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伊地知重興 Ijichi Shigeoki(1528年-1580年) 伊地知重武之子,正室為禰寢重就之女,側室不詳。幼名虎太郎丸,通稱又九郎,戒名千山守法庵主。 父親重武擔任島津宗家當主島津勝久的家老,重興仕奉勝久的繼承者,來自伊作島津家的島津貴久,弘治二年(1556年)4月,參與討伐蒲生氏。但永祿年間,重興和肝付兼續及禰寢重長結成同盟,反抗島津家。 元龜三年(1572年)9月,家臣伊地知重矩的小濱城被島津歲久攻下,隔年天正元年(1573年)盟友禰寢重長向島津義久投降,情勢更加嚴峻。重興在天正二年(1574年)3月和肝付氏一同進攻背叛的禰寢氏,但肝付氏的家臣安樂兼寬的牛根城向島津家投降,優勢盡失之下,重興剃髮並將領地全部獻出向島津家投降(下之城獲得歸還)。 之後做為島津氏家臣任周防守,進攻日向國伊東氏的高原城和進攻大友氏之時相當活躍。天正八年(1580年)去世。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%9C%B0%E7%9F%A5%E9%87%8D%E8%88%88
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、石川利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、木造雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、長尾景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部政直、南方就正、二階堂盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢沢頼綱、薬丸兼将、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐続光、里見義頼、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顕宗、伊達政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顕村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶広、蠣崎守広、蠣崎盛広、龍造寺家晴、富田氏実、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稲富祐秀、支倉常長、秋山信友、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、渋江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志駄義秀、平林正恒、神保氏張、滝野吉政、蜷川親長、井戸良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豊永勝元、長寿院盛淳、横山喜内、向井正綱、北条早雲、太田道灌、尼子経久、今川氏親、長尾為景、浅井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、本願寺蓮如、宮本武蔵、佐々木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧源太、南光坊天海、森蘭丸、簗田政綱、毛利新助、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林羅山、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田辺勝成、黒沢道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景広、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、関盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直頼、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南条元忠、南条元清、石野氏満、有馬則頼、有馬豊氏、赤松則英、赤松広秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戸元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷義治、大野治房、大野治胤、奥村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、吉弘統増、松平家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長頼、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
禰寝重張 Nejime Shigehira(1566年-1629年) 父:禰寝重長、母:肝付兼続の娘、正室:島津家久の娘;幼名菊千代丸、通称七郎,改名重虎,戒名龍雲存白居士。 永禄9年(1566年)に禰寝重長の嫡男として誕生する。父の重長は肝付氏に与して島津氏に反抗したこともあったが、元亀4年(1573年)に和睦して以降は島津氏に忠節を尽くした。その父が天正8年(1580年)に死去したため重張が名跡を継ぐ。しかし、文禄4年(1595年)、太閤検地の影響により、それまで領有していた根占七ヶ郷から吉利村(現:日吉町吉利)3,200石余へ移封となった。 慶長5年(1600年)、重張は伏見屋敷の警衛役として京にあったため同年8月の伏見城の戦いに参加、重張は伏見城へ先登して軍功を立て、9月15日の関ヶ原の戦いにも参加したが、敵中を突破しての退却の途中で義弘ら本隊とはぐれる。重張は頼実という僧侶を含めた主従4人と共に洞穴の中に隠れていたところを捕えられ、大坂の山岡景宗の元へ送られ獄舎に入れられた。唯一、頼実のみは僧侶ということで許されていたのであるが、その頼実が自らの知人を介して景宗と浅野幸長に重張の赦免を請うたため、重張は獄舎より出された。そして、広島へ向かい文職という僧侶の元に身を寄せた後(学問の為という)、翌慶長6年(1601年)1月15日に薩摩国へと戻った。 寛永6年(1629年)に死去。その際、主君の島津家久が追悼の和歌を詠んでいる。名跡は次男の禰寝重政が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AF%9D%E9%87%8D%E5%BC%B5
禰寝重長 Nejime Shigetake(1536年-1580年) 禰寝氏は大隅国の国人。禰寝氏16代当主。 永禄4年(1561年)、肝付兼続に従って大隅国内に出陣する。その後も肝付氏に従って島津氏と戦ったが、兼続の死で肝付氏の形勢が不利になると、元亀4年(1573年)、島津義久と単独で和睦した。このため、肝付兼亮と伊地知重興に攻められることとなったが、これは島津軍の援軍によって撃退している。 また、重長は内治において優れた才を発揮し、対明貿易や商業の奨励を盛んに行なった。温州みかんの栽培を日本で最初に行った人物といわれている。 天正8年(1580年)死去。嫡子・重張が17代当主となり、島津氏の重臣として引き続き仕えた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AF%9D%E9%87%8D%E9%95%B7
種子島恵時 Tanegashima Satotoki(1503年-1567年) 父:種子島忠時、母:蒲生宣清の女、妻島津忠興の女;諡号意釣,戒名蓮住院日善大居士。 恵時が家督を継承する頃、薩摩国は島津勝久とその養子である島津貴久との間で分裂しており、この抗争で恵時は貴久方に加勢し、天文7年(1538年)の加世田城攻めや天文8年(1539年)の市来城攻めなどで武功を大いに挙げている。 しかし、南北朝時代より種子島の実権をめぐって争っていた禰寝氏との対立がこの頃激化。弟である種子島時述との対立を禰寝氏に付け込まれ禰寝清年(もしくは禰寝重長)との戦いに敗れ、一時的に屋久島に逃れることになった。この争いは天文13年(1543年)に恵時が禰寝氏を攻め種子島・屋久島から駆逐することで一時的に決着をみた。 これと前後して天文13年(1543年)に鉄砲が種子島に伝来。『鉄炮記』などこの事項を示す文書には主に子の時尭が登場していることから、この前後に時尭に家督を譲っていたと考えられている。 永禄10年(1567年)3月14日に死去。享年65。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6%E6%81%B5%E6%99%82

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