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以下數據只適用於「信長之野望.創造 威力加強版」中文版。 日文版請到「信長之野望.創造 威力加強版」專長習得條件(成長類型)(日文) 本體版請到「信長之野望.創造」專長習得條件(成長類型) 「信長之野望.創造 威力加強版」專長習得條件(成長類型) 成長類型:中庸型、統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能型、萬能統率型 成長類型:萬能武勇型、萬能智略型、萬能政治型、勇將型、勇將射擊特化型、勇將槍特化型、勇降騎馬特化型 成長類型:猛將型、猛將射擊特化型、猛將槍特化型、猛將騎馬特化型、內政拿手型、外交僧型、宰相型 成長類型:軍師型、副將型、軍團長型、梟雄型、海戰名人型、守城型、守城專家型 成長類型:築城名手型、女性型、女武將型、薄幸美人型、賢妻良母型、女戰國大名型、女忍者型 成長類型:夜叉型、鬼型、虎型、捨奸型、信仰心型、大筒型、鐵甲船型 成長類型:下忍者型、忍者型、上忍者型、劍豪型、不幸型、幸運型、明智光秀型 成長類型:井伊直政型、石田三成型、今川義元型、上杉謙信型、織田信長型、織田信秀型、片倉小十郎型 成長類型:加藤清正型、蒲生氏鄉型、吉川元春型、黑田官兵衛型、高坂昌信型、小早川隆景型、鈴木重秀型 成長類型:齊藤道三型、榊原康政型、佐久間信盛型、真田昌幸型、真田幸隆型、真田幸村型、島津家久型 成長類型:島津義弘型、瀧川一益型、武田信玄型、武田信虎型、竹中半兵衛型、立花宗茂型、伊達政宗型 成長類型:長宗我部元親型、藤堂高虎型、德川家康型、豐臣秀吉型、長尾為景型、原虎胤型、古田織部型 成長類型:北條氏綱型、北條氏康型、北條綱成型、細川忠興型、堀秀政型、本願寺顯如型、本多忠勝型 成長類型:前田慶次型、前田利家型、毛利隆元型、毛利元就型、最上義光型、山縣昌景型 成長類型:山中鹿之介型、阿國型、迦羅奢型、歸蝶型、小松姬型、立花誾千代型 成長類型:中庸型、統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能型、萬能統率型 成長類型:萬能武勇型、萬能智略型、萬能政治型、勇將型、勇將射擊特化型、勇將槍特化型、勇降騎馬特化型 成長類型:猛將型、猛將射擊特化型、猛將槍特化型、猛將騎馬特化型、內政拿手型、外交僧型、宰相型 成長類型:軍師型、副將型、軍團長型、梟雄型、海戰名人型、守城型、守城專家型 成長類型:築城名手型、女性型、女武將型、薄幸美人型、賢妻良母型、女戰國大名型、女忍者型 成長類型:夜叉型、鬼型、虎型、捨奸型、信仰心型、大筒型、鐵甲船型 成長類型:下忍者型、忍者型、上忍者型、劍豪型、不幸型、幸運型、明智光秀型 成長類型:井伊直政型、石田三成型、今川義元型、上杉謙信型、織田信長型、織田信秀型、片倉小十郎型 成長類型:加藤清正型、蒲生氏鄉型、吉川元春型、黑田官兵衛型、高坂昌信型、小早川隆景型、鈴木重秀型 成長類型:齊藤道三型、榊原康政型、佐久間信盛型、真田昌幸型、真田幸隆型、真田幸村型、島津家久型 成長類型:島津義弘型、瀧川一益型、武田信玄型、武田信虎型、竹中半兵衛型、立花宗茂型、伊達政宗型 成長類型:長宗我部元親型、藤堂高虎型、德川家康型、豐臣秀吉型、長尾為景型、原虎胤型、古田織部型 成長類型:北條氏綱型、北條氏康型、北條綱成型、細川忠興型、堀秀政型、本願寺顯如型、本多忠勝型 成長類型:前田慶次型、前田利家型、毛利隆元型、毛利元就型、最上義光型、山縣昌景型 成長類型:山中鹿之介型、阿國型、迦羅奢型、歸蝶型、小松姬型、立花誾千代型
成長類型:中庸型、統率型、武勇型、知略型、政治型、万能型、万能統率型 成長類型:万能武勇型、万能知略型、万能政治型、勇将型、勇将射撃特化型、勇将槍特化型、勇将騎馬特化型 成長類型:猛将型、猛将射撃特化型、猛将槍特化型、猛将騎馬特化型、文官型、外交僧型、宰相型 成長類型:軍師型、副将型、軍団長型、梟雄型、海戦名人型、籠城型、籠城達人型 成長類型:築城名手型、女性型、女武将型、薄幸美人型、良妻賢母型、女戦国大名型、くのいち型 成長類型:夜叉型、鬼型、虎型、捨て奸型、信仰心型、大筒型、鉄甲船型 成長類型:下忍型、忍型、上忍型、剣豪型、不幸型、幸運型、明智光秀型 成長類型:井伊直政型、石田三成型、今川義元型、上杉謙信型、織田信長型、織田信秀型、片倉小十郎型 成長類型:加藤清正型、蒲生氏郷型、吉川元春型、黒田官兵衛型、高坂昌信型、小早川隆景型、鈴木重秀型 成長類型:斎藤道三型、榊原康政型、佐久間信盛型、真田昌幸型、真田幸隆型、真田幸村型、島津家久型 成長類型:島津義弘型、滝川一益型、武田信玄型、武田信虎型、竹中半兵衛型、立花宗茂型、伊達政宗型 成長類型:長宗我部元親型、藤堂高虎型、徳川家康型、豐臣秀吉型、長尾為景型、原虎胤型、古田織部型 成長類型:北条氏綱型、北条氏康型、北条綱成型、細川忠興型、堀秀政型、本願寺顯如型、本多忠勝型 成長類型:前田慶次型、前田利家型、毛利隆元型、毛利元就型、最上義光型、山県昌景型 成長類型:山中鹿之介型、阿国型、ガラシャ型、帰蝶型、小松姫型、立花誾千代型
以下數據只適用於「信長之野望.創造」本體版,加強版 請到「信長之野望.創造 威力加強版」專長習得條件(成長類型) 「信長之野望.創造」本體版 專長習得條件(成長類型) 歷史武將的成長類型,可於「信長之野望.創造」本體版 全武將數據一覽查出 成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型 成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型 成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型 成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型 成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型 成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型 成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型 成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型 成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型 成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型 成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型 成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型 自創武將成長類型的條件 武將如何增加四圍屬性? 遊戲的武將情報中,每個屬性下方都有一個經驗條,當某個經驗條滿了,對應的屬性就會+1,上限是+20。 填滿一個經驗條需要100點經驗,以下列出部份命令能得到的經驗。 數據來源: 01‧城主:4圍每月獲得7點經驗 02‧內政-開發:每月政治經驗+16(出陣武將無法獲得開發經驗) 03‧普請-建設:每次政治經驗+21 04‧普請-設營:每次政治經驗+18 05‧普請-整備:每次政治經驗+18 06‧普請-築城:每次政治經驗+60 07‧外交-工作:每月知略經驗+19 08‧調略-懷柔:每次知略經驗+28 09‧調查-巡查:每次知略經驗+24 10‧調查-偵查:每次知略經驗+24 11‧普請-修復:每月政治經驗+28 統率&武勇經驗,除了城主固定加以外,只能靠戰爭來獲得,但戰爭經驗計算比較複雜無法列出,但同一部隊大將和副將獲得經驗是一樣的。 出處 http://forum.gamer.com.tw/C.php?bsn=64&snA=8870 成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型 成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型 成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型 成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型 成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型 成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型 成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型 成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型 成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型 成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型 成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型 成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型 自創武將成長類型的條件
遊戲版本更新(2016/05/09):Ver.1.0.4.0 ≪改善≫ ・提案コマンドの「攻略」で、プレイヤーが城主の場合は軍団長に昇格しないよう改善 ・Steamの実績取得状況に合わせてプレイ記録を復元するよう改善 ≪不具合修正≫ ・海戦中に季節が変わると進行不能に陥る不具合を修正 ・騒乱が発生すると進行不能に陥る可能性がある不具合を修正 ・「本能寺の変」発生後のカメラの挙動を修正 ・領地リセットボタンの設定がセーブデータごとに保存されない不具合を修正 ・4/27配信パッチ以前のセーブデータにて、勲功増加量が不適切な値になる場合がある不具合を修正 (本アップデート以前のセーブデータをロードした際に、勲功増加量の設定を初期化するか選択肢が表示されるようになります) ・城主の地位で捕縛した武将を登用した場合、大名の配下になってしまう不具合を修正 ・チュートリアルを「家臣」で開始すると「投資」コマンドが実行できない不具合を修正 ・その他、表示などの不具合を修正 「信長之野望.創造 戰國立志傳」2016年4月27日 第1弾大型更新+DLC頭像 出處 http://www.4gamer.net/games/328/G032841/20160422043/ 予定内容(一部) 下記はあくまで内容の一部、および予定となります。実際の詳細は配信日に改めて発表させていただきます。 (1)提案コマンドの項目追加 (2)軍団長就任の辞退を追加 (3)領地リセット機能の追加 (4)勲功の入手量調整オプションの追加 他、各種ゲームバランスやイベント条件の調整、不具合の修正など 遊戲版本更新(2016/04/06):Ver.1.0.2.0 ≪改善≫ ・奨励コマンドで奨励できる拠点にフレアを出すよう変更 ・特性ソート設定に家臣団役職を追加 ・軍団情報に拠点情報ボタン及び武将情報ボタンを追加 ≪不具合修正≫ ・戦国伝「墨俣一夜城」が達成できなくなることがある不具合を修正 ・軍団長や城主から家臣に意図せず戻ってしまうことがある不具合を修正 ・合戦でカメラが意図せず揺れることがある不具合を修正(PS3®版、PS4®版、PS Vita版のみ) ・委任コマンドや新設コマンドで選択した拠点の家紋に黄色い枠が正しく表示されない不具合を修正 ・築城を一定数以上すると不正な拠点が建ってしまう不具合を修正 ※すでに不正な拠点が建っているセーブデータをロードすると、翌月に自動で撤去されます ・軍団長で攻略目標とされた勢力と同盟や停戦を結んでしまう不具合を修正 ・登録武将編集の文字や数字を入力する画面でTabキーを押すと決定ボタンが押せなくなる不具合を修正(Windows®版のみ) ・その他、誤字や不具合などの修正 ≪その他≫ ・スタートメニューの「各種設定」やゲーム中の「機能」の「攻略ガイド」から購入した攻略ガイドのDLCを表示できるよう変更(PS3®版、PS4®版、PS Vita版のみ) ※攻略ガイドのDLCは2016年4月18日に発売予定です。 遊戲版本更新(2016/03/24):Ver.1.0.1.1 ≪改善≫ ・建設コマンドで施設の情報が簡単に参照できるよう変更 ・情報一覧の武家情報で他勢力の武家の情報も見られるよう変更 ・御役目の種類を追加 ≪不具合修正≫ ・陣所コマンドで木材と鉄が正しく消費されない不具合を修正 ・進出可能アイコンが正しく表示されない不具合を修正 ・武将の口調で不自然な箇所を修正 ・その他、誤字や不具合などの修正 攻略鏈結 日文 http://smusou7.game-cmr.com/souzou/ http://souzou2016.wiki.fc2.com/ http://souzou.shiyo.info/risshiden_ryouchi.html 目前銷量 http://tieba.baidu.com/p/4447940838(PS4、PS3、PSVita 3月24-27日銷量) http://steamspy.com/app/375450(PC Steam平台) 目前DLC 30/3 新增免費DLC "Nobunaga's Ambition Day"memorial set(真田幸村大河劇「真田丸」造型、三國志13背景音樂3首) 電撃PlayStation Vol.611 互動DLC? "Mego Hime" Bushou Data ファミ通互動DLC "Miura Anjin" Bushou Data niconico互動DLC "Oyamada Shigemasa","Muramatsu Dono" Bushou Data TREASURE BOX 豪華裝特典DLC 劇本「戦乱止まず」 Senranyamazu 購買方法 巴哈討論 http://forum.gamer.com.tw/C.php?bsn=00064&snA=10431&tnum=5 購買地址#1(¥ 8,149 amazon.co.jp) 購買地址#2(¥ 9,155 gamecity.ne.jp) STEAM鎖區,可用信用卡於KOEI官方gamecity買數位版再於STEAM啟用,與STEAM同價9155日圓(8477+稅,) 不怕風險可試(已買)。後續DLC因鎖區無法瀏覽下載,除非付款地址和IP位置在日本地區,歡迎提供方法。 1.同意する 2.シリアルナンバー購入 3.簡易市民の方(Facebookログイン) ...
本作以《信長之野望·創造》的基礎上制作的全新遊戲而非追加DLC,主打武將扮演而非系列傳統的君主扮演模式,玩家可扮演一名武將通過「立身出世」「下克上」等等元素在遊戲中揚名天下。預計於2016年3月24日發售。
三好政康 Miyoshi Masayasu(生年不詳-没年不詳) 三好三人衆の1人。初め右衛門大輔政生、続いて下野守政康と名乗る。後に出家し、釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)と名乗った。 続柄に関しては諸説あり、『続応仁後記』では「三好之長の次男の孫三郎頼澄」とされる。また、『三好別記』によると「三好之長の弟・勝時の子である政長の子」とあり、『狩野文書』の元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によると、一任斎こと政長の子・三好政勝に宛てた手紙の書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記され、下野守政康は政勝の兄と記されている。また『芥川系図』では「政長の子、右衛門大夫政勝の弟」とする。頼澄の子とする場合、兄は三箇城主三好政成とされる。 なお、政康という名は『細川両家記』の誤謬が伝播したものといわれ、他の一次史料などによれば本名は政生(まさなり)となっている。 はじめ細川晴元の家臣として仕え、一族の三好長慶と争うが、後に和解勧告に応じ臣従。長慶の勢力拡大に貢献し、弘治元年(1555年)の丹波八上城攻めや永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に参陣して武功を挙げた。長慶の死後は甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。おしどりを形どった花押を用いていたという。永禄8年(1565年)5月19日、他の三人衆と共に三好氏と対立する室町幕府13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。 しかし、次第に畿内の主導権をめぐり久秀と三人衆との関係は悪化。11月16日、三人衆は河内飯盛山城を襲撃し、義継の身柄を河内高屋城に移すと、義継に久秀との断交を約束させ、義輝の従弟の阿波公方の一族足利義栄を14代将軍に擁立し、三好氏の本拠地である阿波の篠原長房の協力を得ることにも成功した。12月下旬には義栄に御教書を発行させ、軍を久秀の本拠地大和に進駐させ、筒井順慶らを味方につけ久秀を脅かした。一方の久秀は紀伊に逃れていた畠山高政・安見宗房らを扇動して高屋城を襲撃させ、永禄9年(1566年)2月に河内において畠山軍は三人衆に決戦に及んだが、三人衆は2月17日の上芝の戦いで畠山軍に大勝、久秀は大和へ退却する。4月に三人衆は再び大和に侵攻したが、久秀は城を脱出し堺において味方の軍を結集して、再び高屋城を脅かした。そのため三人衆は義継の親征を仰ぎ、摂津の池田勝正や淡路の安宅信康の援軍も得て久秀の3倍の軍で堺に迫ったため、5月30日に久秀は戦わずして逃亡した。この時、阿波の篠原長房が足利義栄を擁し大軍を率いて兵庫に上陸すると、三人衆はようやく長慶の喪を発表して葬儀を実行し、長房の援軍も得て三人衆は畿内の反対勢力をほぼ一掃することに成功した。 8月23日には義栄を摂津越水城に迎え主君として遇したが、これが義継の不興を買い、永禄10年(1567年)2月に義継は出奔、久秀を頼って三人衆と敵対するようになり、三好康長らも三人衆から離反したため、久秀は復権し三好家は再び分裂抗争することになった。大和での東大寺の大仏の炎上事件がおきたのもこの時期の戦乱においてである(東大寺大仏殿の戦い)。しかし戦局は三人衆が有利で、東大寺での敗戦後から立ち直り久秀方の信貴山城を落とし多聞山城を包囲した。 永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、義継・久秀らが織田氏に接近する一方で三人衆は信長との敵対の道を選んだが、9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、政康も城主であった山城木津城から退いた。以後は石山本願寺や信長と不仲となった義昭らを巻き込み信長との抗争は激化したが、畿内での兵乱(元亀兵乱)が信長の優位で決着すると政康の動向は不明となった。死去した時期について、今谷明は消息不明になり没年すら定かではないとしている。一方で天野忠幸は、『二条宴乗記』における永禄12年(1569年)5月26日の記事から5月3日に阿波で死去したと指摘している。 なお、豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳という高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せいかい)という人物が政康の後身という俗説がある。また、講談に登場する真田幸村の部下の「真田十勇士」の1人である「三好清海入道」のモデルになったとされることがある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%BA%B7
井伊直孝 Ii Naotaka(1590年-1659年) 井伊直政之子、母為印具氏之女、正室為蜂須賀家政之女.阿喜姬、側室為春光院、遠藤氏娘、石井氏娘;幼名弁之介、通稱掃部頭、戒名昌院殿豪德天英大居士。 與異母兄井伊直勝在同一年於駿河中里(靜岡縣燒津)出生。因為目光銳利,還有與父親相似的剛直魯莽、沉默寡言的性格而被人畏懼,人稱「夜叉掃部」。生母伊具氏(正確應為印具氏)有一說為井伊直政正室唐梅院(德川家康養女)的侍女,一直回避正室的直政直到慶長八年(1601年)才見到直孝。幼年被寄養在井伊家的領地上野安中的北野寺。 父親直政死後家督由兄長井伊直勝繼承,這時直孝也移住至近江佐和山城。但是直勝年紀太小(也有一說為體弱多病)無法統率家臣,這個憂慮經由德川家康的裁定後,自井伊谷以來的舊家臣為直勝統領,並繼承上野安中的領地;而武田氏的遺臣等由直孝統領,繼承井伊家的領地彥根。 (*註:德川家康裁定這段是在1614年大坂冬之陣之後的事,會被誤會發生時間在下段文章之前。) 直政死後直孝開始在江戶做為近習侍奉德川秀忠,在秀忠就任第二代征夷大將軍後慶長十年(1605年)4月26日任從五位下掃部助。慶長十三年(1608年)任書院番頭,被授與上野刈宿5千石領地,接著在慶長十五年(1610年)受封上野白井藩1萬石,同時就任大番頭。慶長十八年(1613年)任伏見城番役。 *註:依白井藩的資料,直孝任藩主時期為1602-1616年,和1610年有出入。 慶長十九年(1614年)大坂冬之陣被德川家康指名為井伊家的大將。和松平忠直擔任進攻大坂城八丁目口的任務,受到同樣擁有赤備的真田信繁(真田幸村)的挑釁而展開突擊,卻中了敵人的計策遭到信繁及木村重成軍隊的射擊,造成500人的重大死亡(真田丸之戰)。雖然在突擊後違反軍令撤退,但家康以「直勝激勵了友軍」為由包庇,躲過了處罰。 慶長二十年(1615年)正式繼任井伊家家督,受領18萬石中的彥根藩15萬石(井伊直勝則分到安中藩3萬石)。在大坂夏之陣中和藤堂高虎共同擔任先鋒,擊破木村重成及長宗我部盛親(八尾.若江之戰),一雪冬之陣的恥辱。後接受德川秀忠的命令,包圍在大坂城山里郭拒守不出的淀殿和豐臣秀賴母子,朝其發砲脅迫自殺,因勇猛的表現被稱為「井伊的赤牛」。戰後,井伊家加封5萬石,直孝亦昇官至從四位下侍從。 直孝在大坂之陣勇猛的表現也被畫在大坂冬之陣屏風、大坂夏之陣屏風、大坂夏之陣圖(若江合戰圖)等。 寬永九年(1632年)德川秀忠在臨終之際將直孝及松平忠明叫到枕邊,任命2人為3代將軍德川家光之後見役(大政參與),這也是大老這個職位首次出現。之後,在家光極大的信賴下獲得譜代大名中最高的30萬石領地(最終為35萬石)。也擔任德川家綱元服禮戴冠,以及參拜神明後迎接家綱回井伊家邸的任務。而祭祀德川家康的法會的任務由井伊直勝代替將軍擔任之後,一直由井伊家所負責。在70歲去世前也擔任朝鮮通信使的接待及幕閣筆頭等職務,領導著幕府政治。 當時,被清朝滅亡的南明的鄭芝龍向幕府請求出兵,德川家光和德川賴宣等主張將大量的浪人武士送往戰場,但直孝以豐臣秀吉出兵朝鮮為例堅決反對下而否決。之後,鄭芝龍子.鄭成功雖然也向幕府請求出兵,同樣被擱置不理。 長男直滋自小在江戶受到德川秀忠及德川家光的寵愛,因此養成傲慢的性格,經常與直孝對立,爭吵也非常多。在直孝死前一年的萬治元年(1658年)直滋被廢嫡後在百濟寺出家,後任世子的弟弟直繩,卻突然死去,家中產生一片混亂。萬治二年(1659年)直孝去世,由小兒子直澄繼承家督。在直孝的指定下,直澄的下一任要由直繩的嫡男直興繼承。另外,在死前禁止家臣殉死,沒後六年,幕府也下令禁止殉死。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post.html 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%AD%9D
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
下間賴廉、細川幽齋、村上義清、朝倉義景、織田信忠、成田甲斐、井伊直虎、母里友信、森長可、世良田元信、大祝鶴、望月千代女、櫛橋光、石川五右衛門、弥助、山内千代、朝倉一玄、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就
大久保忠世 Okubo Tadayo(1532年-1594年) 大久保忠員的長子,母親為三條西公條之女,妻為近藤幸正之女,通稱新十郎、七郎右衛門。 父親忠員為三河松平家的譜代重臣,天文十八年(1549年),松平家當主松平廣忠被暗殺身死,幼主竹千代被稱霸遠江駿河的今川義元以結盟的名義帶至駿府城當做人質,三河國松平家在實質上受到了義元的支配。 永祿三年(1560年),桶狹間會戰。統率三河、遠江、駿河三國五萬大軍上洛的今川義元在桶狹間被尾張織田信長奇襲戰敗身故,已攻入大高城的松平元康趁機退回故國三河以岡崎城為根據地,脫離今川家獨立並與織田信長締盟,改名德川家康。 永祿六年(1563年),三河一向一揆蜂起叛亂,大久保忠世一族結集與一揆勢力奮戰立下戰功,之後忠世擔任仲介積極調解一揆方的不滿。 元龜三年(1572年),武田信玄發動上洛之戰興兵攻入遠江,面對武田精騎家康不顧由瀧川一益轉達的信長之意「固城堅守」,反而決定奮力一戰以維護身任兩國領主的尊嚴。德川武田兩軍遭遇於三方原,德川軍陷入武田軍的鶴翼陣,德川軍大敗,家康孤身逃跑。為了阻止武田軍進一步擴大戰果,大久保忠世與天野康景帶領洋槍隊發動夜襲,結果竟然使得武田軍一度撤退,令信玄亦十分驚嘆。 天正三年(1575年)五月,武田勝賴出兵包圍長篠城,在家康的請求下織田信長親自出征應援而來,大久保忠世與弟忠佐擔任德川軍的先鋒率領洋槍部隊以三段射擊,大破武田軍左翼山縣昌景三千赤備騎兵 ,大久保忠世在此戰中表現非常活躍,連遠在山上本陣的信長也問家康,「德川勢中標誌是金揚羽 蝶.餅的武將是誰?」,家康答說「是大久保兄弟! 蝶兄(忠世的標誌),餅弟(忠佐的標誌),皆是我臣。」 長篠會戰後昔日的強敵武田家元氣大傷,德川家康自然不會放過這大好時機,立即全面反攻一一收復以前的失地。天正三年(1575年)六月,大久保忠世在二俁城攻略戰中做為主力部隊立下大功,戰後成為二俁城城主。 天正十年(1582年),本能寺之變發生,織田信長橫死,織田軍新佔領的舊武田領甲斐信濃兩國立刻動蕩不安起來,德川家康伺機煽動甲信人民叛亂,織田家將領河尻秀隆因此被叛民所殺,森長可見勢已難挽無奈率軍撤走,甲信兩地頓成空國接連為德川家康所佔。 德川家康平定信濃一國後將其中佐久一郡封給大久保忠世並任命忠世為信州奉行,忠世接管信濃之初曾和相模北條家及領有沼田城的真田昌幸在領地分配發生問題,幸賴忠世手腕高明且處事公正,三方達成協議以無事結尾。 但領地的紛爭並未因此結束,天正十一年(1583年),家康與北條氏直對瓜分武田舊領達成協定:一、上州由北條家分國,甲、信由德川家領取,二、上野沼田城由北條家領取,將北條家的甲州都留郡和信州佐久間郡讓給德川家,三、家康的女兒督姬嫁給北條氏直。此條約對佔有沼田城的真田昌幸十分不利,因此昌幸對此向家康控訴,但是家康只以敷衍塞責的態度回應,昌幸看穿了家康決定犧牲自己的意圖,於是真田昌幸移居上田城整頓軍備以確保防守成功。 翌年春,德川家康在和豐臣秀吉的小牧、長久手一戰取得局部勝利後,邀北條家同時大舉進攻真田昌幸,北條家以北條氏照為總大將,領兵七千五百攻擊沼田城,德川家則派大將大久保忠世、平巖親吉等率兵八千出陣,忠世之弟大久保忠佐率進攻兩千人馬矢澤城,不料先是沼田城的守將矢澤賴綱頂下北條家連續三輪的猛攻,上田城的昌幸則巧借天時,信州白晝陽光明媚,夜裏烏雲密布,暴雨連綿的獨特氣候「峽霎」。派四百兵出陣,於陣前大罵家康,引起素以忠直聞名的德川軍大怒,真田軍且戰且走,昌幸趁機率領兩千兵士由德川軍背後攻擊,身任德川軍主將的大久保忠世身經百戰,一見到真田軍的罵陣便已預料到這一手,因此早留下本陣的三千軍抵擋昌幸的猛攻。 不料,此時昌幸次子真田幸村居然以區區兩百騎兵突出狂攻,副將平巖親吉軍大亂,隨後昌幸長子信幸率一千伏兵由北方殺出,東北方的矢澤三十郎也率五百兵出上田城加入圍攻,大久保忠世只好將軍勢移往千曲川撤退,沒想到由於峽霎前夜大雨的千曲川竟爆發洪水,落入真田昌幸陷阱的忠世被追擊而來的真田軍殺得大敗僅以身免,三個兒子忠生、忠賴、忠廣一一戰死。 天正十七年(1589年),豐臣秀吉在平定四國九州之後要求雄據關東五代的北條家來降,但最後因為真田家領地的問題,北條家攻擊真田昌幸所領的名胡桃城,秀吉一怒之下發起小田原討伐,其時大久保忠世與本多忠勝、井伊直政並列先鋒立下戰功。 戰後論功行賞,德川家康被轉封至關東八州,進入關東平原的德川家康以江戶城為居城,把位於關東關西要衝的舊北條氏居城小田原城賜給忠世,領四萬五千石領地。入城後不久大久保忠世便因病於文祿三年(1594年)九月過世,法名了源院日脫大居士。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316484
木村重成 Kimura Shigenari(1593年-1615年) 木村重茲的次子、母為豐臣秀賴的乳母.宮內卿局、正室為真野賴包之女.青柳;戒名智覺院殿忠翁英勇大居士。 由於母親為豐臣秀賴的乳母,重成從小便隨母親居住在大阪城裡,身為秀賴的乳兄弟,重成也是秀賴幼時唯一的玩伴,因為這層友誼,重成很早便當上秀賴身邊的小姓。成年後的重成,出眾的容貌被推崇為當世的美男子,性格沉著穩重,年紀輕輕便展露出一派大將之風。 關原之戰後,豐臣家已銳減至攝津、大和一帶六十五萬石,雖然如此已身任征夷大將軍的德川家康仍舊無法放心,為能放心地將家業傳給子孫,家康暗中決定要在有生之年將豐臣家殲滅。首先他以供奉太閣秀吉的名義向澱君提議修繕方廣寺大佛殿,然後藉學者林羅山與名僧以心崇傳之口將新鑄的大鐘上的銘文:「國家安康,君臣豐樂。」八個字曲解為腰斬家康、豐臣再興之意。 面對德川家康幾近無理的刁難,重成和大野治長已猜出這是家康欲攻打豐臣家的藉口,於是一起向澱君進言主張決戰,開始囤積糧秣、加固城防。 慶長十九年(1614年)十月一日,高壽七十三歲的德川家康在江戶公布進攻大阪的命令,親率二十萬大軍自駿府城出陣,浩浩蕩蕩地經東海道開向大阪城。為與德川的大軍抗衡,大阪方招募包括真田幸村、後藤基次等浮野名將在內,總兵力達十三萬人。 在大阪冬之役中,年方二十一歲的重成首度被拔擢為一軍之將,負責守備八丁目口的任務。當時德川家康命令麾下的佐竹義宣軍攻打大和川上的今福堤,作為大阪方防備重地的今福堤在佐竹家重臣涉江政光的八千兵卒急襲下陷落,接獲此一線報的重成迅速點齊三千兵馬往今福堤殺去,為防有失後藤基次也出兵阻擋在今福堤對岸的上杉景勝軍對佐竹軍的支援,並派出一支三百人的別動隊與木村軍形成夾擊之勢讓佐竹軍心動搖。 初上戰陣的重成覬得佐竹軍立足不穩之刻率軍猛攻殺得佐竹軍連連敗退,尤其使豐臣軍士氣大振的是在與後藤基次進行夾擊佐竹軍混亂之時,重成竟然親身殺到敵陣中軍討取涉江政光的首級。就在重成要給佐竹軍最後一擊時,上杉景勝分軍與堀尾忠晴部對聯手來救佐竹義宣,由側面對豐臣軍發動攻擊,而這時後藤基次也被洋槍射傷無法再戰,重成只好放棄繼續戰鬥的想法,撤回大阪城。 今福堤之戰是重成初次上戰場,他出色的表現讓秀賴感動地稱呼他為「日本無雙的勇士」,授予感謝狀,並將自己的名品肋差作為獎勵賜給他。但是重成卻能清醒地以「感狀應給其他有特殊功績的武將,我只是盡自己的本份而已。」推拒獎賞。同時在這場戰役之中重成清楚地感到自己的不足,此後多與真田幸村、後藤基次等久經戰陣的名將請益以彌補自己戰場經驗的缺乏。 十二月初,由真田幸村所築且親自鎮守的小城真田丸擋住德川大軍連續八日的攻勢,全軍士氣低迷。這是原本以為取大阪易如反掌的德川家康所料想不到的,先是在今福堤被重成和後藤基次來去如無人之境,之後 真田幸村又如銅牆鐵壁一般擋住前進的道路。百般無奈之下家康提出和談的提議,重成與真田幸村、後藤基次一班武將全部表達強烈的反對之意,但是在家康對大阪城炮擊攻心之術的奏效後,澱君匆忙地答應家康提出的所有條件。 十二月二十日,重成作為豐臣家的使者前往二條城與德川家康會晤,收取家康的議和誓時言,當場重成就在一眾德川家重臣面前誓言以「血印如此不清晰的誓言,東軍是否沒有議和誠意。」 這一席話使德川家臣十分震驚,為何明顯居於下風的豐臣家使者竟敢如此囂張,但家康仍然面不改色將印章重新按上交給重成,達成雙方和睦的目的。 翌年春季,重成迎娶彼此間戀幕已久的七手組之一直野賴包的女兒青柳。不過新婚的喜悅並不長久,正如之前真田幸村、後藤基次等人的預料,德川家康的議和並非真心。兩方和談的條件之一是填平大阪城的護城河,可是德川軍不但將護城河填平,連內城河、瞭望樓、圍牆等防禦措施也全部拆除,只留下本丸。當大阪方派人去質問時,家康皆以假癡不癲的態度回應,一面說可能是部下弄錯,另一方面加緊命令手下拆除的工作。為此真田幸村等人只好儘快進行重新修築城牆、瞭望樓的工程,但此一舉動被家康指為浪人再度圖謀不軌而撕毀和約。 面對德川家康再次率領大軍攻來,苦守防禦力已大幅降低的大阪城並不明智,野戰反而有致勝的機會。軍議上後藤基次打算在大和的隘口小松山伏擊德川軍,而真田幸村則是希望在四天王寺一帶與敵人決戰。本來這兩條戰略都是十分可行的取勝辦法,但因為雙方的僵持不下,大野治長最後決定兩種方案並行,這樣過度的分兵反而導致戰力無法集中而容易被各個擊破。 五月五日夜,得知德川家康確是從大和而來的豐臣諸將決定採用後藤基次的戰略,全軍於道明寺集合然後一舉佔據小松山,再伺機攻擊德川本陣。後藤基次、真田幸村、毛利勝永等人在趕赴道明寺,重成也率領四千七百兵士與統率五千兵馬長宗我部盛親分別往若江、八尾進發,準備在德川軍主力在道明寺迎戰時,趁機由側面進行突襲。 出陣的前一夜,重成進入風呂洗浴時將自己的一縷頭髮混入香中焚燒以示自己的必死決心,然後將「道芝之露、木村長門」八個字刻入自己的佩刀上。到達若江後,當後藤基次部隊與德川軍開戰的鐵炮聲響起,長宗我部盛親也與數倍於己的藤堂高虎軍交鋒,藤堂軍的部將多是當年盛親在四國的部屬這使在人數已處劣勢的盛親因為戰術被洞悉而苦戰,同時重成也遇到藤堂軍的右翼部隊,其副將藤堂良重率先攻向重成的部隊但很快便重傷落馬,之後雙方展開混戰,亂軍之中重成下令鐵炮全開將藤堂軍右翼的主將藤堂良勝立弊當場。 近午時刻,統領德川家赤備軍團的井伊直孝加入參戰,由於之前的作戰木村軍已有一定程度的疲勞,面對還是生力軍的井伊直孝隊兩名先鋒,庵原朝昌跟川手良利的突擊不由得產生混亂,在逐漸敗退的局面中重成硬是發揮他的統率力整合手下兵士反攻使一向誇耀是德川軍精銳的赤備井伊軍死傷漸多,但天不佑重成,木村軍的左翼遭到自吉田方向過來的榊原康政攻擊,全軍崩潰,重成也在激戰之中氣盡力空而被庵原朝昌刺殺,首級也被井伊的家臣安藤重勝取得,年二十三歲。 作者 小泉信一 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316417

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