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相馬義胤

亙理重宗 Watari Shigemune(1552年-1620年) 亙理元宗的長子、母為國分盛氏之女、正室為相馬盛胤之女・真如院;幼名天王丸,別名源五郎。 永祿九年(1566年),由伯父伊達晴宗擔任烏帽子親並元服,在元龜年間或以前迎相馬盛胤的女兒為正室。繼任家督時期不明,不過受父親元宗讓出亙理城並移至山西金津鄉的時期則有記載,最遲是移至湧谷以前。 天正六年(1578年),伊達輝宗介入御館之亂並向越後國出兵,父親元宗被任命為與相馬戰鬥的指揮。以後,在伊具郡一帶與相馬義胤交戰,天正十一年(1583年)5月,在進攻丸森城時,於明護山建築城砦,切斷相馬軍。天正十三年11月(1586年1月),在人取橋之戰中與父親一同從軍。 天正十七年(1589年)5月,攻略相馬的領地駒嶺城(此時獲得的宇多郡北部(現今新地町)成為以後仙台藩的所領,直至幕末時期)。同年9月,在亙理郡吉田濱擊破反攻而來的相馬軍。天正十八年(1590年)5月18日,在童生淵之戰中殺死相馬隆胤。 天正十九年(1591年),在鎮壓葛西大崎一揆時從軍,於進攻佐沼城時,與父親一同負責指揮先陣,左股負傷。鎮壓一揆後,伊達政宗被豐臣秀吉命令轉封至岩出山城,此時,亙理郡仍然是伊達氏的所領,但是政宗命令亙理氏轉移至遠田郡的領地(知行高8千8百5十石)。重宗初時進入百百城,不過在同年冬天,移至湧谷城為居城,同年,建立圓同寺(後來改名為見龍寺)。 慶長五年(1600年),在關原之戰中以人質身份留在江戶,因此嫡男定宗代為出陣,攻略上杉景勝的領地白石城,於是受德川家康賞賜。 慶長九年(1604年)10月,隱居並把家督讓予定宗,受伊達政宗賜予隱居領栗原郡高清水城1千石。 慶長十一年(1606年),把末女嫁予伊達政宗的庶子宗根,並迎宗根為婿養子,令其併合隱居領和繼承亙理氏(後來的佐沼亙理氏)。因此,已經繼承亙理氏家督並成為湧谷城城主的定宗,則被允許改為伊達姓(湧谷伊達氏)。 元和六年(1620年)死去,年六十九歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%99%E7%90%86%E9%87%8D%E5%AE%97
伊達輝宗 Date Terumune(1544年-1585年) 伊達晴宗的次子、母為岩城重隆之女.久保姬、正室為最上義守之女.義姬(保春院);通稱彥太郎、總次郎,受足利義輝偏諱「輝」字,名為輝宗,戒名覺範寺殿性山受心大居士。 因為長兄親隆成為外祖父岩城重隆的養子,於是輝宗成為世子。天文二十四年(1555年)3月19日元服,受將軍足利義輝的偏諱而改名為輝宗。於永祿七年(1564年)迎娶最上義守之女.義姬(最上義光的妹妹),同年末期繼承家督。 不過此時家中的實權被已經隱居的父親晴宗和在天文之亂期間成為家中最大實力者的重臣中野宗時、牧野久仲父子所掌握。因此希望得到家中統制的輝宗在永祿十三年(1570年)4月,以中野宗時企圖謀反的口實攻陷久仲的居城小松城,此後把中野父子流放。另外輝宗還處罰沒有幫助自己的小梁川盛宗、白石宗利、宮內宗忠等人。 同年,正室義姬父家最上家中最上義守、最上義光父子之間發生鬥爭,輝宗出兵支援義守並進攻義光,不過因為義姬請求輝宗撤兵而歸還。 此時已掌握家中實權的輝宗提拔鬼庭良直為評定役並加以重用,而且發現中野宗時的家來遠藤基信的才能而把其召到自己身邊,令基信負責外交。以這兩人為中軸的輝宗政權持續執行父親晴宗的方針,與蘆名氏保持同盟關係,另一方面則調停南奧羽諸侯之間的紛爭。更進一步展開廣大的外交活動,在天正三年(1575年)7月向中央的實力者織田信長贈送鷹等,再命遠藤基信向北條氏政和柴田勝家頻繁地送出書簡和禮物,建築出多方的友好關係。 天正六年(1578年)因為上杉謙信死去而引發的御館之亂中,輝宗把對相馬氏的戰線交給叔父亙理元宗,並基於北條的同盟而與蘆名盛氏一同支援上杉景虎方參戰,不過御館之亂最終由上杉景勝方得到勝利,蘆名、伊達軍沒能夠阻止新發田長敦、新發田重家兄弟的奮鬥。但是在御館之亂後的論功行賞時,新發田勢的軍功被低估,而且希望仲裁的安田顯元自殺,於是新發田重家在天正九年(1581年)向上杉景勝發動叛亂,輝宗與蘆名盛氏的後繼者蘆名盛隆(二階堂盛義之子)一同支援重家,而柴田勝家亦一同連手介入越後的戰鬥。於是新發田的叛亂就陷入7年的長期戰中。 另一方面,在對相馬氏的戰鬥中,因為相馬盛胤、相馬義胤父子相當善戰,戰局完全沒有好轉,不過在天正七年(1579年)迎田村清顯的女兒愛姬為嫡男伊達政宗的正室來壓迫相馬方,於天正十年(1582年)向小齋城城主佐藤為信的調略成功的同時,在天正十一年(1583年)5月17日終於成功奪回天文之亂以後最重要的要衝丸森城,翌年(1584年)1月11日,攻略金山城(在於寬文7年(1667年)的相馬中村藩士中津幸政編纂的『奧相茶話記』中記載,因為田村清顯在天正十一年(1583年)2月的仲介下而決定丸森、金山兩城的返還)。獲得伊具郡全域的輝宗決定停戰。 同年5月,以祖父伊達稙宗的隱居領伊具郡為伊達領地,宇多郡為相馬領地,於是與相馬氏達成和解。此時的伊達家恢復稙宗時代的勢力圈(11郡餘),而且更將影響力遍及南奧羽全域。 天正十一年(1583年)收到盟友柴田勝家4月在賤岳之戰中被羽柴秀吉擊敗並滅亡的消息,於同年6月5日送給姪子岩城常隆的書狀中,提到秀吉的勢力已經蔓延到東國,希望聯合奧羽的諸大名對抗(在『性山公治家記錄』和『大日本史料』都記載書狀的發出日期是天正十一年(1583年)6月5日。另一方面,小林清治的『米澤市史』(1985)則記載是天正十年(1582年))。 天正十二年(1584年)10月6日,蘆名盛隆因為男色問題而被家臣殺害,輝宗成為出生只有1個月的當主.盛隆的兒子龜王丸的後見。輝宗在此時決定把伊達家的家督讓予嫡男伊達政宗,並移居至已修築的館山城。以後自身專注介入越後方面的事情。而繼任家督的政宗則與上杉景勝講和,並放棄伊達、蘆名、最上共同介入越後的策略,於是蘆名家中開始增大對伊達家的不信任感。 翌年(1585年)春天,響應田村清顯的請求,以清顯向伊達、蘆名方服從為條件,伊達氏命令從田村氏之下獨立的小濱城城主大內定綱返回田村氏的支配下。(田村氏在前年與大內氏鬥爭之際,因為對輝宗的調停方案不服而沒有跟從,於是遭到向大內氏支援的石川昭光、岩城常隆、伊達成實等人攻擊,於是田村氏屈服)而定綱則拒絕返回田村氏的命令,於是伊達政宗在同年4月向大內氏下達討伐命令。定綱向蘆名盛隆的未亡人彥姬(輝宗的妹妹,龜王丸的母親)求助,但是政宗在5月突然侵攻蘆名的領地(關柴合戰),在失敗後再向定綱和定綱的親戚.二本松城城主畠山義繼(二本松義繼)加強攻擊。因為政宗這樣激烈地轉換戰略方針,使輝宗所建構出的南奧羽外交秩序開始出現破綻。 同年10月,二本松義繼向伊達政宗請求降伏,政宗對義繼顯示出苛烈的態度,向其宣告要大幅削減所領,不過負責調停的輝宗則對政宗的決定表示不滿(義繼向輝宗請求減輕處分),於是政宗亦決定減輕處分。 10月8日,二本松義繼為向負責調停的輝宗表達謝意而前往宮森城(一說是義繼看見在館內磨刀的士兵,於是態度出現變化),突然挾持輝宗返回二本松城。伊達政宗前往追趕義繼,雙方在阿武隈川河畔的安達郡平石村高田相遇。此時政宗命令鐵炮隊射擊,於是義繼和輝宗都被擊殺(一說是義繼知道自己無路可逃,於是在殺害輝宗後割腹自殺),年四十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97
佐竹義隆 Satake Yoshitaka(1609年-1672年) 岩城貞隆之子、母為相馬義胤之女,後來成為叔父佐竹義宣的養子。正室為佐竹南家佐竹義章之女,兩人有子佐竹義處、佐竹義長。另有庶子佐竹義寘。幼名能化丸,別名岩城吉隆。 元和六年(1620年),父親貞隆死去後,繼承岩城氏家督與遺領信濃中村1萬石。當時以岩城吉隆為名。元和八年(1622年),加增出羽國由利郡內1萬石領地。 元和九年(1623年)11月,中村的領地被收公,相應的在由利郡給與了替地。與此相伴,岩城吉隆在出羽國由利郡龜田村建設了陣屋。寬永元年(1624年)12月29日,擔任從五位下修理大夫。 寬永三年(1626年)4月2日,在佐竹宗家的家督繼承人佐竹義直被廢嫡之後(注一)成為伯父出羽久保田藩主佐竹義宣的養子,此後改名為佐竹義隆(注二)。同時,岩城氏家督由佐竹宣家改名岩城宣隆繼承。同年4月27日拜見德川秀忠,家光父子。同年8月29日,升任從四位下侍從。 寬永七年(1630年)11月,養父佐竹義宣隱居的要求沒有得到幕府許可,就給了義隆部屋住料5萬石,義隆以一直如此度日並無關係為由拒絕。 寬永十年(1633年)2月26日,佐竹義宣死去後繼承佐竹家家督。同年5月8日,初次得到作為藩主回國的許可。同年9月21日,久保田城本丸失火全毀,義隆臨時轉移到三之丸下中城的澀江內膳邸。 寬永十二年(1635年)12月15日,對久保田城進行了修築。 寬文6年(1666年)12月28日,升任左近衛少將。 寬文11年(1671年)12月5日,死於久保田城,年六十三歲。 注一:佐竹義直:佐竹義重第五子,起初是佐竹義廉的養子,後來做了兄長佐竹義宣的養子。寬永三年(1626年)3月21日被廢嫡,據『佐竹家譜』記載,廢嫡的原因是佐竹義直在江戶觀賞猿樂時打瞌睡惹怒了義宣。廢嫡後出家為僧,死於明歷2年(1656年)。 注二:巧合的是,在日語里,吉隆(Yoshitaka)到義隆(Yoshitaka),字雖然變了,讀音沒變。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=11#postid-265 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E9%9A%86
五十位人物:相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原紹忍 / 田原親賢、茂庭綱元 / 鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米穀常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼続、中條藤資、南部晴政....
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
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大田原晴清 Otawara Harukiyo(1567年-1631年) 父:大田原綱清,母:角田源左衛門の娘,妻那須資貞の娘。 天正13年(1585年)に那須資晴と宇都宮国綱との戦いである薄葉ヶ原の戦いで父縄清や弟増清と共に参じたのが初陣。 天正18年(1590年)に大田原氏の家督を継ぐ。同年の小田原征伐に参じる為に駿河国沼津で豊臣秀吉に謁見した際には、弟増清が既に豊臣秀吉と謁見を済ませていた事もあって主の那須資晴が所領を没収され、他の那須七騎の諸氏も減封処分を受ける家が出る中で大田原氏は7,100石の所領を安堵された。この時に秀吉より備前国勝光・宗光両作の太刀を賜った事から備前守を称した。 小田原落城後は降服した成田氏長の忍城接収の任を浅野長政に属して務めた。戦後、晴清は遅参の罪を問われて所領を没収された那須氏の再興を願い出る為、資晴の息子・資景(藤王丸)を伴い、奥州仕置の中途で大田原城に着陣した秀吉に陳謝し、その甲斐有ってか那須資景は新たに秀吉から5,000石を与えられ、那須氏は小さいながらも領主として復活する事が出来た。 文禄元年(1592年)の文禄の役の際には名護屋城まで出陣したが渡航はしなかった。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、上杉景勝の領地の様子を諜報し徳川家康に報告を入れている。同年6月には石川重次・内藤忠清らを奉行とした歩卒1,000人余りを大田原城に迎え、陸奥国境の城郭修造の任にあたった。この時、徳川秀忠から境目の往来禁制の事も重ねて申し付けられている。更に同じ月に援軍として皆川隆庸・服部正成らが大田原城に入り、長筒の大砲十挺が配備された。 7月24日には大関資増・伊王野資信らと共に下野国小山に参じ家康に謁見。上杉景勝南進の際には大田原城に籠城するよう申し付けられ、家康から正恒の太刀と黄金100両、秀忠から金熨斗付きの長船師光の刀を与えられた。8月25日には家康より書状で景勝が人数を出すに及んだ時は速やかに注進する事を命じられている。 関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利した後には下野国森田に800石を加増され7,900石に加増。慶長6年(1601年)7月に服部正成が大田原城を去る際には対上杉用の備えとして持ち込まれた徳川軍の大砲十挺のうち三挺がそのまま大田原城に与えられた。 慶長7年(1602年)7月には関ヶ原で西軍に属して改易された陸奥国の相馬義胤の居城であった相馬中村城の守備に弟増清と共にあたり、同年12月25日に下野国芳賀郡・那須郡、陸奥国磐城郡に4,500石を加増され、合わせて1万2,400石を領する大名となり大田原藩を立藩した。 慶長19年(1614年)9月に安房国の里見忠義が改易された際には一族と共に館山城の接収を行い、同城の守衛としてしばらく入った。また同年冬からの大坂冬の陣では徳川方として本多正信に属して参陣し、翌年の大坂夏の陣でも本多正信に属して戦い敵の首を70個挙げた。 元和3年(1617年)には徳川秀忠の上洛に近従し、京から戻った後の8月から12月まで駿府城の城番を務めた。元和8年(1622年)に出羽国の最上義康が改易された時も弟増清と共に同年の9月から10月まで山形城に入って守備にあたっている。 元和9年(1623年)にも秀忠の上洛に供奉。寛永2年(1625年)に従五位下叙任。寛永4年(1627年)3月には酒井直次と共に陸奥国二本松城の城番を務めた。 寛永8年(1631年)、江戸で病死した。享年65。法名は、奪勝院殿印国永金大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%99%B4%E6%B8%85
岩城貞隆 Iwaki Sadataka(1583年-1620年) 佐竹義重的三子、母為伊達晴宗之女・寶壽院、養父岩城常隆、正室為相馬義胤之女・慶雲院;幼名能化丸、通稱忠次郎、初名佐竹貞隆,繼承岩城氏,名為岩城貞隆。 天正十八年(1590年)養父常隆病死,繼承家督,被豐臣秀吉承認岩城氏所領磐城平12萬石和家督的繼承。 慶長五年(1600年),關原之戰中,最初加入東軍方,但是因為長兄佐竹義宣的命令而沒有參加征伐上杉景勝。 戰後,慶長七年(1602年)與義宣一同被處分,佐竹家被減封,貞隆更被沒收全部所領。對此貞隆向義宣促請舉兵,不過遭到拒絕。 貞隆得知妻子的實家相馬家希望再興,自身亦希望令岩城家再興,於是前往江戶並在淺草成為浪人,為再興運動盡力並多次在飯野八幡宮祈願。隨著領土被沒收,多數家臣都離散,不過有『岩城貞隆淺草御浪人中隨身諸士名元覺』中的42人跟隨。 之後,土井利勝向德川家康提出貞隆的願望後,得到由本多正信組成的3百人。慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣中跟隨正信從軍。 因立下戰功,元和二年(1616年)被賜予信濃中村1萬石,恢復成為大名的身份。一說指貞隆的次兄・蘆名義廣為當主的蘆名氏一族天海亦為幫助貞隆而進行斡旋,表達岩城家再興的事情。亦通過母親的仲介而與在關原之戰後不和的義宣和解,義宣在和解後在資金等方面積極地向貞隆再興御家進行援助。 元和六年(1620年)死去,年38歲,戒名圓城院殿雲山宗龍大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E8%B2%9E%E9%9A%86
後藤信康 Goto Nobuyasu(1556年-1614年) 弘治2年(1556年)、長井郡洲島城主・湯目重弘の二男として生まれる。 跡取りの居なかった後藤信家の養嗣子となって後藤氏の家督を相続し、天正10年(1582年)には伊達輝宗に従って相馬義胤との合戦に出陣し、武功を挙げている。 天正13年(1585年)5月、前年に家督を相続した政宗が、突如蘆名氏との同盟を破棄して会津に侵攻する(関柴合戦)。この時、政宗より耶麻郡桧原城主に任ぜられて以後4年間同地の守備に就き、桧原在番の間には、政宗の正室愛姫より慰労の品として打掛を賜った。天正17年(1589年)、政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を破って会津を攻略すると、耶麻郡北方城主となる。 天正19年(1591年)、政宗が前年の奥州仕置で耶麻郡を没収されたため、亘理郡坂元城主に異動となる。同年の葛西大崎一揆鎮圧戦では、佐沼城攻めにおいて活躍した。翌文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においては政宗に従って渡海した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは白石城攻略戦で活躍し、同年栗原郡宮沢城主となった。慶長7年(1602年)には桃生郡大森城主となって2,500石を知行した。 ところが、慶長10年(1605年)に政宗の勘気を蒙り突如として改易される。改易の理由として、軍法違反を犯した(葛西大崎一揆の際の宮崎城攻めでの抜け駆け)ためであるという説が有るが、これは10年以上も前のことである上に、この話自体に他の史料的な裏付けが無いことから、『小牛田町史』ではこの説を否定している。信康の最期に関する説話が多く生み出された背景には、この一件の原因がはっきりしないところにあるとも考えられる。慶長16年(1611年)にようやく赦免されて復帰し、江刺郡三照に500石を与えられた。 慶長19年(1614年)8月8日、死去。享年59。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E4%BF%A1%E5%BA%B7
白石宗実 Shiroishi Munezane(1553年-1599年) 祖父・宗綱が伊達晴宗に仕え、宗実は伊達輝宗の頃から伊達氏に仕えた。 天正11年(1584年)、輝宗・政宗父子に従って相馬氏との戦いに従軍。 天正12年(1585年)、政宗は伊達氏から離反した大内定綱の小手森城を攻撃、これを破るのに貢献した。その後、父の輝宗が二本松義継のために殺害されたことに激怒した政宗は二本松氏と激しい抗争を繰り広げた。このとき、相馬義胤から和睦勧告の提示があったが、宗実はこれを政宗に取り次ぎ和睦成立に貢献した。その後の人取橋の戦いにも参加して武功を挙げた。 天正13年(1586年)、大内定綱の旧領・安達郡塩松33邑を加増され、先祖伝来の白石城から移って宮森城主となっている。 天正16年(1589年)、伊達氏と蘆名氏が南奥の覇権を巡って争った摺上原の戦いにも参加、武功を挙げた。 天正18年(1591年)、政宗は豊臣秀吉に臣従していたが、葛西大崎一揆鎮圧後、岩出山に移封となることになった。宗実が城主であった安達郡は没収されることになったため、代わりに胆沢郡水沢城主を任され15,000石の所領を与えられた。 文禄2年(1593年)より、文禄・慶長の役に参加し、渡海した。 慶長4年(1599年)、朝鮮からの帰国直後、山城国の伏見において没した。享年47(一説には55とも)。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E5%AE%97%E5%AE%9F