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本作以《信長之野望·創造》的基礎上制作的全新遊戲而非追加DLC,主打武將扮演而非系列傳統的君主扮演模式,玩家可扮演一名武將通過「立身出世」「下克上」等等元素在遊戲中揚名天下。預計於2016年3月24日發售。
乃美宗勝 Nomi Munekatsu(1527年-1592年) 乃美賢勝之子、正室為末長景盛之女、後室為仁保隆慰之女;通稱兵部丞,別名萬菊丸、新四郎、助四郎、浦宗勝,戒名宗勝寺殿天與勝運大居士。 因父親賢勝曾經作為浦家之養子,故又稱為浦宗勝,為沼田小早川氏之庶流出身。天文十三年(1544年),毛利元就之三男小早川隆景繼承小早川家之後,宗勝向隆景宣示效忠,其才幹獲得隆景之讚賞,擔任小早川水軍的主力武將,加入毛利家旗下,活躍於瀨戶內海及西國、九州各戰場。 天文二十年(1551年),西國第一大名大內義隆遭到家臣陶隆房(陶晴賢)叛變,於「大寧寺之變」遇害,毛利元就按部就班準備妥當後,決心舉兵與陶晴賢作戰。元就鑑於海上武力優劣為勝敗之關鍵,命宗勝利用其與能島村上水軍頭領村上武吉之血緣關係,出面說服武吉協助,宗勝以「只要借用一天的軍船而已」作為台詞,說服村上水軍的加盟,讓毛利軍得以在「嚴島會戰」時掌握制海權,圍困陶晴賢,迫使陶晴賢自殺,取得勝利。 宗勝率領水軍隨同毛利元就、小早川隆景攻佔大內家領土周防、長門,在隆景麾下,與九州霸主大友宗麟之勢力對決。永祿四年(1561年),於「門司城攻防戰」當中,在大友軍的陣前強行登陸,在兩軍將士面前,與大友軍的武將伊美彈正進行「一對一單挑」,宗勝雖然負傷,但將敵將擊斃,使得毛利軍士氣大振,大友軍因無法取勝而退兵。 永祿十二年(1569年)宗勝嗣後又參加「立花城攻防戰」,表現傑出,毛利元就特命宗勝擔任立花城的城主,負責鎮守立花城,擔當毛利軍在北九州的最前線重任。但宗麟利用大內輝弘在背後起事,毛利家腹背受敵,元就命吉川元春及小早川隆景率領的毛利大軍返回平亂,宗勝的留守兵力不過數百人,遭到大友家名將戶次鑑連(立花道雪)的包圍,宗勝與道雪談判,最後同意開城投降,宗勝雖然無法守住立花城,卻也以堂堂正正的姿態撤退回到安藝,道雪亦信守諾言並未追擊,傳為佳話。 宗勝繼續追隨小早川隆景轉戰山陽地區,於天正三年(1575年)備中常山城戰役中,敵軍的城主上野隆德之妻鶴姬(三村元親之妹)率領侍女三十多人,全副武裝殺出,在戰場上蔚為奇觀,使得毛利軍陣式大亂,宗勝趨前對應,鶴姬指明要求與宗勝單挑,宗勝雖欽佩鶴姬之武勇,但以無法與女流之輩交戰為由拒絕,但其誠懇態度,亦讓鶴姬折服,乃將「國平太刀」之傳家寶刀贈予給宗勝後,返回城內自殺,讓宗勝感慨不已。 嗣後,因毛利輝元與石山本願寺顯如合作對抗織田信長,毛利家與織田家對立,天正四年(1576年)宗勝率領毛利水軍於「第一次木津川之戰」痛擊九鬼嘉隆的織田水軍,但嘉隆受信長之命,打造鐵甲船,天正六年(1578年)於「第二次木津川之戰」擊破毛利水軍,宗勝在水戰上首次落敗,但實在是因為裝備不及所致。宗勝亦曾於羽柴秀吉(豐臣秀吉)進攻別所長治的三木城之戰中,擔任援軍完成輸送糧草任務。 秀吉統一天下後,文祿元年(1592年)宗勝曾以水軍將領身份參與攻打朝鮮的「文祿之役」,但因水土不服而病倒,不久就去世,年66歲。若論宗勝之功,其率領的水軍勢力,可以說是毛利家稱霸西國及瀨戶內海的最重要憑藉。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401613
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
五十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉 / 木下秀吉、齋藤道三、德川家康 / 松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄 / 武田晴信、山縣昌景 / 飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、上杉謙信 / 長尾景虎、上杉景勝 / 長尾顯景....
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
內田統續 Uchida Munetsugu(生年不詳-1600年) 內田鎮家的長子、母為鹿子氏;幼名宮壽、通稱監物、忠三郎、忠兵衛、忠右衛門,別名連滿;受大友義統偏諱「統」字,名為內田統續。 起初跟隨其父內田鎮家,為戶次鑑連(立花道雪)的家臣,「為人磊落不羈於戰陣有功」,是故從戶次鑑連處拜領「連」字,取名連滿。在主家大友家討平築前動亂時期,內田家作為戶次家軍團的一隊堅守職位,常擔任後陣防守之職,大友義統時期受到了褒讚,受領「統」字而改名統續。 天正十五年(1587年),九州經過豐臣秀吉的平定後,立花家受封築後柳川13萬2千石,此時統續因其父鎮家隱居,因此繼承內田家,並擔任立花家的侍大將、旗本先手役,領有俸祿一千五百石。 不久,在肥後的佐佐成政亦進行檢地,但是遭到部份國人反對,引發肥後國人一揆動亂,統續跟隨主君立花宗茂出兵討伐,在戰事最後階段,發動謀反的隈部親永一族12人被帶到立花家居城的黑門一地接受處罰,而宗茂為了顧全隈部一族的武士名譽,因此選拔家中12位武將與之單挑,此時統續因其剛膽的個性而成為其中一人,成功的討殺了對手。 文祿元年(1592年),統續作為立花家備隊大將參加由豐臣秀吉發動的朝鮮侵略,其中一場中、日、韓三方皆參與的決戰「碧蹄館之戰」立花家擔任先鋒抵抗;統續原本和家中聲譽極高,同為侍大將的十時連久擔任中備大將,但是連久因為不想讓家中重臣,擔任先陣的小野鎮幸和米多比鎮久有失,因此和統續一起要求為先陣,之後便在統續率領鐵砲隊射擊敵軍,由十時連久發動突擊後開始了這場「碧蹄館前哨戰」。 雖然連久和統續僅5百人,但扔然奮力將敵軍數千逼退,此戰最後在小野鎮幸和立花宗茂合作夾擊之下將敵軍擊退。不過期間,就在連久突圍撤退之際,不幸中明將李如梅的毒箭而毒發身亡,統續因為和連久感情甚好,因此在回到立花軍陣後非常後悔自己沒能和連久一同戰死,至此往後的統續皆在任何戰役中衝向敵軍最為密集之處,除了發洩其武勇外,也悲憤的尋找自己的死地.....而此時宗茂遵循十時連久的遺言,讓統續繼承其武者奉行兼任家老的職位,關原之戰時期則成為宗茂的母衣武者11名之筆頭。 慶長三年(1598年),朝鮮戰役結束後,日本因為豐臣秀吉之死再度分裂,分為東、西兩邊對抗。 慶長五年(1600年),立花家此時為了盡忠而投向豐臣西軍,然而立花軍並無緣參戰最重要的關原之戰,而是在之前被派往近江大津城攻打中途反叛至東軍的京極高次,此戰的總大將毛利元康(末次元康)因作戰遲鈍,數日之間竟無戰果,還被京極軍屢次偷襲陣營,然而作為名將的立花宗茂卻兵卒無損的擊退了敵軍的偷襲攻勢。 但是僅3千人的京極軍扔然頑強守城抵抗,結果西軍靠著立花軍的三倍速鐵砲射擊以及勇將立花成家的活躍而逐漸進軍到大津城的二之丸,此時是戰事最為激烈的時期,因為大津城的城門經過特殊設計,無論再多大軍在進至城門時都只能有小部分兵力進出而已,因此統續於攀爬城牆之時隨即遇到在牆防守的大量敵兵,統續見狀毫無懼色,隻身仗其剛膽越牆,卻被敵兵以槍刺中胸膛,更被薙刀傷及右手翻落城牆,儘管如此統續仍以左手揮動采配,喊者:「踏過我的身軀突擊吧!」終於,在這立花家充滿殘念的近江大津城壯烈戰死。 之後內田家由其弟內田連久以統續養子的身分在立花宗茂回封柳川後,延續其一族。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A7%E7%94%B0%E7%B5%B1%E7%BA%8C
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
十時連貞 Totoki Tsuresada(1556年-1644年) 十時惟次的次子、妻為城戶知正之女;受戶次鑑連(立花道雪)偏諱「連」字,名為連貞,別名孫右衛門、法號雪齋。 十時氏為九州豐後國之中的國人眾,仕於其中勢力較大的戶次氏,並且依附統領豐後的大友家。 父親惟次所屬的十時氏跟隨戶次鑑連(立花道雪)為大友家南征北討,惟次更平定築前鷹取城主毛利鎮信的叛亂而獲封鷹取城,然而在永祿十二年(1569年)年父親惟次、長兄惟則在跟隨大友軍道雪麾下於多多良濱之地和毛利軍對戰之時戰死。 喪失父兄,連貞繼承攝津守之名,漸漸展露頭角,立花道雪奉命轉封築前立花山城後,連貞作為十時氏的一員也跟隨前往。 天正六年(1578年)大友家和島津家之間爆發耳川合戰,大友家大敗後實力和威信漸失,原本臣服於大友家的築前國人眾如秋月氏、宗像氏、原田氏、草野氏等等陸續揭起叛旗,立花道雪和高橋紹運因身處為築前重臣而擔起平定的責任,而身為立花家臣的連貞和由布惟信、安東家忠、高野大膳則在這期間的平定作戰中因功勳卓著和武勇過人而被合稱「立花四天王」比起其他三位,當時的連貞年僅23歲便得此殊榮。 而傳說連貞之所以會成為四天王,是在一場對抗秋月家的合戰中,施展以長槍串刺敵人,之後再往後盪至前方甩出的槍術,並且手持一把長三-四尺,重又寬的大長刀還能奮迅殺敵;以此般武勇而被合稱為四天王後,連貞也逐漸成為家中重臣。 晚年的立花道雪因無子嗣,因此迎來大友家重臣高橋紹運之子.千熊丸(立花宗茂)為養子並娶親生女立花誾千代為妻以繼承立花家。 連貞此時成為立花宗茂的相伴眾,宗茂有事也都找連貞商量。並且連貞也擔當和其他大友家重臣的聯絡工作,如島津家進攻宗茂之父高橋紹運的岩屋城之時,便是由連貞傳達宗茂的訊息。因此時的能力在日後宗茂也很信賴連貞的處事,直到宗茂晚年逝去前夕也是連貞從旁陪伴。 連貞是被立花道雪評為『沉勇之餘具備剛直氣概』的武將,在道雪築後遠征期間陪伴少主立花宗茂守在立花山城,期間秋月種實率8千大軍來攻,宗茂命令重臣如連貞、薦野增時、米多比鎮久等實行夜襲,連貞自率一隊作為伏兵潛藏在秋月軍陣的側翼旁的草叢內,待先行誘敵的鎮久繞回來後一同實行夾擊攻勢,配合主軍宗茂的火計成功的擊退秋月軍。 之後在九州征伐時期,連貞也作為大將隨立花宗茂轉戰高鳥居城、岩屋城、寶滿城,並且在之後機敏的救回被島津軍捕獲並幽閉於薩摩的宗茂之弟高橋統增及其妻加禰姬。 立花家則因功獲封築後柳川13萬2千石成為大名,連貞也因功獲領山門郡一部領地,擔任檢使役維護治安。 隨後歷經鎮壓肥後一揆、成為柳川城黑門之戰的討手一名以及兩次朝鮮戰役,連貞因功加增至1千5百石俸祿,不久關原之戰爆發,連貞作為立花軍的大將參戰,並在大津城攻略戰中,對付先前已被立花宗茂預知的城方夜襲軍勢,拿著三尺重又寬的愛刀單挑敵將並捕獲丸毛萬五郎,更擊倒箕浦備後等敵將,和宗茂無損一兵一卒打退夜襲的敵軍。 立花家因為西軍主力戰敗無力回天而遭到改易處置,面對成為浪人的立花宗茂,連貞和家中重臣如由布惟信等一同陪伴宗茂流浪。 大多數陪伴立花宗茂流浪的家臣為生計,多半扮成虛無僧討乞,連貞也不例外,然而連貞因為尺八吹的旋律甚好,受到許多人的喜愛因此收入也最多。 某日連貞於江戶討乞之時,卻被三名野武士纏上且起衝突,一名野武士先拿刀向連貞劈砍,連貞則瞬間利用尺八抵擋刀劍將刀給搶過來,又轉身一刀斬殺對方三人,就在看熱鬧的村人拍手叫好之時,町奉行的武士卻把連貞當成無賴漢給抓去審問,然而町奉行的井伊直孝得知連貞為立花家臣後,連忙告知將軍德川秀忠並贈送鎧甲刀劍和金錢五十兩給予連貞,也因為此事,平時早已對立花宗茂佩服不已的德川秀忠召喚宗茂上洛,得到賞識之後受領奧州棚倉一萬石回復大名身分,連貞則和由布惟信擔任赤館城代,替宗茂處理領地各項政務。 大阪戰役前夕,豐臣秀賴開始招募各地浪人進城以抵抗德川家,這期間連貞雖然身為立花家臣卻也受到豐臣家的勸誘,即使豐臣家如何提出優渥的俸祿,連貞只以『忠臣不仕二主』為由拒絕。 隨後連貞也擔任德川秀忠的旗本武將和立花宗茂參加大阪冬、夏戰役,戰後立花家則因功終於元和六年(1620年)得以回歸柳川一地,了了立花家上下的心願。 連貞的十時一族於回歸柳川後受領1千石並成為立花家最受重用的一派家臣,連貞和其子十時惟昌(十時三彌)在這段期間皆擔當許多重要的國政工作,不久連貞年老隱居,入道號雪齋。 寬永十四年(1637年),爆發島原之亂,立花家因為九州大名也隨之參加鎮壓,當時因為立花宗茂待在江戶且為隱居之身而由立花家二代立花忠茂率軍出征,然而敵方鎮守原城並作出頑強抵抗,立花軍以及九州其他大名的幕府軍皆久攻不下並且損失慘重,宗茂在連貞的書信中才得知81歲高齡的連貞因為擔心忠茂的初陣也有伴隨參戰,並馬上回信以率直的話語感謝連貞的作為。 不久,立花宗茂受命輔佐幕府軍總大將松平信綱,宗茂到達後給予信綱戰略規劃,並教導忠茂戰陣配置,終於令戰事好轉,於2月27日開始幕府軍猛攻,2月28日早朝連貞伴隨著立花宗茂,兩位老將士身先卒,絲毫不減當年之勇,奮勇殺進城中直入本丸,成功的平定亂事,當時參陣的大名以及武士一方面稱讚著立花宗茂有如武神再臨,一方面也驚嘆那十時連貞高齡但勇,名聲響遍全國! 寬永十九年(1643年)在江戶陪立花宗茂走完最後一程;寬永二十一年(1644年)9月14日,在柳川安享天年,年八十八歲,葬於柳川西方寺。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%99%82%E9%80%A3%E8%B2%9E
原尻鎮清 Harajiri Shigekiyo(1541年?-1622年?) 古庄鎮行之子,通稱宮內少輔、左馬助。 鎮清是為戶次鑑連(立花道雪)由豐後時期便跟隨的老臣之一;道雪和大友軍出戰築前時也多有跟隨並建立戰功,除了道雪、宗茂所給的數十張感狀外,另有大友義統所給感狀二張。 鎮清在立花家中除了武勇外還時常說出許多重要的建言,最為廣傳的便是於天正十三年(1585年)主君立花道雪死後,勸阻了想殉死的其他家臣。 當時道雪的心腹由布惟信如是說:「要主公的遺體在高良山中讓敵兵踐踏,這是何等恥辱,我等將伴隨殉死!」然而鎮清卻說:「若在此殉死,那麼少主統虎(立花宗茂)該當如何是好?在此離少主死去才是不忠!」終於讓其打消自殘的念頭。往後,鎮清也每每在立花家評定會議中對繼承道雪的立花宗茂作出許多建言。 立花家在九州征伐立功而被受封築後柳川13萬2千石後不久。天正十五年(1587年),肥後因新領主佐佐成政的失政而造成肥後一揆動亂,主謀者隈部親永一族在戰敗後被送到宗茂居城柳川城等待處分,這時宗茂為了隈部一族的武士名譽而決定以「放討」的方式來解決,因此宗茂選出了12名家臣對抗隈部一族12人各自一對一單挑,此時鎮清也入選為其中一名討手,雖然成功擊敗對手,卻不甚在擒拿隈部善良之時右手腕被砍傷,所幸並無身亡。 隨宗茂參加朝鮮戰役,慶長元年(1596年)領有三瀦郡一千五百石俸祿,擔任大目付並有15位與力。 後立花家於關原之戰參加西軍而遭到改易,其主君立花宗茂因此而成為浪人,然而立花家臣扔有20名跟隨著宗茂,鎮清也是其中之一。流浪期間立花一行人皆生活困苦,一日鎮清因為米糧不足以分給全部的人食用,不得已作出下人食用的雜炊(類似粥),宗茂因為從小食米飯從未吃過雜炊,看了便說:「為什麼會有湯汁呢?普通的米飯不就行了嗎?」鎮清回答說:「主君您因為身為高貴的武士而沒吃過下人食用的食物,但是如今我們米飯所剩不多而且無錢添購,就請主君您稍微委屈一點吧!」鎮清話說到中途便已經老淚縱橫,其他家臣也不忍落淚,宗茂因此對家臣們更加疼惜,並且日後食用白米飯之時告訴盛飯的人:「只需飯就好,不必淋湯汁」。如此的下人吃法,令家臣們非常窩心。 之後立花家終於受到德川秀忠的賞識而回復大名於奧州棚倉,鎮清此時和由布惟信、十時連貞等立花老臣一同處理政務。不久立花家於元和六年(1620年)回歸築後柳川大名,身為老臣的鎮清當然是極度欣喜並且如釋重負,並於2年後逝去。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%B0%BB%E9%8E%AE%E6%B8%85
原田隆種 Harada Takatane(生年不詳-没年不詳) 原田興種の子、正室は大内義隆の娘であり,子に種門、種吉、繁種、親種などがいる。;主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。 享禄4年(1531年)に高祖表で隆種の家臣烏田通勝、王丸進らが、被官水崎盛政と交戦した記録があり、享禄年間に父の興種から家督を譲られたと推測される。 北九州における大内氏方の代表的な国人領主の一人でしばしば大友氏方の国衆と争った。大寧寺の変で大内義隆の自刃後も、主君の恩顧に筋を通して逆臣陶隆房には従わなかったところ、筒城主で家老西重国が不満を持って肥前国の龍造寺隆信と内通したのでこれを討った。しかし天文21年(1552年)に大友氏が陶氏と連合して侵攻すると、配下の王丸隆(兵庫允)、西重通等々がこぞって寝返って陶氏に呼応したため、高祖山城は落城した。 隆種は降伏して蟄居を強いられ、陶氏から弘中隆兼が代官として姪浜城に入り、大友氏からは臼杵鑑続が派遣されて柑子岳城に入って筑前国の政所を設置したが、弘治元年(1555年)に厳島の戦いで隆房が自害すると、その混乱に乗じて高祖山城を奪還した。 弘治3年(1558年)3月、大内義長が毛利元就に攻められて翌月自害すると、筑前の大内領は大友氏に組み入れられたので、隆種も一時大友氏に属した。同年、家臣本木道哲が嫡男種門と三男繁種を讒言したので、8月7日、二人を謀反の疑いによって岐志で謀殺した。後にこれは誤情報であったと判明するが、隆種はもともと四男親種を寵愛しており、これを嫡子とした。 永禄9年(1566年)、岩屋城主高橋鑑種が毛利氏に内通し、大友義鎮に反旗を翻して宝満山城(宝満城)に籠もると、義鎮は四将を派してこれを鎮圧させようとした。隆種入道了栄は鑑種より援兵を要請され、病を理由に断ったものの、他方で了栄も密かに毛利氏に内通して大友氏に敵対した。嫡子親種を避難と人質を兼ねて安芸国の吉田城に送った。 永禄10年(1567年)9月11日、了栄は大友方の西鎮兼の居城宝珠岳城と支城を落とし、西氏を滅ぼした。さらに柑子岳城に攻めよせたが、龍造寺氏が侵攻したために攻撃を中止した。 永禄11年(1568年)4月、鑑種に同調して立花鑑載が大友氏に反乱を起こすと、毛利氏は援軍を送ったが、これに親種が加わっていた。大友勢が立花城を攻囲中、柑子岳城は城代臼杵鎮広が残っていたが、了栄は虚を突いて、7月19日、第1次池田河原の戦いで鎮広を撃破し、城を奪い取った。本来の城主臼杵鎮続は慌てて帰還し、これを回復した。鑑種は親種と清水左近将監と共に陥落した立花城を奪還しようとしたが撃退され、清水は長門に帰還、親種は高祖山城に敗走する。了栄は原田親秀を救援に派遣して、8月2日、第1次生松原合戦で追っ手を撃退したが、嫡孫秀種など家臣の多くを失った。 一連の戦いは毛利方の敗戦に終わって毛利勢は撤退したが、これを見て今度は龍造寺隆信が筑前に侵攻。了栄(および草野氏)は龍造寺氏に服して、孫(次男の種吉の子、後の原田信種)を龍造寺氏に人質に出すことになった。 永禄12年(1569年)、大友氏と龍造寺氏が和睦したため、了栄は大友氏に復した。同年、毛利氏が再び筑前に侵攻したが、このためにこれには呼応しなかった。 元亀2年(1571年)、(了栄の次男)草野鎮永入道宗陽と吉井隆光の領地争いで吉井浜合戦(吉井合戦)があった。両氏は共に了栄の配下で調停を試みたが失敗し、合戦の後、宗麟の下知で両氏は和睦した。 元亀3年(1572年)正月、鎮広の後を継いだ柑子岳城主臼杵鎮氏は、今津毘沙門(登志神社)に参詣する了栄を暗殺しようとするが、失敗。原田勢に逆襲され、これが1月28日の第2次池田河原の戦いとなって、敗れた臼杵鎮氏は泊城逃れようとしてたどり着けず、平等寺 (筑紫野市)で郎党と共に自害して果てた。 筑前臼杵一党が滅ぼされたと聞いた宗麟は激怒し、天正2年(1574年)4月1日、鎮広を再び筑前に派遣して了栄の首を要求させた。原田氏の親族で会議をしているところに親種が鷹狩りより帰り、これを聞いて憤激して自らの腹を十字に切り裂いた上で首を落として本木大原に投じさせた。これには十人余の士が追腹をして殉じた。臼杵側に検死を要求し、親種の遺体に間違いなければ帰還するように求めたところ、臼杵の執筆坂本伊織という者が、親種の首を持ち帰ると言ったために、了栄は激高して、柑子岳城を攻めて必ず宗麟に復讐すると誓ったが、この頃、大友氏の勢いは強くすぐに行動に移すことはできなかった。 嫡子を失った了栄は先祖が開基した天台宗極楽寺を再興し、曹洞宗に改めて萬歳山龍国寺として親種の菩提を祀った。また草野鎮永の次男は人質として送っていたが、龍造寺氏に請うて元服させ、了栄の養嗣子信種とした。 天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで大敗すると、筑前の情勢も再び不穏となり、筑紫広門、秋月種実、宗像氏貞が相次いで龍造寺氏に組して大友に反旗を翻し、了栄もこれに同調して蜂起した。宗麟は立花道雪、高橋紹運、志賀道輝の三将を筑前に派遣して鎮定させようとした。天正7年(1579年)、立花勢は安楽平城に集結して出撃し、7月12日、海と陸から押し寄せるが、了栄が陣頭指揮をして撃退。立花勢は生松原に退却したので、これを追撃して第2次生松原合戦となった。了栄は、大友方武将木付鑑実の立て篭もる柑子岳城を包囲した。同城は兵糧が尽きかけていたが、道雪は高祖山城を攻撃すれば了栄は囲みを解いて帰ると考えて救援を送らず、生松原に陣を敷いた。了栄は包囲を継続したまま、8月13日、これを迎撃して第3次生松原合戦となったが、これは両軍痛み分けに終わり、双方が手を引いた。しかし糧米の尽きた柑子岳城は開城投降して退いたので、志摩郡全体が原田氏の領有となった。同月19日、草野鎮永の領地に波多親が侵攻したので、了栄は援軍を送り、浜崎でこれを破った。 天正9年(1581年)、隆信と共に安楽平城を攻略。この頃、了栄は老衰でなくなったようであるが、没年不詳。一説では天正15年(1587年)6月22日卒。法名は諡武徳院殿大倫了栄大禅定門。 原田氏の実権は草野鎮永が握り、息子信種を当主としてもり立てたが、これを快く思わない者が家臣におり、これに波多親が介入して天正12年の鹿家合戦となる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E9%9A%86%E7%A8%AE
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
吉弘鎮信 Yoshihiro Shigenobu(生年不詳-1578年) 豊後国の戦国大名大友氏の家臣・吉弘鑑理の嫡男として誕生。弟に高橋紹運がいる。主君・大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜り、鎮信と名乗る。 父と同様に大友氏に仕え、永禄4年(1561年)には、主君・義鎮の命で15000を率いて、毛利氏から豊前門司城を奪回するために大将として進軍した(なおその際、ポルトガル船に大筒での砲撃も依頼している)。しかし、毛利方の村上水軍らの援軍に加え、毛利方の乃美宗勝が一騎打ちにて大友方の伊美弾正を討ち取ったことで敵味方の士気が逆転したため、門司城奪還は不可能と引き際を判断した鎮信は、同年11月にはすみやかに総退却した。 永禄5年(1562年)、毛利元就の調略に乗った肥前国の龍造寺隆信が大友方の城を圧迫。同じくして、大友家臣の高橋鑑種(屋山城、宝満城)が立花鑑載(立花山城)と謀って挙兵し、毛利氏の援軍4万も立花山城を目指した。これに対し大友氏は、多伏口の戦いに勝利し龍造寺氏と和睦を急ぎ、出雲では尼子残党決起を促す。周防では、大内氏一門の生き残り大内輝弘を帰国させて挙兵させた上、ほぼ全軍を博多にて集結させた。この時、鎮信率いる隊は2~3000人。立花表布陣の毛利軍の背後に回り毛利の兵站線を叩き、毛利兵の死体は3500ほどにのぼったとされる。鎮信直属部隊の活躍は特に凄まじく、直属部隊のみで毛利兵百数十人を討ち取り、宗麟の賞賛を受けている。また、毛利軍の殿を守ったのは毛利軍きっての猛将・吉川元春であった事からも、その凄まじさがうかがえる。 元亀2年(1571年)、父・鑑理の死去により家督を継ぎ、筑前立花城督として、博多・堺の商人との交渉などで活躍した(ただし、あくまでも吉弘氏の本城は豊後本国にある屋山城や筧城であり、立花山に拠っていたのは大友家の城督としてである)。その後、大友宗隣が数々の苦言により邪魔になった立花道雪を筑前立花城督に任命して遠ざけ、代わりに鎮信を帰国させ側近とした。以後は宗麟の側近を務め、奉行として活躍した。また、武勇に優れ、多々良浜の戦いや九州における毛利氏との戦いで数々の功績をあげた。 天正6年(1578年)、薩摩国の島津氏との耳川の戦いに従軍。大友宗隣が任命した総大将・田原紹忍は、実戦経験が乏しく諸将を統率する力量に欠けたため、方針がまとまらないばかりか強行派と慎重派が対立するなど足並みが揃わなかった。『戸次軍談(戸次軍記)』によれば、耳川の戦いの前哨戦ともいえる高城攻撃が開始されて、両軍の主力が小丸川、切原川挟み備えた時、斉藤鎮実と吉弘鎮信は務志賀の宗麟に旗本らと共に前線への出陣を促したが、宗麟は「田原紹忍の思意に従うべし」として動こうとはしなかった。この返事に鎮信らは怒り、「本陣の後楯なくば集結した国衆共は一時ともたず敗走すべし。粉骨砕いて我々は先を駆くるも後ろ守る勢なくして雑兵の気撓を万事如何にすべきか」と悔やんでいる。 軍議では角隈石宗と共に、様子を見ながら進退を決めるという立場を取り、一旦はそれでまとまったが、この決定に不満のあった強行派の田北鎮周が軍令を無視し、勝手に耳川を渡河し島津勢への攻撃を開始した。これを見た佐伯宗天は松山之陣より東へ迂回谷へ下り切原川へ至り渡河、島津の先陣を襲った。そのため吉弘隊もこれに巻き込まれる形で戦闘に加わらざるを得ない状況となった。 当初は、斉藤隊、吉弘隊、角隈隊、臼杵隊らを擁する大友軍が有利に戦いを進めたが、全体としての意思統一がなく統制が取れていなかったため、島津陣へ深追いするものがあとを立たなかった。そこへ島津の野伏せ兵が横腹から一斉に鉄砲を浴びせたため、大友軍の大半はたちまちち大混乱に陥った。総大将の紹忍は退却を命ずるが、すでに連絡網を断たれ各隊がバラバラとなっていた大友勢は総崩れとなった。吉弘隊や角隈隊は個別に奮戦するが、戦局はくつがえせず鎮信は戦死した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%BC%98%E9%8E%AE%E4%BF%A1

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