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本作以《信長之野望·創造》的基礎上制作的全新遊戲而非追加DLC,主打武將扮演而非系列傳統的君主扮演模式,玩家可扮演一名武將通過「立身出世」「下克上」等等元素在遊戲中揚名天下。預計於2016年3月24日發售。
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉 / 木下秀吉、齋藤道三、德川家康 / 松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄 / 武田晴信、山縣昌景 / 飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、上杉謙信 / 長尾景虎、上杉景勝 / 長尾顯景....
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
堀秀村 Hori Hidemura(1557年-1599年) 通称、二郎。諱は「元積」とも。遠江守。 近江国北部の鎌刃城の城主で浅井長政に仕えていたが、1570年に敵方の木下秀吉の参謀竹中重治や家臣の樋口直房の説得で、織田方に寝返る。その後、激怒した浅井方に攻められ、鎌刃城を失う。しかし姉川の戦いの敗戦で浅井氏の影響力が弱まると、織田信長に再び鎌刃城の城主を任された。 1571年には浅井方の浅井井規が鎌刃城に攻めかかってきたが、横山城からの援軍・木下秀吉らの加勢もあり城を守りきった。以後も、対浅井戦線の防備に秀吉と共に協力して当たったが、秀吉が浅井氏の滅亡後に近江の領主として堀よりも格上の立場になった事によって軋轢が生じたことや、家臣である樋口直房が一向一揆との戦いで、防備すべき城を勝手に一揆衆と和睦して捨てて逐電するなどしたため、1574年に10万石相当とも言われる所領を全て没収され、唐突に信長に追放されてしまった。 その後、豊臣秀長に拾われて仕えたというが往時の勢力は取り戻せず、1599年に没した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%9D%91
日根野弘就 Hineno Hironari(1518年-1602年) 日根野九郎左衛門尉的長子、妻為金森長近的叔母;通稱德太郎、備前守、備中守,別名雄就、治部卿法印,法名空石。 日根野氏發源地為近畿和泉,父親九郎左衛門尉時,部分日根野族人遷居美濃。弘就最初出仕齋藤道三,在齋藤義龍為當主時被重用,開始嶄露頭角。 弘治元年(1555年)10月22日,奉義龍命令將義龍的異母弟孫四郎、喜平次在稻葉山城內斬殺,義龍掌握實權後與重臣並列,於齋藤龍興時,地位保持不變。 永祿年間,弘就與氏家直元、安藤守就、竹越尚光4人被稱為齋藤四人眾,另一說法為與日比野清實、長井衛安並稱齋藤六人眾;後一種說法認可度較高,6人的聯署簽發的文書很多保留下來。 之後弘就因為懷疑安藤等西美濃三人眾與織田家有暗通嫌疑,邀近江國淺井賢政(淺井長政)出兵牽制美濃三人眾。永祿七年(1564年),安藤守就與女婿竹中重治占領稻葉山城,弘就與齋藤龍興一起退出稻葉山城。永祿九年(1566年),弘就改苗字延永氏(延永氏是一色氏家臣世職是丹後守護代)、被稱為延永備中守弘就。 隨著龍興對織田家抵抗失敗,西美濃三人眾改投織田家;永祿十年(1567年)8月,稻葉山城被織田家攻陷,齋藤家滅亡。弘就與弟弟盛就、日根野一族等成為浪人。齋藤家滅亡後,弘就等日根野一族出仕遠江的今川氏真(『太閣記』)。 永祿十一年(1568年)12月27日,掛川城主朝比奈泰朝與德川家石川數正交戰,弘就家臣日根野元太擊殺鈴木深右衛門。翌年1月12日,駐守天王山與德川家康交戰。同月18日,與弟弟盛就一起出擊德川方的金丸山砦,久野宗信、小笠原氏興敗走,支援的岡崎眾也被弘就擊潰。家康聽到戰敗消息十分憤怒,呵斥久野等人。但積弱的今川氏無法與德川氏匹敵,同年中掛川城開城投降,日根野一族再次成為浪人。 今川氏沒落後西上近江,通過近江國人眾今井秀形、島秀安等人的舊誼出仕淺井長政。但元龜三年(1572年)冬,離開淺井家,參與長島一向一揆,在離岐阜附近的新堡擔任守備。弘就通過大湊町船支將老弱婦孺眾運送離開,後來協力者山田三方眾中福島之子被織田氏處決。 天正二年(1574年)9月29日,在織田軍的總攻下,長島一向一揆被滅;日根野一族從長島逃離,不久後降伏信長。 弘就出仕織田家後為馬廻衆,天正三年(1575年)8月,參與討伐越前一向一揆,與遠藤慶隆等人一起出陣越前國,日根野隊越過白木卡侵入黑馬谷,擊破勢力鞏固的一向一揆。天正六年(1578年)11月,參與有岡城之戰。 天正八年(1580年)閏3月,弟弟盛就為首與六郎左衛門、半左衛門、勘右衛門、五右衛門日根野一門在安土城住宅地居住,日根野一門都被信長提拔為馬廻。 天正十年(1582年)6月,本能寺事變時在京都夜宿,對本能寺,二條御所靜觀時局,與美濃佐藤秀方通過信件商談今後局勢,山崎之戰後通過遠藤慶隆傳達京都的形勢。 天正十一年(1583年)5月,弘就與池田恆興一起通過美濃的瑞龍寺違禁出陣,參與賤岳之戰,之後被秀吉授予美濃舊領地。天正十二年(1584年)3月,奉秀吉命令出陣伊勢國,之後轉向尾張參與小牧.長久手合戰,與弟弟盛就等共同守備二重堀砦。再度交戰於德川,與德川軍的沖突造成大量死傷。5月1日,羽柴軍主力轉行美濃,捨棄堀砦撤退,弘就與細川忠興、木村重茲、長谷川秀一、神子田正治等人擔任殿後,與追擊的織田信雄軍交戰。 天正十三年(1585年)7月,作為羽柴秀次配下,參與四國征伐,攻陷阿波的脇城。此後,因為惹惱秀吉一度遭流放。天正十八年(1590年),被允許再出仕豐臣家。於文祿.慶長之役時,作為秀吉使者出使朝鮮。 文祿四年(1595年),秀次事件後,弘就的領地進行整理,之後弘就的領地在伊勢.尾張、三河共計16000石。 慶長五年(1600年)關原之戰中,因立場不明(一說隸屬西軍,一說隸屬東軍但暗通西軍),戰後受減封處分。 慶長七年(1602年)去世,年84歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/11764357.htm
明石景親 Akashi Kagechika(生年不詳-没年不詳) 備前国で浦上氏の家臣として浦上則宗の代から仕える備前明石氏の出身。父の名は源三郎景憲であるとも言われるが確証は得られておらず今のところは不明である。 天文年間末からの浦上政宗と浦上宗景兄弟の分裂において『備前軍記』では終始宗景に味方した股肱の臣として挙げられており、以後宗景に重臣として仕える。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では浦上方として宇喜多直家の援軍として駆けつけ勝利に貢献したという。 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・延原景能と行雄の6人が行っている。永禄12年(1569年)には10月には美作国で毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を岡本・長船・岡らと共に支援して高田城代香川広景を攻撃した。 天正2年(1574年)から浦上宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景とともに天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り天神山城に火を放った上で城内の一角を占拠し天神山城陥落のきっかけを作った。この時、行雄の裏切りが天神山陥落に絡んだことは毛利氏の記録でも確認できる。 浦上氏滅亡後は浦上時代の所領をそのまま認められたが、宇喜多氏の老臣の列には加えられず「客分」として行雄は迎え入れられた。天正6年(1578年)の第二次上月城の戦いでは攻城側の後巻として八幡城に布陣していたが、この時上月城の救援に来ていた羽柴秀吉の家臣の竹中重治に密かに通じるなど不穏な行動を取っていたものの、攻城側優位のこの戦いにおいて実際に行動は起こしていない。 天正7年(1579年)に直家が毛利氏を裏切って織田信長に通じた際には毛利との戦争に備えて備前と美作の国境付近の白石城の改修に当たった。天正8年(1580年)3月には宇喜多から毛利へと寝返った竹内為能の籠る高城攻囲に参加。この攻城戦の際、蕨尾山に陣取った行雄の軍勢が籠城兵の夜討ちによる反撃を受け平尾弾正忠が討ち取られるなどの被害を出したが宇喜多軍は高城の攻略に成功し為能を追放した。高城陥落後の同年9月には篠向城に移って城の改修をした。 天正10年(1582年)には備中高松城の戦いに直家の嫡子八郎(後の宇喜多秀家)を奉じて羽柴秀吉の元に参陣し賞賛された。 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と毛利氏との話し合いで決められた宇喜多・毛利両氏の領地の境界で宇喜多方に組み込まれた事に不満を示し、交戦の構えを見せた娘婿である虎倉城主伊賀家久に対して城を開城し毛利領へと退去するよう説得し、家久を虎倉より退去させる事に一役買った。天正14年(1586年)に従五位下伊予守叙任、以後の書状での名乗りは明石伊予守行雄となる。 天正16年(1586年)9月8日には上洛した毛利輝元の屋敷に宇喜多秀家の使者として参上し宇喜多屋敷へと輝元を招待したいという旨を伝えた。文禄3年(1594年)に行雄は娘婿伊賀家久の遺児である才法師丸の行く末を心配して、当時の家久の主君であった小早川秀秋の家老である山口宗永に書状を送って「似合いの御用」を仰せつけて欲しいと頼んだ。また、この書状では「老足の儀」により参上は出来ないので御用は掃部助(全登)に仰せつけて欲しいとも頼んでいるので、この時既に老衰が始まっており明石氏の当主も掃部助に移譲されていたものと見られる。 文禄3年(1594年)付けの書状が行雄の遺した最後の書状であるが、没年については不明である。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E8%A1%8C%E9%9B%84
氏家直元 Ujiie Naomoto(1512年-1571年) 氏家行隆之子,母親為長井利隆之女,美濃三人眾之一,法號「貫心齋卜全」,以「氏家卜全」之名而廣為人知。 氏家直元一向與齋藤義龍相善,因此在弘治二年(1556年)的長良川之戰中助齋藤義龍打敗了其父道三的軍隊,由於擁護有功氏家直元深受齋藤義龍的信任及重用。隨著鄰國尾張統一在織田信長的鐵蹄下,義龍為了防範織田家的進攻並能伺機出兵,將氏家直元由原本的樂田城移調到大垣城鎮守這個重要的軍事要地,同時入道修行,法號「貫心齋卜全」。 但不久之後於永祿四年(1561年)五月十一日,年僅三十五歲壯年的齋藤義龍便因癩病身歿,而由其子齋藤龍興繼任家督之職,龍興十分頑愚,與祖父的足智多謀及父親的果斷勇猛截然相異,這對美濃齋藤家來說不樂觀的情形卻正是織田信長再度進犯美濃的契機,信長任用足輕頭木下秀吉在墨俁建立橋頭堡以作為進攻美濃的跳板,同時以調虎離山之計將長井利房、日比野清實的軍隊引誘至森部擊破讓他們無法阻礙秀吉的計劃,獲得精彩的勝利。 但之後信長卻因為考慮實力派武將氏家直元鎮守在大垣城,若繼續進攻將引來他的迎擊,而未進佔西美濃,把槍頭轉往東美濃。永祿七年(1564年),織田信長將居城由清州城鉛至小牧山城,位於木曾川岸的宇留田城和猿啄城先後或降或破。 織田家的美濃攻略自信長之父織田信秀以來到永祿九年(1566年)已整整耗去了22個年頭,卻只有攻下美濃東部的城池,由安藤守就、氏家直元、稻葉一鐵等西美濃三人眾仍勞勞穩守住美濃西部,正中央則是固若金湯的稻葉山城。這場美濃齋藤家與尾張織田家的來往攻防戰中,決定最後勝利歸於織田家的原因是起於永祿七年(1564年)時安藤守就勸諫家主齋藤龍興勤政經武,但卻被龍興視為逆上而囚於北方城。 後來安藤守就獲釋後,在其女婿竹中重治的策劃下奪取了稻葉山城,很快地竹中重治便又將稻葉山城再度交還給龍興,聲明自己是為了進諫龍興振作而進行這次的行動,隨後便獨自一人進入栗原山中隱居。在這場變動之中氏家直元眼見和自己並列西美濃三人眾的安藤守就無辜被禁,基於兔死狐悲的心理,對齋藤家日益離心,因此當安藤守就的女婿重治成為織田信長麾下部將木下秀吉之軍師後,在他與秀吉的相繼遊說下,氏家直元於永祿十年(1567年)八月與安藤守就、稻葉一鐵同時改投織田家。 齋藤氏滅亡後,織田信長統一尾張美濃兩國並迎來流亡將軍足利義昭,以恢復將軍正統、驅逐逆賊的大旗揮軍上洛,永祿十一年(1568年)九月織田信長出兵進攻與三好、松永合作的南近江六角家,氏家直元隨行參戰。九月七日,信長率領五萬大軍攻落六角家的重要據點觀音寺城和箕作城,六角義賢、義治父子被迫逃亡。信長一鼓作氣直挺京都,三好、松永一先一後或敗或降。 永祿十二年(1569年),氏家直元隨軍征伐伊勢進攻北田家的大河內城,與本多親康軍的交戰中,直元所討取之敵方首級共三十六顆。最後大河內城陷落,北田具教降伏,伊勢一國納入織田家的版圖之中。 翌年元龜元年(1570年),自金崎撤退的織田信長重整旗鼓與背叛他的淺井家及支持足利義昭和自己敵對的朝倉家在姊川展開會戰,此戰之中氏家直元與多年共歷戰陣的安藤守就、稻葉一鐵以生力軍的姿態在德川軍逼開朝倉軍後從側面突擊淺井朝倉聯軍的縫口,造成淺井朝倉聯軍總崩潰,不得不敗走回防小谷城。 同年十一月,長島的一向一揆呼應在近畿興兵反對信長的本寺,也發動了盛大的攻擊,一時間伊勢國內的一向宗徒蜂擁而起,舉起本用來耕作的鋤頭、鐮刀攻擊織田軍,就在十一月二十一日攻破了尾張小木江城,城將信長之弟織田信興兵敗自殺。 為報此仇,信長於元龜二年(1571年)五月十二日發動五萬大軍攻入伊勢,織田信長親率二萬人、柴田勝家率二萬人、佐久間信盛率一萬人,氏家直元被編入柴田勝家軍。是役之中長島一向一揆巧妙地運用險要地形作戰,充分發揮游擊戰的優勢。四天之後,五月十六日,織田軍猛攻一向一揆的指揮本陣--長島願證寺,但遭到一向一揆的強烈反擊,連猛將柴田勝家也負傷在身,信長只好宣布撤退並由氏家直元擔任殿軍。 面對如一陣陣怒濤沖擊的一向一揆軍,氏家直元發揮其作戰的長才,率領家臣盡可能地實施各種防御戰術,終保全織田家大軍可以由戰場安全離開。但是當氏家直元撤軍行經石津郡太田村時,座騎不慎陷入泥坑,因而被後方的追兵趕上,氏家直元當場戰死,享年五十九歲。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%8D%9C%E5%85%A8
竹中重治 Takenaka Shigeharu(1544年-1579年) 竹中重元之子、母為杉山久左衛門之女(妙海大姊)、正室為安藤守就之女.得月院;初名重虎,後改名為重治,通稱半兵衛,戒名深龍水徹,與黑田官兵衛並稱「二兵衛」。 永祿元年(1558年),與當時擔任不破郡岩手城主的父親重元,一同擊敗岩手彈正守忠誠,並於永祿二年(1559年)著手修建菩提山城並移居該城。 重治元服後,與美濃三人眾之一的岩村城城主安藤守就之女(法名得月院)成親,永祿五年(1562年)父親重元去世,重治繼承竹中家的家督之位及菩提山城,擁有約三萬石高土地,侍奉美濃國大名齋藤龍興。早前美濃國發生齋藤道三及齋藤義龍父子相爭,父親重元因支持道三而失勢,作為重元之子的重治雖然憑藉岳父安藤守就的關係重歸齋藤家的行列,卻不受信任,遭到冷落。 齊藤家自齊藤義龍時代,即屢屢遭受來自尾張國織田信長的侵攻,永祿四年(1561年)7月美濃再度遭受織田的侵攻,齊藤方採用重治「十面埋伏陣」獨特的伏兵戰術,擊破織田方的攻勢。永祿六年(1563年)重治再度擊退織田軍的攻勢(新加納之戰,一說為日根野弘)。 永祿七年(1564年)2月,據傳重治為了勸戒耽於酒色的主家齋藤龍興,命令當時在稻葉山城作為人質的弟弟久作(竹中重矩)裝病,隻身帶領16名隨從入城探病,然後智取以難攻不落見稱的稻葉山城,後來又將城還於龍興,震驚天下。據說,當時重治和安藤守就與日根野備中守弘就及「美濃三人眾」之一的氏家直元不和(因三人眾不能理解重治的用心,另有一說是出於嫉妒),導致尾張的織田信長有機可乘,所以才會發動取城行動。取城當夜,重治命令各家臣手持兩支火把。齋藤軍在夜色中誤以為織田家的大軍入侵,城內居民和士兵大舉逃散。重治趁勢闖入稻葉山城,很快就到龍興所住的御殿裏面見龍興,後來龍興逃往他城,在重治還城後才重新入城。重治還城後將家督之位讓予弟弟久作,隱居栗原山。曾一度以客將身分,接受淺井家的3000貫(相當15,000石高)俸祿,約一年後於舊領岩手再度隱居。 齋藤家滅亡後,重治受聘淺井家以維持生計,後來由羽柴秀吉(豐臣秀吉)勸說改侍織田信長,依照竹中重門所著的「豊鑑」記載、信長接受秀吉的要求、同意重治與牧村利貞、丸毛兼利共同擔任秀吉的「與力」。 織田信長包圍網期間,重治利用自己原先在淺井家的人脈關係,協助進行各項調略活動。包括元龜元年(1570年)淺井方長亭軒城及長比城的策反(『淺井三代記』)。姊川之戰後被任命為羽柴秀吉寄騎(傳說是因為重治和信長關係不良,但也有別一說,信長認為把重治放在秀吉麾下,比安置在自己身邊更能發揮對外拓展的才能,未必是因為關係差,可以確定的是竹中從來都不是秀吉直臣),在秀吉麾下東征西討,而與另一參謀黑田孝高並稱為「二兵衛」。羽柴秀吉之弟羽柴秀長(豐臣秀長)、部將蜂須賀正勝及前野長康等皆視重治為師,在軍中享有極高的聲譽。 羽柴秀吉被任命為進攻中國地方的山陽道的的總大將後,重治作為參謀從軍,天正六年(1578年)、宇喜多氏位於備前的八幡山城,經由重治的調略而陷落,更獲得織田信長的讚賞。秀吉的另一位幕僚黑田孝高銜命前往有岡城勸服荒木村重時,遭荒木村重軟禁,一時間誤傳孝高倒向荒木方,信長盛怒下,要求秀吉將孝高之子.松壽丸(黑田長政)處死,所幸重治以替身瞞過信長,更加深竹中與黑田家的友誼。 天正七年(1579年)4月,在討伐播磨三木城的別所長治叛亂中病情惡化。重治拒絕秀吉勸其回到京都療養的請求,堅持留在平井山前線,並留下「戰死沙場乃武士本色」的遺言後辭世,其死因推測應為肺結核或是肺炎,年三十六歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E6%B2%BB
竹中重門 Takenaka Shigekado(1573年-1631年) 竹中重治的長子、母為安藤守就之女.得月院、正室為加藤光泰之女;幼名吉助。 由於父親重治在隨軍出征播磨三木城時因病溘然長逝,改由年僅七歲的重門繼承家督之位,也因為重門年僅七歲,所以採取折衷作法讓重門的叔父,也就是時為織田信長馬迴的竹中重矩擔任名代,輔佐重門統帥竹中氏的兵力繼續協助攻打三木城。 天正十年(1582年),本能寺之變爆發,同時在美濃也有齋藤利堯掀起的叛變,更一股進佔重門岐阜城,美濃國內一揆蜂起,竹中重矩為平定紛亂出兵,在六月六日於不破郡長佐村和一揆交戰時陣亡,得年三十七歲。三年之中,竹中家接連喪失重門兩位主要領導人物,使竹中家陷入失去權威基礎的困境。加上名義上的家主重門僅有九歲,因此被秀吉沒收重門知領地位,只給重門微薄的俸祿維生。 因此在六年後,天正十二年(1584年)時,為重門重興竹中家,重門在家臣鼓勵下,以十二歲的束髮之齡率領舊臣百餘人參加對德川家康的小牧、長久手之戰,雖然並未立下顯著戰功,但是因為重治之子的身份,令秀吉產生同情,於是讓重門恢復舊領,重新回到菩提山城。並於天正十六年(1588年),天皇行幸聚樂第時,替年僅十六歲的重門拜請敘任從五位下丹後守的官位。重門也在同年廢棄菩提山城,改在山麓興建陣屋巖手城。之後重門便做為秀吉家臣參加小田原征伐,並在侵朝戰爭中在文祿年間擔任東二之丸後備眾,領兵兩百駐屯名護屋城,於文祿三年(1594年)時,加封河內大縣郡佃村、安宿郡玉手村共一千石的加封。後來在慶長年間受命擔任軍目付,渡海進入朝鮮。 在秀吉死後,為天下誰屬而發生重門關原之戰,身為秀吉近臣的重門,先是從屬於西軍,在織田秀信的調配下與妻弟加藤貞泰一同協助石川貞清守備犬山城以抵禦來犯的東軍部隊,但是在東軍的黑田長政勸說下重門早與東軍內通,向井伊直政派出密使。岐阜城破後,重門便經由井伊直政仲介易幟。擔任東軍嚮導,與山內一豐協同行動與東軍前鋒黑田長政隊合流。開戰後,在井伊直政、松平忠吉、福島正則出擊西軍時,重門和黑田長政一同點燃重門丸山上的狼煙,正是揭起關原合戰最激烈的一幕。 之後重門和黑田長政、細川忠興一同擔任東軍的右翼先鋒與西軍石田三成部隊交戰。在戰後的落武者狩中,重門的家臣伊藤治右衛門在九月十九日於伊吹山中捕獲重門西軍有力武將的小西行長,並送交至德川家康在草津的陣地,竹中軍因此立下大功。戰後,重門的領地美濃巖手六千石獲得安堵,並得到德川家康的感狀,成為幕府旗本。同時家康也為撫卹竹中軍的陣亡者,賜贈一千石米作為供養料,重門利用這一千石在巖手城外加設外堀,這道外堀也因此被稱作千石堀。 此後重門以幕府旗本活躍於內政工作上,曾參加二條城普請,並在慶長十三年(1608年)的名古屋城普請中,擔任砍伐木曾山木材奉行。兩次大阪之陣,也都隨軍出兵,獲得八萬石大名格的待遇。公務之餘,重門還師從林羅山學習和漢文學,尤善文筆詩詞,在歌道上也有不俗成就,並將侍從豐臣秀吉時的所見所聞留下記錄。 寬永八年(1631年)死去,年五十九歲。 出處 http://facebook.zone.gamebase.com.tw/zone/facebook/forum/3867/topic/75154925/1#1164638319