首頁 Tags 細川藤孝

Tag: 細川藤孝

明智光秀 Akechi Mitsuhide(1528年?-1582年) 明智光綱的長子、母為お牧の方、養父明智光安、正室為妻木範熙之女.熙子;幼名彥太郎,通稱十兵衛、惟任日向守,號笑庵,戒名秀岳院宗光禪定門。 光秀早年的事蹟記載甚少。根據明智軍記記載,光秀最初侍奉美濃明智城主齋藤道三,後來道三成為大名,光秀亦成為齋藤氏家臣,後來因為齋藤義龍和道三的內亂,光秀支持道三,道三在長良川交戰戰死,光秀及家人來到若狹武田氏後前往越前朝倉氏,其後隨足利義昭一同投靠織田信長。 與織田信長結盟後,在京都執行政務工作。在加入信長家臣團後因功勳卓著而受到重用,永祿十一年(1568年)協助攻打觀音寺城,並在隔年的本國寺之變中抵禦三好三人眾的反撲建立功勞,但是足利義昭突然謀反,試圖與織田氏鄰接大名成立信長包圍網,光秀決定叛離義昭,成為信長的直臣,其後為信長在攻打淺井及朝倉立下功績,在元龜二年(1571年)被分封到近江國滋賀郡,並築起阪本城,賜姓惟任,官至日向守。 光秀為織田信長參與一向宗以及應付荒木村重的內亂,肅清內亂後再被信長任命攻打丹波國的波多野氏,在天正五年(1577年)成功擊敗波多野秀治,成為一國之主,接著光秀在該地築起新的龜山城及福智山城,擁有指揮織田家附近城主的重要武將。由於光秀的領地在近畿地方亦被稱為「近畿管領」(與關東管領不同,純粹是一個稱呼,並非實在的官位) 『明史』外國列傳二百一十外國三也曾記載日本部份的該段史蹟,不過可能源自於聽說,所以文中出現阿奇支為織田信長部下,但織田最後死於明智之手的記載,阿奇支(Akechi,日文明智的唸法)。 「日本故有王,其下稱關白者最尊,時以山城州渠信長為之。偶出獵,遇一人臥樹下,驚起衝突,執而詰之。自言為平秀吉,薩摩州人之奴,雄健蹺捷,有口辯。信長悅之,令牧馬,名曰木下人。後漸用事,為信長畫策,奪並二十餘州,遂為攝津鎮守大將。有參謀阿奇支者,得罪信長,命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺,秀吉方攻滅阿奇支,聞變,與部將行長等乘勝還兵誅之,威名益振。」 光秀為何突然叛變織田信長,到今天仍然是未解之謎,路易斯.弗洛伊斯於『耶穌會日本年報』上記載當時光秀率軍衝入本能寺並向信長射箭;當時的權中納言山科言經的『言經卿記』亦明記發生時間與光秀衝入本能寺。 天正十年(1582年)6月3日、4日期間,光秀費力勸降諸方勢力,尤其希冀細川藤孝跟筒井順慶加入己方,但多數家臣對光秀弒主行為感到不齒皆選擇回絕,少數支持者都是實力不成氣候的小勢力。5日,光秀進入安土城。7日,朝廷派敕使拜訪光秀,任命其為京都守護。9日,正準備前往京都時接到羽柴秀吉回師的消息後出兵山崎。 於6月13日,光秀回軍與羽柴秀吉、丹羽長秀、織田信孝等戰於天王山(山崎之戰),由於兵少勢微,加上多數部將選擇支持打出討逆叛徒口號的秀吉軍,明智軍潰敗;光秀循小路欲逃回阪本,卻於當日深夜在小栗栖被刺殺。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
木下延俊 Kinoshita Nobutoshi(1577年-1642年) 父:木下家定、母:雲照院(杉原家次の娘)、正室:加賀(細川藤孝の娘)、側室:雲奥院(福富内記の娘)、側室:恵昌院;幼名長助,初名勝忠,改名延俊,通称右衛門大夫,戒名瑞岩院殿心甫宗得大居士。 父家定は豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の兄で、杉原定利の子。秀吉に召し抱えられて若狭国小浜領主となり、後には備中足守藩主になった。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはない。母は杉原家次の娘、雲照院(おあこ)で、同母兄弟に木下利房、小早川秀秋がいる。歌人木下長嘯子として知られる勝俊ほかの兄弟は、異母兄弟。正室は細川藤孝(幽斎)の娘・加賀。延俊は高台院が最も寵愛した甥であった。 父や兄弟らと同じく秀吉に仕え、天正16年(1588年)11月、12歳の時に摂津国駒林(駒ヶ林)で500石の知行を与えられた。長兄二人は若狭国の領主であったため、父が大坂城の留守居に入る場合には、家定が城主を務める姫路城の城代を任されていた。 文禄元年(1592年)、従五位下右衛門大夫に叙任された。文禄3年(1594年)、伏見城の築城普請を分担し、播磨三木郡で2万石を与えられた。 慶長5年(1600年)、石田三成が挙兵した時、延俊は姫路城にあったが、義兄細川忠興の助言で直ちに駿府に家臣を派遣して二心無き旨を徳川家康に誓い、交通の要である姫路城を献じて、当初より東軍に属した。叔父の播磨三木城主杉原長房が田辺城の戦いに参加したことや、兄弟等との混同によって、しばしば西軍であったと誤解した資料があるが、これは間違いである。 また弟秀秋は家臣稲葉正成を介して家康に姫路城に下がって情勢を見極めたい旨を申し出て許されていたので、心ならず伏見城の戦いに参加した後も依然として去就を定めきれずにいた秀秋は姫路城に入ろうと思ったが、延俊はこれを嫌い、一旦西軍に加わった弟との関係を断つとして、小早川勢の受け入れを拒否したという逸話もある。 関ヶ原の戦いの後の10月18日、忠興に従って、幽斎の籠もる田辺城を攻めた報復として、小野木重勝の福知山城を攻め落とした。これらの功により、慶長6年(1601年)、加増されて豊後速見郡3万石に移封され、翌年、ここに日出城を築いて、日出藩初代藩主となった。領国では、慶長12年(1607年)に命名が祖母朝日殿と妻の法名に関連する松屋寺を建造。戦渦で失われた井手八幡宮の再建などを行った。 慶長11年(1606年)、江戸城普請に参加して虎ノ門の石垣工事を指揮。同19年(1614年)の工事にも加わり、合計三度の江戸城普請に自ら参加した。また、この年の冬の大坂の陣にも徳川方として出陣し、同20年(1615年)の夏の陣にも参陣した。 延俊は忠興の三男忠利と親しく、忠利の舅・将軍徳川秀忠の覚えも良くて、元和5年(1619年)の将軍上洛に供奉し、同6年(1620年)の大坂城普請で助役に登用され、寛永3年(1626年)の後水尾天皇の京都二条行幸にも参列した。同9年(1632年)、肥後熊本藩主加藤忠広の改易では、隣藩稲葉一通と共に八代城に在番し、同14年(1637年)には島原の乱にも出兵した。 寛永19年(1642年)正月、江戸にて死去。享年66。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BB%B6%E4%BF%8A
松井康之 Matsui Yasuyuki(1550年-1612年) 天文19年(1550年)、室町幕府幕臣・松井正之の次男として京都郊外の松井城に生まれた。 はじめ、第13代将軍・足利義輝に仕えたが、永禄の変において主君・義輝と兄・勝之が松永久秀らによって暗殺されると、幕臣の細川藤孝(後の幽斎)と行動を共にし、後に織田信長の家臣となった。特に天正9年(1581年)に織田氏の家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が鳥取城攻めを行なった時には水軍衆を率いて参戦。秀吉方の付城に兵糧を入れる一方、鳥取城に兵糧を運ぼうとしていた毛利水軍を撃退し、毛利氏家臣・鹿足元忠を討ち、その勢いで伯耆・泊城を攻めるなど活躍。この功績を信長から賞賛されたという(『細川家記』『松井家譜』)。その後、藤孝は丹後国の領主となり、康之は丹後松倉城(久美浜城)を任せられた。また。この頃に康之は細川氏の家臣になったといわれているが、はじめから藤孝の家臣であったともいわれている。 天正10年(1582年)の本能寺の変後、藤孝が出家すると子の忠興に仕えた。主君・忠興が秀吉に従うと、豊臣氏による富山の役・小田原征伐・文禄・慶長の役に参戦している。特に富山の役では水軍衆を率いて活躍したという。これらの働きぶりをみた秀吉は、康之を石見半国18万石の大名にとりたてると申し出たが、康之はこれを辞退したといわれている(『寛政重修諸家譜』)。 また、主君・忠興が秀吉から関白・豊臣秀次の謀反連座の疑いを受けると、康之は秀次からの借銀の返済や秀次縁者に嫁していた忠興の娘・御長(おちょう)差出要求に対して奔走し、事なきを得た。これに感謝して忠興は、娘・こほ(11歳)を康之の次男・新太郎(後の興長)の妻とした。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠興と共に徳川方に与した。康之は忠興の飛び領であった豊後杵築城に城代・有吉立行と共におり、丹後へ戻るよう忠興より命を受けるも既に戻れる状況下になかったため、杵築に留まった。そして攻めてきた大友吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利した。この功績により戦後、忠興より2万6000石の知行と、速見郡の御領所1万7000石を預けられた。 慶長17年(1612年)に死去。享年63。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%BA%B7%E4%B9%8B
松永久秀 Matsunaga Hisahide(1510年-1577年) 父母不詳、正室為三好長慶之女.松永女房、繼室為廣橋兼秀之女.廣橋保子、側室為小笠原成助之女;通稱松永彈正,別名霜台、號道意,戒名妙久寺殿祐雪大居士。 早年 久秀出身記載不明,一說出生於永正七年(1510年),出生地有阿波國、山城國西岡、攝津國五百住等多種說法,出仕前身份可能為商人、國人眾或三好長慶的寵童,甚至有觀點認為久秀與齋藤道三是舊相識。 三好家臣 天文九年(1540年),久秀成為細川晴元部下三好長慶的右筆,在天文十一年(1542年)有作為武將在山城國南部出陣的記錄。久秀作為三好長慶的親信,深得長慶的信任。天文十八年(1549年),三好長慶將細川晴元及足利義晴、義輝驅逐至近江國,成功控制京都後,久秀出任三好氏家宰。天文二十年(1551年),久秀與弟弟松永長賴在相國寺之戰中擊敗三好政勝、香西元成。三好長慶平定攝津國後,天文二十二年(1553年),久秀出任攝津國瀧山城城主。同年,與弟弟松永長賴進攻丹波國的波多野晴通,再次擊退三好政勝、香西元成的援軍。弘治二年(1556年),被任命為京都奉行,獲得彈正忠的官位,後又迎娶三好長慶的女兒作為正室。 永祿二年(1559年),三好長慶委任久秀攻取大和國。9月,久秀將居城移至大和國信貴山城。永祿三年(1560年)6月,三好長慶征討河內國,久秀率軍封鎖信貴山城與河內國之間的道路。11月,久秀平定大和國北部,在信貴山城營造四階櫓天守閣,同年又攻破興福寺,成功控制大和一國,三好家勢力達到全盛期。久秀因為攻取大和國的功績獲得極高的地位,他自稱為藤原氏、源氏的後代,被授予從四位下.彈正少弼的官位,與三好長慶的嫡子三好義興一起擔任將軍足利義輝的相伴眾,並獲得足利義輝的允許,可以使用帶有自己家紋的塗輿。 篡奪主家 永祿四年(1561年),久秀與三好義興在將軍地藏山之戰中敗於六角義賢軍。 畿內霸主三好家自永祿四年(1561年)開始接連遭受打擊,逐漸走向衰落。這一年,有「鬼十河」之稱的三好長慶的四弟十河一存與久秀在有馬溫泉療養時突然死亡。據說當時十河一存騎一匹葦毛馬,久秀探望十河一存時說此馬不祥,但十河一存沒有聽從久秀的勸告,在乘馬前往有馬溫泉的途中墜馬身亡。也有觀點認為十河一存與久秀長期不睦,他的死是久秀下的毒手,但這種觀點尚無確切證據。 永祿五年(1562年),三好長慶的二弟三好義賢在久米田之戰與畠山高政、根來眾交戰中戰死。畠山高政乘勝包圍三好長慶的居城飯盛山城,三好長慶在三好一門眾及久秀、筱原長房等重臣聯軍的幫助下,成功解圍,並在隨後的教興寺之戰中大敗畠山高政聯軍。10月,久秀奉命成功討伐背叛三好長慶的幕府政所執事伊勢貞孝、貞良父子。同年,久秀又在大和國營造多聞山城,大和國人十市遠勝降服。但教興寺之戰的勝利只是迴光返照,悲劇仍然不斷地降臨在三好家。 永祿六年(1563年)9月,三好長慶最為器重的嫡子三好義興在芥川山城突然死亡,有觀點認為久秀害怕三好家出現一位出色的接班人,因此毒殺三好義興,接連遭受喪親之痛的三好長慶隨後一病不起。12月,久秀將家督讓與嫡子松永久通後宣布隱居,但仍掌握實權。永祿七年(1564年),久秀向三好長慶進讒言,誣陷三好長慶的三弟安宅冬康謀反,三好長慶隨後將安宅冬康召至飯盛山城命其切腹。同年8月10日,三好長慶病逝,一說他被久秀或三好三人眾毒殺。三好長慶死後,他的養子三好義繼繼承家督,而家中實權則落入久秀及三好三人眾手中。 永祿之變 三好長慶死後,作為室町幕府征夷大將軍的足利義輝致力於恢復幕府的榮光,他一方面向劍術家塚原卜傳、上泉信綱學習劍術,成為劍豪將軍;另一方面積極調停大名之間的衝突,這引起久秀和三好三人眾的不安。永祿八年(1565年)6月17日,久秀和三好三人眾以參拜清水寺為名,向京都集結約1萬人的軍隊,隨後襲擊將軍官邸二條御所。足利義輝雖奮力迎敵,斬殺多人,但無奈叛軍人數眾多,自身受傷多處,最後被長槍刺死,足利義輝的三弟足利周暠也遭到殺害,母親慶壽院自殺身亡,這場震驚日本的謀殺行動史稱永祿之變或永祿大逆。久秀和三好三人眾隨後立足利義維之子足利義榮為傀儡將軍,而足利義輝的二弟、在興福寺出家的覺慶在細川藤孝、一色藤長等人的幫助下,投靠近江國的和田惟政,後輾轉前往越前國投奔朝倉義景,還俗後改名為足利義昭。 爭奪畿內 永祿之變過後半年,久秀與三好三人眾迅速反目。永祿八年(1565年)12月,三好三人眾率軍襲擊久秀控制下的飯盛山城,三好義繼被迫到高屋城避難。得到主公三好義繼、三好康長、安宅信康等三好一門眾支持的三好三人眾聯合大和國人筒井順慶,又向將軍足利義榮徵得討伐令。陷入孤立的久秀隨後與畠山高政、安見直政及根來眾結盟。永祿九年(1566年),雙方在堺近郊交戰,上芝之戰爆發,久秀不敵逃亡至堺,筒井順慶趁勢奪回筒井城。但久秀隨後邀請堺的豪商津田宗達作為調停人,雙方達成合議。 永祿十年(1567年),不滿作為傀儡的三好義繼投奔久秀,三好三人眾於是聯合筒井順慶等反松永勢力向大和國進兵,隨後在東大寺布陣。同年11月19日,久秀與三好義繼聯合軍夜襲三好、筒井聯軍,雙方交戰時東大寺被戰火燒毀,由於大火迫使三好、筒井聯軍撤兵,久秀取得勝利,但東大寺是否被久秀主動放火燒毀尚存爭議。 久秀雖然取得東大寺之戰的勝利,但與實力強大的三好三人眾交戰時仍處於劣勢。永祿十一年(1568年)7月,信貴山城被攻克,久秀被迫據守多聞山城。當久秀即將敗亡的時候,上洛的織田信長挽救他的命運。 背叛信長 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁立足利義昭上洛,三好三人眾不敵,敗逃至阿波國。久秀與嫡子久通和三好義繼在芥川山城迎接織田信長,久秀向織田信長獻上名茶器九十九發茄子和名刀天下一振之吉光,並允諾獻出人質,以此為條件,向織田信長降服。織田信長則許諾赦免久秀殺害將軍足利義輝的罪名,並答應幫助他奪回大和國的支配權。在得到細川藤孝、和田惟政和佐久間信盛2萬援軍的幫助下,久秀展開反攻。次年,大和國被平定,筒井順慶的勢力遭到驅逐。 永祿十三年(1570年),織田信長出兵討伐越前國的朝倉義景,卻在途中得知妹夫淺井長政背叛的消息。織田信長腹背受敵,被迫分散撤退。在撤退過程中,久秀成功說服近江國的朽木元綱,讓信長順利通過他的領地返回岐阜城。同年,久秀將自己的女兒過繼為織田信長的養女,隨後送往三好三人眾處作為人質,雙方達成和解。 元龜二年(1571年),不甘心成為傀儡將軍的足利義昭聯合武田信玄、淺井長政、朝倉義景、本願寺、三好氏、六角義賢及延曆寺組成信長包圍網。久秀起兵響應,聯合三好義繼發動叛亂,但在進攻筒井順慶的領地時反遭擊破(辰市城之戰),松永、三好聯軍大敗,筒井城、高田城等城池相繼被奪,最後在佐久間信盛、明智光秀的仲介下,雙方議和。隔年3月,久秀又連和三好義繼攻打町山昭高的交野城,織田信長派遣柴田勝家等人支援下,久秀跟三好義繼棄戰退兵(交野城之戰),元龜四年(1573年),武田信玄病死,信長包圍網破裂。在反織田勢力逐個被消滅的背景下,久秀親自前往岐阜城,向織田信長獻出多聞山城和不動國行之刀等寶物表示降服。 身亡 天正四年(1576年),久秀隨佐久間信盛參與石山合戰。但在次年,久秀的宿敵筒井順慶被織田信長授予大和守護的職位。9月,久秀撤回協助信長進攻石山本願寺的兵力,並呼應上杉謙信、毛利輝元、本願寺等反織田勢力,據守於信貴山城再次反叛。織田信長派松井友閒安撫,但久秀拒絕降服。 織田信長得知消息後,下令將久秀作為人質的兩個孫子在京都六條河原處死,隨後以織田信忠為總大將,筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝為副將,率軍4萬包圍信貴山城。一說織田信長多次派人勸說久秀獻出茶器古天明平蜘蛛投降,但遭到久秀的拒絕。久秀本想依靠信貴山城的堅固進行防戰,但前往本願寺求援的家臣森好久卻被筒井順慶用金子三十兩收買,作為奸細入城的200名織田軍鐵炮隊在三之丸叛變,織田軍迅速攻破城池。久秀隨後在信貴山城的天守閣放火,久秀、久通父子二人切腹或投火自盡。另一個流傳甚廣的說法是久秀將炸藥放入古天明平蜘蛛,點燃炸藥爆炸身亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
森可成 Mori Yoshinari(1523年-1570年) 森可行的長子,母親為青木秀三之女,正室為林通利之女-妙向尼,又名與三、三左衛門。可隆、長可、成利(蘭丸)、坊丸、力丸、忠政等人的父親。 起初為土岐氏的家臣,土岐氏被齋藤道三滅亡後,於弘治元年(1555年)時改仕織田信長,是信長初期所倚重的重要戰力之一,屢屢參與前線作戰。 弘治元年(1555年)四月,才加入織田家的森可成隨信長出兵攻打尾張清州城的織田氏本家,討取了敵方主將織田彥五郎的首級,立下大功。從此織田氏本家被消滅完全由旁支出身的信長取代。 弘治二年(1556年)八月,信長之弟信行協同家老柴田勝家、林秀貞叛變,信長在稻生原以七百餘人擊破信行軍一千八百餘人,森可成及佐久間大學助、小山田治部左衛門同列此戰的功勳顯著者。後來永祿元年(1558年)時,與織田信長同為尾張守護代織田氏分家的巖倉城織田信清、信賢父子內鬥,在信長的刻意介入下,森可成以信長援軍的身份加入信清方,於浮野之戰中擊敗織田信賢,翌年信長正式巖倉織田氏的信賢消滅兼併。 永祿三年(1560年)五月,森可成參加桶狹間之戰,信長以兩千奇兵一舉突破了今川上洛軍本陣,家督今川義元當場戰死,家中重臣超過九成以上陣亡,從此東海道勢力結構產生巨大的變化。在德川家康宣告自今川家獨立並與織田家結盟後,再無後顧之憂的信長開始對他素來垂涎三尺的美濃進行激烈的攻擊,永祿八年(1565年)時信長將自美濃攻得的金山城交付予可成,森可成成為美濃金山城主負責封鎖稻葉山城東線的任務。 永祿十一年(1568年),信長在已故將軍足利義輝之弟義昭的請求下擁立他上洛即將軍位,同年九月在信長的南近江攻略中,森可成與柴田勝家、阪井政尚、蜂賴隆等織田家宿將聯手攻下近江六角氏數代苦心經營的堡壘觀音寺城,同月轉戰山城勝龍寺城降伏城主巖成友通。 戰後森可成與村井貞勝、丹羽長秀、細川藤孝共同擔任京都所司代次官的職務,永祿十二年(1569年)八月在信長命令下森可成再度帶兵隨軍出征平定北伊勢。元龜元年(1570年)四月信長統軍一鼓作氣攻入越前欲滅亡越前朝倉家時,不料盟國北近江淺井家竟突然發難於織田軍背後與朝倉家遙相呼應,在越前的袋形平原裡前後夾擊織田軍,這對織田軍的任何一員來說都無疑是晴天霹靂 ,在信長的果敢決斷及羽柴秀吉近乎犧牲的自願擔任殿軍,織田軍總算將傷亡縮到最小由越前撤退。 對朝倉、淺井燃起復仇之火的信長迅速再度集結兵力在同年六月出戰,織田德川聯軍與朝倉淺井聯軍在姊川附近發生遭遇戰,最後在德川軍擊退朝倉軍和稻葉良通(稻葉一鐵)奇襲淺井軍的情況下織德聯軍獲勝,但由於敵方大將淺井長政的英勇善戰和磯野原昌反其道進入佐和山城,所以其實朝倉淺井聯軍的損失並不算嚴重,也因此註寫森可成最後悲哀的結局。 姊川之戰後信長發布近江諸將的守備任務,其中柴田勝家駐長光寺城、佐久間信盛駐永原城、中川重政駐目加田城、丹羽長秀駐佐和山城、羽柴秀吉駐橫山城,而森可成則是負責志賀城及宇佐山城,其中宇佐山城就坐落在琵琶湖西畔為京都的主要守備點之一,能扛起這防衛京都第一線關卡重要任務的森可成,足可見他的優秀能力已獲得織田信長的充份信任。 元龜元年(1570年)九月,信長上洛時所擊退的阿波三好家整軍捲土重來由攝津上岸與本願寺的一向宗徒聯合向織田軍宣戰,前往的織田軍和本願寺、三好聯軍苦戰再加上伊勢長島的一向宗徒呼應總寺的命令也前僕後繼地對當地織田軍進行攻擊,使織田軍的主力全被釘死在攝津和伊勢。 這時淺井朝倉的三萬聯合軍也伺機南下進入比叡山,故森可成在同月十八日出陣征討,但因為大部份兵力都已往援攝津戰場,在寡不敵眾下森可成遭到擊退,最後在隔日的混戰中被討死,享年四十八歲,葬在近江阪本采迎寺,法號淨翁。由於長男森可隆已在越前敦賀時陣亡,所以家督一職由次男長可繼承,之後森長可在父親的第一塊封地美濃金山城興建一座寺廟並以父為名,取名可成寺以做供養。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316188
植木秀長 Ueki Hidenaga(1494年?-卒年不詳) 備中植木氏は武蔵七党児玉党から派生して室町時代には備中守護代なども務めた庄氏の支族である。従来、植木秀長は庄氏関連系図では庄為資の弟で植木一族の祖である植木藤資の息子とされていたが、為資の実働期間よりも秀長の活動期間のほうが早い点などから為資の甥と位置づける系図との矛盾が指摘され始め、 近年の研究では庄氏北家の庄資信(庄藤右衛門尉)が呰部庄植木を領して「植木殿」と呼ばれ、その子・秀長の代から植木姓を称したという説が有力視されている。 細川京兆家に仕え、備中守護代も務めた庄資信の息子として生まれる。長じて前述のように秀長の代より領した地名からとって「植木」の姓を名乗るようになった。 永正8年(1511年)8月、淀堤の戦いに父の代官として出陣し三好之長に味方して大内義興の軍勢と争い一番槍の功を挙げたのが初陣であり、この時18歳であったという。資信は在京賄領として和泉国にも拠点を持っており、ここを拠点にしてこの淀堤の戦いに参じたものと見られる。 天文2年(1533年)に尼子晴久が備中に侵攻してきた時は尼子に対抗し、庄為資と共に尼子に付いた上野頼氏の拠る備中松山城を攻め立て頼氏を討ち、秀長の弟・若林資行は大松山を攻略し上野右衛門を討った。これ以後、備中松山城は為資が、猿掛城は穂井田実近が領する事となった。 その後の為資は備中で尼子と戦っており、一時松山城を追われ備後国まで退避した後に奪い返したりと目まぐるしい攻防があったが、この間の秀長の動向は不明である。その後、抵抗しきれずに尼子へと味方したようで、天文16年(1547年)に尼子軍と三浦貞久が戦った際、備中呰部の植木氏の所領が戦場になっており、この時三浦軍は敗退したが、秀長はこの後も失領していないため既に尼子に臣従していた可能性が高い。 毛利元就の支援を受けて備中で日の出の勢いの三村家親と尼子方の為資との対立が表面化すると、天文21年(1552年)に矢掛合戦が勃発し、三村・毛利連合軍とこれに対抗する為資ら反毛利勢力が衝突し、緒戦は為資が勝ったがやがて追い詰められ和睦。和睦の条件として猿掛城の穂井田実近の養子に荘元祐(三村家親長男)が入って猿掛城主となり、松山城は名目上は庄為資の持城であったが三村家親が入城して、今後の尼子の戦いを見越して庄一族の動きを監視しながら滞在する事になった。これにより、草壁庄やその周辺の庄一族は三村一族である元祐の指揮下に入れられ、庄一族の勢力は大幅に衰退した。 ただ、秀長は臣従していなかったようで、天文21年(1551年)10月5日に室町幕府13代将軍足利義輝の側近・細川藤孝より天文20年(1550年)に戦によって得た700貫文の所領の安堵を受けており、この頃には備中を含めた8ヶ国守護となった尼子晴久の家臣であると中央にも認識されていたようである。天文23年(1554年)8月の時点でも植木氏と縁の深い大森神社が尼子誠久の寄進を受けている。たが、尼子の衰退が著しくなると植木氏も三村の傘下に入ることになった。 この後、秀長は新たに佐井田城を築いて以後の植木一族の本拠としたようだが時期は不明である。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では三村元親が備前国の宇喜多直家と戦ったが秀長も『備前軍記』には三村方に交名が有り、これに敗れた後に佐井田城に籠城したものの宇喜多忠家率いる9,000の兵に囲まれた為、降伏して宇喜多氏へと鞍替えしたという。 永禄12年(1569年)11月、三村元親は毛利へと援軍を要請し毛利元清・熊谷信直らを加えた軍団で佐井田城攻略を狙った。三村・毛利軍の包囲を受けた佐井田城では徐々に兵糧が欠乏し、窮地に立たされた秀長は夜陰に紛れて脱出させた嶺本与一兵衛を使者として宇喜多直家に援軍を要請した。これを受けて直家は戸川秀安を派遣し、12月に城を囲む三村・毛利軍と交戦し、穂井田実近を討ち取り三村元親を負傷撤退させるなど快勝し、首級を多数挙げた。 しかしながら、この後より各書物で秀長の名は出なくなり、嫡子・秀資が佐井田城主に切り替わっており、秀長は佐井田城の戦いの後ほどなくして死去したと推測される。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E7%A7%80%E9%95%B7
池田勝正 Ikeda Katsumasa(1530年/1539年-1578年) 永禄6年(1563年)、前当主の池田長正の死去によって摂津池田家惣領として家督を継ぐ(長正の子ではなかったが、文武に秀でていたため池田家当主となる。また一説には長正の嫡男ともいわれ、知正らは脇腹の弟であるとも言われる)。この頃の池田氏は三好氏の盟友であったが、翌年の三好長慶の死去によって三好氏が弱体化すると、勝正は三好三人衆と組み松永久秀と戦った(東大寺大仏殿の戦い)。 永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を擁して上洛してくると、三人衆が逃亡し久秀や摂津の他の豪族が降伏していく中で抵抗したが、信長の圧倒的な軍事力の前に降服せざるを得なかった。しかし信長は能力を認め、抵抗に対するお咎めをしないどころか加増の上で領地安堵(「織田武鑑」によると6万石)となった。信長はこの時、摂津の有力豪族である池田氏などを臣下に置いて摂津支配の安定を図ろうと考え、勝正・伊丹親興・和田惟政の3名に摂津支配を任せたため、勝正らは「摂津三守護」と称された。なお、勝正は室町幕府(信長の働きかけがあったとも言われている)から摂津守護に任じられ、伊丹親興・和田惟政を配下とし摂津を治めた。 永禄12年(1569年)、三人衆による本圀寺の変では手勢を率い救援に駆けつけ、桂川にて細川藤孝や三好義継と共に三人衆と戦い、敵陣に一騎駆けにて切り込み勝利に貢献する功を挙げる。その後、信長の但馬・播磨の平定と浦上宗景征討に協力し、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでは明智光秀や木下秀吉らを率いて殿軍をつとめ、信長を無事に逃がす功を挙げた。 しかし、同年6月に家臣の荒木村重(池田長正の娘を娶っていたため一族衆)と一族の池田知正(長正の嫡男)が三人衆の調略を受け三好家に寝返り、勝正は池田城から追放された。『言継卿記』『細川両家記』によれば、勝正は同族と不和になり、同年6月19日、池田豊後守・池田周防守を殺した上で自ら大坂に出奔し、残された家中の者たちが三人衆に通じた。直後の26日に、勝正は三好義継に伴われて上洛し、足利義昭に拝謁したという。 その後、三人衆についた村重らの押さえとして信長より原田城主に任じられ細川藤孝らと共に各地を転戦したが、村重が信長家臣になると池田に戻り隠居した(諸国を旅し、九州へ渡ったとも言われている)。『永禄以来年代記』には、天正2年(1574年)4月2日に、「池田カツマサ」が本願寺に加担した旨の記述がある。『池田氏家譜集成』所収の系図によれば没年は天正6年(1578年)であるという。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%8B%9D%E6%AD%A3
池田知正 Ikeda Tomomasa(1555年-1604年) 父・長正の死後、家督は池田勝正が継いだが、元亀元年(1570年)、知正は三好三人衆と通じて織田信長を裏切り、池田家家臣の荒木村重と共に内紛を起こし当主であった勝正を追放し、家督を相続し摂津池田城主となり、元亀2年(1571年)には和田惟政を敗死させた(白井河原の戦い)。 以後、摂津国の領主として一時威を奮うが、天正元年(1573年)頃から15代将軍足利義昭と信長の仲が険悪となると、知正は細川藤孝の説得を振り切って義昭方に属したために没落。池田家は織田氏に寝返った荒木村重に乗っ取られ知正は摂津国を追放されるが、後に信長に降伏し村重の家臣となる(下克上)。 天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)。その後村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまった。 11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束(講和)を荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わし、尼崎へ逃れた村重に代わって有岡城の城守をしていた久左衛門は開城を決意、津田信澄(信長の甥)が接収部隊を率いて本丸に入城した。ここに有岡城の戦いの戦闘は終結することになる。 前述の講和条件を受け、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、有岡城に引き返しづらくなり窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった(久左衛門は淡路へ逃れたという)。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。 12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。 淡路へ逃れて以後の消息は分かっていないが、池田知正が歴史上に再登場するのは信長が1582年の本能寺の変で亡くなった後のことであり、信長の後継者となった羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に仕えて摂津豊島郡2700石を与えられ、小牧・長久手の戦いや九州征伐に従軍した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは小山評定より従い、戦後に5000石に加増された。 慶長9年(1604年)に死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%9F%A5%E6%AD%A3
矢島重成 Yajima Shigenari(1570年-1641年) 矢島秀行之子,母為菊亭晴季之女.月祥院;又稱行昌、勘兵衛、左助、石見守,號剛庵。 父親秀行傳聞為將軍足利義昭之子,秀行因繼承近江野江郡矢島鄉的國人眾矢島氏,而改姓矢島。 永祿十一年(1568年),足利義昭受到織田信長擁立為將軍後,父親秀行一直隨仕在旁。直到元龜元年(1570年)九月因為三好家的殘黨引發的「京都亂入事件」秀行為保護義昭而受重傷,在同年12月22日便以27歲之齡英年早逝,留下三歲的女兒矢島八千子和一歲的重成。母親月祥院無奈之下帶著二子回菊亭家,不久依附親戚細川藤孝,重成便和姊姊八千子一同受到細川藤孝的教育而成為擁有高教養之人,並和藤孝之子細川忠興為好友。 之後豐臣秀吉和細川忠興因為擔心柳川藩的立花宗茂雖擁有極高聲望的武名卻和正室立花誾千代之間仍然沒有子嗣,為此在立花宗茂於朝鮮征戰回國後介紹重成之姊八千子為宗茂側室,此時重成因這層關係幸運的入仕立花家並成為家老,更在第二次朝鮮征戰(慶長之役)中擔任立花軍第二備隊出戰。 朝鮮征戰結束回國後,慶長五年(1600年),因豐臣秀吉之死而爆發以石田三成和德川家康為首的西軍、東軍之間的關原合戰;立花宗茂為報答豐臣秀吉之恩加入西軍,卻因為被派往攻略大津城而沒能趕上主戰場,雖然接到西軍戰敗後回到大阪城向毛利輝元提議籠城抗戰,但輝元因為接受家康的勸降而沒能成功,立花軍無奈回柳川領地,隨即遭到由西軍變節至東軍的鍋島直茂率3萬5千兵力侵攻,立花宗茂為此以家老小野鎮幸為總大將率1萬3千於江上八院與之對抗,重成此時作為第三陣為後衛出戰,結果這場血戰最後在小野鎮幸的奮戰和立花成家的奇襲下苦勝,然而黑田如水和加藤清正又率大軍至柳川,並且以宗茂好友的身分勸降,宗茂為領民安全以及對早先提議加入東軍的正室立花誾千代負責而決定開城,最終遭到改易而成為浪人。 立花家臣雖然大部分因為家族生計而無奈改仕加藤家或黑田家,然而家中老臣以由布惟信和十時連貞為首包含重成約20餘人仍然跟隨宗茂,於肥後高瀨接受加藤清正的保護後不久便為復興主家展開流浪,艱苦的生活數年後,終於因為德川秀忠的賞識,立花宗茂回復大名身分於陸奧棚倉,這時重成則致力棚倉的行政。 不久因為大阪冬夏的戰功,立花家完成回歸柳川大名的心願,此時重成和十時連貞成為家中重要的國務行政家老,為當時立花家不可或缺的重要人物。並且宗茂認重成之女為養女,此女之後嫁給今川義元的曾孫,當時為德川旗本將領之一的今川直房。重成之子矢島重知也作為立花家老參與島原之亂等戰事,繼續於柳川立花藩延續家系。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E9%87%8D%E6%88%90
石川五右衛門 Ishikawa Goemon(生年不詳-1594年) 五右衛門的記載,出現在安土桃山時代公卿的日記以及當時西方耶穌會傳教士的日記中。其生平事蹟不詳,江戶時代創作的一些歌舞伎中有對其生平的敘述,但眾說紛紜。就連其出生地都有伊賀、遠江、河內、丹後等不同的說法。 其中一種說法認為,五右衛門於弘治四年(1558年)出生在伊賀國,幼名五郎吉,是三好氏家臣石川明石的兒子,身材高大,有三十人才擁有的巨大力氣。 天正元年(1573年),父母被幕府將軍足利義昭的下屬殺害,五右衛門為報仇,投奔伊賀流忍者百地三太夫的門下學習忍術。由於與三太夫的妻子通姦被發現,殺死三太夫的妾並逃亡。而在織田信長派兵攻破伊賀、殘殺忍者時,五右衛門曾試圖下毒殺害信長,但失敗。 另一說法認為,五右衛門是丹後國伊久知城城主石川氏的後代。石川氏是丹後守護大名一色氏的家老,天正十年(1582年),豐臣秀吉派細川藤孝謀殺效忠於一色義定的父親石川秀門,攻陷伊久知城。淪陷之際,秀門的次子五良右衛門逃出,改名五右衛門,並與豐臣秀吉對抗。 還有一種說法稱,五右衛門出生在遠州(遠江國)的濱松,原名真田八郎,後來在河內國石川郡山內古底成為一位醫師,改名石川五右衛門。 相傳五右衛門後來前往關西地方,組織盜賊團夥反抗豐臣秀吉的暴政。在當地,五右衛門劫奪大名、富人、商人以及神官的財產分發給窮人,因此被稱為義賊。由於其忍術高明,出入守備森嚴的大名官邸如入無人之境,因此聲名大噪。 文祿三年(1594年)夏,五右衛門潛入伏見城的太閣豐臣秀吉府邸,在豐臣秀次家臣木村常陸介的支持下,試圖刺殺豐臣秀吉。但觸碰太閣府邸中的千鳥香爐,香爐鳴叫,五右衛門被捕。 豐臣秀吉大怒,將其押往京都的三條河原,同其家族9人一起用油鍋烹死,其屬下10至20人被磔死。一說五右衛門是在偷盜被發現後逃亡,被前田玄以搜捕,後被烹殺於三條河原。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
細川忠興 Hosokawa Tadaoki(1563年-1646年) 細川藤孝的長子、母為沼田光兼之女.沼田麝香、養父為細川輝經、正室為明智光秀三女.明智玉子、側室為郡宗保之女、明智光忠之女等等;幼名熊千代、別名與一郎、受織田信忠偏諱「忠」字,初名長岡忠興,大坂之陣後復姓細川,號三齋宗立。 於京都出生,兒時當父親藤孝為足利義輝的家臣,隨室町幕府勢力削弱,父親投靠織田信長。天正五年(1577年)協助討伐叛將松永久秀,攻佔森岡城,得到信長的感謝狀,後來受到信長的任命成為建部山城城主,並成功消滅一色氏並與父親藤孝成為丹後國的守護。天正七年(1579年)與明智光秀三女玉子結進行婚姻。 本能寺之變,織田信長遭到明智光秀大軍包圍而死亡,雖然岳父是明智光秀,可是忠興沒有跟隨,甚至拒絕明智光秀的邀請並攻打明智軍的據點,同時間他將正室玉子幽禁,當玉子信基督教後,又下令領內禁教。在明智光秀死後,父親藤孝退位,將宮津城交由他管理之後,自此他成為羽柴秀吉(豐臣秀吉)的家臣,隨秀吉參與小牧.長久手之戰,忠興在協助主力部隊撤退時擊退織田信雄的軍勢。 天正十三年(1585年)就任從四位下,待從。之後聽命參與九州征伐,也參與討伐北條氏的小田原征伐,並攻陷韭山城。文祿.慶長之役也有參與。在豐臣秀次事件中差點遭到連坐,在家臣松井康之的奔走下得以擺脫嫌疑。 在豐臣秀吉病死後,忠興開始與德川家康接近,並將三男忠利送往江戶城成為人質,因此除丹後12萬石的領地外,又被德川家康加封於豐後國杵築城6萬石。曾與豐臣家的武斷派諸侯(加藤清正、福島正則、加藤嘉明、淺野幸長、池田輝政、黑田長政等人)一同參與襲擊石田三成的計畫。關原之戰前夕,在石田三成收集大名家人人質的行動下,正室玉子因為不想成為人質而由家臣協助殺害自己。忠興在合戰中抵擋石田三成部屬島左近的軍勢,戰後被家康分封於豐前國的小倉合共三十九萬六千石。慶長十九年(1614年)參加大阪之戰,在平野與豐臣軍交戰。 元和五年(1619年)決定剃髮為僧,號三齋。翌年,將家督的位置交給三男忠利。寬永九年(1632年)當忠利被移封到熊本54萬石的時候,在八代城隱居。 正保二年(1646年)於八代城病死,年八十三歲,戒名松向寺殿前參議三齋宗立大居士。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
細川藤孝 Hosokawa Fujitaka(1535年-1610年) 三淵晴員的次子、母為清原宣賢之女、養父細川元常、正室為沼田光兼之女.光壽院;幼名萬吉,通稱與一郎,受足利義藤偏諱「藤」字,名為藤孝,別名長岡藤孝,號幽齋玄旨(細川幽齋)。 天文九年(1540年),在7歲時成為伯父.和泉半國守護細川元常(三淵晴員的兄長)的養子(『寬政重修諸家譜』)(不過有說法指出,可能近江佐佐木氏一門出身.將軍的近臣細川高久,或淡路守護家細川晴廣才是養父)。天文十五年(1546年),接受將軍足利義藤(足利義輝)的偏諱,於是改名為藤孝。天文二十一年(1552年),敘任從五位下兵部大輔。以幕臣身份仕於將軍義輝。 永祿八年(1565年),足利義輝在永祿之變中被三好三人眾和松永久秀殺死,義輝的弟弟一乘院覺慶(足利義昭)亦被幽禁在興福寺,此時與兄長三淵藤英等人一同將其救出,為請求近江國的六角義賢、若狹國的武田義統、越前國的朝倉義景等人幫助義昭成為將軍而奔走。當時貧窮得連燈籠的油都欠缺,甚至曾在社殿內拿油。 後來,通過明智光秀向尾張國的織田信長請求幫助。永祿十一年(1568年)9月,信長以足利義昭臣下的名義進入京都,藤孝亦隨之入京。之後從三好三人眾的岩成友通手上奪回山城勝龍寺城(青龍寺城),以後在大和國和攝津國轉戰。 不過後來足利義昭和織田信長的對立開始出現,元龜四年(1573年)3月,迎接率軍上洛的信長並示出恭順姿勢。秘密向信長送出義昭對信長抱有逆心的書信。在義昭被追放後的7月,成為山城桂川之西、長岡(西岡)一帶(現今長岡京市,向日市附近)的知行,此時改名為長岡藤孝。 8月,與池田勝正一同在山城澱城之戰(第二次澱古城之戰)中消滅岩成友通,因此立下功績,以後以織田信長的武將身份在畿內各地轉戰。除石山合戰(高屋城之戰)、紀州征伐外、還以山陰方面軍總大將明智光秀的與力身份相當活躍(黑井城之戰)。天正五年(1577年),與光秀一同攻陷背叛信長的松永久秀所守的大和信貴山城(信貴山城之戰)。 天正六年(1578年),經由織田信長推薦下,嫡男長岡忠興(細川忠興)與明智光秀之女.明智玉結婚。以光秀的與力身份,在天正八年(1580年),長岡家單獨進攻丹後國,不過遭到丹後國守護一色義道反擊而失敗。後來受到光秀的增援,終於平定丹後南部,被信長認可領有丹後南半國(加佐郡、與謝郡),於是以宮津城為居城(北半國的中郡、竹野郡、熊野郡由舊丹後守護家的一色義定領有)。在朝倉征伐、甲州征伐中與一色義定一同出陣。 織田信長在正月12日送給藤孝的黑印狀中提到,在知多半島取得的鯨肉獻給朝廷,而且要分給家臣藤孝。 天正十年(1582年),本能寺之變爆發,藤孝拒絕曾是上司、親戚、密友的明智光秀再三邀請,剃髮並以雅號幽齋玄旨自稱,以及隱居在田邊城,把家督讓予細川忠興。同樣與光秀有很深關係的筒井順慶亦拒絕參戰,陷入困境的光秀在山崎之戰中敗死。 後來被討伐明智光秀的羽柴秀吉(豐臣秀吉)重用,天正十四年(1586年),被賜予在京料山城西岡3千石。在天正十三年(1585年)的紀州征伐、天正十五年(1587年)的九州平定中亦以武將身份參戰。而在梅北一揆之際,以上使身份前往薩摩國,進行島津家藏入地的改革(薩摩御仕置)。因為這些功勞,在文祿四年(1595年)加增大隅國3千石(後來移封至越前府中に)。 幽齋與千利休等人一同是豐臣秀吉側近的文化人,得到相當寵遇。細川忠興(細川三齋)亦對茶道有很深造詣,並成為利休的高弟之一。另一方面,與德川家康亦有親交,在慶長三年(1598年)秀吉死去後,開始接近家康。 慶長五年(1600年)6月,細川忠興為參加德川家康的會津征伐,於是從丹後率領細川家的軍勢前往,幽齋與三男幸隆一同以不足5百士兵守備丹後田邊城。7月,石田三成等人舉兵討伐家康,身在大阪的忠興的妻子.明智玉在被包圍的屋敷中放火並自殺。田邊城被小野木重勝、前田茂勝等人率領1萬5千人的大軍包圍,不過幽齋指揮士兵激烈抵抗,攻圍軍中亦有許多幽齋在歌道的弟子,因此缺乏戰意,於是變為長期戰(田邊城之戰)。 幽齋的弟子之一的八條宮智仁親王在7月和8月,兩度建議雙方講和,但是幽齋謝絕並繼續籠城戰。通過使者把『古今集証明狀』送給八條宮,把『源氏抄』和『二十一代和歌集』獻給朝廷。終於八條宮向兄長後陽成天皇奏請,派出三條西實條、中院通勝、烏丸光廣為敕使前往田邊城,在關原之戰兩日前的9月13日,敕命雙方講和。幽齋結束長達2個月的籠城戰,並在9月18日讓出城池,進入敵將前田茂勝的丹波龜山城。 細川忠興在關原之戰中,於前線與石田三成的軍隊戰鬥,在戰後得到豐前小倉藩39萬9千石。此後,長岡氏回復為細川氏,以後長岡姓以細川別姓的身份成為一門和重臣。後來幽齋在京都吉田過著悠悠的晚年。 慶長十五年(1610年)8月20日,於京都三條車屋町的自邸中死去,年七十七歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%97%A4%E5%AD%9D

Send this to a friend