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望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
土肥政繁 Doi Masashige(生年不詳-1590年) 越中国弓庄城主。通称、四郎。官位は美作守。娘は下秀久の室。 越中土肥氏は土肥実平を祖とし、鎌倉時代より新川郡堀江庄の地頭職として名が見える。戦国期には、神保長職の膨張に伴いこれに属した為、椎名・上杉氏との抗争に巻き込まれ没落し、弓庄城に拠った庶流の政繁が上杉謙信に臣従して辛うじて命脈を保った。 天正6年(1578年)に謙信が急死すると、多くの越中国人と同様、織田方に寝返った。しかしその後上杉方に復帰したらしく、同9年(1581年)8月、佐々成政により城を囲まれている。この時は何とか城を持ちこたえたが、上杉氏の後詰が得られず、翌10年(1582年)に降伏した。しかし本能寺の変が起こるとまたしても上杉方に寝返る。 同11年(1583年)2月には成政の越後出兵の隙を突いて太田新城を奪うなどの働きを見せるが、成政・秀吉・景勝の三者が和睦を結ぶと進退窮まり、弓庄城を立ち退き、越後に落ちて上杉景勝を頼った。 同12年(1584年)10月、上杉軍の越中攻めの先鋒として宮崎城攻略に功をあげたが、上杉家中では冷遇され、同18年(1590年)、越後国能生で病死した。一族はその後最上義光、村上頼勝などに仕えた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E6%94%BF%E7%B9%81
柿崎景家 Kakizaki Kageie(1513年-1574年) 柿崎利家之子,別名彌次郎。柿崎氏自稱為清和源氏新田氏之後裔,遠祖乃是南北朝名將新田義貞之子義宗,在義宗於應安元年擊敗越後守護上杉憲顯後,作為南朝在越後的柱石,世代居於柿崎而稱柿崎氏。然而另一方面,根據江戶時代米澤柿崎氏的系譜,柿崎氏其實應該是桓武平氏大見氏的後代,始祖應為城兵衛太郎維繁之子,擔任柿崎地頭一職的城家信,後來在南北朝內亂中一度沒落流於伊豆大見鄉,遂稱大見氏,其後隨上杉氏重回越後柿崎,恢復柿崎地頭職,遂自稱柿崎氏。 天文年間上條上杉氏的上條定憲為了從守護代長尾為景中奪回政權聯合大熊朝秀、宇佐美定滿、平子彌三郎、新發田綱貞、中條藤資、黑川清實、色部清長、本莊房長等國人眾興兵與之會戰,是役中當時仍名喚柿崎彌次郎的柿崎景家卻率領一族投入為景派,並立下戰功,因此得到了和泉守的官銜,除了本領猿毛城之外在接通下越及上越的扼要處柿崎木崎山上建城。 在長尾為景將家督之位傳給長子晴景後,家中重臣黑瀧城主黑田秀忠於天文十四年(1545年)起兵謀叛,柿崎景家一度響應,但隨即被為景幼子長尾景虎寢反,黑田秀忠也在翌年再次起兵時被討平,一族悉數自刃。柿崎景家也在臣服長尾景虎後受其贈與「景」字將名字由「彌次郎」改為「景家」。柿崎景家也在自己的領地柿崎修建了楞嚴寺,並力邀名僧天室光育擔任住持,楞嚴寺中也還保有景家在天文八年(1539年)時講述知識的抄本,足可見柿崎景家對學術文化建設的重視。 之後長尾景虎與兄長晴景爭位,直到天文十七年(1548年)在守護上杉定實的調停下晴景將家督讓與景虎,兄弟爭位期間柿崎景家在戰場上的驍勇表現也為景虎所讚,稱之為:「越後七郡無人能敵」的家中首席猛將,和宇佐美定行、本莊繁長、中條藤資、加地春綱、直江景綱、齋藤朝信並列為越後七手組,並與直江景綱共同擔任手判奉行。天文二十三年(1554年),由於當時長尾景虎為了防範武田家的信濃攻略過於逼近越後,同意協助被武田信玄逼出信濃的村上義清、高梨政賴的要求出兵北信州,所以武田信玄先發制人煽動北條高廣謀叛。但是翌弘治元年(1555年),景虎便在一月十四日讓柿崎景家與安田景元、琵琶島彌七郎率領琵琶島眾兵壓北條高廣,迫其投降。 在後世以猛將之姿留名青史的柿崎景家實際上於其活躍之處並不限於沙場,景家於永祿元年(1558年)被上杉謙信任命為春日山城的留守居役,且在春日山城中賜有屋敷,並且擔綱與伊達家的外交工作。隔年,謙信上洛歸來後,柿崎景家聯合其他將領代表奉上太刀祝賀,之後在謙信麾下歷任奉行之職,在永祿三年(1560年)時於居多神社協助謙信和齋藤朝信對領內欠收發佈免除府內地區五年諸役的法令穩定民心,同年還明令禁止禁止在境內殺生狩獵、採伐山林竹木以及發炮炸山的濫狩、濫伐對領國長遠經營有相當貢獻。同年上杉謙信以柿崎景家為先鋒進軍關東,在上野廄橋城過年,隔年在北條家居城小田原城久攻不下後,於當年閏三月轉往鐮倉的鶴岡八幡宮參拜,接受關東管領上杉家的家名時柿崎景家也和直江景綱、齋藤朝信的重臣一同列席社前觀禮。 永祿四年(1561年),進攻信濃的武田家與由越後來援助北信濃諸豪恢復領地的上杉謙信開戰,爆發著名的第四次川中島會戰,當役中信玄採用馬場信房等家臣所建議的啄木鳥戰術,暗中命馬場信房率軍趁夜繞路遠襲景虎本陣,不料此計卻被景虎識破更將計就計,趁朝霧之時以柿崎景家為先陣率一千五百兵馬一鼓作氣從妻女山向下對武田軍在八幡原的信玄本陣發動猛攻,不但擊潰武田信繁隊,更將信繁討取,同時將來援的山縣昌景打退,最後是武田軍馬場信房、高阪昌信支隊回援才堪堪擋住柿崎景家的進襲,也因為馬場信房、高阪昌信的回援讓上杉軍在人數上再落下風,於是謙信下令撤軍。戰後,雖然上杉、武田兩家勝敗難算,但是作為上杉軍先鋒、作戰勇猛駭人的柿崎景家武名大振,甚至響到西國一帶。 川中島會戰中,柿崎景家所採用的戰術乃是所謂的「一騎打」,也就是憑藉主將個人的武藝,率領親兵部曲於交戰時率先殺入敵陣,攻破其陣形再由步兵掩上衝殺,在主將領先衝鋒的帶領下,這樣的方式可以激起部隊奮勇作戰的士氣。但是在戰術逐漸演變成團體戰、組織戰的時代裡這種倚仗個人勇力的「一騎打」戰術本來是應該被逐漸淘汰的,但是由於柿崎景家本身超群的體格及武藝使得這套過時的戰術仍然在各處戰場上取得相當的成效,建立起柿崎景家的赫赫勇名。 元龜元年(1570年),上杉謙信與在關東纏鬥多年的北條氏康和議締結相越同盟,當時由上杉方以柿崎景家為主要的交涉人員和北條氏邦、氏照進行相關的談判,最後達成了謙信收氏康七子氏秀為養子,上杉方也以柿崎景家之子晴家為人質送往小田原城的協議。天正元年(1573年)時椎名康胤再度背叛,上杉謙信以柿崎景家為先鋒攻入越中,終徹底討平椎名康胤、神保長職將越中平定,遂揮軍逼向能登、加賀,同時柿崎景家的地位也再度提升,不但可以裝備三百騎的親兵,在保倉川以北一帶也擁有三萬貫的領地。 一般來說,柿崎景家的死因流傳最廣的自當是在天正三年(1575年)時至京都負責出售上杉家的三百匹馬,並交涉青苧的貿易事項時織田信長高價購入還送了一套精美和服給他,最後引起謙信懷疑其與織田家內通,遂在越後水島將柿崎景家父子誅殺。甚至還有後來上杉謙信之死便是因為他見到了被他冤殺的柿崎景家亡靈的閒話。但是經過近年的考證,柿崎景家應該是在天正二年(1574年)至三年期間病故,後來是其子晴家於天正五年(1577年)與織田信長內通被殺,後世穿鑿附會,結果變成柿崎景家也被牽連在內。 至今新潟縣柿崎町的楞嚴寺中仍供奉著柿崎景家夫妻肖像,其在柿崎町流傳的名聲與海音寺潮五郎的小說《天與地》中替柿崎景家塑造的好色形象是截然不同的,所以當《天與地》改拍成電影後柿崎町民都抵制觀看。這可歸因是江戶時代類似小說的軍記、物語大量興起,加上講說藝人的渲染,使得柿崎景家在文政方面的能力遭到貶抑,甚至跟呂布、張飛一樣完全被改變成大老粗,智謀、文藝的表現完全被抹煞。 出處 http://m.gamer.com.tw/forum/C.php?bsn=60238&snA=289
椎名康胤 Shiina Yasutane(生年不詳-1576年) 越中国の国人。松倉城主。椎名慶胤の子と推定される。 椎名氏は、越中新川郡の守護代の家柄であった。ところが、椎名慶胤が神保慶宗の乱に加担したため守護代職を越後長尾氏に奪われ、後継の椎名長常はその又守護代として越後長尾氏に服属していたものの、長尾為景の死後に神保家再興を成し遂げた神保長職の攻勢を受けて衰退していた。そのような情勢の中、康胤が家督を継いだ。 弘治3年(1557年)、能登畠山氏の内紛である弘治の内乱に際し、椎名宮千代(後の康胤かは不明)は、八代俊盛を海路援軍として畠山義綱方へ送っている。内乱は椎名氏が支援した畠山義綱方が勝利し、畠山氏との関係を深めた。 永禄2年(1559年)夏、神保長職が再び椎名氏への攻勢を強めたため、康胤は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)に援軍を要請し、永禄3年(1560年)3月、上杉軍により富山城、増山城は陥落し、長職は逃亡した。危機を脱した康胤は、同年の景虎の関東出陣に従軍している。しかし神保長職が勢力を回復し、永禄5年(1562年)9月5日、神通川の戦いで椎名軍は神前孫五郎を討ち取られるなどの大敗を喫し、居城の金山城(松倉城)まで攻め込まれる事態となった。ところが、翌月には再び謙信が来援し、遂に長職を降伏へと追い込んだ。これは康胤が長尾一族の長尾景直を養子に迎えており、強固な上杉氏との結びつきによるものといえた。しかし、宿敵・神保長職は神保氏と関係が深い能登畠山氏の仲介により中郡(婦負・射水郡)の支配権を安堵され、康胤には不満の残る処置となった。 一方で謙信は、関東出陣中の居城春日山城の留守を康胤に任せるなど康胤に信頼を寄せていたが、永禄11年(1568年)7月、康胤は甲斐国の武田氏の調略に応じ、上杉氏を離反した。永禄12年8月、康胤の離反を受けて、上杉謙信は越中に出陣して松倉城を包囲したが、守りは固く、10月には包囲を解いて帰陣した。 その後、三木良頼の仲介で上杉氏と和睦し、大坂本願寺へ援軍を派遣したりしたが、元亀3年5月、武田信玄の西上作戦支援のため、加賀一向一揆が越中に侵攻したことに呼応し、再び反上杉の動きを示したため、一揆勢を撃破した上杉軍に再び居城松倉城を攻囲され、元亀4年正月、謙信の養子である長尾顕景を通じて降伏開城した。その後の康胤の消息は不明であるが、一説には、天正4年(1576年)、一揆方として籠城していた砺波郡の蓮沼城を上杉軍に攻略され、自害したという。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E5%90%8D%E5%BA%B7%E8%83%A4
畠山義綱 Hatakeyama Yoshituna(生年不詳-1594年) 畠山義續的長子、母不明、正室為六角義賢之女;幼名次郎,別名義則、義胤,戒名德榮。 義綱出身於能登畠山氏,畠山氏本出自桓武平氏,鐮倉時代被北條氏消滅,當主畠山重忠之妻(一說重忠之女)改嫁足利義純,足利義純改姓畠山,並繼承畠山家的舊領。畠山氏的血統從「平氏」變成「源氏」。源氏畠山家後分為二本松畠山家、河內畠山家和能登畠山家等。河內畠山家躋身室町幕府三管領氏之一,該族的家督之爭是「應仁之亂」的起因之一。二本松畠山氏後為伊達政宗所滅,河內、能登畠山氏家督逐漸淪為家臣的傀儡,先後退出曆史舞台。 天文二十一年(1551年),父親義續為前年發生的「能登天文之內亂」負責而隱居,於是把家督之位讓予義綱。但是在義綱政權初期,因為義續是後見人,義綱在弘治元年(1555年)之前都沒有主體行動。 弘治元年(1555年),因為「畠山七人眾」(重臣們為把大名傀儡化而建立的政治合議組織)崩壞,中心人物溫井總貞被義續・義綱父子等人暗殺。在這次暗殺事件後,溫井氏與和溫井氏相當親密的三宅氏以加賀一向一揆為己方發動大規模的反亂,一時間外浦被佔領(弘治之內亂)。但是這次內亂亦在永祿三年(1560年)期間被義綱方鎮壓。在這次內亂的過程中,義綱方的士氣高昂,於是大名專制支配被確立。 這次內亂終息的永祿三年(1560年)至永祿九年(1566年)時期是末期能登畠山家比較安定的時期。在能登國內沒有家臣謀反或內亂發生。還有向將軍家的贈答在永祿四年(1561年)再度開始,氣多社的興建亦得到朝廷許可而得以實行。後來在永祿五年(1562年)被上杉謙信攻擊的神保長職向義綱請求仲介並調停成功等,開始在外交活動上活躍。同年接受正親町天皇的敕許而再度興建能登一宮,自身亦通過朝廷和幕府來寄進7千疋錢。 但是反抗以義綱為中心的大名專制支配的長續連、遊佐續光、八代俊盛等重臣在永祿九年(1566年)發動政變並把義續・義綱父子追放(永祿九年之政變)。因此義綱等人逃往有親戚關係的六角氏領地近江阪本。 以奪回能登為目標的義綱等人在六角氏的支援以及與上杉謙信和神保長職等人的合作,在永祿十一年(1568年)侵攻能登,但是失敗並敗退。之後復權的策劃亦沒能成功。 有史料指義綱後來成為豐臣秀吉的家臣,但是不能確定。文祿二年(1593年)於近江伊香郡(余吳町)的余吾浦死去。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E7%B6%B1
神保長職 Jinbo Nagamoto(生年不詳-1572年?) 永正17年(1520年)、越中守護・畠山尚長(尚順の改名後)と越後守護代・長尾為景の連合軍に敗れて自刃した神保慶宗の子とされる。神保氏嫡流の通称である「宗右衛門尉」を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことから、それが後の長職である可能性は高い。慶宗が畠山尚慶(尚順(尚長)の初名)より偏諱を賜ったのに倣い、長職も同じく畠山尚長より「長」の1字を受けたものとみられる(しかし前述の通り慶宗はやがて尚順から独立する動きをとって敗死しており、家督継承時には畠山氏とは疎遠になっていたものと思われる)。 江戸時代の史書『越登賀三州史』において富山城を築城した水越勝重なるものが、「後に神保越中守長職と称す」とありかつては同一人物と考えられていたが、これは誤伝で勝重は長職の家臣であることがわかっており、現在では長職の命を受けた勝重が築城を奉行したと考えられている。また、長職が越中守を称した事実はない(越中守を称したのは息子の神保長住である)。 長職は没落していた神保家の再興に努め、享禄4年(1531年)加賀国における享禄の錯乱に守護方連合軍の一員として出兵するまでに勢力を回復させた。もっともこの時、神保勢は一揆勢に大敗を喫している。さらに長職は天文12年(1543年)頃、神通川を越えて新川郡に東進して富山城を築き、椎名長常と国人衆を巻き込み越中を二分した越中大乱と呼ばれる大戦を引き起こした。長職は更に南進して城生城主斎藤氏を一年余に渡って包囲するなど猛威を奮い、天文13年(1544年)、能登畠山氏の仲裁により大乱は集結したものの、常願寺川以西を併呑し、神保家を越中最大の勢力に築き上げた。 永禄2年(1559年)、再び椎名氏への圧迫をはじめ、長尾景虎(前述の長尾為景の子、のちの上杉謙信であり、以下「謙信」とする)により仲裁を受けるが、その後も椎名氏への攻撃を止めなかったため、永禄3年(1560年)、謙信の越中出兵を招いて敗北し、富山城を放棄して増山城へ逃げ込んだ。その後、畠山氏の仲介を受けて上杉謙信と和睦している。しかしその後も甲斐の武田信玄と通謀して椎名氏への圧迫を続けたため、永禄5年(1562年)の7月に謙信の再侵攻を受けて敗北した。しかし上杉軍が帰国するとすぐに再起し、9月5日には神通川の合戦で上杉方・椎名勢を撃破し、同族の神保民部大夫、椎名家重臣の神前孫五郎を討ち取り、松倉城下まで椎名氏を追い詰めたが、翌月再び謙信の侵攻を受けて居城増山城を包囲され、またも能登畠山氏の仲介で降伏している。 長職は神通川以東を失ったが、本領の射水・婦負二郡の支配権は従前通り認められた。能登畠山氏との友好関係によって上杉氏を牽制したためとの説もある。しかし、永禄9年(1566年)に能登畠山氏に内紛が起こり、畠山義綱父子が重臣により追放されると、長職は上杉謙信と共同して義綱の能登復帰作戦を支援するが、永禄11年(1568年)、椎名康胤が上杉氏を離反して武田・一向一揆方に立つと、神保家中は嫡子・神保長住を仰ぐ家老寺島職定を中心とする反上杉派が台頭し、親上杉派の家老小島職鎮と対立した。長職は長住一派を弾圧し、それまで親密だった一向一揆への攻撃を開始したため家中は分裂し内戦状態となった。上杉家の介入によって反上杉派は壊滅したが、神保家の上杉氏への従属を深める結果となった。長住は出奔して後に京で織田信長に仕えた。 しかし一方で長職は中央の動きも注視しており、上洛前の織田信長とも誼を通じていた。永禄13年(1570年)1月、足利義昭を擁し上洛を果たした織田信長が全国の有力諸大名に上洛命令を発すると、長職はこれに名代を派遣している。しかしこの頃神保氏は内紛の結果疲弊し、家中の実権は次第に親上杉派の老臣小島職鎮に牛耳られていた。長職は剃髪して宗昌と号し、家督を次男神保長城に譲っていたが、元亀2年(1571年)末頃、再び立場を一変させ、一向一揆と和睦し、反上杉の立場をとった。しかし長職はその後史料に表れず、程なく没したものと思われる。 長職の反上杉路線は長城に継承されたが、天正4年(1576年)、足利義昭により第三次信長包囲網が形成されると、上杉家は反織田信長の立場を鮮明化し、北陸地方へ大規模な侵攻を行った。この際に増山城は攻略され、長城の消息も途絶えてしまい、ここに長職の再興した神保氏嫡流は滅亡した。織田家へ仕えた嫡子長住は、一時は富山城主に返り咲いたものの、その後信長により追放され、庶流の神保氏張が後に佐々家、次いで徳川家に仕えて辛うじて戦国時代を生き抜いた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E9%95%B7%E8%81%B7

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