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細川真之

三好義賢 Miyoshi Yoshikata(1527年?-1562年) 三好元長的次子、正室為久米義廣之女、繼室為岡本牧西之女・小少將;幼名千滿丸,別名物外軒、之虎、實休,戒名實休居士。 天文十三年(1544年),跟隨兄長三好長慶進入京都,長慶跟隨細川氏當主細川晴元,義賢則仕於細川分家・阿波守護讚州細川當主細川持隆,從此開始在四國的影響力。 天文十六年(1547年),細川晴元與細川氏綱、畠山政國、遊佐長教等勢力在攝津爆發捨利寺之戰,義賢做為細川晴元方將領出戰獲得勝利。此後隨著三好的勢力逐漸擴大,相繼轉戰讚岐、和泉等地。而由於其弟十河一存後來成為和泉國岸和田城主,讚岐一國實際上也由其支配,因此囊括三好勢力在四國的政治及軍事。 天文二十二年(1553年)6月,與其弟十河一存共同在見性寺內殺害細川持隆,並擁立其子細川真之作為傀儡。此舉雖引起持隆舊臣久米義張、佐野丹波的反抗,但亦被義賢所平定,從此完全掌握讚州細川家,稱為阿讚眾的阿波、讚岐國人眾從此歸入三好政權的勢力。 永祿三年(1560年),與兄三好長慶一同戰勝畠山高政及安見宗房,之後被委派管理河內一國。 永祿五年(1562年),遭受得到紀伊根來眾援助的畠山高政反擊、於和泉的久米田之戰中戰死,年三十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E8%B3%A2
三好長治 Miyoshi Nagaharu(1553年-1577年) 永禄5年(1562年)、父が久米田の戦いで戦死したため、家督を相続する。伯父・三好長慶によって畿内の支配力を強めた三好氏の中でも、本国阿波を預かる重要な役割を担っていた。しかし幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。 有名な分国法である新加制式を定めたり、永禄9年(1566年)には足利義栄を将軍として擁立して上洛するなどの事跡を遺しているが、いずれも篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導の結果である。 足利義昭を奉戴する織田信長の上洛により劣勢となった三好氏は、本圀寺襲撃(六条合戦)でも戦果を挙げられず、次第に畿内から追われて本国に撤退した。 元亀元年(1570年)、四国に退いた三好三人衆と篠原は本州への反攻を画策。摂津では、管領細川氏の嫡流・細川六郎(信良・昭元)を大将に担ぎ、三好一門の大半を結集して(信長派となった従兄弟である宗家の三好義継を除く)、織田信長との戦いに挑んだ(野田城・福島城の戦い)。この時は劣勢に追い込まれたものの、石山本願寺の加勢や近江での朝倉氏・浅井氏の決起などもあって信長軍を退かせ、摂津・河内・和泉の三国をほぼ三好家の勢力下に取り戻した。しかし、その後和睦して本国の阿波に撤退した。 元亀3年(1572年)には不仲となった重臣の長房を、異父兄である阿波守護の細川真之と協力して同年内に攻め滅ぼした(上桜城の戦い)。だが、強権を振りかざす長治の治政に対し、讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けている。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(全讃史)。 天正3年(1575年)、三好氏にとって半世紀以上も畿内・和泉における根拠地であった顕本寺が法華宗であったことや、実休は晩年に法華宗に深く帰依して堺に妙国寺を建立するなどしており、長治も信者として阿波全土の国人や領民に対しても法華宗を強要した。ところが、国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感まで招き、阿波一国の支配力さえ喪失しかねない状態まで悪化した。このような国内の混乱は、隣国・土佐の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発、海部城や大西城などが落とされた。 天正4年(1576年)には阿波守護細川真之とも対立し、これに真之を支持する元親をはじめ福良氏なども協力したため、長治は圧倒的に不利となる。天正5年(1577年)、長宗我部元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦い、敗死した。享年25。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%B2%BB
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
十河存保 Sogo Masayasu(1554年-1587年) 三好義賢的次子、母為岡本牧西之女・小少將、養父為十河一存;幼名孫六,別名正安、政泰、義堅、三好三郎。 永祿四年(1561年),叔父、讚岐國十河城主十河一存忽然死亡,做為養子繼承十河家。 在宗家三好氏與織田信長敵對的時候,存保協助宗家與信長作戰。但意圖稱霸四國的土佐長宗我部元親崛起時,轉而與信長聯手抵制之,於天正元年(1573年)時正式向信長投降。 天正五年(1577年),其親兄、阿波國的三好長治遭長宗我部元親及異父兄細川真之殺害。 天正六年(1578年),進入阿波勝端城意圖挽回三好家在阿波的勢力,在信長的援助下戰況十分有利,此時的存保已經是僅存的三好勢力,實質上的非三好宗家的三好氏當主。 天正十年(1582年)逼迫細川真之自殺。 同年,存保在信長攻略四國的計劃中,擔任先鋒在讚岐及阿波奮戰,但信長卻於6月2日在本能寺之變中遇害,失去後盾的存保實力大減,因此在入侵阿波的中富川之戰中敗於長宗我部軍,被迫放棄阿波而撤往讚岐。 天正十二年(1584年)6月,讚岐的十河城及虎丸城等遭到攻陷,存保逃亡大阪的羽柴秀吉處。 翌年6月,由於參加秀吉的四國征伐,得以討回舊領讚岐十河3萬石。 天正十四年(1587年)的九州征伐之際,由於軍監仙石秀久錯誤的作戰計劃,使存保不幸在戶次川之戰中遭島津家久部隊擊斃,年33歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%AD%98%E4%BF%9D
細川真之 Hosokawa Saneyuki(1538年-1582年) 細川持隆之子、母為小少將、異父弟為三好長治、十河存保、長宗我部右近大夫;通稱六郎、掃部頭。 天文22年(1553年),父親持隆被三好實休殺死後,真之被擁立成為傀儡(此時母親小少將成為實休的妻子)。在實休死後,仍然被其子三好長治(異父弟)當作傀儡利用,因此感到相當不滿。 天正4年(1578年)12月,逃出勝瑞城後投靠福良連經,逃到那賀郡的仁宇山中(『昔阿波物語』)。天正6年(1578年),與同樣對三好長治不滿的小笠原成助等人聯手,向土佐國的長宗我部氏請求救援並討伐長治。 三好長治死後,三好越後守、矢野國村、河村左馬亮等人,擁立長治弟弟‧繼承讃岐國十河氏的十河存保(異父弟,十河一存養子)並將其迎接到勝瑞城。天正7年(1579年),因為曾是細川方的有力國人伊澤賴俊被攻滅等事,戰況陷入不利。另一方面,土佐國的長宗我部元親與織田信長結為同盟,於是在與阿波三好氏的抗爭中處於優位,但是後來與成為後三好氏後援的織田氏敵對,受到信長將會侵攻四國的威脅。 天正10年(1582年)6月,十河存保的後盾織田信長在本能寺之變中死去,同年8月,長宗我部元親向阿波國侵攻,十河存保被擊敗,於是失去統治阿波的本據勝瑞城,被迫向讃岐虎丸城撤退(中富川之戰)。 天正10年(1582年)死去。 根據『三好記』記載,天正10年(1582年)10月,十河存保再度向阿波國侵攻,派遣江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進等數百人軍勢進攻真之的茅岡城,戰敗的真之在八幡原自殺,阿波細川家滅亡。真之死去是在中富川之戰中敗北的十河存保向讃岐國撤退後的時間,在先前的敗戰中難以回復的十河軍能再向阿波侵攻並攻擊茅岡城的可能性成疑,此外,進行襲撃的江村等人被記載為「山林之逆徒」(山林の逆徒),因此有說法指他們是跟隨真之的阿波國人,亦有一說指這是長宗我部元親肅清舊勢力的舉動(小笠原成助和新開實綱等有力者亦在這段時期被元親謀殺)。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E7%9C%9F%E4%B9%8B
香川之景 Kagawa Yukikage(1527年-1600年) 室町時代末期、讃岐国香川氏に生まれる。香川氏は東讃の安富氏と並び、代々讃岐国守護代を務めていた。 多度、三野、豊田三郡(後に那珂を加えた四郡)を領する。居城は讃岐国多度郡本台山城で、有事に際しての牙城として天霧城を有した。 細川京兆家の重臣である父元景は在京し、管領の政務執行を補佐する役目にあったが、京兆家は分裂を繰り返しており、内部抗争が絶えなかった。そこで元景は細川氏の勢力後退を好機として讃岐国内の内政に着手。自立の道を歩み始めることとなる。 之景が讃岐香川家の当主に就いた後、管領家の実権は三好氏が握ることとなった。天文21年(1552年)には三好実休は守護の細川氏に取って代わり讃岐国内を従えようと諸将に書状を送ったが之景はこれに従わなかった。そして永禄6年(1563年)、実休(前年3月戦死)は香西元成を始め安富氏、十河氏、寒川氏など阿淡、東讃の兵八千余人を率いて押し寄せ、一宮に陣をはった。讃岐の諸将にも参陣を呼びかけ9月18日に金蔵寺に陣を移す頃には、羽床資載、福家資顕、瀧宮弥十郎、瀧宮安資、香川行景、長尾元高、新目安光、本目正利、仲行司清左衛門、山脇久友ら中讃以西の諸将も加わりその数総勢一万八千人に及んだと伝わる。 之景は家老である香川元春、河田弥太郎、河田七郎兵衛、三野栄久らと共に天霧城に入城した。そして、それに応じた大平国祐、斉藤師郷、香川左馬助、香川伊勢守、朝比奈弥太郎、秋山良泰、三野菅左衛門尉など、西讃各城の兵も加わり、総勢六千余人が城内外を固く守備した。 いざ戦闘が始まると城外で一進一退の攻防が繰り広げられたが、三好勢は堅固な天霧城へ大規模な攻城戦にはでられず、実休は、長期戦は不利とし、香西元成を介して和議を申し込むことにした。之景もこれを容れ、香川氏の所領は細川政権下の時のまま安堵することを条件に、三好氏に従い畿内の軍役を務めるとの条項で連署状を作った。そして10月20日、三好勢は軍を引き上げていった。この戦で朝比奈弥太郎は防戦の末、討死。弘法大師ゆかりの善通寺大伽藍、そして善正寺が焼失した。 三好家の統治下に収まりはしたが讃岐は三好家への軍役に従い畿内での戦に多くの民衆が駆り立てられ、民政は乱れ、賊による略奪や土一揆が多発、また国人領主間の争いも絶えなかった。とくに直接支配を受けていない西讃地方では反三好の気風が年々高まっていった。そんな中、天正2年(1574年)、之景は勝賀城の香西氏に組し、三好長治と対立した。長治はただちに兵を出したが、大西氏、長尾氏らも香西氏に加勢したため、ついになすところなく兵を撤退した。この年、三好笑岩は織田信長に従う(高屋城の戦い)こととなり、讃岐における三好の勢力は衰退の一途を辿っていくこととなる。 天正3年(1575年)、隣接する那珂郡は領主の奈良元政が畿内の領地からは離れられず、宇多津聖通寺城へ戻れない状況が続き、それに乗じて従兵が民を虐げ、暴虐をなしていた。そこで之景は那珂郡を統べるべく諸氏への諜略を開始した。新目、本目、山脇の三家は之景に従ったが金倉城主金倉顕忠は、それに帰伏しないばかりか、三好氏に通じ、香川氏領との境界を侵し始めたので、兵を挙げてこれを討つ事になった。そこで之景は香西佳清へ使者を送り、香西氏配下の羽床、福家、瀧宮の三家の協力を請うことにした。香西氏はこれを承諾したので之景は香川元春、大平国祐、三野栄久を大将として壱千余人の兵を金倉郷へと差し向けた。時を隔ずして香西氏からの援兵として羽床資載、福家資顕、瀧宮安資、同弥十郎などが馳せ参じ、金倉氏に組する中津為忠城主、為忠将監を攻め、これを撃破した。金倉顕忠は、城に引きこもらず出て切所を構えて防戦した。五百余人を五手に分かち三手を香川方へと向かわせ、残る二手を顕忠自らが率いて、福家資顕の軍に向かって戦いを仕掛けた。しかし頼みの三好氏からの援軍は無く、双方戦闘をしている所へ瀧宮安資と同弥十郎の二軍が左右より挟んでせめかけて来たので顕忠はたまらず兵を引かせた。その撤退の最中に顕忠は福家の従僕の石若なるものに討ち取られ、戦闘は幕を引くこととなった。戦闘終了後、羽床資載の計らいで那珂郡は香川方に属す事となり、ここに香川氏は西讃四郡を直領とすることになった。 織田家の版図拡大は讃岐にも大きな影響を及ぼしていた。天正4年(1576年)、之景は香西佳清と謀り、香川元春と三野栄久を使者として手みやげに大原真盛の太刀を持参し、三好笑岩の仲介で信長に属すことを請うた。信長は喜んで使者を饗応して之景に偏諱を与えた。使者も禄として各々が馬を一頭ずつ賜った。これより之景は名を信景と改めることになった。そんな中、天正5年(1577年)、三好家にはさらなる悲運が待ち受けていた。細川真之が長治討伐の兵を挙げ、長治が別宮浦で自刃してしまったのだ。三好家は讃岐より移った十河存保があとを継いだが、ちょうどその頃、土佐の長宗我部元親が四国を平定すべく着々と讃岐侵攻への準備を進めていた。 翌天正6年(1578年)、ついに土佐の長宗我部元親の軍勢が讃岐へ乱入、香川氏の属城である藤目城が落とされた。斉藤師郷は土佐の軍門に降り、本篠城の財田常久は討死。土佐勢の勢いは止まることなく、破竹の勢いで九十九山城を攻め細川氏政を駆逐し、仁尾城主細川頼弘、天神山城主吉田兼久らも各地で討死、香川氏の諸城は次々と落ちていった。しかし信景は十河氏からの再三の抗戦にも応じることはなかった。そして翌年、信景の弟、香川景全の家老香川備前の元へ大西頼包、先日土佐方へ降った斉藤師郷から土佐国分寺の僧が使いとして送られてきた。その内容は早々に味方になれば本領は安堵されるというものであり、備前守はその由を景全に、さらに景全が信景へと伝えた。信景ももはやなす術もなく、それを容れ、土佐方への恭順の意を僧へ伝えると僧は元親にその旨を伝えた。以後、不戦の約定を交わし、香川元春、河田七郎兵衛、河田弥太郎、三野栄久の四人の家老を二人ずつ交代で土佐へと遣わし質とする代わりに元親の次男親和を香川家に入れることで和睦が成立。ここに香川家は長宗我部家の軍門に降ることとなった。 土佐方と和睦した後、信景は岡豊へと参り元親に謁見した。長宗我部家臣中島重勝が奏者となり、進物に「長光の太刀」、「二字国俊の刀」、真綿五百把、紬百反、紅花五斤、馬一匹、その他子息簾中に至るまで各々に贈り物をし、元親も大いに喜び厚く饗応して、能乱舞などをも催させ五日間の逗留の後に帰国したとある。それからまもなくして、元親は次子親和を多度津へ送ってきた。名を香川家の通名である五郎次郎と改め、信景の娘を嫁にして世継ぎとなった。以後親和は讃岐方面軍の大将として転戦し、中富川の合戦の際には西讃岐勢五千を率いて参陣、十河城を攻撃した(第一次十河城の戦い)。また、信景自身は外交によって香西氏、羽床氏らへ土佐方への恭順を説き、降伏させている。また、引田の戦いでは秀吉の命によって十河氏救援のために渡海してきた仙石秀久の軍を大西氏と共に破った。そして天正13年(1585年)、長宗我部元親は四国のほぼ全域を支配下に収めた。 しかし平安も束の間、信長死後に勢力を拡大した羽柴秀吉が四国侵攻の意志を表明。まもなく長宗我部家と羽柴家の交渉が決裂。6月、秀吉の四国征伐が開始されることとなる。羽柴秀長を総大将に、毛利氏、宇喜多氏も参戦し、総勢11万の大軍で四国へ侵攻。対する四国勢は4万、元親は阿波白地城に本陣を構え四国各地の海岸線の防備を固めて迎え撃つこととなった。讃岐では国吉甚左衛門に西長尾城を守らせ、西讃の陣代として入交蔵人を新居城に置き、長宗我部親吉を植田城に置いて当国の諸将を統領した。しかし多勢に無勢、次々に諸城が落ちていく中、元親は谷忠澄の言を入れ羽柴家の軍門に降った。讃岐には仙石秀久が入り、聖通寺に拠点を置いた。このときの仕置によって、香川家は取り潰しとなり、ここに200余年続いた讃岐香川氏は滅亡することとなった。 その後、数名の家臣と共に土佐へ逃れ、元親から幡多郡山田郷一帯に所領を受けて居住した。最期はそのまま土佐で死去した説、戸次川合戦で戦死した説、肥後の地で暮らしそこで死去した説など諸説あり、その最期は不明である。讃岐弥谷寺に香川氏累代の墓があるが、そこに信景は眠っていない。なお、上記生没年は香川氏の末と伝わる家の系図から引用したものであるが、生没年不詳説もある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E4%B9%8B%E6%99%AF