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三百八十五位人物:十河景滋、三好政長、筒井順昭、十市遠勝、土橋重治、尼子國久、尼子誠久、庄為資、吉川興經、吉川經世、小寺則職、大內義隆、相良武任、杉興運、杉重矩、內藤興盛、冷泉隆豐、小早川繁平、和田通興、細川元常、宇都宮豐綱、宇都宮房綱、一條房基、菊池義武、少貳冬尚、小河信安、納富信景、西鄉純久、西鄉純堯、上村賴孝、米良祐次、土持親成、禰寢清年、真田信勝、河原綱家、出浦盛清、成田長親、岡定俊、飯坂貓、穴澤俊光、傑山雲勝、通口兼豐、谷柏直家、成澤道忠、片倉喜多、萱場元時、亙理元宗、中村忠滋、久米五郎、神吉賴定、堀秀村、雨森清貞、安養寺氏種、大內義興、林崎甚助、北條氏綱、果心居士、出雲阿國、立花誾千代、成田甲斐、柳澤元政、小松、本多小松、湯淺隆貞、蠣崎義廣、長門廣益、南部安信、大浦政信、斯波詮高、稗貫晴家、和賀義勝、及川賴家、氏家隆繼、草野直清、須田盛秀、二本松村國、二本松家泰、川原具信、大和田光盛、阿部良輝、佐竹義篤、愛洲宗通、益子勝清、多功長朝、芳賀高經、上杉朝興、大石定久、北條為昌、小笠原長棟、二木重高、清野清秀、樂巖寺雅方、上杉定實、黑川清實、黑田秀忠、畠山義總、小間常光、椎名康胤、山崎吉家、今川氏輝、瀨名氏貞、岡部親綱、伊丹康直、井伊直盛、福島正成、今川良真、松平清康、松平長親、阿部定吉、長坂信政、本多忠高、大久保忠俊、大久保忠員、佐久間盛重、飯尾定宗、土岐賴芸、內ヶ島雅氏、明叔慶浚、淺井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豐、粟屋光若、赤井時家、酒井豐數、下間賴慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家增、柳生家嚴、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政國、衣笠範景、有馬重則、浦上政宗、中山信正、黑田重隆、河野晴通、忽那通著、祖母井之重、曾根高昌、秦泉寺泰惟、本山茂辰、本山親茂、一條房家、一條房通、一條房冬、少貳資元、大村純前、朝長純利、甲斐親宣、阿蘇惟長、相良義滋、相良治賴、上村長種、土持親佐、荒武宗幸、蒲生範清、島津實久、雲林院祐基、岡本良勝、山路正國、拜鄉家嘉、富永直勝、楠木正虎、的場昌長、佐武義昌、奧重政、甘粕景持、堀直政、伊達小次郎、織田信友、織田信清、武田元明、畠山高政、畠山昭高、浪岡具運、浪岡顯範、大寶寺義增、大寶寺義興、三浦貞勝、三浦貞廣、稗貫輝時、稗貫廣忠、岩城親隆、田村清顯、田村宗顯、穴山信友、松永長賴、蠣崎公廣、蠣崎吉廣、厚谷貞政、北致愛、北信景、櫻庭直綱、鱒澤廣勝、大浦盛信、大浦守信、大浦信建、津輕建廣、北畠昌教、浪岡具永、浪岡具統、和賀義忠、和賀忠親、龜ヶ森光廣、相馬利胤、青田顯治、木幡高清、岩城由隆、岩城常隆、大塚政成、大塚隆成、大塚親成、駒木根利政、田村義顯、田村顯盛、田村友顯、郡司敏良、白河顯賴、白河義綱、白河晴綱、白河義顯、和知直賴、蘆名氏方、針生盛幸、二階堂晴行、二本松常賴、小國義操、大內親綱、安東尋季、五十目秀兼、花輪親行、嘉成重盛、門脇政吉、本堂茂親、小野寺稙道、小野寺義道、小野寺康道、西野道俊、六鄉政乘、大寶寺晴時、本庄義勝、來次時秀、來次氏秀、東禪寺義長、東禪寺勝正、仁賀保舉誠、池田盛周、最上義俊、最上義親、江口光清、白鳥長久、亙理重宗、桑折宗長、江戶通政、江戶重通、神生通朝、大掾慶幹、小田政治、岡見賴忠、信太範宗、菅谷範政、簗田高助、千葉昌胤、千葉利胤、千葉親胤、原胤清、足利義明、足利賴純、足利賴氏、足利晴直、真里谷信政、真里谷信隆、真里谷信高、真里谷信助、里見義重、土岐賴春、堀江賴忠、岡本賴元、那須資房、那須政資、大關宗增、大關資增、佐野秀綱、佐野泰綱、佐野昌綱、富田信吉、大貫武重、神馬忠春、茂呂久重、和田業繁、和田信業、橫瀨顯長、沼田泰輝、橫瀨泰繁、橫瀨國繁、橫瀨繁詮、難波田憲重、太田資高、小田朝興、北條氏堯、北條綱高、笠原政堯、大道寺直英、垪和氏續、狩野泰光、中山家範、笠原信為、笠原康勝、瀨名氏俊、井伊直勝、近藤康用、鈴木重好、飯尾乘連、奧平貞勝、奧平貞治、吉良義堯、吉良義安、酒井重忠、本多康重、柛原康勝、大須賀忠政、青山忠俊、阿部正豐、阿部正次、高力清長、永井直勝、成瀨正成、內藤信成、富永忠安、水野忠政、水野信元、水野忠重、川口宗勝、斯波義統、斯波秀秋、那古野勝泰、本多利久、本多利朝、織田信安、織田達勝、織田信定、織田信廣、織田秀雄、織田賴長、池田利隆、池田長吉、佐久間信榮、佐久間勝之、瀧川辰政、津田秀政、藤堂高吉、村上義明、村上忠勝、木下勝俊、村上義忠、前田利久、蜂須賀至鎮、古田重勝、前野忠康、多賀秀種、生駒利豐、兼松正吉、堀親良、桑山元晴、桑山一晴、富田信廣、富田信高、石川貞政、小坂雄長、堀尾忠氏、山內忠義、山內康豐、土方雄久、坂井成政、小出秀政
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
一百一十二位人物:柳生三厳、赤池長任、和久宗是、東郷重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、W.アダムス、猿飛佐助、霧隠才蔵、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段蔵、蠣崎基広、下国師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顕胤、蘆名盛舜、二本松義国、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、浅利則頼、天童頼長、天童頼貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豊綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信応、長尾憲長、上杉朝定、太田資顕、藤田重利、松平広忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、横田高松、高遠頼継、小笠原長時、小笠原貞種、三木直頼、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覚広、温井続宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定頼、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、内藤国貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成、十河存春、三好政長、筒井順昭、十市遠勝、土橋重治、尼子国久、尼子誠久、庄為資、吉川興経、吉川経世、小寺則職、大内義隆、相良武任、杉興運、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、小早川繁平、和田通興、細川元常、宇都宮豊綱、宇都宮房綱、一条房基、菊池義武、少弐冬尚、小河信安、納富信景、西郷純久、西郷純堯、上村頼孝、米良祐次、土持親成、禰寝清年、長尾虎、世良田元信、浅井茶々、大友桐、十河紫、浅井福、伊達蛍、北条貞、武田菊、有馬奈津、井伊直、木下伶、大内万、女、北条唯、六角辰、浅井文、斎藤郁、大浦戌、朝倉東、蒲生虎、伊達五郎八、伊達秋、最上義、長尾桃、浅井初、島津南、相良良、遠山覚、太田妙、伊達芳、北条鶴、織田秀子、二階堂和、蘆名順、龍造寺千世、北条誉、伊東京、武田梅、南部緑、佐竹英、波多野充、那須正、松平熊、藤田大福、女中、北条春、六角艶、武田見、伊達瞳、織田冬、松平督、前田摩阿、最上駒、今川和、伊達花、小田麗、北条光、相良千代菊、足利詩、大友清、北条静、前田豪、大谷渓、武田恵、関口瀬名、今川嶺、蠣崎圭、長尾華、北条円、最上竹、前田与免、畠山椿、北条苗、武田万里、●●●、斎藤朝、足利氏、太田小少将、松平千、浅井小督、細川扇、蘆名葵、一条喜多、北条睦、太田梶、佐竹藤、六角凪、直江船、武田松、織田五徳、本多小松、織田市、斎藤帰蝶、明智玉子、●●●2、津田宗及、千利休、菊亭晴季、山科言継、朝山日乗、快川紹喜、沢彦宗恩、アルメイダ、ソテロ、フロイス、近衛前久、今井宗久、佐吉、岐秀、老人、農民、鉄砲足軽、僧侶、公家、二本松義継、僧兵、小姓、土田御前、おね、組頭、小笠原秀清、足軽、使者、家老、伝令、忍者衆、忍者、家臣、侍、商人、F.ザビエル、豪族、子供、樋口与六、北条氏康、●●●3、田村顕重、土佐林禅棟、横瀬泰繁、風魔小太郎、真田昌輝、国友藤二郎、望月出雲守、後藤彦三郎、服部保長、津田算長、宮本道意、村上吉継、三島清右衛門、若林道円、名和武顕、三田井親武
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
冷泉隆豐 Reizei Takatoyo(1513年-1551年) 冷泉興豐之子,正室為平賀弘保/平賀玄信?之女;受大內義隆偏諱「隆」字,初名隆祐,後取父名「豐」一字,改名隆豐,別名五郎左衛門。 早年即仕於周防國戰國大名.大內義興,義興死後仕於其子大內義隆。率領大內氏水軍,大永七年(1527年)進攻安藝國,於仁保島,國府城與安藝白井氏作戰。 天文十年(1541年)擔任原安芸武田氏居城安芸佐東銀山城主。天文十一年(1542年),跟隨大內義隆遠征出雲,因包圍月山富田城之國人眾反水背叛,大內軍全軍撤退(月山富田城之戰)。隆豐負責調度義隆養子大內晴持所乘船隻,然而大內晴持於撤退途中溺死海中。翌年進攻伊予國。天文十五年(1546年)2月,同安芸國人白井房胤進攻平智島。翌16年(1547年)5月進攻中途島(安芸府中町史)。 然而,因月山富田城之戰大敗,主君大內義隆變得十分文弱,大內家中的,以相良武任為首的文治派與以陶隆房(陶晴賢)為首的武斷派產生激烈對立。隨著對立進一步深化,為防止兩者矛盾爆發,隆豐嘗試在其中中介調解然而無濟於事。陶晴賢造反的傳言與山口街頭巷尾流傳,隆豐向主君大內義隆進言誅殺陶晴賢,未被採納。 天文二十年(1551年),陶晴賢起兵謀反。由於陶晴賢事前調略周到,除文治派外,幾乎無人站在大內義隆一邊。義隆逃離山口,投靠石見國吉見正賴,由於暴雨船隻不能出航,逃入長門國大寧寺。陶軍包圍大寧寺,義隆由隆豐擔任介錯自盡。隆豐隨後殺入陶軍戰死(大寧寺の變)。據傳隆豐死得十分壯烈,將攻上來的敵軍殺得不敢上前,進入一處經樓放火燒樓,留下辭世句後以十文字方式割腹,將內臟全部丟到天花板上氣絕而亡。連接隆豐逃入的經樓的坡道現被稱為「冷泉坂」。 辭世句「みもや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末ものこさず」(注二)。 隆豐不僅長於武功,還會撰寫和歌,堪稱智勇兼備之士,加之其為重臣,評價很高。 後來,其子元豐仕於毛利氏,任門司城代,永祿五年(1562年),遭大友氏攻擊戰死。由元豐之弟元滿繼承其位,元滿作為水軍將領活躍,於慶長二年(1598年)、於慶長之役中第一次蔚山城之戰戰死。山口縣岩國市周東之冷泉屋敷(冷泉氏館)遺跡經考證應為隆豐之居館。 注一:隆豐為大內弘世之子大內弘正之後,隆豐之父.興豐其母出自羽林家之一的冷泉家,自興豐始改姓冷泉。 注二:譯者水平不足,未翻譯。隆豐之辭世句描寫了空中雲煙皆為風所吹散之景,暗示自己如風中雲煙般將逝。另外「末もの」中「末(すえ)」與陶隆房之「陶(すえ)」諧音,暗指陶隆房政變上位不過一時,遲早也要如雲煙消散。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-124 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E9%9A%86%E8%B1%8A
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
大內義隆 Ouchi Yoshitaka (1507年 - 1551年) 大內義興的長子,母為内藤弘矩之女・東向殿,正室為万里小路秀房之女,幼名龜童丸,受將軍足利義晴偏諱「義」字,名為義隆。 義隆從十八歲開始,就隨父親義興在安藝與尼子氏的軍隊作戰。享祿元年(1528年),義興逝世,義隆繼任為家督,同時兼周防、長門、安藝、石見、備後、築前、豐前七國守護,義隆在位之初是大內氏最昌隆的時期。 義隆初繼位時,將用兵重心轉向九州,在天文元年(1532年),與大友、少貳聯軍在豐前、築前、肥前等地交鋒。 天文四年(1535年),在龍造寺家兼的中介之下,與大內為敵的少貳冬資隱居,義隆則與大友義鑑講和。結束九州戰事的義隆,將重心回到中國。 天文五年(1536年),大內義隆從朝廷得到大宰大貳的官位。 天文六年(1537年),安藝的毛利元就送嫡子隆元到大內處為質,並舉國倒向大內。此時的義隆,本受將軍足利義晴的邀請,欲舉兵進京,再重演一齣與其父義興相同的控制京都劇,但後來因為尼子晴久不斷的侵攻安藝,遂打消上京之議。 其實,義隆在武功上的成就,遠遜於他在文化上的建設。義隆生平十分好學,以儒家「聖賢」之道做為其治國的方針。義隆在天文七年(1538年)遣使朝鮮,求取儒家經典與朱熹做的註解。隔年還印刷《三重韻》,義隆親自做跋。另外,大內氏因控制了本州與九州間的海面(長門海峽),因而在貿易上佔有優勢,與中國朝鮮、明朝的貿易也十分興盛,文化的輸入也不曾間斷。義隆仰慕京都的文化,還把京都的管理方式引入居城山口。 天文九年(1540年),尼子晴久率大軍三萬圍攻毛利的本城吉田郡山城,元就出奇兵屢敗尼子軍,後大內氏的周防守護代陶隆房(陶晴賢)與長門守護代內藤興盛分別派軍援助毛利,並在翌年大破晴久軍。平定安芸境內,並攻下出雲國白鹿城等城。 天文十一年(1542年),義隆趁尼子兵敗之際,出兵尼子本部出雲,並於隔年春天,直逼尼子的居城月山富田城,卻因為大雨河水暴漲,糧道斷絕,大內軍大敗,義隆退回周防。義隆的養子大內義房(大內晴持)也在此役落水溺死。兵敗月山富田城後,大內義隆也少有出兵之舉了。 天文二十年(1551年),准許天主教在國內傳教。事實上,從義興到義隆,大內氏之所以能夠成為一方霸主,與寬容和積極的對外關係及貿易所帶來的財富,有著相當大的關係。 愛好文化的義隆,對武功方面也就疏忽了。義隆晚年耽於逸樂,生活奢侈,寵信身旁的近侍,對家臣漸漸疏遠。國中家臣分為兩派,一是受到義隆信任的文治派相良武任,另一派是以大內氏重臣、周防守護代陶晴賢為首的武斷派。但義隆的態度總是站在相良這一方面,這使得武斷派懷恨在心。 日子一久,在家中有著不小勢力的晴賢遂生出取無能的義隆而代之的想法,於天文二十年(1551年)陶晴賢與大內家臣杉重知、內藤興盛等聯合,起兵襲擊義隆,義隆敗逃到長門,在長門深川的大寧寺自殺,年45歲,其子義尊也在不久之後被捕殺,年僅7歲。 大內家由陶晴賢扶植大內義長(大友晴英)接任家督,日明勘合貿易斷絕。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%A7%E7%BE%A9%E9%9A%86 出處#2 http://blog.yam.com/ephesos2005/article/5896977
益田藤兼 Masuda Fujikane(1529年-1597年) 享禄2年(1529年)、石見で生まれる。周防・長門の大名大内氏の傘下の国人領主の1人であった。初陣は天文12年(1543年)の第一次月山富田城の戦いとされ、当時15歳であった。翌13年(1544年)、祖父の益田宗兼が死去し、益田氏の家督を継承する。家督継承時も父は存命であったが、父の尹兼は藤兼の資質を見抜き、益田氏の家督を継承しなかったと言われている。しかし尹兼も優秀な武将であり、藤兼を補佐して益田氏を盛り立てた。尹兼と将軍(1546年に就任)の足利義藤(後の義輝)よりそれぞれ一字を貰い受け藤兼と名乗ったのもそれからまもなくのことと思われる。 主君の大内義隆と重臣・陶隆房(晴賢)との間が不穏になってきた頃、藤兼は近隣の国人領主である吉見氏と所領を巡って争っている。その一方で後述の義隆死後には一族の三隅兼隆を討伐し(兼隆は降伏し逃亡)、周布氏当主の周布元兼を従え、勢力拡大に腐心している。 天文20年(1551年)、晴賢が大内義隆に謀反を起こす。益田氏と陶氏は姻戚関係(晴賢の祖母が藤兼の高祖父・益田兼堯の娘)であったため、晴賢の謀反に協力し義隆を自害に追い込んだ(大寧寺の変)。藤兼は当時石見にあり、吉見氏の所領に侵攻したが、逆襲を受け退却している。そして相良武任の子の虎王を石見で捕らえ殺害している。その後、晴賢が擁立した義隆の甥・大内義長に外交手腕を評価され重用された。 天文20年から24年(1555年)にかけて藤兼は吉見領に侵攻しているが、吉見正頼率いる吉見勢も頑強な抵抗を見せる。天文23年(1554年)、大内氏の大軍が三本松城を攻撃し、三本松城の戦いが開始される。大内軍は三本松城を落とすことができず、最終的には吉見正頼との講和が成立する。同年、晴賢の命令で尼子晴久との同盟を締結した。 しかし、天文24年の厳島の戦いで、毛利元就の奇策により晴賢が厳島にて討死。晴賢の側で多くの功績を収めてきた藤兼は、大内義長と共に毛利元就の最大の標的となったのである。 弘治2年(1556年)には元就の次男・吉川元春が石見に侵攻を開始する。藤兼は七尾城を増改築し、居城を移した。6月には益田領への侵攻が開始され、年末には益田氏周辺の小豪族も益田領へと侵攻を開始した。吉見正頼も益田領へと侵攻し、諸城を攻撃している。翌3年(1557年)3月、藤兼は毛利氏に降伏。翌4月に元就は大内義長を自害に追い込み、大内領をほぼ手中に収めた(防長経略)。 元就は「義隆を殺した大罪人」である事に加え、藤兼が長年吉見正頼と対立したことを勘案し、もし藤兼を許せば正頼がへそを曲げて叛逆するかもしれないという懸念から藤兼の処刑を考えていたが、元春がその武勇を惜しんで助命したため、本領を安堵され、以後は毛利氏の家臣となった。永禄4年(1561年)には福屋隆兼が反乱を起こすと討伐に赴き、10月には北九州へと転戦し、大友宗麟と戦っている。永禄5年(1562年)には長年の懸念であった吉見氏との所領問題に毛利氏の裁定を仰ぎ、小競り合いがあったもののこれを解決している。 永禄6年(1563年)頃より、元就は尼子氏を倒すべく軍を動かす。白鹿城を落とし、永禄8年(1565年)には月山富田城を包囲する。この時に広瀬川で藤兼の家臣・品川勝盛が山中幸盛と一騎打ちを行い、討死した。しかし尼子氏は大勢を覆すことができず、翌9年(1566年)に降伏した(第二次月山富田城の戦い)。 永禄10年(1567年)以降は尼子氏や大友氏との戦いで出雲・伯耆・豊前を転戦して活躍。元亀元年(1570年)には家督を嫡子の元祥に譲る。同年、石見で反乱を起こした三隅隆繁・国定兄弟を討伐して大いに戦功を挙げた。その後は元祥に元春の娘を娶わせるなどして毛利氏との関係を強めた。翌2年(1571年)にも布部山の戦いで吉川軍の一部として尼子再興軍を撃破している。 老境に入ると、所領の神社仏閣を再建し、手厚く保護し、慶長2年(1597年)に死去した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E8%97%A4%E5%85%BC
相良武任 Sagara Taketo(1498年-1551年) 周防、長門守護大名大內氏之家臣。其父為相良正任,其弟為勝屋興久,育有一女。官至從五位下遠江守。 相良氏的本姓是藤原氏,出自藤原南家為憲一脈,被認為是肥後的國人相良氏之一族。有一說法指出正任也許就是室町時代上相良氏的相良賴觀之子「鬼太郎」,其人在相良氏的繼位紛爭中敗於下相良氏的相良長續之手。 武任侍奉大內義隆,擔任右筆(錄事,協助文書工作之人)及奉行人之職,負責國人眾的支配管理、守護代的權力抑制及大名自身權力的強化。由於在這方面的行政能力深受義隆信任,於天文六年(1537年)敘官從五位下,並被列為評定眾。 天文十年(1541年)對於陶隆房(陶晴賢)所提進行出雲遠征一事表示反對,之後便以此事為契機與陶晴賢對立。而當出雲遠征以失敗告終後(月山富田城之戰),武任在大內家中便逐漸站上主導的地位,受到大內義隆的信任而形成文治派,因此與武功派的陶晴賢及內藤興盛等對立。 天文十四年(1545年)武任遭受陶晴賢等的反擊而失勢並且出家。其後便隱居於肥後,但於天文十七年(1548年)接受大內義隆的請求而再度出仕。然而於天文十九年(1550年)最終仍與陶晴賢陷入決定性的對立,甚至還成為密謀暗殺的對象,但由於武任在事前便察知此舉而向義隆密告因此得能免難。而後為了迴避與陶晴賢的對立,武任雖採用了將以美貌著稱的自己的女兒嫁予陶晴賢嫡子陶長房等諸般合作策略,卻由於全都以失敗告終之故,只得在同年9月16日離開大內家。但之後在築前被守護代杉興連所挽留並被送回到周防。 天文二十年(1551年)1月時,則向大內義隆上書「相良武任申狀」告知陶晴賢、內藤興盛等有謀反企圖,並且連杉重矩都一併加以控訴,於是和武功派的關係最終徹底決裂,8月10日時武任再度逃離了大內家。 其後當陶晴賢舉兵謀反之時,與杉興連一起在花尾城遭接受陶晴賢命令的野上房忠所殺,年54歲。 辭世之句為「空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く」。 出處 http://wiki.eyny.com/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%AD%A6%E4%BB%BB
陶晴賢 Sue Harukata(1521年-1555年) 陶興房的次子,母為右田弘詮之女,正室為內藤隆時(內藤興盛長子)之女,受大內義隆偏諱「隆」字,名為隆房,後改受大友晴英偏諱「晴」字,名為晴賢。 陶氏出自多多良系的大內支裔,大內盛房之弟盛長出居周防國佐波郡右田村始稱右田氏,而後右田弘俊之子弘賢出居吉敷郡陶村,稱陶六郎弘賢,此為周防陶氏之始。陶弘賢之子弘政從陶村遷移到都濃郡富田,築若山城作為居城。從南北朝時代以來,陶氏一直是大內家的重要家臣,弘政之子弘長出任長門守護代,弘長之孫盛政出任周防守護代,從那時起,周防守護代一職與大內家重臣筆頭的位置就為陶氏所世襲。 晴賢年少時為大內義隆所重用,天文八年(1539年)父親興房病逝後繼承家督(亦有生前讓位的說法)。 天文十年(1541年),協助毛利元就擊退進攻吉田郡山城的尼子軍(吉田郡山城之戰),當時義隆授權為晴賢為大內軍的總大將。天文十一年(1542年),晴賢率領大軍反攻尼子氏的根據地月山富田城,最終慘敗而回,大內氏失去多名大將。 晴賢與文治派相良武任對立,而義隆重用相良武任,導致晴賢勢力漸失。天文十四年(1545年),相良武任出家,晴賢重新得勢,天文十七年(1548年)就任官位從五位上。天文十九年(1550年),晴賢與內藤興盛試圖暗殺相良武任,卻被義隆發現,晴賢在大內家的實力大為削弱。 大內義隆原本一直苦於無子,於是過繼其姐與一條房家之子為嗣,是為大內晴持。可惜,天文十一年(1542年)在征討出雲的尼子經久時,大內晴持戰死。因此,到天文十三年(1544年),義隆不得不從大友家過繼另一姐與豐後國大名大友義鑑次子大友晴英為嗣,是為大內義長。然而世事難料,次年,義隆的嫡子義尊出生,義隆隨即便與晴英解除過繼關係。此後,受到兵敗的沉重打擊大內義隆失去對擴張領地的野心,沉迷於特有的大內文化(包括天主教和眾道),重用文治派的相良武任;文治派與武斷派的晴賢、內藤興盛長期對立。 晴賢作為臣子對主公義隆的態度也是很微妙的,作為義隆的侍童與之一起長大,晴賢從小就對義隆有著深厚的君臣感情,對於義隆,一直也表現出足夠的忠心,最明顯的表現就是在出雲撤退時晴賢挺身冒死殿後。然而,義隆長達八年的玩物喪志,足以令任何人對義隆和大內的前途灰心,在紛亂的戰國時代,這樣的過失是致命的。作為大內的庶家,陶氏與大內一直以來是一損俱損一榮俱榮的關係。主家的沒落乃是庶家衰敗的兆頭,加上在與相良的爭鬥中處於不利地位,使陶氏已處於漸將衰亡的危急時刻。經過八年的壓抑之後,向來行事激進的晴賢不顧一切的奮力一搏也就不難理解。 天文二十年(1551年),相良武任向大內義隆匯報晴賢和內藤興盛企圖謀反,對立的責任者是杉重矩。8月,晴賢聯合同樣對於大內義隆寵幸相良武任不滿的長門守護代內藤興盛與豐前守護代杉重矩,發動叛亂。晴賢親率3000軍隊從陶氏主城、周防的富田若山城出陣,大內義隆親自率領10000餘人應戰。結果陣前2000人被晴賢策反,最終義隆一敗塗地。義隆逃至長門的天寧寺,在走投​​無路中自盡,義隆長男義尊被殺。晴賢重新迎回大友晴英繼承大內氏族,更名大內義長,自己也將名字陶隆房改為晴賢。 晴賢掌握大內家實權,仍與毛利元就表示友好,不過毛利元就卻採取消極的態度,以為大內義隆報仇為名,拒絕晴賢的支配,終於使兩者的同盟關係瓦解。 天文二十四年(1555年),毛利元就派兵在嚴島西北部的有之浦築宮尾城。晴賢則親率大軍兩萬五千出擊,在折敷畑合戰小勝毛利軍以後,直撲嚴島,踏入毛利元就設下的陷阱。 當時,毛利元就的兵力只有4000。但是,依靠兒玉就方率領的其直屬水軍、乃美宗勝率領的過繼給小早川氏的三子小早川隆景的沼田水軍,以及臨時前來助陣的因島的村上水軍,毛利元就的水軍並不處於下風。9月30日夜晚,風雨大作,毛利元就率領2000士兵潛渡大海,來到晴賢的前軍本陣所駐紮的塔之岡之後,次日清晨六時,毛利元就下令突擊。2000士兵直衝晴賢本陣,巧妙混過敵軍防線登陸的小早川隆景軍從正面向塔之岡發起衝鋒,宮尾城守軍也殺出城中,晴賢的2萬餘大軍全線崩潰。 晴賢與大將三浦房清逃至大元浦。只見波濤洶湧,全無舟船,走投無路中自殺,年34歲,法名卓鍼軒呂翁全羨。 出處#1http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2 出處#2 http://baike.baidu.com/view/707627.htm?fromtitle=%E9%99%B6%E9%9A%86%E6%88%BF&fromid=128312&type=syn

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