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以下數據為「信長の野望.創造 戦国立志伝」遊戲版本Ver. 1.0.2.0的「大坂の陣」劇本 戰國立志傳較之前新增人物230名,位置在平田宗茂之後,寿桂尼之前: 南部重直、伊達忠宗、蒲生忠郷、岩城吉隆、上杉定勝、徳川頼房、徳川光圀、秋田俊季、浅野長重、新庄直定、松平康長、小笠原信之、小笠原政信、土方雄重、松平忠良、本多政朝、内藤政長、松平忠昌、奥平家昌、奥平忠昌、成田氏宗、日根野吉明、本多忠純、稲垣重綱、水野忠清、榊原忠次、秋元長朝、牧野忠成、酒井忠利、高力忠房、伊奈忠政、西尾忠永、鳥居成次、真田信吉、真田信政
伊達政宗 Date Masamune(1567年-1636年) 伊達輝宗的長子、母為最上義守之女.義姬、正室為田村清顯之女.愛姬、側室為飯坂宗康之女.飯坂之局;幼名梵天丸、通稱藤次郎、渾名獨眼龍。 右眼失明 政宗在年幼的時候由於罹患皰瘡(天花)失去右眼的視力,也因此後世皆稱之為獨眼龍。不過關於政宗右眼失明的原因,之後多採用「從樹上摔下來時眼球被樹枝刺下來,於是便把眼球吞進肚子」的說法。 母親義姬在政宗右眼失明後,便覺得政宗的容貌十分的醜惡。因此義姬嫌棄政宗,轉而喜愛次子小次郎。之後義姬更有毒殺政宗的行動(該次暗殺行動後小次郎被政宗殺害),不過政宗卻說:「這件事與母親無關」。 元龜三年(1572年),父親輝宗聘請臨濟宗的虎哉宗乙禪師為五歲的政宗的老師,天正三年(1575年),輝宗讓神職之子片倉小十郎(片倉景綱)擔任政宗的侍童。片倉景綱可以說是政宗最親近的人,側近中的側近,日後是政宗的得力軍師。天正五年(1577年)元服,取名與伊達家第九代當主,有中興之祖之稱的伊達政宗同名,足以見得輝宗期望政宗能振興伊達家。另外,原本政宗的名字預定是取第十五代將軍足利義昭的昭字,定名為昭宗。 天正七年(1579年),在父親輝宗的安排下,政宗與同屬陸奧國大名,三春城城主田村清顯的獨生女,愛姬成婚(陸奧田村氏傳說乃古代遠征奧羽的坂上田村麻呂後代)。〔這樁聯姻在於相馬氏屢屢來犯時,相馬顯胤總是與嫡子盛胤從犯伊達家領地的東南邊領,同時又聯同其他大名侵略田村氏,故換句話說是兩家結盟對抗相馬等氏的政略婚姻。相馬顯胤是輝宗的祖父伊達稙宗的女婿,算是輝宗的姑丈。兩家自從天文之亂後一直交惡。(顯胤經常說:「我是伊達家的女婿,盛胤是稙宗大人生前鍾愛的孫子,憑什麼不讓我們成為伊達家臣?」) 版圖擴充 天正九年(1581年),15歲的政宗由片倉景綱與伊達成實陪同初次領軍作戰(另有一說為天正十年,但大多作九年),政宗先下大森城,再破金津城,沒幾天後伊達軍又攻破丸森城與金山城。但兩家並未分出勝負。(伊達氏自此之後,東面戰線的主要交戰對手都是相馬氏,直至天正十八年(1590年),政宗與相馬氏一直處於交戰對立狀態。) 天正十二年(1584年)父親輝宗有鑒於家內為未來繼承人的問題而分為兩派(政宗與小次郎,其中小次郎派為義姬幕後主腦),為停止家中分裂,輝宗決定讓政宗繼任家督的同時宣布退位。雖然政宗多次諫止,但在群臣的勸說後,18歲的政宗正式繼任為伊達家17代家督(「貞山公治家記錄」卷一)。政宗繼位後,決意向周邊的敵對大名交戰。第一步是迫立場反覆不定的大內氏投降,其當主大內定綱在蘆名的支持下拒絕政宗的威脅,於是政宗便大舉進攻大內定綱,並發生小手森城屠城的事件。深感危機的二本松義繼為求自保,終在天正十三年(1585年)前往拜見輝宗,但義繼突然發難脅持輝宗威迫伊達家讓步,政宗下令向義繼部隊射擊,結果是義繼和輝宗二人在鐵砲射擊下死亡,是為粟之巢之變。 其後,政宗開始鎮壓叛變的大內定綱。同時在蘆名義廣、常陸的佐竹義重為首的奧羽南部大名,如岩城常隆、石川昭光,白川義親、相馬盛胤、二階堂盛義等反伊達的軍隊也開始向伊達家進攻,戰場從觀音堂轉戰到人取橋,慘烈的程度連指揮的政宗都投入一般的白刃戰鬥。儘管戰鬥經常呈現膠著,但是政宗聯絡北條氏派軍攻擊佐竹領,同時義重本營又收到反佐竹的江戶重通趁機入侵,故反伊達陣線因此一夜撤軍。政宗辛辛苦苦終於贏取是役的勝利。可是政宗也損失七十三歲的老部將鬼庭良直,他為保護伊達軍免於崩潰,於是殿後作戰,於人取橋附近奮戰而死。 之後政宗又於天正十七年(1589年)在摺上原對抗(摺上原之戰),並先後將蘆名氏和二階堂氏消滅。經過摺上原等對周邊大名的戰爭後,伊達的勢力已經滲入整個會津及奧州,而政宗開創比父祖更大的伊達家版圖,當時領地的石高推定為120萬石左右。 豐臣政權家臣時期 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵後北條氏小田原城,並下令伊達家派兵協助,但是因為在出兵前中欺騙秀吉,政宗遲遲還沒作出決定,幸而有片倉景綱的提醒下,部隊遲出發,秀吉曾打算將政宗處死,於是政宗將自己和其部隊全身白色裝束上陣,並且甘願受罰,以表示忠誠和謝罪,所以秀吉以杖代刀的方式來處罰政宗,並且寬恕政宗罪過;戰後由於出兵有功,所以伊達家能保持原有的領地,而失去會津一帶的領地。戰前,母親義姬因支持政宗之弟伊達小次郎政道而欲毒殺政宗,讓政道取而代之;之後小次郎被處死,義姬則在事件發生數年後離開伊達家,回到兄長山形國大名最上義光的山形城(原因不明)。 天正十九年(1591年),協助蒲生氏鄉平定葛西大崎一揆,但是氏鄉則指政宗與一揆軍內通,於是政宗為此事再次上京解釋,證明該書物是偽造後,而秀吉則決定改封政宗至岩出山城58萬石(但米澤等地則被沒收,故是減遷)。 天正二十年(1592年),受豐臣秀吉之命令派三千兵出征朝鮮,3月抵達征明(中國當時為明朝)之地名護屋,文祿四年(1595年)獲批准回日本。政宗沒有參與慶長之役。慶長四年(1599年)將嫡女五郎八姬與松平忠輝婚姻。自此就與德川家康有親近的關係。在關原之戰時支持東軍,雖然無法直接參與在關原的本戰,但是政宗在長谷堂城之戰接受最上義光的求援,派遣留守政景支援長谷堂城的戰況,使直江兼續無法攻下長谷堂城。 仙台藩主 由於關原之戰所屬的德川軍取得勝利,因此政宗的領地得以保留。德川家康原定安排政宗成為100萬石大名,但是因為被揭發煽動和賀忠親引發岩崎一揆,只能由原來石高57萬增封為62萬的大名,成為仙台藩藩祖,隨後立即築起仙台城及城下町,當時仙台城仍為山城,在山下設下城下町,仍有統一天下之心(政宗死後被改建為平山城)。 參與由德川對豐臣的大坂冬之陣及大坂夏之陣等著名戰鬥,在夏之陣的道明寺之戰於譽田與真田信繁部隊激戰,在天王寺·岡山之戰,曾經向我方神保相茂部隊自相殘殺以鐵炮部隊使之全滅,之後神保遺臣透過水野勝成喊冤,要求德川家要政宗需對事件作出解釋。但是最終幕府沒有對政宗的行軍作出任何懲罰。 此外政治方面,更於慶長十八年(1613年)派遣家臣支倉常長到羅馬與教廷使節會面長達七年,成功在外國進行貿易。亦成功將仙台一帶成為經濟的重心。 德川幕府成立後,曾多次任將軍的上京供奉。曾說「願早生二十年,成就如信長公霸業」,政宗雖有想要一統天下的志向,卻難逃生不逢時的厄運。 寬永十三年(1636年),已隱居的政宗於江戶因食道癌病逝,年七十歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
八木豊信、山田重直、行松正盛、尼子清久、尼子久幸、赤穴久清、赤穴光清、牛尾幸清、亀井秀綱、別所重棟、別所吉治、宇野政頼、赤松村秀、井上之房、栗山利安、黒田一成、後藤勝国、後藤元政、原田忠長、原田貞佐、三浦貞久、三浦貞盛、金田弘久、中村則治、牧良長、宇喜多興家、伊賀久隆、遠藤俊通
明石全登 Akashi Takenori(生年不詳-没年不詳) 備前保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)である。 行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家の客将となった。景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、4万石の知行までになった。景親の嫡子全登もその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老格であった。 慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。 慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。 西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。 戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。 宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。 その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB
神保相茂 Jinbo Sukeshige(1582年-1615年) 神保春茂之子、妻為杉若無心之女;通稱長三郎,官至出羽守。 越中神保氏的同族,父親春茂一系是從神保長誠處分家而來,家族代代作為紀伊國有田郡石垣鳥屋城居住的畠山氏尾州家的家臣。後來畠山氏沒落後,春茂仕奉豐臣秀長、豐臣秀吉,被授予大和國6000石的俸祿。其後春茂病死,相茂繼承家督之位。 慶長五年(1600年),相茂在關原之戰中追隨東軍討伐上杉景勝,大敗上杉軍,戰後因此功績,俸祿獲得1000石的加增。 慶長二十年(1615年),大阪之陣時,相茂率領300的小隊在水野勝成隊屬下勇敢作戰,豐臣軍一時恐慌異常。5月7日,水野勝成隊在船場口受到明石全登部隊攻擊而陷入混亂,激戰中相茂部隊的32名騎兵和293名雜兵全部被殲滅,相茂本人也在此戰中戰死。江戶幕府的公式記錄『德川實紀』(『台德院殿御實紀』)中記載神保主從在5月7日與明石隊的激戰中全滅。(此の戰に大和組の神保長三郎は、主從共に三十六騎馬同枕に討ち死にす) 相茂之死是因為突然受到己方的伊達政宗鐵炮部隊射擊而潰滅。島津氏的『薩藩舊記』就有伊達政宗因討伐己方而受到其他大名嘲笑的記錄。據『大阪夏陣推察記』記載因相茂部隊受攻擊後潰敗,沖擊伊達軍本隊,伊達軍按照軍法不分敵我進行射擊,使得相茂部隊潰滅,相茂本人戰死。 相茂死後,神保家遺臣曾就此事通過水野氏和本多正純向幕府告狀,要求對伊達政宗做出處罰。但僅僅7千石的外樣旗本神保氏不能與60萬石的大大名伊達氏相爭,最終幕府沒有對伊達政宗作出任何懲罰。 出處 http://baike.baidu.com/view/10292864.htm

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