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蠣崎光広、南部政康、大浦光信、大浦盛信、浪岡顕具、斯波詮高、稗貫稙重、葛西政信、葛西晴重、大崎義兼、大崎高兼、留守郡宗、亘理宗元、相馬盛胤、泉田胤直、岩城常隆、岩城由隆、田村義顕、白河政朝、白河顕頼、蘆名盛高、富田盛実、二階堂行詮、二階堂晴行、安東忠季、安東尋季、戸沢秀盛、小野寺晴道、大宝寺政氏、大宝寺澄氏、最上義淳、最上義定、伊達尚宗、佐竹義舜、佐竹義信、佐竹政義、江戸通雅、小田成治、足利成氏、足利政氏、足利高基、千葉勝胤、真里谷信勝、里見義通、里見実堯、正木通綱、宇都宮成綱、宇都宮忠綱、那須資親、那須資房、大関宗増、佐野秀綱、佐野泰綱、上杉顕定、上杉憲房、長尾景長、横瀬成繁、横瀬景繁、岩松尚純、岩松昌純、長尾景春、沼田泰輝、上杉朝良、曾我祐重、太田資家、太田資頼、成田親泰
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
松平清康 Matsudaira Kiyoyasu(1511年-1535年) 松平信忠的長子、母為水野氏、正室為松平昌安之女・於波留(春姬)、繼室為青木貞景之女・華陽院;幼名竹千代、通稱次郎三郎,初名清孝,受吉良持清偏諱「清」字,改名為清康。 松平領地在三河國,曾經統治三河的西條吉良氏和東條吉良氏這兩吉良,在相互的爭斗和廝殺中兩敗俱傷,國人眾林立,互不統屬。三河西邊尾張國守護斯波氏衰微,守護代織田氏的勢力漸強。織田氏又分裂為岩倉織田氏和清州織田氏兩系。而後原是清州織田氏的三奉行之一的織田信秀,驅逐主家清州織田氏當主織田大和守,雄霸尾張下四郡,成為半國的大名;東邊的今川氏乃是名門望族,守護大名轉化為戰國大名的代表,懷號令天下之志。雙方俱對亂作一團的三河國虎視眈眈。 在三河擴張勢力的松平一族到了清康父親信忠時已經四分五裂。松平親忠的兒子長親當初把家督傳給兒子信忠。可是一門和家臣不斷排擠信忠,就連清康的祖父長親也和次子松平信定聯手來壓迫信忠,逼信忠把家督的位置退還。信忠爲避免家族繼續分裂,于是把家督讓給清康。從此開始變成安祥城的清康和岡崎城的叔父信定互相抗衡對立的局面。 剛剛繼任家督的清康此時雖年僅十三歲,但已經煥發出起剛勇英毅之氣,籌謀進取西三河的中心岡崎城。清康采取重臣大久保忠茂的策略,先取岡崎方面的支城,位於岡崎東南方向的山中城。 大永四年(1524年)五月對山中發起進攻,趁大風雨之夜突襲,在家臣大久保忠茂夜襲下,僅用一天時間攻陷山中城城,使岡崎城主西郷信貞(松平昌安)讓出岡崎城投降。清康在攻佔山中城後將破敗的岡崎城拆除,在附近改建新的岡崎城。 此後,清康以岡崎為據點,大永五年(1525年),清康率三千騎攻打西三河的足助城,擊敗北三河的國人眾鈴木重政,奪得足助城。享祿二年(1529年)五月,清康陷鷹部屋一族據守的小島城,使東條吉良氏一門的荒川義廣投靠松平一方。清康又和東條吉良義廣聯姻,聯合東條吉良氏對付與松平敵對的西條吉良氏。 享祿三年(1530年),幕府將軍足利義晴和其兄弟義維的對立非常嚴重,尾張下四郡守護代清洲織田家當主織田大和守達勝為支持足利義維而起兵三千,織田信定於尾張東部構築岩崎城,家臣荒川賴宗出守。而清康的立場則站在足利義晴一方,於是清康率軍入侵東尾張,圍困岩崎城。守城兵三百拼力抵抗,全員戰死,岩崎城陷落。隨後攻落櫻木上野介等人據守的品野城。清康將品野分與叔父松平信定。並包圍阪井季忠據守的野呂城。 同年,清康在完成尾張的攻略以後,出兵平定東三河,進攻三河,遠江國境附近的宇利城。清康軍先經過吉田城,東進渡河,在一湫田布陣,野田城的菅沼一族也配合松平軍的行動。松平軍以松平信定,松平親盛主攻大手口,清康自率旗本馬回眾攻擊搦手口。清康當機立斷,乘熊谷主力一時在大手口無法回援,猛攻搦手口,使得城中的內應見機起事,裡應外合奪取宇利城。戰後,清康狠狠責罵作戰不力的叔父松平信定。 宇利城落以後,清康轉而開始平定吉田牧野氏,松平軍出陣於岡崎,先鋒經過御油、國府直上小阪井。城主牧野傳藏渡過豐川和松平軍作戰。結果牧野傳藏、牧野傳次、牧野新次、牧野新藏四兄弟全部戰死。並一舉逼迫渥美半島的主要國人勢力田原戶田一族,於是東三河悉平。 平定東三河後,清康開始對岡崎城的改修。改修完成以後,清康在天文元年(1532年)十一月開始邁出平定西三河北部的反松平勢力的腳步,松平軍先攻三宅清貞的居城加茂郡伊保城,三宅不能敵,逃向廣瀨。清康以松平家范守備伊保。在天文二年(1533年)三月攻擊廣瀨的三宅殘部和寺部的鈴木日向守。三宅和鈴木聯合起來進襲岩津城。被清康打敗。同年十二月,破信濃之兵於井田野。次年征加茂郡,火燒猿投神社,清康完全平定三河國。 乘著統一三河的餘勢,清康派遣1萬多大軍向尾張進攻。天文四年(1535年)12月,清康進攻織田信秀之弟信光所守的守山城。不過雙方的對峙不久就完結,在12月5日,清康在大手門附近突然被家臣阿部彌七郎正豐用刀殺死,年25歲。 此事被稱為森山崩,織田軍不戰而勝。由於彌七郎所使用的刀據聞是千子村正,自此以後村正被德川家視作不吉利的刀,因而稱作妖刀村正。清康死後,由松平廣忠繼承,不久今川義元乘廣忠年幼及松平氏內亂從而控制三河一帶。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B8%85%E5%BA%B7 出處#2 http://baike.baidu.com/view/896457.htm
織田信定 Oda Nobusada(生年不詳-1538年) 父:織田良信、又は織田敏定、正室:含笑院殿(いぬゐ)(織田良頼の娘)、側室:月静院殿;通称三郎、織田霜台、別名信貞,法名月巌。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の当主,尾張国勝幡城城主。 本姓は自称藤原氏(忌部氏とも)。家系は越前国織田庄・劔神社の祠官の系譜を引く、尾張守護・斯波氏の被官・織田氏。信定の家系は尾張下四郡守護代に補任された「織田大和守家」の分家で同家の重臣である清洲三奉行、勝幡城主の家柄。 清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行の地位にあり代々弾正忠と号した。また、弾正左衛門尉とも称する。永正13年(1516年)、妙興寺の寺領や末寺を安堵する連署状に「織田弾正忠信貞」と署名があるため、「清洲三奉行」の一人とされている。 中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。そして永正年間に勝幡城を築城し、大永年間に津島の館から拠点を移した。天文年間初めに嫡男・信秀に家督を譲って隠居した。この際、木ノ下城に移り勝幡城を信秀に与えたとされる。 天文7年(1538年)、死去。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AE%9A
織田信秀 Oda Nobuhide(1510年-1551年) 織田信定的長子、母為織田良賴之女.含笑院殿、正室為織田達勝之女、繼室為土田御前、側室為織田敏信之女、池田政秀之女.養德院殿;通稱三郎,人稱「尾張の虎」。 信秀出生的時代,尾張守護斯波氏已經喪失實力,由守護代織田氏掌握國政,但織田氏又分為兩大勢力,一個是以尾張上四郡為勢力範圍的岩倉織田氏,另一個則是以尾張下四郡為地盤的清須(清州)織田氏,而勝幡織田氏原本只不過是清須織田氏手下「清須三奉行」的其中一家而已。 天文年間,父親信定讓予家督於信秀後隱居,信秀繼位後,積極利用領地靠近伊勢灣之便,發展商業活動,並保護津島的商人集團,使得信秀的經濟實力雄厚,連京都的公卿對為之側目。信秀並與京都文化人士交往,甚至利用前往那古野城參加連歌活動時,裏應外合,享祿五年(1532年),侵奪今川義元之弟今川氏豐鎮守的那古野城,織田信長後來便誕生於此。 信秀先後將居城從勝幡城移到那古野城,再由那古野城依序移到古渡城、末森城,其目的在於掌握東海道前往京都之間的交通要衝,並窺伺著鄰國三河的動靜。當時,三河新興勢力松平清康(德川家康的祖父)花了十年歲月,成為三河最強大的勢力,並開始侵略尾張東部,正好清康在尾張守山城遭到近臣殺害,局面混亂,信秀趁亂進攻三河,並支持松平信定對抗清康之子松平廣忠(德川家康的父親),一時之間,西三河盡入信秀掌握中,同時又掌控伊勢灣另一個商業城鎮熱田,進一步壯大商業實力。 信秀由於戰功及經濟實力,逐漸從織田一族當中脫穎而出,凌駕主家,成為尾張第一強人。而北方的美濃,正發生齋藤道三與土岐賴純的爭亂,信秀與朝倉家聯手藉機介入美濃戰事,但遭到道三逆襲,在稻葉山城下戰敗,雙方從此成為宿敵,征戰不休。另一方面,因為信秀先前過度擴張的野心,入侵三河,當今川義元在東方與北條氏康、武田信玄完成結盟之後,矛頭轉向三河,信秀陷入在東方三河與義元作戰,在北方美濃與道三征戰的兩面作戰局面,情勢逐漸惡化。 天文十七年(1548年),義元的軍隊在三河「小豆阪之戰」佔上風,信秀雖然失利,但尚未全面戰敗,但道三知悉信秀與義元在三河對陣時,立刻發兵包圍信秀在美濃的據點大垣城,信秀只好急忙從戰場上撤離,但大垣城已落入道三之手,信秀在美濃的經營已經失敗,為避免兩面作戰,只好與道三議和。天文十八年(1549年),由嫡子織田信長迎娶道三之女為妻。但三河的據點安祥城也被義元的軍師太原雪齋奪下,守將織田信廣遭到俘虜,用以交換先前由信秀指使從三河綁架而來的松平廣忠之子竹千代(德川家康)。 信秀發現自己大半生的奮鬥都在幾年間陸續遭到失敗後,身心俱疲,健康狀況也變得不好,囑託平手政秀盡力輔佐織田信長,不久在四十二歲壯年就病逝,當時尾張東部國人眾已經逐漸倒向義元,信長在面臨強大的今川家壓迫的局面下繼承家督,迎接全新的時代。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401376
遠山景任 Tooyama Kageto(生年不詳-1572年) 父は遠山景前。妻は織田信長の叔母(おつやの方)。岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡岩村城主。 藤原利仁流の加藤景廉を祖とする美濃遠山氏は、景廉が遠山荘の地頭となり、その子景朝が在地に下りて岩村に居を構えたことに始まる。遠山氏は氏族繁衍して七流に分かれて恵那郡を領したが、これを遠山七頭(七遠山)と言う。また中でも三頭(三遠山)と言われた苗木・明知・岩村の3つが主要な分家で、景朝の子、景重が明知遠山氏の祖、景員が岩村遠山氏の祖にあたるが、苗木は何度か系譜が絶えている。 鎌倉時代初期においては、美濃源氏たる土岐氏と源頼朝の側近の子孫たる遠山氏は並び立っていたが、南北朝時代には土岐頼遠が活躍して美濃国の守護職を得たこともあって、土岐氏の方が優位となった。遠山氏も武家方の一勢力として各地を転戦したり、宮方であった隣国の飛騨国司姉小路家と争ったが、『太平記』『遠山家譜』によると岩村城主加藤光直の弟で苗木城主であった遠山五郎景直は土岐頼遠と領土争いの訴訟があって城を追われ、宮方の新田義貞軍に加わっていたという。足利尊氏に従って各地を転戦した明知遠山氏の(景重の玄孫)景房は武功多く、市島郷の地頭職を与えられたが、元中7年(1390年)その子である頼景は、宗家の持景の養子となって遠山氏の惣領として遠山荘の地頭職を安堵とされている。 頼景の子が景友(季友)、孫が景前かげまえである。景前の頃には土岐氏は凋落し、東美濃では遠山七頭の国衆が台頭して、諸城を築いて郡外勢力を拒むようになった。岩村遠山氏は惣領格ではあったが、統一されておらず、美濃の動乱の煽りで明確な支配者のいない半独立状態となっていた。 天文23年(1554年)、信濃国を領国化しようとしていた甲斐武田氏が南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧すると、川中島の戦いで長尾景虎(上杉謙信)と争うと同時に武田晴信は弘治元年(1555年)に東美濃にも侵攻して岩村城を包囲したため、景前は降参した。以後、遠山氏のいくらかは武田氏に主従することになったが、引き続き斎藤氏や尾張の織田氏と連携するものも見られる。 弘治2年(1557年)7月13日、その景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継いだが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こった。これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となった。 以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出したが、他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行が義龍に与して9月の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与した。また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近した。時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていった。特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在となった。永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟直廉の娘を養女として信玄の庶子諏訪勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田武田両家の連携の一環であった。 元亀3年(1572年)、信玄は西上作戦を開始する前に、木曽義昌と遠山直廉に命じて飛騨の三木自綱を攻めさせたが、この戦いで直廉が5月18日に戦傷死。直廉には他に子がいなかったことから、信長が飯羽間遠山氏の遠山友勝をして苗木遠山氏のあとを継がせた。友勝の嫡男友忠の妻は信長の姪である。さらに8月14日に景任も病死して岩村遠山氏の血統が断絶したので、信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の河尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった景任の養嗣子として継がせ、叔母のおつやの方を後見人とした。 東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じた。包囲された岩村城には以後も武田氏に仕えた者が多く、降伏して御坊丸を甲斐に人質として差し、信玄の許しを得て秋山が岩村城に入っておつやの方を妻とすることで(遠山氏と武田氏の)和議を成立させた。しかし以後は秋山が城主となるので、岩村での遠山氏の支配は終わりを告げた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%99%AF%E4%BB%BB

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