・三好長慶によって畿内の支配力を強めた三好氏の中でも、本国阿波を預かる重要な役割を担っていた。しかし幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。有名な分国法である新加制式を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛するなどの事跡を遺しているが、いずれも篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の結果である。足利義昭を奉戴する織田信長の上洛により劣勢となった三好氏は、本圀寺襲撃(六条合戦)でも戦果を挙げられず、次第に畿内から追われて本国に撤退した。元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。摂津では、管領細川氏の嫡流・細川六郎(信良・昭元)を大将に担ぎ、三好一門の大半を結集して(信長派となった従兄弟である宗家の三好義継を除く)、織田信長との戦いに挑んだ(野田城・福島城の戦い)。この時は劣勢に追い込まれたものの、石山本願寺の加勢や近江での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。しかし、その後和睦して本国の阿波に撤退した。元亀3年(1572年)には不仲となった重臣の長房を、異父兄である阿波守護の細川真之と協力して同年内に攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。だが、強権を振りかざす長治の治政に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けている。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(全讃史)。天正3年(1575年)、三好氏にとって半世紀以上も畿内・和泉における根拠地であった顕本寺が法華宗であったことや、実休は晩年に法華宗に深く帰依して堺に妙国寺を建立するなどしており、長治も信者として阿波全土の国人や領民に対しても法華宗を強要した。ところが、国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、阿波一国の支配力さえ喪失しかねない状態まで悪化した。このような国内の混乱は、隣国・土佐の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発、海部城や大西城などが落とされた。天正4年(1576年)には阿波守護細川真之とも対立し、これに真之を支持する元親をはじめ福良氏なども協力したため、長治は圧倒的に不利となる。天正5年(1577年)、長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い、敗死した。享年25。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%B2%BB
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳)三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8