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相馬利胤 Soma Toshitane(1581年-1625年) 相馬義胤(第16代)の長男,正室は蘆名義広の娘(実際は蘆名盛隆の娘)・江戸崎御前。江戸崎御前の没後は、徳川秀忠養女(土屋忠直の異父妹で、岡田元次の娘)を正室として迎えた。初名は相馬三胤、相馬蜜胤。 はじめ父・義胤が佐竹義宣と共に石田三成と親密な関係であったため三胤(みつたね)と名乗った。 慶長元年(1596年)、従五位下大膳亮に叙任。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは父の義胤が佐竹家とともに中立を決め込んだため、徳川家康によって所領を没収され、改易の危機に立たされた。このとき秋田に転封された佐竹義宣から所領を裾分けするという誘いを受け、義胤は秋田に移るもやむを得ずという結論に達したが、三胤は義胤の前に進み出て、 「自分は尊慮の他に存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮無し。自ら江戸へ出府し、両大君の御念を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すにおいては本望、左なくば家を滅するか罪科を受くべし」 と訴えた。義胤はこの案を採用し、三胤は石田三成由来の「三」の字を改め蜜胤(読みは同じく「みつたね」)と名前を変えて、僅かの家臣を伴い、直訴のため自ら江戸に赴いた。 幕閣に取り入る縁故が全くなかったが、義胤の旧縁を頼りに大身旗本の島田重次を頼り、さらに本多正信へ取り次ぐことに成功した。 家康・秀忠への正信の説得もあり、所領を安堵された。このとき相馬家の仇敵でもあった伊達政宗のとりなしもあったという(『藩翰譜』新井白石著)。だが、新井白石は事件当時まだ生まれておらず、この「伊達政宗のとりなし」は間違った情報であるという説もある。 慶長6年(1601年)、正室である蘆名義広の娘(実際は蘆名盛隆の娘)・江戸崎御前が亡くなると、慶長7年(1602年)12月に徳川秀忠の養女という形式で、旗本の岡田元次の次女を継室に迎えた。蜜胤は将軍の代理として婚礼の席に赴いた、幕府の実力者の土井利勝に頼み、土井家の通字「利」の偏諱をもらって利胤(としたね)と名を改めた。12月18日、従四位下に昇叙し、大膳亮如元。 慶長16年(1611年)、居城を小高城から相馬中村城へ移した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川秀忠軍の先鋒として奮戦している。その後は中村の城下町を京のような碁盤の目のような町に改造したり(現在の相馬市の基礎となった)、家臣に陶芸を学ばせて相馬駒焼の基礎を作り出すなど、政治的に優れた名君ぶりを発揮した。 寛永2年(1625年)9月10日、父に先立って45歳で死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%88%A9%E8%83%A4
相馬義胤 Soma Yoshitane(1548年-1635年) 永禄2年(1559年)、伊達稙宗(丸森城)が小高城へ来訪、自分の娘を義胤の嫁に薦める。翌年(1560年)、稙宗の末娘・越河御前と結婚した。永禄6年(1563年)、青田顕治と中村城代・草野直清の反乱鎮圧にて初陣する。同年の室町幕府の記録には全国五十三名の大名が「大名在国衆」として上げられ、奥州では伊達晴宗・蘆名盛氏が織田信長らと名をつらね、相馬盛胤・岩城重隆らは「関東衆」として記されていた。 永禄8年(1565年)、伊達稙宗が死去。伊達晴宗との間で稙宗の遺言をめぐり領土問題が起きる。この頃、家中では義胤の継母(実家は武石氏・亘理氏)の意見が多くなり、越河御前と離縁し、伊達家に帰したとされる。越河御前は離縁してからほどなくして死去したという(『戦国相馬三代記』森鎮雄著)。 義胤は父に付き従い各地を転戦。相馬家は亘理氏(亘理城)、蘆名氏(黒川城)、田村氏(三春城)との不戦関係を維持する一方で天文の乱以来の宿敵となる伊達氏(米沢城)と稙宗の隠居領を巡って伊具郡・亘理郡付近で争うことになる。 元亀4年(1573年)7月、織田信長が足利義昭を京より追放し室町幕府が崩壊。奥州探題・伊達晴宗の権威が弱体化した。 天正元年(1573年)、出羽国では最上氏当主の最上義守と長男の最上義光父子の間で争いが勃発(天正最上の乱)。 天正2年1月(1573年12月)、南陸奥では佐竹義重が白川義親(白河城)の弟・善七郎を内応させて浅川(石川郡浅川町)に挙兵させた。27日には須賀川勢(二階堂氏・須賀川城)が蘆名氏・田村氏と手切れしている。『伊達輝宗日記』正月二十日条には「会津より、田村より、須賀川むかって廿七日に手切候とて脚力参候」と記される(伊達文書『福島県史』)。このとき田村隆顕・清顕父子は二階堂領だけでなく、勢いに乗って蘆名領、白川領まで攻め入り、田村氏の最大版図を築いた。一方、佐竹義重は赤館(東白川郡棚倉町) 他10城程を攻めとり、一旦は白川義親を本城に孤立させたが(宇都宮文書『福島県史7』)、蘆名勢の加勢によって追い払われた(会津四家合考所収文書『福島県史7』)。 3月、蘆名盛氏は田村氏との和睦の調停を伊達輝宗に依頼するが容易に成立しない。3月23日には「会津・磐瀬ノ士卒」が田村領を攻め、二階堂氏が蘆名氏に服属した。 天正2年(1574年)4月、伊達実元・蘆名盛興が二本松義国・堀越宗範の八丁目城を攻略。 9月には田村隆顕が死去。同9月、再び赤館に押し寄せた佐竹勢を蘆名勢が撃退し、蘆名盛氏は白川義親と対面し、さらに那須資胤(烏山城)と面会して誓書を交わし、三家の同盟によって佐竹勢に対抗することをはかった(那須文書『会津若松史8』)。 10月、奥州管領の末裔・二本松畠山氏が伊達・蘆名方へ降伏した。 『東州雑記』は「(天正)三年(1574年)義重白川へ動(はたらき)、二月手ニ入、白川善七郎名代ニ立ル也」と記す。『奥羽永慶軍記』では白川義親は和田昭為の離反で敗れて佐竹義重に降参したとされる(年月日は記されず)。5月、蘆名氏は田村氏と戦い、蘆名家重臣の松本氏輔らが戦死(『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条。伊達文書『福島県史7』)。7月には二階堂盛義の実子・盛隆が蘆名家の人質から蘆名盛興の病死を経て蘆名家当主となっていた(『塔寺八幡宮長帳裏書』天正三年条、『性山公治家記録』同年七月二十日条)。 相馬氏は伊具郡・亘理郡で伊達氏と一進一退の攻防を続けていた。 天正3年(1575年)6月下旬、名取郡で大敗を喫す。亘理元宗、橋を落とし相馬軍の退路を断つ。盛胤後室の実家である亘理氏の伊達側への離反が発覚。相馬父子、辛くも撤退に成功する(奥相茶和記)。 天正4年(1576年)春、義胤は桃生郡深谷(旧鳴瀬町)の小野城主長江盛景の娘を妻に迎えた。7月17日の矢野目(丸森町舘矢間と小斎の中間付近)・冥加山(冥護山・明護山)の戦いでは伊達輝宗と戦い大勝を挙げている(奥相茶和記)。 天正5年(1577年)7月、蘆名氏は田村氏とともに白河城を攻め落とした。佐竹氏が南方から北条氏政(小田原城)に攻められたのに乗じたものである(白河証古文書『会津若松史8』)。白川義親が再び白川家の実権を掌握した。次いで蘆名・田村は石川を攻め、石川昭光を「在城一ヶ所」に追いこんで石川領を制圧した(上杉輝虎公記所収浜崎文書『会津若松市8』・佐竹文書『福島県史7』)。 天正5年12月5日(1578年1月12日)には伊達晴宗が死去。 天正6年(1578年)1月、義胤は父の隠居により家督を継承。3月には関東管領の上杉謙信(春日山城)が死去し、御館の乱が勃発。同3月、義胤は二階堂家臣・須田大膳大夫の援軍を得た岩城氏と相馬領南方の松本権現堂(推定・双葉郡浪江町権現堂)で戦っている(藤葉栄衰記)。 4月、伊達輝宗が実弟石川昭光の苦境を救わんとして調停をはかるも蘆名、田村ともにこれを峻拒(松藩捜古所収文書『福島県史7』・大槻文書『郡山史8』)。6月には田村清顕が塩松領主小浜城の大内定綱と不和となり(首藤石川文書『福島県史7』)、8月以降抗争を繰り返すようになった(富田古文雑収所集文書『郡山市史8』)。蘆名・田村氏と石川氏の和睦は昭光の依頼を受けた白川義親が蘆名氏に接触して7月下旬に成立した(伊達文書『福島県史7』)。8月、白川義親と佐竹義重の和睦も成立した。その条件は赤館を白川方に、石川領を石川氏に返却すること、白川氏の名跡を義重次男が相続することなどとするものであった(早稲田大学白河文書『白河市史五』)。義重次男喝喰丸が義親の養子となって入嗣し、白川氏の佐竹氏への服属が確定することとなる。 蘆名盛氏は早くから佐竹氏との交友を策し、二階堂盛義には田村氏との連携は滅亡の途であると説いていた(初瀬川文書『福島県史7』)。 義胤は戦において引けを取ることはなかったが、天正8年(1580年)頃までには黒木中務宗俊(宗元)、堀内四郎宗和(晴胤)兄弟に背かれ、2人は輝宗の下に走った。2人の父である宇多郡黒木城主・藤田七郎晴近は義胤の母と同じ懸田一族である。天正7年(1579年)冬、輝宗が相馬と同盟していた三春城主・田村清顕の娘・愛姫を自身の嫡男・政宗の正室に迎え入れると田村氏の後援も得難くなった。 天正8年(1580年)2月には、蘆名盛隆・佐竹義重・白川義親が出陣して田村氏との合戦となった(金上文書『新潟県史資料編5』滝田為四郎文書『福島県史7』)。これは伊達氏に親近する田村氏と蘆名・佐竹連合軍の最初の合戦である。蘆名・佐竹連合軍には母が佐竹義重の妹であり、この頃二階堂盛義の娘を妻とした飯野平城の岩城常隆も加えられた。田村氏は北の塩松領主・大内氏との不和が続く中、西と南の勢力から同時に攻められることとなり、3月には田村清顕の弟重顕が二階堂勢を攻めて討ち取られている。6月、この田村氏劣勢の中、蘆名止々斎は死去した。 天正9年(1581年)3月半ば、伊達輝宗が信夫郡杉目城に出馬し、使者を持って田村と蘆名・二階堂・岩城の調停に乗り出した。輝宗は田村清顕から援軍の要請を受けている。4月1日、蘆名盛隆は佐竹義重へ御代田(郡山市田村町)を包囲したことを知らせ、輝宗からの使者は申し払ったことを伝えた(伊達文書『福島県史7』)。 4月10日、伊達勢が相馬の支城である新地(新地町谷地小屋、蓑首城)・駒ヶ嶺城(臥牛城)を攻略せんと坂本(山元町)に出陣する。相馬父子もまた大坪(相馬市)に出陣し対陣する。4月11日、伊具郡小斎城主・佐藤為信が離反(奥相茶話記・東奥中村記 他)。5月1日、伊達勢、小深田(新地町菅谷)に出陣。相馬父子、これを破る。5月上旬、伊達政宗初陣。7月13日、これより先に伊達父子金山・丸森を攻める。この日相馬父子、矢野目にて破られる。8月9日、伊達父子、再び小深田に出陣、相馬父子も大坪に出陣。谷地(新地町)に戦って伊達父子を破る。8月26日、二階堂盛義が死去。11月15日、相馬、伊達両軍伊具郡館山(丸森町)に戦う。同年、嫡男・虎王が生まれた。 天正10年(1582年)4月18日、田村氏と蘆名・佐竹氏との和睦が成る(伊達文書『福島県史7』『性山公治家記録』天正十年条)。 天正10年(1582年)6月2日、織田信長が死去(本能寺の変)。8月、伊達輝宗・政宗伊具郡金津より矢野目に出陣。義胤は小斉・金山の境の冥加山に出陣して対した。二本松義継(二本松城)と大内定綱(小浜城)は伊達勢を援けて参陣している(性山公治家記録)。 天正11年(1583年)1月、佐竹義重・岩城常隆・田村清顕使者をもって相馬・伊達の調停をはかる(奥相茶和記・東奥中村記)。2月6日、伊達輝宗・政宗父子と伊具郡丸森城・金山城で戦った(『性山公治家記録』『戦国時代の相馬』)。『相馬戦国三代記(原著・奥相茶和記)』は2月下旬、田村清顕自身が宇多郡中村城下の長徳寺に来訪し、百日ほど長徳寺に宿泊して「金山・丸森はもともと伊達領であるので、これを返して和睦されよ。」と種々の条件を示したので遂にこれに応じて、5月にまず丸森を返還し、翌天正12年(1584年)金山を返還して和睦したとしている。和議の成立の時期は天正11年(1583年)5月とする『奥相茶話記』(相馬史料)の記述と天正12年(1584年)年5月とする『性山公治家記録』(伊達史料)の記述で異なっている。 某年9月15日付け蘆名盛隆の「塩松境の者共、一両ヶ所心替わり候。之(これ)によって拠んどころ無く候間、来たる十八、風雨の嫌い無く出張」(原和様漢文)するとして、小川荘の小田切但波に黒川出馬を求めた書状がある(小田切氏文書『新潟県史資料編4』)。塩松に紛争が起こり、盛隆自身が領主大内定綱の支援に出陣することを述べたものであろう。 天正11年12月、蘆名盛隆は、大内家中の混乱を伊達氏が「助勢」して取り静めたことを、「盛隆の所へ御昵懇の筋目」(原和様漢文)として伊達氏に謝した(『片倉代々記』天正十一年十二月条所収文書)。大内定綱は窮境のなかで蘆名・伊達両氏に接近している(新編会津風土記所収文書『福島県史7』)。 某年4月5日、義胤は伊達政宗と金山に対陣しているが、『歴代古案』はこれを天正12年としている。蘆名盛隆は「田村表」を攻撃し(『歴代古案』)、宇田(相馬市)・金山(宮城県伊具郡丸森町)の間の通路に出陣して相馬氏を攻める伊達政宗に鉄砲隊・須江弾正左衛門の援軍を送った(『歴代古案』『会津若松市7』『戦国時代の相馬』)。田村清顕は相馬義胤と連携し、二本松義継の援軍を求めつつ、二階堂領小原田(郡山市小原田)を攻めた(安部文書『三春町史7』)。岩城常隆は伊達輝宗に書状を呈し、蘆名盛隆と相談して出馬したことを知らせ、「塩松の儀、御意見に及ばざれ候や。肝要(の至りに候カ)。年内太(大)内所へ別して御懇切の験(しるし)、この時に候」(原和様漢文)と伝えた(『大日本古文書伊達家文書』)。 『性山公治家記録』天正12年5月下旬条には田村清顕が「(前略)当春以来又宇多郡マテ出馬シ、逗留有テ様々御扱ヒ」を行ったものの、伊達輝宗が応じず、そのため清顕は佐竹義重・岩城常隆をも介入させて、ようやく和睦がなったことが記されている。 相馬氏は和睦の成立に伴い、伊達氏と協力して四本松(旧安達郡岩代町)の大内定綱を攻める密約を交わしたという(「奥相茶和記」小高町史・昭和50年12月)。 田村清顕は大内定綱を五度攻めるが、自身の出馬した天正12年(1584年)8月12日の五度目の戦には弟の田村友顕が討たれ敗北を喫した。9月13日、岩城常隆が田村方の小野城を攻め谷津作(田村郡小野町)に陣を構えると10月、義胤が岩城領に攻め入ったため岩城常隆は兵を引いている。 天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆死去。同月、伊達輝宗が隠居し、政宗が家督を継ぐ。 天正13年(1585年)、大内定綱が伊達氏からの離反を画策。まず相馬氏を頼りとして使いを走らせたが、義胤は大内が田村と不和であることを理由に断った(奥相茶和記)。4月、定綱は蘆名氏を頼って伊達氏から離反。5月、政宗、蘆名氏を攻め敗北する(関柴合戦)。6月14日、最上義光は岩城氏の家老三坂越前宛に書状を送り、岩城氏の会津後援を賛し、岩城氏が更に相馬氏と結んで伊達氏に対することを勧めた。 7月、羽柴秀吉が関白となり豊臣姓を名乗る。8月27日、田村勢が伊達政宗を援けて大内定綱の小手森城(二本松市針道)を攻める。9月、輝宗・政宗父子が大内定綱を攻めるべく安達郡宮森に在陣した。義胤は三春訪問の途次、政宗と小浜城・宮森城付近の陣所で初対面を果たしている。 10月8日、伊達輝宗が二本松義継に捕らわれて死去。14日には政宗の二本松攻めの援軍として田村清顕と共に三春城より出陣した。しかし、佐竹義重が二本松城救援のために北上してくると、義胤は他の南奥諸大名と共に佐竹方に付いた。11月17日の人取橋の戦いでは、蘆名・佐竹連合軍に加わり、約300騎で佐竹勢と二階堂勢との間に本陣を構え、東義久、岩城常隆らが伊達勢の高倉城を貫くと、佐竹義重・白川不説斎の本陣勢と共に政宗の本陣へ攻め上った。 天正14年(1586年)、二本松城を攻めあぐねていた伊達方は、老臣伊達実元を中心に政宗を説き伏せ、義胤に和議の斡旋を依頼。その結果、7月16日に二本松城は開城され、二本松国王丸・新城盛継らが会津へと退去した。実元の子・伊達成実は二本松城主となった。成実の正室・亘理御前は義胤から見れば妹の娘に当たる。10月9日に田村清顕が死去すると、田村家中では相馬・伊達のどちらにつくべきかで争いが生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していく。11月、蘆名盛隆の実子・亀王丸が死去した。 天正15年(1587年)3月、蘆名家臣金上盛備の斡旋で佐竹義重の実子・義広が白河結城家から出て、蘆名家へ養子に迎えられた。これに対して4月25日、政宗は相馬・岩城との同盟を強くすべく家臣国井新左衛門を三春に遣わし、岩城・相馬の両家の和睦を田村の家臣に取持つよう命じた。仲介役は田村起雲斎憲顕(田村義顕の次男)が務めた。5月18日、和睦が成立して相馬領と岩城領の国境である大菅原(富岡町)で義胤は岩城常隆と対面した(『貞山公治家記録』『奥相茶和記』)。 天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉が九州を征伐(九州征伐)。10月14日、最上義光の娘を妻にしていた鮎貝宗信が伊達家を離反。政宗に討伐される。この頃になると、佐竹は惣無事令によって、伊達と蘆名の和睦斡旋を命じられたために、自ら兵を公然と動かすことができなくなり、かえって政宗の軍事行動が容易になり、その勢力伸長を抑えられなくなった。同年、相馬氏も豊臣政権より奥羽惣無事を命ぜられている(『天正15(1587年)年極月3日富田左近将監書状。相馬家文書(原町市史)』)。 天正16年(1588年)2月、大崎家中の内紛に介入した政宗が敗北すると(大崎合戦)これを好機とみた蘆名義広は仙道を北上し、伊達領に攻め入った(郡山合戦)。4月18日、蘆名勢が伊達成実、大内定綱らによって退けられると、4月20日、政宗は相馬側へ離反した田村家臣石川弾正を討つべく安達郡築館(二本松市木幡)に出陣。義胤は月山(築山)城(二本松市戸沢)に入り弾正を支援した。5月11日、義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて、田村家中の伊達派を押さえ込もうと三春城入城をはかったが、伊達派の田村月斎らに銃撃されて江井胤治ら側近多数が討死し、命からがら船引城(田村市船引町)へ逃れた。5月15日、伊達政宗・片倉小十郎が大越城(田村市大越町上大越)を攻めたが、守備していた標葉郷大将の泉田雪斎・胤清父子らがこれを撃退した。5月16日、政宗は石川弾正と相馬義胤の兵を小手森(二本松市針道)に攻めた。義胤が船引から脱出し、石川弾正が月山城を捨てると、5月17日には石沢(田村市船引町石沢)・百目木(二本松市)の城も落とされたが、閏5月23日、亘理元宗父子が新地・駒ヶ嶺の間の大森へ出陣してくると義胤はこれを撃退した。6月20日、義胤は田村顕康(月斎の子)を田村郡宇都志城(田村市船引町上移)に攻めるが、鬼庭綱元が百目木より出陣し押し返され退却を余儀なくされた(貞山公治家記録)。同月、仙道方面での蘆名勢と伊達勢の戦いは膠着状態に入った。7月4日、義胤、常盤(田村市常葉町)を攻めた。7月16日、岩城氏の仲介で蘆名・佐竹氏と伊達氏は和睦した。結果、8月、田村家当主には伊達方の推す田村宗顕が即いた。 天正17年(1589年)正月2日、岩城常隆が田村領小野に侵攻、5日、田村梅雪斎(相馬派)の小野城(小野町)が落城。同じく4月20日、鹿俣城(田村市)が落城する。5月1日、伊達勢の桜田元親らが飯土居(相馬郡飯舘村)に攻め入る(『伊達文書』)。5月4日、伊達政宗によって安子ヶ島城が、次いで5日、高玉城が落城。同月、相馬・岩城・佐竹が連合して田村領を攻める。17日、義胤は岩城勢と共に常盤城(田村市常葉町)を攻め落とすが、19日には政宗によって駒ヶ嶺城、20日に新地(蓑首城)など宇多郡の拠点を奪い取られた。政宗は駒ヶ嶺に黒木宗元、新地に亘理重宗を配した(政宗記・東奥中村記)。27日、門沢城(田村市船引町)を岩城勢が、6月4日、大平城(郡山市大平町)を佐竹勢が落とした。しかし、猪苗代盛国が伊達方に寝返り、6月5日に蘆名義広が摺上原の戦いで政宗に敗れると蘆名氏は本城黒川城を失い常陸に逃れ、事実上の滅亡となった。南奥州での形勢が大きく変わった。連合勢は田村領に在陣。7月3日、岩城常隆が下枝城(郡山市中田町下枝)に進攻するも伊達勢の激しい抵抗にあい退却した。 7月4日、豊臣秀吉は上杉景勝、佐竹義重に政宗討伐を命じた。7月上旬、相馬父子は新地・駒ヶ嶺を奪還すべく岩城常隆の援兵とともに亘理重宗を攻めたが、重宗の奥方(義胤の妹)が間に入って陳謝したため一旦引きあげている(奥相茶話記・東奥中村記)。7月18日、相馬勢は合計600余騎、上下5,000余人で夜中に中村城を出発。亘理勢と坂本犀ノ鼻(山元町)で戦った(奥相茶話記・東奥中村記・貞山公治家記録)。しかし、連合勢は亘理氏の本城亘理城、田村氏の本城三春城を落とすことはなく、同7月には白川不説斎が伊達氏に服属。10月には友軍の二階堂氏の本城須賀川城が陥落して二階堂氏は滅亡した。11月4日には石川昭光が伊達氏に服属。11月27日には岩城常隆が伊達氏と和睦した。伊達氏は蘆名氏の版図(福島県の会津地方・中通り地方)を併呑し、相馬氏も一気に滅亡の危機に立たされることになる。 11月28日、豊臣政権による小田原征伐が決定し、石田三成より来月の上旬に出仕を求める書状が届く。12月20日、政宗は中島宗久あての書状の中で、来春の相馬攻めのことを告げた(伊達文書)。 天正18年(1590年)1月3日、これより先に義胤は中島宗久の仲介で伊達との和議を請うが、これは難航する(伊達文書)。同日、政宗は中島氏当ての書状を送り、相馬の様子を探らせた(伊達文書)。相馬は岩城と伊達の和睦を知り、単独で伊達への抵抗が難しいことを悟ったが、政宗の方略は北条と結んで佐竹を屈服させ、さらに秀吉に対抗するところにあった。1月20日、秀吉が政宗に書を送り小田原参陣を命じる。政宗応じず。 3月18日、弟の中村城代・相馬隆胤の兵が駒ヶ嶺を攻めて敗北している(奥相茶話記・東奥中村記)。 4月3日、豊臣秀吉が小田原を包囲。4月上旬、会津黒川城西館において伊達政宗毒殺未遂事件が起き、政宗、弟の小次郎を斬る(伊達治家記録)。4月23日、相馬盛胤・義胤父子は新地城を攻めて失敗した(奥相茶話記・東奥中村記)。 5月9日、政宗は黒川城を出発(政宗記)。5月14日、相馬隆胤が黒木宗元・亘理重宗の兵と塚部(相馬市)の小豆畑で戦い敗北。童生淵(相馬市)で討死した(奥相茶話記・東奥中村記・貞山公治家記録)。奥相茶話記によれば、この後、義胤は伊達家臣・中島宗求から降伏を勧められたが、討死を決意して「我と死生を同じくしようとする者は(相馬氏ら千葉一門の守護神である)妙見のご神前において神水を飲むべし。異儀を唱えるものは来るに及ばず。我は少しも恨みに思いはしない。」と言い、まさに最後の一戦を挑まんとしたという。この時一同が飲んだとされる御神水の井戸は、小高城跡に立つ小高神社の裏にある。作戦は伊達勢が攻めてきた場合を想定して立てられた。5月下旬、義胤は豊臣秀吉に謁見のため相模小田原に赴く(相馬藩御経済略記 他)。 6月5日、政宗は小田原に到着。秀吉から出羽・奥州の仕置を任された。片倉景綱は相馬氏について政宗留守中の戦闘(駒ヶ嶺城攻め)を言語道断とし、相馬討伐の許しを得ていた(天正十八年六月十四日 片倉景綱書状「原町市史中世編年史料」)。小田原より帰還した政宗は相馬攻めを計画した(天正十八年六月廿六日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。 7月5日、北条氏政が豊臣政権に降伏。7月7日、政宗は大里城(岩瀬郡天栄村)に拠る矢田野氏の抵抗が未だ収まらなかったため、そちらに全勢力を傾け相馬攻めを延期した(天正十八年七月七日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。7月26日、小田原征伐を終え奥州仕置に向かった豊臣秀吉は宇都宮に到着。義胤は三郡の本領を安堵された。葛西晴信・大崎義隆の両名は小田原に参陣しなかった事を理由に領地を没収された。8月9日、秀吉は黒川城に入り奥州仕置きを命令。政宗が滅ぼした蘆名氏の旧領へは蒲生氏郷が、大崎氏・葛西氏の旧領には木村吉清・清久父子が封ぜられた。10月初旬、葛西大崎一揆が勃発。12月7日、三郡検地の結果、相馬氏は宇多・行方・標葉3郡の内に48,000石の安堵となった(豊臣秀吉朱印宛行状)。 天正19年(1591年)、長女(岩城貞隆室)が生まれた。同年9月、伊達政宗が置賜郡米沢から玉造郡岩手沢へ移封されている。 文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役に従軍し名護屋の本宮へ在陣。文禄2年(1594年)、次男(左近及胤)出生。 文禄4年(1595年)2月7日、蒲生氏郷が死去。 慶長元年(1596年)8月、妻子と共に小高へ帰城。嫡男・虎王の元服に際しては石田三成から偏諱を受けて「三胤」と名付け、蘆名盛隆の次女(蘆名義広の養女)を三胤の正室に迎えた(江戸崎御前)。同年には、現在の南相馬市小高区村上海岸に面した丘陵に村上城を築き居城の移転を進めるが、火事により焼失したため、これを不吉として断念。次いで牛越城(南相馬市原町区牛越)を建築した。同年から日本列島で慶長大地震が起きている。 慶長2年(1597年)正月1日、秀吉、朝鮮再征を令す。5月、居城を小高城から北の牛越城に移す。この牛越城普請のとき重臣・泉胤政が出奔している。原因は公儀の下奉行と胤政の奉行とが喧嘩を起こしたのを胤政が私曲して伐したので、義胤が胤政を誅伐しようと出馬したためとされる。胤政は後に上杉家に仕えて慶長出羽合戦で活躍した逸話があり、さらに後の慶長7年(1602年)に相馬家に帰参しており、帰参の時期が相馬家の改易の時期と重なることから牛越城近くに海運拠点を欲した義胤が、もとは田村氏の一族であり中郷(行方郡新井田川流域)の大将格であった泉氏を障害として排除しようとしたのではないかという説がある。 慶長3年(1598年)3月、上杉景勝が越後から会津へ転封。7月、三胤上京する。 慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉死去。慶長4年(1599年)8月、大阪より相馬領小高へ下向。三胤は大阪に留まる。 慶長5年(1600年)、相馬封境の警備を固めた。6月17日、政宗は大阪を経ち帰途に着く。義胤は政宗の相馬領通過と宿泊を承諾。7月、徳川家康が上杉景勝を攻めんとして会津征伐軍を挙げると石田三成が挙兵し、9月15日、関ヶ原の戦いが勃発した。時期不明であるが、同年、義胤に三男(越中尚胤)が出生。長女は岩城貞隆(佐竹義重の三男)の正室となっている(『相馬の歴史と民俗』)。 慶長6年(1601年)1月11日、伊達政宗が新たな居城として仙台城の城普請を始めている。1月20日、家臣水谷胤重の進言によって伊達勢とともに上杉景勝領の二本松に夜襲を仕掛けさせた(月夜畑の戦い)。なお、この年、義胤の親族に訃報が続いている。3月、弟・郷胤死去。5月、三胤室・江戸崎御前死去。10月、父・盛胤死去。 慶長7年(1602年)5月、佐竹義宣が現在の秋田県へ転封されると、佐竹氏の与力大名であった相馬氏も連座して改易された。義宣から1万石を与えると誘われたが丁重に断り、改易撤回の訴訟を求める長男相馬蜜胤(石田三成の偏諱の三胤から改名)を江戸へ向かわせた。この時、水谷胤重が記しておいた月夜畑の戦いにおける相馬方の戦死者名簿を提出し、加えて徳川家重臣本多正信のとりなしもあり、10月に改易は撤回され所領安堵となった。同年には徳川秀忠の養女を蜜胤の正室に迎えている。 慶長8年(1603年)再び小高城を居城とし、牛越城は廃城となる。 慶長17年(1612年)4月、義胤は家督を相馬利胤(三胤→蜜胤→土井利勝の偏諱から利胤と改名)に譲って小高城から泉田(浪江町北幾世橋)に隠居した。慶長19年(1614年)大坂冬の陣には利胤が出陣。翌年(1615年)の大阪夏の陣にも利胤が向かうが、その途中病気となり、急遽代わりに義胤が向かった。利胤が寛永2年(1625年)に病死すると、孫の2代藩主・虎之助の後見役となり、隠居した後も直接ではないが、藩政に深く関与していた。 寛永12年(1635年)11月16日没。享年88。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%83%A4_(%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
真田幸村 Sanada Yukimura(1567年-1615年) 真田昌幸的次子,幼名弁丸、通稱源次郎。本名真田信繁,現在以真田幸村之名聞名於世、但史料中真田信繁並沒有使用幸村這個名字。 「真田幸村」的由來 「幸村」之名最早見於大阪之陣57年後寬文12年(1672年)出版的軍事小說『難波戰記』。因為這本小說的流行和高人氣使得幸村之名在後代的史書中反而取代了正式的名字,連德川幕府編纂的『寬政重修諸家譜』以及真田信繁長兄真田信之後代的子孫松代藩也在正史中使用「幸村」之名。 信繁出生於武田信玄在世時的甲斐,當時他的父親是真田家於武田家的人質,真田昌幸原本要繼承甲斐的望族武藤氏而被稱作武藤喜兵衛,也因此信繁幼年名為武藤弁丸,後來真田昌幸因兩位兄長真田信綱和真田昌輝在1575年長篠之戰戰死後回歸繼承真田本家,弁丸也在成年元服後改名真田信繁;其本名「信繁」源自武田信玄之弟武田信繁。 「信」是武田及其庶流甲斐武藤家通字,「幸」則是真田及其本家海野氏的通字:「村」的由來一說是源自信繁的姐姐村松,另外則是信繁的後代子孫仕奉的伊達家當主伊達綱村,也有說是來自詛咒德川家的妖刀村正。 信繁另有法名好白,別名源次郎,還有後來豐臣秀吉賜姓而被稱豐臣信繁,其餘皆非出自史料,如信賀、信仍、昌尚、幸重、信氏、信次、信就、信成等別名,以及傳心月叟或高野山蓮華定院給他的諡號大光院殿月山傳心大居士。 少年人質 真田信繁少年時期被送往上杉景勝處成為人質,受封北信濃川中島五千石的領地;其後被其父派至豐臣秀吉的大阪城做人質,成為其「馬迴眾」(近侍)。 天正十八年(1590年)參與小田原征伐,與父親真田昌幸、兄真田信幸一同和前田利家、上杉景勝為北國軍之一,越過東山道參與進攻後北條氏。北國軍約三萬五千兵力。首先進攻的是由北條家「御由緒眾」之一的大道寺政繁鎮守的松井田城,並於途中的碓冰卡展開決戰,信繁於此戰中手持十文字槍衝陣殺敵;最後大道寺政繁禁不住北國軍相繼攻落支城的氣勢,於4月20日降伏並帶路,北國軍一路攻落、降伏上野國一帶的城池,接著進入武藏國,隨「五奉行」之一的石田三成進攻北條家臣成田氏長位於武藏國的居城忍城,由於忍城是當時有名的堅城,三成雖以水攻但是失敗,更遭到氏長之妻(當時氏長在小田原城,因此由妻女代守)的反擊,此時真田軍以援軍援助三成軍,信繁率兵猛烈強攻而攻破忍城的一處城門,雖然隨即遭到甲斐姬(氏長之女,後為秀吉側室)的出城反攻,但是信繁仍因為以上的軍功而受到陣中諸將的一時注目。 關原之戰 文祿元年(1592年)朝鮮之役時,陪同豐臣秀吉坐鎮北九州的大本營名護屋城,並官拜從五位左衛門佐,迎娶了大谷吉繼的女兒(大谷溪,又稱安歧、竹林院)。 慶長五年(1600年)關原之戰中和兄長真田信幸(關原戰後改名真田信之)分道揚鏢,同父親脫離德川方轉投石田三成的西軍,協助其父於上田城以二千寡兵拖住了德川秀忠的三萬八千部隊,當中信繁率領小部隊軍勢以游擊戰術翻弄德川軍,配合父親昌幸的戰術成功拖延德川秀忠的進軍行程,令其無法參加關原之戰。 雖然上田城之戰以寡擊眾的成功,但石田三成在關原的失敗,使所有參與西軍的諸侯大名都受到了懲處。德川秀忠因戰敗心生怨憤,原本有意處死真田父子,但在其兄真田信之(其岳父是德川大將本多忠勝)的求情後,與真田昌幸一同被流放,居於紀伊國(今和歌山縣)高野山麓的九度山,其父並在九度山流放的歲月中去世。 大阪之戰 慶長十九年(1614年)年10月,他在大阪城豐臣家的召喚下,逃出九度山進入大阪城。真田信繁和猛將後藤基次(後藤又兵衛)等浪人武將皆主張狙擊德川大軍於宇治瀨田河口之地,但遭到城內豐臣家臣的否決,遂著手於大阪城外的平野口構築東西向約180公尺的半圓形防御工事真田丸,這個形同小型要塞的真田丸是為了強化大阪城城牆南方的弱點,並於該年十一月的大阪冬之陣中於此親率五千兵力以挑釁前田軍作為開始,再以鐵砲攻勢大敗德川方數萬大軍,聲名大盛。但大阪冬之陣在德川家康的政治手腕下停戰,而大阪城則因為和解條件而被填埋護城河,更被迫拆除外牆,在冬之陣中發揮重要功能的防御工事「真田丸」也於此時被拆除,信繁等主戰的豐臣軍將領因此大嘆功虧一簣。 而次年的大阪夏之陣之中,澱殿和豐臣秀賴等豐臣方領導人不敢出城迎戰,不接受浪人派武將的意見徹底失敗,而豐臣軍的指揮權錯綜複雜,大野治長、木村重成、及後藤基次和信繁皆只能率領自己的小部隊各自行動迎擊敵方大軍,真田信繁亦死於此役。但在此陣中,真田軍依然靠少量兵力贏取了零星的勝利:先是在1615年6月2日(元和元年(1615年)陰曆五月六日)的道明寺之役中,在譽田一地以三千兵力痛擊了伊達政宗先鋒片倉重長率領的一萬二千鐵砲騎兵隊,當日伊達後方的數萬大軍,包括水野勝成及帶領二萬越後兵的松平忠輝皆為之卻步,不敢正面迎戰真田軍,真田令兵士大喊:「關東軍百萬,沒有一個是男兒!」,悠然於當日回師至大阪城。 次日進行決戰,為1615年6月3日的天王寺之役,德川方以總兵力十五萬團團包圍了大阪城,而豐臣方僅五萬兵士,且實際迎戰者,僅天王寺方面的真田幸村、毛利勝永,和岡山口方面的大野治房(道犬)、北川宣勝、山川賢信共僅約一萬五千的兵力,豐臣秀賴的親衛主力軍卻躲在城內沒有出戰,浪人眾中領有最多兵力的前土佐國主長宗我部盛親甚至更帶領所部退至城北方準備逃命。 茶臼山之役 按照正史和《德川家康傳》的記載,原本大阪城方的軍議計畫是由真田與毛利兩軍在天王寺纏住德川方十多萬先頭部隊,再由明石全登率所部繞至家康後方偷襲本陣。但決戰開始,毛利軍提早的鐵砲射擊造成德川大軍不敢推進,毛利軍先擊破殺死了本多忠朝後更擊破秋田實季、淺野長重,接著擊退真田信吉(真田信之之子)總計約五千五百兵力,佈陣於茶臼山的信繁見到德川大軍遲遲不敢推進,明石全登無法偷襲的情況下,真田遂毅然決然率領大谷吉治、渡邊糾、伊木遠雄等三千五百人正面突擊松平忠直一萬五千的越前軍,同時淺野長晟軍在越前軍旁的行動被誤認為叛逃至豐臣方,造成德川士兵士氣崩壞;毛利軍四千兵力也筆直的接連突破德川軍的先鋒進至第二陣接著突破諏訪忠澄、榊原康勝、仙石忠政、保科正光、小笠原秀政、小笠原忠脩總計約五千四百兵力,接著再擊退德川軍第三陣酒井家次、相馬利胤、松平忠良約五千三百兵,真田軍則在突破松平忠直大軍後, 直接突潰家康本陣一萬五千大軍,德川本陣兵士四處逃散,最壞的情況家康身邊只有小栗正忠一人跟著逃命。 面對真田和毛利的決死突擊,德川家康一度想要自盡,但最後家康本人脫逃,信繁僅見到德川本陣留下的,因德川兵士慌亂而沒帶走的家康馬印,隨後岡山口的藤堂高虎、井伊直孝從左包圍真田、毛利軍,毛利勝永將其兩軍擊退後和真野賴包撤退,撤退中勝永引爆早先埋入土中的爆藥,大破藤堂高虎抵制住了德川軍的追擊成功撤退。另一方面,松平忠直的越前兵在重新整理好軍勢後佔領了茶臼山堵住去路,真田軍視死如歸奮力死戰,壯烈地戰至最後一兵一卒,最後信繁力盡遭到松平忠直的鐵砲大將西尾宗次以槍刺殺而死,真田軍全滅。 另有一說,信繁成功撤退至安居天神社,企圖回到大阪城再戰,但此時信繁擁有的士兵已經寥寥無幾,撤到神社後信繁和其士兵在那裏休息,這時突然遭到松平忠直部隊的突擊,全員壯烈戰死。 真田信繁從此名留青史,左衛門佐成了稱呼真田信繁的專有官職,而其延襲自武田家統一赤色旗幟和軍裝的部隊-赤備也成了勁旅的代名詞(雖現今真田博物館所留下的鎧甲顯示並非全部赤色,但其旗幟是全紅鑲上金黃色細線「總赤地金線」)。江戶時代時,信幸(信之)的後代成為了藩主或旗本,真田氏在政治舞台上仍然活躍。也出現了不少以別名「幸村」為藍本的說書和戲曲,如真田十勇士。因此,反而以真田幸村而不是本名信繁廣植在人們心目中。 德川本陣在歷史中只有兩次崩潰,第一次是在三方原之戰時,當時羽翼未豐的德川軍一萬步卒遭到三萬武田信玄騎兵隊攻擊而潰敗;而這一次德川本陣前方有一萬五千越前軍,周邊部隊十二萬,本陣亦有一萬五千人(包含薪俸千石以上的御林軍:五千人精銳旗本。),卻被真田幸村三千五百兵力突潰本陣,足可見其英勇壯烈。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
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