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三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、石川利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、木造雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、長尾景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部政直、南方就正、二階堂盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢沢頼綱、薬丸兼将、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐続光、里見義頼、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顕宗、伊達政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顕村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶広、蠣崎守広、蠣崎盛広、龍造寺家晴、富田氏実、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稲富祐秀、支倉常長、秋山信友、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、渋江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志駄義秀、平林正恒、神保氏張、滝野吉政、蜷川親長、井戸良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豊永勝元、長寿院盛淳、横山喜内、向井正綱、北条早雲、太田道灌、尼子経久、今川氏親、長尾為景、浅井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、本願寺蓮如、宮本武蔵、佐々木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧源太、南光坊天海、森蘭丸、簗田政綱、毛利新助、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林羅山、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田辺勝成、黒沢道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景広、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、関盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直頼、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南条元忠、南条元清、石野氏満、有馬則頼、有馬豊氏、赤松則英、赤松広秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戸元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷義治、大野治房、大野治胤、奥村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、吉弘統増、松平家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長頼、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
五十二位人物:長船定行、末次元康、小早川秀包、宍戶元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大穀義治、大野治房、大野治胤、奧村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、立花直次、德川家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇阪安元、村井長賴、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章、柳生三厳、赤池長任、和久宗是、東鄉重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、三浦按針、猿飛佐助、霧隱才蔵、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鐮之助、三好清海、三好伊三、加藤段蔵、東北國人眾、安東水軍眾、中尊寺住職、專稱寺住職、羽黑忍者眾、秋田商人眾、関東國人眾、相模水軍眾、房總水軍眾、法華經寺住職、風魔忍者眾、品川商人眾、北陸國人眾、東海國人眾、鳥羽水軍眾、善光寺住職、本證寺住職、松岡寺住職、戶隱忍者眾、江尻商人眾、小濱商人眾、畿內國人眾、木津水軍眾、丹後水軍眾、延暦寺住職、根來寺住職、伊賀忍者眾、甲賀忍者眾、堺商人眾、中國國人眾、四國國人眾、能島水軍眾、鹽飽水軍眾、土佐水軍眾、善通寺住職、光照寺住職、世鬼忍者眾、米子商人眾、九州國人眾、豊後水軍眾、五島水軍眾、長善寺住職、彌勒寺住職、薩摩忍者眾、博多商人眾、南蠻商人、南蠻商人、南蠻商人、南蠻商人、商人
垣見一直 Kakimi Kazunao(生年不詳-1600年) 近江国の戦国大名だった浅井長政の旧臣・垣見氏の一族ではないかという説があるが、出自不明。通称は弥五郎、和泉守。諱は家純、あるいは家紀とも言い、筧氏と称するものもある。 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで大垣城普請を検知した。天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍し、7月の奥州仕置では秀吉が会津に赴いた際の道路奉行を務めた。 また文禄2年(1593年)に大友義統が改易されると、文禄3年(1594年)に秀吉より豊後富来に2万石を与えられて大名となった。 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、まず11月に慰問使として、次いで慶長2年(1597年)には秀吉の意を受けた軍目付7人の一人として二度渡海した。 慶長3年(1598年)に起きた第一次蔚山の戦いでは、籠城して苦戦した加藤清正を救援した武将達が協議して、戦闘後に戦線縮小論を秀吉に上申したが、逆にこれが叱責を受け、武将では黒田長政、蜂須賀家政、軍目付では早川長政、竹中隆重、毛利高政らが不興を買った。その一方で、秀吉の指示に忠実に従うように主張した軍目付の一直、福原長堯、熊谷直盛らは賞賛されたが、これが武断派諸将にとっては誣告を受けたような恰好になったので、後の感情的な対立に繋がった。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して大垣城を守備していたが、9月15日に行なわれた関ヶ原本戦で西軍が敗れると、共に守備をしていた相良頼房が家老・犬童頼兄の策に従って東軍に寝返り、すでに東軍に内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、9月17日に熊谷直盛、木村由信・木村豊統父子らを謀殺したが、この時に一直も討たれた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%A3%E8%A6%8B%E4%B8%80%E7%9B%B4
犬童頼兄 Indo Yorimori(1568年-1655年) 永禄11年(1568年)、肥後国南部の大名・相良氏の重臣である犬童頼安の子として誕生した。 はじめは延命院の稚児であったが、父頼安が島津氏との戦いで水俣城を守った際に寺を抜け出して共に籠城したことから、以後は武将として仕えた。 家老深水長智は頼兄の才覚を認めて、死去した嫡子の代わりに自らの後継にしようとしたが、竹下監物ら深水一族により慣例に背くと反対されたため、藩主相良頼房の許しを得て、甥で養子とした深水頼蔵を奉行とし、頼兄をその補佐役とするように主張した。しかし頼房は、頼蔵よりも才気のある頼兄をむしろ信頼して、2人を同格の奉行とすることにした。しかし、これが原因で両者は益々不仲となった。 頼兄は頼房の信頼を得て家老となり、天正20年(1592年)2月1日、相良姓を与えられ、相良兵部少輔頼兄を名乗った。同じく頼蔵にも相良姓が与えられたが、両人の不和は様々な支障を生じるようになっており、頼房もこれを憂慮し朝鮮出兵の際には両人に誓紙を書かせた。同年3月1日からは朝鮮出兵にも副軍師として頼房と頼蔵と共に渡海している。 文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物とその嫡子らの知行が、太閤検地により真先に召し上げられた際に、監物はこれを頼兄の計略と訝ったため深水一族600人は湯前城に籠城する事態が起きた。これは頼房の命で監物ら数名が切腹して沈静化したが、この頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立は明治を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていくわけである。朝鮮出兵から帰国した頼蔵は、暗殺を恐れて肥後の加藤清正を頼った。実父の織部ほか深水一族も相次いで佐敷に出奔したので、頼兄は家臣の流出を止めるべく一勝地に人をやって捕え、73名の深水一党を斬った。これには庇護者であった加藤家が怒り、豊臣秀吉の惣無事令が禁じる私闘であると訴え出た。しかし頼兄は巧みな弁舌で奉行の石田三成を納得させ、おとがめなしとなった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは相良氏は西軍につき、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、その後、大垣城にあるとき、9月15日の本戦で西軍が大敗したと知って、徳川家臣井伊直政と内通していた頼兄は、頼房に東軍に寝返るように進言し、同じく内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、西軍諸将を謀殺して、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。 しばらく後、徳川家の時代になったことで、関ヶ原の戦後交渉で恩があり、同じ兵部少輔であった井伊直政をはばかって頼兄は清兵衛尉と官位を改めた。 頼房の晩年は執務全般を頼兄が専断することを許し、すべてを取り仕切るようになっていた。頼房の死後は相良頼寛に仕えたが、まだ若い主君は、藩主を凌ぐ勢力となった清兵衛一派を嫌っては折り合いが悪かった。真偽のほどはわからないが、藩主が市房山詣での途上で頼兄の屋敷に挨拶にきた際に、藩主を暗殺しようとして失敗したという民話も伝えられている。 島原の乱の際は頼寛は参勤で江戸におり、頼兄の息子の相良頼安(内蔵助)と孫である相良頼章(喜兵次)が、藩主名代として出陣した。 寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と幕臣阿倍正之と渡辺図書助宗綱に相談した。阿部が大老土井利勝に報告したところ、土井は頼兄親子を江戸に呼び寄せて幕臣から訓戒させてはどうかと頼寛に内談したが、頼寛は清兵衛一派の報復を恐れてこれを承知せず、頼兄親子の横暴を長々と書状にしたためて報告した。これを受けて江戸幕府は公儀として対応することになり、頼兄は江戸に召された。この一大事に人吉藩は改易か取り潰しかと騒ぎになり、当時すでに73歳の頼兄は江戸に発った。箱根を越えると武器を取り上げられ、囚人同然の待遇となった。また出立は極秘であったが、国許では頼兄の養子(義子)である田代半兵衛(半兵衛の母の再嫁先が頼兄)が叛乱を起して、百数十人が死傷する騒ぎとなった。 8月11日、藩主頼寛は、家老頼兄が私曲13ヶ条の罪を犯したとしてこれを幕府に訴えた。結局、頼兄は津軽へ流刑に処されたが、徳川家康にも仕えた長年の功績もあって実際的には強制隠居・蟄居であり、頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住んだ。なお、現在の青森県弘前市相良町は頼兄の屋敷があったことに由来している。 明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。法名は天金本然大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84
福原長堯 Fukuhara Nagataka(生年不詳-1600年) 福原則高の子として生まれる。播磨福原氏は赤松氏の一族で、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に滅ぼされた福原則尚や福原助就の同族とされる。 はじめ豊臣秀吉に小姓頭として仕えた。天正15年(1587年)4月、島津攻めの根白坂の戦いにおいて、宮部継潤らと共に根白坂の砦を守り切る。10月には北野大茶湯の奉行を務める。文禄元年(1592年)、文禄の役には肥前国名護屋城後備衆の1人として二の丸を守備した。文禄2年(1593年)、豊臣家蔵入地の播磨国三木郡の代官を務める。 文禄3年(1594年)、伏見城の普請に従事し、その功により但馬国豊岡城2万石を領する(翌年に1万石加増)。高野山で豊臣秀次の自刃の際には、福島正則、池田秀氏とともに検死役を務める。 慶長2年(1597年)2月、豊後府内大分・速水・玖珠郡内12万石に加増転封。同年、豊臣姓を下賜された。また慶長の役では朝鮮に渡り軍目付を務め、小早川秀秋、黒田長政、早川長政など味方の軍令違反などを秀吉に厳しく報告したとされる。 秀吉死後、形見の国俊の太刀を賜り、豊臣秀頼の小姓頭の1人となった。慶長4年(1599年)、従兄弟関係であった石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められ、徳川家康ら五大老より府内領は没収されて臼杵6万石のみの領有となる。関ヶ原の戦いの際には西軍に属し、垣見一直、熊谷直盛、木村由信・木村豊統父子らとともに大垣城の守将を務めたが、西軍主力の敗北後、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りに遭い、一直らが殺害され城兵が離散したため進退に窮し、東軍の西尾光教の勧めで降伏。この際、石田三成から与えられていた名刀を東軍の水野勝成に奪われた。 大垣城の開城後、長堯は出家して道蘊と名乗り伊勢国朝熊山に蟄居する。水野勝成は徳川家康に長堯の助命を願いでるが、石田三成の縁者ということもあって許されず自刃させられた。一説には殺害されたともいわれている。 長堯の死後、2歳だった子供は乳母らにより因幡国に逃れ、次の代で備前国に移った。この家系は現在も存続している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A0%AF
秋月種實 Akiduki Tanezane(1548年-1596年) 秋月文種的次子,正室為田原親宏之女,幼名黑法師,法號宗闇,綽號「築前之虎」。 秋月氏源於大藏氏,大藏氏的嫡流後裔原田種雄因將武田有義謀反的消息通報給當時的鎌倉幕府二代將軍源賴家,而被恩賞秋月莊為領地。種雄移住秋月莊,改姓秋月,成為築前秋月家的初代當主。 天文二十年(1551年)時,秋月氏臣屬於大內義隆,大內家臣陶晴賢攻殺沉醉歌舞不理國事的義隆,義隆兵敗自殺,秋月氏轉而投靠大友宗麟。 弘治三年(1557年),滅亡大內氏的毛利氏勢力伸入北九州,種實父親秋月文種和長兄秋月晴種受毛利策反,反叛大友氏,大友宗麟以25000兵力圍攻古處山城,文種和晴種兵敗自殺,文種次子種實、三子種冬、四子種信和五子元種在古處山城瀕臨陷落之際由家臣帶出,渡海逃往周防國山口館,受毛利元就的庇護。 永祿二年(1559年)1月,秋月氏的舊臣深津美濃守在毛利氏的支援下、將種實迎回居城,並大破佔領古處山城的大友軍,將近恢復秋月家的舊領。種實以三弟種冬為豐前國小倉城城主高橋鑒種養子、四弟種信為豐前國馬岳城城主長尾種安養子、元種也擔任香春岳城城主,進一步鞏固了勢力。 永祿十年(1567年),高橋鑑種反叛大友氏而與種實站在同一陣線,9月4日、休松之戰夜襲大破大友軍精銳。這場戰役中戶次鑑連(立花道雪)一族受到嚴重打擊,道雪的弟弟.戶次鑑方和戶次鎮比皆戰死。此後,毛利元就開始攻打九州。 永祿十一年(1568年),立花鑑載反叛大友氏,一時之間反大友勢力居於優勢;7月23日、大友軍攻陷立花山城,立花鑑載自殺。 永祿十二年(1569年)5月28日、毛利軍在多多良濱之戰為大友軍所敗,完全制壓了北九州。8月、秋月種實無力再與大友宗麟對抗,只得再向大友家降服。 天正六年(1578年),大友宗麟的勢力因耳川之戰遭到島津氏大敗而逐漸衰退,種實與龍造寺隆信、筑紫廣門等人聯手、再次反抗大友氏,但攻勢全數為立花道雪所擊退。 天正十二年(1584年),因隆信在沖田畷之戰戰死,轉而從屬於島津義久勢力;當大友方(立花道雪)準備和島津氏聯手夾擊龍造寺氏時,種實及早促成龍造寺與島津氏的和睦交涉,避開雙方的戰爭。此後,藉著島津和大友氏的爭戰、逐漸蠶食大友氏的領地,最終領有築前國、豐前國、築後國北部達36萬石的領地,構築了秋月氏最強盛的時期,從而被稱為「築前之虎」。 天正十三年(1585年),參與了島津氏與大友氏.高橋紹運的巖屋城之戰,籠城的高橋紹運與六百名士兵全部討死。 天正十四年(1586年),豐臣秀吉開始征討九州,種實不聽勸諫其順應時代潮流的惠利暢堯之言、將他流放並命其切腹,而與島津氏共同對抗豐臣軍。估算可支撐一月的堅城巖石城僅僅一日就被豐臣軍攻下,秋月軍心生畏懼而燒掉益富城退守到古處山城,這時秀吉命令村民在夜裡點起篝火、在城牆上貼上木板和白紙、製造一夜修復益富城的假象,此舉使得秋月軍喪失戰意而投降。種實以剃髮、獻上楢柴肩衝、國俊之刀和交出女兒龍子為人質,換取秀吉的寬恕。 征討九州後,秀吉命令秋月氏轉封到僅3萬石的日向國高鍋城,失意的種實宣佈將家督之位讓給長男秋月種長。 慶長元年(1596年)9月26日,逝世於日向高鍋城,享年49歲,法名西林院殿笑翁宗誾大居士,墓所位在日向串間(宮崎縣串間市)西林院。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E5%AF%A6 出處#2 http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_1218633.html 出處#3 http://wtfm.exblog.jp/18766490
秋月種長 Akizuki Tanenaga(1567年-1614年) 秋月種實的長子、母為田原親宏之女、正室為彥山座主舜有之女;通稱三郎、戒名龍雲寺殿雄山俊英大居士。 天正十四年(1586年)、和父親種實一同對抗豐臣秀吉的九州征討軍,戰敗後也一同降伏於豐臣氏。這時,父親剃髮謝罪並宣布隱居,種長也繼承家督之位成為秋月氏當主。但是不久之後,秀吉命令秋月氏轉封到俸祿僅3萬石的日向國高鍋城。 在豐臣政權下,曾參與征討朝鮮的天正二十年(1592年)的文祿之役、慶長二年(1597年)的慶長之役,慶長三年(1598年)的蔚山之戰還曾立下戰功。 慶長五年(1600年)關原之戰,隸屬於西軍負責守備大垣城;在西軍瓦解後的9月17日,接受了東軍的遊說、在城中的熊谷直盛、垣見家純、木村由信遭到殺害後投降,也保住了領地,成為秋月氏高鍋藩的初代藩主。 種長因為沒有兒子,將女兒嫁給外甥秋月種貞(長野種信之子)並收為養子,但之後以種貞病弱為由廢嫡,改立種貞和女兒所生的外孫秋月種春為繼承人,也因此和不滿此事的家臣之間產生嫌隙。 慶長十九年(1614年)逝世,年四十八歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E7%A8%AE%E9%95%B7
立花宗茂 Tachibana Muneshige(1567年-1643年) 高橋紹運的長子、母為齋藤鎮實之妹.宋雲院、養父為立花道雪、正室為立花道雪之女.立花誾千代(良清院);幼名千熊丸、初名高橋統虎,繼承立花氏,改名為立花宗茂。 永祿十二年(1569年),因其父紹運繼承高橋家,年約3歲的宗茂也因此移住築前寶滿城,往後在山間接受紹運不時的體力鍛煉以及合戰模擬。不過因為紹運長於軍事行動無暇照顧宗茂,便托其兄吉弘鎮信以及家中武譽極高的老將足利彌平次為其教育。當宗茂6歲時,要求必須打敗比自己大四歲的人,打敗後,再打大六歲的,又打敗後,再找大八歲的,直到打敗大15歲的才告一段落,並且能輕易使弓射落10米遠的小鳥;文學方面,要求每看一本書便要去跟明白這本書的人反覆簡述其大綱,之後又進行背誦,直到能用書中的例子說服別人為止,另外讓宗茂接觸外來事物如鐵炮和孫子兵法,也讓宗茂學習自己有興趣的書道,更長於山野中熟習花草名稱用途,在他們的教育下,宗茂八歲便能拉開築前一地所有的弓,辯論和見識也遠超過同齡人。並且由於生長之地近於築前國際良港博多津,在常於商業交易的伯父吉弘鎮信的關系下也認識如島井宗室、神屋宗湛等商道茶人,由此學習茶道以及從中探知日本各大名的情勢。 天正六年(1578年)12月,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,於《寬永諸家系圖傳》、《立花事實記》記述此戰宗茂以12歲之齡初陣。 天正八年(1580年)2月2日,道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士。 天正九年(1581年)龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下位於立花山城西南邊,大友家築前五城之一大鶴宗雲的鷺岳城,而於7月27日進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,宗茂之父高橋紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和立花道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰斗,此時紹運以弓、鐵炮、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右回於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是宗茂普遍被認為的初陣,於當時穿著萌黃色的唐綾縅鎧甲、頭戴銀色鍬形前立兜、腰配黃金鹿皮太刀、身背裝滿箭矢的弓筒並手握塗籠之弓、腳跨栗毛馬。此戰宗茂率領3百人埋伏後帶領150騎出戰,偷襲箭射敵大將堀江備前更單挑壓制對方,並讓功給家臣荻尾大學而討取了堀江首級,初陣便獲得了家臣的信任,並且令道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。 同年8月,膝下無子的大友家重臣立花道雪,希望高橋紹運的長子宗茂能繼承立花家,起初紹運因為宗茂優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,宗茂終於成為了道雪的養子。這個時候,宗茂和道雪的女兒立花誾千代結婚成為了婿養子而繼承立花家。但是夫妻倆處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居了。 同年宗茂以立花繼承人的身分於11月6日,大友宗麟為了援助被秋月種實、問注所鑒景夾擊的家臣朽網鑒康,而受命隨道雪、紹運出陣,兩軍共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰。 同年11月12日,立花山城東北方的國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬的嫁妝給了立花,趁立花軍一面出戰秋月軍,一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、足立式部等立花家臣前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲,此戰在由布等人的奮戰慘勝,而宗像家的背叛觸怒了道雪。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡巖戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦,並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下於3月16日派由布、小野先攻擊宗像氏,4月16日才前往那珂郡巖戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,宗茂自身和薦野增時率五百兵為伏兵,途中見機分兵三百以鐵炮攻勢奇襲溷亂敵方,預留的薦野二百兵則突然立出軍旗假為援軍威嚇敵方,解除了敵軍對養父道雪的包圍並且擊破,隨後宗茂又率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再巖戶一帶的巖門莊久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取了1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日隨養父道雪攻入宗像領地,率軍侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月17日的吉原口防戰討取了吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,驅逐了宗像勢力。期間宗茂對於生家宗像家逢遭變故的色姬待遇有加,然而色姬最後還是選擇自殺。 天正十三年(1585年)3月,在養父道雪、實父紹運出兵築後之時,宗茂以19歲之齡僅以千餘兵力守城。秋月種實見立花山城兵少便率八千大軍來攻,宗茂面對秋月八千大軍,決定率5百兵力分三隊夜襲秋月軍,原先家臣們皆反對以小軍勢出戰,應當以立花山城之堅固抵擋,但宗茂回答:「如果你們不想去的話也沒有關系,由我自己去擊退敵軍便是。作戰並非是由數量決定勝敗,而是要用出其不意的行動、奇策,如此一來將不會有不勝之事。」於是先以家老米多比鎮久率百餘名兵力繞到秋月軍後方,佯攻秋月家居城古處山城,引誘了秋月軍部分兵力追擊,這時宗茂和家老薦野增時率一百五十兵力以火計夜襲秋月本陣,造成秋月軍前後溷亂,甚至自相殘殺。一方,家老十時連貞也隱兵於森林中率兵從側面突入,鎮久也繞回來夾擊,秋月方大敗損失三百餘人,後種實內通立花家臣櫻井兄弟暗中謀反,然而卻被宗茂識破,平定了謀反的兩人,種實見內應失敗而改以小軍勢妨害耕作破壞農田等,但都被宗茂逐次擊退,秋月軍歲放棄攻城狼狽退回領地。而此戰後也令原先有丟失城池覺悟的道雪和紹運松了一口氣,宗茂也受到道雪的稱贊,不過卻受到紹運的斥責。 而據《北肥戰志》宗茂更接著出兵築前西邊,襲擊早良郡一帶之曲淵房助和副島放牛鎮守的飯盛城等龍造寺方的城砦,令周遭敵對勢力感到立花山城雖然道雪不在以及兵少,但仍有足夠實力應付敵勢的錯覺。 天正十四年(1586年),宗茂的君主大友宗麟前往大阪晉見豐臣秀吉,希望豐臣家幫助大友家抵抗島津的攻勢,同時推薦宗茂和生父紹運為豐臣家臣,大友築前的領地因此於此時轉變為豐臣家。 一方,島津軍為了統一九州而侵略肥前、築前地區,於7月10日以島津忠長、伊集院忠棟等2萬兵力攻下筑紫廣門的勝尾城後,逐漸集結北九州各地國人眾、國人的兵力至約五萬,宗茂實父紹運於12日在巖屋城以約八百人抵擋了島津聯軍約五萬兵力的攻勢,使其損傷了四千五百多人以及許多大將,拖延了近兩星期後,於27日終於全軍壯烈犧牲,28日宗茂之弟統增鎮守的寶滿城也被迫開城,島津軍在處理筑紫、高橋兩家的人質後於8月1日准備圍攻立花山城,宗茂則徹底抗戰,積極的出城使出遊擊戰術,於8月1日出其不意攻下了島津軍先前降服的筑紫廣門的勝尾城,吸引島津軍來攻後又於4日放棄勝尾城佯攻高鳥居城,島津軍再追擊時又抄小路繞至島津軍後方奇襲其後方城池,使其拖延至14日才完成對立花山城的包圍,15日抵擋了島津軍第一波的攻勢後,又趁機偷襲島津軍本陣討取百餘人的首級,更令家老內田鎮家使出詐降之計拖延時間,並且據《豐前覺書》載於8月18日擊退正在巖戶一帶准備軍糧的原田種實二千餘兵討取七百人,20日更奇襲島津軍的援軍秋月種長二千兵使其傷亡四百餘人。終於,大友家等到了豐臣秀吉從毛利家派來的援軍,使的島津軍被迫於24日從立花山城撤退,而宗茂並沒有等待援軍,隨即率一千五百名兵力追擊島津軍至築後川討取了百餘首級,又以火攻奪下了星野吉實、星野吉兼的高鳥居城,並從秋月方取回了父親的居城巖屋城和寶滿城。10月3日,宗茂被秀吉給予「九州之一物」的感狀並被評價為「剛勇鎮西第一忠義鎮西第一」(その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一)這時宗茂年僅19歲。 天正十五年(1587年),在豐臣秀吉的九州征伐中擔任「築前軍事總指揮」掛名統率如毛利輝元、小早川隆景的數萬大軍仍表現活躍,於4月初以先鋒軍先於秀吉本隊南下接連攻落肥後南關、山鹿、小代、隈本、相良、阿蘇、合志竹迫城、赤星菊池郡、有動宇土城、和仁玉名郡等地,當中和仁親實委托宗茂提出降伏,宗茂於是上呈秀吉,但當時的秀吉因為接連攻陷城池之勢不打算理會和仁親實的降服,宗茂以:「既然自身答應了對方的請求,若無法達成將有損武士信義之面目,不如將自身殺了。」迫使秀吉答應此事。 後再度為先鋒進軍薩摩攻落島津忠辰的出水城,又南下至川內擊退島津忠長,並救出被捕為人質的弟弟高橋統增夫婦,此時島津義久因日向根白阪之戰戰敗而前往川內泰平寺降伏,宗茂代秀吉前往伊集院、祁答院、入來院接收人質,後又率先進軍大口城包圍仍不降的島津重臣新納忠元,迫使其投降,九州終於平定。戰後秀吉因功給予築後柳川藩13萬2000石的領地,從大友氏獨立出來成為直屬大名。 同年8月7日,在宗茂的通知下秀吉知曉了佐佐成政移封後的肥後發生大規模的國人一揆動亂,9月5日,因其勢力猖狂決定動用九州各大名的兵力鎮壓,以築前久留米小早川秀包(毛利秀包)為總大將,肥前鍋島直茂、龍造寺政家、築後宗茂、高橋統增、筑紫廣門,甚至毛利家的安國寺惠瓊也加入討伐。 9月下旬,宗茂起初率1千2百兵力南下救援兵糧不足,被一揆方的敵將有動兼元包圍在平山城的佐佐成政軍,由於先前鍋島、安國寺惠瓊軍皆救援失敗,宗茂收集情報檢討了鍋島、安國寺兩軍皆是軍隊在前輜重在後,遭到埋伏於竹林中的敵將大津山出羽守襲擊後方以致失敗之故,令軍兵間穿插輜重隊,將兵、軍馬也配備救援物資以及兵糧彈藥,組成了互相支援、確保輜重的軍勢,並以小野鎮幸率一隊於夜中早一步潛入竹林反埋伏,另外以輜重隊引誘出大津山的軍勢時以弓、鐵炮進行背後奇襲,後分三隊反轉回攻其城砦南關城討取了大津山出羽守,一方面則趁隙以第二隊輸送兵糧,前往大手原口一帶的平山城,此時平山城遭到隈部親永的大將有動兼元的包圍,宗茂率第一隊3百人以鐵炮作先制攻擊支開隈部軍後,第二隊便趁隙運送兵糧,運完後加入戰斗從側面攻擊持續攻向隈部軍的山鹿城,城外的隈部分隊來援後第一、二隊又退後引誘,此時第三隊又進行兵糧運輸,完成了救援佐佐成政的任務,立花軍因此退往背後的山間,又引誘出山鹿城的有動志摩、有動左京等率軍追擊越過大手原口至永野原,有動兼元雖看出是陷阱要求先鋒的有動志摩回軍卻為時已晚,此時立花軍又一舉反轉進攻討取有動志摩,隈部軍遂崩壞退散。 之後又和九州各大名包圍和仁三兄弟的田中城,城中除了和仁親實、親範、親宗外還有其妹婿邊春親行共9百餘人,在毛利秀包為總大將的情況下,秀包以二重之柵將城池包圍,約二個月後邊春親行因為安國寺惠瓊的謀略而謀反,12月5日遂攻下田中城,並且在此戰中,宗茂和毛利秀包合力殺退號稱人鬼的猛將和仁親宗。然而由於先前在九州征伐時期,和仁氏曾委托立花家降伏於豐臣,有過信賴關系,宗茂在此戰後保護了和仁兄弟中的四男和仁統實,並令他成為家臣小野鎮幸的義弟,保住了和仁氏的血脈。 隨後宗茂和佐佐成政於12月26日攻下了隈部親永的城村城,而隈部親永一族12人於翌年被秀吉下令處死,宗茂為了隈部一族的武士名譽,於5月27日在柳川城的「黑門」挑選手下12人與隈部一族12人單挑,被稱為「黑門放討」結果隈部12人光榮戰死,擔任監察役的淺野長政目睹過程後在震驚之餘當場佩服其氣概,而秀吉聽聞宗茂的做法,便說:「真不愧是立花」(さすがは立花である)。 並且在這時期因為和毛利秀包時常擔任先鋒的緣故,宗茂認小早川隆景為義父,和毛利秀包結為義兄弟,並和秀包一同受領羽柴姓、從四位下侍從的官位,人稱「羽柴柳河侍從」並賜姓豐臣,成為第一批秀吉的譜代眾。天正十八年(1590年)參加由秀吉響應的小田原征伐,在巖櫬,江戶地區參陣,戰後秀吉在一次大會中於諸大名的面前稱贊「東有本多忠勝為天下無雙的大將,西有宗茂為天下無雙的大將,為東西一雙的名將」(東に本多忠勝という天下無雙の大將がいるように、西には立花統虎という天下無雙の大將がいる)。 文祿元年(1592年)參加文祿之役。和小早川隆景、毛利秀包、筑紫廣門、實弟高橋統增等一起組成第六大隊,負責攻略朝鮮西南方的全羅道,宗茂於出戰前制作約200個金箔押桃型兜給兵將佩帶,此種兜可說是立花家的一項招牌。 文祿二年(1593年)小西行長於平壤遭到明軍的猛烈攻勢而慘遭大敗,日軍各部匆忙援救小西軍並由北部南撤至京城,宗茂原本駐軍於平壤南方的牛峰,於1月10日北上救援小西軍的行動中和其弟統增共三千兵一起在龍泉山城外配合城將黑田二十四騎之一的小河信章的鐵炮攻勢,宗茂和統增分兵五隊潛伏,約七~八千敵軍因而溷亂撤退,此戰立花、黑田家稱為龍泉之戰。 同年1月25日於碧蹄館大戰前夕,明、朝聯軍偵查隊查大受、高彥伯與日軍偵查隊加藤光泰、前野長康所部遭遇,日方損失六十餘人撤退回報明軍進逼的消息,日軍陷入籠城或出戰的議論中,這時小早川隆景贊美「立花家的三千士兵足以抵擋他家敵軍一萬」(立花家の3千は他家の1萬に匹敵する。太合殿下もそうされるだろう)激勵各軍出戰.二十七日醜時許,由立花家兩位家老——十時但馬守和森下備中守釣雲,以及「騎士銃卒各數十」組成的物見隊,在王京以北約12公裏的礪石峴附近發現明軍大隊的蹤跡,火急回報本隊。於是,枕戈待旦的日軍迅速行動起來,宗茂軍先行,各部跟隨其後,相繼向礪石峴進發。當先趕到的宗茂迅速占領礪石峴,由於當時大霧彌漫影響了視野,宗茂並未急於進攻,而是一面下令士卒吃早飯,一面開始排兵布陣:先陣小野和泉守鎮幸、米多比丹波守鎮久七百人,中陣十時連久、內田統續五百人,後陣宗茂與其弟高橋統增二千人。此時十時連久提出,小野鎮幸和米多比鎮久皆為家中重臣,未防有失不可為先鋒,並慨然自任,得宗茂許可爭得先鋒之位,於早六時開始超越先陣進軍。 七時,十時隊與明軍騎兵先頭部隊發生接觸。但關於此部明軍的具體人數,日本的各種記載卻說法不一,《日本戰史朝鮮役》記作二千馬軍,曾根俊虎《日本外戰史》、奧田鯨洋《日韓古跡》則均說僅有數百。 當追擊到距離望客峴數町距離的時候,忽然遭遇六七千明軍增援部隊的反擊,十時連久以下百餘人戰死,宗茂軍陷入苦戰。而據桐野作人《碧蹄館之戰》所說,立花軍當時其實是使用了一種「示弱」戰術,即以十時連久的五百兵力正面楔入敵陣然後撤退,引誘敵軍追擊,宗茂則率本隊主力二千人繞到明軍右翼,尋機攻打敵人移動中暴露出的薄弱部位。不料明軍的火炮太過猛烈,當十時連久成功完成誘敵任務准備撤出時,負責接應他的小野鎮幸卻被明軍風暴似的大炮轟擊所阻,待小野隊終於冒著炮火突入與之會合之時,十時連久已死於明將李如梅箭下,與他同時戰死的還有其部下百餘人。同年三月二十三日,石田等三奉行在王京檢點士兵人數,統計宗茂、高橋統增所部僅餘一千一百三十二人,比之碧蹄館戰前之時減員一千八百多人,而此戰之後立花軍並未再參加任何有記載的作戰,那麼,除去一部分因病疫亡故和朝鮮義兵襲擊造成的傷亡,碧蹄館之戰無疑便應當是其最主要的損失原因。 文祿三年至四年(1594年-1595年)由於明、日處於議和階段,宗茂和小早川隆景等第六大隊於朝鮮釜山南部建築城池,是為龜浦倭城。宗茂因為小早川隆景途中回國養病,因此負責了後半的建築工事,並且接應軍糧的輸送。文祿四年(1595年)回日本,於「太閣檢地」中測得柳川藩實為22萬石,且因朝鮮戰功加增4萬石為26萬石,但是不久後因為石田三成等人從中作梗,被消去10萬石而成16萬石。 慶長元年(1596年)受領秀吉賞賜的京都聚樂第中一棟豪華的住所,與妻誾千代共同前往居住,但不久後在秀吉擔心宗茂無繼承人的情況下以細川忠興引薦了矢島秀行之女八千子為側室,更提拔八千子之弟矢島重成為立花家老,誾千代為此憤慨因而和宗茂分居,移往柳川城南方邊境的宮永居館。 慶長二年(1597年)的慶長之役,宗茂因領地加增之故軍役增至五千人,先後駐守安骨浦城、固城,並和毛利秀包出入釜山擔任小早川秀秋於朝鮮前期的輔佐役。同年12月底日軍加藤清正被明軍包圍在蔚山的危機中,明將高策趁日軍大部離開釜山本陣援救蔚山之際率明軍一萬二千、朝鮮軍三萬兵力,打算偷襲釜山的日軍本陣做為對日軍救援蔚山行動的牽制而進軍至般丹一地。高策因日軍主力已抵達蔚山,遂率聯軍回軍蔚山,日軍舒緩了本陣的壓力,是為般丹之戰... 慶長三年(1598年)明朝廷叫回攻略蔚山城失敗的楊鎬,新增兵力給於劉鋌、刑玠並調派水陸約8萬軍力進朝鮮,明將鄧子龍、張榜、藍芳威、陳璘等於此時參陣,9月以麻貴為東路攻蔚山、劉鋌為西路攻順天、董一元為中路攻泗川、陳璘為水路四軍各號稱五萬的軍勢南下進攻,日軍面對龐大軍勢僅能防守,這時因為五奉行等重要軍監回日本處裏政務,剩餘的日軍集結在釜山的會議中無法決定如何抗敵,並且互相忌妒戰功,在如此情況下,宗茂說了:「一日拖過一日城池被攻陷將是早晚之事,若是將日軍最右翼的蔚山城保住,那麼泗川之敵兵也會因此有壓力而無法專注攻城,將這二處控制住的話,那麼順天之敵自然也將退兵。我立花軍願當此趨敵之軍。」此時身為日軍總大將的小早川秀秋聽後說了:「蔚山的援軍由立花擔任是良策阿,即使失敗損失僅三千的立花軍,對我軍來說也是無關痛癢。」宗茂也清楚秀秋說話不懂事故因此並無怒言,而是准備出兵。 最後於日軍撤退時,在宗茂的號招下,一方面於固城集結弟弟高橋統增、毛利秀包、寺澤廣高、共七千兵力,一方面連絡島津義弘、宗義智的一萬一千日軍分乘軍船五百艘隨立花軍援救被海陸圍困在順天城的小西行長,途中於露梁海戰和明、朝鮮水軍的李舜臣、陳璘等激戰,被大敗之。據《谷田六郎兵衛覺書》載,立花家臣池邊貞政立下一番乘踏入陳璘的戰船,但卻反遭串刺戰死。 日軍此戰勉強令小西行長脫圍,此時立花軍擔任日軍殿後,使主力軍艦退回釜山,並且援護其他日軍先回國。 最後宗茂於年底11月26日才和毛利秀包共同突破明、朝鮮軍的海上封鎖為最後狼狽逃回日本。 慶長五年(1600年)關原之戰時,宗茂拒絕了德川家康的勸誘只為了報秀吉的恩情而率四千兵力加入西軍。關原開戰前夕,近江大津城主京極高次突然叛變,主將石田三成命令毛利元康(末次元康)、毛利秀包、宗義智、筑紫廣門和宗茂一同前往攻擊,此戰宗茂無損一兵一卒擊退了夜襲的敵軍,更發揮了養父道雪的發明「早入」,將火藥和彈混合塞入竹筒並連結鐵炮掛於足輕肩上、使的立花軍的鐵炮能比他家的鐵炮隊使出3倍速以上的銃擊,並且家臣立花成家立下了一番乘。可是在攻下了城池的同時,西軍卻也在關原戰敗,遂放棄了大津城。撤退期間遇到西軍殘兵正打算燒毀通往京都和美濃交通要道的瀨田唐橋,企圖延緩東軍的進軍速度,然而宗茂卻止住了這樣的做法,說了:「這座橋是為交通要道,不僅是軍隊連對人民而言也是重要的道路,燒毀了豈不連人民也受苦!?我軍即使不燒毀這座橋仍有伏見城的守備能拖緩敵軍!」事後德川家康聽聞宗茂如此做法便稱贊說:「宗茂真是具備剛仁的第一勇者」(立花は剛なるど仁あり まことに第一の勇者である) 撤退到大阪城後,宗茂對毛利輝元提出在大阪籠城對抗東軍的計劃,可是輝元卻已答應家康的勸降而拒絕,宗茂憤而領軍回柳川。途中遇到有如殺父仇人的島津軍只餘約八十人一同等待乘船,立花家臣有人提議不如趁機報殺父之仇,然而宗茂卻斥責說,並對島津義弘聲明義弘則向宗茂提出一同前往薩摩抵抗東軍的提議,但是宗茂卻回答:「放棄自身城池,前往他人的領地作戰在立花家訓是不允許的。」義弘因此由衷佩服宗茂,並且回領地後派出重臣新納忠元率一萬兵力往柳川為援軍。 11月,宗茂回歸柳川後隨即遭到途中叛變到東軍的鍋島直茂的侵攻,而黑田如水(黑田孝高)也在一旁打算坐收漁翁之利。領地遭到侵入而不還擊是武士的恥辱,但是天下大勢已趨向家康,親自出陣對抗的行為等於不服家康,實為不智之舉,因此宗茂為了武家的意地以及對家康表示臣服,自己只坐鎮在城中運籌帷幄,指揮一萬三千的兵力,在柳川領地周邊的城砦和河口配置了堅固的防衛線,並派家臣團出戰。 宗茂命家老小野鎮幸為總大將,率一千三百餘人於江上八院一帶封住鍋島三萬二千的大軍,然而激昂的立花軍先鋒壞了軍令擅自開戰,雖然立花軍沖破鍋島12段軍陣當中的9段,然而以立花統次為始,為了救援以必死之勢突擊的先鋒安東久照、石松政之而率第2陣斷後的立花鎮實和其次男立花親雄、新田鎮實、第3陣的年輕武者十時惟久皆陸續戰死,鍋島軍則發生先鋒鍋島茂忠命危,返回本陣五反田才得以收拾軍勢的情況,可說是軍勢大亂憑人數優勢作戰,雖然鍋島軍包圍小野鎮幸的本陣,但在其拼死奮戰下沒能殲滅,最後本在戰場西方監視黑田軍動向的立花成家率三百兵力側面奇襲溷亂了鍋島軍使鍋島軍逐漸撤退,一方面掩護小野鎮幸撤退結束了此戰,結果立花方損失三百餘人,鍋島也付出二百餘人的犧牲者。之後因為黑田孝高、加藤清正率軍加入柳川城的包圍而轉為籠城,同時宗茂受到好友加藤清正的說降,在與重臣連番考慮下,宗茂因為顧慮到柳川領民的安全,終於開城交出城池。 關原之戰後宗茂被改易成了浪人。面對欣賞宗茂器量的加藤清正和前田利長的仕官勸誘,都被宗茂拒絕了。宗茂受加藤清正的好意於肥後玉名郡高瀨的清源寺當了一陣子的食客後於慶長六年(1601年)7月入秋後帶著家臣共約二十人前往京都,於翌年3月到達妙心寺依附立花道雪義子戶次茂庵所認識的吳服商富士谷紹務並暫住於大德寺大慈院,慶長八年(1603年)秋離開京都於12月到達江戶,本多忠勝因當年共受豐臣秀吉贊賞之故,安排其暫居高田寶祥寺。 終於對其才能感到可惜的德川家康於慶長九年(1604年)2月透過本多忠勝招喚宗茂,於7月25日揭見家康受任將軍幕府的御書院大番頭領5千石,慶長十一年(1606年)1月3日家康打算給宗茂陸奧棚倉的領地,但因將軍之位已讓於德川秀忠,因此於9月上旬宗茂會見秀忠後,於11月11日正式給予陸奧棚倉一萬石複歸大名身分,更於慶長十五年(1610年)7月25日加增至三萬石。 大阪之役的時候家康因擔憂宗茂的武勇智謀和統率能力會為豐臣家效力而盡力的勸說宗茂,宗茂並在大阪冬之陣於大阪城西北的天滿川濱筋口參陣,大阪夏之陣更成為德川秀忠的軍事顧問和旗本大將,預言應驗了秀忠不聽建議,率軍獨斷的突出將會遭到豐臣方大野治房突襲的戰況;後隨本多正純等人參與天王寺口抵擋突破德川軍數陣的毛利勝永的攻擊。 因這些功勞於元和六年(1620年)11月27日奇跡似地得以回歸舊領築後柳川藩,獲得十一萬九千六百石,完成了複歸柳川大名的心願,不同於丹羽長重等僅是回複大名的身分,是日本史上唯一領地改易後還能回複舊領地的人。晚年也擔任第三代將軍德川家光的相伴眾,為其說明戰國的物語故事,而德川家光也贊美宗茂為「真正的武人」。 ​寬永十四年(1637年)爆發島原之亂,宗茂在戰事後期被任命前往輔佐總大將松平信綱,負責戰略面的指揮,預言了敵兵偷襲奪糧的行動並做出預備措施,並且於有馬城攻城時展現了昔日的勇姿,參陣的諸大名以武神再臨贊歎當時的宗茂。 寬永十九年(1642年)於江戶下屋敷因胃病死去,年七十六歲,法名大圓院殿松陰宗茂大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
高橋元種 Takahashi Mototane(1571年-1614年) 元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生まれる。天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、日向国縣(延岡)に5万3,000石を与えられた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄の秋月種長と行動を共にして大垣城に籠城した。9月15日の本戦で西軍が敗れると水野勝成の勧めで東軍に内応した種長に従った。そして同じく籠城していた相良頼房を誘って、熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城中で殺害。23日には大垣城守将の福原長堯を降伏させ、徳川家康から所領を安堵された。その後、縣城築城などを行なって藩政の基礎を固めることに尽力している。 しかし慶長18年(1613年)、幕命により改易となった。表向きの理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・坂崎左衛門(水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。しかし、左衛門を匿ったのは信高に続き肥後の加藤清正、そして元種だったが、評定では清正は無罪になり、残り二人が有罪、清正だけが無罪となった理由が不明である(清正自身は、既に慶長16年(1611年)に死去している)。これらから、本当の改易の原因は、徳川政権草創期の大久保長安事件にあるといわれている。この事件で長安と縁戚になるかなりの人数の大名が厳しい粛清を受けたが、元種と富田信高も縁戚になることから改易になったとされている。 理由はともかく、元種の身柄は長男・左京と共に陸奥棚倉藩主立花宗茂にお預けの処分となった。後、慶長18年(1613年)12月 - 同19年(1614年)7月の間、縣藩は幕府預かりとなり、幕府上使の豊後臼杵藩稲葉氏と肥前人吉藩相良氏の管理下に置かれた。 慶長19年(1614年)10月9日、棚倉で死去。享年44。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%85%83%E7%A8%AE

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