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早川長政 Hayakawa Nagamasa(生年不詳-没年不詳) 武田信光の子・早川八郎信平を祖とする早川家に生まれる。羽柴秀吉の馬廻衆を務め、小牧の戦い、四国攻めで活躍。 九州征伐では生駒親正とともに箱崎に営舎を構築した。秋月種実の降伏後、益富城の城番を務めた。 天正14年(1586年)、京都方広寺大仏造営では作事奉行を、聚楽第行幸では関白の行列の前駆左の列に供奉をそれぞれ務めた。 天正18年(1590年)の小田原征伐では200人の兵を率いて参陣し、7月17日には片桐且元と共に鎌倉・武蔵小机の地下人に鶴岡八幡宮の修復のために茅葺き資材と人足の動員を命じた。23日には鎌倉の寺社領の安堵について徳川家康家臣の高力清長・成瀬国次に指示し、26日には清長から報告を受けている。 天正19年(1591年)、増田長盛らとともに近江を検地した。 文禄の役では高麗舟奉行、後に漢城へ駐屯した。慶長の役では目付として従軍した。 文禄2年(1593年)、豊後国は大友吉統の改易後、太閤検地により41万石と算定後太閤蔵入地に組み込まれたが、閏9月に長政は大分郡内の蔵入地代官として豊後に赴任。翌 文禄3年(1594)に、大分郡内で1万3000石の大名として取り立てられ、別に4万7000石の太閤蔵入地を預かった。当初は家島に仮館を構え、その後大友館を修理して移り住んだといわれる。伏見城の工事にも参加した。 慶長元年(1596年)閏7月12日、慶長豊後地震が発生し、別府湾の沖ノ浜(瓜生島)が津波の後、水没するなど甚大な震災を経験した。 翌慶長2年(1597年)に、蔚山城の戦いでの籠城時の援軍としての働きに落ち度があったとして改易され、豊後国木付に謹慎処分となる。後任の府内領主には石田三成の妹婿の福原長堯が入って、現在の府内城を築城した。しかし、秀吉亡き後の慶長4年(1599)閏3月、加藤清正、黒田長政ら七将から三成が襲撃を受けたことに端を発する佐和山城への失脚後に、五大老の四人(主に徳川家康)によって、長堯が以前に慶長の役で軍監として不公平な報告を行ったことや、府内城築城のために慶長豊後地震後の領民に過大な賦役を課したと裁定されて、長堯の府内領は没収された。このとき長政は朝鮮での働きに落ち度はなかったと判断され、慶長4年(1599年)閏3月19日、に府内城主に2万石で再び返り咲いた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に所属。7月中旬に大坂淡路町橋を守備、7月下旬からの田辺城の戦いに参加し、日田領主の毛利高政と安久口に布陣した。国許の豊後では、府内留守城代の早川内右衛門が東軍の細川忠興に降伏し開城した。 関ヶ原の戦い後に改易された長政は浪人生活を経て、大坂冬の陣に豊臣方として大坂城に入城する。大坂夏の陣では真田信繁の寄騎として戦い、最終決戦の5月7日は天王寺口に布陣した。大坂落城後の消息は不明。子孫は所縁のあった仙台藩に仕えたと伝えられている。子の九右衛門は府内城の降伏が縁で細川忠興の家臣となった。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%95%B7%E6%94%BF
木下延俊 Kinoshita Nobutoshi(1577年-1642年) 父:木下家定、母:雲照院(杉原家次の娘)、正室:加賀(細川藤孝の娘)、側室:雲奥院(福富内記の娘)、側室:恵昌院;幼名長助,初名勝忠,改名延俊,通称右衛門大夫,戒名瑞岩院殿心甫宗得大居士。 父家定は豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の兄で、杉原定利の子。秀吉に召し抱えられて若狭国小浜領主となり、後には備中足守藩主になった。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはない。母は杉原家次の娘、雲照院(おあこ)で、同母兄弟に木下利房、小早川秀秋がいる。歌人木下長嘯子として知られる勝俊ほかの兄弟は、異母兄弟。正室は細川藤孝(幽斎)の娘・加賀。延俊は高台院が最も寵愛した甥であった。 父や兄弟らと同じく秀吉に仕え、天正16年(1588年)11月、12歳の時に摂津国駒林(駒ヶ林)で500石の知行を与えられた。長兄二人は若狭国の領主であったため、父が大坂城の留守居に入る場合には、家定が城主を務める姫路城の城代を任されていた。 文禄元年(1592年)、従五位下右衛門大夫に叙任された。文禄3年(1594年)、伏見城の築城普請を分担し、播磨三木郡で2万石を与えられた。 慶長5年(1600年)、石田三成が挙兵した時、延俊は姫路城にあったが、義兄細川忠興の助言で直ちに駿府に家臣を派遣して二心無き旨を徳川家康に誓い、交通の要である姫路城を献じて、当初より東軍に属した。叔父の播磨三木城主杉原長房が田辺城の戦いに参加したことや、兄弟等との混同によって、しばしば西軍であったと誤解した資料があるが、これは間違いである。 また弟秀秋は家臣稲葉正成を介して家康に姫路城に下がって情勢を見極めたい旨を申し出て許されていたので、心ならず伏見城の戦いに参加した後も依然として去就を定めきれずにいた秀秋は姫路城に入ろうと思ったが、延俊はこれを嫌い、一旦西軍に加わった弟との関係を断つとして、小早川勢の受け入れを拒否したという逸話もある。 関ヶ原の戦いの後の10月18日、忠興に従って、幽斎の籠もる田辺城を攻めた報復として、小野木重勝の福知山城を攻め落とした。これらの功により、慶長6年(1601年)、加増されて豊後速見郡3万石に移封され、翌年、ここに日出城を築いて、日出藩初代藩主となった。領国では、慶長12年(1607年)に命名が祖母朝日殿と妻の法名に関連する松屋寺を建造。戦渦で失われた井手八幡宮の再建などを行った。 慶長11年(1606年)、江戸城普請に参加して虎ノ門の石垣工事を指揮。同19年(1614年)の工事にも加わり、合計三度の江戸城普請に自ら参加した。また、この年の冬の大坂の陣にも徳川方として出陣し、同20年(1615年)の夏の陣にも参陣した。 延俊は忠興の三男忠利と親しく、忠利の舅・将軍徳川秀忠の覚えも良くて、元和5年(1619年)の将軍上洛に供奉し、同6年(1620年)の大坂城普請で助役に登用され、寛永3年(1626年)の後水尾天皇の京都二条行幸にも参列した。同9年(1632年)、肥後熊本藩主加藤忠広の改易では、隣藩稲葉一通と共に八代城に在番し、同14年(1637年)には島原の乱にも出兵した。 寛永19年(1642年)正月、江戸にて死去。享年66。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BB%B6%E4%BF%8A
村上景親 Murakami Kagechika(1558年-1610年) 村上武吉的次子,母為村上通康之女,正室為平岡房實之女,側室為文祿慶長之役時捕獲的朝鮮貴族之女。兄為村上元吉,兒子有早逝的八助與村上元信,女為村上元武、宍戶景好的妻子;通稱三郎兵衛尉、源八郎,受小早川隆景偏諱「景」字,名為景親。 天正六年(1578年)參與上月城之戰。之後和哥哥元吉一起行動。文祿元年(1592年)開始的文祿慶長之役中,和哥哥一同跟著吉川慶家渡海到朝鮮。小早川隆景隱居之後,父親和哥哥一同回到毛利家,但年紀尚小的景親則留在小早川家,仕奉隆景的養嗣子小早川秀秋。慶長二年(1597年)小早川隆景去世後回到毛利家,並獲得安藝國竹原的領地。 慶長五年(1600年)和哥哥元吉一同率領水軍攻下蜂須賀氏的阿波國豬山城。之後做為毛利軍的一員參與關原之戰。 戰後毛利家被移封到防長,細川忠興和池田輝政因喜愛景親的武勇都曾招攬景親當家臣,當景親拒絕並和父親一同移住到屋代島,擔任毛利家御船手組的組頭。 慶長十五年(1610年)去世,墓所在山口縣大島郡周防大島町。 村上武吉在景親的初陣時給他一把笛子,這把笛子現在仍做為能島村上氏的家寶在後代中繼承著。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/08/blog-post_54.html 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%99%AF%E8%A6%AA
松井興長 Matsui Okinaga(1582年—1661年) 熊本藩松井氏としての八代城 (松江城)初代城主。松井康之の二男。正室は細川忠興の娘・古保(こほ)。式部少輔・佐渡守。 天正10年(1582年)、細川氏の家臣・松井康之の二男として丹後国久美浜にて誕生。兄・興之が文禄・慶長の役において戦死したため松井氏の世子となった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、細川氏は関ヶ原・丹後田辺城・豊後杵築城と3方面でそれぞれ戦闘したが、興長は主君・忠興に従って会津征伐から関ヶ原の戦いへ赴いた。しかし、岐阜城攻めで負傷したため関ヶ原での本戦には参戦しなかった。戦後、細川忠興は豊前・豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)39万石余りの大名となると、父・康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石という大名格の領地が与えられた。 慶長16年(1611年)に父・康之の隠居に伴い家督を相続。寛永9年(1632年)、細川氏が肥後熊本藩に国替になると、興長には玉名・合志郡の内に3万石が与えられた。 寛永14年(1637年)から起きた島原の乱では、藩主・細川忠利の命により派兵の手配や江戸幕府・他藩との交渉に奔走。一方で原城の戦いでは自ら3,700余りの兵を率いて出陣した。 正保2年(1645年)、熊本八代城にて隠居していた細川忠興(三斎)が死去すると、正保3年(1646年)から興長が八代城を預かることになった。以後、八代城は一国一城令の例外とされて存続し、代々松井家が八代城主を務めた。また、忠興の六男(松井寄之)を養嗣子に迎え、細川別姓である長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。 興長は、細川忠興・忠利・光尚・綱利の4代の主君に仕え、特に晩年には、浪費癖のあった若年藩主・綱利を諫める書状を、松井家存続をかけて提出している。 寛文元年(1661年)、死去。 以後、松井家は細川血族として代々筆頭家老を勤め、明治維新まで続いた。熊本県八代市の八代市立博物館や松井文庫、松井家御茶屋だった松濱軒には、第二次世界大戦の空襲を免れた多くの松井家歴代の史料や美術品が残されている。 忠興の子で細川家の世子であった細川忠隆から、松井興長(旧名は新太郎)あての自筆書状5通が松井文庫に現存している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E8%88%88%E9%95%B7
毛利勝永 Mori Katsunaga(1577年-1615年) 毛利勝信(森吉成)之子、正室為龍造寺政家之女;本姓森,改姓毛利,通稱豐前守,初名吉政,後改名為勝永,號一齋。 與父親勝信一同仕於豐臣秀吉。天正十五年(1587年),父親勝信被賜予豐前國小倉6萬石(一說10萬石),勝永亦被賜予豐前國內1萬石(一說4萬石),此時因為秀吉的命令而改姓中國地方太守的毛利氏。 慶長二年(1597年)向朝鮮出兵時從軍。在慶長之役中擊退進攻蔚山倭城的明.朝鮮連合軍而立下戰功。 慶長五年(1600年)的關原之戰中與父親勝信一同參戰並加入西軍。代替前往領國九州的父親指揮中央的軍勢並在伏見城之戰中獲得極大戰功,得到毛利輝元、宇喜多秀家的感謝狀和3千石加增。不過失去毛利九左衛門(香春岳城城主)和毛利勘左衛門等許多家臣,接著在攻擊安濃津城和關原本戰時與輝元的家臣一同被編入安國寺惠瓊的指揮之下,於是失去軍事編成的力量,家中亦陷入混亂狀態。 在戰後被改易,與父親一同寄身於加藤清正、之後是山內一豐之下。因為與山內家是舊識並且是親交而獲得1千石封地,父子一同受到厚待。特別是勝永的弟弟被賜予山內姓並改名為山內吉近而有厚遇。 慶長十九年(1614年),接受豐臣秀賴的邀請而從土佐逃走並進入大阪城。得到諸將的信賴並被稱為大阪城的五人眾之一。在大阪冬之陣中與真田信繁等人一同提倡積極出擊,但是一直沒被採納,在籠城戰中守備西之丸西的今橋。 慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣中,收容在道明寺之戰中敗退的後藤基次等人的敗兵。在藤井寺佈陣後,與諸將協議下自身擔任殿軍,令真田等軍勢依次退卻,率領鐵砲隊機令全軍無事撤退。 翌日,天王寺口之戰中率領4千兵力,在德川家康本陣的正面.四天王寺南門前佈陣。在戰鬥開始後迅速討取本多忠朝和小笠原秀政等人,接著擊破淺野長重、秋田實季、柛原康勝、安藤直次、六鄉政乘、仙石忠政、諏訪忠恆、松下重綱、酒井家次、本多忠純的部隊,之後突入德川家康的本陣,顯示出自身部隊的大活躍。但是在真田隊壞滅後,戰線亦隨之崩壞,因為從四方受到關東勢的攻擊而決定撤退。勝永在退卻時亦顯示出漂亮的指揮,擊破進行反擊的藤堂高虎隊,防備著井伊直孝和細川忠興等部隊的攻擊而完成往城內撤退。 在最後成為豐臣秀賴的介錯,與兒子毛利勝家一同在蘆田矢倉平靜地自殺。另一個兒子太郎兵衛在之後被江戶幕府處刑。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%8B%9D%E6%B0%B8
池田輝政 Ikeda Terumasa(1565年-1613年) 池田恆興的次子,母親為荒尾善次之女-善應院,幼名古新,初名照政。 池田家是源賴光的五代孫泰政的後裔,此外也有楠木正行後裔的說法,出身地有美濃池田郡的池田莊、尾張春日部郡池田鄉、攝津池田莊等,在輝政祖父恆利的時候正式投向尾張織田家,而池田輝政的父親池田恆興因為母親是織田信長的乳母,是信長的乳兄弟,因而與信長關係親密,長久以來都是擔任他的直屬將領,直到在平定荒木村重叛亂時立下大功,才受封村重的舊領攝津伊丹、尼崎。同時年僅十六歲的輝政也在攻打花隈城以弱冠之年立下戰功,得到信長賜下的感狀。 天正十年(1582年),織田軍大舉攻打武田家,池田輝政被配入信長長子織田信忠麾下自伊那口攻進信濃,本能寺之變後在決定織田家繼承人的清州會議中,因為與秀吉的交情聲援協助支持信長嫡孫三法師接任家主,會後以織田家宿老的身份領美濃大垣城十三萬石,輝政也被任命為池尻城主。天正十二年(1584年),不滿秀吉地位竟在自己之上的織田信雄聯合德川家康與秀吉對抗,兩軍在小牧對峙。之後父親池田恆興在攻擊家康的居城三河岡崎時被德川家康從背後襲擊與姐夫森武藏守、長兄之助一同在長久手討死,輝政僅以身免。 父兄皆亡後,輝政接任家督之職於天正十三年(1585年)繼承父親遺領擔任美濃大垣城主領十三萬石封地,同時參與對佐佐成政之戰,翌年轉封為歧阜城主,天正十五年(1587年)秀吉征伐九州後,賜輝政「羽柴」姓,翌十六年後陽成天皇行幸聚樂第,輝政在秀吉的奏請下拜從四位下侍從,並被賜姓豐臣。之後輝政隨秀吉出戰小田原征伐之戰,轉戰於關東平原,直達東北會津一帶戰功彪炳。戰後全國宣告統一,殺父仇人德川家康也由此時轉封至關東八州,輝政則是得到他的舊領三河寶飯、設樂、八名、渥美四郡共十五萬二千石的封地,任吉田城主,因此他也被時人冠上「吉田侍從」的稱號。後於文祿年間豐臣秀吉侵略朝鮮時,池田輝政未渡海參戰,而是留守吉田城負責東國警衛的職務,也在這段期間擔綱山城伏見城、大和多內城的構築普請事務。 輝政先娶織田信長部將中川清秀的女兒糸子為妻,但是後來離異。文祿三年(1594年),秀吉為了協調輝政與德川家康的關係,主動作媒讓他迎娶家康的親生女兒督姬為繼室,督姬原本是北條氏直的妻子,由於北條家在小田原之戰後滅亡,氏直也在戰後一年便過世,遂再嫁給輝政。成婚後輝政到家康的府第拜見岳父時,提出與斬下父親首級的永井傳八郎見面的要求,本來家康不願答應,但在輝政的百般請求下,家康讓輝政承諾不會殺永井的條件後,才命人把永井傳八郎找來,永井一到輝政便問他一句:「你殺了我父得到多少賞賜?」永井照實說加了五千石,輝政悲泣道:「難道我父的首級只值這些?」聽到女婿這麼說,德川家康連忙承諾日後會在給永井加封,後來果真讓永井成為下總古河城主領七萬兩千石。 慶長三年(1598年),秀吉死後不久,豐臣家分裂成文治武功兩派,池田輝政由於長年與福島正則、加藤清正並肩作戰而相善,然而意圖奪取天下的家康有意無意地無視豐臣秀吉「諸大名不能私婚」的遺命,讓衝突不斷加劇,同時也以武功派支持者的身份暗中主持大局。慶長四年(1599年),前田利家辭世,池田輝政和福島正則、加藤清正、黑田長政、細川忠興、加藤嘉明、池田輝政及淺野幸長等七人於當晚襲擊石田三成的屋邸,石田三成被迫向德川家康尋求保護,也因此被逼隱居佐和山城。 隨後家康對了壓制上杉景勝展開會津征伐,石田三成也趁機發動關原之戰的前奏曲圍攻伏見城,小山軍議上池田輝政和黑田長政、淺野幸長、細川忠興等人附合福島正則之意加入東軍。為了保障東軍將領的城池,池田輝政與福島正則聯手擔任東軍的先鋒東上會師於清州城,池田輝政協同淺野幸長、山內一豐、堀尾忠氏、一柳直盛等率兵 一萬八千經木曾川上游攻打岐阜城。而福島正則與細川忠興、黑田長政則經木曾川下游攻打竹鼻城,隨後兩軍會合一同以優勢軍力攻下西軍方織田秀信的岐阜城,戰後因功獲得播磨五十二萬石領地。 關原之役後,池田輝政遷居至姬路城並於慶長六年(1601年)正式將姬路城擴建成五層六階、地下一階的天守閣襯上修飾的白色漆底,使整座姬路城更加優雅美觀,好似展翼白鷺,從此之後姬路城就得到白鷺城的美名,而且他治國嚴謹,法規明確,再加上是征夷大將軍德川家康的女婿,份屬親族。而且在事實上再輝政之弟池田長吉領有因幡國六萬石,次子忠繼也領有備前岡山二十八萬石、三男忠雄領有淡路洲本六萬三千石,統整算來池田家總共擁有近百萬石的大領地,因此池田輝政也為世人稱道為西國將軍或姬路宰相。 慶長十七年(1612年),池田輝政的幕府賜姓松平,並且得到正四位上參議的官位,但旋即於隔年中風病歿,享年四十八歲,法名國清院泰叟玄高大居士。 歷史上給池田輝政的評語是「少時倜儻,及長雄偉,為人剛直,臨下以寬。」輝政歿後,播磨遺領由長男利隆繼承,後其子光政因繼位時年僅七歲,被轉封至分家池田長吉一脈所領有的因幡國,領三十二萬石,為後來的鳥取藩。輝政次子忠繼後又加增了十萬石,領地多至三十八萬石,但池田忠繼於十七歲時便英年早逝,由三弟忠雄繼承,領三十一萬五千石,即為岡山藩。而長吉之子池田長幸改封至備中松山六萬石,至其子長常時無嗣而絕。明治維新後,鳥取、岡山藩池田家皆被列為侯爵。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/73090002/1
津田秀政 Tsuda Hidemasa(1546年-1635年) 津田秀重の子。幼名は愛増。通称は小平次。諱は正秀とも。号は興庵。妻は滝川一益の養女。 織田氏庶流の津田氏の生まれであり、父の秀重とともに織田信長に仕え、岳父の滝川一益の与力として旗下に加わる。天正2年(1574年)3月、信長の嫡男.信忠の命より、祖父.織田秀敏の跡を継いだ。 天正10年(1582年)2月の甲州征伐にも従軍し、同年3月23日の一益の上野国拝領に伴い松井田城を任され、後閑氏の後閑城を攻め落としている。しかし、同年6月18日、19日の神流川の戦いに一益が敗れるとこれに合流し、伊勢及び尾張に帰還した。 天正11年(1583年)、一益が賤ヶ岳の戦いにより没落すると、浪人した。その後、信長の次男.信雄に仕え、伊勢三重郡高角郷に800貫文を知行した。その後、信雄が没落すると豊臣秀吉に馬廻として仕えた。文禄元年(1592)7月、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている。 慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となった。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。 慶長11年(1606年)、嗣養子.津田正重が死去すると、滝川一益がその子.九天宗瑞を開祖として起こした「暘谷庵」(京都妙心寺)を再興し「暘谷院」として、津田家の菩提寺とした。慶長19年(1614年)大坂の陣に従軍している。元和2年(1616年)に剃髪、京都に隱棲し興庵と号した。寛永12年(1635年)に死去。享年90。法名は長興院殿光岩道景大居士。 この時、前述の暘谷院は、津田秀政の号名にちなんで院号を「長興院」と改めている。長興院は、後に九天宗瑞と慈徳院が織田信忠の菩提所として開創した「大雲院」を併合した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%94%BF
田原親盛 Tawara Chikamori(1567年-1643年) 大友義鎮(宗麟)の三男。母は奈多夫人で、同母兄に大友義統、大友親家(田原氏宗家を継ぐ)がいる。田原氏庶流の武蔵田原家の当主で、田原親盛を称す。通称は民部少輔。子に大友親治。 天正8年(1580年)に洗礼を受けキリシタンとなる、洗礼名はパンタレアン。大友氏の有力家臣で叔父である田原親賢が養子の田原親虎(ちかとら)を廃嫡し武蔵田原家の後継者が不在となると、天正9年(1581年)、親賢の婿養子となり、名を田原親盛と改め、妙見嶽城に入った。 父の宗麟は子の中でも親盛を最も信頼したとされ、島津氏との戦いである豊薩合戦においては、主に妙見嶽城を拠点に、秋月・島津両氏と内通した豊前国人衆の反乱への対処に奔走して豊前方面で活躍、戸次川の戦いでは先陣を務めた。また、豊後府内を脱出した兄・義統やキリスト教宣教師らを妙見嶽城に保護している。 天正20年(1592年)の文禄の役にも参陣したが、兄・義統の敵前逃亡を咎められたため、文禄2年(1593年)に大友氏が改易され、細川忠興に2000石で仕え(後に1000石加増)、名も松野半斎と改めた。 寛永20年(1643年)、死去。墓所は兄・親家と同じ熊本市岫雲院 (春日寺)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%A6%AA%E7%9B%9B
矢島重成 Yajima Shigenari(1570年-1641年) 矢島秀行之子,母為菊亭晴季之女.月祥院;又稱行昌、勘兵衛、左助、石見守,號剛庵。 父親秀行傳聞為將軍足利義昭之子,秀行因繼承近江野江郡矢島鄉的國人眾矢島氏,而改姓矢島。 永祿十一年(1568年),足利義昭受到織田信長擁立為將軍後,父親秀行一直隨仕在旁。直到元龜元年(1570年)九月因為三好家的殘黨引發的「京都亂入事件」秀行為保護義昭而受重傷,在同年12月22日便以27歲之齡英年早逝,留下三歲的女兒矢島八千子和一歲的重成。母親月祥院無奈之下帶著二子回菊亭家,不久依附親戚細川藤孝,重成便和姊姊八千子一同受到細川藤孝的教育而成為擁有高教養之人,並和藤孝之子細川忠興為好友。 之後豐臣秀吉和細川忠興因為擔心柳川藩的立花宗茂雖擁有極高聲望的武名卻和正室立花誾千代之間仍然沒有子嗣,為此在立花宗茂於朝鮮征戰回國後介紹重成之姊八千子為宗茂側室,此時重成因這層關係幸運的入仕立花家並成為家老,更在第二次朝鮮征戰(慶長之役)中擔任立花軍第二備隊出戰。 朝鮮征戰結束回國後,慶長五年(1600年),因豐臣秀吉之死而爆發以石田三成和德川家康為首的西軍、東軍之間的關原合戰;立花宗茂為報答豐臣秀吉之恩加入西軍,卻因為被派往攻略大津城而沒能趕上主戰場,雖然接到西軍戰敗後回到大阪城向毛利輝元提議籠城抗戰,但輝元因為接受家康的勸降而沒能成功,立花軍無奈回柳川領地,隨即遭到由西軍變節至東軍的鍋島直茂率3萬5千兵力侵攻,立花宗茂為此以家老小野鎮幸為總大將率1萬3千於江上八院與之對抗,重成此時作為第三陣為後衛出戰,結果這場血戰最後在小野鎮幸的奮戰和立花成家的奇襲下苦勝,然而黑田如水和加藤清正又率大軍至柳川,並且以宗茂好友的身分勸降,宗茂為領民安全以及對早先提議加入東軍的正室立花誾千代負責而決定開城,最終遭到改易而成為浪人。 立花家臣雖然大部分因為家族生計而無奈改仕加藤家或黑田家,然而家中老臣以由布惟信和十時連貞為首包含重成約20餘人仍然跟隨宗茂,於肥後高瀨接受加藤清正的保護後不久便為復興主家展開流浪,艱苦的生活數年後,終於因為德川秀忠的賞識,立花宗茂回復大名身分於陸奧棚倉,這時重成則致力棚倉的行政。 不久因為大阪冬夏的戰功,立花家完成回歸柳川大名的心願,此時重成和十時連貞成為家中重要的國務行政家老,為當時立花家不可或缺的重要人物。並且宗茂認重成之女為養女,此女之後嫁給今川義元的曾孫,當時為德川旗本將領之一的今川直房。重成之子矢島重知也作為立花家老參與島原之亂等戰事,繼續於柳川立花藩延續家系。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E9%87%8D%E6%88%90
石田三成 Ishida Mitsunari(1560年-1600年) 石田正繼的次子、母為巖田氏・瑞岳院、正室為宇多賴忠之女・皎月院;幼名佐吉、別名三也、豐臣政權五奉行之一。 石田氏為近江國坂田郡石田村當地國人眾,父親正繼作為地侍,與淺井家相同為京極氏的被官。 後世《三獻茶》創作故事中,三成最初是近江國某寺院打雜的僧侶。天正二年(1574年),父兄成爲長濱城城代羽柴秀吉的與力家臣。根據其子記載,天正五年(1577年)首次以小姓身份前往御著城(姬路城)從軍,跟隨秀吉攻略中國地方,參與了備中高松城之戰。 天正十年(1582年)6月,織田信長死於本能寺之變,羽柴秀吉掌握實權,三成作爲秀吉心腹逐漸嶄露頭角。天正十一年(1583年),在山崎之戰中表現活躍。在賤岳之戰擔當先鋒,監視柴田勝家的行動取得功績。天正十二年(1584年)參加了小牧長久手之戰。同年擔任近江國蒲生郡的檢地奉行。 豐臣政權時期 三成在朝鮮之役時寫給豐臣秀吉的一封信,其中對包括小早川秀秋在內的武將在戰場上輕舉妄動予以譴責。 天正十三年(1585年)7月11日,豐臣秀吉就任関白,三成也官拜從五位下治部少輔。同年末,被封為水口城四萬石的城主,但實際上水口城自天正13年7月被封與中村一氏,天正18年(1590年)又轉封增田長盛,文祿四年(1595年)再被長束正家繼承,因此三成並沒有真正領有過該城。 天正十四年(1586年)1月、以幾乎是自己年俸一半(1萬5000石)的代價延請到原筒井順慶的家臣島左近。豐臣秀吉也為之愕然,爲敦促島左近忠於三成,秀吉將自己的菊桐紋外套賜予島左近。同年,三成成功斡旋越後國的上杉景勝上洛臣服秀吉。秀吉任命三成為堺奉行,三成施展行政手腕把堺建設成給養補充基地。 天正十五年(1587年),平定九州之戰中成功地勸降了九州薩摩島津氏。次役水軍是決定勝負的關鍵,三成在後勤方面的出色支持是取得勝利主要原因之一。 九州平定後,被任命為博多奉行主掌九州的戰後重建。天正十六年(1588年)斡旋薩摩國島津義久進京謁見豐臣秀吉。 天正十七年(1589年),擔任美濃國檢地。 天正十八年(1590年)豐臣秀吉討伐關東相模北條氏,三成率領二萬五千大軍圍攻了北條家的武藏國忍城,當時部隊中有佐竹義宣、真田昌幸、大谷吉繼等名將,近年出土的書信顯示當時三成駁斥以水攻攻略忍城(秀吉攻略高松城的方法),但秀吉仍下令引荒川之水展開水攻。後北條氏各地的支城和本城小田原城相繼陷落,忍城的戰鬥一直持續到7月上旬。由於豪雨造成決堤,無功而返。當時留下的遺跡石田堤至今尚存。同年秀吉奧州仕置,三成擔任檢地奉行,功績大幅提升。亦擔任津輕為信與秀吉之間的仲介,而為信對三成心存感激,日後命長子保護三成次子與迎三成三女作為其三子之妻等事作為報恩。 文祿元年(1592年)出征朝鮮之役和增田長盛、大谷吉繼一起駐守漢城擔任日軍縂奉行。文祿二年(1593年),參加了碧蹄館之戰和幸州山城之戰。之後護送明朝的講和使者謝用梓和徐一貫回到肥前名護屋,積極參與同明朝的停戰交涉。三成代豐臣秀吉發布指令,同時推進和談的舉動招致豐臣家中武斷派福島正則等人的仇視,種下關原之戰的敗因。 文祿三年(1594年),被任命為島津氏和佐竹氏的領國奉行,進行檢地。 文祿四年(1595年),奉豐臣秀吉之命,審問豐臣秀次的謀反事件(秀次事件其實是秀吉為將関白及豐臣政權家督職位傳給自己的親生兒子豐臣秀賴而挑起,豐臣秀次最終切腹)。秀次死後,其領地內近江7萬石劃歸三成。同年三成獲得了近江佐和山十九萬石四千石的封地。(世人所說三成手上有兩件至寶,一個是佐和山城,一個就是島左近)。 慶長元年(1596年),接待了明朝講和的使者。同年被任命為京都奉行。奉豐臣秀吉之命鎮壓天主教。三成陽奉陰違盡量放過天主教徒,同時進言秀吉不要妄殺天主教信徒。 慶長二年(1597年),慶長之役中在日本國內擔任後方支援。慶長三年(1598年),豐臣秀吉打算將小早川秀秋的領地筑後國,筑前國下賜三成,被三成婉拒。筑後,筑前被劃為藏入地,三成被任命為名島城代官。原本予定慶長四年(1599年)和福島正則、増田長盛一起再次出征朝鮮。然而隨著慶長三年(1598年)8月秀吉去世計劃取消,代而進行安排遠征軍歸國的工作。 秀吉死後 作為豐臣秀吉一手提拔起來的親信嶄露頭角,在內政和軍需方面發揮了卓越的領導才能,但是由於在戰爭上戰績不高而被同為豐臣家的武鬥派武將所輕視,又因豐臣家內部文治派與武鬥派賞罰問題標準不一,使得兩派之間關係處的不是很好,其中又以三成與福島正則、加藤清正之間關係最為惡劣,所以在秀吉逝世後武鬥派開始加強監視。 豐臣秀吉死後,豐臣家由豐臣秀賴繼承,但是擁有関東250萬石的大老德川家康勢力不斷壯大有取而代之之勢。慶長三年(1598年)8月19日三成組織了一次暗殺家康的行動。家康為奪取覇權,拉攏與三成對立的福島正則,加藤清正,黑田長政等人並私自聯姻。慶長四年(1599年)1月,三成以家康以沒有許可聯姻爲由,在前田利家的支持下向家康興師問罪。家康無奈被迫於2月2日跟三成立下和約。 然而閏3月3日唯一能和德川家康相抗衡的大老前田利家病逝。慶長四年(1599年),在大坂受到加藤清正、福島正則、黑田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(也有可能是蜂須賀家政)、淺野幸長等七將的襲擊,後來受到佐竹義宣的支援才得以脫逃。上述七將圍困住三成躲藏的伏見城,在家康的仲介下,以三成隱退為條件,七將方才退兵。3月10日家康派次子結城秀康伴送三成返回領地佐和山城。這次事件中家康保護了與自己為敵的三成成爲一段佳話,但是這個故事在江戶時期的資料中並無出現,直至明治以後『日本戰史·関原役』才有出現,不得不令人懷疑其是否可信。 前田利家死後,三成蟄居,德川家康處於獨步天下的狀態,同利家、三成定下的合約如同一紙白書,私下通婚和分配領地的行動重新進行。 關原 慶長五年(1600年),三成乘德川家康出兵會津討伐上杉景勝之機,聯合對家康不滿的宇喜多秀家、毛利輝元、小西行長等諸大名結成西軍(反德川軍),並推舉毛利輝元為總大將。高舉反旗與勢力抬頭的德川家康及豐臣武斷派大名等東軍在關原對決。值得一提的是三成力邀好友大谷吉繼助拳,大谷雖然明知和家康正面衝突無異於以卵擊石,但在勸説三成失敗後,明知毫無勝算依然加入西軍,此擧令家康也大跌眼鏡(大谷和家康也有很好的交情)。 7月12日,三成命令兄長石田正澄於近江國愛知川設置哨卡阻止家康討伐會津的殿後部隊鍋島勝茂、前田茂勝和家康的本隊會合,逼迫他們加入西軍。7月13日,三成將東軍大名的妻子和子女作爲人質關押在大坂城內。然而加藤清正的妻子等人逃脫,細川忠興的妻子放火自焚,三成的人質作戰宣告失敗。 7月17日,西軍總大將毛利輝元入大坂城,同日前田玄以、增田長盛與長束正家等三奉行連名列舉了德川家康的13條罪狀,並公布了彈劾狀。7月18日,西軍進攻由家康重臣鳥居元忠把守的伏見城(詳見伏見城之戰)。伏見城十分堅固,守軍負隅頑抗。三成發現守門的是甲賀衆,於是和長束正家將甲賀衆家屬抓為人質相要挾。8月1日,甲賀衆打開城門伏見城於是陷落。8月2日,三成向各全國大名公布了伏見城陷於己手的消息(伏見城是豐臣秀吉的居城,扼守京都南方要衝,豐臣秀吉生前在此發號施令,大名們在此都有自己的宅第,是當時實質上的權力中心,因此公布伏見城被佔領的消息可以極大打擊對手的心理)。 8月,德川家康以超過預想的速度平定了伊勢國轉而西上打亂了三成的部署。14日晚間,三成放棄固守大垣城在美濃阻止家康的計劃擺開在關原野戰的架勢。9月15日,決定天下的關原之戰終於開戰。起先局勢對西軍有利,三成本隊有6900人,多次抵抗住細川忠興、黑田長政、加藤嘉明、田中吉政數倍於己的兵力衝擊。島左近、蒲生賴鄉及前野忠康等人利用高處的有利地形給東軍沉重的打擊。然而西軍普遍士氣低落,隨著時間的推移戰局開始不利,最終由於小早川秀秋和脇坂安治的臨陣倒戈,使得西軍崩潰,三成從戰場往伊吹山方向逃走。 三成起先越過伊吹山東面的相川山到達春日村,然後通過新穗峠繞道姉川,經曲谷,七回峠到草野谷。然後從小谷山谷口沿高時川溯流而上逃到古橋。9月21日,被家康手下的田中吉政捕獲。 9月18日,東軍的攻陷佐和山城,三成的父親正繼等人戰死。 9月22日,三成被押送到大津城在城門口示衆,在此德川家康與之會面。9月27日,被押解至大坂。9月28日同小西行長和安國寺惠瓊三人在大坂與堺示衆。9月29日,押解至京都,由京都所司代奧平信昌看管。 10月1日,三成被處斬六條河原,年四十一歲。首級在三條河原示衆,最後由生前好友春屋宗園、澤庵宗彭領取安葬。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
稲富祐直 Inatomi Sukenao(1552年-1611年) 稲富流砲術の開祖。丹後国弓木城主。 祖父・稲富祐秀から砲術を学び、それを発展させて稲富流砲術を創始したといわれている。合戦の際に具足を2枚重ねて着ていたため二領具足の異名を持つ(長宗我部氏の一領具足とは関係が無い)。 はじめ丹後一色氏に仕え、主家が滅ぶと細川忠興に仕えた。慶長2年(1597年)、慶長の役では蔚山倭城に籠もって活躍したという。同5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、細川氏の大坂屋敷に居て、忠興の妻である細川ガラシャの警護をしていたが、ガラシャが石田三成の人質作戦に巻き込まれて死去すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡したという。そのため戦後に忠興から恨まれて殺されそうになったが、徳川家康にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命された。 その後は、松平忠吉や徳川義直に仕えたという。後に剃髪して一夢、理斎と号した。井伊直政や黒田長政、浅野幸長なども指南を受けた。しかし加藤清正からは売名家として非難されている。 慶長16年(1611年)に死去。子がいなかったために、実姉の子稲富秀明を養嗣子としたが、正保年間に死去したため、秀明の弟秀隆が跡を継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%AF%8C%E7%A5%90%E7%9B%B4
立花宗茂 Tachibana Muneshige(1567年-1643年) 高橋紹運的長子、母為齋藤鎮實之妹.宋雲院、養父為立花道雪、正室為立花道雪之女.立花誾千代(良清院);幼名千熊丸、初名高橋統虎,繼承立花氏,改名為立花宗茂。 永祿十二年(1569年),因其父紹運繼承高橋家,年約3歲的宗茂也因此移住築前寶滿城,往後在山間接受紹運不時的體力鍛煉以及合戰模擬。不過因為紹運長於軍事行動無暇照顧宗茂,便托其兄吉弘鎮信以及家中武譽極高的老將足利彌平次為其教育。當宗茂6歲時,要求必須打敗比自己大四歲的人,打敗後,再打大六歲的,又打敗後,再找大八歲的,直到打敗大15歲的才告一段落,並且能輕易使弓射落10米遠的小鳥;文學方面,要求每看一本書便要去跟明白這本書的人反覆簡述其大綱,之後又進行背誦,直到能用書中的例子說服別人為止,另外讓宗茂接觸外來事物如鐵炮和孫子兵法,也讓宗茂學習自己有興趣的書道,更長於山野中熟習花草名稱用途,在他們的教育下,宗茂八歲便能拉開築前一地所有的弓,辯論和見識也遠超過同齡人。並且由於生長之地近於築前國際良港博多津,在常於商業交易的伯父吉弘鎮信的關系下也認識如島井宗室、神屋宗湛等商道茶人,由此學習茶道以及從中探知日本各大名的情勢。 天正六年(1578年)12月,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,於《寬永諸家系圖傳》、《立花事實記》記述此戰宗茂以12歲之齡初陣。 天正八年(1580年)2月2日,道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士。 天正九年(1581年)龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下位於立花山城西南邊,大友家築前五城之一大鶴宗雲的鷺岳城,而於7月27日進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,宗茂之父高橋紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和立花道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰斗,此時紹運以弓、鐵炮、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右回於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是宗茂普遍被認為的初陣,於當時穿著萌黃色的唐綾縅鎧甲、頭戴銀色鍬形前立兜、腰配黃金鹿皮太刀、身背裝滿箭矢的弓筒並手握塗籠之弓、腳跨栗毛馬。此戰宗茂率領3百人埋伏後帶領150騎出戰,偷襲箭射敵大將堀江備前更單挑壓制對方,並讓功給家臣荻尾大學而討取了堀江首級,初陣便獲得了家臣的信任,並且令道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。 同年8月,膝下無子的大友家重臣立花道雪,希望高橋紹運的長子宗茂能繼承立花家,起初紹運因為宗茂優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,宗茂終於成為了道雪的養子。這個時候,宗茂和道雪的女兒立花誾千代結婚成為了婿養子而繼承立花家。但是夫妻倆處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居了。 同年宗茂以立花繼承人的身分於11月6日,大友宗麟為了援助被秋月種實、問注所鑒景夾擊的家臣朽網鑒康,而受命隨道雪、紹運出陣,兩軍共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰。 同年11月12日,立花山城東北方的國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬的嫁妝給了立花,趁立花軍一面出戰秋月軍,一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、足立式部等立花家臣前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲,此戰在由布等人的奮戰慘勝,而宗像家的背叛觸怒了道雪。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡巖戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦,並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下於3月16日派由布、小野先攻擊宗像氏,4月16日才前往那珂郡巖戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,宗茂自身和薦野增時率五百兵為伏兵,途中見機分兵三百以鐵炮攻勢奇襲溷亂敵方,預留的薦野二百兵則突然立出軍旗假為援軍威嚇敵方,解除了敵軍對養父道雪的包圍並且擊破,隨後宗茂又率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再巖戶一帶的巖門莊久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取了1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日隨養父道雪攻入宗像領地,率軍侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月17日的吉原口防戰討取了吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,驅逐了宗像勢力。期間宗茂對於生家宗像家逢遭變故的色姬待遇有加,然而色姬最後還是選擇自殺。 天正十三年(1585年)3月,在養父道雪、實父紹運出兵築後之時,宗茂以19歲之齡僅以千餘兵力守城。秋月種實見立花山城兵少便率八千大軍來攻,宗茂面對秋月八千大軍,決定率5百兵力分三隊夜襲秋月軍,原先家臣們皆反對以小軍勢出戰,應當以立花山城之堅固抵擋,但宗茂回答:「如果你們不想去的話也沒有關系,由我自己去擊退敵軍便是。作戰並非是由數量決定勝敗,而是要用出其不意的行動、奇策,如此一來將不會有不勝之事。」於是先以家老米多比鎮久率百餘名兵力繞到秋月軍後方,佯攻秋月家居城古處山城,引誘了秋月軍部分兵力追擊,這時宗茂和家老薦野增時率一百五十兵力以火計夜襲秋月本陣,造成秋月軍前後溷亂,甚至自相殘殺。一方,家老十時連貞也隱兵於森林中率兵從側面突入,鎮久也繞回來夾擊,秋月方大敗損失三百餘人,後種實內通立花家臣櫻井兄弟暗中謀反,然而卻被宗茂識破,平定了謀反的兩人,種實見內應失敗而改以小軍勢妨害耕作破壞農田等,但都被宗茂逐次擊退,秋月軍歲放棄攻城狼狽退回領地。而此戰後也令原先有丟失城池覺悟的道雪和紹運松了一口氣,宗茂也受到道雪的稱贊,不過卻受到紹運的斥責。 而據《北肥戰志》宗茂更接著出兵築前西邊,襲擊早良郡一帶之曲淵房助和副島放牛鎮守的飯盛城等龍造寺方的城砦,令周遭敵對勢力感到立花山城雖然道雪不在以及兵少,但仍有足夠實力應付敵勢的錯覺。 天正十四年(1586年),宗茂的君主大友宗麟前往大阪晉見豐臣秀吉,希望豐臣家幫助大友家抵抗島津的攻勢,同時推薦宗茂和生父紹運為豐臣家臣,大友築前的領地因此於此時轉變為豐臣家。 一方,島津軍為了統一九州而侵略肥前、築前地區,於7月10日以島津忠長、伊集院忠棟等2萬兵力攻下筑紫廣門的勝尾城後,逐漸集結北九州各地國人眾、國人的兵力至約五萬,宗茂實父紹運於12日在巖屋城以約八百人抵擋了島津聯軍約五萬兵力的攻勢,使其損傷了四千五百多人以及許多大將,拖延了近兩星期後,於27日終於全軍壯烈犧牲,28日宗茂之弟統增鎮守的寶滿城也被迫開城,島津軍在處理筑紫、高橋兩家的人質後於8月1日准備圍攻立花山城,宗茂則徹底抗戰,積極的出城使出遊擊戰術,於8月1日出其不意攻下了島津軍先前降服的筑紫廣門的勝尾城,吸引島津軍來攻後又於4日放棄勝尾城佯攻高鳥居城,島津軍再追擊時又抄小路繞至島津軍後方奇襲其後方城池,使其拖延至14日才完成對立花山城的包圍,15日抵擋了島津軍第一波的攻勢後,又趁機偷襲島津軍本陣討取百餘人的首級,更令家老內田鎮家使出詐降之計拖延時間,並且據《豐前覺書》載於8月18日擊退正在巖戶一帶准備軍糧的原田種實二千餘兵討取七百人,20日更奇襲島津軍的援軍秋月種長二千兵使其傷亡四百餘人。終於,大友家等到了豐臣秀吉從毛利家派來的援軍,使的島津軍被迫於24日從立花山城撤退,而宗茂並沒有等待援軍,隨即率一千五百名兵力追擊島津軍至築後川討取了百餘首級,又以火攻奪下了星野吉實、星野吉兼的高鳥居城,並從秋月方取回了父親的居城巖屋城和寶滿城。10月3日,宗茂被秀吉給予「九州之一物」的感狀並被評價為「剛勇鎮西第一忠義鎮西第一」(その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一)這時宗茂年僅19歲。 天正十五年(1587年),在豐臣秀吉的九州征伐中擔任「築前軍事總指揮」掛名統率如毛利輝元、小早川隆景的數萬大軍仍表現活躍,於4月初以先鋒軍先於秀吉本隊南下接連攻落肥後南關、山鹿、小代、隈本、相良、阿蘇、合志竹迫城、赤星菊池郡、有動宇土城、和仁玉名郡等地,當中和仁親實委托宗茂提出降伏,宗茂於是上呈秀吉,但當時的秀吉因為接連攻陷城池之勢不打算理會和仁親實的降服,宗茂以:「既然自身答應了對方的請求,若無法達成將有損武士信義之面目,不如將自身殺了。」迫使秀吉答應此事。 後再度為先鋒進軍薩摩攻落島津忠辰的出水城,又南下至川內擊退島津忠長,並救出被捕為人質的弟弟高橋統增夫婦,此時島津義久因日向根白阪之戰戰敗而前往川內泰平寺降伏,宗茂代秀吉前往伊集院、祁答院、入來院接收人質,後又率先進軍大口城包圍仍不降的島津重臣新納忠元,迫使其投降,九州終於平定。戰後秀吉因功給予築後柳川藩13萬2000石的領地,從大友氏獨立出來成為直屬大名。 同年8月7日,在宗茂的通知下秀吉知曉了佐佐成政移封後的肥後發生大規模的國人一揆動亂,9月5日,因其勢力猖狂決定動用九州各大名的兵力鎮壓,以築前久留米小早川秀包(毛利秀包)為總大將,肥前鍋島直茂、龍造寺政家、築後宗茂、高橋統增、筑紫廣門,甚至毛利家的安國寺惠瓊也加入討伐。 9月下旬,宗茂起初率1千2百兵力南下救援兵糧不足,被一揆方的敵將有動兼元包圍在平山城的佐佐成政軍,由於先前鍋島、安國寺惠瓊軍皆救援失敗,宗茂收集情報檢討了鍋島、安國寺兩軍皆是軍隊在前輜重在後,遭到埋伏於竹林中的敵將大津山出羽守襲擊後方以致失敗之故,令軍兵間穿插輜重隊,將兵、軍馬也配備救援物資以及兵糧彈藥,組成了互相支援、確保輜重的軍勢,並以小野鎮幸率一隊於夜中早一步潛入竹林反埋伏,另外以輜重隊引誘出大津山的軍勢時以弓、鐵炮進行背後奇襲,後分三隊反轉回攻其城砦南關城討取了大津山出羽守,一方面則趁隙以第二隊輸送兵糧,前往大手原口一帶的平山城,此時平山城遭到隈部親永的大將有動兼元的包圍,宗茂率第一隊3百人以鐵炮作先制攻擊支開隈部軍後,第二隊便趁隙運送兵糧,運完後加入戰斗從側面攻擊持續攻向隈部軍的山鹿城,城外的隈部分隊來援後第一、二隊又退後引誘,此時第三隊又進行兵糧運輸,完成了救援佐佐成政的任務,立花軍因此退往背後的山間,又引誘出山鹿城的有動志摩、有動左京等率軍追擊越過大手原口至永野原,有動兼元雖看出是陷阱要求先鋒的有動志摩回軍卻為時已晚,此時立花軍又一舉反轉進攻討取有動志摩,隈部軍遂崩壞退散。 之後又和九州各大名包圍和仁三兄弟的田中城,城中除了和仁親實、親範、親宗外還有其妹婿邊春親行共9百餘人,在毛利秀包為總大將的情況下,秀包以二重之柵將城池包圍,約二個月後邊春親行因為安國寺惠瓊的謀略而謀反,12月5日遂攻下田中城,並且在此戰中,宗茂和毛利秀包合力殺退號稱人鬼的猛將和仁親宗。然而由於先前在九州征伐時期,和仁氏曾委托立花家降伏於豐臣,有過信賴關系,宗茂在此戰後保護了和仁兄弟中的四男和仁統實,並令他成為家臣小野鎮幸的義弟,保住了和仁氏的血脈。 隨後宗茂和佐佐成政於12月26日攻下了隈部親永的城村城,而隈部親永一族12人於翌年被秀吉下令處死,宗茂為了隈部一族的武士名譽,於5月27日在柳川城的「黑門」挑選手下12人與隈部一族12人單挑,被稱為「黑門放討」結果隈部12人光榮戰死,擔任監察役的淺野長政目睹過程後在震驚之餘當場佩服其氣概,而秀吉聽聞宗茂的做法,便說:「真不愧是立花」(さすがは立花である)。 並且在這時期因為和毛利秀包時常擔任先鋒的緣故,宗茂認小早川隆景為義父,和毛利秀包結為義兄弟,並和秀包一同受領羽柴姓、從四位下侍從的官位,人稱「羽柴柳河侍從」並賜姓豐臣,成為第一批秀吉的譜代眾。天正十八年(1590年)參加由秀吉響應的小田原征伐,在巖櫬,江戶地區參陣,戰後秀吉在一次大會中於諸大名的面前稱贊「東有本多忠勝為天下無雙的大將,西有宗茂為天下無雙的大將,為東西一雙的名將」(東に本多忠勝という天下無雙の大將がいるように、西には立花統虎という天下無雙の大將がいる)。 文祿元年(1592年)參加文祿之役。和小早川隆景、毛利秀包、筑紫廣門、實弟高橋統增等一起組成第六大隊,負責攻略朝鮮西南方的全羅道,宗茂於出戰前制作約200個金箔押桃型兜給兵將佩帶,此種兜可說是立花家的一項招牌。 文祿二年(1593年)小西行長於平壤遭到明軍的猛烈攻勢而慘遭大敗,日軍各部匆忙援救小西軍並由北部南撤至京城,宗茂原本駐軍於平壤南方的牛峰,於1月10日北上救援小西軍的行動中和其弟統增共三千兵一起在龍泉山城外配合城將黑田二十四騎之一的小河信章的鐵炮攻勢,宗茂和統增分兵五隊潛伏,約七~八千敵軍因而溷亂撤退,此戰立花、黑田家稱為龍泉之戰。 同年1月25日於碧蹄館大戰前夕,明、朝聯軍偵查隊查大受、高彥伯與日軍偵查隊加藤光泰、前野長康所部遭遇,日方損失六十餘人撤退回報明軍進逼的消息,日軍陷入籠城或出戰的議論中,這時小早川隆景贊美「立花家的三千士兵足以抵擋他家敵軍一萬」(立花家の3千は他家の1萬に匹敵する。太合殿下もそうされるだろう)激勵各軍出戰.二十七日醜時許,由立花家兩位家老——十時但馬守和森下備中守釣雲,以及「騎士銃卒各數十」組成的物見隊,在王京以北約12公裏的礪石峴附近發現明軍大隊的蹤跡,火急回報本隊。於是,枕戈待旦的日軍迅速行動起來,宗茂軍先行,各部跟隨其後,相繼向礪石峴進發。當先趕到的宗茂迅速占領礪石峴,由於當時大霧彌漫影響了視野,宗茂並未急於進攻,而是一面下令士卒吃早飯,一面開始排兵布陣:先陣小野和泉守鎮幸、米多比丹波守鎮久七百人,中陣十時連久、內田統續五百人,後陣宗茂與其弟高橋統增二千人。此時十時連久提出,小野鎮幸和米多比鎮久皆為家中重臣,未防有失不可為先鋒,並慨然自任,得宗茂許可爭得先鋒之位,於早六時開始超越先陣進軍。 七時,十時隊與明軍騎兵先頭部隊發生接觸。但關於此部明軍的具體人數,日本的各種記載卻說法不一,《日本戰史朝鮮役》記作二千馬軍,曾根俊虎《日本外戰史》、奧田鯨洋《日韓古跡》則均說僅有數百。 當追擊到距離望客峴數町距離的時候,忽然遭遇六七千明軍增援部隊的反擊,十時連久以下百餘人戰死,宗茂軍陷入苦戰。而據桐野作人《碧蹄館之戰》所說,立花軍當時其實是使用了一種「示弱」戰術,即以十時連久的五百兵力正面楔入敵陣然後撤退,引誘敵軍追擊,宗茂則率本隊主力二千人繞到明軍右翼,尋機攻打敵人移動中暴露出的薄弱部位。不料明軍的火炮太過猛烈,當十時連久成功完成誘敵任務准備撤出時,負責接應他的小野鎮幸卻被明軍風暴似的大炮轟擊所阻,待小野隊終於冒著炮火突入與之會合之時,十時連久已死於明將李如梅箭下,與他同時戰死的還有其部下百餘人。同年三月二十三日,石田等三奉行在王京檢點士兵人數,統計宗茂、高橋統增所部僅餘一千一百三十二人,比之碧蹄館戰前之時減員一千八百多人,而此戰之後立花軍並未再參加任何有記載的作戰,那麼,除去一部分因病疫亡故和朝鮮義兵襲擊造成的傷亡,碧蹄館之戰無疑便應當是其最主要的損失原因。 文祿三年至四年(1594年-1595年)由於明、日處於議和階段,宗茂和小早川隆景等第六大隊於朝鮮釜山南部建築城池,是為龜浦倭城。宗茂因為小早川隆景途中回國養病,因此負責了後半的建築工事,並且接應軍糧的輸送。文祿四年(1595年)回日本,於「太閣檢地」中測得柳川藩實為22萬石,且因朝鮮戰功加增4萬石為26萬石,但是不久後因為石田三成等人從中作梗,被消去10萬石而成16萬石。 慶長元年(1596年)受領秀吉賞賜的京都聚樂第中一棟豪華的住所,與妻誾千代共同前往居住,但不久後在秀吉擔心宗茂無繼承人的情況下以細川忠興引薦了矢島秀行之女八千子為側室,更提拔八千子之弟矢島重成為立花家老,誾千代為此憤慨因而和宗茂分居,移往柳川城南方邊境的宮永居館。 慶長二年(1597年)的慶長之役,宗茂因領地加增之故軍役增至五千人,先後駐守安骨浦城、固城,並和毛利秀包出入釜山擔任小早川秀秋於朝鮮前期的輔佐役。同年12月底日軍加藤清正被明軍包圍在蔚山的危機中,明將高策趁日軍大部離開釜山本陣援救蔚山之際率明軍一萬二千、朝鮮軍三萬兵力,打算偷襲釜山的日軍本陣做為對日軍救援蔚山行動的牽制而進軍至般丹一地。高策因日軍主力已抵達蔚山,遂率聯軍回軍蔚山,日軍舒緩了本陣的壓力,是為般丹之戰... 慶長三年(1598年)明朝廷叫回攻略蔚山城失敗的楊鎬,新增兵力給於劉鋌、刑玠並調派水陸約8萬軍力進朝鮮,明將鄧子龍、張榜、藍芳威、陳璘等於此時參陣,9月以麻貴為東路攻蔚山、劉鋌為西路攻順天、董一元為中路攻泗川、陳璘為水路四軍各號稱五萬的軍勢南下進攻,日軍面對龐大軍勢僅能防守,這時因為五奉行等重要軍監回日本處裏政務,剩餘的日軍集結在釜山的會議中無法決定如何抗敵,並且互相忌妒戰功,在如此情況下,宗茂說了:「一日拖過一日城池被攻陷將是早晚之事,若是將日軍最右翼的蔚山城保住,那麼泗川之敵兵也會因此有壓力而無法專注攻城,將這二處控制住的話,那麼順天之敵自然也將退兵。我立花軍願當此趨敵之軍。」此時身為日軍總大將的小早川秀秋聽後說了:「蔚山的援軍由立花擔任是良策阿,即使失敗損失僅三千的立花軍,對我軍來說也是無關痛癢。」宗茂也清楚秀秋說話不懂事故因此並無怒言,而是准備出兵。 最後於日軍撤退時,在宗茂的號招下,一方面於固城集結弟弟高橋統增、毛利秀包、寺澤廣高、共七千兵力,一方面連絡島津義弘、宗義智的一萬一千日軍分乘軍船五百艘隨立花軍援救被海陸圍困在順天城的小西行長,途中於露梁海戰和明、朝鮮水軍的李舜臣、陳璘等激戰,被大敗之。據《谷田六郎兵衛覺書》載,立花家臣池邊貞政立下一番乘踏入陳璘的戰船,但卻反遭串刺戰死。 日軍此戰勉強令小西行長脫圍,此時立花軍擔任日軍殿後,使主力軍艦退回釜山,並且援護其他日軍先回國。 最後宗茂於年底11月26日才和毛利秀包共同突破明、朝鮮軍的海上封鎖為最後狼狽逃回日本。 慶長五年(1600年)關原之戰時,宗茂拒絕了德川家康的勸誘只為了報秀吉的恩情而率四千兵力加入西軍。關原開戰前夕,近江大津城主京極高次突然叛變,主將石田三成命令毛利元康(末次元康)、毛利秀包、宗義智、筑紫廣門和宗茂一同前往攻擊,此戰宗茂無損一兵一卒擊退了夜襲的敵軍,更發揮了養父道雪的發明「早入」,將火藥和彈混合塞入竹筒並連結鐵炮掛於足輕肩上、使的立花軍的鐵炮能比他家的鐵炮隊使出3倍速以上的銃擊,並且家臣立花成家立下了一番乘。可是在攻下了城池的同時,西軍卻也在關原戰敗,遂放棄了大津城。撤退期間遇到西軍殘兵正打算燒毀通往京都和美濃交通要道的瀨田唐橋,企圖延緩東軍的進軍速度,然而宗茂卻止住了這樣的做法,說了:「這座橋是為交通要道,不僅是軍隊連對人民而言也是重要的道路,燒毀了豈不連人民也受苦!?我軍即使不燒毀這座橋仍有伏見城的守備能拖緩敵軍!」事後德川家康聽聞宗茂如此做法便稱贊說:「宗茂真是具備剛仁的第一勇者」(立花は剛なるど仁あり まことに第一の勇者である) 撤退到大阪城後,宗茂對毛利輝元提出在大阪籠城對抗東軍的計劃,可是輝元卻已答應家康的勸降而拒絕,宗茂憤而領軍回柳川。途中遇到有如殺父仇人的島津軍只餘約八十人一同等待乘船,立花家臣有人提議不如趁機報殺父之仇,然而宗茂卻斥責說,並對島津義弘聲明義弘則向宗茂提出一同前往薩摩抵抗東軍的提議,但是宗茂卻回答:「放棄自身城池,前往他人的領地作戰在立花家訓是不允許的。」義弘因此由衷佩服宗茂,並且回領地後派出重臣新納忠元率一萬兵力往柳川為援軍。 11月,宗茂回歸柳川後隨即遭到途中叛變到東軍的鍋島直茂的侵攻,而黑田如水(黑田孝高)也在一旁打算坐收漁翁之利。領地遭到侵入而不還擊是武士的恥辱,但是天下大勢已趨向家康,親自出陣對抗的行為等於不服家康,實為不智之舉,因此宗茂為了武家的意地以及對家康表示臣服,自己只坐鎮在城中運籌帷幄,指揮一萬三千的兵力,在柳川領地周邊的城砦和河口配置了堅固的防衛線,並派家臣團出戰。 宗茂命家老小野鎮幸為總大將,率一千三百餘人於江上八院一帶封住鍋島三萬二千的大軍,然而激昂的立花軍先鋒壞了軍令擅自開戰,雖然立花軍沖破鍋島12段軍陣當中的9段,然而以立花統次為始,為了救援以必死之勢突擊的先鋒安東久照、石松政之而率第2陣斷後的立花鎮實和其次男立花親雄、新田鎮實、第3陣的年輕武者十時惟久皆陸續戰死,鍋島軍則發生先鋒鍋島茂忠命危,返回本陣五反田才得以收拾軍勢的情況,可說是軍勢大亂憑人數優勢作戰,雖然鍋島軍包圍小野鎮幸的本陣,但在其拼死奮戰下沒能殲滅,最後本在戰場西方監視黑田軍動向的立花成家率三百兵力側面奇襲溷亂了鍋島軍使鍋島軍逐漸撤退,一方面掩護小野鎮幸撤退結束了此戰,結果立花方損失三百餘人,鍋島也付出二百餘人的犧牲者。之後因為黑田孝高、加藤清正率軍加入柳川城的包圍而轉為籠城,同時宗茂受到好友加藤清正的說降,在與重臣連番考慮下,宗茂因為顧慮到柳川領民的安全,終於開城交出城池。 關原之戰後宗茂被改易成了浪人。面對欣賞宗茂器量的加藤清正和前田利長的仕官勸誘,都被宗茂拒絕了。宗茂受加藤清正的好意於肥後玉名郡高瀨的清源寺當了一陣子的食客後於慶長六年(1601年)7月入秋後帶著家臣共約二十人前往京都,於翌年3月到達妙心寺依附立花道雪義子戶次茂庵所認識的吳服商富士谷紹務並暫住於大德寺大慈院,慶長八年(1603年)秋離開京都於12月到達江戶,本多忠勝因當年共受豐臣秀吉贊賞之故,安排其暫居高田寶祥寺。 終於對其才能感到可惜的德川家康於慶長九年(1604年)2月透過本多忠勝招喚宗茂,於7月25日揭見家康受任將軍幕府的御書院大番頭領5千石,慶長十一年(1606年)1月3日家康打算給宗茂陸奧棚倉的領地,但因將軍之位已讓於德川秀忠,因此於9月上旬宗茂會見秀忠後,於11月11日正式給予陸奧棚倉一萬石複歸大名身分,更於慶長十五年(1610年)7月25日加增至三萬石。 大阪之役的時候家康因擔憂宗茂的武勇智謀和統率能力會為豐臣家效力而盡力的勸說宗茂,宗茂並在大阪冬之陣於大阪城西北的天滿川濱筋口參陣,大阪夏之陣更成為德川秀忠的軍事顧問和旗本大將,預言應驗了秀忠不聽建議,率軍獨斷的突出將會遭到豐臣方大野治房突襲的戰況;後隨本多正純等人參與天王寺口抵擋突破德川軍數陣的毛利勝永的攻擊。 因這些功勞於元和六年(1620年)11月27日奇跡似地得以回歸舊領築後柳川藩,獲得十一萬九千六百石,完成了複歸柳川大名的心願,不同於丹羽長重等僅是回複大名的身分,是日本史上唯一領地改易後還能回複舊領地的人。晚年也擔任第三代將軍德川家光的相伴眾,為其說明戰國的物語故事,而德川家光也贊美宗茂為「真正的武人」。 ​寬永十四年(1637年)爆發島原之亂,宗茂在戰事後期被任命前往輔佐總大將松平信綱,負責戰略面的指揮,預言了敵兵偷襲奪糧的行動並做出預備措施,並且於有馬城攻城時展現了昔日的勇姿,參陣的諸大名以武神再臨贊歎當時的宗茂。 寬永十九年(1642年)於江戶下屋敷因胃病死去,年七十六歲,法名大圓院殿松陰宗茂大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
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