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三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?) 三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。 しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。 しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。 元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。 しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。 織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。 天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。 天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
三好義繼 Miyoshi Yoshitsugu(1549年-1573年) 十河一存的長子、養父為三好長慶、正室為足利義晴之女;幼名熊王丸,初名十河重存、繼承三好家,名為三好義繼。 義繼出繼三好本家的過程說法不一。一般認為是三好義興死後長慶無嗣才將義繼順理成章的過繼過來,這是順理成章的。不過據『十河家傳』所言,早在十河一存在世時,就已將義繼出繼給其兄三好長慶為養子,而以二哥三好義賢的次子為十河家的養子,這樣三兄弟之間的聯系便得以加深,而後一存又以義賢在阿波的強大軍力為後盾逐步控制贊岐全境。可以肯定的是一存在永祿四年(1561年)四月病逝之後,是十河存保進入十河城繼承十河家,並在其父三好義賢的授意下將居城遷到東贊岐的虎丸城,由此可見義繼出繼三好本家的時間肯定是在一存死之前,所以才無法繼承十河家家督。另外,義繼之所以能出繼到三好家,很大程度上是因為其母是公卿九條稙通的獨生女,而義繼由此便是五攝家的外孫,這種關系自然有助於長慶加強與公卿間的聯系,而對於正試圖掌控畿內的長慶來說,這是非常重要的,結合以上種種原因,義繼在十河一存病死前就過繼到三好本家,也是不難理解的。如果說是長慶主動要義繼過繼到本家,以加強一門眾力量也有很大的可能。 不過過繼與繼承根本就是兩回事,長慶已經有一個非常優秀的嫡子三好義興,讓義繼過繼過來,也只不過是希望他以後在義興身邊發揮義賢之於長慶的那種作用吧。義興在跟隨長慶奮戰畿內時已表現出優秀的才能,永祿四年(1561年)左右長慶已經開始在做著將家督之位讓給義興的准備。從永祿四年(1561年)到永祿六年(1563年)這一段時間三好家的政令,大都是由三好義興發布,松永久秀協助執行,長慶處於半退隱狀態。然而在永祿六年(1563年)八月22日,風華正茂的三好義興卻突然發急病死掉。關於他的死有人一般說是瘟疫,但更多的說法認為是被松永久秀毒死的,因為在這兩年多的執政過程中,義興的英明果敢與久秀的權力欲望不可避免的產生沖突。此事使長慶遭到最撤底的打擊以至幾近崩潰,而後便長期臥床不起。另一方面三好本家的繼承人之位便落到義繼身上,永祿七年(1564)六月22日,義繼被准許以家督繼承人的禮儀上洛,同行的有三好長逸、松永久通等家臣及廣橋大納言國光等公卿,隨行人數達到四千人。六月二十三日,義繼進見將軍足利義輝,得到繼承三好氏家督的正式許可。七月四日,三好長慶病逝,義繼正式成為三好家督,同時由重存改名為三好義繼。 永祿八年(1565)四五月間,三好義繼在松永久秀的陪同下率三好大軍再度上洛。五月19日上午,松永久秀與三好三人眾突然攻入二條城,殺害將軍足利義輝,顯然是得到義繼的許可。而後三好軍在京城橫行到七月份,才在七月五日歸國。從義繼繼任到此期間,松永一直擔任輔佐一職,操縱義繼的行事。十月份,三好三人眾與松永久秀在河內國發生沖突,十一月十六日,乘松永久秀在大和攻擊筒井順慶之機,三好三人眾從松永派的奉行人金山長信手中綁架義繼,並殺死長信,隨後脅持義繼對三好家內外發布義繼與久秀斷絕君臣關系的公告。從此三好家下轄畿內各國國人眾分為三人眾與松永兩派,開始長期混戰。在這一段時期義繼一直居於河內高屋城,處在三好三人眾的監視之下。 永祿十年(1567年)初,三好三人眾正忙於擁立平島公方足利義榮為將軍,乘此空隙,對三人眾一直不滿的義繼在奉行人也是叫金山某(可能與被殺死的金山長信有關)的安排下逃出高屋城,移據到界附近的材木町,受到池田氏保護,二月26日,與松永久秀達成聯合,而後便與久秀一起逃入大和,開始與三好三人眾的長期作戰。由於義繼在兩個勢力間的游移,河內、攝津的大小國人眾也開始反覆不定,而這也使得三好三人眾的立場變得可笑起來。而義繼之所以選擇松永,恐怕與松永毒殺義興的傳聞有很大關系,由於義興之死,義繼才得以繼承三好家,因此義繼對松永久秀不可能不報著一種感恩的心理。加上最初三人眾是以挾持控制義繼,足以使義興產生強烈的反感,在年輕人簡單的思路和個人好惡感影響下,義繼很自然的就投向松永久秀。然而他卻沒看到久秀笑臉下的反覆無常。 永祿十一年(1568年),信長擁代足利義昭入京,攻擊勝龍寺城兵力達到驚人的五萬之巨。受到強大威攝的義繼與久秀一起加入到支持義昭幕府的隊伍中,因為雙方有著共同的敵人,三好三人眾。第二年(1568年)一月,三好三人眾突襲足利義昭的住所,隨後義繼也率軍參加對足利義昭的救援,永祿十二年(1569年)三月五日,為表示感謝,足利義昭與三義繼一起放鷹,這也是當時莫大的榮耀。三月十六日,義繼與松永久秀一起參見信長,得到河內半國安堵的許諾。然而隨著信長對原三好領的全面侵入,義繼與久秀最終認識到最大的危脅就來自織田方,元龍二年(1571年)二月,松永久秀反叛信長,與三好三人眾達成和解,在此事表面上看義繼是保持中立的,實質上他卻一直與松永聯合行動。 元龜二年(1571年)年底到第二年年初這段時間,義繼與松永久秀一起致力於恢復畿內勢力,攻入之前倒向織田方的國人眾。元龜三年(1572年)四月,義繼與久秀從河內和攝津進攻敵對的細川昭元領地,八月份包圍昭元的居城中島城,年底,三好三人眾也加入對中島城的攻擊。第二年二月27日,中島城陷落,細川昭元逃往界。這一段時期正是武田信玄上洛的取得巨大進展,將軍足利義昭由此公然起兵反抗信長,並得到三好義繼的支持,究其原因,義繼當年救援義昭已使兩人結下深厚情宜,而義昭此後也用盡辦法籠絡義繼,甚至不惜將自己的妹妹嫁給義繼作後妻,一向以個人好惡決定立場的義繼自然而然的就站在義昭一方。此時三好三人眾也出現在支持義昭的隊伍中,可以說這是三好家內近十年來頭一次真正的聯合對敵,也許義繼已把這次支持義昭看成三好家再度興盛的契機吧。然而天有不測風雲,四月信玄於上洛途中去世,同月信長包圍義昭的二條城,義昭顯得不堪一擊,在交出人質後與信長講和,七月,義昭在宇治再次兵敗,二十一日,逃入義繼的居城若江城,八月二日信長軍攻擊澱城,三好三人眾中的岩成友通戰死。 十一月五日,足利義昭離開若江城逃往紀伊,十六日佐久間信盛與明智光秀攻擊若江,遭到義繼的頑強抵抗。在此關頭若江的三家老多羅尾右近、池田丹後和野間左吉聯手殺死被義繼委以處理庶政的金山駿河守,而後又打開城門引入佐久間信盛軍,其余各部織田軍紛紛殺入城內,最終包圍天守閣,在此情況之下三好義繼已經完全絕望,留下「憂世もこれまで」(對世間的憂慮到此為止)的辭世句,義無反顧的親手殺死妻妾子女,在最後時刻他終於展現出鬼十河之子的武勇,持槍殺入湧來的織田軍,親手刺死多名敵軍,最後終因體力不繼而以十文字槍切腹,結束游移反覆的短暫一生,年僅二十五歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/1128716.htm
下間頼竜 Shimotsuma Rairyu(1552年-1609年) 本願寺の僧侶。父は下間真頼、妻は池田恒興の養女で織田信時の娘。子に頼広(後の播磨播磨新宮藩主・池田重利)、宮城政次、池田輝政養女(建部光重室)、徳永昌重室、大久保長安室。幼名は松菊、通称は按察使。法名は了明。 本願寺の僧侶の中では、軍事よりも政治や文化方面に通じており、堺の商人達とも茶会などから交流があったといわれている。石山合戦においては元亀3年(1572年)に同族の下間頼資・頼純父子と共に織田信長側の細川昭元を攻めて戦功をあげている。 天正8年(1580年)に本願寺法主・顕如が信長に降伏した時、同族の下間頼廉・下間仲孝と共に和睦条約に連署した。だが、翌年に顕如の長男・教如が石山本願寺への再籠城の企てをした時、教如の側近だった頼龍は教如に従ったため顕如から叱責を受けている。文禄元年(1592年)に顕如が没し、法主となった教如に赦免され、慶長7年(1602年)の本願寺の東西分裂にも教如に従い、東本願寺の坊官となった。慶長14年(1609年)、58歳で死去。 子の頼広も教如に従ったが、やがて出奔して池田輝政に仕え、池田重利と改名して大名となった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E9%A0%BC%E9%BE%8D
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
細川昭元 Hosokawa Akimoto(1548年-1592年) 幼少期の天文21年(1552年)、父が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる。父が再び長慶と敵対すると管領細川氏綱と共に山城淀城に軟禁され、永禄元年(1558年)に11歳で長慶のもとで元服した。 永禄4年(1561年)、実弟の細川晴之が六角・畠山軍に擁立され、将軍足利義輝の命を受け近江に於いて反三好の兵を挙げる(将軍地蔵山の戦い)。しかしこの戦いにて戦死。 永禄5年(1562年)、父が長慶と和睦すると父子は久々の対面を果たしている(久米田の戦い)。 永禄6年(1563年)3月に摂津富田普門寺で病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、管領であった氏綱の没後も管領職に任命されることはなかった。ただし、永禄8年(1565年)の永禄の変の後、足利義栄を室町幕府14代将軍に擁立する三好三人衆により名目上の管領として処遇を受けた。 永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると三人衆の筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城に籠城するも、三人衆派の他の城が織田軍に次々と落とされると9月30日に城を捨てて長逸と共に阿波へ逃亡、義栄の急死もあり義昭が15代征夷大将軍に任じられると敵対行動を続けた。 元亀元年(1570年)、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆に加勢して当初は織田軍と対峙した。 同年に三人衆と信長が和睦すると、翌元亀2年(1571年)12月17日に上洛、やがて義昭に対し臣下の礼をとり、京兆家歴代の慣例として義昭より一字拝領を受けて昭元(あきもと)と名乗った。 義昭より重用され、三好勢力が後退した後の名目上の摂津の旗頭とされた。名門の出身であった昭元はしばしば外交官としての役割を果たしている。四職家の当主でもある丹後の一色義道が義昭に臣従し、誼を求めて信長との面会を求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともに堺を見物した。 信長の勢力下では、元亀3年(1572年)に摂津で本願寺坊官の下間頼龍・下間頼純と交戦して敗北したり、翌元亀4年(天正元年、1573年)2月17日に反信長派の三好義継・松永久秀らに居城の摂津堀城を落とされるなど武功には恵まれなかったが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、信長の傀儡として後年さらに最大限に利用されることとなる。 7月に義昭が追放された時昭元は京都に留まり、義昭が去った後の槇島城(京都府宇治市)を任された。槇島城は山城の守護所だったので、信長は昭元を山城守護に任じることにより山城における将軍権力を否定したともいわれている。管領家当主である昭元の存在は、義昭が去った後の織田政権にとり、重要な存在となった。同族の細川藤賢も近江坂本城を任されている。 天正3年(1575年)には信長の推挙により、正式に右京大夫に任じられる。このことにより京兆家当主として朝廷からも認められた。 天正5年(1577年)には信長の妹お犬を娶り、信長からの偏諱を受けて細川信元(ほそかわのぶもと)、さらに信良(のぶよし)と名を改めた。お犬の方にとっては2度目の結婚であり、信良よりも年長であった。以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、反対に信長は「京兆家当主の義兄」として立場を手に入れることとなる。信良はさらに丹波の桑田郡・船井郡の支配を許され、名目上丹波の旗頭の地位を委ねられた。しかし丹波支配の実権は、しだいに信長の家臣明智光秀に移っていった。 天正10年(1582年)の本能寺の変の直後、正室のお犬の方とは死別した。変後から天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国攻めまでの間にかけて、本来は細川氏の家臣の家系であった長宗我部氏と阿波において連絡を取りあい、秀吉に抵抗した記録が残されている。 しかし、やがて秀吉に属し、名を再び元の昭元に戻した。関白となった秀吉から貴人の1人として遇され、斯波義銀や山名豊国らと共に御伽衆に加えられた。 ただし、本願寺法主顕如の元へ身を寄せていたともいわれ、天正17年(1589年)3月9日に京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が本願寺寺内町に逃げ込んだ事件で、斯波義銀・尾藤知宣と共に逮捕、後に釈放されたとされる。 晩年は不詳の部分も多いが、天正20年(1592年)に病没したと伝わる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E8%89%AF
足利義昭 Ashikaga Yoshiaki(1537年-1597年) 足利義晴的次子、母為近衛尚通之女.慶壽院、側室為さこの方(宇野氏)、小宰相局(大河內氏);法號覺慶,還俗後名為義秋,後改名為義昭、戒名靈陽院昌山道休。 將軍之路 出生後,被外祖父近衛尚通收為猶子;而兄長足利義輝早已被立為嗣子,根據當時足利將軍家的慣例,未能獲得嗣子地位的將軍之子都要出家,因此被送入佛門,進入興福寺的一乘院,法名覺慶。 義昭在興福寺擔任權少僧都的高級官職,本來他一生應該是在擔任高級僧官中度過的。但在永祿八年(1565年)發生永祿之變,第13代將軍足利義輝連同其母親慶壽院一起,被松永久秀、三好三人眾弒殺;擔任鹿苑院院主的弟弟周暠也被久秀誘殺。由於害怕殺害義昭會引發興福寺僧眾的敵對情緒,松永久秀沒有殺害義昭,而是將其暫時囚禁在興福寺。但不久忠於足利義輝的一色藤長、和田惟政、仁木義政、三淵藤英、細川藤孝,以及大覺寺門跡義俊(近衛尚通之子)等幫助義昭逃出囚牢。 在此期間的文書中,義昭被稱作「將軍家的當主」、「矢島的武家御所」等。4月21日被敘為從五位下左馬頭的官位。經過奈良、木津川逃到伊賀國後(伊賀國的守護是將軍的近臣仁木義政,該國國人服部氏後來追隨義昭),通過近江國六角義賢的許可後暫時居住在甲賀郡的和田城(和田惟政的居城,位於伊賀和近江交界之處)。 義昭試圖再興正統的足利將軍家的威權,永祿九年(1566年)2月17日,還俗,改名為足利義秋。和田惟政(甲賀住人)和仁木義政(伊賀住人)的斡旋下,六角義賢、義治父子同意讓義昭以野洲郡矢島村(今守山市矢島町)為住所。 居住在矢島御所的義昭,積極同管領畠山高政、關東管領上杉輝虎、能登守護畠山義綱(居住在近江滋賀郡)取得聯絡,希望得到支持。河內國的畠山高政積極支持義昭,其弟弟秋高野表示支持。得知此事後,三好三人眾率3000騎襲擊矢島御所;大草氏等奉公眾(將軍親衛隊)浴血奮戰擊退進攻。但義昭發現自己視為心腹的南近江領主六角義治竟然暗中與三好三人眾勾結,義昭只得在8月前往投奔武田義統,前往若狹國。但當時若狹武田氏正處於家督爭奪和重臣謀反的內亂中,無法支援義昭上洛;武田義統僅派遣弟弟武田信景前往追隨義昭。義昭只得前往越前國,請求朝倉義景(仁木義政的親族)出兵上洛。義昭上奏朝廷,將義景的母親封為從二位官位。但義景只有對足利將軍家的連枝鞍谷公方足利嗣知(足利義嗣的子孫)擁上將軍之位有興趣,對還俗的義昭一點興趣也沒有。義昭長期滯留越前,上野清延、大館晴忠等幕府重臣紛紛前往越前參見將軍。 永祿十一年(1568年)4月15日,義昭在越前舉行元服禮,由朝倉義景擔任加冠役。同時由於「秋」字不吉利,改名義昭。在朝倉家重臣明智光秀的介紹下,前往尾張國,尋求管領斯波氏的有力家臣織田信長的幫助。 再興幕府 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁護義昭上洛,途中又受到美濃齋藤氏、北近江淺井氏、南近江六角氏等勢力的支持,在織田信長、淺井長政等警護下進軍京都。中途六角氏由於有力支族箕作氏的叛亂而撤退,在父親足利義晴所建的桑實寺駐紮,順利到達京都。三好三人眾退出京都。10月18日朝廷封義昭為征夷大將軍,同時敘從四位下參議兼左近衛權中將的官位。 就任將軍的義昭下令將對暗殺兄長足利義輝持縱容態度、慫恿天皇封足利義榮為將軍的近衛前久流放,並讓二條晴良復任關白之職。義昭又將自己的偏諱授予管領細川昭元、畠山昭高,以及關白家的二條昭實,試圖鞏固自己的統治,掌握兄長義輝所擁有的山城國御料所。同時在山城國設置守護,令三淵藤英據守伏見城。在政務上,義昭同兄長義輝一樣,任命攝津晴門為政所執事,任命飯尾昭連、松田藤弘等為奉公眾,再興幕府。之前因反叛義輝而被滅的伊勢氏,其末裔伊勢貞興被義昭允許再任官職。 當時義昭暫時以山城國本國寺(位於今京都府京都市山科區)為居住地。永祿十二年(1569年)正月,織田信長率部返回美濃、尾張時,三好三人眾趁機反撲,襲擊本國寺(本國寺之變)。奉公眾和明智光秀所率的織田軍奮勇抵抗,北近江的淺井長政以及攝津國的池田勝正、和田惟政等也奮戰,擊退三好三人眾的進攻。 這次事件暴露出本國寺守備不足的現狀,因此義昭請求織田信長重建兄長足利義輝建造的烏丸中御門第(舊二條城),以之為將軍邸。重修的烏丸中御門第新挖兩道護城河,並翻修加高石垣,增強防禦機能。只有世代擔任室町幕府奉公眾的武士和高級守護大名才能進入拜見。 與織田信長發生對立 義昭依據當初的許諾,就任將軍之後,在10月24日給予織田信長「御父織田彈正忠(信長)殿」的尊稱,以尋求信長對幕府的支持。 織田信長將義昭扶上將軍之位後,其對尾張、美濃的領有權得到認可,並被封為和泉守護,得到昔日三好氏的領地和泉國(繁榮的界港在該國轄下)。同時義昭對其他武將論功行賞,池田勝正被任命為攝津守護,畠山高政、三好義繼各被封為河內半國守護。織田信長被任命為管領代,其地位與管領相當;此後義昭又向朝廷推薦信長擔任副將軍,但被信長推辭,改封彈正忠。 然而義昭一心想要復興室町幕府,而織田信長則有用武力統一天下的野心,因此兩者最終關係逐漸惡化。織田信長為限制將軍的權力,於永祿十二年(1569年)正月頒布《殿中御掟》9條,並脅迫義昭承認。這使幕府將軍的行動受到很大的制約。翌年正月又追加5條,信長更進一步限制幕府的權力。元龜元年(1570年)4月,織田信長討伐越前大名朝倉義景,但就在此時織田氏的同盟淺井長政與信長反目,導致信長大敗。早已對信長的專橫十分不滿的義昭趁機與信長決裂,元龜二年(1571年)左右向上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、本願寺顯如、武田信玄、六角義賢等大名發出御內書,下令討伐信長。這些大名加上與信長敵對的朝倉義景、淺井長政、松永久秀、三好義繼以及三好三人眾、延曆寺僧兵等勢力,形成信長包圍網。 元龜三年(1572年)10月,信長向義昭送達17條意見狀,批評義昭的一些舉措。此時東方的武田信玄率兵進軍京都,12月22日在三方原之戰中擊破織田信長的盟友德川家康,信長陷入窘境。義昭趁機任命寵臣山岡景友(六角義賢的重臣以及幕府的奉公眾)為山城半國守護。翌年正月,信長欲遣子入質於義昭以求和解,但遭義昭的拒絕。義昭在近江的今堅田城和石山城為幕府軍的據點,舉起反對信長的旗幟,但數日後兩城皆被攻陷。同時東方戰線的武田信玄病重,武田軍於4月開始撤回本國,12日信玄逝世。 織田信長攻入京都,在知恩院布開陣勢。幕臣細川藤孝、荒木村重等人見大勢已去,投降信長。但是不知道武田信玄已經去世的義昭據守自己的居城烏丸中御門第繼續抵抗。信長再次提出和解,但義昭認為信長沒有信用,斷然拒絕。織田信長威脅幕臣以及義昭的支持者,聲稱若不投降,自己將會攻打上京並將此整個地區焚為焦土。同時包圍義昭的居城烏丸中御門第。另一方面,織田信長尋求朝廷的支持,4月5日,在正親町天皇敕命下,雙方講和。 但是義昭於7月3日宣布背棄和約,在三淵藤英、伊勢貞興以及公家奉公眾的簇擁下逃往南山城的要害槙島城(山城國的守護所)舉兵。槙島城建在宇治川和巨椋池水系交叉處的島上,是義昭近臣真木島昭光的居城,為兵家必爭之地。烏丸中御門第的守軍於3日投降信長,信長率7萬大軍包圍槙島城。7月18日織田軍開始攻城,槙島城的建築被破壞,義昭以自己的兒子義尋為人質,向織田信長投降。 被逐出京都 織田信長將義昭逐出京都,並將足利將軍家在山城、丹波、近江、若狹等地的御料所據為己有。織田信長以天下人(掌握日本實權的人)自居,挾持幕府將軍和天皇支配京都周圍的地區,並充當各地大名紛爭的調停人。放逐將軍後,織田信長保持天下人的地位,現在日本的歷史教科書一般認為此時室町幕府滅亡。但事實上根據《公卿補任》的記載,此後的義昭依然長期保持著征夷大將軍的職位。天正元年(1573年)8月,織田信長滅亡朝倉氏,9月滅亡淺井氏,信長包圍網完全瓦解。織田信長於次年任命塙直政為山城、大和守護,鞏固織田氏在畿內的支配權。 義昭雖被放逐後,退往枇杷庄(今京都府城陽市),在本願寺顯如的介紹下前往河內國三好義繼的處點若江城,以羽柴秀吉擔任護衛。義昭仍開設幕政,以伊勢氏、高氏、一色氏、上野氏、細川氏、大館氏、飯尾氏、松田氏、大草氏等勢力為幕府的中樞,組成奉公眾和奉行眾,並授予近臣和大名室町幕府中的官職。除近畿周邊的信長勢力圈以外(北陸地方、中國地方、九州地方),義昭依然保持著被流放以前的權威,甚至對京都五山的住持還有任命權。織田信長與三好義繼的關係惡化後,義昭於11月5日移駕到和泉國的界。義昭曾提出要返回京都,但織田信長提出人質的要求,最終交涉決裂。 天正二年(1574年)移駕紀伊國興國寺,又移駕泊城。當時紀伊國是管領畠山氏的轄境,值得一提的是畠山高政的重臣湯川直春的勢力在當時很強大,直春的父親湯川直光擔任河內守護代一職。 天正四年(1576年),義昭移駕到毛利輝元轄下備後國的鞆。鞆是當年足利尊氏接受光嚴上皇追討新田義貞院宣的地方,對於足利將軍家可謂是有淵源的地方。第十代將軍足利義材在此處受到大內氏的支持,從而回到京都。因此這被足利將軍家當作吉祥之地。此後義昭在此地開設流亡幕府,史稱「鞆幕府」。義昭在鞆以備中國的御料所所進獻的年貢,以及足利將軍家任命京都五山住持所獲得的禮錢維持生活,同時收到宗氏、島津氏通過明日貿易獲得的財政收入,近畿、東海以外支持足利將軍家的武家很多。鑒於此,義昭向全國大名下達討伐織田信長的御內書,天正4年甲斐的武田氏、相模的北條氏、越後的上杉氏結為同盟,但收效甚微。 信長的死以及回到京都 天正五年(1577年)上杉謙信在手取川之戰擊破織田軍,但上杉謙信在天正六年(1578年)死去。天正八年(1580年)石山本願寺投降信長,織田氏勢力達到鼎盛。然而天正十年(1582年)明智光秀發動本能寺之變,織田信長及其子信忠皆死去。此時義昭身在備後國的鞆。而明智光秀麾下的家臣,如伊勢貞興、蜷川貞周等,多為昔日室町幕府的幕臣。 義昭趁此好機欲返回京都,尋求毛利輝元的支持;另一方面尋求羽柴秀吉和柴田勝家的支持。毛利氏中親秀吉派的小早川隆景等極力反對送義昭到京都,認為這樣會使羽柴氏和毛利氏之間關係冷淡。但天正十一年(1583年)毛利輝元、柴田勝家、德川家康著手籌備支持義昭上洛。同年,毛利輝元臣服於羽柴秀吉。天正十四年(1586年)羽柴秀吉成為關白太政大臣。此後進入「關白秀吉、將軍義昭」並立的2年時期。在此兩年裡,豐臣秀吉逐漸統一天下。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉在九州征伐期間途經備後國沼隈郡的津之郡村,在田邊寺訪問義昭,二人交換太刀。次年薩摩國島津氏歸順秀吉,義昭回到京都,天正十六年(1588年)2月9日與關白豐臣秀吉一起參見正親町天皇,辭去征夷大將軍之職並出家,法號昌山。朝廷給予其准三後的待遇。 晚年 豐臣秀吉將山城國的槙島城給予他當作居城,並給予義昭一萬石的領地。由於義昭是前將軍的緣故,豐臣秀吉才給予他這樣高的待遇。在豐臣秀吉侵略朝鮮之際,義昭率兵200人來到肥前名護屋,參加戰鬥。 晚年與斯波義銀、山名豐國等,成為太閣豐臣秀吉御伽眾的成員,受到太閣的親近。慶長二年(1597年)在大阪死去,年六十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

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