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一色満信 Isshikii Mitsunobu(生年不詳-1582年?) 父は一色義道、妻は細川藤孝(幽斎)の娘・伊也(『一色軍記』では”菊の方”);別名は義定、義俊、義有。通称を五郎。 剛勇に優れ、父・義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。天正7年(1579年)に義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を長岡氏(細川氏)と分割統治した。 中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。 また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。 戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A
三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?) 三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。 しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。 しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。 元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。 しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。 織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。 天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。 天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳) 三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。 続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。 また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。 こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。 三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。 永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。 しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
三村元親 Mimura Motochika(生年不詳-1575年) 三村家親的次子,母為阿波三好氏之女。 父親家親以毛利氏為後盾、將備中國幾近全域及備前國一部分納入勢力範圍,並謀求將勢力擴展到備前、美作國。永祿九年(1566年)、宇喜多直家因正面攻擊無法取勝,而派人以鐵砲將家親暗殺。 長兄元祐為備中庄氏養子,元親繼承家督後,向宇喜多氏展開復仇。永祿十年(1567年),率領約2萬士兵攻進備前國,但卻被僅有5千士兵的宇喜多軍所大敗(明禪寺之戰)。此役讓在備中享有威名的三村氏出現衰退,在毛利氏的援助下,元親總算止住頹勢。 之後,天正二年(1574年)、因為毛利氏與仇敵宇喜多直家結盟,元親不顧叔父三村親成、竹井氏等一部分重臣的反對,改投織田信長,反叛毛利氏。此外,也在同年支援受到宇喜多直家叛亂之苦的浦上宗景。 相對於認為這是毛利家中大事而進言討伐三村氏的小早川隆景,吉川元春(反對毛利氏與宇喜多氏結盟)進言應直接和元親見面,勸說元親回心轉意以避免用兵。可是,負責山陰道的元春進言不被接受,而採用負責山陽道的隆景意見討伐三村氏。 毛利軍難以攻下在元親手中要塞化的本城備中松山城,於是採取先將周圍支城依序攻下的作戰方式。在支城紛紛陷落後,毛利軍包圍備中松山城進行持久戰。在寡不敵眾的情形下,城池終於淪陷。元親聽從家臣意見,和妻子、家臣一起逃出,但在途中受了重傷,於是派出使者向毛利軍提出切腹的請求。元親在毛利家中舊識粟屋元方的照看下,留下辭世詩數首在松連寺切腹自殺。以下是其中一首: 「人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に」(人,不過是借用名字的軀體;我的生命如同消失的露水,回歸到原本的水滴。) 元親是個精通詩歌等雅緻學問的文化人,和細川藤孝也有深交。據說在元親困守備中松山城時,藤孝曾送去『八雲集』;元親自殺之際,也贈與藤孝一首詩歌。之後,元親之子勝法師丸被捕,雖然懇求饒命,但小早川隆景擔心他的聰明伶俐會在將來造成危害,還是將其殺害。至此,戰國大名三村氏的血脈完全斷絕,元親的叔父親成等旁支以他國家臣的身分延續下去。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E5%85%83%E8%A6%AA
伊集院忠棟 Ijuin Tadamune(生年未詳-1599年) 伊集院忠倉之子、妻為島津久定之女;又稱源太、掃部助、右衛門大夫、忠金、幸侃。 伊集院氏為薩摩島津氏的一族,源於島津2代當主島津忠時之孫俊忠,俊忠得到了薩摩國日置郡伊集院地頭一職,遂改伊集院。 伊集院家世代為島津家重臣,忠棟擔任島津家筆頭家老,在家中執掌權勢極大。無論內政才能還是作為一個武人,都得到很高的評價。擅長歌道,與細川藤孝等文化人交情深厚。在肥前、築後攻略中立下很大的功勞。 天正十五年(1587年),忠棟與島津忠長率2萬人攻擊大友家名將高橋紹運所守的岩屋城時,損失極大。雖然最終攻下岩屋城,高橋紹運自殺,但由於兵力大損,無​​法繼續再對大友家進攻,使得大友家趁此機會等到豐臣秀吉的援軍。意識到實力差距,在秀吉出兵九州之前,就已經和秀吉積極交涉,力爭和睦。 同年,秀吉發動大軍征討九州。4月,島津義久、島津義弘所率2萬人精銳對陣豐臣秀長的部隊,島津左軍的北鄉時久部受命進攻,意欲與右軍的忠棟合圍,但忠棟以沒有聽到左軍進攻動靜為由而沒有行動,最終導致北鄉時久部大敗,傷亡極為慘重。島津氏被迫撤退,史稱根白阪之戰。戰後,忠棟成功勸服義久臣服,自願剃髮作為人質,拜見豐臣秀長。因為一向親近豐臣秀吉的表現而受封日向國肝屬一郡的領地。島津降伏之後,作為島津家宿老負責與豐臣家聯繫,和石田三成等奉行關係密切。 文祿四年(1595年),忠棟擔任島津領內的檢地奉行,將原屬北鄉家的日向諸縣郡庄內領地8萬石劃歸己有,把北鄉家轉封到薩摩,引起島津家中眾人的極大不滿。忠棟還強迫肝付兼盛認定自己兒子兼三為嗣子。自此以後,忠棟憑藉與豐臣家的良好關係,大權在握,功高震主。由於其權力日漸膨脹,島津氏兄弟也將其視為重大威脅。 秀吉死後,慶長四年(1599年)當在伏見城島津家館邸對島津義久的繼承人島津忠恆表現出不屑的舉動時,當場被忠恆斬殺。據說太閣死後島津家從朝鮮撤軍回國,因為島津家在泗川之戰中大敗明軍,鄧子龍和李舜臣在戰事中遭遇到島津家的突襲戰死,功勳諸軍第一,受命直接到伏見城領賞。島津家此次出戰損失很大,但朝廷賞賜不菲,新得幾萬石的領地,成為唯一在朝鮮戰後獲得封賞的大名。跟隨義弘從軍的忠恆也到伏見城,結果看到的卻是忠棟的府邸比主家的更加奢華,再想起忠棟平日所為,於是父子倆惡上心頭。 後來忠棟之子伊集院忠真怒而在庄內領地掀起反旗,是為「庄內之亂」,在德川家康的調節下和解。三年後,忠真也被忠恆殺死,伊集院一族就此沒落;據說忠恆對此早有預謀,忠恆和義弘謀劃斬殺計劃,得到義久的同意。但事發後,義久給石田三成的問罪信回復中,只說這是忠恆的個人行為。有說法稱,忠棟謀奪薩摩大隅日向三州守護由來已久,石田三成早已知道忠棟打算毒殺忠恆的計劃,忠恆得到消息後先下手為強。 伊集院忠棟,被薩摩藩的『本藩人物誌』認定為「國賊」;不過新井白石在『藩翰譜』中則認為忠棟在九州征伐中挽救了島津氏的滅亡,為忠義之士。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%9B%86%E9%99%A2%E5%BF%A0%E6%A3%9F 出處#2 http://baike.baidu.com/view/763551.htm 出處#3 http://82513924.qzone.qq.com
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
五十位人物:武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信 / 久慈為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢 / 陶隆房、立花宗茂 / 吉弘統虎、高橋紹運 / 吉弘鎮種、細川幽齋 / 細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角承禎....
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
下間賴廉、細川幽齋、村上義清、朝倉義景、織田信忠、成田甲斐、井伊直虎、母里友信、森長可、世良田元信、大祝鶴、望月千代女、櫛橋光、石川五右衛門、弥助、山内千代、朝倉一玄、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就
吉川經家 Kikkawa Tsuneie(1547年-1581年) 吉川經安的長子、母為吉川經典之女、妻為境經輝之女;幼名千熊丸,通稱小太郎。 弘治二年(1556年)吉川本家家督・吉川元春進攻石見,父親經安被配置在福光城。永祿四年(1561年),那賀郡音明城城主福屋隆兼因領土問題反叛毛利家。年僅14歲的經家隨父討伐福屋隆兼。 天正二年(1574年),父親經安隱居,27歲的經家繼承石見吉川家。身為吉川一族(安芸吉川分支石見吉川),經家追隨「鬼吉川」吉川元春轉戰各地。 隨著中國毛利與近畿織田兩個強大勢力的接鄰,兩家的戰爭亦無可避免地隨之而展開。天正五年(1577年)10月,羽柴秀吉受織田信長的之命,作為織田家中國征伐軍的總大將,負責織田家中國地區的軍務。中國地區的城池一個接一個的落入秀吉之手。 天正八年(1580年)5月,秀吉完成但馬攻略,留弟弟羽柴秀長支配但馬,開始將目光投至因幡的鳥取城。天正八年(1580年)9月21日,風聞秀吉攻來的鳥取城城主山名豐國力排眾議,向家臣表達向秀吉投降的決定。家臣森下道譽、中村春統等屢勸不果,遂將山名豐國放逐,向毛利家負責山陰地區軍務的吉川元春請求派遣將領入衛鳥取城。 鳥取城是依著險峻的久松山而建成的山城,西北接連丸山、雁金山,鄰近千代川、袋川。利用天然地形使鳥取城成為一座易守難攻的要害,更成為因幡國的重要據點。宗家的毛利輝元和吉川元春、小早川隆景都知道鳥取城是中國地方毛利陣營的最前線,甚為重要,關系到織田勢能否進出中國地方。吉川經家被派遣擔任鳥取城城代,入城防衛。 天正九年(1581年)2月26日,經家離開福光城,從溫泉津乘船出發,由隱岐水軍將領奈佐日本助、鹽冶周防守、佐佐木三郎左衛門等護送,向鳥取城進發。3月18日,經家帶同400人的援軍進入鳥取城。面對將要來臨的秀吉大軍,經家已有被打敗的心理准備,檯棺進城,表明已有決死的覺悟。然而,當經家調查固守城池所需物資時,他大感愕然。原因是防守鳥取城的山名家部隊約1000人,毛利吉川軍約800人,鄉民約2000人,鳥取城約有全體4000人。他發現固守城池所需糧食不夠整整四千人吃。經家馬上派人從近鄰的農民籌措米糧,不過太遲。秀吉已經透過細川藤孝、宮津屋甚兵衛,宮津屋喜右衛門等人,指示附近的商人以高價買下因幡全部的米糧。經家唯有向毛利家請求糧食救援。 經家的想法是,當秀吉攻來,說的是從夏末天到晚秋的籠城攻擊。因此如果有足夠糧食給城中軍民挨過秋天,秀吉大軍將要在山陰度過嚴寒的冬天,到時秀吉就不得不退。可是,鳥取城的貯糧又未知否足夠。 此外,經家在雁金山築寨,配置500多人,由鹽冶周防守高清駐守,以及在丸山築寨,由奈佐日本助駐守。經家務求將連成鳥取城(久松山)一雁金山一丸山防線,以發揮鳥取城的長期作戰能力,令秀吉知難而退。經家更對鳥取城對出的加露浦做特別安排,以維持海路的聯絡。當時補給路的大動脈是由千代川進入袋川,再經由丸山城、雁金山至鳥取城。 秀吉大軍的行動很快。天正九年(1581年)6月25日,秀吉率領二萬多人的大軍從姬路城出發,與但馬竹田城的秀長五千兵會合,由但馬口攻入因幡,越過戶倉峠,穿過若櫻、私都谷、三代寺、宮之下、岩倉、瀧山、小西谷,四日後突然出現於帝釋山。秀吉在鳥取城的東面本陣山著陣,俯視整個鳥取城。秀吉迅速將鳥取城徹底包圍。 秀吉在鳥取城外構築柵欄、矢倉、堀溝等圍城工事。堀溝闊十間.深五間,堀底有逆木及樁子。每十町設置一座三層櫓,夜間火燃起火把,把黑夜照得像白天一樣,並下令馬迴眾巡回警固,不許城中一個人溜出城外。秀吉采用軍師黑田官兵衛的斷水斷糧的圍城戰略。鳥取城攻略成了一場兵糧戰爭。 此外,秀吉派遣部將宮部繼潤占領鳥取城與雁金山之間的道祖神谷,並進攻經家設置的雁金山寨,以斷絕經家與城外的聯絡。雁金山寨的鹽冶周防守高清與宮部繼潤死戰,不過在猛攻之下,鹽冶周防守高清不敵棄寨,並跑到丸山寨,與奈佐日本助一起死守。經家失去雁金山寨的屏障,鳥取城更形孤立。天正九年(1581年)8月13日,信長更命令丹波的明智光秀、丹後的細川藤孝、攝津的池田恆興、高山右近、中川清秀准備出陣,務求拔下鳥取城。 毛利家以水陸兩路向鳥取城提供補給。可是秀吉大軍之迅速著陣及嚴格的包圍網令由陸路運來的救援物資進入不了鳥取城。水路方面,毛利方以25艘大船編成水軍,押運米糧至鳥取城。天正九年(1581年)9月16日,自丹後,但馬運送軍糧至秀吉陣營的細川藤孝,松井康之為數1500人、60餘艘警備船的水軍與和毛利水軍發生沖突。結果秀吉方水軍擊敗毛利方水軍。及後松井康之在伯耆泊城再擊敗毛利水軍眾鹿足元忠,奪取船5艘船,擊破65艘。從海路運來物資不能進入鳥取城。鳥取城處於孤立無援的狀態。 秀吉的「兵糧攻」令鳥取城的所有糧食在僅僅半個月便被吃光。在嚴重缺糧、軍民挨餓的情況下,鳥取城內的軍民吃樹芽,吃草;樹芽、草被吃盡後,他們殺死牛馬來吃;牛馬被殺清吃盡後,終於痛苦的開始人吃人、父母吃孩子的慘況。缺糧中的鳥取城成了一個地獄。 天正九年(1581年)10月20日,秀吉以堀尾吉晴和一柳直末為使者,向經家表達投降勸告,表明只是城代的經家毋須受罪,只須讓放逐山名豐國的山名家臣森下道譽、中村春統,毛利方海賊奈佐日本助、鹽冶周防守高清、佐佐木三郎左衛門切腹自殺即可,並願意將跟隨經家入城的毛利方部隊安全遣返安芸。但經家表示即使只是城代,亦須為失去地池承擔起全部責任,表明以自己加上山名重臣森下,中村等人的切腹作為條件來換取鳥取城內所有人的性命。 當初,織田信長對經家的切腹自殺雖然表現難色,但結果也接受經家的請求。天正九年(1581年)10月24日,秀吉向經家送贈酒三樽及鯛魚五尾。經家在城中設宴,與城中諸人交杯。同年10月24日未明,經家在城中山麓的真教寺切腹自殺,由靜間源兵衛介錯,年35歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/899963.htm
岩成友通 Iwanari Tomomichi(生年不詳-1573年) 三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。姓は石成とも書く。通称は主税助。 別名に長信(ながのぶ)とも言い、元亀元年から「長信」の名乗りを使用している。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である。 友通の出自は不明とされる。室町時代の多くを通じて細川氏の支配下であった大和石上神社の摂社に「石成神社」があることから、大和出身ではないかという見解がある他、備後国品治郡石成郷といった地名があることから、それらの土地の土豪との関係を推察されることが多い。『史略名称訓義』には「岩成古〔原文ママ〕通」に註して「主税助と号、種成と名く、備後国岩成荘住人岩成蔵人正辰の男」と記される。また、京都郊外の西九条の下司を務めていたが、やがて三好氏に臣従したともされる。『東寺百合文書』所蔵の三好元長の家臣塩田胤光が発給した文書に「岩成」の名字が見える他、同所蔵の文書には、下司の「岩成」が西九条の荘園を押領したという記述も見られる。今谷明は「阿波出身でないのは確実」と断言しており、いずれにしても、松永久秀と同様に畿内で登用されたと思われる。 史料における初見は天文19年(1550年)であり、北野社の大工職の相論において、照会の役を務めていることが確認される。翌天文20年(1551年)11月には、堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席している。その後は三好長慶の下で奉行衆として仕えた。永禄元年(1558年)の将軍山城占拠に参戦(北白川の戦い)しており、この従軍が軍事行動における友通の初見とされる。永禄5年(1562年)に六角義賢が京都に侵入した時は室町幕府13代将軍・足利義輝の警護を行った。 長慶の死後、三好三人衆の1人(他の2人は三好長逸、三好政康)として甥の三好義継の後見役を務めた。永禄8年(1565年)の足利義輝暗殺(永禄の変)をはじめ他の三人衆と行動を共にし、松永久秀や畠山高政としばしば戦った。 また永禄9年(1566年)には、土豪の中沢満房、革嶋一宣らの立て籠もった山城勝竜寺城を攻め落とすと、友通は敵対した土豪達を厳しく追及、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出し、手に入れた土地の多くを新しい領主に与えた。同時に勝竜寺城を居城とし、山城西部の西岡を支配した。これは、勝竜寺城を拠点に西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される。また、勝竜寺城も、戦の際に土豪が立て籠もる施設程度であったものが、友通が入城・整備して拠点とすることで、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった。友通はそうした点から、勝竜寺城の「最初の城主」とも評される。 永禄10年(1567年)に1万の軍勢を率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲を受けて敗北(東大寺大仏殿の戦い)。翌永禄11年(1568年)に織田信長が上洛してくると、三好長逸、三好政康、篠原長房らと連携し、それまで敵対していた六角義賢と手を組んで強く抵抗したが、守城の勝竜寺城を攻撃され退去した(勝竜寺城の戦い)。しかしこの際、他の畿内の城が抵抗らしい抵抗もせずに降伏してゆく中、友通の籠る勝竜寺城と池田勝正が籠る摂津池田城だけは強硬に抵抗した。これは、友通による支配が一定の奏功をし、土豪達が彼の元に結束していたことの証とされる。敗退の推移について、『多聞院日記』『言継卿記』によれば、永禄11年9月27日に友通は信長に抵抗して勝竜寺城へ籠城したとあるが、9月29日には落城している。言継卿記の翌永禄12年(1569年)の1月8日の記述によれば、勝竜寺城には細川藤孝が入城している。友通が勝竜寺城主であったこの時期には、光源院から勝竜寺城主である友通に礼物が送られていたことが「光源院文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月は未詳となっている。永禄12年1月に信長の庇護下にあった義輝の弟・足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退された(本圀寺の変)。 この後、信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると(信長包囲網)、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。しかし、天正元年(1573年)、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方(番頭大炊助、諏訪飛騨守)の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内(おりつ ごんない)と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い)。享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と推定している。また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した。 三好長逸は行方不明となり、三好政康は既に死去していた。結果、三好三人衆は完全に崩壊した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%90%E5%8F%8B%E9%80%9A