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古田重然 Furuta Shigenari(1544年-1615年) 古田重定的長子、養父為古田重安、正室為中川重清之女;通稱左介、初名景安,以「古田織部」之名享譽茶道界。 父親重定在當時即以茶湯之道聞名,重然應該很早就接觸到茶道的相關知識。不過在松屋久重所編「茶道四祖傳書」中所引用佐久間不幹齋的口敘傳聞中,卻也有重然早年很討厭茶道的說法,由於重然史料可查最早的茶會紀錄是已年過四旬的天正十一年(1583年),故早年未鑽研茶道之說也有一定之可能。 古田家起初為美濃國守護土岐氏部下,永祿十年(1567年)織田信長入主美濃後成為其家臣,重然亦成為信長手下的使番(傳達軍令、監察、與敵軍進行交涉的軍使)。參加了翌年信長的上洛軍,以及攝津的攻略。永祿十二年(1569年)與攝津茨木城主中川清秀之妹阿千結婚。 天正四年(1576年),成為山城國乙訓郡上久世莊(今京都市南區)的代官。天正六年(1578年)7月在織田信忠的播磨神谷城攻略中立功,更在同年11月荒木村重反叛時,成功說服義兄中川清秀倒戈至信長方。之後參加過羽柴秀吉的播磨攻略及明智光秀的丹波攻略、以及武田征伐。做為一名俸祿僅3百貫的武士轉戰各地。 信長死後歸屬羽柴秀吉,在山崎合戰之際說服中川清秀投向秀吉並交出人質。天正十一年(1583年)正月參與討伐伊勢龜山城的瀧川一益,同年4月的賤岳之戰亦立下戰功。但中川清秀卻在此戰死亡,重然成為清秀長男中川秀政的輔佐人。 在翌年爆發的小牧長久手之戰、天正十三年(1585年)的紀州征伐、四國的長宗我部攻略時皆於中川秀政一同出陣。同年7月受關白豐臣秀吉封為從五位下織部正(織部助)並得到山城國西岡的3萬5000石土地,但同時免除秀政輔佐人的身份。之後九州征伐、小田原之戰皆有參加,但文祿慶長兩戰時做為後備眾留守名護屋城。 天正十年(1582年)開始與茶道名人千利休來往,在這期間亦拜入其門下,並成為後來「利休七哲」之一。天正十九年(1591年)秀吉將利休放逐時、利休的親交畏懼秀吉的權勢而並未出面,僅有重然與細川忠興前來送行。利休死後,重然繼承了其茶道地位,集千利休茶道之大成,在茶器製作、建築、造園方面風格大膽且自由,帶動了安土桃山時代的流行文化「織部風」(織部之名是由他受封的官職從五位下織部正而來)。 慶長三年(1598年)將家督之職傳予嫡子古田重廣後隱居。 慶長五年(1600年)9月爆發關原之戰,重然加入東軍,但其酷似其師利休的叛逆性格,頂撞德川幕府的行為層出不窮。另一方面,重然在茶道方面的盛名使其在朝廷、貴族、寺社、商人間皆佔有一席之地,對全國大名也有一定影響力,為此幕府方面隱隱透露出擔憂。 慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣、重然的茶頭木村宗喜被懷疑與豐臣家內通,在京都一帶放火,遭到京都所司代板倉勝重逮捕。身為木村的主君重然亦沾上內通的嫌疑。 大阪城陷落後的6月11日被下令切腹,重然對此毫不解釋而自殺,年72歲。嫡子重廣亦切腹,木村宗喜被處死。 重然死後,他所開創的織部燒、織部流仍繼續流傳後世。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
堀秀政 Hori Hidemasa(1553年-1590年) 堀秀重的長子、妻為喜多島良滋之女,幼名菊千代,通稱久太郎。 出生於美濃國,幼時和從兄弟奧田直政(堀直政)由伯父一向宗僧人-堀掃部太夫一同養育。最初仕於織田信長側近-大津長昌,接著仕於木下秀吉(豐臣秀吉)。 在永祿八年(1565年)成為織田信長的小姓和側近。16歲時擔任將軍足利義昭暫住的本國寺的普請奉行等,負責各種奉行職,確立了側近的地位。信長的側近除了秀政以外,還有菅屋長賴、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、萬見重元等人。 秀政漸漸從奉行職轉移到戰場上有活躍的表現。參加織田軍主要的合戰,天正三年(1575年)參與討伐越前的一向一揆。天正五年(1577年)的紀州征伐,離開信長的本陣,與佐久間信盛和秀吉等人一同率領一支部隊。天正六年(1578年)的有岡城之戰中與萬見、菅屋等人率領鐵砲隊。天正七年(1579年)安土宗論時與菅屋、長谷川等人擔任奉行。天正八年(1580年)與菅屋、長谷川等人擔任傳教士屋敷的造營奉行。同年,在信長向蜂須賀正勝送出的書狀中發出副狀。 天正九年(1581年)的第二次天正伊賀之亂中在信樂口率領部隊。同年.被賜予近江國阪田郡2萬5千石。天正十年(1582年)甲州征伐中,跟隨信長進入甲信,因為織田信忠已經消滅武田氏而沒有參加戰鬥。本能寺之變前,明智光秀被奪接待德川家康的役職後,與丹羽長秀一同負責,在這次接待後,被編制到備中的秀吉之下。 天正十年(1582年),信長在本能寺之變後死去,秀政作為秀吉的軍監留在備中國。此後成為秀吉的家臣,在山崎之戰中參戰。與中川清秀、高山右近等人擔任先陣。 明智光秀受到柴田勝全的幫助逃離山崎後,秀政把援助光秀的從兄弟明智秀滿迫入阪本城。對敗北有所覺悟的秀滿把先祖代代相傳的家寶讓給秀政的家老直政後,在城中放火自殺。 清洲會議後,秀政取代丹羽長秀拜領近江佐和山城並成為三法師(織田秀信)藏入領的代官和守役。 在天正十年(1582年)10月20日送出的書狀中使用羽柴姓,被認為是在秀吉一族以外最初被賜予羽柴氏的人。翌年(1583年)4月,秀吉進攻越前北之莊的柴田勝家。家康向秀吉送出的書狀中寫著褒揚秀政軍功的字句。 戰後敘任從五位下左衛門督,被賞賜近江佐和山9萬石。因為從兄弟六右衛門是一向宗蓮照寺的住職的關係,於是亦負責與本願寺方交涉。 在天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰中,己方遭到德川方大敗,但是秀政把自軍分為3個部隊,伏擊正在追擊的大須賀康高和榊原康政等人,進行挾擊並令其敗走,與家康本隊沒有戰鬥並退卻。 天正十三年(1585年),秀吉成為關白,秀政敘任從四位下侍從兼左衛門督。在同年的紀州征伐(千石堀城之戰、第二次太田城之戰)和四國平定戰中因為軍功而被賜予丹羽長秀的遺領越前國北之莊18萬石,並獲得加賀小松的村上義明、加賀大聖寺的的溝口秀勝為與力。在天正十四年(1586年)與長谷川秀一一同被允許昇殿。在秀政於各地轉戰期間,佐和山城由父親秀重和弟弟多賀秀種以城代身份在城內進行統治(『新修彥根市史第1卷(通史編古代・中世)』彥根市史編集委員會2007年1月)。 天正十五年(1587年)九州征伐中,被任命為先鋒部隊。天正十六年(1588年)被賜豐臣姓。 天正十八年(1590年)小田原征伐中參戰,被任命為左備的大將(『寬政重修諸家譜』)。進攻箱根口並攻陷山中城,攻入小田原早川口,把本陣佈在海藏寺,不過在陣中患病死去,享年38歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
山中幸盛 Yamanaka Yukimori(1545年-1578年) 山中滿幸的次子、母為立原綱重之女.なみ、養父龜井秀綱、正室為龜井秀綱之女;實名幸盛,幼名甚次郎,通稱鹿介,別名鹿之介、鹿之助、鹿助,渾名山陰の麒麟兒。尼子十勇士之一,以山中鹿之介之名廣為人知。 幸盛の前半生は、確実な史料が殘っておらず不明な點が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲國富田莊(現在の島根県安來市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を參照。)。 山中氏の家系も不明な點が多い。山中家の系図はいくつか存在するが、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。 山中家は尼子氏の家老であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手把を立てた。 16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに隨行し、因伯(因幡國と伯耆國。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った。 幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが、後に山中家に戻り當主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。 尼子氏の滅亡 永祿5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲國へ進軍する。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年(1557年)には大內氏を滅ぼし、防長(周防國と長門國)を新たに支配していた。また、永祿5年6月には石見國を勢力下に治め、中國地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、當主であった尼子晴久が永祿3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。 毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入國すると、尼子方の有力國人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永祿5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。 永祿6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠點であった。 9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大將とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退卻の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を擔當し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している 。 永祿7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関で戦い、幸盛もこれに參戦する。このとき、日本海側からの補給拠點である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆國の拠點確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆國の重要拠點の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。 以後、伯耆國は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。 永祿8年4月(1565年5月)、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下の麥を刈り取って月山富田城へ攻撃を開始する。 4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。 4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。 9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川將員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川將員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滯在していた小河內幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多數の兵を討ち取った。 永祿9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出來なかった。 11月21日(1567年1月1日)、城內の兵糧が欠乏し將兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出來ないと判斷した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦國大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は隨従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため盡力することとなる。 第一次尼子再興運動 尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永祿9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬溫泉で傷を癒した後に順禮の姿をして東國へ赴き、武田氏(武田信玄)・長尾氏(上杉謙信)・北條氏(北條氏康)などの軍法をうかがい、越前國の朝倉氏の家風を尋ね入り、その後、京に上ったとされる。 永祿11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させると、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機會をうかがった。 永祿12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機會をうかがっていた幸盛は、出雲國へ侵攻を開始する。 このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった。山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領國であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回覆を図るにあたって手を結んだと考えられる。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領內を攻められ、支援はままならなかったようである。 6月23日(8月6日)、幸盛らは丹後國もしくは但馬國から數百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、國內に潛伏していた舊臣らが続々と集結し、5日の內に3,000餘りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。 7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、また、城內より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。 しかし、石見國で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な狀態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲國內において16の城を攻略し、その勢力を6,000餘りにまで拡大させた。 また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛、三刀屋久扶などの出雲國の有力國人を相次いで味方につけると、出雲國の一円を支配するまでになった。 さらに、伯耆國においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡國との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略。謀略を用いて末吉城の神西元通を寢返らせたのをはじめ、日野郡一帯を支配する日野衆を味方につけるなど、伯耆國全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡・備後・備中・美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。 加えて10月11日(11月19日)、大內輝弘が大內家再興を目指して周防國山口へ攻め込み、築山館跡を占領する事態が発生する。10月15日(11月23日)、相次ぐ領內の反亂により支配體制の危機を感じた元就は、反亂軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰著すると、10月25日頃に大內家再興軍の反亂を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大內家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大內輝弘の亂)。反亂を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している。 永祿13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲國へ入國すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反亂(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲國の拠點である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安來市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。 2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部山で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として殘り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。 6月、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麥薙ぎが行われるなど危険な狀態となるが、9月5日(10月4日)、安芸國で元就が重病に陥り、吉川元春を殘して毛利輝元・小早川隆景らの軍が國許へ帰還すると狀況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。 幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠點である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の國境にある城を次々と奪還するとともに、一時、清水山要害を攻略して再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連攜を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を建設。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢を強めている。さらに、隠岐國の國人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。 元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲國における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直屬の水軍部隊・児玉就英を派遣する。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる。 そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠點であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脫出して隠岐へ逃れている。 同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後に隙をついて脫出している。 こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。 第二次尼子再興運動 尾高城から脫出した幸盛は、海を渡って隠岐國へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬國に潛伏する。 そして、瀬戸內海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機會をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。 元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬國から因幡國へ攻め込み、桐山城を攻略して拠點とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡國を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計畫していたと思われる。 このとき、因幡國の実質的な領主は、毛利方の國人・武田高信であった。高信は、去る永祿6年(1563年)に當時の因幡國主・山名豊數と爭って勝利を収めると、毛利氏と連攜をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。 幸盛ら尼子再興軍は、豊數の弟で山名氏再起を目指す山名豊國を味方につけると、因幡國の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。 尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。 鳥取城には山名豊國が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000餘りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。 ところが11月上旬、山名豊國が、田公高次などの懐柔により毛利方に寢返る。尼子再興軍は、わずか1ヶ月餘りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて盡力することとなる。 因幡國內で毛利軍と交戦する一方、美作美浦氏や備前國の浦上氏、豊前國の大友氏などの反毛利勢力と連攜を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って體制の立て直しを図っていった。 これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。 天正3年5月(1575年7月)、但馬國の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。 但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡國の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠點をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡國から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節點に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。 6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡國へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠點はこの若桜鬼ヶ城の1城を殘すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多數の付城を築いて因幡から撤退する。 ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡國において完全に孤立化する。 さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡國から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。 第三次尼子再興運動 - 幸盛の死 因幡國より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。 京で信長に面會した幸盛は、信長より「良き男」と稱され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。 天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに參加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。 天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに參加する(信貴山城の戦い)。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の將・河合將監を一騎討ちで討ち取っている。 10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。 12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠點である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠點として最後の尼子家再興を図って行く。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の國境に位置し、この地域を治める上で重要な拠點であった。城番となった幸盛は、この區域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作國人の懐柔・調略を行っていく。 天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の將・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。 2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。 織田氏と交戦狀態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3萬以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。 5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1萬の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書寫山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。 降伏の條件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。 人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中國合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。享年34または39。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
山內康豐 Yamauchi Yasutoyo(1549年-1625年) 山內盛豐的四子、母為法秀尼(梶原氏?)、正室為長井氏、水野氏;通稱匠作、吉助、次郎右衛門、修理亮,別名家豐,戒名法光院殿前匠作照圓日賑大居士。 在尾張國黑田城出生,父親盛豐為尾張岩倉城城主織田信安的家臣。康豐情報不詳,一說是沒有仕於織田氏,在寄身於兄長山內一豐以前一直過著流浪的生活。 元龜三年(1572年),期間開始仕於織田信長的嫡男織田信忠,在信忠於本能寺之變中被明智光秀襲擊而自殺前一早就已經逃走。之後仕於溝口秀勝,後來受到兄長山內一豐邀請而復歸山內家並努力補佐一豐。 兄長山內一豐在關原之戰後成為土佐藩藩主,康豐則在慶長六年(1601年)6月,受封土佐中村2萬石。不過因為江戶幕府並沒有承認康豐的所領為土佐藩的支藩,因此亦有說法指康豐時代的中村藩並沒有被正式承認。 慶長十年(1605年),兄長山內一豐死去的同時,康豐的長子(山內忠義)成為一豐養嗣子,就任土佐藩第2代藩主。因為忠義還年輕的關係,康豐在2年間擔任後見人。 寬永二年(1625年)8月29日死去,年七十六歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%85%A7%E5%BA%B7%E8%B1%90
曾根昌世 Sone Masatada(生年不詳-沒年不詳) 曾根虎長之子;初名勝長、奧近習六人眾之一。 曾根氏乃是武田分家,又稱曾禰氏,為武田氏家祖義清之孫岩尊封往甲斐八代郡曾根後首稱,但是傳承數代後情況漸不明,直到甲斐武田家十四代當主信重時,才又分封其子賢信於八代郡曾根方再有曾根氏,爾後在武田信玄的曾祖父信昌當主時代,曾根氏獲得起用,有多人擔任武田家直屬的被官,曾根昌世的祖父即受到武田信昌、信繩賜贈偏諱,先後名為曾根昌長、繩長,昌世之父曾根虎長亦是得到武田信虎的賜名,同時擔當龍朱印狀奉者的職務。 有此家名的曾根昌世因而極早被武田信玄起用,任為身邊的小姓,和土屋昌次、三枝守友、真田昌幸、甘利昌忠、長阪勝繁合稱奧近習六人眾,乃是信玄身邊重點培訓的側近。雖然武田家中曾根昌世不以武勇聞名,但是其人行事嚴謹,因此信玄常以曾根昌世為軍監,督視前線戰陣的兵士情況與戰場觀察,直轄騎兵十五騎、足輕三十人,居足輕大將格,並且和父親一般擔當武田氏家督龍朱印狀奉者之職也擔任武田家的情報將官,負責將收集來的諸國情報彙整向信玄報告,而曾根昌世也這段期間先後自稱過內匠助、右近助等官位。 永祿八年(1565年),信玄長子武田義信意圖謀叛之事暴露,曾根昌世的嫡子曾根周防因為是義信的乳兄弟,並且時任義信側近與聞其事,所以遭到連坐處份,與飯富虎昌、穴山信邦、長阪勝繁一同處死,曾根昌世心生不滿,遂出奔駿河。直到永祿十二年(1569年),曾根昌世才應武田信玄邀請,歸參武田家。 同年十月,武田信玄進軍相模,一度包圍小田原城,在北條氏康的堅壁清野戰術下數度搶攻未成,加上內有軍糧不足,外有北方上杉謙信蠢蠢欲動等不安因素,武田信玄只好果斷退兵。北條氏康見武田軍撤走,也隨即派遣北條綱成、北條氏照、北條氏邦帶兵啣尾追擊,兩軍在三增峠激戰,期間武田家殿軍隊長淺利信種遭北條綱成部的鐵砲隊擊斃,曾根昌世便以軍監代行職務接下淺利信種的指揮權,率領部隊繼續作戰,終在山縣昌景即時切入擊破北條陣勢後取勝,陣中曾根昌世的活躍也受到好評。 永祿十三年(1570年),武田信玄發兵攻打駿河花澤城時,曾根昌世參與作戰,表現英勇,獲得僅次於三枝守友的二番槍之功勛,該年九月在武田軍轉攻伊豆韭山城時真田昌幸共同擔任前線視察工作,據甲陽軍鑑所載,武田信玄對兩人的工作表現多有讚賞,並稱兩人為「兩眼の如き者」。 在武田信玄攻下駿河後,曾根昌世的能力獲得肯定,被派為於駿河興國寺城城代,並獲許自稱下野守。後於元龜四年(1573年)武田信玄死後,持續出仕勝賴。並於天正九年(1581年),武田勝賴建設新府城時與真田昌幸一同擔任設計建築。 天正十年(1582年),織田信長大舉侵入武田家領地,信濃的木曾義昌成為織田信忠的內應,而位在駿河的曾根昌世也和穴山信君透過德川家康稱降。在武田氏滅亡後,曾根昌世便出仕德川家康,後於本能寺之變時,參與德川家對甲斐的攻佔,斡旋武田舊臣駒井政直等加入德川家,並擔任起請文奉行,聯合舊武田家同心眾34人簽署天正壬午起請文宣示向家康效忠,昌世本人也以武田親類眾的身份屬名,為武田舊臣歸順德川家康一事上出力不小,隨後也和依田信蕃參加德川家康和北條家爭奪甲信的戰爭,建立功勳。 天正十八年(1590年),德川家康奉豐臣秀吉之命發兵關東加入圍攻小田原,曾根昌世亦參與此役,隨軍轉戰關東,但是戰後卻仍維持本領興國寺城不變,等若天正十年(1582年)以來的功績未受到承認與重視,使曾根昌世因而不滿自德川家出奔,改投新封於會津的蒲生氏鄉門下,據說蒲生家在準備構築會津若松城時,加入設計行列,引進假州流的築城術來規劃本丸及二之丸,所以會津若松城頗有武田家城池的風格,而曾根昌世此後生平不詳。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/81573015/
木曾義昌 Kiso Yoshimasa(1540年-1595年) 木曾義康的長子、正室為武田信玄之女・真理姬(真龍院);幼名宗太郎。 義昌出生時,木曾氏正與小笠原氏、村上氏聯手對抗武田信玄入侵信濃,後來木曾氏於弘治元年(1555年)因不敵武田氏而投降。由於木曾家是源義仲嫡流的貴族,且木曾家領地遠及美濃國、飛驒國國境,為避免他國入侵,武田信玄決定採取和親政策,讓義昌迎娶信玄三女(亦有四女或五女的說法)真理姬(真龍院),且須義康交出人質及受信玄親信在鄰近地區監視,令木曾家實際上成為武田氏的附庸。其後武田信玄入侵美濃及飛驒時,木曾谷更成為武田軍的前線基地。 武田信玄死後,武田氏開始轉弱,再加上繼承的武田勝賴徵收重稅及徵集大量工人以興建新府城,令木曾家非常不滿。期間父親義康於天正七年(1579年)病逝,義昌繼任為木曾氏第18任當家。 天正十年(1582年),義昌經遠山友忠與織田信長結盟,脫離武田氏的統治。義昌反叛令當時身在新府城的人質,包括70歲的母親、13歲的嫡子千太郎及17歲的長女岩姬,均被殺害,可算是悲慘的遭遇。在處決人質後,武田勝賴令堂弟信豐討伐義昌,但義昌因擁有地利及織田信忠的援軍支援下,成功擊退武田軍。此戰後織田軍得以長驅直進到新府城,大大加速武田家的滅亡。 武田氏滅亡後,義昌獲得安曇、築摩二郡,義昌派屬下進駐深志城(松本城),作為統治二郡的據點。但3個月後爆發本能寺之變,織田信長自殺身亡令信濃國的家臣開始相殘,並令信濃國處於混亂局面。此時原被驅逐離境的小笠原貞種在上杉景勝的軍力支援下趁亂自木曾家奪回據點深志城,敗退的木曾軍則退回木曾谷。 其後義昌與德川家康結盟,獲許諾協助重獲安曇、築摩二郡及維護木曾谷的安定。但至天正十二年(1584年),由於家康與豐臣秀吉對立。為避免遭豐臣軍入侵,義昌撕毀與家康的盟約,並以次子義春為人質,臣服豐臣家。對此家康感到非常不滿,亦曾為此討伐義昌,但該戰最終由木曾軍獲勝。 天正十八年(1590年),德川氏被轉封至關東。同時秀吉則命令木曾氏改受德川氏統治,並同時被轉封到下總國阿知戶(即現千葉縣旭市網戶)一萬石,令木曾氏一族被逼離開根據地木曾谷。 這次轉封令義昌受到極大的精神及經濟壓力,最終於文祿四年(1595年)於當地失意病逝,年55歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BE%E7%BE%A9%E6%98%8C
村井貞勝 Murai Sadakatsu(生年不詳-1582年) 『太閤記』に拠れば、出身は近江国。生まれた年は不詳だが、永正17年(1520年)頃かそれ以前だと考えられる。行政手腕に長けていたため、織田信長から厚い信任を受けて、早期より重用される。 弘治2年(1556年)に織田信勝が兄の信長に叛旗を翻した時にはすでに信長に仕えており、島田秀満(秀順)と共に土田御前の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和平交渉を行った。信長が足利義昭と共に上洛した際も同行し、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。 西美濃三人衆降誘の際の人質受け取りや足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営、その他社寺との折衝など、織田家の政務を担う。朝山日乗と共に京都御所の修築も担当している。 足利義昭を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後、天正元年(1573年)7月、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられる。松井友閑・武井夕庵・明智光秀・塙直政らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ信長支配体制下における、京都に関する行政の全てを任されている。 天正3年(1575年)4月、信長は困窮した公家を救うため、公家の旧領を返還させる徳政令を発する。貞勝は丹羽長秀とともに、土地や文書の調査や係争を担当した。7月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。7月23日、貞勝は朝廷との繋がりも考慮されて正六位下・長門守に叙任される。10月19日には伊達輝宗の使者を接待した。 天正4年(1576年)4月、信長は足利義昭が使っていたものとは別に新たな二条城を築くことを決め、貞勝に普請を命じた。 天正5年(1578年)3月上旬、御所の修理が終わったため、貞勝は京都の町人に御所の築地塀の修復に協力するよう命じ、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。あまりの賑わいに正親町天皇や貴族らも見物した。その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間に完成したという。 天正8年(1580年)2月26日、信長は京都での居住場所を本能寺に移すことに決め、貞勝に普請を命じた。 天正9年(1581年)、出家して村井春長軒と号し、家督を子の貞成に譲っている。 天正10年(1582年)5月、貞勝は朝廷から「信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝えられたが、これは貞勝の方から言い出したという説がある(三職推任問題を参照)。 6月2日、本能寺の変では本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。信忠に二条新御所への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条新御所に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠とともに討死した。また、子の貞成・清次も同所で討死している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E8%B2%9E%E5%8B%9D
松永久秀 Matsunaga Hisahide(1510年-1577年) 父母不詳、正室為三好長慶之女.松永女房、繼室為廣橋兼秀之女.廣橋保子、側室為小笠原成助之女;通稱松永彈正,別名霜台、號道意,戒名妙久寺殿祐雪大居士。 早年 久秀出身記載不明,一說出生於永正七年(1510年),出生地有阿波國、山城國西岡、攝津國五百住等多種說法,出仕前身份可能為商人、國人眾或三好長慶的寵童,甚至有觀點認為久秀與齋藤道三是舊相識。 三好家臣 天文九年(1540年),久秀成為細川晴元部下三好長慶的右筆,在天文十一年(1542年)有作為武將在山城國南部出陣的記錄。久秀作為三好長慶的親信,深得長慶的信任。天文十八年(1549年),三好長慶將細川晴元及足利義晴、義輝驅逐至近江國,成功控制京都後,久秀出任三好氏家宰。天文二十年(1551年),久秀與弟弟松永長賴在相國寺之戰中擊敗三好政勝、香西元成。三好長慶平定攝津國後,天文二十二年(1553年),久秀出任攝津國瀧山城城主。同年,與弟弟松永長賴進攻丹波國的波多野晴通,再次擊退三好政勝、香西元成的援軍。弘治二年(1556年),被任命為京都奉行,獲得彈正忠的官位,後又迎娶三好長慶的女兒作為正室。 永祿二年(1559年),三好長慶委任久秀攻取大和國。9月,久秀將居城移至大和國信貴山城。永祿三年(1560年)6月,三好長慶征討河內國,久秀率軍封鎖信貴山城與河內國之間的道路。11月,久秀平定大和國北部,在信貴山城營造四階櫓天守閣,同年又攻破興福寺,成功控制大和一國,三好家勢力達到全盛期。久秀因為攻取大和國的功績獲得極高的地位,他自稱為藤原氏、源氏的後代,被授予從四位下.彈正少弼的官位,與三好長慶的嫡子三好義興一起擔任將軍足利義輝的相伴眾,並獲得足利義輝的允許,可以使用帶有自己家紋的塗輿。 篡奪主家 永祿四年(1561年),久秀與三好義興在將軍地藏山之戰中敗於六角義賢軍。 畿內霸主三好家自永祿四年(1561年)開始接連遭受打擊,逐漸走向衰落。這一年,有「鬼十河」之稱的三好長慶的四弟十河一存與久秀在有馬溫泉療養時突然死亡。據說當時十河一存騎一匹葦毛馬,久秀探望十河一存時說此馬不祥,但十河一存沒有聽從久秀的勸告,在乘馬前往有馬溫泉的途中墜馬身亡。也有觀點認為十河一存與久秀長期不睦,他的死是久秀下的毒手,但這種觀點尚無確切證據。 永祿五年(1562年),三好長慶的二弟三好義賢在久米田之戰與畠山高政、根來眾交戰中戰死。畠山高政乘勝包圍三好長慶的居城飯盛山城,三好長慶在三好一門眾及久秀、筱原長房等重臣聯軍的幫助下,成功解圍,並在隨後的教興寺之戰中大敗畠山高政聯軍。10月,久秀奉命成功討伐背叛三好長慶的幕府政所執事伊勢貞孝、貞良父子。同年,久秀又在大和國營造多聞山城,大和國人十市遠勝降服。但教興寺之戰的勝利只是迴光返照,悲劇仍然不斷地降臨在三好家。 永祿六年(1563年)9月,三好長慶最為器重的嫡子三好義興在芥川山城突然死亡,有觀點認為久秀害怕三好家出現一位出色的接班人,因此毒殺三好義興,接連遭受喪親之痛的三好長慶隨後一病不起。12月,久秀將家督讓與嫡子松永久通後宣布隱居,但仍掌握實權。永祿七年(1564年),久秀向三好長慶進讒言,誣陷三好長慶的三弟安宅冬康謀反,三好長慶隨後將安宅冬康召至飯盛山城命其切腹。同年8月10日,三好長慶病逝,一說他被久秀或三好三人眾毒殺。三好長慶死後,他的養子三好義繼繼承家督,而家中實權則落入久秀及三好三人眾手中。 永祿之變 三好長慶死後,作為室町幕府征夷大將軍的足利義輝致力於恢復幕府的榮光,他一方面向劍術家塚原卜傳、上泉信綱學習劍術,成為劍豪將軍;另一方面積極調停大名之間的衝突,這引起久秀和三好三人眾的不安。永祿八年(1565年)6月17日,久秀和三好三人眾以參拜清水寺為名,向京都集結約1萬人的軍隊,隨後襲擊將軍官邸二條御所。足利義輝雖奮力迎敵,斬殺多人,但無奈叛軍人數眾多,自身受傷多處,最後被長槍刺死,足利義輝的三弟足利周暠也遭到殺害,母親慶壽院自殺身亡,這場震驚日本的謀殺行動史稱永祿之變或永祿大逆。久秀和三好三人眾隨後立足利義維之子足利義榮為傀儡將軍,而足利義輝的二弟、在興福寺出家的覺慶在細川藤孝、一色藤長等人的幫助下,投靠近江國的和田惟政,後輾轉前往越前國投奔朝倉義景,還俗後改名為足利義昭。 爭奪畿內 永祿之變過後半年,久秀與三好三人眾迅速反目。永祿八年(1565年)12月,三好三人眾率軍襲擊久秀控制下的飯盛山城,三好義繼被迫到高屋城避難。得到主公三好義繼、三好康長、安宅信康等三好一門眾支持的三好三人眾聯合大和國人筒井順慶,又向將軍足利義榮徵得討伐令。陷入孤立的久秀隨後與畠山高政、安見直政及根來眾結盟。永祿九年(1566年),雙方在堺近郊交戰,上芝之戰爆發,久秀不敵逃亡至堺,筒井順慶趁勢奪回筒井城。但久秀隨後邀請堺的豪商津田宗達作為調停人,雙方達成合議。 永祿十年(1567年),不滿作為傀儡的三好義繼投奔久秀,三好三人眾於是聯合筒井順慶等反松永勢力向大和國進兵,隨後在東大寺布陣。同年11月19日,久秀與三好義繼聯合軍夜襲三好、筒井聯軍,雙方交戰時東大寺被戰火燒毀,由於大火迫使三好、筒井聯軍撤兵,久秀取得勝利,但東大寺是否被久秀主動放火燒毀尚存爭議。 久秀雖然取得東大寺之戰的勝利,但與實力強大的三好三人眾交戰時仍處於劣勢。永祿十一年(1568年)7月,信貴山城被攻克,久秀被迫據守多聞山城。當久秀即將敗亡的時候,上洛的織田信長挽救他的命運。 背叛信長 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁立足利義昭上洛,三好三人眾不敵,敗逃至阿波國。久秀與嫡子久通和三好義繼在芥川山城迎接織田信長,久秀向織田信長獻上名茶器九十九發茄子和名刀天下一振之吉光,並允諾獻出人質,以此為條件,向織田信長降服。織田信長則許諾赦免久秀殺害將軍足利義輝的罪名,並答應幫助他奪回大和國的支配權。在得到細川藤孝、和田惟政和佐久間信盛2萬援軍的幫助下,久秀展開反攻。次年,大和國被平定,筒井順慶的勢力遭到驅逐。 永祿十三年(1570年),織田信長出兵討伐越前國的朝倉義景,卻在途中得知妹夫淺井長政背叛的消息。織田信長腹背受敵,被迫分散撤退。在撤退過程中,久秀成功說服近江國的朽木元綱,讓信長順利通過他的領地返回岐阜城。同年,久秀將自己的女兒過繼為織田信長的養女,隨後送往三好三人眾處作為人質,雙方達成和解。 元龜二年(1571年),不甘心成為傀儡將軍的足利義昭聯合武田信玄、淺井長政、朝倉義景、本願寺、三好氏、六角義賢及延曆寺組成信長包圍網。久秀起兵響應,聯合三好義繼發動叛亂,但在進攻筒井順慶的領地時反遭擊破(辰市城之戰),松永、三好聯軍大敗,筒井城、高田城等城池相繼被奪,最後在佐久間信盛、明智光秀的仲介下,雙方議和。隔年3月,久秀又連和三好義繼攻打町山昭高的交野城,織田信長派遣柴田勝家等人支援下,久秀跟三好義繼棄戰退兵(交野城之戰),元龜四年(1573年),武田信玄病死,信長包圍網破裂。在反織田勢力逐個被消滅的背景下,久秀親自前往岐阜城,向織田信長獻出多聞山城和不動國行之刀等寶物表示降服。 身亡 天正四年(1576年),久秀隨佐久間信盛參與石山合戰。但在次年,久秀的宿敵筒井順慶被織田信長授予大和守護的職位。9月,久秀撤回協助信長進攻石山本願寺的兵力,並呼應上杉謙信、毛利輝元、本願寺等反織田勢力,據守於信貴山城再次反叛。織田信長派松井友閒安撫,但久秀拒絕降服。 織田信長得知消息後,下令將久秀作為人質的兩個孫子在京都六條河原處死,隨後以織田信忠為總大將,筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝為副將,率軍4萬包圍信貴山城。一說織田信長多次派人勸說久秀獻出茶器古天明平蜘蛛投降,但遭到久秀的拒絕。久秀本想依靠信貴山城的堅固進行防戰,但前往本願寺求援的家臣森好久卻被筒井順慶用金子三十兩收買,作為奸細入城的200名織田軍鐵炮隊在三之丸叛變,織田軍迅速攻破城池。久秀隨後在信貴山城的天守閣放火,久秀、久通父子二人切腹或投火自盡。另一個流傳甚廣的說法是久秀將炸藥放入古天明平蜘蛛,點燃炸藥爆炸身亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
森長可 Mori Nagayoshi(1558年-1584年) 永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年(1573年)3月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された。 同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年(1577年)頃から内政にも参加するようになり、地元の兼山城(現・岐阜県可児市兼山)周辺の発展の為に間近を流れる木曾川を活かしての商業を重視し河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んで専売制を敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちが尾張藩の美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、明治時代に到るまでこの制度は存続した。 天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。団と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。 仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へと女子供の区別無く無差別に鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま団と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子供を海津城に住ませる事を義務付けし、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住ませた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた。 信濃国の仕置きを済ませた長可は上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けて同年の5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某らの守る田切城(妙高市大字田切字東裏にあった城)を落として上杉領深くまで侵攻し、6月までに春日山城からほど近い二本木(上越市)を守る上条景春を破り同地に陣を張った。当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていたが、手薄な春日山城に長可が肉薄すると上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城救援を諦めざるを得ず、5月27日には天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日に本能寺の変で信長が討たれると一転して敵地深く進攻していた長可は窮地に立たされ6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。長可の家臣大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという行動を取り、一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束し暗殺の企みを封じた。翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。東美濃入りした後も苗木遠山氏・遠山友忠などが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近い大井宿でようやく岩松丸を解放している。 同年6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日岐阜城に赴き信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたという。長可が各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した森家であったが、元与力の肥田玄蕃・久々利頼興らが離反してその勢力は衰退しており、更に小里光明・妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田玄蕃の米田城を攻めた。肥田玄蕃は病を患っていた為同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可はこれを聞いて「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。加治田は利のあるところである。加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て堂洞城跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した(加治田・兼山合戦)。しかし同年中に肥田玄蕃の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。長可は元家臣である大森城の奥村元広と上恵土城の長谷川五郎右衛門が信州からの帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田玄蕃に内通したとして大森城を重臣の林為忠に攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した。 長可は同月中に今城・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、根本城の若尾元昌、土岐高山城の平井光村、妻木城の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。また、東美濃一の堅城である岩村城も城主団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため戦を行わず接収した。更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠である苗木城へと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年(1583年)の正月には宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せて加木屋正則により仇討させ、同日夜間に久々利城を攻めたて落城させた。また賤ヶ岳の戦いに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の遠藤慶隆・遠藤胤基が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入ると佐藤秀方と連絡を取って遠藤領に侵攻。立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した(立花山の戦い)。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出して徳川家康を頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。更に、明知城の明知遠山氏(遠山利景、遠山一行等)と、信孝方の小里城主小里光明を美濃国から追放し、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したため加治田衆を含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を廃城処分としている。 また、この頃より書状の上で「森武蔵守長可」を自称するようになっている。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。3月16日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く。(羽黒の戦い) 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成軍の家臣水野太郎作清久の足軽杉山孫六鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。享年27。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E5%8F%AF
武田信廉 Takeda Nobukado(1532年-1582年) 武田信虎の子。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる。 天文10年(1541年)6月、兄・晴信(信玄)は父・信虎を駿河国の今川義元の元へ追放して家督を相続し当主となる。晴信は信濃侵攻を本格化させ、翌天文11年7月には諏訪氏を攻めこれを滅ぼす。 信廉の初見史料は晴信が諏訪統治を確立しつつあった天文17年(1548年)11月である。『高白斎記』に拠れば、信廉は諏訪衆千野氏に対し、武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束しており、諏訪衆に対する取次役であったと考えられる。また、同じく『高白斎記』に拠れば、天文20年(1551年)7月には晴信の命により、駿河・今川義元の娘を義信の正室に迎える旨を伝えている。 『甲陽軍鑑』によれば信廉は80騎を指揮したという。武田家臣団編成を記した『軍鑑』の「惣人数」によれば信廉は「武田」姓を免許された武田一族を記載した御一門衆のうち武田信豊(武田信繁の次男)の次に記載され、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて兄の信繁が戦死したため、親族衆筆頭となったという。戦時には、後方守備や本陣守護などを務めている。元亀元年(1570年)には信濃・高遠城主に任じられた。 元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせた。このときに「信虎像」を作成した。天正3年(1575年)、長篠の戦いに参戦したが、5月21日の設楽原合戦のときには、穴山信君らと共にいち早く戦線を離脱している。 天正10年(1582年)の織田・徳川勢による甲州征伐では、織田信忠を先鋒とする織田勢が南信濃から侵攻したが、信廉は大した抵抗もすることなく、大島城を放棄して甲斐へ退却する。戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正、豊前采女によって殺害された。享年51。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BB%89

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